★ 【最後の日々】True good-bye ★
<オープニング>

 空を見上げれば晴れ渡った青空が見える。空に浮かんでいた不気味な怪物はもういない。
 だが、視線を市内に戻すと散々たる状態だった。建物は所々倒壊し、もとの姿を留めていない物もある。
 それでも、人々の顔には絶望という表情は窺えなかった。笑い声も時折聞こえてくる。
「結局、マスティマってなんだったんだろうな?」
 片岡清十郎は独り言ちる。
 実感はなかったが、自分達ムービースターと呼ばれる者達はあと数日で消えるのだという。――この銀幕市から。
 ――消える。
 それは一体どのような感覚なのだろうか?
 わからないが、少し寂しいような気もする。

 いつかは訪れるであろうと思っていた日が目前に迫っていた。
 大半の者は覚悟していたお別れの日。
 いつかは来る。でも、できるだけ先であって欲しいと願った日。
 唯一の救いは、マスティマを斃したその日、その時でなかった事か。
 我々に残された日はあと少し……。

種別名シナリオ 管理番号1043
クリエイター摘木 遠音夜(wcbf9173)
クリエイターコメント 久しぶりのシナリオです。
 ムービースターとのお別れの日が、とうとうやってまいりました。
 このシナリオは、お別れまでの猶予の時間の出来事を描くものとなります。
 プラノベのシナリオ版と言えば分かりやすいでしょうか?
 プレイングにはお別れをしなければならない人達への想いや、実体化してからの思い出などを綴っていただければ、と思っています。
 お別れまでの数日間どのように過ごすのか、記録者である私にそっと教えていただければ幸いです。
 なお、私のNPCにつきましては登録・未登録に関わらず、作中に出てくるかもしれない事をご了承いただければと思っています。
 よろしくお願い致します。

参加者
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
ファレル・クロス(czcs1395) ムービースター 男 21歳 特殊能力者
マイク・ランバス(cxsp8596) ムービースター 男 42歳 牧師
山砥 範子(cezw9423) ムービースター 女 33歳 派遣社員
<ノベル>

「……これでいいでしょう」
 メールの送信ボタンを押し、マイク・ランバスはPCの電源を落とす。
「せんせー、まだ起きてるの?」
 眠い目をこすりながら一人の児童がマイクの元へとやってきた。
「もう寝るところですよ」
 夜更けに自室に訪れてきた児童を怒るでもなく、穏やかな笑みを浮かべ、答える。
「さあ、寝ましょうか。もしかして、トイレに起きたのですか?」
「うん。おしっこ、いく」
 児童に訪れた理由を問うと、やはり、というような答えが返ってきて、小さく笑う。
「では、トイレを済ませたら、久しぶりに一緒に寝ましょうか」
「ほんとう?」
 マイクの思いがけない申し出に、児童の顔がぱあっと明るくなる。
「やったぁ、せんせーといっしょ♪」
「はいはい。あ、ほら、大事な用事を忘れていますよ」
「はぁい」
 喜びのあまりトイレを素通りしかけた児童を優しく引き戻し、マイクは用を足させる。その後、児童をベッドに寝かせ、マイクも体を横たえる。ものの数分もしない内に、穏やかな寝息を立て始めた児童を見詰め、独り言ちた。
「良い返事を頂けるといいのですが……」
 全ては相手の返答次第、とマイクも目を閉じ、眠りに落ちていった。

「あと、十日……」
 山砥範子(ヤマト・ノリコ)は呟いた。
 ムービースターにとっては余命宣告とも言える宣言。残された期間を有意義に過ごすか否かは己自身にかかっている。とはいえ、範子には一緒に過ごしたいと思える特別な相手などおらず、普段と変わりない生活をしていた。
 実体化してから勤めている会社は、幸いにもマスティマ戦の被害を免れ、今日も通常通りの業務が行われていた。
「残された時間で私に出来る事……。そうですわ、アレを完成させてしまわないと!」
 残された時間で自分に出来る事を考えた範子は、この会社での引継は勿論の事、もう一つ消えるまでの間に終わらせておきたい事があった事を思い出した。
「ぼんやりと過ごす暇はありませんわね。今日から仕事は必ず定時に終えるよう頑張りませんと」
 そうと決まればもう迷いなどはない。悔いのないよう、行動あるのみだ。
 自身のPCに向き直った範子は猛スピードで仕事に取り掛かった。
「なんか、今日の山砥さんの気迫は凄いわね」
「そう? いつもあんな感じじゃない?」
「今日は特に、よ」
 範子の鬼気迫るタイピングに女子社員が囁きあう。

 夢の時間は終わる。
 それを知った時、ファレル・クロスは銀幕市に実体化した時の事を思い出していた。
 この世界に馴染めぬまま、別れの時を迎えるのだと最初は思っていた。けれども不思議な事に、この町で過ごすうちにいつの間にか馴染んでしまった。
 自分がいた世界とは違う平和な国。戦争が日常化していた自分の世界と比べたら、なんと間延びした処なのだろうという印象が強かった。
 この世界には恐るべき能力を秘めた人間は存在しないのだという。――通常は。
 不思議な感覚だった。この町では異能者だからといって捕らえ、自らの支配・管理下に置こうとする人間はいなかった。ただ、ありのままの自分を受け入れ、その存在を緩く肯定する。それがこの町のスタイルらしい。
 本当に不思議だった――。

 コレット・アイロニーは毎日を忙しく過ごしていた。ムービースターとのお別れの日までに何か出来ないかという想いが彼女を突き動かしていたのだ。
 皆が別れを惜しみ、悔いのないようにと過ごしているのを見て、自分にも何か出来ないかと考える。
「私もスターさんや一緒にお仕事した人達にお礼をしたいな。ううん、皆に喜んでもらえるような催しをした方がいいのかな?」
 うーん、と思考をめぐらせる。
「そだ、時期はちょっと早いけどスターさんや、スターさんと一緒に過ごしている皆に花火を見せてあげられないかなあ?」
 綺羅星学園の先生や皆に協力を仰げば校庭で花火を上げられるかもしれない。それは妙案のように思えた。
「うん。ダメかもしれないけど、聞いてみよう」
 他にも考えている事があったのだが、誰に相談したらいいのかわからなかった。でも、今は花火の事を最優先に、とコレットは走り出した。

 ☆

「いらっしゃいませー」
 カフェ内に常木梨奈(ツネキ・リナ)の明るい声が響く。その声に促されるようにマイクは顔を入り口の方へと向けた。
 その視線の先に待ち合わせの相手の姿を認め、椅子から立ち上がる。
「いつも来ていただいてすみません」
「いいえ、貴方がこの町から出られない事情は存じておりますから、かまいませんよ」
 マイクが申し訳なく頭を垂れると二十代後半と思しき男性は微笑して答える。
「それに、この銀幕市に訪れる良い口実と実は嬉しく思っているんですよ。――ここだけの話ですが」
「そうですか」
 少し悪戯めいた顔で男性が続けると、マイクも笑みを返した。
 こほんと咳払いが聞こえ、そちらに顔を向けると、丸眼鏡をかけた小柄で細身の老人が立っていた。
「紹介が遅れて申し訳ありません。こちらは僕が所属する会の責任者で――」
「戸田征生(トダ・ユキオ)と申します」
 よろしく、と差し出された手をマイクは握り返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします。この度は私の呼び掛けに答えて下さり、感謝しています」
「礼には及びません。困っている人々を助ける事、それが私達の使命ですから」
 威厳と慈愛を込めた声色で戸田が答える。
「そう言っていただけると助かります。では、場所を移して契約書を交わしましょうか」
 早速とばかりに移動しようとするマイクをやんわりと制し、戸田が再び口を開く。
「まあ、待ちなさい。コーヒーを一杯頂く時間くらいはあるのでは? それに貴方の保育所の様子も少し伺っておきたいのだが、いかがかな?」
「……はい。では、オーダーを」
 移動しかけた足を止め、再び椅子に腰掛ける。マイクと二十代後半の男性――早瀬順一郎(ハヤセ・ジュンイチロウ)――はアイスコーヒーを、戸田はホットコーヒーを注文した。

 ――本当に、消えちゃうんだ。
 リオネの宣告があってから数日、色んな行事があった。最初は実感があまりなかった。だけど、お別れまでの最後の日々を目にするにつけ、否応無しに実感させられる。
 なんの確証もいないのに、ずっとこの不思議な時間が続くのだと、ぼんやりと思っていたのだ。
 消えるってどういうことなんだろう? バッキーのトトもムービースターさんたちも、最後はマスティマのようにぱぁっと消えてしまうってことなの?
「どうかしましたか?」
 急に足を止め、考え込んでしまったコレットにファレルは声を掛ける。
「ううん、なんでもないわ。ただ、あの時の事を思い出してしまって……」
 そう言ってコレットはくすりと笑う。
「?」
「ほら、前に幼稚園であった紫陽花祭り。あの時のファレルさんったら、色んなものをどんどんほおばって、お腹壊しちゃうんじゃないかって、私とても心配したのよ」
「あ、あれは……!」
 ファレルにしては珍しく、カァッと赤くなり必死に弁明する。
「もうすぐ私はこの世界から消えてしまいます。ですからその前に、この世界でしか味わえないものを食べておこうと思ったんですよ。――元の世界に戻るのなら、覚えておきたいと思って」
 消えるという事が映画の世界に戻る事なのかはわからない。おそらくはプレミアフィルムとなって消滅するだけなのだろうが……。けれどもファレルはほんの少しの希望を持って、そう答えた。
 そんなファレルをコレットはじっと見詰めた。
 彼女の美しい緑の目が自分を見詰めていると意識すると、ファレルはどうしようもない焦燥感に駆られる。――自分は消える、彼女を残して。そんな不安にも似た感情を押し殺すかのようにファレルは再び口を開いた。
「そういえば、相談事があると言ってませんでしたか?」
「あ……うん。あのね、スターさんたちとお別れする前に、思い出に残るようなことしたいなあ、と思って」
「思い出……ですか?」
「うん。みんなで映画を見に行くのはどうかな? 一緒に見に行くスターさんが出てるの」
 綺羅星学園の校庭での花火は生憎と皆の都合が合わず、断念してしまった。それで次にと出してみた提案なのだが……
「あの、映画の中の登場人物さんたちとその登場人物さんが出てる映画を見るのって、きっとすごく楽しい思い出になるんじゃないかなあって。……ファレルさん?」
 コレットが横を向くと、ファレルは少し怖い顔をしていた。
「いいですか、コレットさん。私達ムービースターは俳優ではありません。俳優が自分の出演している映画を見るのは楽しいかもしれません。でも、私達にとっては違うんです。私達にとって、それは日常の一部であり、他の人が見るというのは、自分の日常生活を覗き見られているのと同じ事なんですよ。貴女は自分の日常を無断で見られて平気ですか?」
「あ……」
 ハッとしてコレットは声を詰まらせる。
「ご……ごめんなさい。私……」
「お別れの日が近付いてきて何かをしたい、という気持ちはわかります。ですが、無理に演出しようとしなくても、思い出は心に残ります。ずっと側にいたい、と思っている相手ならば特に」
 おろおろとするコレットに溜息をつき、出来るだけ優しくファレルは言う。
「だから、そのままでいいんですよ。こうして何気なく過ごす事も、無意味ではないと、私は思います」
「はい……」
 答えるコレットの声が震えている。彼女を泣かせたいわけではない。が、彼女と周囲の思考のズレを正さなければ、この先困るのはコレットの方なのだ。このままの彼女でいれば、きっと孤立してしまうだろう。
「さあ、涙を拭いて下さい。己の間違えに気付いたのなら正せばいい。それだけの事です」
 行きましょう。と、ファレルはコレットの肩を抱いて歩き出した。

「ふぅ……」
 会社から帰宅し、プログラミング作業に精を出していた範子は手を止め、溜息をつく。
「これであらかたのプログラムは終了ですわ。後はバグの確認と、おまけも何か付いてると面白いでしょうか?」
 アイスコーヒーを入れ、一息ついた範子は実体化した当初の頃に思いを巡らせていた。
 初めはまた、何かのトラブルに巻き込まれたのかと思っていた。――例えば異次元やパラレルワールドと呼ばれる世界に飛ばされる、という類の。けれども、何時まで経っても元の世界に戻るわけでもなく、ただ、平凡すぎる日常が過ぎるばかりで、そこで初めて異常に気が付いた。
 市役所の対策課で、自分の置かれている現状を聞いた後、議事録や過去の記事、自分が出演している作品を含めた殆どのメディアに目を通した。自分と同じような人間(実体化した人々)が多数いる事を知り、また元いた世界と変わりない常識が通用する事、市役所の斡旋により働ける事が範子にとっての救いとなっていた。
 このゲームを作成しようと思ったきっかけは、トラブルに巻き込まれない日々を紛らわす為であった。けれども今は、誰かの為に、また、自分が存在した証にとなればとの思いが強い。
 何もない日々とトラブルのある日。その混在した日常が心地いい。休日に雑誌を捲り、ソファーに腰掛けDVDをぼーっと観たり、時々オシャレをして出掛け、映画を観たり散歩がてらに買い物をしたりと自分の意思で行動できる事が嬉しかった。作られた日常ではなく、そう、言うなればアドリブの世界で生きるという事、それが範子にとってとても幸せな事であった。
 それももう数日で終りなのかと思うと、正直怖い。だからと言って、自分にはどうしようもない。わざと忙しくし、恐怖を和らげる事しか今の範子にはできなかった。
 
「――では、こちらの書類にサインを」
 カフェから弁護士事務所に場所を移動したマイク達は保育所の経営権や資産の譲渡等の契約書のやり取りをしていた。
「これで必要な書類は全て整いました。お疲れ様です」
 一通りの記入が終わり、担当の弁護士が書類を一纏めにし封筒へと入れる。
「では、13日に受け渡しを致しますので、もう一度ご足労願えますでしょうか?」
「ええ、もちろん。私も同行させていただいてかまいませんかな?」
「もちろんです。お待ちしています」
 マイクの言葉に戸田が答え、彼の要望にマイクは快諾の意を伝える。
「では、僕は12日にこちらへ引っ越し、という事でよろしいでしょうか?」
「はい、それまでには部屋を片付けておきますので、宜しくお願い致します」
 保育所の経営は早瀬が住み込みで引き継ぐ事になっていた。
「しかし、本当にかまわないのですか?」
「はは、僕は独身ですからね。市外から通うよりも、住み込みの方が楽ですから。それに、こちらには保育所に住んでいるお子さんもいらっしゃるんでしょう?」
「ええ、保育所としてだけでなく、孤児院としての経営も行っていますから。それに、自宅でもありますしね。数人の子供達が私と一緒に暮らしています」
 マイクは軽く笑い、早瀬の質問に答えた。
 マイクは雑居ビルの一室(1フロア)を借り受け、教会・保育所・孤児院・自宅として使用していた。日中は主に保育所として機能している。料金は一応設定しているものの、現金納入が難しい人達の為に、ツケや現物支給での支払いにも応じていた。
 引継の際に気になっていた料金の支払い方法は、現状のままでかまわないという事で、マイクは安堵していた。また、保育所運営に関しては、教会の支部としても利用する為、教会側のバックアップもあるとの事だった。
 何度か彼――早瀬に会い、話をしているうちに彼の真面目でまっすぐな人柄を信用するに至り、保育所の経営を任せる決心をしたのだが、教会の後ろ盾も得る事ができて心強く思っていた。
 ――主よ、この巡り会わせに感謝します。

 ☆ ☆

 カッカッとオフィス内に小気味好いパンプスの音が響く。いつもはタイトスカートにパンプスのヒールも3cmと低いものを穿いていたのだが、今日の範子は違った。パンツスーツにいつもより少し高めのパンプス。今日はこの会社で働ける最後の日。何となくいつもと違う格好をしたかったのだ。
「あら、山砥さん。パンツスーツなんて珍しいわね」
「ええ、たまには……と思いまして」
「おおい、ちょっと山砥君。この書類を銀幕商事まで届けてくれんか? 15分以内に大至急。できるかね?」
 女性社員と話をしていたら、上司が用事を言いつけた。しかもかなりの無茶振り。通常ならば銀幕商事まで30分弱かかる。
 さすがにそれは……と他の女性社員が口を挟む。
「ちょ、部長。それ、無茶振りじゃないですか! 15分以内なんて絶対無理だし」
「いえ、できますわ。なんとしてでもこの山砥範子、15分以内に届けてみせます」
 ところが範子は不敵に笑い、上司の無茶を引き受けた。
「ええ?! 山砥さん?」
 驚愕の声を上げる女性社員を背にして範子は駆け出した。
 今日がこの会社に報いる事のできる最後の日。必ずこの使命をやり遂げてみせますわ。

 あの宣言があった日から、もう彼女とは会う事はないだろうと思っていた。
 ところがそんな思いとは裏腹に彼女と出会う事が多かったような気がする。
「おかしなものですね」
 会うまいと思いながらも、足は無意識に彼女の居そうな場所へと向かっていたのだろうか?
「こんなに誰かを想う日が来るなんて、思ってもみませんでしたよ」
 自分はここの住人ではない。別れが訪れるのは必然だと思っていた。そして、その事に関して特に何も感じる事はなかった。
 しかし、自分は変わってしまった。彼女と出会い、この町で生活するうちに、穏やかに過ごす事が出来るのだと、張り詰めた空気の中で過ごさなくていい幸せを甘受してもいいのだと思うようになっていた。――いつの間にか、この、のんびりとした世界に慣れてしまっていた。
「この平和ボケしたままの頭で戻ってしまったら、無事に己の役柄を演じきれるのでしょうか?」
 そもそも、この記憶は映画の中に戻った後も持ち越されるのだろうか?
 もし、元の世界に戻ってもここでの記憶が残っていたのなら、映画の中から銀幕市の人々や、彼女に向かって何か話しかける事も可能かも知れない……そう考えると胸の中が少し暖かく感じる。
 消滅と共にこの記憶が消えてしまい、全て夢のようなものだと思うようになってしまうのなら、それは憂慮すべき事態だと思っている。――以前の自分にはなかった感情だった。

「こんにちは」
 戸口からそっと顔を覗かせ、早瀬はマイクに声を掛ける。
「やあ、いらっしゃい。おや? 荷物はそれだけですか?」
 手提げ鞄一つで現れた早瀬に、マイクは疑問を投げ掛ける。
「いえ、大きな荷物は後ほどトラックで届くようになっているので……。僕だけが一足先に来てしまいました」
「そうですか。どうぞ、お入りになって下さい」
「はい、お邪魔します」
 マイクが通したのは六畳ほどの一室だった。
「ここが貴方の部屋になります。元々は私の部屋なのですが、不要なものは全て処分していますので、どうぞこのままお使い下さい」
 部屋の中には木製の机と電気スタンド、そして簡素なパイプベッドが置かれていた。シーツは白い真新しいものに替えられている。
「ありがとうございます」
 早瀬はとりあえず手に提げていた鞄を机の脇に置いた。
「では、荷物が届く前に軽く紹介しておきましょう」
 次に案内したのは保育所として使っている部屋だ。少し扉を開くとオルガンの音と子供達の歌声が聞こえてきた。
「あ、先生」
 保育所の戸が開けられた事に気付いた子供が、呟いた。
 その声に子供達の顔は一斉に戸口に向かった。
「あれ? そっちの人はだれー?」
「あー! おにいちゃん、この前も来ていた人だよね? また遊びに来たの?」
 マイクと一緒にいる早瀬に気付いた子供達が口々に問い掛ける。早瀬は何度かこの保育所にも訪ねて来ていた。この子はそれを覚えていたようだ。
「あら、先生。そちらの方はどなたですか?」
 オルガンを弾いていた若い女性が手を止めて尋ねてくる。近所に住んでいる彼女は、通っている大学が休みの日などを利用して、この保育所の手伝いをしている。
「ああ、貴女とお会いするのは初めてでしたね。こちらの方は、明日から私の代わりを勤めてくださる、早瀬順一郎さんです」
「早瀬です。これから宜しくお願い致します」
 早瀬が一礼をすると、女性も慌てて自己紹介をする。
「あ、はい。私は相沢晴香と言います。大学が休みの日などにお手伝いさせていただいてます」
 彼女が自己紹介を済ますと同時に、ベランダに出ていたもう一人の女性が部屋に入ってきた。
「あらあら、まあまあ。マイク先生、こちらのハンサムさんはどなた?」
 五十代と思しき女性は晴香と同じような反応を示した。
「アイおばちゃん、ハル姉と同じ事言ってらぁ」
 子供が揶揄すると、その場にいたアイおばちゃんと呼ばれた女性以外の皆が一斉に笑った。

「――ええ、時間は少し過ぎてしまいましたが、先方の方がお見えになるのが遅くなりまして、無事に届ける事ができましたわ」
 出先から上司に連絡を入れた範子は、携帯電話をパチンと閉じた。
 上司に頼まれた仕事は、うっかり者の同僚が忘れたプレゼン用の資料を届ける事だった。
「あら?」
 携帯を閉じた範子の目に飛び込んできたのは猫に咥えられた蝙蝠の姿だった。ジタバタともがくソレは涙目になっているように見えた。
「可哀想に、助けてあげますわね」
 範子が猫の首根っこを引っ掴んだ途端、雨に降られてしまった。運悪くパンプスのヒールが折れ、転倒してしまう。ゴミ捨て場に突っ込んだ拍子にそこに置いてあった傘が開いた。お陰で雨に濡れずにすんだ。運が良いのか悪いのか微妙なところである。

 カッ……コッ、カッ……コッ
 小気味好い、とは言い難いパンプスの音がオフィス内に鳴り響く。
「あ、山砥さん。間に合ったんですって? 凄いわぁ」
「正確に言いますと、時間的には間に合ってませんでしたが、首尾的にはセーフだったというだけですわ」
 声を掛けてきた女性社員――桜井百花(サクライ・モモカ)の言葉に訂正を入れる。
「結果的には間に合ったんでしょ? どっちでもいいじゃない」
 返す百花の言葉は軽やかだ。
「あら、パンプスのヒールが折れてるわよ。何かあったの?」
「ちょっとした事ですわ。大した事ではありません」
 突然の雨に驚いて、ゴミ捨て場に突っ込んだなんて恥ずかしくて言えない。
 慌ててその場を離れようと踵を返した範子の上着が捲れ、いつもは隠されているソレが百花の目に留まる。
「山砥さん、ちょっと待って!」
「はい? 何でしょう」
 失礼、と百花が上着の端を捲り、一瞬見えた物体を再確認した。
「な、なん……?!」
 突然の出来事に範子は仰天し、真っ赤になって百花を凝視する。
「わ、可愛い。山砥さん、これ何処で買ったの?」
「えー? 何々?」
 またもや他の女性社員が騒ぎを聞きつけて話しに割り込んできた。
「ちょっとあなた達、ひ、人の物を勝手に……!!」
 慌てふためく範子をよそに、二人は勝手に盛り上がる。
「キャー、可愛い! やだ、もしかして山砥さん、誰かからのプ・レ・ゼ・ン・トとか〜?」
「ち、違いますわ! お花見の席で購入した品物ですのよ!!」
「本当〜? 怪しいなぁ」
 範子の言葉を信じていないのか、二ヒヒと女性らしからぬにやけた表情を向ける。
「詳しい事は、今夜じっくり聞いちゃおっかなー」
「さんせーい!」
「勝手に決めないで下さいましな」
 範子を置いて話が進んでいく。
「……あ、駄目だわ。今日、デートだったー。ゴッメーン!」
 これで話が立ち消えになるかと思ったのだが、甘かった。
「じゃあ、日曜は? ランチしながらってのはどう?」
 桜井の提案にもう一人の女性がいいねぇ、と賛同する。
 ――日曜。
「ね、山砥さん、いいわよね」
 桜井がにこやかに問い掛ける。――問い掛けというよりは念を押した、と言った方が正しいかもしれない。
「まったく、あなた達にはかないませんわね。わかりました。ご一緒致しますわ」
 範子はふっと観念したように笑い、承諾する。

 あと一日……。
「明日でムービースターさんたちとお別れなのね……」
 ファレルはいつも通りに過ごす事も思い出になるのだと言っていた。
「でも、やっぱり何かしたいわ」
 思い出に残るような素敵な事があれば、皆いい気分でお別れできるのではないか? とコレットは思う。
 でも、いい案が浮かばない。
「……私には何もできないのかなあ?」
 ――役立たず!
 遠い日の両親に捨てられた思い出が胸をよぎる。あの時の事を考えると、とてつもなく不安になる。
「私、また独りぼっちになっちゃうの?」
 もうずっと永い間、彼と一緒にいた気がする。今まで生きてきた年月に比べればほんの少しの時間だったというのに。
「ファレル……さん」
 別れの寂しさをじっと我慢する事しか自分にはできないのだろうか? コレットは自問する。
「悲しんでばかりいたら、ムービースターさんたちだって、いやな気分で映画の中に帰ることになっちゃうものね」
 コレットは胸の前でぎゅっと手を握り締め、前を向く。
「大変なことも、辛いこともたくさんあったけど、スターさんたちと一緒にいられてとっても楽しかったよって……笑ってそう伝えなきゃ」
 特別なことができないのならば、せめて笑ってお別れしよう。――心配かけないように。

 ☆ ☆ ☆

 13日。
 その日、マイクの保育所はとても賑やかだった。保育所の経営権や資産の譲渡等の書類を受け取りに来た戸田をはじめ、いつも手伝いに来ている相沢親子、子供を預けている親や近隣の人々がここに押しかけていた。
 皆、マイクのお別れ会の準備に勤しんでいた。――いや、慰労会と言った方がいいだろうか。
 最後の一日は賑やかに始まり、賑やかに終わろうとしていた。
「ねえ、近くの公園で花火しない?」
 一人の主婦がそう言って花火セットを見せる。
「あら、いいわねぇ。実は私も持ってきてるのよ」
 奇遇とばかりに数人が花火セットを取り出した。普通の手に持って楽しむタイプのものからロケット花火といった少し大掛かりの物まで色々だ。
「それじゃあ、少し時期は早いですが、花火大会といきましょうか」
 早瀬が言うと子供達がワッと歓声を上げた。
「それじゃあ、手分けをしてバケツと水を運びましょうか。――ああ、マッチも忘れてはいけませんね」
 マイクが餅生物のぷにょを肩に乗せて言うと、子供達がはあいとバケツや水を手に持った。水は現地でバケツに移し替える為、ペットボトルに入れられていた。
「それでは、しゅっぱーつ」
 おー! と子供達が声を上げ、一同は公園へと向かった。

 ――夕暮れ。
「コレットさん……!!」
「ファレルさん!」
 それは偶然だった。待ち合わせをしていたわけでもないのに、町でばったりと出会ったのだ。
 ビックリした表情のコレット。それに対してファレルの方は少し微笑んでいるように見える。
「奇遇、ですね」
「ええ、最後の日にファレルさんに会えるなんて……」
 泣く一歩手前のような表情で笑顔を見せるコレット。
「時間があれば、私と過ごしてくださいますか?」
 それはコレットが口にしたいと思っていた言葉でもあった。
「もちろん! ……でも、私でいいの?」
 不安げにコレットが首を傾げる。
「貴女と一緒にいたいんです」
 ファレルはコレットの不安を吹き飛ばすように微笑んだ。
「貴女に見せたいものがあるんですよ」
「私に?」
「ええ」
 二人は並んで高台にある公園へと歩いていく。それを追い駆けるように橙色の夕暮れが少しずつ夕闇の紺藍に、そして藍色へと変わっていった。

 範子は引越し準備が完了したような寂しい自室で昨日の事を思い返していた。
 〜・〜・〜
「じゃあね、お疲れ様。山砥さん、日曜日忘れないでねー!」
 定時になり、山砥が自宅マンションに帰ろうとすると背後からそう声を掛けられた。
「わかっていますわ。では、お先に」
 ブンブンと手を振る桜井ともう一人の女性社員に軽く手を挙げ別れを告げる。
 〜・〜・〜
 ――日曜にランチという叶わない約束。
「もう少し……もう少しだけ早く、彼女達と話す事ができたのなら、この夢は叶えられたのでしょうか?」
 銀幕市に実体化してから、してみたいと思っていた事の中に“友人とランチ”というのがあった。
 叶わない、とわかっているのにこんなに嬉しい。
「仕事の引継の方はなんとか終わりましたし、あとはコレを受け取って下さる方へのメッセージを作成するだけですわね」
 範子が作成していたのはタイピングゲームだった。タイピング速度の向上は勿論の事、同じようなゲームを作成しようとした場合には、SEやプログラマーと言える位の技術を習得できるよう、所々タイピング以外のステージ(問題)も差し込まれていた。
「何か一つでも自分に誇れるものがあれば、己に自信を持って強く生きられるものですわ」
 ふと手を止め、真新しい紙袋を引き寄せる。
 折れたパンプスの代わりに買ったブルーの本皮サンダルと、初夏らしいこれまたブルーのワンピースが入っていた。いずれも、普段の範子なら絶対に身に着けるはずのないオシャレなものだった。
 暫くそれを見詰めた後、意を決したように立ち上がった。
「泣いても笑っても、あと僅かしか時間は残されてませんものね。せっかく購入したのですもの。使用しなければ勿体ありませんわ」
 範子は買った衣装に着替え、引っ詰め髪もおろし、夜の町へと繰り出した。

「さあ、コレットさん。手を出して」
 二人が辿り着いたのは高台にある公園だった。夜の帳が降り、辺りはすっかりと暗くなっていた。眼下を見渡せばネオンや車のライト、そして家々の明かりを見る事ができた。
「綺麗……。見せたいものってこれ?」
「少し違います。さあ、手を出して」
 コレットがそっと右手を差し伸べるとファレルが左手で握り、右手は彼女の腰に回して、中空に足を踏み出した。
 キャッ、とコレットが短い悲鳴を上げると、ファレルは大丈夫ですよ、と囁いた。
「目を、開けて下さい」
 ぎゅっと瞑っていた目を、コレットはそっと開く。
「浮いて、る?」
「浮いてるというよりも、空気分子を足場にして昇っている、と言った方が正しいのですが。ほら、地面を踏んでいるのと同じ感覚がするでしょう?」
「本当だわ。すごい……」
 コツコツとつま先を当て、感触を確かめたコレットが感嘆する。
「本当は雲海や雲の上に昇ってくる太陽などを見せて差し上げたかったのですが、少々遅くなってしまいました。すみません」
「ううん。こんな風にこの町を眺める事ができるなんて、本当ならないもの。それに、町の明かりがとっても綺麗だわ」
「そうですか、良かった」
 喜んでいる様子の彼女を見て、ファレルはホッとした。
「もう少し歩いてみたいわ」
「そうですね。もう少し空中散歩を楽しみましょう」
 楽しそうな彼女を見てファレルは思う。
 自分の記憶がなくなっても、彼女の記憶の中に美しい記憶が残ればそれで良い……と。

 保育所近くの公園では花火独特の香りが充満していた。
「それー、ジェット噴火ー!」
 最初は行儀正しく花火を楽しんでいたのだが、そのうち、数人ほどお約束のようにハメを外す子供達が現れた。
「こら、危ないからおよしなさい」
 マイクや他の大人達が注意しても効き目は薄い。注意したその時は止めても、またすぐに花火を振り回し始めるのだ。
 周りにいた子供達はキャーキャーと逃げ惑い、ぷにょは微妙に変形する。どうやら花火の火を避けているつもりらしい。
「人に花火を向けてはいけませんわよ」
 いつの間にか子供の背後に現れた女性が花火を持った手首を掴む。範子だった。
 ズズンと妙な威圧感を持った彼女に子供は怯む。
「ご……ごめんなさい」
 素直に謝った子供の手首から範子は手を放した。
「わかればよろしいのよ。では、失礼致しますわ」
 すぐにその場を離れようとした範子にマイクが声を掛ける。
「宜しければ一緒に花火をしませんか?」
「お邪魔ではないのでしょうか?」
「もちろんよ! ほら、こういう事は賑やかな方が楽しいに決まってるでしょ!」
 遠慮がちな範子に、さあさあと愛子が花火セットを差し出す。
「好きな花火を選んでちょうだい。遠慮はなしだよ」
 では、と範子が選んだのは線香花火だった。
「そんなんでいいのかい?」
「ええ。私は線香花火が一番好きなのですが……おかしいでしょうか?」
「いや、あんたがいいんならいいんだけどさぁ」
 どうにも腑に落ちない愛子をよそに、範子は花火に火を点けた。
 バチバチと最初は勢いよく爆ぜ、徐々に小さくなっていく。
 パチ、パチ……
 ついには火の玉だけになり、ポトリと落ちた。
 辛気臭いと敬遠されがちな花火であったが、範子はこれが好きだった。一生懸命最後まで花開こうとする様が、人の人生のようにも思えるからだ。

 暫く何を話すでもなく空中を歩いていた二人だが、不意にコレットが口を開いた。
「私……私ね、ファレルさんと一緒にいられてとっても楽しかった。危険な依頼の時にはいつも側にいて、助けてくれてありがとう」
「はい」
 ファレルは静かにコレットの言葉に耳を傾ける。
「でも、本当はこれからも一緒にいて欲しい……。ずっと一緒にいたい。だけど、もうすぐお別れなんだよね。……悲しいよ」
 コレットの顔が歪む。言うまいと思っていた本音が出てしまった。そんな彼女を見て、ファレルは寂しげに微笑んだ。
「……私は、銀幕市を嫌いではありませんでした。しかし、私はここの住人ではない。別れが訪れるのは必然でした」
「ファレル、さん」
 コレットの瞳に浮かぶ涙を見詰めながらファレルは続けた。
「だから、別れは悲しむべき事ではない。本当に悲しいのは、ここに居た記憶が誰からも失われる事だと、私は思うのですよ」
「私、ファレルさんのこと忘れないわ。ううん、忘れるなんてできないもの」
 コレットのその言葉にファレルは優しく微笑む。
「さあ、もう時間がない。……戻りましょう」
 時計は23時を廻っていた。

「お邪魔致しましたわ。最後にいい思い出ができました。ありがとうございます」
「最後?」
 早瀬が訝しげに言い、マイクは頷いた。
「貴女も、ムービースターなのですね」
「ええ」
「そんな……」
 落胆した様子の早瀬に範子が聞き返す。
「どうかしましたか?」
「こんなに美しい方と、出合ってすぐにお別れだなんて……」
「え?!」
 聞き間違えだろうか? 今、彼はなんと言った?
 驚いた顔で範子はマイクの顔を見る。マイクは微笑を返すのみだ。
「人生とは往々にして非情なものです。しかし、それを嘆いてはいけません。自分の身に起こる事には必ず意味があるのですよ。悲嘆に暮れていると前には進めません」
 戸田が早瀬を慰めている。
「……失礼。聞き間違いでしたら恥ずかしいのですが、今、美しい……とか言いましたでしょうか?」
 困惑しながら範子が早瀬に問い掛ける。
「言いましたが、何か?」
 早瀬の答えを聞いて範子の顔が赤くなる。
「わ、私は美しくなんてありませんわよ」
「いいえ、僕は今まで生きてきた中で、貴女ほど美しい人に出会った事はありません」
 どうやら早瀬は本気のようだった。
 一瞬思考停止した範子だが、これはチャンスとばかりに勇気を振り絞り行動してみた。
「そうですか。では、これは私からのプレゼントですわ」
 範子が早瀬の頬に唇を押し付ける。早瀬がポカンとしている間に踵を返し、走って行った。別れの挨拶も忘れずに。
「それではごきげんよう」 
 マイクは一連の出来事を微笑ましく見守っていた。

 ファレルとコレットは高台の公園へと戻っていた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、少し変な感じがするけど、平気よ」
 地上に降り立った後のコレットの足取りが少しおぼつかない。
「ベンチに座りますか?」
 気遣うファレルの言葉にコレットは首を振る。
「大丈夫よ」
 コレットはファレルの手を握り、自らの頬へと押し付ける。
「ファレルさん、今まで本当にありがとう。あなたが側にいてくれたおかげで、私は孤独を紛らわすことができたの。少しの間だけ、自分がいらない人間じゃないんだって思うことができた」
 コレットの肩でバッキーのトトがぴるぴると耳を揺らす。
「トトも、私のもとに来てくれて嬉しかったわ。ありがとう」
 肩に乗っていたバッキーを胸に抱え直し、ギュッと抱きしめる。
「コレットさん……」
 不意にファレルがコレットを引き寄せた。そのまま彼女を抱きすくめる。
「自分の事をいらない人間だなんて言わないで下さい。貴女はもう、孤独ではありません。スター以外にも親しくなった人達はいるでしょう?」
「……はい」
 コレットを抱きしめる腕に力がこもる。
「コレットさん。私は貴女を……」
 ファレルが言い掛けたその時、トトがコレットの手から飛び出した。
「トト?!」
 バッキーの行方を目で追い駆けると、夜空に色とりどりの光の帯が立ち昇っているのが見えた。その帯に白い光が向かって行く。トトだった。
「トト、さよなら。ありがとう!」
 コレットは叫んでいた。
「トト……」
 光の帯が上空に全て吸い込まれるまでコレットは見送った。
 ザァ……
 一陣の風が吹き、コレットはハッとする。
「ファレルさん?」
 いつの間にかファレルの姿が見えなくなっていた。
 彼を探そうと一歩足を踏み出した時、コツンと何かがつま先に当たった。それは一本のフィルムだった。
 タイトル部分にはファレル・クロスと刻んである。
「ファレル……さん……」
 コレットはそれを拾い上げ、優しく抱きしめた。

 バタンとドアを閉め、範子はそのままドアに寄り掛かった。公園から走って帰ってきた為、息が少し乱れている。彼女はクスリと笑うと顔を上げた。
「外出して正解でしたわね」
 最後の日を聞かされた時は絶望感に囚われていた。けれど今は違っていた。
「おかしなものですわね」
 消えると知った時はどうしていいかわからなかった。ただ、忙しくする事で、その恐怖から逃れる事しかできなかった。
「もう時間があまりないという時に、こんなに楽しい事があるなんて……」
 会社の同僚とのランチの約束、殿方とのちょっとした交流。
「もしかして、これのお陰……でしょうか?」
 取り出したのはブッドレア柄の小さな鳥のぬいぐるみ。職場の同僚に見られたのもこれだった。
 購入当初は携帯のストラップ代わりにしようかと思っていたのだが、少し恥ずかしくてスカートのベルト通しなどにくっつけて持ち歩いていたのだ。
 その小さなぬいぐるみを握り締め、ふと窓に目をやると、色とりどりの光の帯が空へと昇っていく光景が見えた。
「何かしら?」
 訝しく思った範子は窓へと近付いて見た。
「あれは……バッキー? ……そう、いよいよなのですね」
 程なく自分は消えるのだと範子は悟った。
「でも、あそこに行けるのなら怖くはありませんわ」
 もう、範子の顔に絶望や恐怖といった表情は見て取れなかった。あったのは、晴れやかな笑顔――。
 
 ☆ ☆ ☆ ☆

 14日の朝、早瀬は何気なく机の引き出しを開けてみた。するとそこには黒い表紙の聖書とクリスタルでできた十字架のペンダントがあった。早瀬の物ではない。
「ランバスさんの?」
 魔法の消滅と共にムービースターと一緒に実体化した持ち物は消えるはずだった。
 聖書を手に取りパラパラと捲ると、こちらの世界で購入したものにしては使い古された感がある。
「これがランバスさんの物だとしたら、奇跡が起きたと、そう思っていいのでしょうか?」
 早瀬は窓から空を見上げ、誰ともなく問い掛けた。

 ここは独身者用のマンションの一室。かつて山砥範子というムービースターが住んでいた部屋。
「お疲れ様でした。ありがとうございます」
 女性が労いの声を掛けると、引越し業者はありがとうございました。と引き上げて行った。
「あー、疲れたわぁ」
 彼女が腰を下ろし息を吐くと、折り畳み式の小さな卓袱台の上に、鳥の形をした小さなぬいぐるみと一枚のDVD−Rが置かれているのに気が付く。
「やだ、前の人の忘れ物かしら?」
 少し困惑しながらも興味に駆られ、彼女はDVD−Rを自身のパソコンに挿入した。ブゥンという少し重い音を立て、プログラムが起動する。
軽快な音楽と共に現れたのは“ノリーのLet's Typing”というタイトルだった。
「あ、何だ、タイピングゲームかぁ。……ふーん、結構面白そうな感じね。これ、使わせてもらってもいいのかな?」
 DVD−Rのケースを調べると、メッセージカードが挟み込んであるのに気が付いた。
「なになに……“このディスクにはタイピングゲームが入っています。スキルアップを目指すあなた。ぜひチャレンジしてみて下さい。”か。」
 なるほどねぇと女性はディスクをパソコンから取り出し、ケースに仕舞い込んだ。
「今はゲームよりも片付けっと。頑張るぞー!」
 気合を入れて女性は片付け作業を開始した。

 6月14日。
 リオネの魔法は消え、銀幕市は普通の町に戻った。もう、不可思議な事件は起きない。
 ――そう、きっと。


 ――了

クリエイターコメント大変お待たせしてしまいました。申し訳ありません。
妄想・捏造過多で描写してしまいましたが、大丈夫だったでしょうか?
少しでも参加PL様にとって、心に残るものになっていれば幸いです。
この度はご参加ありがとうございました。
公開日時2009-07-16(木) 19:00
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