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<ノベル>
おじさん、それ悲しい唄ね。おや、どうしてそう思うんだい? だって、鉄道に乗って出稼ぎに行ったお父さんはそのまま帰って来なかったんでしょ? ああ、そうか。お嬢さんはこの唄の最後を知らないんだね。お嬢さんのともだちも、最後までは唄ってくれなかったんだね。その唄に続きがあるの? そうだよ。最後には、シベリアの大地の向こうから父親が帰ってくるんだ。なあんだ。なら娘は喜ぶわね。ああ、とても喜ぶよ。何しろ、お父さんが帰ってくるんだから。鉄道なんか使わずに、ある日突然、お父さんが帰ってきてくれるんだから……。
* * *
「開けて! ここを開けて!」
二階堂美樹は、朽ちかけた古いドアのノブを掴み、めちゃくちゃに引っ張っていた。ドンドンとドアを叩けば埃が舞い、彼女の声は静まりかえった路地裏に響いていく。
その声は無機質なビルのコンクリートの壁に阻まれ、空にまでは届かなかった。
どんよりと曇った空。
まるで、夜のような薄暗い路地裏で。彼女はドアノブを鳴らし続けている。
何かの工場だろうか。二階建てのプレハブのような建物についた外付けの鉄階段。建物には他に入口が無く、美樹はその唯一の入口から中へ入ろうと躍起になっている。
ガチャガチャ。
「開けて! 開けなさい!」
美樹が声を張り上げれば、中から微かに悲鳴のようなものが聞こえた。そして何かが床に叩きつけられるような物音。
早くしなければ。美樹は焦り、いっそう手に力を込めた。自分がここを開けなければ、中にいる女性が殺されてしまう。
ガチャガチャ。
話は数分前にさかのぼる。彼女は対策課がらみの仕事の帰りだった。
ムービーハザードで出現した大きな犬の怪物を駆除するというもので、美樹はディレクターズカッターを借り、科学捜査官としてではなく、自分のプライベートの時間を使ってその依頼を受けていた。
実際のところ、数人で取り組んで事件はスムーズに解決したのだが、美樹はその帰り道に道で不審な人物に遭遇したのだ。
春になろうというこの時期に、分厚い紺色のロングコートをまとった大男。それとすれ違った時、美樹は彼が路地に落としたものを見てしまった。
つやつやと光る濃い桃色のそれは──臓物だった。
人間の肝臓だろうか、美樹はそんなものが路上にあるはずがないと思い、反応が遅れた。
ハッと見れば、大男は彼女の視線に気付き、走り出していた。
待ちなさい、と叫び、美樹は当然のように男を追いかけていた。彼女は犯罪者の類を目の前で見過ごせるような精神構造をしていないのだ。
暗い方へ、暗い方へと、彼女を誘うように逃げていく大男。美樹は、もしかすると相手は自分を誘き出し危害を加えようとしているのではないかと、少しだけ不安になった。
しかし、彼女は脇に抱えた自分のバッキー、ユウジの身体をぎゅっと抱きしめ、走り続けた。
何故なら。
美樹は今、武器を手にしていたからだった。
──今なら、私にだってやれる。
逃走劇の途中で、一人の女性が目の前で大男にさらわれた。二人が逃げ込んだのがこのドアの先だった。彼女の鼻先で、ドアは閉じられてしまった。
中から聞こえる悲鳴。もはや一刻の猶予もない。
美樹はドアノブから手を離し、カバンの中にある武器を取り出した。
ディレクターズカッター。バッキーの力をチャージすると使用できる剣だ。ムービーファンだけが使える、この街の魔法に対抗できる武器。
これを使えば、こんなドアノブなど壊せるのではないか。
美樹は、まだ刃のない剣の柄を握ってみた。
振り下ろせば、きっと。
「──やあ、それでは難しいかもしれないね」
キャアッ! 突然の声に美樹は悲鳴をあげ、頭上を見上げた。工場のトタン屋根の上からこちらを覗いている者がいる。それと目が合い、もう一度声を挙げそうになって──彼女は気付いた。
「ジャック、ジャックじゃないの!?」
相手の名前を呼ぶと、逆さまの顔がにっこりと微笑んだ。
「嫌だなあ、そんなに驚いて。どこかの化物だとも思ったかい?」
──まあ、あながち間違ってもいないけどね。声の主はそう言って、するりと美樹の隣りに降り立った。フロックコート姿の痩せた青年である。
ジャック。ジャック=オー・ロビン。
殺人鬼であり、刃物の専門家でもあり、そして美樹の友人でもある青年は、邪気のない笑みを浮かべて彼女を見返した。
「美樹。キミには今、ボクの手助けが必要なようだ。違うかな?」
「え、ええ。ええ、そう! そうよ」
突然現れた友人に、美樹は驚きつつも慌てて頷いた。何度も、何度も。
「中に怪しい男が、女性をさらって、中で、あの、悲鳴が」
「分かった」
ひゅんっ。
一陣の風が吹いたように、美樹の前髪が一瞬だけ跳ね上がった。
目を見開いた彼女の前で、あれだけびくともしなかったドアノブがゴトリと床に落ち、転がる。
「さあ、もう一回」
ジャックの右手が──指が5枚の刃に変わっている。
彼はそれを閃かせ、まるで撫でるように蝶番のあたりを触った。
とんっ。
そしてジャックがドアを左手で押せば、ゆっくりとそれは開いていった。ドアの外と中。二つの世界がつながり、足元では埃がふわりと上がる。
「さあ、どうぞお入り。お嬢さん」
ジャックはおどけた様子で腰を屈めながら言った。その仕草は優雅で上品なものだったが、中にいる者のことで頭がいっぱいの美樹の目に入らなかったようだった。
彼女は文字通り、室内へと飛び込んだ。
「──!」
かくして、美樹が外で見た大男は、一人の若い女を背中から羽交い絞めにしていた。
男は女の首筋に顔をうずめており、女の白い首から胸にかけて赤い鮮血の糸が見えている。彼は女の首に噛み付いていたのだ。その光景は、ジャック言うところの“ディナーの最中”だった。
「吸血鬼!?」
美樹は、ディレクターズカッターを構えた。武器の柄を握ってみたものの、はたと気付く。
──ユウジの力がまだ入ってない!
この剣は、バッキーの力を注入せねば、ただの柄だけの鉄の塊にしか過ぎないのだ。美樹は自分の準備不足に遅れて気付き、愕然とした。
敵を目の前に──こんな。
「美樹、下がって」
そんな様子を見、彼女の視界を遮るようにジャックが立った。黒い背中を見て、美樹は声を無くす。斜に振り返った友人はニコリと微笑んだ。
「ボクが少し彼と遊んでいてあげるよ」
そう言い残すと、彼は跳んだ。
ジャックは美樹の返事を待たなかった。
──スシャッ。
軽やかな音を立ててジャックが大男の目前で手を振るった時。うなり声を上げたのは大男の方で、その腕だけが跳ね上がった。犠牲者の女の身体も、支えを失ってくるくると回りながら床に倒れこむ。
そしてそれがフィルムに変わった。その隣りに、ぼたっ。大男の左腕が落ちた。
「……5、6、7……」
数を数えだしたのはジャックだ。床に着地した彼は、刃と化した手を交差しその間から金色の瞳を覗かせて敵を見た。
自らの刃から流れ落ちる血の色が赤いことを知り、彼は微笑む。
「……12、13、14……」
大男は、ぎょろりと目を剥いた。そこに瞳孔は無かった。白濁した眼球は緑がかったもので、涙ではない何かの液体を撒き散らしながら、それでも確実にジャックを見た。
「……20、21、22……!」
相手が跳ぶ前に、ジャックは正面切って走り込んだ。大男が残った右腕を振り下ろしてくるのは、意外にも素早く、彼の頭は消し飛んだかに見えた。
だが、居る。
ジャックは地を這うほどに身体を低くして、滑り込むように敵の懐にまで飛び込んだ。
「26、27、28……」
だが、居ない。
一瞬の間に大男の脇をすり抜けるジャック。遅れて、血飛沫が飛ぶ。男は何か声を上げて片膝をつく。──腿を浅く、切られたのだ。
「29、30」
くるり。ジャックは刃で顔を守るようにしながら身体を反転させた。彼の視界の中には、大男の背中と。そして、光る刃を構えた友人の姿がある。
美樹だ。ディレクターズカッターにバッキーの力を蓄えた彼女が、タッと地を蹴って走り出す。その手には剣がある。
──さあ、美樹。キミの出番だ。
友人の言葉と同時に、彼女は敵に刃を振り下ろした。
* * *
お嬢さんは、ロシアの唄に興味があるのかい? それとも、このアコーディオンが珍しいのかい? いいえ。私の友達がおじさんと同じような唄を口ずさんでいたことがあったから。そうかい。ともだちがねえ。そう。ウォッカを飲みながら、鼻歌でね。へえ。もしかして、それはお嬢さんのいい人だったのかな。違うわよ。違うわ。どうしたんだい、そんなに否定しなくても。いいえ、本当に違うの。彼はただの友達よ。彼は、ただのテロリスト。
* * *
はあっ、はあっ。
息を切らしながら、美樹はディレクターズカッターの刃を納めた。無意識にか、左手の甲で額の汗をぬぐっている。
彼女の足元には、二つのプレミアフィルム──犠牲者となった女性と、それを襲っていた吸血鬼らしき男のものが転がっている。
視線を感じて、彼女は顔をあげた。
ジャックと目が合った。彼は彼なりに気を使い、今の彼女に話しかけてよいものかどうか、間合いをはかっていたらしい。
「あ、ごめんなさい。大丈夫よ」
美樹は慌てて取り繕うように、無理に笑顔をつくった。「あんまり使い慣れてないもんだから下手で恥ずかしいわ」
すると、ジャックは口端を持ち上げて笑ってみせた。
「街でキミを見かけた。血相を変えて走っていくものだから、尾行けてみたんだ」
キミの行動はいつも興味深いよ、と、彼は落ちていたプレミアフィルムを一つずつ丁寧に拾い、美樹に差し出した。
「いい機会だ。今日はボクの仕事ぶりをキミに見せてあげよう」
「し、仕事?」
フィルムを受け取りつつも、美樹はジャックを──嬉しそうに刃となった自らの指を動かしている殺人鬼の様子を見て、思わず聞き返していた。
「ステンドグラス製作、だよ」
先日、約束したことを口にするジャック。それは下水道の奥へ分け入った彼女に、ラジオでも伝えた約束の一つだった。
「あ、覚えててくれたの?」
「もちろんだよ。もし良ければこれから──」
言いかけて、ついとジャックは顔を上げた。美樹もハッと目を見開く。
彼らは同時に振り返った。
ぼぞっ。扉を突き破ってそこに生えた白い腕。ドンッ、ダンッ! 誰かが外から体当たりをしてドアを開けようとしているのだ。腕は、中に入ろうと躍起になり、ドアは圧力できしんでいる。
「ステンドグラスの前に、少し寄り道が必要かな?」
「──散歩というには、刺激が強すぎるかもしれないけど」
身体をそちらに向けて目を細めるジャックに、美樹は隣りでうっすらと微笑んでみせる。
バリバリバリッ! ドアが破られ、何者かが室内になだれ込んでくるとともに、二人は各々の武器を構えていた。
「見てごらん、美樹。善良な市民たちのご到着だ」
相手は5人。若い男女だが皆、白目を剥いており、一見してまともな状態ではないことが分かる。喫茶店のウェイター風の者は四つん這いで。掃除夫くずれは、よたよたとよろけながら、二人の様子を伺っている。その後ろには、ウェイトレスと主婦と老人が控えている。
窓から差し込む白い明かりの中に、ぽっかりと5人の姿が浮き上がり、真っ黒な影をつくっていた。
同じ白濁した眼球が、ギョトギョト動いて、こちらを見る。
「さて、それじゃあ、ひとつ聞いてもいいかな?」
余裕たっぷりの態度で、構えも取らずに手元の刃物を動かすジャック。彼はゆっくりと隣りの美樹を見、彼女の様子を伺いながら、そっと話しかけた。
「何?」
「──キミは今、無理をしていやしないかい?」
ジャックの言葉に、チラ、と美樹は横目をやった。彼女はディレクターズカッターを両手で構え──観念したように一度目を閉じ、言う。
「あなたみたいな人には、やっぱり分かっちゃうのね」
彼女の口から溜息が漏れた。美樹は、剣の柄に目を落とす。
確かに彼に指摘されたことは本当だった。美樹は科学捜査官であって、戦士でも戦闘のプロでも何でもない。化物に襲われれば恐怖で足がすくんでしまう。
先ほどの大男だってそうだ。
あんな大きな図体だったというのに、美樹は彼に追いつくことさえままならなかったし、ジャックに向かって振り下ろした手の動きを目で追うこともできなかった。
今、目の前にいる5人も、どんな動きをするのか全く予想もつかない。素早く攻撃されたらジャックが助けてくれるよりも前に、自分は命を落とすかもしれない。
それも一瞬のうちに。
「でも──わたし強くなりたいの」
彼女は自分の心を引き締めるように、両手で柄をギュッと握り締めた。
間に合わなくて。自分の力が足りなくて、“彼”は狂って死んだ。
「もう、あんなことが起こらないように」
「なるほど」
5人のうち、ウェイトレスが動いた。パッと反応して前に出るジャック。
「そういうキミの考え方、ボクは──」
ズジャァッ! 彼はいきなり足を踏み込み真正面から切りつけた。「──嫌いじゃないな」
それは見た目にそぐわない強烈な一撃だった。ウェイトレスは切り裂かれたエプロンを押さえ床に崩れ落ちた。盛大に吹き出した自らの血でできた血溜まりに、がくりと突っ伏す。
他4人は、ジャックの一撃にひるんだようだった。
あの細腕の一撃で、まさかやられてしまうとは思わなかったらしい。
「さて、それじゃあクイズをしよう」
歌うように朗らかに、ジャックは微笑みながら言った。自らの刃についた血を振り払い、一本一本開いていく。するとそれは窓からの光を反射してきらめいた。
「一番かわしにくい攻撃は、何だと思う?」
「え?」
目をぱちぱちやっている美樹に、ジャックは構わず続けた。
「1、上から振り下ろす。2、横から一閃する。3、突き刺す。さあ、どーれだ?」
「ど、どれって……」
答えようとした彼女たちに向かって、掃除夫が動いた。飛び跳ねたジャックをやり過ごし、美樹に向かってきたのだ。何かの液体が飛び散り、彼女の頬にベチャリと付着する。
キャァッ、悲鳴を上げながら美樹は剣を横に一閃した。しかしそれは相手の腹を少し切っただけに終わった。素早く敵が飛び退いたからだ。
「ハズレ。2番ではないよ」
「ちょっ! そうじゃなくて!」
「次は右だよ」
ジャックの指示に、美樹は慌てふためきつつも身を退いた。今度は主婦が両手を挙げて襲い掛かってきている。
──あっ、そうか!
剣を構えようとして彼女は、あることに気付いた。咄嗟にまっすぐに剣を突き出せば、その切っ先は向かってきていた主婦の腹に深く食い込んだ。
「そう、正解! 少ないアクションで効果的な攻撃ができるってわけさ」」
敵の頭を蹴り、軽やかに彼らの頭上を跳びながらジャック。
「さあ、次の問題だよ」
ザリッ。彼の膝から飛び出した刀が、ウェイターの背中を切り裂いた。美樹も相手に突き刺さった剣を一気に引き抜く。
「どの部位を狙うと一番効果的? 1、腹。2、胸。3、首。どーれだ?」
「そんなの……っ!」
彼女は両手でしっかり握った剣を、敵に突き出していた。その構えは素人で、腰が入ってはいなかったが、それでも剣は敵の首をまっすぐにとらえている。「──こういうことでしょ!」
「ご名答」
「研究者だもの」
「ああ、そうだったね」
感心したように答えながら、ジャックはふわりと地面に降り立った。
「ボクたちは、ある意味似たもの同士なわけだ」
ふっと微笑む美樹。ようやく緊張がほぐれたように、彼女はディレクターズカッターの柄を持ち直した。両手で、強く。
ジャックはその彼女の様子に、ひょいと眉を上げてみせる。
彼らの目の前にはプレミアフィルムが三つと老人と掃除夫の二人が残っていた。
殺人鬼と科学捜査官は、さっと目配せをし合った。どちらがどちらをやるか。そんな算段を決めたところだった。だが数秒後、それもすぐに無駄になった。
「──ヴォォォォ!!」
部屋に差し込んでいた光に影が差し、大きな音を立てて窓を割り何かが飛び込んできたのだ。確認するまでもなく、それは新たな化物だった。
セーラー服を着た女子高生が3人。床を舐めるように身を屈めて顔をこちらへ上げる。そこにあるのは同じ白濁した瞳だ。
ジャックと美樹は、もう一度顔を見合わせる。
「さあ、どう見る? 美樹。彼女たちの相手もするかい?」
「キリが無いわ」
ゆるゆると首を振る美樹。「──元凶を潰さなきゃ駄目ね」
「キミには心当たりが?」
「いいえ」
彼女はきっぱりと言い放つ。ジャックは相変わらず楽しそうに、両腕を開いて相手に自分の刃がよく見えるようにゆっくりと動かしている。
「ふむ。なら、シンキング・タイムだ。まず第一に、彼らの共通点は?」
「分からない。けど」
ヒュッ。剣で彼女は真っ直ぐに窓の外を指差した。「ここは二階だから飛び降りるのは無理よ。来た道を戻るしか」
「そうだね、残念だ。素敵な唄がよく聞こえるようになったっていうのに」
「──唄?」
後ずさろうとして、美樹は足を止めた。今のジャックの言葉がひっかかったのだ。
「唄なんか聞こえないわよ」
「そうかい? ボクには物悲しいアコーディオンと唄が聞こえてるけど」
「アコーディオン……? あッ!」
不思議そうに友人の言葉を繰り返し、美樹は思わず声を上げていた。
「心当たり、ある!」
* * *
その自動販売機ね。あなたは、その自動販売機に何かを仕込んだ。飲み物を買った人たちがそれを飲んで化物になるようにね。さて、おじさん。アコーディオンを壊したことは謝るよ。しかしどうしてこんなことをしていたのか、その理由を聞かせてはもらえないかな? 化物とは人聞きが悪い。彼らは進化したんだよ。進化? それは興味深いね。一体どんな進化を? 人間を超えた存在になるのさ。ああ、お兄さん。君なら分かるんじゃないのかい。今、そういう顔をしたろ? ごまかさないで! あなたの目的は何なの?
* * *
光も差さないような路地裏の、壊れかけた自動販売機。その隣りに浮浪者のような風体をした老いた男が壁に寄りかかるようにして座っている。
「ひどいねえ、ひどい話だ」
そう呟く彼の目の前には、剣を手にした女と、刃物を手にした青年が立っている。
美樹とジャックだ。
真っ二つにされたアコーディオンの残骸が、冷たいコンクリートの床に散乱し、老いた男は悲しそうにそれを見つめていた。
* * *
力を得たい、と。君たちもそう思うことはあるだろう? 私はそれを手助けしてやろうとしただけさ。この街の魔法があれば、それはきっと適う。彼らはきっと成りたいモノになれたはずだ。成りたいモノだなんて、あんなものが! あなた何言ってるの! ねえ、おじさん。ボクはキミの想いには興味がない。ただ一つ聞きたい。なぜ、キミの唄は美樹の耳に届かなかったのかな?
* * *
老いた男は、壊れたアコーディオンのねじを拾い、嗤った。
* * *
どうしてかって? 簡単さ。そのお嬢さんには、力が無いからさ。お嬢さんはただの人間だ。分かるかい、お嬢さん。君はいくら足掻こうが何をしようがただのヒトに過ぎないのさ。映画から出てきたわけでもない人間が、何をしたって進化できるはずがないんだ。君にともだちを助けるのは無理だ。そもそも彼は助けなど必要としていなかったんだよ。彼は、ある日突然帰ってくるよ。自ら進化して今までとは違う存在になってね。いいや、違わない。違わないよ。私は間違ってなどいない。間違っているのは君の方だ、お嬢さん。お喋りだな、キミは。もうおしまいにしてくれるかな?
* * *
スプリングコートのポケットに両手を入れ、美樹は無言で歩いている。その隣りを半歩遅れてジャックが歩く。彼の足取りは軽かったが、彼女の歩みは遅く、重い。
──これから、ステンドグラス製作を見せようと思ったのに。
首をゆるゆると振るジャック。
自動販売機に何かの薬品を仕込んだ老人をプレミアフィルムにしたのは彼だった。どうやら化物になって暴れていたのはムービースターだけだったらしい。美樹や普通の人間は飲んでも反応はなく“進化”を促進させる老人のアコーディオンも聞こえなかったということだ。
事件は一件落着。片付いたというのに。
美樹は老人に言われたことが堪えたのだろうか、口数も少なく、いつもの元気もない。
ふと、すれ違った男が美容院のチラシをくれたので、ジャックはそれを受け取った。まるで手持ち無沙汰のように、指をハサミに変えてそれを器用に切り始める。
「無駄なの、かしら?」
ようやく、美樹が口を開いた。何が? と切り返すジャック。
「守りたいと思うのは、無駄なこと?」
「ふむ」
相槌を打つようにジャックは一拍置いて、美樹の横顔を見た。
「キミがそう思うなら、無駄なことになってしまうと思うよ?」
「え?」
友人がこちらを向くと、ジャックはニッと微笑んで見せた。
「自分が選んだ道を、土煙を巻き上げながら突進するのが、美樹。キミのスタイルじゃないかな。ボクはそう思う」
「ジャック」
自分を勇気付けてくれているのか。
美樹は、思わず胸が熱くなった。ジャックは感じのいい青年だが、殺人鬼だ。たまに何を考えているのか分からない時もある。それでも。それでも、彼は美樹の友人なのだった。彼は自分に好感を持ってくれているからこそ、こうして声を掛けてくれる。
「──出来た。キミにこれをあげよう」
礼を言わねば、美樹がそう思った時。傍らの友人は、彼女の言葉を待たずに何かを差し出してきた。
それは、何かのチラシを綺麗に切り込んだ、切り絵だった。
「あら、すごい」
美樹は素直に感嘆の声を漏らし、切り絵を受け取った。
図柄は何かの顔だった。豚のような顔に角が2本生えている。絵画などによく登場する、悪魔のようにも見えるが──?
「んー、これは、何?」
「今のキミの顔」
ジャックの答えに、美樹は思わずプッと吹き出した。
「似てない。ぜんっぜん似てない」
「そうかな、傑作だと思ったけど?」
「似てないわよ、いくら何でも、私こんな怖い顔じゃないって!」
彼女が笑い出すと、ジャックもクスクスと笑った。その目は悪戯っぽく光っている。
「心配しなくても平気さ、美樹。人間は中身で勝負するものだろ?」
「そりゃ私は頭脳明晰だけど──」
「違うよ、頭の方じゃない。身体の方さ。キミは煙草を吸わないから、肺もきっと綺麗なピンク色だと思うんだ」
「や、そういう“中身”の話じゃないってば、もう!」
「ああ、そう」
すっかり普段の調子を取り戻した美樹を、ジャックは目を細めて見た。
アコーディオンの老人が進化の話をした時、自分は彼が言うように、顔色を変えたのだろうか、分からない。
しかし、良いではないか。ジャックは思う。
この元気な友人なら、必要な時に必要な選択をするはずだ。
扉の向こうに行くも良し。扉を開けずに戻るも良し。
ただ、それだけだ。
「……なら、ステンドグラスでリベンジといこうかな?」
「え? ていうと?」
「美女にしてあげるよ」
片目をつむりながら、ジャック。「フィクションの世界だからね、キミを思いっきり綺麗に描いてあげる」
「ほんとに!?」
やだー。美樹は照れたように耳の上を掻いている。殺人鬼は声を上げて笑った。
そうして、二人はジャックのアトリエへ。銀幕市の中で起こる星の数ほどの事件のうちの一つを解決し、日常へと戻っていったのだった。
数時間後。
美樹は、ジャックから見事なランプシェードを贈られた。
花弁のように7枚のガラスを組み合わせているもので、物語のように様々な場面が描かれていた。
ジャックに礼を言いつつ、一つ一つ丹念にその場面を見て、美樹は苦笑した。
──自分がそこで、バラバラ殺人の被害者になっていたからだった。
(了)
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クリエイターコメント | ありがとうございました!
いつもより少し短めで、シンプルに。 こっち側と向こう側にいる人(笑)というテーマで書かせていただきました。 口調その他誤植等、何かありましたら遠慮なくお知らせくださいませ。
またどこかでお会いできますように(!) |
公開日時 | 2009-04-12(日) 12:20 |
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