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<ノベル>
初めは、手品をやってみせている大道芸人がそこにいるだけだった。少なくとも、そう記憶しているように思える。
頭から黒い頭巾をすっぽりと被り、唯一覗いているのは鼻下から口元だった。口許には薄い笑みを浮かべていて、何を言うでもなく、ただ静かに奇術をやってみせていた。
良く晴れ渡った春の日の午後、それはむしろいくぶん暑くさえ感じられるような日和の日の事。人の往来の多い大通りの片隅で、悠里はぽつりと足を止めて、全身を黒で覆い隠したその奇術師の芸に知らず知らず目を奪われていた。
不思議な音楽が流れていた。どこから流れてきているものかは分からなかったが、アコーディオンのもののような、どこか懐かしさを感じるような音色だった。
黒ずくめの奇術師の周りには悠里の他にも大勢が集まっていて、自然、円を描くようにして並んでいた。それ以外の人はまったく気にとめるでもなくすらすらと大通りを流れていくというのに、なぜああまで惹かれたのか――今となっては判らない。
不透明のグラスを三つ並べ、その中のひとつに変哲のない卵をひとつ放り込む。そうして三つのグラスをぐるぐると動かして、卵が入っているはずのものを観客が当てる。でも卵は三つのグラスのどこにも見当たらず、観客のひとり、悠里のすぐ近くの男のジャケットのポケットから現れた。
そんな、一見すれば地味な奇術だった。それでも観客たちは誰ひとりとして立ち去ろうとせず、まるで魅入られたようにそこに居続けたのだ。
そうして、奇術師が両手をぱちんと合わせて音を鳴らし、それに合わせたかのようにグラスが三つともぱちんと割れて弾け、陽光の下、キラキラと光る粉末を巻き上げた、その時だった。
観客たちの間にわっと歓声が響いたのだ。
まるで、不可視の扉がそこに存在していたかのように、突然、女がひとり、そこに姿を現していた。
扇寛子だ、と、誰かが歓声をあげた。それをきっかけにして、場はいよいよざわめきたち、観客たちは熱に浮かされたようにふらふらと前進し始めたのだった。
その直後のことは、悠里自身もよく覚えていない。――あるいは思い出したくないだけかもしれないが。
ともかく、気がついたとき、悠里は病室のベッドの上にいたのだ。目覚めた後に聞かされたのは、あの場所で起きた凄惨たる殺人事件に関する情報だった。
★ ★ ★
「気に食わんな」
風の音ですらろくに響かない静けさの中、周囲に満ちた闇の不穏と安寧とを具現したかのような男の声がふつりと落とした。
「あのクライアントの態度はいちいち癇に障る」
言って、他の者には悟られぬ程度に小さく舌打つ。その声の主は暗闇で覆われた空間の一番隅で、背を壁にあずけ、腕組みをして立っていた。黒いベルベッドを思わせるコートを身にまとい、けれども絹糸のようにすらりと伸びた滑らかな金色の頭髪が時おり静かに揺らめいている。
声の主はシャノン・ヴォルムスだ。シャノンは壁にあずけていた背をゆっくりと起こし、続けて静かなため息を落としてからかぶりを振る。
「いずれ消えてしまうかもしれない存在が生身の人間を愛してはいけないとは、さしもの神も定めていないだろう」
「まあ、その通りだよね」
シャノンの落とした言に賛同の意を示したのは吾妻宗主のやわらかな声だった。宗主は雑然と置かれたダンボールの上に腰掛けていて、足を組み、その上に肘をのせて、器用に頬杖をついている。
「誰が誰を好きになろうが、愛そうが、それは制限されるべきものじゃないと思う。その点を彼女ははき違えているんだろうね、かわいそうなひとだ――でも」
一拍おいて、宗主はちらりと目線を動かす。夜目に馴染んだ視界が、さほど離れていない場所で報酬の金を拾い上げている寺島の姿を捉えていた。
「映画の中ではもしかしたら寛容に赦されていたかもしれない殺しの罪も、こちら側では重ねてはならない重罪だ。まったく意味合いの違うものになってしまう」
「扇寛子が演じた智寿子は劇中においても、実体化したこちら側においても殺しの罪を重ねている。……それは看過されるべき点ではないな」
シャノンの声が宗主の言に肯きを示す。
そこに如何なる理由が存在するにしろ、智寿子が、およそ無関係な人間たちを無差別に殺めた事実に揺るぎはない。どれほどに正当性を叫んでみたところで、それは罪という名の烙印を押されるべきものだ。
「……で? 請けるのか、請けねえのか。……喋りてえだけなら今すぐここから出て行け、邪魔なだけだ」
ふつりと間を割って入りこんだのは寺島の声だ。寺島は片手で前髪を梳きあげながら大仰に息を吐き出す。
「寺島さんは請けるんだ?」
座っていたダンボールから飛び降りて寺島の傍に歩みながら宗主が問う。しかし、寺島は宗主の問いかけに応じることをせず、宗主を逃れるように歩みを進めて場の一郭に置かれた古いテレビの上に腰を落とした。
「仕事は仕事だ、俺は請ける」
言って、シャノンは足もとの砂利を踏む。寺島の視線がわずかに動いてシャノンを捉えた。そうして寛子から受け取った金の一部を無造作に掴み、それをシャノンに向けて押し出した。
差し出された金を受け取りながら、シャノンはしかしゆっくりと目を細める。
「もっとも、智寿子とやらを消した後、愛する男がどうなるのかは解らないがな」
嘲るように言い捨てて、その歩みのまま、シャノンは場を後にした。扇寛子が出て行ったドアが再び開き、冷えた夜気が暗闇をゆらゆらと揺らす。やがてそれが再び立ち消えて再びぴたりとも身じろぐことのない静寂が訪れると、待ち構えていたかのように、宗主は寺島の傍に歩み寄った。
「うん、俺も請けようかとは思うんだけど」
言った宗主に、間を置かず、寺島は報酬の一部を押し出した。が、宗主はふわりと笑ってそれを制した。
「俺、今回は報酬なしで動くことにしようかなと思うんだよね。寺島さんの意向に沿う仕事が出来るかどうか、今回はちょっと怪しいしさ」
「……俺の意向、だ?」
「そう。さっきシャノンも言ってただろ? 俺も、今回の依頼人はあまり好ましく思えないんだ。思うんだけど、ええと、智寿子さんが非道な行為をとるに至ったのには、なにか裏が……そう、事情があったように思えるんだよ」
「仮に智寿子が同情を引くような事情を抱えていたとして、無関係な人間たちを無差別に殺すという行為が赦される、とでも言うのか?」
寺島の声が棘を帯びる。宗主は首をすくめて頬を緩め、「それはないな」小さくかぶりを振った。
「俺はシャノンの言い分に同感だ。例えば仮にどんな理由があったとしても、犯した罪は重い。看過されるべきものじゃない。でも俺は彼女が持つ”理由”を蔑ろ(ないがしろ)にしたまま殺して終わり、っていうのはイヤなんだよ」
「……善人ぶった意見だな」
寺島が鼻先で嗤ったのに小さく微笑んで、宗主はふわりと笑みを浮かべる。
「だから、報酬はいらない。でも仕事には同行させてもらう。……ダメかな」
首をかしげた宗主に、寺島は横目にちらりと視線を投げてよこしただけで、否とも応とも返そうとはしなかった。そのまま、シャノンを追うような足取りで場を後にして、そうして残されたのは宗主ただひとりきりとなった。
★ ★ ★
扇寛子がその日の分の収録を終えてマンションへ戻ると、そこには飽きもせずマスコミ関連の人間が数人たむろしていた。
事件から数日。彼らの人数や構えているカメラの数は少しずつ減ってきているとはいえ、それでも鬱陶しいことに変わりはない。もしもここで迂闊な発言でもしようものなら、せっかく減りつつある彼らの数は再び増加してしまうのだろう。そう考えて辟易としたため息を落とした。
マネージャーが先導して、食い下がるマスコミたちをどうにかやり過ごし、ようやくマンションのエントランスに走りこみ、深々と安堵の息をもらすことが出来たのだ。だが、
「おぬしが扇寛子じゃの?」
寛子がようやく得た安堵の息を阻むように、なんら前触れもなく突如その声が寛子の耳に触れたのだ。
「誰!?」
言って携帯電話を構える。何かあればすぐにマネージャーや事務所、あるいは警察に呼びかける手はずになっている。
「不躾に申し訳ないのう。……おぬしにちぃとばかり確かめておかねばならぬことがいくつかあってのう」
続けたその声は、どうやら幼い少女のものであるようだった。寛子はエントランスの隅々にまで目を向けたが、そのどこにも声の主らしい子供は見当たらない。それどころか、管理人の姿すらも見えなくなっていた。
「確認したいこと、ですって?」
足をしっかりと踏ん張り、気丈を装って寛子は声のする方にいちいち顔を向けてねめつけた。
声はすれども一向に姿を見せようとはしない何者かは、寛子が見せた強気な態度に臆した様子もみせず、どこかで「ふむ」と小さくうなずき、ゆっくりとした語調で続ける。
「おぬし、智寿子には会ったことがあるようじゃの」
「ええ、会ったわ。何回会ったかしら――、一、……三? 三回は会ってるかもね。回数なんかいちいち覚えちゃいないけど」
「会ってどうしたのじゃ」
「あたしが演じた役どころだもの。それが実体化してるなんて、ちょっと面白いじゃない。あのSAYURIだって、この街で実体化した役どころと会ったりしてたっていうじゃない? あたしだっていずれはSAYURIぐらいな女優になれるもの。だったらあたしだってって思うじゃない」
悪びれた様子も気恥ずかしげにする様子もまるで見せず、寛子はふんと鼻先をならしながら笑う。何者かは再び「ふぅむ」とうなずき、しばし沈黙した。
「わしは”会ってどうした”のかと訊ねたのじゃよ。会った回数は訊いてはおらぬ。自分が演じた役どころが実体化しておった。それに会ってみたくなったから会いにきた。それはようく分かった。で、何を話したのじゃ?」
問われ、寛子はムっとしたように目尻を吊り上げて、どこをともなく睨みつけ、
「別に。初めのうちは何てことのない雑談だったわ。初めはね」
言って、寛子は思い出したように笑みを含んだ。
エントランスのどこかで、何者かがじわりと動いたような気配がした。
「――で、どうだった?」
寛子のマンションの裏口から出てきたところで声をかけられ、ゆきははたりと足を止めた。
「どうもこうも、ただ気になったことをいくつか確かめてみただけじゃよ」
応え、声のした方を振り向く。と、温かなココアの缶が放られて、ゆきは危うくそれを取りこぼしそうになった。
「まさかあんたが仲介屋やってたなんてな、すげえ意外だったぜ」
言いながら低く笑ったのは来栖香介で、香介は自分用に買ったのだろう、缶コーヒーのフタを開けながらゆきを見据えた。
ゆきはむうと押し黙ったまま、けれど香介の視線から目を外そうともせず、手の中の温かな缶を指先で撫でつけながら口をつぐむ。
「オレさ、結構前にモメた奴に”あんまり好き勝手やってると殺されるぞ”って言われてさ。ハァ? って思ったんだけどな、そいつしめあげて詳しく聞いたら、仕置き人ってのがこの街にいるっていうじゃん。殺し屋とか始末屋っつうのはどこにでもいるもんだろうけどさ、この街だろ。おもしれえんだろうなって思って調べてたんだよな」
言い置いて、香介はコーヒーに口をつけた。
「……あまり口外はせぬほうが良いぞ」
「うっかり広めたら”腕利きのナイフ使いの殺し屋”がオレを殺しに来るか?」
「なるほどのう」
間を置かずに返された言にため息を落とし、小さなかぶりを振った。
「いろいろと調べたようじゃの」
「まあな。――ところで、オレ、扇寛子を知ってるんだけどさ。あんた、さっき、扇寛子と話してたよな。ってことはあれが今回の依頼人なんだな」
飲み干した空き缶をぶらぶらと揺らしながら持ち上げて、それをおもむろに宙に放り投げる。続き、香介の手から放たれた一本のナイフが空き缶を追いかけて、次の瞬間にはナイフが突き立った空き缶がそこに出来上がっていた。
空き缶が鈍い音と共にアスファルトに落下、がらりと転がったのを目にした後、香介はちろりとゆきを見据えて口の端を持ち上げ、笑んだ。
「で? 扇寛子の依頼内容、オレも教えてもらってもいいよな」
言ったそれは否を求めてはいない語調だった。
ゆきは意味ありげに笑みを浮かべる香介を仰ぎ、きゅと唇を噛んだ後にゆっくりと大きなため息をひとつ吐き出す。
「……おぬしも後には引けぬようになるぞ。……わしと同じにのう」
★ ★ ★
未だ咲かぬ桜の下、和服の女がぼんやりと座っていた。まるでそこに捨て置かれた大きな人形のように、力なく、崩れ落ちたように幹に身体をもたれかけている。そのガラス玉のような双眸は見るともなく碧空を見つめていた。
ミケランジェロはしばらく遠目に女を見つめ、吸い終えた何本目かのタバコを携帯灰皿の中に押し込むと、面倒くさげにアゴを二、三度軽くかきむしる。
あの依頼時、ミケランジェロもまたあの場に同席していた。正しく言うならば廃墟の外で黒い空を仰ぎ眺め、ぷかぷかと煙を吐き出していたのだ。廃墟の中は一応の禁煙とされている。――今どき、喫煙者はどこに行っても除け者扱いなのだと、どこかで誰かがぼやいていたようにも思う。
ともかくも、依頼人――後に扇寛子という名であると知れたその女が早足に廃墟に入っていくのも、中でヒステリック気味に声を荒げていたのも、ミケランジェロはひとり、我関せずといった風にぼんやり眺め、聞き入っていたのだった。幸いにもなのかどうか、依頼人は廃墟に入る時も出てきた時もミケランジェロに気がついてはいないようだった。余裕はなかったのかもしれないが、それよりもミケランジェロ本人が”悟られぬ”ように気配を消していたということが強いのかもしれない。
やがてシャノンが廃墟を後にし、横目にミケランジェロの顔を捉えたが、特に足を止めるでもなく、刹那の後に闇の中に溶けこんでいった。
続いて出てきたのは寺島で、寺島は足を止めてミケランジェロを睨みつけ、前髪を無造作にかきあげながら表情を歪ませた。
おまえも請けるのかと訊ねてきた寺島に、うなずくかわりに新たなタバコを口にくわえて視線を細める。
俺は興味ねェな。面倒くさげにそう応えたミケランジェロを訝しそうに見据え、しかし寺島はそれきり何を問うわけでもなしに去っていった。
そうして、今。
仲介をかって出たのは年端のいかぬ見目をもった少女だった。何かを思いつめたような表情をかためた少女は、仕事に先駆けた環境を整えるため、依頼人である寛子のもとへ向かっていった。今回の依頼内容は若干の特異性を帯びている。そのまま素直に対象を殺して済む問題ではないかもしれない。おそらくは少女やシャノン、宗主に限らず、たぶん寺島ですらも内心そう思っているのだろう。
仕事は少女が情報を仕入れた後に遂行される。だが、ミケランジェロは皆よりも先んじて対象である智寿子を捜し出したのだ。
好まれない内容の依頼ならば、何も嫌々にそれをこなす必要はない。――智寿子という存在そのものが”消えてしまえば”、すべては難なくおさまる話なはずなのだ。
智寿子は実体化したという事実さえなければ。あるいは、そもそもに智寿子という役柄がなくなってしまえば。――男が智寿子を愛したという事実ですらも、すべてが消えてしまえば。
「それが最良じゃねェかと思うんだよなァ」
独りごち、短くなったタバコを指の端でつまみあげる。
視線の先では人形のように身じろぎすらしない智寿子が、相変わらずぼんやりと空を見上げていた。
「悪ぃな。おまえに消えてほしい人間が、いるんだとよ」
細かな石を踏みしだき、歩む。どこからか漂い流れてきているのは沈丁花の気配か。風が巻きあげていくのはどこまでものどかな春そのものだ。
言って、モップを握りなおす。ミケランジェロと智寿子の距離が近付くにつれて、けれど、ミケランジェロは不意に何か違和感のようなものを覚えて眉をしかめた。
「……こいつァ」
呟き、智寿子の身を取り囲む黒い霧のようなものを見定めて表情を歪める。
霧のようなものは、よく見れば桜の木が落とす影のようにも見えた。それがざわざわとうごめき、智寿子を囲うようにしているのだ。
風が、遠く小さく響く薄い忍び笑いのような声をまきあげてミケランジェロの耳を撫でる。
そうして、気がつくと、智寿子の身体は影の中に飲まれるようにして沈み、ミケランジェロが手を出すよりも早く、その姿はすっかりと消えてなくなってしまったのだった。
◆
「情報を整理しよう」
切り出したのは寺島だった。
夜の帳に包まれた静寂の中、古びたテレビの上に腰をおろして腕を組んでいる。
その場のどこにもゆきの姿は見えない。ゆきは事件に遭いながらも幸いにして命をとりとめた人たちからの情報を得られやしないかと、自分の仕事を務めに向かったのだ。
ミケランジェロは壁に背をあずけて立ち、黙したまま何事かを思案していたようだったが、寺島の声を合図にしたかのように、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「俺が見たのは、さっき話したので全部だぜ」
じつのところ、先んじて目撃した智寿子にまつわる一件は、もう二度も説明している。同じ説明を繰り返すという行為にはしょうじき飽きもするし、無駄な時間を過ごしているようにしか思えずに辟易とするばかりだ。
それでも、ミケランジェロは肩をすぼめつつそう述べて、視線だけを寺島の方に向けて投げる。
「うーん……。”影の中に沈んだ”っていうのは、結局どういうことなのかなあ」
比較的新しめなダンボールの上に腰を落とし、宗主がやんわりとした笑みと共に言った。
「ミケランジェロが見た影っていうのはさ、霧みたいなものだったんだよね? ってことは、少なくとも人間の姿ではなかった」
そうだとうなずいたミケランジェロを見つめ、宗主は小さく唸り声のような呟きを落とす。
宗主の横には香介がいて、横にいる宗主が小さく唸りながら押し黙ってしまったのを横目に見ながら前髪を掻いた。
「外じゃどうか知らねえけど、ここは”銀幕市”だろ。吸血鬼だの鬼だのがわらわら住んでる街じゃねぇか。人の形をしてねえからって、それが人なんかの形を取れねえモンかどうかなんて、信じられねえしな」
「そうなんだよね」
香介の言にうなずいたのは宗主だけに限らず、ミケランジェロもまた同様だった。
「しかし」
シャノンがふつりと声を挟む。
「智寿子が共にいたという大道芸人なんだが。ゆきが集めた情報に頼るならば、被害に遭った連中の他、周囲にいたはずの通行人にいたるまで、その姿をろくに記憶できていないと言うことだが」
「”全身黒ずくめだった”っていう話だけど、証言が曖昧なんじゃ、それも信用には欠けるね」
宗主が肩をすくめた。
シャノンは口許に片手をそえ、しばし眉をひそめていたが、やがて思い出したように目を持ち上げて口を開けた。
「全身黒ずくめ……か。……まるで黒子のようだな」
「黒子か。そういやそんな恰好のムービーキラーもいたって話だな」
ミケランジェロがシャノンの言に続く。
「でもあれはもうとっくに終わった事件だったよな。さすがに関係ないだろ」
「ここは銀幕市、だよ、香介。――しかも最近はいろいろと……重なりすぎてる」
香介が言った言葉に宗主が続けた。宗主の顔にはいつも通りの笑みが浮べられてはいたが、それでもそこにはどこか薄い翳りのようなものが滲んでもいた。あの、春の嵐の日のことを思い出しているのだろう。香介はそう思いながら、しかしそれに気付いていないふりを決め込んだ。
闇が再びしんとした静寂を取り戻す。
風が廃墟の壁をかたかたと小さく鳴らす音が響き、と、その中に小さな足音が混ざりだした。
「信夫……!」
転げるようにドアを押し開けたのはゆきだった。ずっと駆けて来たのか、肩を大きく上下させながら、それでも迷いなく寺島の傍に歩み寄る。
「か、患者たちが病室から消えてしまったのじゃ!」
寺島の着ているコートの袖を引っ掴んで、ゆきはふるふると声を震わせていた。
「……消えた?」
寺島が訝しげにゆきを見下ろす。ゆきは大きく首を縦に振った。
「わしの知り合いもあの場所に居たらしいんじゃよ……! 悠里も、悠里もどこかに消えてしまったのじゃ!」
「――悠里?」
眉をしかめた寺島が呟き、わずかに目を足もとに落とす。
「仕事に私情を挟みこむのは感心されたことではないが。……消えたというのはどういうことだ」
寺島にかわり、シャノンが口を開けた。
ゆきはシャノンを睨みつけるような目をほんの一瞬だけ浮かべてみせたが、けれどもすぐに俯き、唇を噛んだ。そう、確かにその通り。自分はいま、彼ら――仕置きを請け負う者達と依頼人とを繋ぐ仲介役に立っているのだ。これが務めである以上、そこに自らの私情を挟みこむのは断じてしてはならないこと。
腹の底で息を整え、次いで寺島の顔を仰ぎ見た後に、ゆきはふっとシャノンを振り向いて言葉を続ける。
「今朝方にはまだ皆病室にいたらしいのじゃが、夕方にかけて、徐々に消えはじめたらしいんじゃよ」
「事件との関連性は?」
宗主が問う。
「未だ意識を戻しておらなんだ者までもが消えてしもうたらしいのじゃ。ただの偶然とは言い切れんじゃろう」
「なるほど」
うなずいた宗主のよこで、香介が足を組み替えながら片頬を歪めた。
「悠里ってさ、あれだろ。武勇伝な女。オレも知ってるぜ。――そうか、あの女も」
「事件の名残りってやつかな。……智寿子が関わってるんだろうか」
「行ってみるか、義兄さん」
「そうだね」
うなずき、宗主は香介に先んじて立ち上がり、廃墟を後にしていった。
「根拠はなにもないが、……あまりいい予感はしないな」
続けてシャノンがそう落とし、夜の中に消えていった宗主と香介とを追いかけるようにコートをはためかせる。
ミケランジェロは面倒くさげに頭を掻いて、重たげな歩みを進める。常に携帯しているバケツとモップがガチャガチャと音を立てて闇を揺らした。
「……ところでさァ、ちぃっと気になったんだけど」
ふと思い出したように足を止め、肩越しに振り向いたミケランジェロが間延びした語調で告げた。
「なんだっけ。名前は知らねェけど、その俳優だっけ。扇寛子と旅行行ってたとかいう。そいつってさ、ホントは智寿子と付き合ってたんじゃねェの?」
「……なぜじゃ」
「ん〜……いや、思っただけっつうか。もしかするとさ、智寿子のフリをした寛子が、その俳優を外に連れ出したんじゃねェのかなあって」
言って、ゆきの返事を待つともなく、ミケランジェロはそのままのろのろと廃墟を後にして出ていった。
残されたのはテレビの上に腰掛けたままの寺島と、未だ寺島のコートの袖から手を離せずにいるゆきのふたりだけだった。
◆
呼ばれたような気がしたのだ。
いや、たぶん、正しく表現するならば、行かなければならない。そんなように思えたのだ。
あてがわれた病室は二人部屋で、悠里のベッドは窓際に配置されていた。
病室を共にしていたのは気の好い中年女性だったが、術後の経過も良好であったらしく、午前の内に退院していったのだった。
二階の角に位置する病室の傍には見事な桜の木が植えられていて、日当たりの良さが影響してか、気早に咲いた花をいくつか目にすることができた。
暖かな陽射しが降り注ぎ、僅かに開かれた窓からは心地良い風が流れ込んできていた。
あの犯人に切られたのは喉部分で、それはひとつ屋根の下で生活を共にしている魔法使い謹製のマスコットが身代わりになってくれたためか、痕こそ残ってはいるものの、奇跡的に浅いケガで済んだのだった。
本当は、今ごろたぶん無残な死体となって転がっていたのかもしれない。あのとき、あの場所で、特別な仕様の施されたわけでもない包丁に喉を裂かれ。
――ぼんやりとそう考えて、悠里ははたりと目をまばたきさせた。
――憶えてなどいないはずだった。
警察や医者が何度となく事件当時の記憶を訊きに来ても、悠里は彼らを満足させるに足る返答を返すことはできなかった。――記憶していなかったのだ。ただ、ぼんやりとした、ひどくおぼろげなものとしてしか。
「夢を見ていたようだ」
そう返した悠里に、彼らは深々としたため息を吐いていた。彼らが廊下で交わしていた言葉から受けるに、どうやら悠里と同じく命を取りとめた者たちは、そろいも揃って同じような言葉を告げているのだという。つまり、「夢を見ていたようだ」。
けれど、今、悠里の脳裏にはその瞬間の記憶がありありと色をもって蘇っていた。
音楽が鳴っていた。どこか懐かしさを誘う、あれはアコーディオンだっただろうか。それとも違う楽器による音か。
真っ黒な作務衣に似た形の服を身にまとった男が――もっとも、あれが本当に男だったかどうかは判らない。なにしろ顔は頭巾で隠れていたのだ――小さな台を広げ、その上で手品を披露していた。
ゆらゆらと動く三つのグラス。中に隠されるのはゆで卵、ビー玉、そういった小さなもの。
黒ずくめの男を中心に、いつの間にか人の輪ができあがっていた。悠里もその中にいて、列の比較的前のほうで彼の奇術を見ていた。気持ちはとても高揚していた。
と、男が指を鳴らした瞬間、グラスも台も弾けて消えて、入れ替わり、和装の女が姿を見せた。まるで放り投げたハットの中からウサギやハトが飛び出てくるかのように。
和装の女はとても美しく、けれどもその女の目を見た瞬間に、悠里ははじめて背筋が粟立つのを覚えたのだ。
何をも映さぬ空虚の闇。穿った穴がふたつ、整った顔の中にぽっかりと開いているような、そんな感覚。
背筋が凍りつき、悠里は思わず数歩を後ずさった。そのときだった、踊るような足取りで女が包丁を振り回したのは。
音楽が鳴っていた。そんな中でも、懐かしげな音を響かせていた。
血、血、血、絶叫。
気がつけば悠里のすぐ目の前にいた女が包丁を高々と振り上げていた。血糊でぎらついた包丁が、春の、のんびりと広がる青空の下で、なんだか嘘のようだった。
間近に見れば、女は生気をもたぬ人形のようにも思えた。人の形をもった大きな人形のようだと、薄らいでいく頭の隅で思ったのだった。
そこまでを思い出したとき、悠里は不意に窓の向こうに何者かの気配を感じた。
覗き見てみれば、桜の木の下に和装の女が立っていた。空虚なふたつの眼孔で悠里を見上げ、そうしてゆっくりと手招きし始めたのだ。
あの音が流れていた。どこからか、風にのって悠里の耳を撫でていた。
背筋が粟立つ。――行ってはダメだと、どこかで何かが騒ぐ。けれども、
悠里はベッドから立ち上がり、のろのろと着替えを始め、最後に首の疵を覆うために大きめのスカーフを巻きつけた。
◆
夜を迎えれば大概の街ならばひっそりとした静けさを得、ゆっくりと夢の底につく準備を調え始める。それは銀幕市においても例外ではない。他の都市部に比べ”特殊な”事情を抱えた街ではあっても、人や命の住まう場所であることには違いない。が、ここしばらく、銀幕市に住む人間たちが他の街に引っ越すといったことが続いている。引越し屋は常に大盛況、車道は大小を問わずに大きなトラックが行き交っていた。
多くの住人たちが他のまちに引っ越していった影響も強くあるのだろう。夜は一層の静けさの中に沈んでいた。
春を迎えたとはいえ、夜風はまだひやりとしている。天にあるのは白々とした月のみで、星のまたたきは視覚に捉えることは難しいようだ。
「義兄さんが関わってたな。考えもしなかった」
言いながら、香介は隣でタバコを吸う宗主の横顔に目を向ける。
宗主はやわらかく微笑み「そうか?」と応えて目を細ませた。
「俺も、まさか香介も関わってくるなんて思いもしなかったよ」
「や、別にあいつらの仲間? になる気とか全然ねェし、オレ」
「ふぅん」
「ってか、義兄さんはあいつらの仲間? とかやってるわけ?」
「仲間――っていう言い方はしっくり来ないかもしれないね。見ての通り、集団で行動するものでもないし」
言って、闇の中に煙を一筋吐き出す。タバコの火がちかちかと小さく明滅している。
「まあ、連中に関してはどうでもいいんだけどさ。結構使えるナイフ使いがいるって話に聞いたんだ、それでちょろっと調べてみただけのことでさ」
香介はからからと喉を鳴らして笑った。
「まさか寺島がそうだとは思わなかったけど。――そういや、幽霊屋敷ん時にあったもんな、いろいろ」
思い出して愉しんでいるのだろうか。香介の顔は、今から仕置きに……他者を殺めるかもしれない場面に向かう者のものとは思えないような表情で満面に満たされていた。
宗主は義弟に視線を向けて頬をゆるめ、うなずく。
「楽しそうだね、香介」
「まあな。そういう義兄さんこそ、表情ユルいぜ」
「……そうかな? ああ、着いたみたいだね」
言いながら、ふたりは前を歩いていたミケランジェロに目を向ける。
ミケランジェロは智寿子が消えた場所――すなわち、智寿子が飲み込まれるように影に沈んでいった桜の木立ちの下で足を止め、まるで生気の感じられなかった智寿子がそうしていたように、ぼんやりと、夜の広がる空を仰ぎ見ていた。
「ここか」
シャノンが呟き、ミケランジェロの傍で足を止めた。ミケランジェロはシャノンに応えを返すでもなく、あるいはその存在を特に気にするでもなく、真っ暗な空を見上げて頬を掻く。
シャノンもまたそれを気にするふうでもなく、桜の木の根元で膝を屈め、柳眉をかすかにくもらせて指を伸べる。
そこには”闇”の残滓が残されていた。けれど、それは故意に残されたものであるような気もする。
ようやく膨らみをつけはじめた桜のつぼみを仰ぎ、指を伸べて、宗主はふと首をかしげた。
「桜の木の下には死体があるだとか、鬼が住むだとか言うね。――智寿子さんはここで何を見ていたのかな」
「あんがい、何も見てなかったのかもしれねえけどな」
香介が笑う。
と、桜の木の根元を探っていたシャノンが表情をわずかに変じさせ、おもむろにその場を掘り出した。それを脇で見ていたミケランジェロは一瞬訝しげな顔を浮かべ、しかしすぐ後にモップの柄を構えてシャノンに続きその場を掘り出したのだった。
不審に思った香介が彼らの後ろから顔を覗かせる。そうして振り向いて宗主を呼び、出てきたものを指差して口を開けた。
「死体だったぜ」
◆
身体がゆっくりと浮上する感覚を得て、悠里はゆっくりと目を開けた。
視界が映したものはゆらゆらと揺れる水面で、その向こうに歪んだ月があるのが見えた。夜なのだと、ぼんやりする頭のどこかで考える。
「大丈夫か!?」
水面の向こうで声がして、悠里は開きかけていた目を瞬間的に大きくまばたきさせた。と、同時に身体が勢いよく引っぱられ、喉がむせて、悠里は思わず大きく咳こんだ。
「てめっ、悠里! おまえなんでこんなとこに埋まってんだよ!」
怒気をこめた声でそう言い放ったのは香介だった。悠里は咳こんだ勢いで涙目になった目を持ち上げて香介の姿を検める。
「……くるたん」
「くるたんじゃねえよ、てめッ、死ぬとこだったんだぞ!?」
言われ、悠里はようやく初めて気がついた。――自分の身体が泥にまみれていたことに。
「あれ……? ……あたし」
服のあちこちにこびりついている泥を払い落としながら首をかしげ、悠里は小さな声で呟いた。
「あたし、なんでこんなとこにいたんだろ」
「覚えてねえのか?」
香介に問われ、悠里は一拍置いた後にうなずく。うなずいた悠里の顔がぼんやりとしたままなのに気付き、香介はわずかに眉をしかめ、宗主はそっと目を細ませた。
「……なにを?」
返しながら何気なく指先で首に触れる。そこにはスカーフが巻きつけられたままになっていて、それを確かめた悠里は安堵の息を落とし――そうして次の瞬間、表情を一変させた。
首筋に残された疵。指を這わせればスカーフの下、それが確かに目立つものであることがありありと知れる。悠里は急いでスカーフを強く結びなおし、両腕で自分を抱えるような恰好をとった。
「なにを、って、おまえな」
「他の連中はもうダメだな」
間延びした語調で口を挟みいれたミケランジェロがモップの柄で地面を叩く。やれやれといった風に首をひねり、目線だけを移してシャノンを見た。
シャノンはすうと伸びた眦を苦々しげに細め、「そうだな」一言だけ低く落とす。
桜の木の下には数人の人間が埋まっていた。土を掘り返したような跡は見当たらず、けれども辺り一帯がひどくぬかるんでいた。そこここが掘り返され、その中からいくつかの腕が生えていた。どれもが遠い空を掴もうとでもしているかのようにまっすぐに突き立ち、まるで新しく伸び始めた桜の幹のようだ。
悠里が小さく短い悲鳴をあげて口を押さえる。
土中に埋まったままの死体はどれもがぽっかりと目口を開き、何かを見ているような、何かを言いたげな風だ。ミケランジェロが表情ひとつ崩すことなくアゴを掻く。
「あの女と同じ表情だな」
「あの女? 智寿子さんかい?」
宗主が訊ね、ミケランジェロはやんわりとうなずく。
「あの女もこんな顔してやがったぜ。ありゃあ生きた人間って感じでもなかったよなァ。むしろ死体だったって言われたほうが、まだしっくりくる」
「……死体」
呟く宗主の隣、悠里が数歩よろめき、背にあった桜の幹にぶつかった。桜の木がざわりと震える。風が吹き、悠里の首に巻いてあったスカーフをするすると流していった。
「悠里、おまえ、その疵」
香介が口を開くのと同時に、悠里が再び小さな悲鳴をあげる。
悠里の身体は桜の木に縛り付けられていた。闇の中から伸びた二本の細い腕によって囚われていたのだ。
腕はいっそ白々として見えるほどに青ざめ、ひとつは悠里の腹を、ひとつは悠里の首に触れている。まるで愛しむように優しく撫でまわし、踊るように闇を照らしていた。
「――智寿子!」
シャノンが叫び、香介がコートの内側から抜き出したスローイングナイフを構える。が、智寿子の腕は動じる様子を微塵も見せずに悠然と踊る。
風が吹き、どこからかアコーディオンのものに似た音が響き始めた。それはざわざわと桜を揺らし、それを耳にした悠里の顔からはそれまで浮かべていた恐怖の表情が失せ、呆然とした顔でかくりと首を伸ばす。その目が意識を手放したもののそれであるのを、宗主は遠目にもありありと知った。
智寿子の腕はしばらくの間闇を舞う蛾のような動きを見せていたが、ほどなくひとつが闇の中に消え、すぐにまた現れたそれは閃く包丁を手にしていた。
悠里の後ろから姿を現したのは和服を身につけた女で、能面のように動かぬ顔をもっていた。その目は何をも映してはいない。
すかさず、香介が放ったナイフが宙を割いて智寿子の額に突き立つ。だが智寿子は表情にわずかな揺らぎすら浮べず、構えた包丁を悠里の喉に向けた。
間を置かず、シャノンが駿足をもって地を蹴り上げ、次の時には智寿子の真横に立ち、女のこめかみと後頭部に銃を突きつけた。間近に見る智寿子の額には深々とナイフが刺さったままになっている。が、智寿子はやはりそれをまるで気に留めてはいないようだった。
シャノンはわずかに眉をしかめ、迷いなく引鉄に指をかける。闇を裂く音が二発続き、二筋の煙が風に散った。続き、包丁を持つ手と喉にそれぞれナイフが突き立って、智寿子の手から包丁が滑り落ちて地に刺さる。
悠里は智寿子の手から解放されたが、相変わらず音は響いたままだ。悠里の意識は戻っていないようだった。ただ真っ暗な空を掴もうとしているかのように、まっすぐ、腕を空に向けて伸べている。
「悠里、悠里!」
駆けてきたのはゆきだった。ゆきはシャノンの腕の中に崩れ落ちた悠里の傍に駆け寄って、悠里の首に深い疵跡があるのを目にし、悲痛そうに表情を歪める。
「悠里は無事なのかの!?」
「――ああ」
シャノンが応える。ゆきはシャノンのすがりつくような顔を浮かべシャノンを見ていたが、やがて安堵したように表情を緩め、悠里の腕を掴んで目尻にじわりと涙を浮かべる。
「ゆき、おまえにはこの仕事は向いていない」
「分かっておる。分かっておるんじゃよ、そんなこと……」
「――寺島か」
言って、シャノンはちらりと視線を持ち上げた。視線の向こう、皆から離れた位置で寺島がひとり立っている。その顔は険しい表情を浮かべ、ゆきたちがいる方とは異なる方角に向けられていた。
「意味があるのか、知りたいんじゃよ。理由が何であれ、誰かを殺すのは罪なんじゃ。それなのに、依頼を請けて殺しをするなぞ……どうしてなんじゃ」
呟き、悠里の腕を強く握る。
その時だ。
シャノンが弾かれたように立ち上がり、ゆきと悠里を庇う姿勢をとって銃を構えた。
香介もまたシャノンと同様、ナイフを構え、倒れた智寿子を見下ろし、愉しげに口許を緩める。
智寿子は顔に銃創を受けており、その他、数箇所にナイフを受けていた。とてもではないが、もはや生きてはいられないはずなのだ、――常ならば。
だが、
「こいつ、面白ぇ」
ぐらつきながらも起き上がった智寿子を見て、香介が笑みをもらした。シャノンは黙したままで再び銃を構え持つ。
と、ミケランジェロが不意に視線を智寿子から外して上部――桜の木の枝を仰ぎ見た。
「あァ、やっぱその女ァ死んでんだな。――あいつが操ってんだよ、たぶん」
のんきな語調でそう告げる。あまり関心のなさそうな目で見上げているミケランジェロの視線につられて上部に目を移したゆきが目にしたのは、不可視の糸がそこにあるかのように指先を動かす、闇黒色の男の姿だった。
男は頭の先から爪先までを黒で覆い、唯一、口許だけがぼんやりと覗けるような風体をしていた。ゆきの視線に気がついたのか、その口許がニイと笑みの形を作る。そうしながら、男は片手をちらりと動かした。
「ゆきちゃん……っ」
悠里の声がして、ゆきははたりと視線を戻す。と同時に強い力で押しのけられ、勢いあまってゆきはそのまま後ろに転げてしまった。
「し、信夫!」
目にしたのは包丁を振るい上げている智寿子と、その包丁で裂かれたのか、片腕に大きな疵を受けた寺島の姿だった。
「この女は俺がどうにかする」
「――分かった」
寺島との短いやり取りを交わした後、シャノンは迷いなく再び地を蹴って、次の瞬間にはもう枝の上に飛び乗っていた。
「義兄さん、誰か来るぜ」
シャノンに続き地を蹴り上げた香介が、眼下にいる宗主に向けて告げる。宗主は小さくうなずいて、香介が示した方に足を向けた。
◆
「で、おまえ誰?」
黒ずくめの男からいくぶん距離をとった枝に腰を落としながら訊ねた香介に、黒ずくめの男はわずかに首をかしげたように見えた。
「ま、誰でもいいんだけどな」
そう続け、香介は小さく喉を鳴らす。実際、男がどんな存在であろうと、それがどうなるというものでもない。善人と称される存在ではないことだけは確かなのだ。香介の頭のどこかが告げている。『殺るべきなのはこの男のほうだ』。
そして、シャノンもまた香介と同様のことを思っていたらしい。こちらは何事かを問うわけでもなく、おもむろに銃を構え持ち、冷ややかな眼差しと共に男に向けて引鉄を引いた。
放たれた弾は確かに男の眉間を捉えていたはずだが、しかし男はほんの一瞬頭をぐらりと揺らめかせただけで、何ら影響すら受けてはいないようだった。
「はて、随分と手荒なことをなさる」
男の声が低い笑い声を含みながら唄うように告げた。その声が誰かのものに似ているような気がして、シャノンはふと目を眇める。――誰なのかは思い出せなかった。
「智寿子っておまえが操ってんの?」
取り出したナイフの先端を指先でつつきながら香介が訊ねる。男は繰るようにしていた手を止めて「ふぅむ」と小さく首をひねった。
「これはなかなか勝手のいい娘でやんしたんですがねぇ」
残念そうなため息をこぼし、男は口許に歪んだ笑みを浮かべる。
「娘?」
眉をしかめ、シャノンが問う。だが男は薄く歪んだ笑みを浮かべるばかりで、うなずくことも、応えることもしない。
「なんでもいいけどな。智寿子を相手するよりもあんたと遊んだほうが面白そうだし」
言って、香介は構えたナイフを数本続けて放つ。シャノンが撃った銃痕を目掛けて放たれたそれはまっすぐに狙った箇所を射抜いたが、黒ずくめの男は乾いた笑いを喉の奥でひくつかせるばかりだ。
「さぁて、幕引きといたしやしょうか」
男はそう残して、不可視の繰り糸を手放すような所作を見せた。ただぽぅんと捨て去るような、感慨のかけらすら感じられないような所作だった。
「はぁ? 幕引き?」
香介が再びナイフを構え、シャノンは言なく引鉄を引く。
「引き際は肝心ってね。言いやすでしょう」
言い残し、男は闇夜に溶け込むようにして姿を消した。風に紛れて流れていた音色も同時にたち消え、ただ枝を揺らすかわいた音ばかりが残されたのだ。
智寿子は踊るような動きで包丁をふるい続けていたが、途中、突然にがくりと力を失せたように動きを止めた。
ミケランジェロは気だるげにモップをもって応じていたが、途中、聞き覚えのある声が頭上から降ってきたような気がして、はたりと手を止めて視線を上部に移していた。
頭上ではシャノンと香介とが黒ずくめの男と相対している。夜目に馴染んだ視界が捉えた男の顔、かろうじて覗くことのできる口許を目にしてミケランジェロはわずかに首をかしげた。
――あれは、
ふと頭をよぎった知己の顔に気をとられた瞬間、振りかざされた智寿子の腕がぐらりとかしぎ、そのひょうしによろめいた智寿子の身体がモップの柄に寄り掛かるように倒れこむ。
「……ああ……」
よろめき倒れた智寿子が初めて声を発したのに気がついて、ミケランジェロは上に向けていた視線を再び落として智寿子の顔を見据えた。頭をよぎった知己の顔は、それと同時に頭の中から失せていた。
「……わたくしを……死なせてくださいませ」
智寿子は血脂を吸った包丁を、先ほどまでとはうってかわり、小刻みに震える手で握り締めている。虚ろなばかりだった双眸にはおぼろげながら光が宿り、その光は今、眼前に立つミケランジェロと寺島とを見ていた。
「死なせて……死なせてくださいませ」
「――あんた」
ミケランジェロが口を開きかけた、その時。
「そうよ、さっさと殺して!」
ヒステリックな声が闇の静寂を裂いた。
◆
実際、あまり好みなタイプではなかった。
扇寛子は世間が知るよりももっとずっと派手な男性遍歴を重ねていたし、見目に派手めな男のほうが好みのタイプだったのだ。連れて歩くと自慢できるような、そんな相手を恋人にもつのをある種のステータスと思っていた。
けれど、その映画を撮影するにあたり、共演相手である俳優と接するたびに、寛子の心にほのかな変化が生じはじめたのだった。
◆
「あんたさあ」
黒ずくめの男がすっかり消えてしまったのを検めて、香介は枝に腰を落とし、眼下にいる寛子を見やりながら頬を歪めた。
寛子はヒステリックに「そいつを殺して」と口にするばかり。
「あんた、自分と同じ顔が殺人者になったわけだよな。それで今あんたえらい目に遭ってんだろ? マスコミ連中、ずっとあんたのマンション前でたむろってるもんな」
「――そうよ、全部、全部こいつのせいよ!」
「でも、あんた、それで迷惑こうむってるとかいう前に、男について語ってたよな」
低くせせら笑う香介を睨みあげ、寛子はかたく唇を噛む。
「――それが、なに」
「いや、イイ性格してんなあーって思ってな」
続け、香介はくつくつと喉を震わせた。
香介に示された方角で寛子を見つけた宗主は、香介を軽くたしなめながらも小さなため息まじりに寛子を見やる。
「もう少し、突っ込んだ部分を聞かせてもらってもいいかな」
言いながらちらりと智寿子を確かめた。
智寿子は包丁をとりこぼし、頭を抱え、今は消え入りそうな声で、それでも何かにすがるような口ぶりで「死なせてくれ」と懇願し続けていた。
「見た感じ、智寿子さんは自分がしたことをきちんと理解できているみたいだし。――俺は智寿子さんの話も、寛子さんの話も、両方をきちんと聞きたいと思うんだよ」
穏やかにそう告げた宗主を、寺島はため息をまじえながら横目に見ている。寺島の声なき言葉を代弁するかのように香介が口を開けた。
「義兄さんは甘いよな」
「――いや、俺も聞きたいな」
しばらくの間、黒ずくめの男が失せた辺りをねめつけていたシャノンもまた同じようにそう告げて、再び軽く跳ねるようにして地に降り立った。
「やはり釈然としないままではしこりが残るかもしれないからな」
「言ったでしょう? 邪魔なのよ、そいつが」
シャノンの言に間を置かず、寛子は毅然とした語調で口を開く。
「そいつのせいであたしはホントに迷惑してるのよ。そいつのせいで、……そいつのっ!」
言った寛子の声がわずかに震えたような気もしたが、けれど寛子は泣いてはいなかった。ただ拳をきつく握り、まるで己を叱咤するかのように唇を噛んでいる。
智寿子は呪文のようにただひとつの願いを繰り返すばかりで、寛子のことも、それどころか周りにいる人間たちのことも、まるで意に介していなかった。
ゆきは寺島の怪我を心配げに見つめたり、うずくまったままの智寿子を見たり、あるいは寛子の顔に目をやったりしていたが、やがてふと首をかしげて静かに訊ねた。
「”邪魔”じゃと……そう言うんじゃな。――迷惑しておるのはよく分かる。智寿子がやった罪科は深い。それがおぬしにまで及んでいたとして、それはごく当たり前のことじゃろうからの」
「智寿子がいては困るとでも言いたげだな」
シャノンが続ける。智寿子には害悪のかけらすら感じられなくなったのか、構えていた銃をホルダーの中にしまいこんだ。
「当の智寿子はこんなだがなァ」
ミケランジェロが面倒くさげにアゴを掻く。
「っつうかさ、あんた、なんちゃらって名前だったっけか。どうでもいいけど、――もしかして、男を智寿子にとられたくない、とか、そんな理由だったりすんのか?」
訊ねたミケランジェロの言葉に、寛子がひたりと動きを止めてミケランジェロの顔を仰いだ。そこにはさっきまでの毅然とした強硬な表情などなく、泣き出しそうな、恥じ入っていそうな表情があった。
「――だって、あのひと、智寿子をやっていたあたしが好きだって言うんだもの。……あたしは女優だもの、……智寿子を演じ続けることなんて、なんてこと……ないわ」
今度は確かに震えていた。うつむき、顔を隠すようにして、寛子は小さく肩を震わせる。
「なのに、……智寿子に会いに行ったんだって。……そう言ったのよ」
落とした寛子の言に、呪文のように願いを繰り返していた智寿子が動きを止め、そうしてゆっくりと顔を持ち上げた。
◆
彼の好みの女になろうと思った。智寿子のような女が好きならば、それを演じ続けていくのもいいだろうと、ある種の覚悟をすら決めていた。
けれど、ある時銀幕市という街に足を運んだ彼は、そこで智寿子本人との邂逅を得たのだと、嬉々として寛子に話したのだ。智寿子がどれほどに自分の理想であったか、智寿子とどのような言葉を交わし、どのように楽しいときを過ごしてきたのかを。
◆
「寛子さん、あぶない!」
悠里の声がして、寛子はうつむいていた顔を持ち上げ、そこに、包丁を振りかざした智寿子の姿があるのを見た。
それからはすべてがスローだった。フィルムをゆっくりと廻してみているような感覚だった。
智寿子がなにかを叫びながら包丁を振り回し、それをとどめようとしている悠里と、その悠里を智寿子から引き離そうとしているゆきとが見えた。
が、無声であったフィルムが突如銃声によって引き裂かれ、智寿子は後ろに大きく揺らぎ倒れていった。それを追うようにして香介が短剣をかざし、そうして迷いなく智寿子の喉にそれを振り下ろしたのが見えた。
「あ、ああああ、あああああああ……!」
気がつけば寛子はわけのわからない叫びを口にして、両手で頭を抱え込み、そうしてその場にうずくまって顔を伏せていた。
やがてかわいた音をたてて一巻きのフィルムが地に転がった後も、寛子はそれを見ることが出来ず、ただ視線を伏せていた。
「”あのひともわたしも死ねばいい”だそうです。――たぶん、あの映画の終盤での感情をそのまま強くもって実体化したのかもしれませんね」
目の前の現実に目を向けようとしない寛子の傍で、宗主がやわらかな声でそう告げる。
「”智寿子”はもういなくなりましたよ、寛子さん。――良かったですね」
ささやくように告げた宗主の言葉に、寛子は真っ暗な空を仰ぎ、声にならない叫びをあげて喉を震わせた。
◆
――ところで、
最後に気を失ってしまった寛子をマンションに送っていった宗主と香介を見送った後、ミケランジェロは廃車置き場の中の廃墟に戻り、タバコの煙を吐き出しながら思い出していた。
――あの時、頭上から降ってきたあの声。
あれには確かに聞き覚えがあった。むろん、仕事柄、結構な人数との面識を得ているミケランジェロはいろいろな顔を見、いろいろな声を聞いている。その内のどれかだという可能性も否めない。
だが、違う。あれは確かに覚えのある声だった。――おそらくは、知己のもの。
「貴様も考えているのか」
不意に闇の中から現れたシャノンが口を開けた。ミケランジェロは目を動かすことも面倒だと言わんばかりに顔をしかめ、紫煙を一筋ぽっかりと吐き出す。
「まァな。あの声は、確かに誰かの声に似てた。ただそれが誰なのかが思いだせねェ。――考えすぎて面倒になってきたぜ」
「俺も同じだ。……しかし、欲をいえば、あの大道芸人も捕まえておきたかったところだな」
「逃げちまったもんはしょうがねェよ。――どうせ次にもなんかやらかすんだろ、ああいう手合いは」
面倒くせェ。そう続けてぼやいたミケランジェロに、シャノンは小さくうなずき、空を仰いだ。
寛子のマンション前には相変わらずマスコミが群れをなしていて、宗主が運転するアウディもなかなか進むことが出来なかった。
車の中で意識を取り戻した寛子は、それからずっとぼうやりとしたまま外を見つめ、何を言うでもなく、ただ静かに何かを深く考えこんでいたようだった。
「あたし、ここを出るわ」
どうにかマンション内に立ち戻ることが出来た寛子は、ようやく重たげに口を開き、宗主と香介とを順に見つめた。その顔はどこか晴れやかで、何かを吹っ切ったような面持ちが滲みでていた。
「彼とも別れる。――もっとも、付き合ってる気持ちでいたのはあたしだけかもしれないけど」
言って低く笑った寛子に、宗主は穏やかに頬を緩めて首をかしげた。
「これからどうするつもりなんです?」
「どうもこうもしないわ。あたしは女優だもの。これからもいろんな役を演じて、いろんな仮面をつけていかなくちゃね」
強気に笑う寛子はもう迷いなどどこにも感じられなくなっていた。
「……イイ性格してんなあ」
香介が喉を鳴らす。宗主がそれをつついて戒める。
「そうでなくちゃやっていけないわ」
言い置いて、寛子はそのまま振り向くこともせずに自室へと歩き去っていった。
「悠里、その疵は残るのかの?」
悠里が首に巻いているスカーフの下にひどい傷痕があるのを知ったゆきは、はらはらとしながら悠里を見上げた。
悠里は少し困ったように笑い、スカーフを巻きなおしながら首をかしげる。
「でもほら、こうやってるとちょっとオシャレっぽいでしょ?」
「――無茶はしちゃならんのじゃよ」
「うん、わかってる。ありがとう、ゆきちゃん」
応え、悠里はふわりと微笑む。ゆきが心配そうに自分を見上げているのが辛かった。
「ねえ、ゆきちゃん」
「なんじゃ」
「どんな理由があったって、誰かを殺していいわけなんかないよね」
悠里の目はまっすぐにゆきを捉えている。逸らすわけにもいかず、ゆきはただひっそりと押し黙った。
「どんな理由があったって、死んでいいひとなんかいるわけないんだよ」
「……わしも、そう思う」
「うん」
うなずき、悠里は空を仰ぎ見る。
「まだまだ暗いね」
「……そうじゃの」
ゆきもまた同じように空を見た。
光のない、墨を撒いたような闇黒の空がそこに広がっていた。
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クリエイターコメント | お届けが遅れましたこと、初めにお詫びいたします。 毎回本当にすみません。
このたびは仕置き人第2弾目へのご参加、まことにありがとうございました。 初めに書きましたとおり、前作とはずいぶんと毛色の違うノベルとなったかと思います。仕置きらしい仕置きにならなかったようにも思われるかもしれませんが、わたし的にはこういうのもアリかなと思いながら書かせていただきました。なにも、流血ばかりが仕置きになるわけではないだろうと思いますし。
また、今ノベルにはちょっとした伏線めいたものを散りばめてみたりもしました。分かりやすすぎてめまいがする伏線かもしれませんが、そこはそれとして。
それでは、少しでもお楽しみいただけていれば幸いに思います。 またご縁をいただけますよう、祈りつつ。 |
公開日時 | 2008-04-22(火) 19:40 |
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