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<ノベル>
**招待状**
親愛なるウィリアム・ロウ様
悪夢に踊る銀幕市へ、よかったら一度来てみるといい。
君はそこで一体何を見るのだろう。
◆銀幕の邂逅
吸い込まれそうなほどに青く透明に晴れ渡った空は、はたしてホンモノなのだろうか。
ソレが銀幕市に足を踏み入れて、ウィリアム・ロウが真っ先に抱いた感想だった。
50代も半ばを過ぎて訪れたこの場所は、夢の呪いに踊る街、銀幕市。
映画のセットにしてはあまりにも精緻に過ぎる館や城や施設が唐突に顔を出し、メイクというにはあまりにもリアルに過ぎる異界人が歩く聖林通り。
クセの強い黒の巻き毛をくしゃりと掻き撫で、溜息をひとつ落として、遅咲きの名優はゆったりと歩きはじめる。
撮影中の映画が製作中止になった。
金銭トラブルを中心に、こういうことはままあることだ。
資金の関係で大幅に変更したあげく究極の駄作を作り上げることもあれば、それを乗り越えて名作が生まれることもあり、当然すべてが頓挫するということもある。
ウィリアムは後者のカードを引いただけだ。
なにも初めての経験ではない。
頓挫してしまった方がましだと言えるような駄作にだって関わったくらいだ。
だから別段落ち込んでいるわけではない。
そして急にできてしまったこの暇を、ウィリアムは『バカンス』ではなく『浪費』にあてることにした。
銀幕市。
数多の事件で踊る街。
自分がここを訪れたのは、一通の不可解な招待状による。
――親愛なるウィリアム・ロウ様
そんな出だしで綴られた招待状、差出人の名は《ヘンリー・ローズウッド》となっていた。
30年も昔、親友とともに自らが演じた男から届いたものだ。
忘れたわけではない、忘れたことはない、あらゆる意味で忘れられない撮影現場であり、映画だった。
回想することはたやすい。
けれど、回想する価値があるシーンは少ない。
ウィリアム・ロウは、だから複雑な思いとともに、ゆっくりと銀幕広場に向けて、無国籍で無頓着な世界観が入り乱れる通りを歩き――
「やあ、これは驚いた。まさかこの街で僕があんたに会うなんて」
唐突に声が落ちてきた。
声と同時に、影も目の前に降りてきた。
「ああ、もしかしてムービースターだったりするのかな?」
スイッと滑るように近づいて来る、自分を覗きこんでくる、《30年前の親友》がそこにいる。
ヘンリー・ローズウッドがそこにいる。
ヘンリー・ローズウッドとして、スクリーンの外側に立っている。
30年後の親友はもうこの地上のどこにもいないというのに。
「……そもそも……呼んだのはそちらだろう?」
目を細め、ことさら感情を抑えて言葉を返した。
「驚いた顔くらい見せてくれてもいいのに。冷静だね、つまらないな」
「招待状、どういうルートを使ったのかは分からないけど、僕の自宅に届いたんだからな」
「ああ、そう言えばそんなことをした気がする」
この男は本当に忘却してしまっているのか。
あるいはただごまかしているだけなのか。
「君に会ったら言おうと決めていた台詞がある」
「あれ、なにかな?」
「僕の親友と同じ顔でおかしな真似をしないでもらえないか?」
不快さを滲ませて、正面から相手を見据え、告げる。
「あいにく僕は君の親友じゃないし、なにより僕は強盗紳士だ、そういう役柄を振られたそういう存在じゃないか」
だが、相手は肩を竦めて笑うばかりだ。
「もちろん僕の顔でも、だ」
「残念、それも僕に与えられた役柄だ。でも安心するといいよ、《その顔の僕》は探偵でしかない」
なんなら証拠を見せようか。
そう続く彼の言葉に、ウィリアムはほんのわずか、眉をひそめた。
「そうだ、せっかくあんたはここに来たんだ、だから少し僕と話をするといい」
にっこりと彼は笑った。
人懐こい、ともすればあどけなささえ感じさせるような無垢な笑顔だ。
親友の完璧な演技が、実体を伴ってそこにある。
「失われた物語の話をしよう。僕は僕なりにカケラを集めてはいるんだけどね、そうだよ、実際にあの場にいた人間の話が聞けるというのは滅多にないチャンスだ。語ってくれないかな、ねえ、親愛なるウィリアム・ロウならばこの誘いに乗ってくれると僕は信じてるんだけど?」
彼は、流れるように話す。
「別に、語ることなんかなにもない」
「つれないね。そんなに素気無くしなくたっていいんじゃないかな、ねぇ、ウィリアム・ロウ? 知りたいんだよ。どうして僕はこんなにも薄っぺらいんだろう?」
悪意だ。
彼は無邪気なふりをしながら、絶望に裏打ちされ、朽ちる寸前まで熟れた悪意を孕んでいる。
かつて、あの脚本家が望んだとおりの《存在》がそこにある。
その理由をウィリアムは考える。
考えながら、それでもソレを表に出さず、肩を竦める。
「問いへの答えは簡単だ。金も時間もなかった。ただ運が悪かった。良くある話だ。本当に掃いて捨てるほどたくさんある、くだらない話のひとつでしかない」
「それでも、君は語るべきだ。そう、この僕に語ることこそ、君に与えられた義務なんだからね」
パチン、と指が鳴らされた。
白手袋に包まれた《ヘンリー・ローズウッド》の右の指が、ウィリアムの目の前で音をはじいて。
気づけば、見知らぬカフェの一角に腰掛けている。
紅茶の香り、客たちのざわめき、あつらえたセットのように、自分はそこに腰掛けている。
一体なんの魔法かと思ったが、この街はそういうことが当たり前に起こるのだと聞いている。
不自然で捩れた不可思議な場所だというのなら、自分もそこに相応しい振る舞いをすべきなのかもしれない。
「さあ、話を」
親友と同じ顔で、彼はせがむ。
彼は望む。
あの日、あの時、キャストの顔合わせの日、プロフィール上、自分よりどうやら5つほど年上らしい《彼》は、よろしくと言って笑った。
彼に対峙したあらゆる者たちを魅了する、人懐こい、明るく華やいだ笑顔に、一瞬戸惑いを覚えなかったと言えば嘘になる。
あの笑顔と似て非なるモノを前にして、ウィリアム・ロウは諦観と倦怠の混じる溜息をひとつついた。
「そこまで言うなら、いいだろう」
足を組み直し、注文を聞きにきた店員にアッサムを頼み、そしてゆっくりと記憶を過去に巻き戻す。
すべての記憶が、遠い昔に、映画の中ではなく映画の外で紡がれた物語に向かって遡っていく。
『タイトルは《ミスト・ナイト・ルール》――いわゆる探偵映画だ』
彼と初めて会ったあの日、初のタッグを組むという監督と脚本家のコンビによってタイトルが告げられた。
それから一体どれだけの期間が無為に過ぎたのか。
思えばはじめから、この映画の行く末を暗示させるものはいくつもあったはずなのだ。
未完成の脚本。
夢と美学にこだわり求める脚本家と、現実的な儲けと生計を考える監督。
チグハグで不協和音を奏でるような撮影クルー。
自分は一体何者なのか、何者となり得るのか、着地点はどこに用意されているのか、いまだ不確定のキャスト達。
慣れ合いと対立が最悪なバランスで組みあげられていた場所で、それでも高い理想は掲げられていたような気がする。
◇過去の断片
アンティークな石畳が19世紀のロンドンの町並みを思わせる。
霧が立ち込める白い闇の世界で、夜、世界はもうひとつの顔を見せるのだ。
たとえばここ、貴族の館然とした豪邸の書斎でも、物語は紡がれる。
ワインレッドの絨毯上に設えられたアンティークのテーブルセットは、シャンデリアの光のもと、木目をいかした独特の風合いで高貴な彩を放つ。
安楽椅子に腰掛けて、黒い巻き毛の探偵はちらりと視線を投げかける。自身の前に佇む存在、開け放たれたテラスを縁取るその鉄柵に腰掛けている者へと。
『スマートな仕事をするつもりはないのか?』
シルクハットにスーツをまとい、ステッキを手にした影は笑う。
『あいにく僕は強盗であって怪盗ではないからね。そういう演出には興味がない』
『なぜ、そうも頑なに拒絶するんだ?』
『あんたに語って聞かせるお伽噺は用意していないよ。いまはまだ、ね』
『いつか俺はソレを知る日が来るだろうな。……お前の罪を残らず暴きだして』
『楽しみにしているよ、探偵くん。君にソレができるとは思えないけど』
見えない壁によって隔てられた両者の間で、挑戦者めいた、あるいは挑発めいた名状しがたい感情を含んだ視線が交わされる。
「カット――!」
監督の声が飛び、不穏な秘密を孕んだ霧の街は、瞬く間にただの舞台装置(セット)に変わる。
「強盗、いい顔だった。その調子だ。探偵、お前さんもいい具合にプライドの高さが出ていたな」
「ありがとうございます」
珍しく褒め言葉を口にする監督から遠くはなれた場所から、脚本家はうっとりとセットから出てきた俳優ふたりを眺めていた。
「どうでしたか?」
たった今まで強盗紳士だった彼は、表情だけをやわらかなものに変えて、脚本家にも声を掛ける。
促がされ、ウィリアムも無言のまま彼のあとに続いた。
「おれたち、ちゃんと演出できてました?」
「ああ、もちろんさ。君は俺の理想のヘンリー・ローズウッドだよ。人懐こい笑顔の裏に悪意が滲んでいる、あの演技に引き込まれたね」
すばらしい、と彼は続ける。
「続きが楽しみだよ。早く脚本を仕上げたい。霧の濃いあの世界で、《探偵》は《ヘンリー・ローズウッド》と対峙するんだ。強盗紳士と呼ばれる存在を前にして、己の内面、世界の理、悪意の生まれる純然たる狂気を目の当たりにして、そして共に堕ちていく!」
ラストシーンは決めてあるんだと、彼はいう。
炎上する世界で、強盗紳士の悪意が、対峙した探偵を巻き込みながらばら撒かれる。
そんな、凄絶で鮮やかで救いようのないラストを用意したいのだと脚本家はいう。
「強盗はね、悪意を抱いている。どうしようもない悪意、理由のないその《悪》とははたしてどこから生まれてくるんだろう? ねえ、どうかな? どう思う?」
他者に話しかけながら、けっして意見を求めているわけではなさそうな、そんな白昼夢の中を漂う者のように脚本家は続ける。
「理由なき理由、語るべき物語を、どんなふうに見せようか迷ってるんだよ」
だが。
「で、いつまで待ったら続きができるんだ、おい!」
他のスタッフへの指示出しを終えた監督が、若干声を荒げながら大股で近づいてきた。
夢見る脚本家の表情がかすかにこわばった。
「まだそんな《理由のない悪意》なんてもんにこだわってんのか? 動機がなけりゃ、ソイツはモンスターだろ? 悪意の出所がなけりゃバケモンだ! モンスター映画を作る気はない。目を醒ませ、俺たちは探偵映画を作るんだろうが!」
「これもミステリだよ、ミステリ! 純然たる悪意とは何か、犯罪者が犯罪者たらんとするもの、探偵が探偵たらんとするもの、双方に見出されるべき美学があるはずさ。この映画はソレをフィルムの中で描き出すんだ」
「そんなもんに誰がついてくるんだ? だいたい、もう少しマトモな話にしろってスポンサーは言ってる。脚本を書き直せ。設定から組みなおせ」
「もう少しなんだよ、もう少しで《悪意》が見えてくるのに。それを書き上げたら、きっと君だって」
「流行らんよ、まったく流行らんネタだ。暗すぎるし、難解すぎる。スポンサーを説き伏せる策があるのか? 客を呼ぶだけのもんに仕上がるのか? 誰も望んでねぇもんを作ってどうする!」
こんな噛み合わない会話が現場で何度飛び交ったか、数えることすらできない。
それでも脚本家は折れなかった。
監督の要求に応えないまま、ただひたすら自分が追い求める物語に浸りたがった。
けれど次第に目に見える喧嘩は減ったのだ。
脚本家はスタッフの前で語ることをやめた。
代わりに、探偵と強盗紳士を演じる俳優ふたりだけを、自分の話し相手に定めてしまったのだ。
「ねえ、どうしようか、ここから先をどんなふうに演出したらステキになるだろう?」
いまだラストシーンに至るシチュエーションが決まらない穴だらけの脚本を手に、キラキラとした瞳で彼は問いかける。
「悩んでいるんだよ。どうしても浮かばない。どうしても思いつけない。《ヘンリー・ローズウッド》は何を持ってそれほどまでに闇を抱いているのか、彼の病の根源、彼の悪意が生まれいづる場所、理由はどこにあるんだろう」
《ヘンリー・ローズウッド》は架空の存在だ。
彼と対峙する《探偵》もまた架空の存在。
ふたりの主役を前にして、脚本家は笑顔を振り撒き、ロウたちに抱きつかんばかりの勢いで語り倒す。
「監督は売れるモノを作りたいみたいだけどさ、俺はやっぱり美学を追求したいんだ。これまで見たことのような、探偵と強盗の二律背反と、葛藤、そして《絶望》をさ!」
まるで子供のように夢中で語る。
ソレを心よく思っていない人間の存在など、まるで眼中にないかのように。
脚本家は自分の物語に夢中だ。
誰の声も聞こえていないように、夢見るように語り聞かせる。
「美学のないミステリはミステリとは言えないじゃないか。動機に美学を求めて何がいけない? モンスターなんかじゃないよ。《ヘンリー・ローズウッド》はスマートな怪盗になれずに強盗となった、その変質を語る時、物語に厚みが生まれ、人物に奥行きが生まれるんじゃないか」
君たちなら理解してくれるはずだ。
そういって、子供のような目で書きかけの脚本を抱きしめ、彼は熱弁を振るう。
新作のミステリー小説を何冊か読んでみて、探偵のあり方、ロジックのあり方についても考えてみたんだ、と。
冷たいガス灯が光りを落とす真夜中の路地裏。
遠くに時計塔を望みながら、ふたつの影は対峙する。
『お前が、何故すぐに見破られるような変装をするのか、その必要性について考えるよ』
『見破れるのは君だけさ、探偵くん。君だけが、その卓越した観察眼と洞察力で僕という《存在の異質さ》に気付くんだ!』
『報酬になるからお前を追いかけているに過ぎない』
『君は僕と同じ者だよ、探偵くん』
影のひとつが動いた。
『さあ、華々しいラストシーンにむけて準備をしなくちゃ。ねえ、君は何する、探偵くん?』
『……なにも。俺はあいにくとなにもするつもりはない』
『なぜ? 僕は君のために舞台を用意してあげるよ? とびきり素敵なショーを開催してあげよう。死者たちの宴だ』
『お前は何度人を殺してきた?』
一瞬の間。ほんのわずかな沈黙。
ヘンリー・ローズウッドはシルクハットのつばの下に素顔を隠し、そっと口元に歪な笑みを浮かべた。
『君が殺したいと願った数だけ、さ』
そうして向けられたのは、銃口だった。
「いい加減にしろ!」
撮影中にもかかわらず、突如飛び込んできた怒声は、台詞ではなく監督のものだった。
バサリと、紙のばら撒かれる音がそれに重なる。
ざわりと空気がどよめき、ぎょっとした顔で振り返るスタッフやキャストたちの前で、監督は脚本家の胸倉を掴んで非難の言葉を浴びせていた。
「いいか、いい加減にしてくれって言ってるんだ! 予算が出なくなっちまったら、これでこの映画は製作中止だ! 生まれる前にこの作品は死んじまうんだぞ!?」
夢物語しか口にしない脚本に、ついに監督が爆発したのだと誰もが理解していた。
細切れの撮影と遅々として進まない製作は、予想通り、予定通り、誰の目にも明らかな暗礁に乗り上げてしまったのだ、とも。
「もうたくさんだ、もういい、お前が書かないんなら別のやつを探す! お前には愛想が尽きた! これは俺の映画だ、お前のものにはしないからな!」
「――っ!」
どん、っと力任せに、監督は彼を突き放した。
激情が収まる気配はなく、苛立ちを隠そうともせずに、バランスを崩して倒れこんだ脚本家を見下ろす。
「……ロマンが分からないなんて……ロマンが……」
「ロマンで飯は食えねぇんだ!」
「でも……」
呟きが床に落ちていく。
「悪意ある存在は演出を好む。純然たる悪意は、探偵の業を否応なく暴き立てる。ミステリーだ、窃盗や殺人や……悪意によってなされる悪、罪、……悪意の所在を、その美しさを、どうして分かってくれないんだ」
ひどく傷ついた表情で、怯えよりも哀しみにあふれた瞳で、脚本家は言葉を落としていく。
「どうして……すごく面白いのに、すごくすごく、面白いのに……」
ばら撒かれた脚本の束を掻き集め、脚本家はそのまま顔をあげずによろよろと撮影所を後にした。
気まずい重い空気が、沈黙となって誰の上にも圧し掛かっていた。
このまま映画は頓挫するのだろうか。
製作は打ち切られるのだろうか。
「今日の撮影はここまでだ。悪かったな、みんな。少し、頭を冷やしてくる」
監督は無理矢理に笑みを作り、そうして数名のスタッフにとりあえずの指示を出し、キャスト達には帰宅してもらって構わない旨を伝えると、彼もまた撮影所から出ていってしまった。
なにもかもが取り残されている。
なにもかもが置き去りにされている。
なにもかもが空中分解しようとしている。
何もかもが、終わろうとしていた――
落胆の色すら見せる彼等の中にあって、ウィリアムだけはさしたるショックも受けていなかった。
誰にも何にも期待しないと決めている。
そもそも、この撮影が着地できるとも考えていなかった。
脚本家の話を《相棒》と聞く日々を過ごしながら、この日が来ることを予感していたといってもいい。
だからほとんど機械的に帰り支度をはじめていた。
「ねえ、ウィル」
だがそんな自分に対し、目深に被ったシルクハットのつばをちょっとだけ持ち上げて、《強盗紳士》はどこか思案するふうに問い掛けてきた。
「なんだ?」
「おれは思うんだけど……《ヘンリー・ローズウッド》は悪意と絶望ゆえに罪を重ねるけど……それじゃあ美学ってなんだと思う?」
柔らかでやさしい視線が、ウィリアムを見つめる。
「……何故その話を?」
「なんでだろう?」
彼はこちらからの問いに首を傾げ、本当に不思議そうに呟いた。
「ああ……でもずっと考えてたんだよ。おれはおれが演じる《ヘンリー・ローズウッド》の悪意の出生について、それから脚本家が望む美学についても……」
そう告げた彼の表情はとても真摯だった。
利害関係を追及するような、損得勘定で物事を推し量るような、そんな世界において、ひどくきれいで珍しいモノを見つけてしまった気にさえなったかもしれない。
どうかしている。
どうかしていた。
ウィリアムは無言で年上の《相棒》を見つめ、それから理由の分からない罪悪感めいたものを抱きながら視線を逸らした。
「質問の答えになっているかどうか分からないが……僕は犯罪に美学なんてものは存在しないと思ってる。罪は罪だ。いかなる理由があろうとね。僕はソレを飾り立てたいとは思えない」
彼の顔をそれ以上まともに見ることすらせず、カバンを手に、ウィリアムは《探偵》から《ウィリアム・ロウ》に戻るため、衣裳部屋に足を向けた。
「火事だ!」
出し抜けに、誰かが叫んだ。
誰がソレを最初に口にしたのかは分からない。
だが誰かが発したその台詞が、不吉な感染力をもって人々の感情をあおった。
「倉庫だ!」「急げ、燃えてる! そこには撮影用の小道具が――」「オイ、何をぼさっとしてんだ! 通報しろ、消火しろ、オイ!」
宵闇に染まり始めていた空に、その赤は、禍々しいほどの存在感でもって閃いていた。
炎だ。はぜる音、煙の匂い、目を焼く輝き、すべてが、本物であることを告げている。
撮影のためにあつらえたのではないことは、スタッフの間に広がる動揺と焦燥で明らかだった。
「誰か監督呼んでこい!」
「早く!」
消沈していた空気はいっぺんに払拭された。
にわかに騒然として混乱した状況下に置かれ、スタッフもキャストも関係者全員がわけも分からないまま消火活動に加わることになる。
燃える、燃える、燃える。
空が、赤く燃える。
結局炎は、倉庫一棟を全焼して収まった。
黒焦げの機材、黒焦げの資料、黒焦げの小道具、黒焦げの書きかけだった脚本の断片――
相棒に引き摺られるまま消火活動にまで参加させられ、ウィリアムは控え室のソファに気だるげにもたれかかっていた。
「……どうして……一体何が……」
ポツリと、輪の中で呟かれた疑問符。
監督を含む撮影クルーほぼ全員、そして帰りそびれたキャスト達が一堂に会するその場所で、ウィリアムは問いへ答えを返す。
「何が起こったのかは明白だ。放火だよ。そして、それをした犯人だって分かっている」
「え」
一斉に視線が集まった。
「何もそんなに不思議なことじゃない……」
クセの強い前髪を指先でいじりながら、ちらりと視線だけを撮影クルーたちへ向ける。
脱ぎそびれた探偵の衣装のまま、探偵そのままの表情で、ウィリアムは己の役割をまっとうする。
「期限は切られた。予算は打ち切られそうだ。スポンサーが業を煮やし、監督がサジを投げかけてる。そんな最中にこの状況を変えようと考える人間は多いだろうけど。こんな真似に至るのはひとりだけだ」
それはウィリアム・ロウにとって明白に過ぎる《答え》だった。
「ヘンリー・ローズウッドの悪意の示す場所は見つかりましたか、脚本家先生?」
ウィリアムの瞳が、目の前に佇む相手をまっすぐに貫いた。
糾弾ではなく、指摘。
あるいは、確認。
「え」「あ」「……まさか……」
視線が、今度は一斉にひとりの男に集まった。
ひとりの男。
ふらふらと紙を抱いて撮影所を出ていった彼が、ひどく傷ついていた夢見る彼が、開け放たれた控え室の扉の前に佇んでいる。
「証拠は、探偵くん?」
脚本家は笑った。
この上もなく愉しげに、そう、まるで自ら生み出した《ヘンリー・ローズウッド》そのままの表情で。
「探偵は関係ない。そもそもこれは《探偵》が解くような謎ではない。これはミステリーなんかじゃないから……」
そう前置きをして、ウィリアムは情報を並べていく。
「消火活動に当たっていないにも関わらずあなたの靴のかかと部分に焦げ跡があること、指先からかすかなオイルの匂いがすること、出火時のアリバイ、直前にあった監督との諍い、悪意という存在に関する常日頃の言動、あれほど常日頃から脚本を抱いていたあなたがいまは手ぶらでこの場所に立っていること――」
すべては情況証拠にも等しいモノだ。
あるいは心証とでも呼ぶべきモノ。
目撃者はいない。
「だが、何よりもあなたが持つ動機がある」
倉庫と脚本を自らの手で燃やしてしまうほどの、まるで発作とでもいうべき行動力で示さなければならない、掴まなければならない理由を彼は持っていた。
脚本家はしばらく無言のまま仲間達を眺め、
「ウィリアム、君は俺の理想の探偵だ、まさしくただひとりの探偵なんだ!」
キラキラと瞳を輝かせて、賞賛を口にする。
「ああ、まさにあの瞬間、火を放った瞬間に、俺の求めていたヘンリー・ローズウッドは生まれた! あの瞬間にだよ!」
最高だっただろ、と、そう告げて。
「ねえ、燃えていくさまはとてもとても夜空に映えて、もうそれだけで最高にステキなラストシーンだと思わないかな」
脚本家は壊れた笑い声をあげ。
そして。
「悪意を君たちは見るよ、まさしく悪意による悪を、君たちは目の当たりにするんだ! 楽しみにしていて、脚本は完成す――」
監督の拳が、彼の哄笑を止めた。
◆架空と虚構と現実の銀幕
「なるほどね。僕が集めた事情よりずっと分かりやすい。結局、その火事で脚本はほぼ消失。当然犯人である彼も身柄を拘束されて、完全に状況は一変したっていうわけか」
ヘンリー・ローズウッドは頬杖をつきながら、笑ってみせた。
「あそこで起きたことは茶番だ。謎なんてどこにもない。そして、その後に映画が辿った道についても、なんの不思議もない」
長い話を語り終えて、56歳のウィリアム・ロウは、優雅な所作でティーカップに指を絡め、口をつけた。
「結局のところ、すべてが破綻した上に大急ぎで作り直したものだ。それまでに撮ったフィルムで焼けなかった分もついでに使った。だから金も時間もなかった《ミスト・ナイト・ルール》はツギハギだらけだ。一部じゃ不運の映画と呼ばれてる。だが、それも珍しいわけじゃない。関わった人間が次々亡くなるような、そんな呪いがかかっているわけでもない」
曰くつきの《ミスト・ナイト・ルール》
脚本家は舞台から降りた。
けれど様々な事情を抱えて、製作は続行された。
かくして、昼は怠惰な探偵、夜は強盗紳士として、人気俳優を起用した主人公と対峙する――そんな壊れ、薄っぺらな人物像が、そうしてスクリーンの中に記録された。
「ふむ……ああ、だけどその事件、あんたの推理にはずいぶんと飛躍はみられるね? 情況証拠であり、物理的な証拠はあの時点ではなかったということでいいのかな、ミスター?」
「正確な情報を正確に分析・検討して構築されたロジックは真相に至るようにできている」
「その正確さを誰が保障してくれるのかな?」
「あの火事には《演出》と《美学》の匂いがした……悪意という名の存在の示し方を考えた時、犯人は彼しかいないということになった」
「科学的な裏づけはなされていないということだね?」
「あれは謎でもなんでもない。現実にミステリー映画のような美しいロジックで構築された物語など生まれない」
脚本家が夢見た世界など、どこにもない。
犯罪に夢を見、美学を求めれば、いずれ破綻する。
「それじゃあ30年の時を経て、僕はようやく理由のない悪意に理由が与えられたことになるかな」
「どういう意味なのか分からない」
「僕の中では【死に至る病】が進行してる。薄っぺらな設定、希薄な存在、虚構なのに実体を持った歪な自身への絶望が僕の悪意を支えてくれるということだ」
にっこりと、ヘンリー・ローズウッドは答える。
「ウィリアム・ロウ、僕はあんたを歓迎するよ、悪夢が踊るこの銀幕市を、あんたも楽しんでいくといい。思う存分、この街の崩壊するさまを見物して行くといいよ!」
それじゃあ。
そういって。
途方もない絶望と虚無を抱いて、親友の顔をした《ヘンリー・ローズウッド》は、かつて彼の別の顔を演じた俳優の目の前から消失した。
鮮やかに。
カフェにひとり取り残される形となったウィリアムは、さして驚きもせず、かといってまったくの無関心とも呼べない顔で彼の消えた空間を眺め。
その視線を窓の向こうへと転じた。
空は作りモノのようにキレイな色をしている。
すべては架空の出来事。
すべてがこの街の見る夢。
そういえば、あの時、《相棒》は言ったのだ。
『ホンモノの探偵みたいだったね、ウィル』
本当に年上なのかと思えるほど無邪気に、けれどその奥にかすかな痛ましさや哀しみを混ぜて彼は微笑んだ。
望まれて演じた役回りではない。
好きで引き受けたものではない。
しかし、彼が笑ってくれるなら、彼が褒めてくれるなら、こういうのも悪くないような気がした。
『おれは嬉しいよ。ウィル、きみのおかげでおれたちは撮影ができる。おれはきみと仕事ができるんだ』
それがなにより嬉しいのだと、その笑みは言う。
笑顔が咲く。
華やかな、花がほころぶような笑みを向ける。
彼はそこにいた。
虚構を作りだす年上の俳優は、共にひとつの世界を作り上げようと、ひとりの人物を作りあげようと、手を伸ばし、握手を求めてくれた。
ヘンリー・ローズウッド。
曖昧な設定を元に生み出された内側に悪意を抱えながら、霧の闇の中を失踪する強盗紳士。
あの日をきっかけにやがて唯一無二の親友となり、時間を積み重ねて来た大切な存在。
彼は演技に真摯だった。
だが、くすんだ金の髪が陽が当たるときらきらとまぶしいくらいに輝いて見えた彼はもういない。
この地上のどこを探そうと、彼はもうどこにもいない。
胸を刺す、これは喪失。
けれど、いま、失われたものがこの街ではかつての『姿』で笑っている。
この、空の下のどこかで。
「あいつはもう……どこにもいないのにな」
来なければ良かった。
けれど後悔してももう遅い。
ならば後はもう、この街の夢が醒めるまで、あるいは自分と親友と脚本家が作り上げた《ヘンリー・ローズウッド》のラストシーンを見届けるまでいた方がいいのかもしれない。
あの日、あの時、放火事件が起きた時、役を降りなかった自分にとって、残された選択肢はあまり多くない気がした。
ウィリアムは紅茶を飲み干した。
ティータイムは終わった。
その代わり、別の何かがここから始まる。
そんな予感を抱きながら――
「……美学をともなう悪意、悪意によってなされる悪、それはモンスターなんだろうか……どう思う……《ヘンリー・ローズウッド》?」
自問自答とも取れる呟きは、彼の唇から紡がれはしたが、誰の耳にも届かないまま、空になったティーカップの中に落ちて消えた。
『今度は君と2人ひと役なんだね。よろしく、もうひとりの《ヘンリー・ローズウッド》君』
END
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クリエイターコメント | いつも大変お世話になっておりますv この度は銀幕市ならではの邂逅、そして語られることのなかった《過去》の開示にご指名くださり、誠に有難うございます。 お任せいただいた部分は、かなりの捏造で構築されております。 繰り返される問いと示された行動について、過去に起きた事件について、そしておふたりの関係性など、少しでもイメージに近いものとなっていれば幸いです。
それではまた銀幕市のどこかでお会い出来ますように。 |
公開日時 | 2008-12-21(日) 17:20 |
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