★ 【旧霧崎邸事件】Devil's contract ★
<オープニング>

 ――その日。
 午前診療を終えて中央病院研究棟の地下にあつらえられた自室へ戻ってきたドクターDを、まるで計ったかのようなタイミングで外線電話が呼びつけた。
「はい」
 ごく自然な動作で、手を伸ばし、応じる。
『……ドクターD様でいらっしゃいますか?』
 聞き慣れない、年老いた印象を与える男の声が受話器の向こうから問いを投げかけてきた。
「ええ。……どうかなさいましたか?」
 穏やかな声で答えながら、その実、水面下ではこの奇妙な現象に思考を巡らせていく。
 ここはいわば私室だ。
 そこに直接、外部から電話がかかってくることはまずありえない。
 しかも――
『往診をお願いしたいのです、ドクターD様。旦那さまをお救いいただきたいのです。どうか、どうか旦那さまの心を、旦那さまご自身を――』
 これは往診依頼だ。病院の受付からでも他の病院からの紹介でもなく、直接外部からここにかけられてきた、その意味を考える。
 老執事然とした声は、自然公園の奥にあるという古い洋館の名を示した。その東棟に彼の主人がいるという。
 だが、さらに相手が詳しい状況を説明しようとした瞬間、
『……なぜ、だ……』
 不意に、声の質、調子が変った。怯え、切羽詰まったような、命の危険を感じさせる若い男の声が割り込んでくる。
『……っ……死者、…ッ…研究……、東の、棟……わた、し、…は……、……復讐を……、こんなことに……私は、あきらめ――ッ』
 不自然なノイズの後に、通話はブツリと途切れてしまった。
 まるで何者かが横から電話線を引きちぎったかのような唐突さだ。
 しかも、通話が切れる直前、何か大きく重いものが倒れたような、そんな不吉な物音まで聞こえていた。
 しかし、いまはもう、何も聞こえない。

「あれ? ドクター、お出かけですか?」
 コートを羽織り、カバンを手にしてスタッフルームに現れたドクターDの珍しい姿に、研究棟スタッフの一人が声をかける。
「少々気になることがありまして、往診に行ってきます。携帯電話が使えなくなる可能性もありますので、他の先生に代診を頼んでいきますね」



 試験管の中にも悪魔は住んでいる。
 シャーレの中にも悪魔は潜んでいる。
 そして、書物と、あの男の中にも。
 悪魔は、潜み、機会をうかがっている――



 依頼で指定された洋館は、鬱蒼とした木々の中にひっそりとたたずんでいた。
 表札には、「霧崎」とあった。
 まだ昼だというのにどこか歪んで見える空のもと、鋼鉄の門は大きく開け放たれており、前庭は手入れの行きとどいた英国庭園然とした景色で目を楽しませてくれる。
 屋敷には東と西にそれぞれ尖塔がたてられ、3階建てのフォルムにシンメトリーの美しさを与えていた。
 そうして足を踏み入れて気づくのだが、オブジェクトのつもりなのか、白く塗られた木の椅子がさまざまな方向を向いて一見無造作にぽつんぽつんと緑の中に配置されている。
 ひそかな彩を添えるのは、早咲きのバラだ。
 だが、さらに進んだところで、雰囲気は一変する。
「……おや」
 そこにはあまりにも洋館に不釣り合いな者たち――ガスマスクを装備したテロリスト集団が、目的と行き場を失った雛鳥のように右往左往していた。
 そんな光景を目にし、ドクターDはいくつかの起こりうる、あるいは起こりえた事象について思案する。
 そのうえでやんわりと、それでいてよく通る声を彼らに向けた。
「ハーメルンのみなさん、ですね?」
 この銀幕市において、ガスマスクのテロリストといえば彼ら以外に該当者はいない。
「何が起こったんでしょう? ご説明いただけますか?」
 かすかに首を傾げて問う精神科医に、ガスマスクたちは一斉に詰めより、口々に、まるで要領の得ない訴えを注いだ。
「リーダーがいなくなった」「やたらと血の跡があって」「いきなり壁を突き破った」「ゾンビだ」「どうすればいいんだ」
 ――彼らのリーダーたるケイ・シー・ストラが何らかの力によって西の棟につれさられた。しかも館内ではまさしくゾンビとしか表現しようのない死体が歩き回り、部屋によっては不自然な血痕が残っている。
 要約すると、そういうことらしい。
 視線を向ければ、少し汚れたフランス窓にチラチラと不穏な影が見て取れる。
 東棟からの往診依頼、西棟での失踪事件。
 電話越しに聞こえた、研究、死者、復讐、こんなことに、といった言葉たち。
 本来空家であったはずの洋館に不自然なまでの変化をもたらしたものがあるのは確かだ。そして、それはおそらくムービーハザードやスターの実体化に由来するものだろうとは思われる。
 しかし――
「爆破だ! もう爆破しちまおう。われらがリーダーは爆発などものともしないハズだ」
「そ、そうだな!」
「ケイ・シー・ストラ万歳!」
 不穏な結論に至りかけた彼らを、やはりやんわりと制して、
「少々お待ちいただけますか? この状況を解決するための協力者を募りましょう」
 司令塔を失うことでどうやら正常な思考すら保てなくなっているらしいハーメルンの代わりに、ドクターDは至極冷静に、そして速やかに己が携帯電話を用いて対策課に連絡を取った。
 死者が徘徊する洋館と、救いを求める男。
 いかにも映画然としたシチュエーションの中、ストラを探し出すもの、そしてこの洋館で起きているだろう事件の謎を解き明かし、依頼人を救うものを得るために。

種別名シナリオ 管理番号945
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメント今回はちょっとしたご縁を得て、龍司郎WRとのコラボ、洋館スキーによる洋館スキーのための洋館探索シナリオをご用意させていただきました。
洋館といえば《惨劇》です。
こちらのシナリオでは、ドクターとともに《東棟》に赴き、旦那さまの身に、あるいは屋敷に起きたであろう事件や背景を解明し、患者の確保(?)に当たっていただくことになります。
一応探すべきものがあり、見つけるべきものはありますが、好奇心による探索もありでございます。
若干の身の危険はありますが、バトル要素はほとんどありません。
ご希望があればハーメルンメンバー数名を連れていくことも可能ですが、現状の彼らはあまりお役に立てないかと思われます。

*注意点*
龍司郎WRのシナリオ『Weapons free』と同時刻に起きた事件となります。同一PCさまでの両シナリオへの参加はご遠慮ください。
そして、龍司郎WRのシナリオに参加なさっているPCさんとの協力もできません。
また、募集期間は4日となっておりますので、あわせてお気を付けくださいませ。
なお、こちらのシナリオは、ネガティブゾーンやティターン神族などのメインストーリーとは関係のない単発シナリオです。お気軽にどうぞ、です。

それでは、皆様のご参加を霧崎邸前庭にてお待ちしております(三つ指)

参加者
流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ヘンリー・ローズウッド(cxce4020) ムービースター 男 26歳 紳士強盗
メルヴィン・ザ・グラファイト(chyr8083) ムービースター 男 63歳 老紳士/竜の化身
<ノベル>

「……そう、屋敷が……」
 流鏑馬明日は携帯電話を手に、不穏な気配に満ちた洋館を見上げた。
「とにかく一刻も早く《彼》を見つけるべきかしら。何が起こっているのかも知らなくちゃいけないし、できればその《研究》についての資料も探したいのだけど」
「依頼者ご自身は東棟にいらっしゃることは確かなようですから、状況を確認し、その型の安全を確保することが望ましいでしょうね」
 相変わらず涼やかな笑みで精神科医はうなずきを返す。
 つい彼を意識して明日は視線を外してしまう。握りしめている携帯電話はドクター専用だ。もし観察眼と記憶力の良いものであれば、そこに、バラの指輪のチャームがついたストラップが増えていることに気付くだろう。
「でも、ドクター。この洋館について気になることが……」
「へえ、ホントにいるとは思わなかった!」
 明日のセリフにかぶさるように、唐突に声が降ってきた。
 いや、声だけではなく、灰色の人物が文字通り何もない処からストン…と降りてきたのだ。
「ああ、久しぶりですね、ヘンリー」
 名を呼ばれ、ヘンリー・ローズウッドは実に無邪気な笑顔をドクターDへと向ける。
「やあ、久しぶり。それにしてもさ、いま、あんたは忙しいんじゃないの? カルテ整理や事件の心理分析の研究で寝る時間もないって聞いたけど?」
「それほどでもありませんよ」
 精神科医は微笑みで返し、そうして小さく首をかしげて問いかける。
「あなたが来てくれたということは、手を貸してくださるということでしょうか?」
「ふむ? いいよ、手を貸してあげよう。洋館探索は大好きだ」
 灰色のスーツをまとった紳士はシルクハットのつばを持ちあげ、すいっと顔を近付けると、吐息がかかるほどの距離でにっこりと笑い、
「報酬はいつも通りというコトで、ドクターが支払ってくれるなら喜んで」
 内緒話をするように、わざと耳元で囁きかける。
 そうしていながら、彼の視線はちらりと明日へ向けられる。からかうような、反応を面白がるようなその視線の意味を、当の明日はいまいち理解できていないのだが。
 そしてドクターDも、そんなヘンリーの行為に照れるでも嫌がるでもなく、ごくナチュラルに受け入れ、礼を述べる。
「ご協力ありがとうございます」
「この建築様式はやはり美しいね。非常に心惹かれるよ」
 そこへさらに声が挟み込まれた。
 いつのまにそこにいたのか。老齢の紳士が立ち、興味深げな表情でフランス窓の向こう側にちらつく影を追いかけていた。
「あなた、たしか……」
 明日はほんの少し驚く。
 メルヴィン・ザ・グラファイト――同好の士が集う熱気と情熱の《祭典》で出会った相手だ。
「こんにちは。先日は楽しいひと時をありがとう、レディ。……ああ、明日とお呼びしても?」
 彼はにこやかにそう告げた。
「ええ。どうぞ」
「では明日、僕も君たちの探索にご一緒させてもらいたいんだが、どうだろう? こういう建築物には非常に興味をそそられるんだよ。探索をするというのなら、ぜひこの目で内部を見たいんだよ」
 にこやかに口ひげを蓄えた紳士は自身の要求を告げ、そして、意思を確認するように、ドクターD、ヘンリーへと視線を移す。
「構わないかな?」
「ええ、勿論歓迎します、グラファイトさん」
「断っても来るんじゃないの? なんかそういう顔してるからね」
「いや、断られたらどうしようかと思っていたんだ、これでもね。有難う、よろしく頼むよ」
「さて、これでメンバーはそろったのかな? そろそろ出発したいよね」
 握手として差し出されたメルヴィンの手を軽く握ってから、ヘンリーはおもむろに、軽やかにステップを踏んで玄関ポーチまで進む。
 だが、それに制止の声が掛けられた。
「ハーメルンにも数名、同行をお願いできないかしら? 中にはゾンビがいるのでしょう? 戦力は多い方がいいわ」
「僕はかまわないよ。面白そうだからね」
 ヘンリーはにっこりと応じたが、
「ふむ……だが明日、彼らはリーダーの命令に絶対服従なのだと聞いたよ」
 いくぶん思案気味に、メルヴィンは彼女の意見を吟味する。
「たとえば、ケイ・シー・ストラが命令したら、彼らは僕たちを襲う側の存在になりはしないかな? どうだろう?」
 セリフの最後はドクターDに向けられていた。
「その件でしたら、おそらく問題はないかと思いますよ?」
「どういう意味で?」
「彼らはすでに《精神のリンク》が切れている状態であると言えます。シンクロできないが故に迷走する。直接命令されたら逆らうことは難しいでしょうが……彼らのリーダーは東棟にはいませんから」
「なるほど。それなら僕に反対する理由はなくなるだろうね。それでも、いささか不安は残るのだけど」
「では、最少人数ということで交渉しましょうか」
 メルヴィンに微笑みかけてから、ドクターは、不安げにおろおろと洋館を見上げたり、無駄に歩き回ったりしているハーメルンへとドクターは歩み寄る。
「ヘッケラーさん、アレクセイさん、ドラグノフさん、よろしければご一緒に東館へ来ていただけますか?」
 一体どんな基準があったのか、そして、いったいどんな方法で彼らを判別しているのか、ドクターDは速やかにガスマスク集団から3名を指名した。
 名を呼ばれた3名は一瞬顔を見合わせ、
「「「ダ・ヤア!」」」
 一糸乱れぬ、とは若干言い難いタイミングながら、それでも彼らはそろってドクターの言葉に従った。



 ほどよく磨かれ滑らかな質感を持つ漆喰の壁、フランス窓から差し込む光、影の落ちた廊下には赤いじゅうたんが敷かれている。
 ブラックウッドは目を細め、光の届かない薄暗い廊下を堪能する。
 掲げられた絵画はいずれもすでに色褪せて久しいが、独特の時間の経過が与える風合いは面白い。
 だが、わざわざ足を運ぼうと思うほどに惹かれたのは、ここにある種独特の気配を感じ取ったからだ。
 静謐であるはずの、沈黙こそが雄弁と思えるような散策の場に、ひどく異質な何かが紛れ込んでいる。
 それは腐敗した土のにおい。
 あるいは、この世ならざる者たちが漏らす吐息の気配。
 視界の端でちらりと、何かがうごめいた。
「歓迎してくれているわけではなさそうだがね」
 そもそも。
 そう、そもそも、ブラックウッドが足を向けた時、確かにこの屋敷には主が不在だった。壁は崩れ、天井は落ち、朽ちた瓦礫の中に微かな面影を残すだけの廃墟であったはずなのだ。
 なのに、今この瞬間、ごくわずかな時間の内に建物全体が揺らぐほどの違和感が生まれた。
「……穏やかな静寂は心地よく、散策にはなかなか風情のある場所だったんだがねぇ」
 ふわりと微笑み、ブラックウッドは視線を向ける。
 ゆらゆらと、どこからともなく現れる灰色の肌の人間。
「“君たちはいったい何をしているのかね?”」
 影が寄り添うように、ブラックウッドはそれに近づき、そして問う。
「“あるいは、君たちを支配するものとは一体何だね?”」
 ささやきが吹き込まれる。
 力ある言葉は、熱を持たない屍たちを動かす。
 胡乱な視線を宙にさまよわせていた者たちは、声の主へと
『復讐を』『……悪魔が……』『復讐を』『研究だ』『復讐を』『……旦那さま』『契約を……』
 繰り返し繰り返し、不吉で淀んだ単語が渦を巻いている。
「悪魔、復讐、研究、旦那さま、……ふむ?」
 目を細め、ブラックウッドは思案する。
 この屋敷では何かが起きている。
 何かが起きたその原因のために彼らは生まれ、動き回り、さまよっている。
『……呼ばなくては』『……手に入れる』『医者を……』『悪魔を』『あの男を』
 バラバラの記憶、バラバラの思念、なのにどこかで一つの流れを持っているという不自然さがこの死者たちを操っている。
「眠るかね?」
 襲いかかることもなく、ただ従順にたたずむだけの屍たちへ、ブラックウッドの指先が流れるように差し伸べられた。
 歩く死者たちの頬をなでる、その瞬間、――それらは脆く崩れ去り、塵へと還る。
 ふと。
 気配が動く。
 腐敗した土のにおいばかりで閉じていたこの場所に、生の息吹が混ざりこむ。
「私以外にも散歩者が増えたようだねぇ」
 口元から、ほんの少し笑みがこぼれた。



 おぞましい記憶。
 眠るたび、目覚めるたび、蘇ってはならない記憶がよみがえる。
 いまだこの心を占め、苛み、苦しめる、その記憶こそが私を支える――




 玄関ホールから東棟へと続く扉にも、鍵は掛かっていなかった。
 入ってすぐに、大広間があり、天井に届く大きな香水塔がほのかな明かりをともし、来訪者を迎える。
 先頭をメルヴィンとヘッケラー、アレクセイが進み、ドクターと明日、ヘンリー、一番後ろにドラグノフと続く。
 7名という人数であり、通常の私邸であれば、ある程度の狭苦しさを感じさせるはずなのだが、迎え入れる側はこの来訪者たちを悠然と許容する。
 奥へ向かう廊下には高い天井のポーチが続き、上階へと続く折れ曲がった階段には赤いじゅうたんが敷かれ、手すりには薔薇をモチーフとした彫刻が目を楽しませてくれる。
 磨きこまれた艶やかな飴色は木目を美しく浮かび上がらせるが、そのいくつかには鋭い刃物か何かで抉ったような跡が見てとれた。
 ふいに明日の足が止まった。
「……血、だわ」
 扉には幾つもの赤黒いしみが飛び散っていた。
 視線を落とせば、くすんだ色の廊下にも点々と続く血痕、そして、何か重たいものを引きずったかのような後が見られた。ただし真新しいものはない。それでいて、乾いているかと言えばそうでもないのが不自然だった。
「わかることはひとつね。ここで誰かが殺された。それも1人や2人じゃないわ……いくつも重なっている……それに、この流れ方は少し不自然……」
 いくぶん眉間にしわを寄せて、明日は呟く。幾度となく刑事として目にしてきた殺害現場の光景がフラッシュバックする。
「でも、過去、霧崎邸そのものでは事件は起きていないはず」
「研究のための材料を調達していたんじゃないの? リビング・デッドだらけなんだからさ。死体がなくちゃ始まらない」
 子供がはしゃぐように、ヘンリーの声が弾む。
 神出鬼没を常とする彼にしては珍しく、ドクターの腕を取らんばかりの勢いで、ともに探索を楽しんでいる。
「でも、その研究は本来、何を一番に目指しているのかしら……」
「さらに気にすべきは、ここの主人や執事がどんな状況のときに“非常事態”に陥ったのか、だろうかね。可能性はいくらでも挙げることができそうなのだが……いまのところ『生ける屍であふれている』ということくらいしかわからないのだし」
「ふむ。ねえドクター、もしかしてとっくに真相に辿り着いてたりしない?」
「不明瞭にして不十分な情報だけではさすがに《真相解明》とするのは難しいと思いますよ、ヘンリー?」
「本当に?」
「ええ。ですからこうして情報を集めながら、依頼人のもとへと向かうのです。そして、得るべき情報のひとつはすでに明日が持っていると思うのですが……明日、先ほど言いかけて止められた言葉、その続きを今お聞きしても?」
「え? ええ、もちろんよ」
 ふいに振られた話題と慣れない呼び捨てでの声かけに内心ドギマギとしながら、明日は胸元から一冊の手帳を取り出す。
「霧崎邸についてなのだけど……おかしいのよ。この屋敷は本来、ここにはなかった」
「おや、それってハザードで出現したってことかな?」
「そうね。そういうことになるわ、ヘンリー。だって、とっくの昔に……10年も前にこの屋敷は《焼失》しているんだもの……鉄門だけがわずかに残されただけで」
「ではやはりハザードと考えていいのだね。ただね、僕自身が調べてきたものに、この状況と合致するものはなかったのだよ。そして、これがハザードである以上、もとになった映画があるわけだけど」
 メルヴィンはざっとあたりを見渡し、それからおもむろに持参した書類を一枚、封筒から取り出した。
「思い当たる作品は3つほど。ここをロケ地とした映画で絞り込むこともできた。しかし、どれもこれには当てはまらないというのが少々気になるところなのだよ。混じっているのか、あるいはここにきて変質してしまったのか。……現時点で明言することはできないのだがねぇ」
 そうしてそれを裏返し、内ポケットから取り出した万年筆でさらさらと何かを描き込んでいく。
 流れるような動作に迷いはなく、詩篇を書き写すよりもさらに滑らかに、彼は文字の代わりに精緻な絵を描いて見せた。
「さて、ここに描いた図面と一致するようであれば、僕はずいぶんと自信が持てるのだけど」
 ひらり。
「それは何かしら?」
「見取り図だよ、明日。この洋館のね。正しいという証明にはもう少し探索が必要だとは思うのだが……必要とあらば、この屋敷の資産価値についても算出できる」
 そう言って微笑み、メルヴィンは数枚の図面を広げて見せた。
「なるほどね。空家ではなく、まして本来は実在すらしない館、ということか」
 くすんだ金の髪をくるりと指でもてあそびながら、ヘンリーはわずかに揶揄を含んだ視線で改めて館内部を観察する。
「火事で焼けた屋敷を舞台に、死者が徘徊するとは……グロテスクだね。まあ、どっかの神様だのが関わってくるよりはずっと気分がいいけど」
「あるべき姿ではない状態で具現化したこの館で起きた事件となると、やはり気になるのは『目的』なのではないかね?」
「だとしたら、どうしてドクターを呼んだのかも懸案事項に入れるべきじゃないかしら」
「いいね。ドクターは招かれた客ってことだ」
「そう、招かれた……でも、どうして? 病人がいるから? それとも、ドクター自身を手に入れたいがため?」
 メルヴィンの出した議題を言葉でつなぎながら、明日は改めて周囲を見回す。
 この洋館にはだれかがいる。
 何かがいる。
 明確にわかるのは、生きた屍ばかりだ。けれど見えない力も確かに作用としている気がする。例えばストラをさらっていた、不可解な声と力も――
「ポルター・ガイストだ! ここにはゾンビと幽霊がいるってことさ! 素敵だ! ほら、そこから覗いてる!」
「――!」
 がたんっ。
 とっさに明日は、傍にいたドクターにしがみついていた。
 嬉々として声をあげたヘンリーの指さす先、そこに天井へ逆さに張り付いたおぞましい死者が髪を振り乱し牙をむくのを目撃してしまったのだ。
 その彼らを検証することで得られるものがあるのかもしれないが、しかし、すさまじい銃声がそのチャンスを砕いた。
 時間にすればほんの5秒か6秒、その間に張りついていた死者はぐしゃりと嫌な音を弾けさせながら目の前に落ちてきた。
 ほとんど反射的にヘッケラーが銃を構え、ほぼ同時に発砲していたようだ。
 乱射と呼ぶにふさわしい銃撃によって淀んだ赤が視界いっぱいに飛び散るが、動かなくなった死者はその姿をさらした次の瞬間にはいずこかの空間に霧散した。
 洋館を汚すこともなく、ソレはもとからいないものとなる。
「脊髄反射?」
 くすくすと笑いながらヘンリーがガスマスクを覗き込んだ。
「……我々からリーダーを奪った敵だ。殲滅すべきじゃないか」
 どこか不安定な色を声の中ににじませながら、ヘッケラーはそう言い返した。
「やはり、あまり彼らを連れまわすべきではないのでは? 確かにこの屋敷はハザードによって生まれた、いわば夢の館だ。それでも破壊されて良いというわけではない。探すべきもの、解くべき謎の答えが砕けてしまう可能性もあるのではないかな?」
 かすかな苦笑とともにメルヴィンは彼らを見やり、そしてドクターと、いまだドクターにしがみついたままの明日を見る。
 彼の視線に気づき、はっとしたように明日は彼の腕を放すと、努めて冷静にハーメルンへ視線を転じた。
 ソレを微笑ましく眺めるメルヴィンとは対照的に、ヘンリーの眼差しにはいくぶん皮肉げな色が混じり、
「この館を壊したって誰も怒ったりしないんじゃない? それに……」
 彼はつかつかと山となった天井や壁の瓦礫の前に進み、そこへ膝をつき、何かを拾い上げた。
「いいもの見つけたよ。そのガスマスク君が天井を破壊してくれたおかげでさ。ほら、アイテムゲットだ」
 全員の視界に入るようにかかげて見せたそれは、日記の断片のようだった。
「“あの日、あの瞬間、私の世界は終わった。そして、あの日、あの瞬間から、私の世界は始まった”……だって。ちょっと好奇心をくすぐられるよね」
 意味ありげなその文句は、流麗な詩編のようにも、苦悩に満ちた告白文のようにもあるいは、小説の書き出しのようにも見えた。
「その一節が登場する作品には覚えがあるのだがね……しかし、そこに生ける屍は存在しない。『彼』が求めていたのは、そうしたものとは違う方向であったはずだからね」
「へえ……あ、そうだ、聞こう聞こうと思っていたんだけどね? 女刑事さんはドクターの《お友達》になったのかい?」
 好奇心と呼ぶにはかすかな毒を含んで、ヘンリーは明日に笑い掛けた。
 ドクターの台詞に若干の違和感を覚え、そして明日の携帯のひとつにストラップが増えたことにも気付いたからには、それに触れておかなければというような態度だ。
 明日は無表情のままに、短く「ええ」とだけ返した。
 ほんの少しだけ視線がぶれたが、さらなる問いを重ねる前に、ドクターの台詞が挟み込まれる。
「では、変質の原因をさぐりましょうか」
 様々な出来事が一度に起こったにもかかわらず、どこまでも変わらぬポーカーフェイスの微笑で精神科医はやんわりと先を促した。



 あの日、あの瞬間、私の世界は終わった。
 そして、あの日、あの瞬間から、私の世界は始まった。
 神が私を欺くのなら、私も神に仇なすのみだ。
 シャーレの中に悪魔がいないなら、書物の中に悪魔を求める……



 ゆらりと部屋に生まれた影が揺らぎ、透明なさざめきで満たされたそこへ、ブラックウッドは音もなく降り立つ。
 天井一面に嵌め込まれた透き硝子には天使が描かれている。
 無彩色の天使たちに見下ろされた食堂は、何十客ものアンティークのバルーンバックチェアと、そして長テーブルによって占められていた。
 等間隔に置かれた銀の燭台、銀の皿、銀のナイフとスプーン、枯れた花々がガラスの花瓶を飾る。
 その中で乾いた血のにおいがする。
 導かれるまま、ブラックウッドはゆっくりとアンティークチェアを眺め、歩く。
 白いテーブルクロスに、かすんだ食器。どこまでも続く同じ光景。
 だが。
 ある場所でだけ、そのパターンが崩れる。
 そこだけ乱れているのだ。皿も、フォークも、ナイフも、ピンと張っていたテーブルクロスすらも乱れ、赤黒いしみが広がっている。
 まるで、そう――まるで、毒を飲み、苦しみもがき、大量の血を吐いて伏した者がそこにいたことを示すかのような痕跡だ。
「……《声》を、聞かせてくれるかね?」
 ブラックウッドは、そこに残る血へとそっと指を這わせる。

『甦るために、取り戻すために、糧になるのだ、その体に流れる血を、その身にまとう肉を、差し出せ……』
『――苦しい……熱い……喉が、焼けて……苦しい、痛い……』
『お前の命を捧げろ……そして、罪を贖え……』
『……ちが……ちが、う……あれは、わた、私じゃ、な……』

 声とともに、そこにもがき苦しむ着飾った婦人と、その傍に佇み、じっと見下ろす男の姿を幻視する。
「死者蘇生の呪を求めているのだね……そのために、手を下したと……」
 外から医者が呼ばれたことは、先ほどの死者から既に得た。
 だとすれば、まだ見ぬこの屋敷の主が死者の研究をするのは、死者になるべき定めの者の延命か、あるいはすでに死者となったモノのための蘇生か。
 幻の中の男は、血にまみれたその姿で何かを腕の中に抱いたまま、ゆらりと歩き出す。
 ブラックウッドはそっと目を細め、『彼』のあとを追いかけた。



 暗く冷たい牢獄で男は、うずくまり、嘆く、嘆く、嘆き悲しみ、苦しむ。
 喪失が押し寄せてくる。
 孤独だ。
 途方もない孤独と憎悪に押しつぶされかけながら、男は、願う。

 取り戻したい。
 取り戻さなくてはならない。
 あいつらに奪われ、失われたものを、今一度。
 あいつらに代償を支払わせ、この手に。
 そのために、そのために私は……

 男の傍らでアームチェアが揺れる。
 座るもののいないソレは、まるで、痩せて醜悪な異形と化した悪魔が抱き締めるものを待っているかのようなデザインだった。



 けっして多くはないけれど確実に存在し続ける歩く死者たちを、ハーメルンたちは無言のまま射殺していく。冷静さを取り戻したというよりはむしろ、事態に混乱してまともにしゃべられない、というのが真相だろう。そこに時折ヘンリーの銃声も混じった。
 天井から、廊下の奥から、扉の向こうから、窓から、現れ、襲い掛かるその寸前に撃ち落とされていく歩き回る死者たちの屍は、やはりひとつもその場に残らない。
「ケイ・シー・ストラを攫った存在と、『旦那様』とは別人と考えて良いのかもしれないな」
 メルヴィンは、脊髄反射のような銃撃戦の合間に調度品などを丹念に調べていく。
「話を聞く限りの印象として、そしてここでの現象だけをとらえると、僕が得た情報との間にイメージに相違を感じるのだよ」
「粗野な異形の存在と、狂った若き当主、って感じかな? 老執事が旦那さまだかの演技だったりしたら素敵だけどね。だいたいドクターの私室に直接電話をかけてこれる時点でオカシイし」
「おや、そういうものなのかね?」
「ええ。あの番号は外には公開されていませんから。いただいたお電話の感触からして、そうですね、普通の電話回線をお使いになっているという感じでもなかったと思いますよ?」
「そう……特殊な力を行使しているのだとしたら、こちらの行動を常に監視している存在がいることも忘れてはいけないわね」
「キーワードは復讐と研究と悪魔、だ。どれもこれも実に胡散臭いよね、ホントにさ」
 ほどなくして辿り着いた暖炉の置かれたホールには、微妙に印象を違える扉が3つ。
 ひとつは、いま一行がやってきた玄関ホールへとつながる扉。
 残りふたつは左右の壁にひとつずつ。
 図面で見る限り、右には食堂や書斎を含むプライベートルームが、左には客室や資料室が配置されているようだ。どちらからも、最奥にある塔には行ける構造らしい。
「ここまでは僕の記憶通りの配置で安心した。問題はここから先なのだけども、さて、そろそろ全員で連れ立って歩くのはやめてみるかね?」
「そうね。ここまで進んできて今のところ、分かったことといえば、確かにここで事件が起き、誰かが致命的な怪我を負ったことだけ。……なぜこうなったのか、執事、そしてここの主はどこにいるのかすら、手掛かりらしい手掛かりも得られていないのだし」
 メルヴィンの言葉に明日、そしてヘンリーが続く。
「ふむ、まさしく非効率的だ。この図面を見る限り東棟は3階まであり、外から見えていたあの塔に辿り着くまでにも相当数のスペースがある。部屋数は客室だけで20を超えるだろうし?」
 全員が連れ立って、その一つ一つを入念に調べるだけの時間はおそらくないだろう。
「でも、懐かしいな。以前もこうして館を探索したんだけどね、あの時はゾンビの代わりにいくつもの装飾された死体と、幾人もの殺人犯たちであふれていたっけ」
 目を細め、ヘンリーはくすりと楽しげな笑みをこぼした。
「ねえ、D。古時計が鳴るあの部屋で、僕らはあそこで友達になったんだよね」
「ええ。懐かしいですね。あの時、あなたは黒髪の探偵として手を貸してくださいました」
 どこか子供のような無邪気さのある彼の表情に、進行しすぎた絶望の病を見てとることはできない。
「いろいろ思い出してきた! ふむ。僕はね、今日は楽しむために来たんだ。求められているというのなら【探偵】にだってなってあげるけど、どうかな?」
 踊り出しそうなほど軽やかにくるりとステップを踏んで、ヘンリーはドクターの手を取り、顔を覗き込む。
「ドクター、僕に探偵を求めるかい?」
「わたしはあなたのロジックの構築方法は実に素晴らしいと思っていますよ、ヘンリー?」
「それじゃあ、そうしよう」
 にっこり笑って、まるでファンサービスを怠らない一流のエンターテイナーとしての顔を見せる。
 ぱちん。
 白手袋に包まれた指が、パチン、と軽やかにはじかれて。
「おや、これは面白い」
 思わずメルヴィンから賞賛と驚きの声が漏れた。
 鮮やかな奇術、文字通りの『変身』によって、黒い巻き毛の、物憂げな貴族風の紳士が現れた。
「どんなに眺めても種も仕掛けもないから、そのつもりでいるといい」
 冷ややかで皮肉げな視線をメルヴィンに、それから明日へと向け、最後に探偵はドクターDをとらえた。
「推理の時間にはまだ早い。探索を続けようか。現場検証と言い換えた方がよさそうだがな」
「では僕はこちらを選ばせてもらうとしよう。呼ばれている気がするのだよ、誰かにね」
 そう言ってメルヴィンはウィンクし、ひとり、右の扉へと向かった。その足取りに迷いはなく、優雅な自信にあふれている。
 そして、
「……なんだ、こちらは定員一名様ということか?」
 彼が扉を抜けた瞬間、そこは永遠に閉ざされてしまったかのように、探偵がいくらドアノブを捻ってみてもピクリとも動かなくなっていた。
「まあ、俺はどちらでも構わないがな」
「では我々は左手側に参りましょうか?」
 そう言って、ドクターは左の扉に手をかける。
「グラファイトさんが描いてくださった見取り図の正否も確認しなくてはなりませんし、グラファイトさんが向かわれた場所には頼もしい協力者がいらっしゃるようですから、何があったとしても大丈夫かと思います」
「え?」
 さらりと告げられた言葉に、明日はつい疑問符を浮かべるが、それを問いの形にするより先に、何者かの声に遮られた。

『まさしく、まさしく、望んだもの――契約の証――』

 明日の隣にいたドクターDの体が、ふ、と宙に浮く。
「ドクター!?」
 とっさに手を伸ばしたが、届かない。敵わない。ばくりと口を開いた左の扉へ、彼の体がすさまじいスピードで引きこまれていく。
 攫われる。
「やめて!」
 扉が開く、開く、開く、いくつもいくつもいくつも、――そして、閉じる。
「どうやらある意味正解だったようだな。この屋敷の主の目的の一つが、明確になった」
 黒髪の探偵は冷静に、閉ざされた扉の向こう側を見つめる。
 ドクターDがこの屋敷に直に呼ばれた、その意味を考えていたはずだ。
 ケイ・シー・ストラの状況に酷似した、それはあらかじめ仕組まれていたことのように思えてならない。
「リーダーをさらっていったのは男の声だった」
 この光景を目の当たりにし、ハーメルンたちに動揺が広がる。もしもガスマスクをはぐことができたら、そろって視線が泳いでいるのが見れただろう。再び司令塔を失った彼らの言動は支離滅裂となる。
「そうだ、ちょうど――」「ちょうど、こんな」「いや、違う」「これは」「どこだ」「どこにいる」
『許さない、奪ってやる、すべてだ、すべて、すべて、すべて、復讐のために――』
「殺してやる」「消してやる」「リーダーを返せ!」
 乱れた3人の銃声が四方八方を埋めつくす。
 響き渡る銃声、その音だけが延々と、延々と続いて。
 破壊の限りを尽くそうとしてすらいる彼らを厭うように、それまでほとんど姿を現すことのなかった死者たちが扉という扉から押し寄せてきた。
 屋敷を守る壁を自らの体で作ってでもいるのか。
 ハーメルンたちの姿を覆い隠すように、生ける屍たちはうごめき、集まり、襲い掛かり、そして――ハーメルンたちもまた、消えた。
 消えるはずのない壁の向こう側に、彼らもまた飲まれてしまった。
 そしてここには、ふたり、明日と、探偵だけが残される。
「さて、救い出すべき対象が増えたのか変更になったのかはわからないが、このまま進む以外ないようだ」
「……そうね」
 努めて無表情のまま、明日は目を細め、ドクターDの消えた扉を見つめる。
「ドクターがここに呼ばれたのも必然だった、という証明がされた。あとは、ここの主の研究の目的が見えてくるといいんだけど……自分の大切な者を生き返らせるため? それとも、自分が死んでも生きながらえるためかしら?」
 見取り図でいけば、この先には東の塔がある。
 シンメトリーの美しい館の、最東端に位置する尖塔に、すべての謎の答えが用意されているのだろうか。
「……元になった映画通りの動機ならまだ分かりやすいんだがな……」
 ぽつりと黒髪の探偵はつぶやき、ゆっくりと歩きだす。
 明日はその背を見つめ、唇を引き結んだまま無言で後に続いた。
 扉はふたりを拒まなかった。



 神は私を見捨てた。
 ゆえに私は悪魔へとわが魂を売り渡す。



 壁一面を埋めるのは、透かし彫りの美しいガラス戸を嵌め込み繊細な彫刻を施された本棚だ。
 ひとつの美術品としても価値の高いそれを、ブラックウッドはゆったりと鑑賞する。
 シリーズタイトルごと、そして著者名順に揃えられた背表紙はどれも年代を感じさせはしたが手入れの行きとどいた印象を与える。
 ざっと見た限り、並んでいるのは美術品や美術史に関わるものがほとんどだ。例えば魔術を含めたオカルトめいたもの、あるいは遺伝子工学やバイオテクノロジーに関連したものは一冊も見られない。
 代わりにべったりと、ここにも淀んで変質した血の手形が押されているのみだ。
「さて、そろそろだろうかね」
 扉が開かれた気配に、ブラックウッドは振り返る。
 視線の先、開かれた扉の向こうからやってきたものを迎えた。
「待っていたよ」
「ああ、やはり……僕は貴方にここで会えるような気がしていたんだ」
 人ならざる紳士ふたりの邂逅は、この洋館という舞台装置の上で、この上もなく美しい構図となって表れる。
 互いに互いの瞳を見つめ、あらゆる意味を含んだ笑みを交わす。
 握手を求めたのは、メルヴィンの方からだった。
「僕は魔術に関してはまるで門外漢でね。できることと言ったら、せいぜいが金勘定ときている。まったくお恥ずかしい限りだよ」
 すべてを見透かすような吸血鬼の瞳を、穏やかに見つめ、告げる。
「ぜひ貴方の意見を伺いたいと思っていたんだ。貴方の理によって解かれるものがあると僕は知っている」
「そう言っていただけるとは光栄だね、ミスターグラファイト」
 にこやかに、ブラックウッドも友好を示し、彼の手を握り返した。
「メルヴィンと。僕も貴方をブラックウッドと呼ばせてもらうから。どうだろう?」
「では、メルヴィン。共にこの先へ進むかね?」
「そのつもりだ」
 笑みを浮かべ、メルヴィンはブラックウッドの隣に立ち、書棚の彫刻に指を這わせてうっとりを眺める。
「この質感、まさしく……」
「そう、またしく隠し扉なのだよ。いつの時代にも、こうしてカラクリに心血を注ぐものがいるのだね」
「変わらないその心理を、僕はとても興味深く歓迎するよ」
「探究者には敬意を表すべきではあるがね」
「ここから先で待っているのは、パンドラの箱であるかもしれないね」
 書棚の中にまぎれたスイッチを探し当てたのはブラックウッドだ。しかし、メルヴィンはあらかじめ答えを知っていたように見える。
 棚を縁取る飾りの蔓草の一部が、回転した。
 そして。
 ふたりの紳士はともに笑みを浮かべ、口を開けて来訪を待ちわびるその新たな扉へと足を踏み入れた。

 廊下に扉や窓はなく、精緻な細工を施された額が壁を飾る。
 しかし、額縁の絵画はどれも陰惨極まりない。
 宗教画と呼べるものに近いが、どれもが死や悪夢を彷彿とさせる。
 視界に入るだけでも、ティントレットの『カインとアベル』、カラヴァッジオの『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』、フュースリの『グイド・カヴァルカンティの亡霊に出会うテオドーレ』と並ぶ。
 この絵画を集めるとき、そこに蒐集者は何を見ていたのか。
「生ける屍、歩く死者、動き回るその者たちに、安寧の地はないのだがねぇ」
 自らも自然の摂理から外れて生きるブラックウッドは、ひっそりとこの蒐集者へ苦笑とも憐みともつかないものを向ける。
 床を覆う冷たいじゅうたんに、冷たい血液の痕。滴り落ちたソレは、点々と奥の奥まで続いている。
 屍はなく、ただそのシミだけが異様な存在感を放っていた。
「美しいペルシャ絨毯だったのに、無粋なことをするね」
 いくぶん残念そうにメルヴィンは呟いた。



 美しい頭脳。
 求めるべき存在。
 悪魔が求めるものを差し出して、私は私の望みを叶える――



 乾いた血の跡が途切れた先に、扉があった。押し開けば、あやしげな水音が連なり、続く空間が広がる。
 薄闇の中では、広すぎる作業テーブルの上に、いくつもの試験管とフラスコ、アルコールランプ、シャーレ、それから保温機、そして外科手術でも執り行うのかといったオペ台と器具が並んでいた。
「この光景は見たことがある。いくつもの映画で、僕はこの手の研究室を目の当たりにして来たんだがね」
「死者が動くとき、貴方は感染を疑うかね? それとも呪術を?」
「これを見る限り、そう、科学的な手法でもって取り組もうとした意図が見える。死者を動かす方法を一種の医学と定義づけることも可能な状況だね。しかし……」
 別の棚にずらりと並んでいるのは部品だ。無数の部品。部品になってしまった人間の一部。ただし、そのほとんどは《臓器》を収集目的としている。
 それらを薬品に漬けこんで、まるで腐ったものを新鮮なものへと移植するかのように――
「しかし、僕がここで出会った『この屋敷を徘徊する死者』にはむしろ外見にこそ継ぎ接ぎの痕跡が見られていた、と思うのだけども。どうだろう?」
「私もだよ。そして、気づいていたかね? 歩く死者たちの服は、この屋敷の主と思われるモノとは国も年代も違う」
 そうしてブラックウッドは、瓶をひとつ取り上げた。腐ることなく原形をとどめた眼球は、食堂で幻視した婦人の双眸に酷似している。
「幾度か、……そう、長い時の中で幾度もこの目にしてきたあの空気、あの感触は、まさしく呪法であってしかるべきもの。シャーレの中で生まれた《悪魔》でもなければ、行きすぎた医学によって生まれえたものでもありえないのだよ、メルヴィン」
 化学薬品と瓶漬けの部品たちは確かに、かの狂科学者フランケンシュタイン博士を彷彿とさせる。しかし、この部品たちを見る限り、その実験が成功しそうにないことは明白だ。
 ここにあるもので、死者は動かない。
 ならば今この屋敷で死者を動かしているモノは何であるのか。
 視線を巡らせていけば、ここでただひとつ、磨きこまれた飾り棚が目についた。
 だが傍に行けばそれが、飾り棚などではなく、オーク材によって作り上げあれ、ゼンマイ仕掛けと金属盤によって音を奏でるオルゴールであることが知れるだろう。
 時計職人によって技巧を凝らされた美しい装飾は、メリーゴーランドをモチーフとしているらしい。
 そして、そのオルゴールの傍らには羊皮紙に描かれた陣が広げられている。
「これは……メルヴィン、君が探していたものはこれかね?」
「……ああ! ああ、まさしくこれだ。これではっきりしたよ。映画が二つ重なっているのだとは思ったが……なるほど、その両方をどうやら突き止められたらしい」
 メルヴィンはひどく清々しい想いで笑みを浮かべた。
「違和感のすべてが解明され、そして、ひとつの答えが導き出される……ブラックウッド、この屋敷を取り巻く『術』を無に帰すことが貴方になら可能だと思うのだけど……」
「可能ではあるだろうね。いや、術そのものにこだわる必要などなく、ただ彼の妄執を止めればよいだけなのかもしれないのだがね」
 それが生の不文律を超えた自身の役目だと言わんばかりに、そっと微笑む。
「では、進むべきかな。僕の見取り図は正しかったことは証明された。東の塔に行こう」
「救うべきものがいるのだから、向かうべきだね。そう、《彼女》たちのためにも……」
 ブラックウッドは貴婦人を扱うように丁寧に、そして慇懃に、アンティーク・オルゴールへと触れる。
 機械仕掛けのその匣は、ねじを巻かれ、盤を回して、穏やかな曲を奏で始めた。錆びついた印象はまるでない、澄んだ温かな音色。
 メリーゴーランドが回る。回り、回り、回り続けるそれを静かに眺める亜麻色の髪の婦人と、彼女に手を引かれた癖毛の幼い少年の姿を、その儚げで哀しげなふたりの後ろ姿を、ブラックウッドは確かに幻視していた。



 明日と黒髪の探偵は真鍮のフレームで飾られた多角形のシャンデリアが並ぶ廊下を進み、いくぶん趣を変えた一室へとたどり着いた。
 図面上、最短で東塔へ向かうことができるルートは3階のこの場所にあることになっているのだ。
「まるで温室のようだけど……」
「ウィンターガーデンと呼ばれるモノだ。室内庭園と訳せばわかるだろう? 冬でも多彩な植物を観賞することができる」
 ガラスを嵌め込まれた天井と壁二面、まるでチェス盤のように白と黒のタイルを交互に並べた床、ひどくゆるやかな傾斜、そして部屋の隅に設置されたポンプとつながれた長いホース。
 だが何よりも目を引くのは、あふれんばかりの熱帯植物だ。濃い緑と色鮮やかな花は、眼下に広がる中庭の白バラたちよりもよほど生命力にあふれている。
 明日は探るように慎重に足を踏み入れ、そして、タイルの上、花が落とす影の中にまたしても血の跡を見つけた。
「……ここでも、誰かが死んでいるのね……」
「殺害現場じゃない場所を探す方がよほど難しいんじゃないか? これまで目にしてきた状態から見て、すくなくとも二桁の人間が死んでいる。ゾンビがまき散らした血もあるだろうがな」
「この館の現当主も襲われた可能性もあるかしら」
「さあ、どうだろうな。共犯関係にあるなら、自分の安全くらいは確保できているんじゃないか? でなければ、ドクターDをさらう意味がわからない」
「……そうね」
 明日は膝をつき、その血にそっと触れてみた。乾いている。匂いもしない。そのまま指をタイルに沿って這わせていくと。
 カチリと、どこかでスイッチの入る音がした。
「――!」
 明日の心臓が一瞬跳ねる。
 日差しが差し込むその室内庭園のガラス窓が不透明なものへと変わり、室内庭園を照らす照明が落ちた。
 そして。
 カタカタカタ、と、そう、映写機が動き出すような音が続き、闇に染まった世界で、白く四角く切り取られた光の窓が、ガラス一面に投影された。
「……これ、何が始まるのかしら……」
「さあな。だが、こういうタイミングで動き出す以上、手掛かりになるものだろう。映画であれば、無駄な演出は極力省かれるだろうしな」
 彼の言葉が正しいことはすぐに証明された。

 四角く切り取られた光の中で、ドレスをまとった亜麻色の髪の婦人が、少女のように笑いながら映りこんできた。
 彼女を追いかけるのは少年だ。
 幼い子供と彼女は親子なのだろう。
 薔薇園の中で楽しげに追いかけっこをしている。
 時に手をつなぎ、時に抱きしめあいながら、音声はないけれど、きっとそこには笑い声がキラキラとはじけているはずだ。
 微笑ましい母子の光景。
 だが。
 彼女たちの表情が不意に凍りつく。
 彼女は子供の体をしっかりと抱きよせ、抱きこんで、地に膝をつき、怯えた視線をこちらへ向ける。
 大きな黒い影が、彼女たちの前に落とされた。
 それは、銃を構えた男のようにも思えて――
 ――じり……っ……
 決定的な瞬間が映し出されるより先に、白い枠が、フィルムの端が焦げ付くようなにおいを振りまきながらぶつぶつと溶解されていく。
 そして、映像は闇の中に溶け。
 あとにはもう、何もない。
 ウィンターガーデンは太陽の光を取り戻し、明日たちを昼の時間へと引き戻す。
「この館の主が望んでいること、これはもう明白だな……研究の成果とやらでここがリビング・デッドの館と化したかどうかは別にして、望んだのは《妻子の復活》だ」
 言いながら彼はしばらく思案するように白と黒の床を眺め、おもむろに、その一枚を取り外した――取り外せてしまった。
 そうして革靴の先で、パネルとなったタイルを動かしていく。
 まるでパズルだ。
 明日はその行動の意図をあえて問わない。代わりに、彼との会話をつづけていく。
「彼は、求めたのね……ここで、奪われた自分の家族を取り戻そうとした……」
「ドクターを呼び出したのも、その材料にするつもりだったんだろう。ただし、奇妙な力添えが余所からあったらしいがな」
「電話の件ね? ……ただ、思うの。助けを求めたのは本当かもしれないわ……本当に、どうにもならなくて、どうにかしてほしくて、心のどこかでドクターに……」
「迷惑な話だ。救いを求めるならもっと分かりやすい方法をとればいい。所詮、罪は罪だ。犯したソレが軽くなることはない」
 どこか冷ややかに、傲慢に、黒髪の探偵は告げた。
 そして。
「犯人を断罪する時間だ。東塔に続く扉は開いた。ここから行けばいいんだろう?」
 ガラス窓でも建物から続く扉でもない、ただの白い壁でしかなかったそこに、隠し通路が口を開いていた。



 安楽椅子が揺れる。
 ぎしぎしと軋んだ音を立てながら、そこに座すものへ安寧とは言い難い時間を強いる。
『ドクターD……美しい頭脳を持つもの……』
 べっとりとした血に汚れた指が、銀の髪を掴む。
『悪魔はお前を欲している。悪魔はお前を必要としている。悪魔はお前さえ手に入れたら、私の願いを叶えてくれるといった』
 落とされていく言葉はひどく冷たい揺らぎの中にある。
『悪魔は肉体を手に入れた。西と東が結ばれたら、この契約は完了する』
 掴んだ髪を引き、無理に顔をあげさせて覗き込みながら、その瞳はすでにこの世界のどこも見ていない。
『お前の精神力、お前の頭脳、お前のその知識が……供物になる。そうして契約は果たされるんだ。何度も失敗した、何度も挫折しそうになった、だが、だが、ついに私の願いが成就する!』
 目に見えない拘束によって縛りつけられながら、精神科医は穏やかな視線を男に注ぐ。
「……あなたは、救いを求められています……」
 男から与えられる一切の苦痛を感じていないかのように、凪いだ瞳で静かな声をそっと紡ぐ。
「大きな悲劇に見舞われ喪失を抱えた時、人は自身を責める。あるいは世界を、もしくは他者を、責めながら、自ら深みへと落ちてしまわれる方がいます……縋るべきものを得られず、誤った方法で自身の喪失を埋めようとする」
 男の耳にその声は届いているのだろうか。
「苦しまれましたね……その喪失を、その痛みを、癒す術を、もうじきあなたは得ることができますよ」
 ドクターはそっと微笑む。
 恐怖も嫌悪も断罪もなく、ただ共感と受容に包まれた静かな笑みを男へと向けた。



 償いであり、贖いだ。
 これは、最愛のものを奪った者たちから、最愛のものを取り返すための、契約――



 一方は書斎の奥に隠された扉から、もう一方はウィンターガーデンの壁に隠された扉から、その石造りの細い通路は、東の尖塔へと続いていた。
 風雨に曝されることなく壁の中を伸びる唯一の道の先で、4人は出会う。それは必然の再会だ。
「やあ、明日。こうしてここでまた君と会えると思っていたよ」
「メルヴィン、望むべき情報をあなたは得られたのかしら?」
「おや、探偵の君と会えるとは、今日はずいぶんと私は運がいいようだねぇ」
「……俺は別にあんたと会いたいとは思っていなかったけどな」
 交わされる言葉には挨拶以上の意味はない。
 意味ある言葉はこの先、扉の向こう側にいる男の前で語られるべきだからだ。

『殺してやる……殺してしまえばいい……』
『取り戻したい。今なら、取り戻せる。取り戻す……取り戻す……』
『失った、奪われた、赦さない、赦さない、赦さない――』

 嘆きの声が漏れ聞こえるその扉へと、4人はほぼ同時に手をかけた。

 ――……ぎぃ……っ……

 それは牢獄にも似た石造りの冷たい部屋だった。
 床に敷き詰められた古い紙にはいくつもの奇妙な文字と図形が書き込まれ、そのどれもがどす黒い赤に染まっている。
 ただひとつの調度品といえば、奇怪な装飾を施された安楽椅子のみだ。
「……っ」
 明日は息を呑む。
 銀の髪や白い頬を血に汚した姿でそこに座しているドクターDに、その彼の首に手をかけている男の姿に、心臓が止まりかけるほどの衝撃を受ける。
『もうすぐ叶う、もうすぐだ、もうすぐ……この男を、捧げて……』
 男はドクターを見る。
 痩せこけた顔に嵌め込まれた瞳にぎらぎらとした妄執を宿して、男はドクターだけを見つめる。
 ドクターは何も言わず、ただ静かに男の言葉を聞いていた。
 そして、そのまなざしを、ここに集まった者たちへと向け、うなずいてみせる。
 それが何を意味するのか、最初に気付いたのはメルヴィンだった。
「君がどこの誰であるのか、僕はもう知っている」
 穏やかな声で、自身の中に蓄積されたデータを、詩を朗読するような優雅さで綴っていく。
「《コード・オブ・マーダー》……愛する者を欲に目がくらんだ親族によって奪われ、死者蘇生の研究にのめりこみ、殺戮の限りを尽くした狂気の物語……あの研究室は実に特徴的だからね、印象深く残っているのだよ。君の心象風景に、僕はずいぶんと心惹かれた」
 そして。
「その君を侵しているモノ、この館の理に混ざりこんでいるもうひとつのハザードは、《ハウス・オブ・ザ・コープス》――悪魔崇拝から来る死者蘇りを扱ったものだ。一方がロジックで構築されたミステリーであるのに対し、もう一方は不条理を常とするホラーなのだよ? それらが混ざり合えば、おのずと《世界の理》も壊れてしまうだろう」
 叶うべきではない望みが叶い、抱くべきではない望みによって支配される。それは捕らわれなくともいい妄執に操られることにもつながる。
「君の心にはいま一体何が映っているのだろう? その形は本当に君が望んだ姿で在り続けているのかい?」
「あなたの奥さんと子供の映像を見たわ。とても幸せそうだった。あなたは、あの日々を取り戻したかったのね」
 メルヴィンの問いかけに、明日が続く。
「だけど……大切な人を取り戻すために他者を犠牲にする……それは決して許される行為じゃないわ。復讐は何も生まない。誰も決して幸せになれない。あなたの選択は、あなた自身を苦しめるだけよ」
 刑事として見てきた人々の哀しい顛末を、罪深き者たちのその後を、明日はだれよりも強く胸に刻んでいる。
『……だまれ……だまれ! ……私は……私は取り戻す……もう少し、もう少しで……』
「あいにく、お前がすがった悪魔は契約を果たせない」
 抗う男の言葉に対し、あざけるように答えを返したのは、黒髪の探偵だった。
「今頃西の棟で完膚なきまでにたたきつぶされているはずだ。ここが銀幕市である以上、そういうふうに《シナリオ》は進む。安易な方法に飛びついたんだろうが、残念だったな」
 辛辣な言葉は、断罪の儀にも等しい。男がすがるすべてのものを否定して、打ちのめす。
 男は初めて大きく動揺した。
『……うそだ……』
 ドクターの首から手を放し、よろけながら、彼らから距離を取るように後ずさる。
『悪魔は約束した……私は、この男を差し出して……』
「仮にも《ミステリーの住人》であるのなら、美しいロジックの中にいろ。死者蘇生をもくろみ、それを悪魔などという存在に託すくらいなら、堂々とシリアルキラーになり、技巧を凝らして復讐をその手で完遂しろ。そうすれば、礼儀としてこちらは全力でその罪を暴き、止める」
 示される探偵の矜持には、いくつもの棘が含まれていた。
「死は不可逆的なものであるべきなのだよ。そして、その摂理を犯した先に待つ代償は、人一人が背負うにはあまりにも重すぎるものだ」
 射抜くように見据える探偵の言葉を継いで、ブラックウッドが憐れみを込めて、男を見つめる。
「眠りたまえ。君が求める者は、眠りの向こうにこそ存在するのだからね」
 甘く優しくやわらかく耳の奥へと忍び込んでいく声に、彼は戸惑い、揺らぎ、そして逆らうこともできずに伸ばされた手に自らのそれを重ねた。
 ――吸血鬼の抱擁。
『う、あぁ……』
 闇色でありながら甘美な幻想が、至上の快楽が、朽ちた魂に安らぎを与える。
 明日はかつて一度その光景を目にしている。
 庭園の女主人――月の女神の名を持つ彼女の悲しみを終わらせるために抱きしめた姿と、今この瞬間、苦悩に満ちて壊れた男を抱く姿が重なった。
 もしもあの時と同じなら、この男にもまた、終りが約束される。
『声が……』
 ぽつりと、こぼされる呟き。
『……声が、聞こえる……私の愛しい、妻と、わが子の声が……』
 吸血鬼の腕の中で、男はそこに安らぎを見る。
 幸福の兆しを見る。
 どこからかオルゴールの音色が奏でられる。やわらかく包み込むような旋律をまとって、男は微笑み、空へと手を伸ばし。
 そして。
 彼の姿は消えた。
 プレミアフィルムすら、残さずに。
「え、どうして……」
「生ける屍たちと同じ、この屋敷に付随した存在だったってことだろう」
 思わずもれた明日の問いに、気だるげな声音で探偵が答え、メルヴィンがほんの少し目を見張る。
「なるほど。こういうことも起こりうるのか」
「これで、すべてが終わるのだと思うのだがね……」
 ブラックウッドのその言葉を合図としたかのように、床一面を占める図形たちが消えていく。
 べったりと穢す血のどす黒い赤も消えていく。
 陰鬱な世界が終わりを告げて、幸福だった、穏やかだった、かつて光のもとに展開されていただろう在りし日の姿へと変わっていくかのような。
「……とても優しい《終焉》ですね……」
 安楽椅子から解放された精神科医は眩しげに眼を細めてその光景を眺め、
「ありがとうございます」
 ブラックウッドを、メルヴィンを、明日を、探偵を、一人一人を見つめ、微笑み、礼を言った。
「本当に、ありがとうございました」
 彼らはそれぞれに、それぞれの笑みで、その礼に返した。
 扉が、ありとあらゆるこの館の扉が開かれる。
 外に向けて、閉ざされていた一切が解放されていく。
 それはまるで一種の浄化にも見えた。
 5人はそれを見届けるため、東の塔から屋敷内部へと戻る。長い通路を渡り、開かれた扉をくぐり、過去の惨劇の痕跡を綺麗に拭い去っていく光の波を追いかけるように。


「そういえばハーメルンたちはどうしたんだろう?」
 1階の暖炉が置かれた大ホールから東棟を抜け、玄関ホール、そこから前庭へ出た処で、ヘンリーは首を傾げた。黒髪の探偵は、いつの間にか金の髪の奇術師に戻っている。
「おや、彼らもどこかへいってしまったのかい?」
「ええ、ドクターが攫われてすぐに、彼らもあたしたちから引き離されたの」
「ふむ……その答えはすぐにわかるだろうねぇ」
 メルヴィンと明日の言葉にかぶせて、ブラックウッドが視線を投げる。
 つられてそちらを向いた瞬間、
「リーダー!」「リーダーは!?」「リーダーはどうなった!?」
 それぞれに銃を抱えたガスマスクたちが、半狂乱になりながらこちらへと駆け込んできた。
 扉という扉が意思を持ち、おそらく彼らを隔離していたのだろうが、ハザードが去れば、そこを支配していた不可解な力も消え去るものだ。
 満身創痍の彼らは、ドクターDに詰め寄る。
「いきなり扉が開いたぞ!」「敵は殲滅したか?」「したんだろ、リーダーはどうしたぁあ!?」「うわぁあ、リーダー!」
「ちょっと、あなたたち!」
 思わず明日が制止の声をあげるが、詰め寄られた当の本人は、臆する風もなく笑顔で彼らの訴えを受け止めた。
「きっとストラヴィンスキーさんも無事救出されていると思いますよ?」
 一瞬、そこにいた誰もがドクターが誰のことを言ったのか分からなかったが、構わず彼は微笑み、ハーメルンたちの視線を西棟の一角へ導く。
「そろそろだと思うのですが……ああ、あちらを。見えますか、ヘッケラーさん、ドラグノフさん、アレクセイさん?」
「リーダー!」「リーダーだ!」「リーダーが帰ってきた!」「「「ハラショー!」」」
 西の端から順に崩れていく、壊れていく、朽ちていくその屋敷の中で、彼らは自身のリーダーが連れ出されているのを見た。
 待機していたハーメルンメンバーまでもが一斉に色めき立つ。
 親鳥の奪還に歓喜する雛鳥の姿は、彼らがテロリスト集団であることを忘れさせるほどに微笑ましかった。
「……ふうん、奪還成功したんだ。僕としては、ケイ・シー・ストラを失った君たちは『最終的に』どうなってしまうのか見たかったんだけどね、好奇心が満たされることはなかったようで残念だよ」
 くすりと笑いを含んでヘンリーはドクターの隣に立って、彼らに一瞥を送る。
 そもそも、そう、そもそもだ。
 ヘンリーはハーメルンたちが引き起こした最初の事件、サーカスでの人質事件から派生するだろう展開をとても楽しみにしていたのだ。
 悪役たらんとするその姿勢に、賞賛の拍手を送った。
 しかし、彼らはあろうことか『目を覚まして改心』してしまった。正確には、操られていた呪縛から解き放たれ、『正気』に戻ってしまった。
 それをとても残念に思ったことを、とてもとてもガッカリしたことを、とてもとてもとても拍子抜けしたことを、言葉の毒としてしのばせる。
「ヘンリー」
 たしなめるように声をかけたのは明日だ。
「怖い顔だね、レディ。僕はごくごく正直な感想を漏らしただけなのに」
 わざとらしく肩をすくめると、
「さて、そろそろ僕は暇を告げようかな。直にこっちも崩壊していくだろうからさ。ああ、そうだ。そのうち今日の報酬をもらいに行くよ、ドクター」
「ええ、お待ちしてますよ、ヘンリー」
「それじゃあ、ごきげんよう」
 悪戯めいた微笑を浮かべて、明日の前でドクターの頬に別れのキスを残し、ヘンリー・ローズウッドは両手を大きく広げ、どこからともなく視界を埋めるほどに大量の白バラをあふれさせた。
 そして、
「え」
 花のすべてが地に落ちた時にはもう、彼の姿はどこにもなかった。
「相変わらず見事な消失をやってのけるのだねぇ」
「僕は今日だけでずいぶんと彼に素敵なショーを見させてもらったよ。実に興味深い」
 ブラックウッドの笑みに頷き、メルヴィンもまた感嘆と賞賛のため息をこぼす。
 その声に重なるようにして、どこからか木材の爆ぜる音が聞こえてきた。鼻先に届くのは、何かが燃えるときの、あの独特のなんともいえない不吉なにおいだ。
「なるほど、この屋敷からハザードが去り、元の姿に戻ろうとしているのだろうね」
 メルヴィンはそっと目を細め、この美しい外観を網膜に焼きつけていく。
「旧霧崎邸は火事によって焼失したのだというし」
「ええ……撮影中の事故だったというわ。とても、もったいないことだけど……」
「名残惜しいと、そう思ってしまうよ。この屋敷は実に居心地がいい。そう、できることなら友人たちとともに茶会を開きたいと思えるほどにね」
 ブラックウッドは静かに笑みを落とす。
 こだわりぬいた建築の妙が、一時の夢の中で再構築され、そして今、夢の終わりとともに姿を消してしまう。
 ひどく儚い一幕の夢。
 
 そして。

 瓦解を始めたその屋敷――かつて血にまみれ、悲劇に彩られた惨劇の舞台から、すべての役者たちが完全に降りてしまったのち。
 無人となった鋼鉄の門で囲まれたアールデコ様式の洋館は、再び本来の、静寂に包まれた廃墟となってひっそりと緑の中に埋もれていった。



END

クリエイターコメントこのたびは龍司郎WRとのコラボ企画にご参加くださり、誠にありがとうございますv
『ミステリーテイストで洋館探索』を基本コンセプトに、皆様を《旧霧崎邸》へご案内させていただきました。
今回の舞台、じつは実在する建物をモデルにしております。
捏造過多で思い切り趣味に走った感はありますが、お待たせした分も含めて少しでも楽しんでいただけますように。

>流鏑馬明日様
7度目のご参加、ありがとうございます。
刑事としての凛々しさのほかにそこはかとなく怖がりだったり乙女だったりな一面をご用意しつつ、ちょっぴり変則的(?)な刑事と探偵なコンビで組ませていただきました。
事件に対する素敵な着眼点にうっとりでございますv

>ブラックウッド様
3度目のご参加、ありがとうございます。
探索に惹かれてくださったとのことで、お散歩がてら事件にご協力いただく感じになりましたv
救済方法はさすがの一言でございます。同時に、懐かしい想いにかられたりもいたしました。
それにつけても洋館にはロマンスグレーな紳士がよく似合うとしみじみ思います。

>ヘンリー・ローズウッド様
6度目のご参加ありがとうございます。
当方の『洋館ハザード』二度目のご参加でもあるため、【死に至る病】が進行するなかで、ひと時の探偵業、そしてひと時の関わりに興じていた抱ければと思いつつ、演出させていただきました。
黒髪の探偵氏と金髪の奇術師のギャップともども、細かなネタを仕込んでいくのが楽しかったです。

>メルヴィン・ザ・グラファイト様
実に素敵なスタンスでの解説役を引き受けてくださり、ありがとうございますv
ヒトへの興味、知的好奇心にあふれた視点は楽しく、ブラックウッド様とともに紳士同盟(?)などもほのかに意識していた次第です。
少しでもイメージに沿う演出となっておりますように、と祈るばかりでございます。


それではまた、間もなく幕を閉じるであろうこの銀幕市の夢のいずこかで、皆様とお会いすることができますように。
公開日時2009-03-17(火) 18:40
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