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<ノベル>
まるで夢のような空間だと人は言う。
視界を満たす深く艶やかな緑。色彩という色彩をすべて掻き集め、神の意志のごとき絶妙かつ完璧なバランスで散りばめられた花の数々。
密やかに重なり合った花弁の奥から蠱惑的な香りを放つその花は薔薇と呼ばれる。
美しい花と葉と芳香で形作られたその場所は迷路と呼ばれる。
そう、一度入れば二度とは出られぬ場所なのだと。
(――にしては、随分平和に見えるけど)
鳳翔優姫は首を傾げていた。
暴走したハザードの沈静化という依頼を対策課で受けてやって来たのだが、目の前の“ハザード”はひどく穏やかな空間に見える。
喩えるならば、豪奢な宮殿の前に広がる瀟洒な庭。西洋風の庭園で時折見かける、生垣で作られたメイズである。深い緑色の生垣を彩るのは無数の蔓状の薔薇。鼻と心をくすぐる甘い香りがここまで漂ってくるかのようだ。
(僕にはちょっと縁のなさそうな場所だね。なんて言ったっけ、こういうの……ああ、秘密の花園?)
メイズの入口に佇むのは白いアーチはさながらこちら側とあちら側を隔てる界標といったところだろうか。蔦をモチーフにしたとおぼしき華奢な門は、有り体に言えばひどく少女趣味なデザインをしている。白いテーブルセットとティーセットを持ち込み、フリルやレースたっぷりのドレスに身を包んだ少女たちが笑いさんざめきながらお茶とお菓子とお喋りを楽しむ、そんな光景が似合いそうな場所だった。
しかし、メイズを模したこの庭園は紛れもなくムービーハザードなのだ。
元は無害なものだったそうだ。むしろ、どちらかといえばプラスの効果を与えてくれる空間だったという。
そんな空間がある日突然変質した。人を吸い寄せ、取り込み、衰弱死させる“ハザード”へと。
暴走の原因となったのは一人の女だった。詳しいことは不明だが、彼女はどうやらムービースターではないらしい。この庭園がハザードと化す少し前、市内の病院から患者の女性が行方不明になったとの届けが警察に出されていることも無関係ではないかも知れないと睨んだ対策課は、「最大限穏便な解決を」という条件を付けて依頼を貼り出したのだった。
「穏便、ね」
――つまり、その人を倒してハザードを消滅させるっていう選択肢はNGなわけだ。
黒剣をモチーフにしたイヤーカフスを軽く指で弾き、優姫は風に乱される髪を直そうともせず軽く眼を眇める。
風は適度に湿って、温かい。春の季節に吹く風は人の心を急き立て、奇妙なまでに浮き立たせる。そよそよと吹き渡る風がこんなにも甘やかなのはどうしてなのだろう。膨らみかけた桜の蕾の香りでも孕んでいるのだろうか、あるいは――メイズを彩る妖しい薔薇の誘惑臭であるのか。
例えば食虫植物の中には甘い粘液を分泌する種類があるという。そしてそれは、食料である虫をおびき寄せるためなのだと。
「ふふん。成程?」
手袋をはめた手の上で薔薇の花を弄び、灰色の奇術師は愉しげに唇を歪める。
「つまり、僕は甘い蜜に誘われてやって来た羽虫というわけだ。痛快な皮肉だね」
シルクハットの下で、深い青の双眸が酷薄な三日月の形に細められた。「もっとも、羽虫は僕以外にもたくさんいるようだけれど」
確かに、甘い露におびき寄せられて身動きが取れなくなった羽虫のようであっただろう。生垣を彩る薔薇に絡め取られ、この迷路に磔にされた者たちの姿は。
年齢や性別は様々だ。中には人外のムービースターとおぼしき者の姿も見られる。しかし、ああ、一体どういうわけなのだろう? 誰も彼もが穏やかな笑みを浮かべているではないか。蔓薔薇にがんじがらめに拘束され、痩せ衰えた体に薔薇の棘が食い込んで血さえ滲んでいるというのに、皆が至福の微笑を浮かべているのだ。
メイズを形作る生垣の高さは3メートルほどもあるだろうか。柔らかな筈の早春の日差しは深い緑色に吸収され、迷路の底には届かない。春風すらもゆるゆると滞り、むせ返るような濃厚な花の香りが忌々しいほどに充満している。
「まったくもって愉快だね」
手にしたステッキを優雅に回してみせ、ヘンリー・ローズウッドという名の歪んだ紳士は昏い笑みを浮かべた。
「みんなみんな幸せそうじゃないか。ああ、素敵だね、最高だ。素晴らし過ぎて反吐が出そうだよ」
ぶちり。
笑みを崩さぬ紳士の手が無造作に薔薇をむしり取り、花弁の上に形ばかりの口づけが落とされる。冷淡なキスを受けた花ははらりと落ちて、蔓と棘に拘束された“犠牲者”の傍らにまるで手向けのように寄り添った。
もっとも、それを見下ろす青い目に満ちていたのは哀悼や憐憫などではなかったけれど。
青い空に白い雲、優しい太陽。その下に広がる艶やかな深緑と、色とりどりの薔薇の花。
夢のような色彩に覆われた迷路の奥の奥、柔らかな白がふわりふわりと翻る。
「うふふ。うふふ」
微笑を刻む頬は病的なまでに痩せ衰え、美しい花の間を舞う手足は青白く、薔薇の棘に侵されて点々と血がこびりついている。
女は踊り続ける。蔓薔薇にがんじがらめにされ、白いワンピースを血に染めながら、砂糖菓子のような甘い香りにうっとりと身を委ねる。
夢はいつか醒めるもの。醒めるからこその夢。
ならば醒めなければいい。醒めぬまま、ずっとずっと続けばいい。
「誰だって幸せな夢を見続けたいもの。ねえ、そうでしょう?」
うふふ、うふふ、うふふ。
腐爛臭。優姫の脳裏に真っ先に浮かんだのはその三文字だった。
同じ依頼を受けた市民数人と一緒にハザードに踏み込んだ瞬間、甘ったるいにおいが押し寄せてきたのだ。腐りかけてぶよぶよになった果実のような、むせ返るほど濃密で、爛れたにおいが。
「トイレの芳香剤のほうがまだ上品だね」
とぼやいた優姫に同行者が苦笑する。「あ、気にしないで」とひらひらと手を振り、優姫は軽く顎を引いて迷路の奥を見据えた。
ガスコンロにこびりついた油汚れのようにまとわりついてくるこのにおいが本当に薔薇の香りなのだろうか。薔薇という花はこんなに品のない匂いを発する植物だっただろうか。
(ま、薔薇なんてよく見たことないから知らないけどさ。それにしたって――)
メイズを支配するこの臭気と目の前の光景がひどく不自然なものだということくらいは分かる。
甘ったるい香りにあてられたかのように倒れ、薔薇の蔓に絡め取られている者たちの姿。彼ら彼女らは病院のベッドに繋がれた患者のように痩せ衰えているというのに、皆一様に微笑んでいるのだ。ひどく穏やかに……まるで、幸せな夢にまどろんでいるかのように。
「手分けして動いたほうがいいかもな」
「そうだね、これだけ広いし。二人ひと組くらいになって――」
同行者の提案に同意しかけた時だった。
果たして風であったのだろうか。迷路の中に淀む甘ったるい匂いが、まるで生き物のごとき意志を持ってゆうるりと這いずった気がした。
「……あれ?」
松ヤニのようにねっとりとまとわりつく花の香に思わず顔を背けてしまったのはほんの一瞬。
次に目を開いた時には、優姫は美しい色彩の中に独り取り残されていた。
「ねえ。ちょっと、みんな」
同行者の名を呼ぶ優姫の声は緩やかな風と香りに絡め取られ、空しく反響しながら消えていくだけだ。
生垣の背は高く、晴天の太陽さえも遮ってしまう。夢のような色彩で形作られた迷路は奇妙に仄暗く、身の内に“犠牲者”を呑み込んで茫洋と佇む。
――汚らわしい者どもめ。
え?
――<<白>>の魔導師よ。
……やめろ。
――名を呼ぶにも値せぬ。魔導師の真名など口にすれば我らが災厄に見舞われようぞ。おお、恐ろしや。背神者、世界の外側に立つ者よ。
その名で呼ぶな。僕には祖母さまがつけてくれた名がある!
――寄るでない。皆、逃げよ。不具の魔導師だ、不吉が来るぞ。ああ、恐ろしや、恐ろしや……
ざざ、ざ、ざああああ。
風が吹いた。ひどく濁った色の風が。
嘲笑と畏怖に歪んだ顔たちは吹き消され、代わりに視界いっぱいに煤けた土の色が広がる。
それは焦土。ほんの一刻前までひとつの街だったもの。鼻をつくのは木や石が焼けたにおい、炭と化した生き物の臭気。
足許に転がるのは、骸。笑い合ったり微笑ましい言い争いをしたりすることはおろか、物を言うことすらできなくなった友の姿。
しかし、ああ、“それ”を人の痕跡と呼んでも良いのだろうか? 辛うじて人の形をしているものの、闇よりも濃密な色をして影のように地べたにこびりついているだけのモノを。
食道を熱いものが駆け上がる。ひどく酸っぱくて苦くて不快なそれは、この身にとぐろを巻いて居座る絶望の味そのものにすら思えた。
だが、嘔吐するだけならどんなに良かっただろう。胃液を吐き散らすだけで済むならどれほど楽だっただろう。
(ままならぬ力なのでしょう?)
煤けた土と風の中心で我と我が腕を抱き、流す涙すら涸れ果てて虚ろに座り込む少女を耳触りの良い女声がくすぐる。
(かわいそうに)
頬に触れる人肌の温度。あ、と思った時には、青い空の下に干したシーツのような感触に包み込まれていた。
(いいのよ、無理なんかしなくても。本当はこんな所にも居たくなんかないでしょう? ねえ、理不尽は理不尽だもの。何をしたって事実は変わらないわ。無理に受け入れようとしても心がくじけるだけ……)
「………………」
(すべて委ねなさい、私の腕に。ここなら違う道を歩めるのよ。私と一緒においでなさい)
「………………」
聖母像のような形を取った白い靄に抱かれ、頑是ない赤子のように涙を流しているのは果たして鳳翔優姫であったのだろうか。
否、わななく拳を握り締めて、まがいものの慈母とその腕に縋る少女を見据えている人物こそが真の優姫である筈だ。たとえ目の前で泣き笑いの顔を作る少女が自らの望みの一端であったとしても。
対策課の依頼でこの“ハザード”に足を踏み入れた優姫は殊更にきつく瞑目し、震える唇から深く息を吸い込んだ。目の前の光景から顔を背けたいわけではない。気を落ち着けるために、ほんの少し、ほんの刹那だけ目を閉じる。それだけだ。
「これは、ハザードの、効果。対策課で聞いてきたじゃないか」
目を閉じたまま、ゆっくりと。言葉に力と意志を込め、わざと声にして一言ずつ紡ぐ。
「だから、真実じゃ……ない」
そうあったらいいと思ったことはあるけれど。そうあれたらいいと、心の底では思っているのかも知れないけれど。
認め、諦め、折り合いをつけざるを得なかった“理不尽”への怒り。あるいはそれは絶望とも呼ぶべきもの。笑顔の仮面の下に押し込め、まるで慢性疾患と付き合うかのように、懸命に自分の中で消化しようとしている汚泥のような感情。
人は護るべきもの。護りたいもの。それが自分を“普通の人”の側に繋ぐ最後の鎖。だが、御しきれぬ己が力は時として人にも害をなす。かつて友を街ごと消滅させてしまったように。
蜃気楼のような聖母像の腕の中で、優姫と同じ顔をした少女は甘ったるい笑みを浮かべているだけだ。
だが、これはハザードのせい。うたかたの慈母がもたらす笑顔は、仮面にも劣るまがいものではないか。仮面ならば自分の意志で選び取って着けることができるというのに。
もう一度だけ息を吸い、吐き出し、瞑目したままの優姫はやや大袈裟なしぐさで背筋を伸ばした。
――そして、一閃。予め調達して来た大ぶりの刀が颯のごとく走る。ざん、というリアルな音と手ごたえは、迷路を形作る生垣のものだと思いたい。
目を開いた時には、慈母も涙を流して微笑む少女の姿も消えて、まっぷたつに切り裂かれた深緑の生垣だけがあった。
「……他の人たちを探さないと。いや、それよりも、先に進んだほうがいいかな」
自らに言い聞かせるように呟く。優姫の足許まで忍び寄って来ていた薔薇の花がほろりと音を立ててほどけた。
忘れていた過去の決意や理想の未来を見せて人々の背を押す。それがこの薔薇の庭園に与えられた本来の性質だったという。
それが今は変質している。人を吸い寄せ、取り込み、衰弱死させる“ハザード”へと。その者の劣等感や喪失した掛け替えの無いものを探り当て、それを克服あるいは取り戻した自分を経験させて、現実に戻りたくない、夢の中に居続けたいと思わせるのだと――。それが対策課で受けた説明の概要だった。
優姫がハザードを削りながら前進を開始したちょうど同じ頃、ヘンリーもまたメイズの中をさまよっていた。
足が痛い。息が苦しい。それでも、何かに急き立てられるように走り続ける。
しかし、憔悴した紳士は足元の小石にさえけつまずき、みっともなく地べたに転がった。
「……嫌だ」
転倒した拍子に脱げてしまったシルクハットを拾い上げることすらせず、膝を抱えてその場に座り込む。
「もう嫌なんだ。こんなのは」
さわさわ。
風が吹き、甘い香りを運び、疲弊したヘンリーを優しく包み込む。ああ、手袋に包まれた手は泣きじゃくる赤子のように震え、深い青の双眸は群れからはぐれた子羊のように揺らめいているではないか。
この身を侵食する絶望と狂気。嫉妬、憎悪、悪意。ヘンリーという歪んだ器の中に凝る鉛のような感情はどうしようもなく渦を巻き、沸点直前まで熱せられ、今にも決壊して奔流となってしまいそうだ。
だから苦しい。このままではきっと壊れてしまう。
「……助けて」
かすれた声で紡がれる言葉は、あのヘンリー・ローズウッドとは思えぬほど弱々しい。
「苦しい。解放されたい……」
(お泣きなさい)
絶望に打ちひしがれる紳士の傍らに春の陽だまりのような色彩がそっと舞い降りる。白い靄のようなそれは聖母像のような姿を取り、ヘンリーを柔らかく抱き締めた。
(いいのよ。救いを求めることは間違いなんかじゃないんだもの。誰だって救われたいし、楽になりたいわ)
「ああ――」
(人は誰でも弱いのよ。だけどね、自分の弱さを受け入れられる人はとても強いと思うの)
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
口当たりの良い言葉ばかりを紡ぐ慈母と彼女の腕に縋りついて涙を流す紳士の間に空々しい拍手が割り込む。
一体どこから現れたのだろうか、聖母の腕に抱かれるヘンリーの後ろに、いつの間にかもう一人のヘンリーが立っていた。
「――やっぱり素晴らしいよ」
揶揄するような賛辞とともに、ヘンリー・ローズウッドは薄い唇を皮肉っぽく歪め上げる。偽りの慈母とその腕に身を委ねる己と同じ顔の男に唾棄でもしそうなほど冷たい目を向け、躊躇も容赦なく嘲笑うのだ。
「最高に安っぽい子供騙しだね。これは観劇料代わりさ」
そして冷笑を崩さぬまま銃を取り出し、まるで虫でも払いのけるかのような無造作なしぐさで引き金を引いた。
甘ったるい香りが淀むメイズに二発の銃声が響き渡る。
絶望の産物である銃弾はまがいものの二人を貫き、嘘のように消し去った。
「……ああ。素晴らし過ぎて反吐が出そうだ」
細い硝煙を吹くように銃口に唇を寄せるヘンリーの傍らで、彼を絡め取らんと蔓を伸ばしていた薔薇たちが怖じたように身を震わせる。
「安易な救いでどうにかなるのならどれだけ幸せだっただろうね? あいにく、数多の救いを拒絶するのが僕……どうしようもない絶望そのものこそが僕なのさ。それが他の誰が決めたのでもないこの僕、ヘンリー・ローズウッドだからね」
救われたいと弱音を吐く己の姿を見せつけられた。救いを求める弱さを認めろと責め立てられ、受け入れて楽になれと強要された。こうあれと、これが幸せなのだと、まるで親鳥によって雛のそのうに突っ込まれる餌のように眼前で一方的に展開された光景は、ヘンリーの憎悪と嫌悪をいたずらに増幅しただけだった。
「大きなお世話だよ、レディ」
目深にかぶったシルクハットの下の目がどんな表情を刻んだかは窺えない。「――勝手に浸って死ね」
無造作に伸びた手が生垣の薔薇を引きちぎり、一片の慈悲も容赦もなく美しい花弁を握り潰した。
女は踊る。お気に入りのワンピースの裾を翻しながら。
「この服、ずっとずっと着たかったの。ねえ、似合う?」
いらえはない。答える者などありはしない。女を見ている者などありはしない。
「あたし、元気になったのよ。もう一人じゃないの、あなたにも会えるの。この夢がずっと続きさえすれば……」
白いワンピースに白い手足。その上に点々と散る血の染み。華奢な体に絡みつく棘付きの蔓。
青白い顔に虚ろな笑みを浮かべ、二度とは出られぬメイズの最奥、女はひとりきりで踊り続ける。
優姫の足を止めたのは二発の炸裂音だった。
(――銃声?)
生垣と薔薇にめちゃくちゃに乱反射し、歪んだ残響を伴って消えていく音にかすかに眉を寄せる。同行者の中に銃を持った者はいなかった筈だ。それとも、メイズに取り込まれた何者かが自力で脱出を試みているのだろうか。
強すぎる薔薇の香りに晒され続けた嗅覚はもはや麻痺した。途中で再会した同行者たちはハザードに取り込まれた被害者たちの救助に回り、今は優姫だけが奥へ奥へと進んでいる。
順路通りに迷路を進むという真似をするほど優姫は律儀でも非合理的でもなかった。真っ直ぐに進み、行き止まりに当たれば刀をふるって文字通り道を切り開いた。薔薇の蔓に絡め取られて倒れている者がいれば蔓を斬り落として解放した。優姫の刀が閃く度、艶やかな生垣は崩れ落ち、美しい薔薇は無残に散った。
その作業を幾度繰り返した頃だろうか。鈍感になった筈の鼻に、不意に一際濃密な香りが殺到した。反射的に立ち止まって手で鼻を覆う。それほど強烈で、不快なまでに甘ったるいにおいだった。
露骨に顔をしかめたまま歩を進める。壁のように立ち塞がったのは一際大きな生垣だ。深緑色の葉と、その上に絡みつく極彩色の薔薇の花。美麗で、しかしその実頑なに他者を拒むようにして聳え立つそれは、ハザードの源となった女がここに匿われているのだと無言で教えてくれているかのようだった。
そして――刀の一閃を受けた生垣が斜めに崩れ落ちると、青と白、花と緑で彩られた空間が開けた。
青は空の色。白は雲と、“彼女”のワンピースの色。庭園の最奥にぽっかりと開けた薔薇と深緑の空間で、白いワンピースに身を包んだ女がふわりふわりと舞い踊っていた。
喩えるならば、そう、夢のような光景。艶やかな緑色の葉と、完璧なバランスをもって配置された薔薇の花。美しい色彩の中で舞う女は不自然なまでに美しく、病的だ。色とりどりのチューブで医療機器に繋がれた患者のように青白い顔、骨の形がくっきりと浮き出た足と腕。純白のワンピースの下の体は華奢というよりも痩せ衰えているという形容がしっくりくるほどに薄く、危うい。そんな女がうっとりとした表情で虚空に手を差し伸べ、枯れ枝のような指で薔薇の花弁に触れ、こけた頬に至福の表情を浮かべて踊り続けている。
(参ったな)
優姫は持て余した手でがりがりと襟足を掻いた。(“最大限穏便な解決を”って言われたけど……)
目の前の女にどんな言葉をどうかければ良いのか分からない。
「迷路に入り込んだその女性が余りにも強い願望を抱いたまま長時間居座った為、彼女を取り込む形でハザードが暴走したのかも知れません」
あくまで推測ですが、と前置きした後で対策課の職員がそんな説明をしてくれたことを改めて思い出す。
この白いワンピースの女も喪失感や劣等感を抱えているのだろうか。たった一人で美しいメイズを暴走させ、ハザードへと変質させてしまうほどの。
「あら。お客様?」
優姫の視線に気付いたのだろうか。女はようやく振り返って微笑み、貴婦人がするようにスカートの裾をつまみ上げて会釈してみせた。
「あー、えーと。客っていうか……うん、まあ、似たような感じなのかな」
困ったように頬を掻く優姫の前で女は微笑を絶やさない。人に害をなす“ハザード”という存在には場違いなほど穏やかな表情だ。
場違いというならこのメイズの美しさこそが場違いなのかも知れない。メルヘン童話の挿絵として描かれそうな牧歌的な情景の内には人を吸い寄せて微笑みのうちに死に至らしめる棘が潜んでいる。恐らく――棘に刺された者は、自覚も苦痛もなく、ひどく緩慢で甘い毒を受けるのだ。あたかも全身へと緩徐に触手を伸ばす慢性の病魔の支配を受けるように。
「どうぞごゆっくり過ごしていってね。ずっといてくれてもいいのよ」
まるでこの庭園の女主人であるかのように振る舞う彼女はあくまで優雅で、美しい。こけた頬の上に柔らかな陽光が降り注いで、整った面(おもて)に深く濃い陰影を落としこんでいた。
「見たでしょう? ここに来た人たちの顔。ここにいればみんな幸せになれるの」
「幸せ?」
「そうよ。そうに決まってるじゃない。だって、ここでは夢が叶うんだもの」
黒曜石のような瞳をすいと細め、優姫は「ふうん」と鼻を鳴らしただけだった。
「いい夢はずっと続けばいいの。そうすればずっとずっとこのままでいられるの」
釉薬のような色をした唇が病んだ笑みを刻む。
なぜなのだろう。理由は分からない。しかし、いびつな口角の形に良くない予兆を覚えた優姫は右手をかすかに緊張させた。
「だから――ねえ」
青白い腕が緩慢に持ち上げられ、優姫に向けられる。
「あなたも“こちら側”においでなさい」
ぽきりと折れてしまいそうな指は、甘ったるい風の中に虚ろに差し出されただけだった。
ふうん、と優姫はもう一度鼻を鳴らして浅く首をかしげた。
「随分細い指だね?」
そして、その次に口から飛び出したのはそんな率直な感想だった。
「そんなに痩せてさ。体の具合でも悪いの? ごはんちゃんと食べてる?」
刀を抜けるだけの緊張を右手に留めつつ、左手は腰に当てて軽く眼を細める。
「僕はあなたが何を失ったか知らないし、何を抱えているかも分からないけれど。少なくとも、今、あなたが自分で自分の夢を否定しているのは解るよ」
緩やかな風が吹いて、美しい花と葉が妖しく囁き、蠱惑的な香りがたゆたった。
虚空に差し出されたままだった女の腕がだらりと下ろされる。風に乱される髪とワンピースの裾を直そうともせぬまま、冬の裸木のように佇むだけの女の表情は逆光の中では窺えない。
「もしかして今のその状態があなたの望みってこと? 一応そう仮定して言わせてもらうね、間違ってたら突っ込んで。――ひとりでこんな所にいて楽しい? 綺麗な服着てひとりで踊って、それで満足? ここには誰もいないのに」
あなたを見ている人は誰もいないのに。
軽蔑でも憐憫でもなく、心底怪訝そうに首を傾ける優姫の前で女は「くくく」と笑った。
奇妙にひきつれたその声は、筋の浮いた喉が奏でる音にしてはあまりに低く、昏い。
「あはは、は、ははははははははは!」
ああ――ぐるんと空を振り仰ぎ、薄い体を仰け反らせ、男声を発して狂ったように嗤う女は本当に先程までの女であるのか。
(まさか……この声)
「素晴らしいね、レディ」
女の口から発せられる声に優姫が息を呑むのと、女がくすりと唇を歪めたのはほとんど同時だった。
「さすが“詳細設定”に恵まれたスターだ。言葉に深みがある、とでもいうのかな? 全くもって羨ましいよ」
ばさりと視界を覆うのは白。女が身に着けていたワンピースが、物干し竿にまたがるシーツのように翻る。
「――ごきげんよう、ミス鳳翔」
理不尽な鮮やかさで女の変装を解き、ヘンリー・ローズウッドという名の奇術師は愉快そうに喉を鳴らした。
「よりによってこんな場所で再会できるとは思わなかったよ。まさかレディもこの美しい薔薇に誘惑された……というわけではないだろうね?」
「……対策課の依頼で来ただけだよ。っていうか、僕はニセモノに向かって大真面目な顔で説教たれてたわけだ?」
苦虫を噛み潰す優姫とは対照的に、ヘンリーはあくまで笑みを絶やさない。
(変な人なんだよね、この人。っていうか前、僕のこと完全に見世物にしてたよね。いや見世物だったけどさ)
ヘンリーと遭遇するのは初めてではない。以前の事件と同じように今回もまた“見世物”にされたようだが、優姫の感情は苛立ちや怒りよりも怪訝や疑問に変換される。
それを知ってか知らずか、あるいは知らぬふりをしているのか。歪んだ奇術師は気取ったしぐさでステッキを回してみせた。
「結果的にはそうだとしても、興味深く拝聴させていただいたよ。ああ、とても有意義な時間だった」
「あのさ、僕、漢字とか詳しいほうじゃないけど。そーいう言い方、もしかして“揶揄”って言わない?」
「そうかい? 残念だね、この賛辞を受け取ってもらえないなんて。それにほら、ごらん。レディの言葉は“本物”の耳にもきちんと届いた筈さ」
薔薇の這う生垣に歩み寄ったヘンリーが布を取りのけるようなしぐさをしてみせると、一人の女が何の前触れもなく姿を現した。まるで深緑色のカムフラージュシートで覆い隠されていたかのように。
生垣に背をもたせてぼんやりと座り込んでいるその女は先程までヘンリーが化けていた人物に違いない。しかしヘンリーの変装とは決定的な違いがある。青白い腕も足も肩も、そして真っ白なワンピースも。薔薇の棘に侵されて、全身が点々と血の球に染められているのだ。
「そうだろう、名なしのレディ?」
からかうようなヘンリーの呼びかけに、女の瞳がかすかに動いた。痩せこけた顔の中で奇妙に大きく光る眼がヘンリーへ、次に優姫へと向けられる。
「ひとりでこんな場所にいて楽しいのかとあちらのレディが仰せだよ。聞こえていただろう?」
「……あなたたちは幸せになりたくないの?」
「ふふん?」
虚ろな唇からこぼれた言葉にヘンリーは目を三日月の形に細め、優姫はひょいと眉を持ち上げた。
「私はこの夢の街、夢神の子の全てを肯定するわ。ムービースターやムービーファンだけじゃなくて、エキストラの私にさえ幸せをくれたんだもの。私は救われたの、この夢に……ここにいれば、幸せがずっとずっと続くのよ」
ふらりと立ち上がった女の腕が空に向かって伸ばされ、痩せた足が力なく地面を蹴る。
「だってほら。私、こんなに元気になったのよ。もう一人じゃないのよ――」
ふわり、さらり。
血の染みが点々と飛ぶワンピースが翻り、黒く艶やかな髪が流れる。点滴の針でも穿たれたかのように血痕がぷつぷつと浮く腕が虚ろに宙を掻く。甘ったるい花の香りとけだるい早春の風が枯れ枝のような指の隙間からするりと逃げていく。
「回復の見込みはないって言われて、すべてが変わったわ。死ぬしかないって分かった途端、みんな私から離れて行ったの。みんなみんな……あの人も」
よくよく見れば女は裸足だった。まるで服だけを替えて病院のベッドから抜け出して来たかのように。
「この服もあの人がくれたの。退院したらこれを着てドライブに行こうって言ってくれたのに。それなのに――」
「でも、これは夢なんだよ?」
きっぱりとした優姫の声が哀れな女の愁嘆場をあっけらかんと遮った。「夢は夢なんだよ。現実なんかじゃない。いつかは目を醒まさなくちゃ」
青白い女の面からすうと表情が消え失せた。
「気付いてない? この庭、もう“ハザード”になってるんだよ、あなたの存在ごと取り込んで。対策課から依頼も出てる。あ、そっちのヘンリーさんは依頼を受けて来たわけじゃないみたいだけど」
ぷつぷつと血の球が浮かぶ痩せぎすの手足から目を逸らすでもなく、ただ静かに見つめながら優姫は言葉を継ぐ。
「もう目を醒まそう? 帰ろう? あなたの居るべき場所は夢の中じゃないと思う。何より、このままここに居座り続けたら、他の人たちみたいに衰弱して死んじゃうよ?」
「帰ってどうなるの」
ぽっかりと開いた瞼から、つ、と音を立てて涙が流れ落ちた。「帰っても、何もないのに。どうにもならないのに」
優姫の目がかすかに揺れる。
ドウニモナラナイ。
この御し得ない力。“娯楽”として作られたムービースターというこの身。魂の底にわだかまる、どうしようもない理不尽。
――本当はこんな所にも居たくなんかないんでしょう?
甘美な聖母の声が耳の奥をくすぐる。“こんな所”がどこを指しているのか――この銀幕市という場所を指しているのかどうか、優姫自身にもよく分からない。
「帰っても、私は死ぬしかないのよ」
真珠のような涙がやつれた頬をころころと転がり、細い顎から滴り落ちる。「どうせ死ぬならいい夢を見ながら死にたいと思うのはいけないこと?」
ふ、と誰かが冷めた息を吐いた気がした。
「やれやれ」
口を開いたのはヘンリーだ。「まったく、呆れたものだね」
シルクハットの下の双眸で、どこかいびつな、冷えた色の光がさざめく。
「いや、ここは“やっぱり素晴らしい”……と言うべきなのかな? この美しい庭園も子供騙しなら、庭園の女主人までもが子供騙しだ」
次の瞬間、優姫は見た。
種も仕掛けもないマジックのように、ヘンリーの手の中に唐突に拳銃が現れたのを。
「ミス鳳翔。知ってるかい?」
お気に入りの玩具を与えられた子供のようにご機嫌な、しかし、ひどく不愉快そうな笑顔を浮かべながらヘンリーは問う。
「この銃の中に込められた弾丸の名前を」
そして――
冷たい銃口は、白いワンピースの女のこめかみにぴたりと押し当てられていた。
「僕はね、いいかい、名なしのレディ」
白いこめかみに暗い色の筒先をごりりと押しつけながら、倒錯した笑みを崩さぬまま紳士強盗は宣告する。
「君が何を喪ったのか、何を抱えているのか、そんなことには興味はないんだ。ただね、あんなものを見せられるのは迷惑極まりたいと言いたいんだよ」
救いを求めて弱音を吐くのが自分の姿だなどとは認めない。絶望故に認め得ない。“詳細設定”を持たぬが故に、ヘンリー・ローズウッドという名のムービースターは“自分が決めた自分”に誰よりもこだわる。
「どんなに幸せであろうと覚めない夢は歪むんだよ。そう、この街と同じように。もっとも、この街を支配する夢を“幸せ”と定義づけて良いものかどうか僕には分かりかねるけれど」
銃の撃鉄を起こす音が、美しい薔薇と生垣の中にやけに大きく響いた。
「――覚めない夢に縋る、君はとても醜いね。死にたければ一人で死ね」
ヘンリーの銃に装填された弾丸の名は“絶望”。ヘンリーが感染した病理の一端。
全てを嘲笑う紳士は今、女の願望と希望を絶望で撃ち抜こうとしている。ひどく滑稽で、皮肉で、まさにヘンリー・ローズウッドが演出するにふさわしい“悲劇”ではないか。
「……本気?」
絶望という名の銃を突きつけられた女の前で優姫の眉がかすかに中央に寄る。
「心外だね。この僕が戯れをしているように見えるかい?」
「なら今すぐやめて」
「なぜ?」
「聞いたでしょ、その人はエキストラだ。あなたがその人を殺すというのなら」
すらりと、大ぶりの刀が音もなく抜き放たれた。「――僕は、あなたを止めなきゃいけない。最悪、倒してでも」
ヘンリーの顔が無邪気な愉悦を孕んだ。
「なぜ?」
「なぜ、って」
「“一般人”に害をなすスターはヴィランズだから?」
ヘンリーは嬉々として、しかしどこか自嘲気味に唇の端を持ち上げた。「そしてその“ヴィランズ”を倒す君は正当だ。そうだよね?」
「何を――」
「だけど考えてごらんよ。この名なしのレディをここから救い出しても、どうせ遠からず死ぬだけのようだよ? 真実の意味で彼女を助けることはできないんだ」
親しい相手とのおしゃべりに興ずるかのように声を弾ませてうそぶき、その実挑むように、痛烈な皮肉を込めて嘲笑う。
「救うことができないのなら、せめて死に方と死に場所くらい選ばせてあげれば良いんじゃないかな? このレディは醒めない夢に縋りながら逝くことを至上としているようだからね?」
「……それでも」
ほんのわずかな沈黙の後で、刀の柄を握り締める優姫の手に手にぎちりと力が込められた。
「こんなのは違う。この人にもそれに気付いてほしいし、目を醒ましてほしい。それに、僕の目の前で殺させるわけにはいかない」
ヘンリーは「ふふん?」と語尾を持ち上げ、興味深そうに、しかしどこか自嘲気味に青い瞳を瞬かせた。珍しいものを――自分にはないものを眺めるかのような目つきで。
「人を護る、それが君の誇りだったっけ? ああ、誇りというよりは“設定”かな?」
「別にどっちだっていいよ」
意地悪な指摘は、しかし優姫の底に凝る感情をほんの少しつついたにすぎなかったようだ。
「確かに僕たちは娯楽の存在だ。だけどね、前も言った通り、それはもう納得済みだから。設定だろうと何だろうと僕は僕のままに生きるだけだ」
「成程」
真っ直ぐに背筋を伸ばして宣言される意志と対峙し、ヘンリーは愉快そうに喉を鳴らした。
「やはり素晴らしいね、ああ、まったくもって素晴らしい。素晴らし過ぎて反吐が出そうさ」
ちぐはぐな紳士は“詳細設定”を持つ“幸せな”スターを生理的に忌み嫌う。それはあるいは妬みや嫉みでもあるのかも知れなかった。だから優姫の凛とした強さや夢を認める姿勢に対して表面的な敬意と称賛を惜しまない。
「……どうして」
こめかみに銃口を押し当てられ、夢の薔薇に囚われた女は力なく涙を流すだけだ。
「どうして? ねえどうして、どうして? どうして邪魔をするの? 私は夢を見ていたいだけなのに……」
どうして、どうして、どうして、どうして!
単純な疑問の連なりに優姫はかすかに顔を歪め、ヘンリーは整った面に彼らしからぬ獰悪な色をさざめかせた。
「くだらない」
そして紳士は銃を持つ手に粗暴な意思を込める。「だったら夢の中で死ね」
絶望と狂気に浸食された彼の身の内ではどろどろと音を立てて悪意が煮詰まっている。元より根付いていた感情は“病理”という養分を得て伸張し、今や指先の毛細血管の隅々にまで根を張り巡らせている。
「やめろ!」
優姫は地を蹴って飛び出した。
青い空、白い雲、艶やかな深緑、色彩という色彩をすべて掻き集めたかのような色とりどりの薔薇の花。神の意志のごとき完璧なバランスを持って作られた美しい空間と甘美な香りの中、白い色彩がはためく。
それは血染めのワンピース。夢に囚われた女が、唯一のよすがのように身に着けていたもの。
美しい迷宮に乾いた銃声がこだまする。
「――――――」
優姫は吼えた。何と言ったのか、自分でも分からない。ヘンリーの名前を叫んで悪態でもついたのだろうか?
振り下ろされた刀が空を切る。白いワンピースの裾をはためかせ、ヘンリーの支えを失った女の体がぐらりとかしぐ。そのまま地面に叩きつけられようとした彼女の薄い体を優姫が寸前で抱き止めた。
ヘンリーは。ヘンリーはどこに行った。神出鬼没の紳士強盗は煙のように姿を消してしまっている。
「あはは、は、はははははははははは!」
――かと思えば、甲高い哄笑が頭上から唐突に降り注いだ。
「ご安心を、レディ。ただの空砲さ。本当に撃つと思ったのかい?」
いつの間にか生垣の上に立っていたヘンリーは手袋をはめた手で優雅に優姫の背後を示してみせる。優姫と一緒に対策課で依頼を受けた同行者たちがこちらを目指して近付きつつあった。
「僕は自分を過小評価はしない。だからといってレディに本気で剣を向けられて、その上複数を相手取って優位性を保てると思い込むほど自惚れているわけでもないんだ」
シルクハットを目深にかぶり直し、負の感情を隠そうともせずに笑うヘンリーは貴人のしぐさを真似て恭しく一礼してみせた。
「そうだ、レディ。最後にひとついいことを教えてあげようか。僕が嫌いなのは僕を含めたスターだけじゃないんだ。ファンもエキストラも……ああ、突き詰めればこの街そのものを、全てを憎悪しているんだよ」
奇術を弄ぶ紳士が軽く手を握り込んでみせると、手袋の上に純白の薔薇の花が音もなく現れた。
美しい花弁に冷やかな口づけをひとつ。その後でヘンリーは再び唇を歪め上げる。
「“夢は夢、いつかは醒めるもの”。レディのおっしゃる通りさ。僕は長すぎる夢に踊らされたこの街の荒廃を歓迎し、憎み、夢が醒めるまで観劇させていただくことにしよう」
二律背反の奇術師の手から、真っ白な薔薇がはらりと落とされる。「それじゃあまたの機会までご機嫌よう、レディ。もっとも、レディと僕は永遠に相容れない運命なのかも知れないけれど」
腕の中で倒れている女のワンピースと同じ色の薔薇だという呑気な感想を優姫が抱いたのはほんの一瞬であったが――その一瞬の間に、ヘンリーの姿は今度こそ掻き消えてしまっていた。
(何だかな。結局コケにされたってわけだ)
ヘンリーが立っていた場所を振り仰ぎ、優姫は軽く肩をすくめた。
(あの人……なんて言うのかな、なんであんなに自分のこと嫌い嫌いとしか言えないんだろうね? ま、僕も自分のこと死ぬほど大好きですとはとても言えないけどさ)
それでも優姫はこの街が嫌いではない筈だし、己が“架空の存在”であることもどうにか折り合いをつけて肯んじている。
一緒に依頼を受けた同行者たちの足音と声が背中から近付いてくる。腕の中の女に息があることを確かめてからようやくかすかに表情を緩めた。
ハザードの収束は近い。美しい花々はほろほろと崩れ落ち、甘過ぎない匂いを含んだ心地良い風がさやさやと吹きわたって行く。
しかし、不可思議な奇術師が残した白薔薇だけは枯れることなくいつまでも優姫の前に留まった。
ひと月後。優姫は市内のとある場所にある墓地に立っていた。薔薇で彩られたあの庭園をハザードへと変貌させた女が息を引き取り、この場所に埋葬されたのだという。
病院のベッドに戻った彼女がどんな顔をしていたのか優姫は知らないし、彼女がどんな思いを抱いて逝ったのかも知らない。
(だけど)
軽く瞑目して拳を握り込む。(死ぬ前に目は醒ませたよね)
開いた目の先には無言で佇む滑らかな墓石だけがある。
しかし、打ち捨てられたかのように墓前に横たわるその白い花は先程までは確かにそこにはなかった筈だ。
(この花、あの時の……もしかして)
咄嗟に頭に浮かんだ紳士の名を呼んで視線を巡らせてみるが、周囲には整然と区画された墓標の群れが広がっているだけだ。
“彼”があの女のワンピースと同じ色をした薔薇を手向けたことには何か理由があったのだろうか。
「――手向けだって? どうして僕があのレディの死を悼まなければならないんだい? 僕はヘンリー・ローズウッドなのに」
(了)
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クリエイターコメント | お初にお目にかかります、宮本ぽちでございます。 ご指名ありがとうございました。そして滑り込み納品で失礼いたします…。
細部もオチもお任せと言われて真っ先に浮かんだモチーフが「薔薇のメイズ」でした。 なぜ薔薇なのだろうと自分でも首を捻りましたが、他にそれらしいものが思い付きませんでしたので、結局薔薇で押し通しました。 雰囲気の演出に一役買っていると良いのですが…。
オファー文を拝見した時は「…私でいいの?」と思いましたが、果たしていかがでしたでしょうか。 そもそもきちんとお二人らしく書けているのかどうかも不安ではありますが。 楽しんでいただけることを祈って。 |
公開日時 | 2009-03-20(金) 22:20 |
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