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<ノベル>
話は数日前までさかのぼる。
灯里が梨奈に情報をもたらす前に、既にルリと接触していた者が何人かいたのだ。
「はあ。これが『うえでぃんぐどれす』ですか」
簪もその一人だ。重そうな音を立てて笈を背負い直し、ショウウインドウの前でややのんびりとした口調で独りごちる。
「それにしても精緻な。形は些か奇抜ですが、良いですねえ」
絹にも似た光沢を放つ滑らかな生地と、胸元やスカートを彩る細密なレース。王道のプリンセスラインやAライン、なまめかしいマーメイドラインのものまで、一通りのドレスが揃っている。
「ふうむ。しかし……良い。職人の腕が感じられますねえ。いっそあちきの品にしてしまいたいもので」
飽かずにショウウインドウを眺め、番傘の下で顎をさすりながら感嘆の息を漏らす。装飾品全般に関心のある彼にとって現代のウエディングドレスは非常に興味をそそられる品であるようだ。
「……と。それよりも」
しばしドレスに見惚れた後で番傘を軽く持ち上げ、足元でちょこんとお座りをしている猫の存在をようやく思い出す。
「お兄さん? ……うん? お姉さん、ですかねえ」
ターコイズブルーの目にじっと見上げられ、名はおろか性別すら知らぬ猫にはて何と呼びかけたものかと首をひねる。
「じゃあ、猫さん……でいいですか?」
同意を求めるように身をかがめて顔を覗き込むと、猫は逆三角形の小さな鼻をひくりと動かした。それを同意のサインとみなし、簪は音もなく微笑む。
「濡れますよ。どうぞ」
そばにしゃがみこんで傘を差しかけてやる。錆びた茶色のブチ猫は礼でも言うかのように軽く目を眇めてみせた。
市内をそぞろ歩いている簪がこの猫の姿を見かけるのは初めてではない。簪の知る限りでは猫はいつもこの場所に座っているようだ。すすんで干渉するような真似こそしないものの、雨の中で背筋を伸ばして座っている猫を見れば何がしかの情が湧くのが人の心というものである。一体何をしているのかと足を止めてみれば、目の前にあったのは見たこともない西洋の衣装。物珍しさについつい見入ってしまい、猫の存在を半ば忘れてウエディングドレスを観賞してしまったのだ。
「いつまでいるんですか? もう夕方になりますよ」
一緒になってドレスを見ながら問いかけても猫は答えない。簪は腰を上げ、濡れた傘を軽く揺すって猫にかからぬよう水滴を飛ばした。
「あちきは他にも行く所があるので、そろそろおいとましても?」
猫は斜めに顔を上げた。構わないとでも言うように軽く目を閉じ、そしてまた開いてみせる。妙に人間くさいそのしぐさに簪は苦笑いし、番傘をくるくると回しながらその場を立ち去った。
雨は好きではない。気持ちまでじめじめしてしまう。それに、どんなに上手に傘を差したところで全く濡れずにいることは不可能に近い。憂鬱なこの気持ちをどこにぶつけたものかと持て余しつつ、黒い生地にレースやリボンをふんだんにあしらったゴスロリ風の傘を差してレモンは雨の中を闊歩する。
「まったく。湿気のせいでヘアスタイルが決まらないじゃないのよ」
雨を嫌がるのなら外出しなければ良さそうなものだが――そもそも、全身毛皮をお召しになっているうさぎにヘアスタイルも何もあったものではなかろうが――、レモンには外に出なければならない理由があった。
(やっぱり。あいつ、今日もいた)
ブライダルショップの前に佇む汚い色柄の猫を見とめ、わずかに眉を寄せる。昨日も一昨日も猫はあの場所にいた。もしや今日もいるのではないかと思ってやってきたのだが、勘が当たったようだ。
「あんた、こんな所で毎日何やってるのよ?」
思わず話しかけると、猫はぴくりと顔を上げた。聖なるうさぎ様とは違い、この猫は人語は話さないようだ。それでも動物同士ということでお互いに通じるところがあるのかも知れない。鮮やかな青い瞳がじっとレモンを見上げ、レモンもまた猫を見つめ返す。
「濡れて風邪ひくわよ」
傘を差し掛けてやるが、猫はヒゲをぴくぴくと動かしただけで前方に視線を戻してしまう。その視線を追って動かしたレモンの目に、磨き抜かれたショウウインドウに並ぶ純白のドレスが映った。
「何? あんた、あれ着たいの?」
的外れな質問に猫はちらりと目を上げたが、それだけだ。
「愛想のない奴ね、まったく。このあたしが話しかけてやってるっていうのに」
立ち上がったレモンは片手を腰に当て、自分が差していた傘を猫の前に突き出した。
「あげる。ありがたく受け取りなさい」
青い瞳が訝しげに眇められる。
「勘違いしないでよ。あんたのことが気になったわけじゃないんだから。そんな古い傘、もういらないから捨てちゃおうって思ってたところなんだからね」
腕を組んでぷいとそっぽを向くしぐさも心にもない言葉もいつものことだ。レモンは傘を猫の傍らに立てかけ、体を濡らす雨にぶつぶつ文句を言いつつも立ち去って行った。
弱い風が吹き、地面に置かれた傘が滑るように動く。猫は柄の器用に尻尾を巻き付け、風に飛ばされまいとしっかり傘を固定した。
その双眸は相変わらずウエディングドレスに据えられたままだった。
そして、レモンがルリに傘を預けた数日後。
「あ……めあ、め」
幼い歌声はややたどたどしい。こちらの世界に来てから覚えた歌を口ずさみながら、とん、と、とんと小さくスキップ。雨の中で小さなゴム長靴が刻むそのリズムもやはりどこかぎごちない。
「ぴ、ちぴ……ちちゃ、ぷちゃ、ぷ――」
図書館へ向かっていたガルム・カラムは、黄色い傘を軽く持ち上げてふと足を止めた。
猫だ。白い体毛に汚らしい茶色の模様を散らした猫が、レースやフリルのあしらわれた傘の下でじっと座っている。
ガルムは深い青の髪の毛をさらりと揺らし、首をかしげて猫に歩み寄った。
「こんにちは……猫さん。隣に、座っても……いい……?」
ためらいがちに声をかけてしゃがみ込むと、傘の中の猫はぴくりと顔を上げた。しかし、にこりと微笑むガルムに敵意はないと感じたのか、特に警戒した様子もなくショウウインドウに視線を戻す。
「この傘……どうしたの?」
見れば、猫の尻尾はしっかりと傘の柄に巻きついている。猫が濡れないようにと、心優しい誰かが傘を差し掛けてくれたのだろうか。
「うわあ」
猫の視線を追ってショウウインドウに目をやったガルムは思わず幼い歓声を上げた。
磨き抜かれたガラスの中にはいくつものウエディングドレス。おとぎ話のお姫様が着ているようなふんわりとしたデザインの物から、腰から下半身へと滑らかな曲線を描く人魚姫のようなドレスまで、様々だ。
「あの……ね。このまえ読んだ、絵本にね……お姫さまが出てきたの。とってもきれいな……お姫さま」
こんなドレスを着てたのかな、と誰にともなく呟くと、猫は相槌を打つように目を軽く細めてみせた。
「猫さん。返事して……くれ、たの?」
恐る恐る猫を覗き込むと、猫はぎゅっと目を閉じ、そして開いた。肯くかのようなそのしぐさにガルムは嬉しくなり、はにかんだような笑みを浮かべる。
「最近……雨が、多いね。猫さん、寒くない?」
猫の傘が飛ばされぬようにと手で押さえてやりながら、ぽつぽつと語りかける。他愛もない話だった。雨や晴れの話、今まで読んだ絵本の話。そのひとつひとつに猫はいちいち耳を動かしたり目を上げたりして応じてくれた。
「ドレス……きれい。花嫁さん、見たことある?」
花嫁という言葉に反応したのだろうか、猫のヒゲがぴくりと動く。
「ボク、雨の中、でね。教会で、みた……ことあるの。六月に“けっこん”するとね、“しあわせ”になれる……んだって」
だから花嫁はあえて雨の季節を選んで結婚したのだと、おずおずと語るガルムの顔を猫がじっと見上げている。
「まったく。うっとうしいわねー、この雨」
不意に聞き覚えのある声が頭上から降って来てガルムは顔を上げた。
「……あ」
「何? あんた、ガルムじゃない。この前の童話ハザードの時は大変だったわね」
新しく買ったばかりの別のゴスロリ傘を差したレモンが先に気付き、親しげな笑みを見せる。憧れのうさぎを目の前にしたガルムはわずかに頬を赤らめ、口の中で「こんにちは」と挨拶した。
「しかしまあ、あんたも強情ね」
あんた、というのはガルムではなく猫のことだ。先日あげた傘に猫が尻尾を巻きつけていることに気付き、くすぐったいような気持になりながらもレモンはそれを決して表には出さない。まだこんな場所で座り続けているのかと、半ば呆れ顔で大袈裟に溜息をついてみせる。
傘を渡したあの日以来、レモンは毎日この場所を訪れては何くれとなく猫に話しかけていた。雨はじめじめして嫌だとか、こんな所で誰かを待っているのかとか。大半は他愛のない話題で、レモンが一方的に喋るだけであったが、それでも猫は目を動かしたりヒゲをひくつかせたりして、話を聞いているかのような素振りをみせるのだった。
「カフェで聞いたんだけど、この猫、ルリっていうそうよ」
「ルリ、さん? じゃ、猫さんは女の子……」
「そうだと思ったんだけどね。雄みたい」
ここに来る前に立ち寄ったカフェ・スキャンダルで耳にした梨奈と灯里の会話を反芻しながら、レモンはつまびらかに事情を説明する。心臓を刺された美優はドレスの胸元を真っ赤に染めて事切れたのだと聞かされ、ガルムは怯えたようにぶるっと身を震わせた。
「ルリさん……だから、花嫁さんを探して……るの?」
傘の中から、猫は斜めに二人を見上げている。
「一緒に、探そう……か? 花嫁……さん」
そっとルリを抱き上げてみる。引っ掻かれはしないかと半ばおっかなびっくり胸に抱くが、腕の中におさまったルリは軽く喉を鳴らしながらガルムの顎に鼻をこすりつけるのだった。
もちろん、ガルムはレモンが渡した小さな傘を拾い上げることも忘れない。ルリと一緒に大事そうに小脇に抱える。
「どこ、にいる……かな、花嫁さん……。教会? 結婚式……場?」
「あたしは違う場所に行ってみるわ。美優を探したいから。夕方にカフェで落ち合うってことでどう? あそこなら雨も避けられるし」
「いいですねぇ。あちきもご一緒しても?」
不意に後ろからのんびりとした声が聞こえて来て、二人は顔を見合わせる。振り返ると、顎をさすりながらウエディングドレスに見入る細身の男性の姿があった。
「あちきも『雨の中の花嫁』の話を聞きまして。市内をうろついていることが多いものですから、カフェで偶然耳に……その猫さんも以前から目にしていましたし」
簪と名乗った着流し姿の男性は、手にした番傘を軽く持ち上げて緩やかに微笑んでみせた――が。
「おや」
ゴスロリ衣装に身を包んだレモンを見とめた簪の目つきが途端に商人のそれへと変わる。レモンの身長に合わせて身をかがめ、物珍しそうに彼女の全身を眺め回すのだ。
「ふうむ。これもまた興味深い。これもドレスの一種でしょうかねぇ? どれ、ちょっと拝見……」
「な、何よあんた。気易く触んないでよ」
服に触れようとした手をレモンに叩き落とされ、「これは失礼」と言いながら頭をかく簪の様子をガルムが恐る恐る見上げている。
(お兄さん、変わった……喋り方)
でも、とガルムはルリを抱く手に力を込める。
(いい人……なの、かな)
ふと視線を感じて目を落とすと、腕の中のルリがこちらを見上げていた。ガルムの心境が伝わったのだろうか、ターコイズブルーの瞳がぎゅっと閉じられ、そしてもう一度開かれる。まるで肯いているかのように見えて、ガルムは思わず微笑を浮かべた。
「っていうか、康介もほんっとサイテーな男よね」
簪と一緒に市役所への道を辿りながら、レモンはしきりに憤慨している。「ここで会ったら絶対にぶっ飛ばしてやるんだから」
「そうですねぇ。確かに、気がかりなのは犯人さんが実体化していないか……でしょうか」
とはいえ、簪は康介をぶっ飛ばしてやろうなどとは思っていない。逆に、康介と対面した際のルリの反応が少々心配だった。美優が殺害される現場を目の当たりにしているルリが康介の姿を見ればどうなるか。どんな背景があるにせよ喧嘩をして後味の悪い思いを残させたくはない。
それに――ルリの心境を慮って決して口には出さないが――美優については、同情すべき点はあれど仕方ないことだと簪は割り切っている。遊女だった実母が実父に半ば捨てられたような仕打ちを受けたせいもあるし、色町という女性が裏切られて当たり前の場所で幼少時代を過ごしたせいもあろう。腑に落ちているわけではないのだが、しょうがないことだと思っていることも確かだった。
ともあれ――と内心で呟き、簪の双眸が大切な記憶を辿るかのようにふっと細められる。
(猫であろうが人であろうが、誰かが誰かを慕い続けることは……悪いことでありませんからねえ)
それはルリに対する言葉なのか、それとも己自身に向けるべき言葉なのか。どちらとも取れぬ独白に、思わず困ったような苦笑いがこぼれる。
「美優が実体化してれば話は早いのよ」
もちろん生きている状態でだけど、というレモンの声で簪はふと追憶から引き戻される。視線を下に向けると、小柄なレモンが簪の斜め下で傘をくるくると回していた。
「何とかしてあげたいじゃない。すぶ濡れになりながら毎日毎日ドレスの前で座ってるのよ?」
レモンの表情は傘に隠れて読み取れないが、気の強い言葉の裏にちらちらと揺れる真摯な思いまでは隠せないようだ。
「美優さんが居れば……そうですね。それが一番良いんでしょうねぇ」
「そうよ。絶対に一人にはさせたくないもの」
カリ、と音を立ててレモンは爪を噛む。「あたしの目に留まったからには絶対に何とかしてやるんだから」
そこまで言ってレモンはふと足を止め、振り返った。見上げる眼差しは存外に真剣で、簪もつられて足を止める。
「あんた、ムービースターなんでしょ?」
「へぇ、まあ」
「魔法とか使える?」
質問の意図を察しかね、簪はひょいと眉を持ち上げる。レモンは更に問いを重ねた。
「魔法が使えなくてもいいわ。そっち系の知識持ってない? 魔法に詳しい知り合いとか友達とか、いない?」
簪は返事の代わりにひとつ肩を揺すり、ゆっくりとかぶりを振ってみせた。あいにく簪自身にはそういった能力はないし、レモンが言うような知己にも心当たりがない。
「そ。じゃあしょうがないわね」
レモンはくるりと傘を回し、再び歩き出す。「後でガルムにも聞いてみようかしら。あいつ、不思議な力を持ってたはずだし」
ひとりごちるレモンの真意を図りかね、簪は軽く首をかしげるだけだ。
「あら」
「おや」
不意に足元に小さな影が差したような気がして、二人は同時に足を止める。まるで、頭上を鳥か何かが横切った時にできるようなごくごく薄い影だ。
「何かしら?」
「何か……白っぽいものが」
二人揃って見上げる空の中、ふわりとした靄のようなものが横切って、消えていく。それはともすれば目の錯覚ではないかと疑ってしまいそうなほど曖昧な、白い色彩の残滓のようだった。
雨の教会は静かだ。しっとりと濡れた白い壁、その周囲を彩る木々。葉の緑も雨に濡れ、宝石のかけらのような雨粒を抱いて静寂の中にたたずんでいる。
平日に結婚式を挙げようと考えるカップルは少ないのだろう。重い扉を恐る恐る開けて覗きこんだ礼拝堂もがらんとして、祝福の席が設けられる気配はない。ここに来る前、ルリを連れたガルムは対策課にも立ち寄った。花嫁のムービースターが実体化してはいないかと考えたのだ。しかし対策課にはそれらしいスターの姿はなく、次にこの教会にやって来たのだが……。
「いない……ね。花嫁、さん。ごめん、ね」
教会に来れば本物の花嫁に会えると思っていた。安直な見通しを詫び、腕の中のルリに目を落とす。先程まで首を伸ばして礼拝堂を見渡していたルリは興味が失せたように腕の中で丸くなり、目をしょぼしょぼとさせていた。
「……ルリさん、あのね……?」
小さな頭に軽く鼻をあてがい、ガルムはそっと語りかける。
「ボク……キミと友達になりたいの」
そしてもう一度名前を呼ぶと、ルリは首をねじって斜めにガルムを見上げた。
ルリに必要なのは名前を呼ぶ声と、抱き締める手と、何よりも愛情なのかも知れないとガルムは感じていた。そしてそれを与えてくれるのは飼い主の美優だということも。
自分は代わりにはなれないかも知れないが、それでもルリを抱き締めてあげたい。だからガルムはただ精一杯の温もりをルリに注ぐ。するとレインコートを通してルリが顔をすりつけてくる感触が伝わってきて、照れくさいような嬉しいようなくすぐったい感情が小さな心に溢れるのだった。
「花嫁をお探しですか?」
不意に穏やかなバリトンの声が耳を打ち、ガルムはびくりと肩を震わせる。振り返ると、この教会の神父とおぼしき壮年の男性が静かな笑みを浮かべて立っていた。
「ご……ごめんな、さい。勝手に……」
「いいや、いいんですよ。それより、花嫁を探しているのですか?」
「あ、はい……」
「残念ながら、今日は挙式の予定は入っておりません。明日は昼過ぎに一組入っているのですが……」
「明日……。ルリさん、どう……する?」
ガルムが問うても、ルリはぴくぴくと耳を動かすだけである。
妙に人間くさい猫の表情に神父はくすりと笑い、重厚な欅の扉を開いて小さな訪問者を中に招いた。
「そこでは濡れてしまいます。お入りなさい。ああ、もちろんそちらの猫も構いませんよ、今日だけ特別」
親しみのこもった笑みにガルムは体の緊張を解き、ルリを抱いて招かれるままに礼拝堂に足を踏み入れた。
「そうですか。それで花嫁さんを探して」
事情を聞いた神父は感慨深げに肯いた。人のいない礼拝堂では声がよく響く。使い込まれた椅子と祭壇は古ぼけてはいるが、よく手入れがされているようだ。ルリはガルムの腕の中から抜け出し、ゆっくりと礼拝堂の中を歩き回っている。
「健気な猫ですねえ」
ステンドグラスが落とす色つきの鈍い光の中、じっと座って虚空を見つめるルリ。そんな姿を慈しむように神父はそっと目を眇めてみせる。
「花嫁、さん……は」
ちょこんと椅子に腰かけたガルムは膝の上で拳を握り、勇気を振り絞って尋ねた。
「どこに、行けば……いますか?」
「結婚式場に行けば間違いないでしょう。教会はここの他にもありますし……ホテルもいいかも知れません。大きなホテルには大抵結婚式場が備え付けられているものです」
ですが、と神父は続けて微笑を浮かべる。
「ルリちゃんが探しているのは、花嫁でしょうか?」
「え……?」
「先程のお話を聞いていると、花嫁なら誰でもいいというわけではないような気がしますが……」
あ、とガルムは小さく声を上げた。
ウエディングドレスの前でじっと座っていたから、ウエディングドレス姿の花嫁を求めているのだとばかり思っていた。だが、違う。ルリがウエディングドレスを見ていたのは大切は人がそれを着たまま殺されたからだ。だとしたら、ルリが求めている存在は、きっと――
「ルリ、さん」
そっと名前を呼ぶと、ルリはとことことガルムの元に戻ってきた。手を差し伸べると素直にすり寄って来て、そのまま腕に抱かれる。
「ありがとう……ございました」
ガルムは神父にぺこりと頭を下げる。「美優さんを……探して、みます」
美優の捜索には既にレモンが出向いている。だが人手は多いに越したことはないだろう。ガルムはルリを抱き直し、レインコートの前を掻き合わせて雨の中に飛び出した。
小さな背中を見送る神父の顔に静かな笑みが広がる。
「あの坊ちゃんと猫ちゃんはある女性をお探しのようですが」
という神父の声に応じるように、隣の部屋へと続く扉の影から雨に濡れた女性が姿を現した。
「もしかすると、あなたがお探しの女性と同じかたでは?」
タイトなパンツスーツ姿の女性はその問いには答えず、疲れ切った目を神父に向けるだけだった。
「資料室はこちらですが」
先に立って案内する植村はやや心配そうに背後を振り返った。「お一人で大丈夫ですか?」
笈を背負ったまま後ろからついてくる簪は現代人とは思えぬ風体のムービースター。膨大な資料の山から目的の品をスムーズに探し出せるとは思えないが……。
「へえ。お気遣いどうも。あちきは大丈夫ですから、お構いなく」
「そうですか? もし機材の使い方が分からなければいつでも連絡してくださいね。――ああ、この部屋です」
“資料室”という簡素なプレートが掲げられた部屋に到着した。植村が鍵を差し込んでドアノブを回し、簪を招き入れる。
「これはまた」
古ぼけたものから最新のものまで。VHSにDVD。果てはLDらしきものまでが段ボールに入って山積みにされている光景に簪は軽く目をみはる。部屋の隅にはそれを再生するためのビデオデッキやプレイヤー、テレビが押し込まれていた。
「やれやれ。探しがいがあるというものですねぇ」
植村が辞した後で、簪は軽く苦笑いを漏らした。
目的は『雨の中の花嫁』。映画を見れば美優とルリの出会いのきっかけや、思い出の場所が分かるかも知れない。
レモンは走った。傘は邪魔だから閉じて脇に抱えた。濡れることも厭わずに雨の中を駆けた。
対策課で住民名簿を閲覧したが、そこに美優の名はなかった。対策課の資料室に用があるという簪と別れ、次に出掛けたのは聖林通りだ。美優の姿を見かけた者がいないかどうか徹底的に聞き込むつもりだった。
「『雨の中の花嫁』? ああ、なんか聞いたことあるような。悲しい映画だよねえ」
「美優って、妻子持ちの男に殺された子でしょ? かわいそうよね」
「あの子、出番が少ないしねえ、実体化してるのかどうか」
めぼしい情報は得られない。植村に頼んでインターネットからダウンロードしてもらった美優の画像を握り締め、レモンは雨の街を駆け抜ける。
「それっぽい猫は見かけたって聞いたよ。姉妹のほうは知らないけど」
「出て来てすぐ殺されるんじゃなかったっけ? 美優って。その後も夕貴の回想シーンでしか出て来ないし」
片っ端から通行人を捕まえるずぶ濡れの小さなうさぎに人々は奇異の目を向ける。その口からもたらされる情報は手かがりと呼べるほど決定的なものではなく、レモンの落胆をつのらせるばかりだ。
結局美優に関する手がかりは何も得られぬまま時刻は夕方となり、レモンは合流場所に定めたカフェ・スキャンダルへと足を向けた。
まず目に入ったのは、ルリを抱いて店の前で待つガルムであった。レモンがルリに渡したゴスロリ傘も律儀に抱えている。レインコートは濡れ、小さな長靴にもあちこち泥がはねていた。
レモンに気付いたガルムが物問いたげな視線を向ける。何かを期待するような眼差しにレモンはきゅっと口許を引き結び、首を横に振った。
「そう……なんだ」
答えを察したのだろう。ガルムの眉尻が下がる。大粒の瞳の上を落胆の色が覆っていくのが見てとれた。
「ねえガルム。あんた、魔法使える?」
「まほ、う?」
「そ、魔法。この前の童話ハザードの時、犬とか鳥みたいなものを喚び出してたわよね? 訊きたいことがあるんだけど――」
レモンが口にした言葉にガルムは感心したように「あ」と声を上げたものの、すぐに申し訳なさそうに首を横に振った。あいにく、ガルムにはレモンが言うような力は備わっていない。
「そう」
あっさり引き下がったレモンは腕組みして思案顔を作る。「魔法に詳しいスターに聞いてみようかしら」
「もうお揃いでしたか。遅くなりまして」
からんころんと下駄を鳴らし、雨の中からひょっこりと姿を現したのは簪だ。全員が揃ったところでカフェの入口をくぐり、奥のボックス席に腰を据える。飲食店に動物を連れて入るのはまずいのだろうが、獣系のムービースターにも贔屓にされているこのカフェのこと、今更猫の一匹や二匹に目くじらを立てる店員はいなかった。
「簪、さん……何、してた、の?」
「対策課で『雨の中の花嫁』を観ていました。何かの参考になればと思いまして」
簪はガルムの腕の中のルリの喉をさすってやった。鼻を持ち上げ、気持ちよさそうに目を閉じて喉を鳴らす姿に、切れ長の双眸が穏やかに細められる。
「映画を見てよく分かりました。猫さんは脇役ということですよね。それに、もし美優さんが実体化したとしても、生きている状態で猫さんの前に現れるとは限らない。美優さんは殺されていますから」
ルリはちらりと目を開いたが、すぐにまた目を閉じた。簪はルリの喉から手を離して軽く頭を撫でてやる。
「生きているかいないのか分からないお人を探すよりも、違う方法でこの街に居られれば良いと思いますが……どうでしょう?」
「ちょっと」
にわかに気色ばんだのはレモンだった。文字通り噛みつかんばかりの勢いで簪に食ってかかる。
「何言ってんのよあんた。美優がいないなんてまだ決まってないじゃない!」
「へぇ、確かに。でも、居ると決まったわけでもありません」
簪の口調は物静かだ。レモンの意見を否定しようとしているわけではないし、言っていることも正論であろう。レモンがそれを肯定できうるかどうかは別として、であるが。
「美優を忘れて生きろっていうの?」
「いいえ。きちんと記憶し続けた上で、です。たとえ会えないとしても、誰かを慕い続けるのは良いことですから――」
その言葉に、共感という単語ではくくりきれない感慨が滲んでいたことに誰が気付いていたであろうか。
「美優さんと猫さんは、時々一緒に教会に行っていたそうで」
しかし次の瞬間にはそんな感情など打ち消し、簪は二人に向かって緩やかな微笑を向けていた。
「明日にでも行ってみませんか? 近くの教会に。美優さんとの思い出を辿ってみましょう」
思い出の場所に大事な人の温度を感じ取ることができれば良い。大切な相手を連想させる何かに触れていれば、気持ちだけでもその相手と一緒に在るような心持ちになれるものだ。簪職人の父と遊女の母の間に生まれた簪が装飾品に関わる商いを選んだように。
「教会……で」
それまで聞き役に回っていたガルムが二人を見比べながらおずおずと口を開いた。
「明日……教会、で、結婚式がある……って」
ルリを連れて花嫁を見に行かないかとガルムはたどたどしく提案する。ウエディングドレス姿の花嫁もまた美優との思い出だから、と。
「だけど……」
そう言った後で、ガルムはルリを抱く腕に力を込めて目を伏せる。
「ボクは、美優さんが……いれば、いいな、って、思う……の」
全身に汚い錆色の模様を散らしたルリはいつしか目を開き、腕の中からじっとガルムを見上げていた。
「そうよ。あたしは諦めない。美優を探すわ」
目を伏せて何事かを考え込んでいたレモンも顔を上げた。その言葉を解したのだろうか、ルリがヒゲをひくつかせながらゆっくりと頭をめぐらす。
「雨の中で座ってたんだもの。毎日毎日、ずっと……。よっぽど美優のことが好きなのよ」
そうでしょ? というレモンの問いに答えるようにルリはぱたりとしっぽを動かした。
「いい? あんたはもう死んでて、この街に実体化してるの」
薄汚れた野良猫に真っ直ぐに語りかけるずぶ濡れのうさぎを、簪は柔らかに目を細めて見守る。
「だけどここは夢の街。有り得ないようなことが起こるのよ。あたしが目をつけたからには絶対に何とかしてやるわ。だからあんたも絶対諦めるんじゃないわよ。いいわねルリ?」
やや乱暴に頭を撫でるレモンの手の下で、ルリはぎゅっと目を閉じ、そしてまた開いた。
「では、明日は美優さんを探しながら教会に行ってみましょうか。動物は昨日今日で心を開いてはくれないものですが……」
簪もルリの首筋を静かに撫でつける。「なに、傘は持っていますから雨でも大丈夫です。必要ならば何日でも何週間でもお付き合いしますよ。猫さんの道が開けるまでは、ね」
大好きな美優に関する方向で道が開けば良い。そう付け加えた簪の傍らで、ガルムは黙っていた。レモンや簪と同じ心境でいたからだ。だから、言葉をかける代わりにルリを抱き締める。小さな頭に鼻を押し付けると、ルリはごろごろと喉を鳴らして目を閉じた。
翌日も相変わらずの雨模様だった。土砂降りにでもなってくれればまだすっきりするというのに、霧のような細かい雨が飽和した湿気とともに重くたゆたっている。待ち合わせ場所と定めた銀幕広場に三人と一匹は顔を揃えていた。
「昼過ぎに教会で合流ってことでいいわね。あたしは時間まで美優を探すから」
まとわりつくような蒸し暑さに文句を言いながらも、レモンはそう言い残して雨の街に飛び出していく。
「簪、さんは……?」
レインコートをまとい、ルリを抱いたガルムはおずおずと簪を見上げた。ガルム自身はレモンと手分けして美優を探すつもりでいる。
「そうですねぇ……では、あちきは一足先に教会に。あの人がいるとしたら恐らく教会でしょうし」
ひとりごちるように落とされた言葉の後半の意味を図りかね、ガルムはきょとんとして首を傾ける。軽く腕組みをした簪は何事かを考え込んでいるようだ。
「教会で待ってみます。もしも、ということがあるかも知れませんから」
謎めいた言葉を残し、簪は番傘を広げて急ぐでもなく歩き出す。
くるりくるりと回る番傘を見送り、ガルムも美優を探すために街に出た。
「空からも探そうか」
不意に滑らかになったガルムの口調にルリは顔を上げた。しょぼついていた青い目が幾度か瞬かれる。
目に映ったのは、黒。子供らしい大粒の瞳に宿るのは、昏い光。ガルムの掌からタールのような黒い液体が溢れ、濡れたアスファルトの上にねっとりと滴っていく。
「鳥」
やがて三つの塊に分かれたその黒い物体に、ガルムは人が変わったかのように無表情な声で命じた。するとどうだろう。ビクビクと身を震わせた塊があっという間に三羽の烏と変化したのだ。
「空へ。美優さんを探すんだ」
ガルムの命令に応じるように烏は三羽揃って漆黒の翼を広げる。大きな体躯と鉤爪にルリは被毛を逆立てるが、【鳥】と呼ばれた烏たちはルリに目もくれずに雨の空へと飛び立った。
「キミにとっての美優さんは大事な人なんだよね?」
居心地が悪いのだろうか。ルリはガルムの腕の中で体をもぞもぞとさせている。ガルムはやや冷ややかな笑みを浮かべ、ルリの頭に手を置いた。
「美優さんはこの街にいるかもしれないし、いないかも知れない」
くすりとガルムは笑った。その笑みはひどく無邪気で、残酷だ。
「キミがあのお店の前にいたのは他に行くあてがないから? それとも、待っていれば来ると信じていたから?」
その問いに答える術を持たぬルリは、狭い額にぎゅっと皺を寄せるだけだ。
「いつか絶対来てくれるって、信じたい気持は分かるよ」
けどね、とガルムは続ける。「現実は、そう都合良くはいかないから」
幼い外見には不似合いな大人びた口調。冷ややかともとれる声音に聞き入るルリの耳が落ち着きなくぴくぴくと動いた。
「どんな結果が出ても受け止めて欲しいんだ。ボクがキミに望むのはそれだけ」
一方、人通りの多い通りへと出たレモンは粘り強く聞き込みを続けていた。昨日から握り続けている美優の画像は雨を吸い込んで湿り、もはや紙の原型をとどめることすら難しくなりつつある。
(絶対に。絶対に見つけてやるんだから)
どんな些細なことでも良い。美優に関する手がかりを求め、濡れることも構わずにレモンは走り続ける。雨の中で座り続けていたルリの姿が脳裏に焼き付いてどうしても離れない。ルリのあの気持ちを美優に伝えたいと、レモンは心から願う。
それに――昨夜、知り合いの闇魔導師からもたらされた可能性を思い出し、レモンは握った手をさらにきつく握り締める。
(美優がいないことが分かったら、ルリは消えちゃうかも知れない)
だから美優を見つけなければいけない。絶対に。レモンの思いは変わらない。
ふと視界の隅を見覚えのある色彩が横切り、レモンは急ブレーキを駆けて足を止めた。
磨き上げられたガラスの中に並ぶ白は、美しいウエディングドレス。ブライダルショップのショウウインドウだ。そういえばここは初めてルリを見かけた店ではなかったか。
純白のウエディングドレスは、美優が最期に身に着けていた衣装。これも美優とルリの思い出には違いない。
「……いざって時は、やってみようかしら?」
ショウウインドウの前で腰に手を当て、仁王立ちで首をかしげるゴスロリうさぎに通行人が奇異の視線を注いでいった。
結婚式が催されるというガルムの言葉に間違いはなかったらしい。雨の中、慌ただしく礼拝堂に出入りする人々の姿を遠目に眺めながら簪は雨の中にたたずむ。
美優はルリを抱いて幾度か教会を訪れ、花嫁の姿を見ては羨望と憧憬の溜息を漏らすのだ。
<お姉ちゃんが言ってた。六月に結婚すると幸せになれるんだって>
あたしもいつか幸せになれるかな。そんなことを呟く美優の腕の中で、相槌を打つようにルリがぱたりとしっぽを振る。映画の中にはそんなシーンがあった。
(結婚、ですか)
空の色を透かし見るように番傘の縁を傾け、顎を上げた簪は雨の中にそっと息を吐き出す。上空を旋回する大きな黒い鳥の姿がちらりと視界に入った。カラスか何かだろうか。
(女性というのは、いつの時代も愛する男と添い遂げることを夢見るものなのでしょうかねぇ)
むき出しになった喉元は細いながらも筋張っていて、どこか女性めいた容貌や物腰とは対照的にぞくりとするような男の色香が匂い立つ。何かを追憶するように柔らかく眇められた双眸は一体誰を求めているのか。
「教会は猫さんと美優さんの思い出の場所――」
さらさらと。しとしとと。
降り注ぐ雨は静かで、弱く、あまりに脆い。静けさの中で番傘がくるりと回り、水晶のかけらのような雨粒が音もなく滑り落ちていく。
「美優さんとお姉さんにとっても、大切な場所。――そうでしたね?」
手にした傘をゆるりと背中側に傾けて。
半身になった簪は、その人物を斜めに振り返ってそう問うた。
「あたしは準備があるから先に教会に行ってて、絶対行くからちゃんと待ってるのよ?」
教会に向かう途中で出会ったレモンにいきなりそうまくし立てられたガルムは、わけも分からずにただ肯くしかなかった。
ガルムが空に放った【鳥】たちは美優を見つけることはできなかったが、その代わり気になる情報をふたつ持ち帰ってきた。
ひとつは、白っぽい人影のようなものが浮遊していたこと。【鳥】が近付くと人影はすぐに姿を消してしまい、顔かたちまでは確かめられなかったため、今回の一件と関係があるかどうかは分からない。
そしてもうひとつは、美優に近しい人物が実体化しているらしいこと。それは、ガルムも、そして恐らくレモンもすっかり忘れていた、もう一人の重要人物。映画の中でえがかれていた、もうひとつの絆。もしかすると、ルリのよりどころになるかも知れないもの。
街を歩き回ったガルムも美優の手がかりを得ることはできなかった。だが、それでもガルムはルリを抱いて教会に走る。
「夕貴、さ、ん」
息を乱したガルムの視界にパンツスーツ姿の女性が映り込むのと、すいと首筋を伸ばしたルリがガルムの腕から飛び降りるのとはほとんど同時であった。
教会の敷地を覆う生垣の外側。ビニール傘を差し、そこにたたずんでいた女性の目が驚愕に見開かれる。しっぽをぴんと持ち上げて女性に駆け寄ったルリは目を閉じて彼女の脚に全身をすりつけた。
女性の傍らに立っていた簪が番傘の下から会釈する。簪の前でガルムは膝の上に手を置き、肩を上下させながら懸命に息を整えた。
美優は見つからなかった。その代わり、【鳥】が見つけてきたのは姉の夕貴だったのだ。
「妹は……やはり実体化していないんですか」
しゃがみこみ、ルリの頭を撫でてやっていた女性――夕貴が独り言のように呟く。ガルムはきゅっと唇を引き結んで肯いた。レモンからも美優が見つかったという話は聞いていない。レモンの性格からして、美優が見つかれば真っ先にそれを口にするはずだ。
「教会はルリさんと美優さんが思い出の場所。同時に、美優さんと夕貴さんの思い出の場所でもあるんですよ」
映画の中でもそれが描写されている。早くに両親を亡くし、二人で生きていこうと決めた姉妹は、雨の中の教会で結婚式を挙げる花嫁の姿を見つめながら「私たちもいつかあんなふうに幸せになろうね」と約束し合った。そしてジューンブライドの言い伝えを話した夕貴は美優の手を引いてアクセサリーショップを訪れ、揃いの真珠のイヤリングを買うのだ。いつか自分たちの結婚式で着けるためにと。
「ルリっていうんですね、あの子。そんなことも知らなかった」
ルリは夕貴の傍を離れ、すっと首を伸ばして生垣の周りをゆっくりと歩いている。ぴんとしっぽを立て、記憶を辿るかのようにこうべをめぐらせながら思い出の地を踏みしめる姿に夕貴は弱々しく微笑んだ。映画の中で、夕貴はルリに違う名前をつけて可愛がっていた。何年も美優と離れていた姉は、妹が猫を飼っていたことすら知らなかったという設定になっている。
生垣の向こう側がわずかにざわつき始めた。見ると、盛装した男女が十数人、渡り廊下を歩いて礼拝堂へと入っていく。結婚式の列席者たちだろう。
「ルリ」
ふと。優しげな声に一同は振り返る。
雨の中、ふんわりと翻るのは白。細密なレースに縁取られる素肌も真っ白だ。霧のようなヴェールの下から現れたのはつぶらな赤い瞳と――
まぎれもない、うさ耳。
「あたしが美優よ。さあルリ、この胸に飛び込んできなさい!」
特別製のウエディングドレスに身を包んで現れたレモンは、そう言って両腕を広げてみせるのだった。
それは無理だ。誰かがそう呟き、誰もがそう思った。事態を把握しかねた夕貴だけがドレスを身にまとったうさぎに目を白黒させている。
当のルリはといえば、無言でレモンを見つめていたが、すぐにぷいと顔をそむけてしまった。ひどく興醒めしたようなその瞳は、憎たらしいほど鮮やかなターコイズブルー。
「ちょっと、何よそのリアクション! このあたしがここまでしてやってるのに!」
「だって、レモンさん、うさぎ……」
「黙りなさいそこ!」
怒りのうさぎ様にびしっと指を差され、ガルムは「ひえっ」と小さく悲鳴を上げて身を縮める。
「何よ。この蒸し暑い中、こんな動きづらい格好したってのに。あたしはただ……」
街を駆けずり回っても美優を見つけられなかった。だからせめて、ルリの気が少しでも紛れれば良いと考えたのだ。
そこでようやく夕貴の存在に気付き、レモンは首をかしげる。美優の姉だと簪に聞かされ、「あっ」と手を打った。やはりレモンも夕貴のことを失念していたようだ。
「だけど、昨日見た住民名簿にはあんたの名前は……」
「住民登録、まだなんです。市役所に行く時間も惜しくて」
ずっと美優を探し回っていたのだと夕貴は付け加えた。元々色の白いほうなのだろうが、彼女の顔は血の気と生気を失い、半ば青白くなっている。不自然にこけた頬には隠しきれない翳と疲労が張り付いていた。
「でも、この子だけでも見つかってよかった」
白い手がルリの頭の上に降りる。ルリは軽く目を閉じ、心地よさそうに鼻先をつんと持ち上げた。
「どうでしょう、夕貴さん。猫さんと一緒に暮らしてみては。猫さんは妹さんの忘れ形見ですから」
美優を想う者どうし、一緒に生きるのも悪くないかも知れないと簪は静かに語る。夕貴はルリを見て美優を思い出し、ルリは美優の面影を持つ夕貴を見て大事な人の記憶をいつまでも留め続ける。大事な人の思い出と寄り添うように生きる、そんな道があってもいい。
「駄目。駄目よ」
レモンはヴェールをむしり取って激しくかぶりを振った。
「ルリが探しているのは美優だもの。美優を見つけなきゃ。絶対どこかにいるはずよ。“いるかも知れない”んじゃない、見つけるの、見つけなきゃいけないの! いなきゃ困るのよ! それに」
レモンは咳込むようにまくし立てる。「美優がいないことが分かったら、ルリは――」
ルリは死んだ状態で実体化しているという。いつまでこの世に留まれるか分からない。万が一ルリが消えそうになってしまった場合に備えてレモンは魔法に詳しいスターを片っ端から捕まえ、ルリの実体をこの世に留める方法を模索した。ぬいぐるみでも何でも良い、何かにルリを宿らせる方法はないものかと。
「さて、どうだろうね」
真っ先にレモンに捕まった猫耳の闇魔導師はそう言って眉間に皺を寄せたのだ。
「少なくとも、本人の意思に反して無理矢理この世に留めることは難しいと思うな。本人が“居たい”って思わない限りはね」
ルリが死してなお現世に留まっていられたのは、美優に対する強い想いゆえだ。その想いがなくなった時――この世に留まっていたいと思う理由がなくなった時は、どうなるか分からない。
「だから。美優がいないって分かったら――」
レモンは声を震わせて言い募る。しかしその後は続かない。
美優がいないことが分かってしまえば、ルリが美優を諦めてしまえば、ルリはきっと消えてしまう。たとえ可能性であってもそんなことは口にはしたくなかった。
「……もし、美優さんが……いなくても」
ガルムがためらいがちに口を開いた。小さな手は何かにすがるようにぎゅっとレインコートの裾を掴んでいる。
「ボクは、ルリさんの友達……だから。一緒に、いるよ。それじゃ、だめ? ルリさんが、ここに居たいっていう、理由には、ならない……?」
問いかけるような、縋るような、大粒の瞳。ルリのためを思って言っているのかといえばそれは少し違っただろう。ガルム自身が、ルリがここに在り続けることを強く望んでいた。
ルリは答えない。ただ、体の脇にお行儀よく添えたしっぽをぴくりと動かし、四人の顔を順々に見やるだけだ。
その時。
静かな雨音に乗って、温かな拍手が届いた。ルリはぴくりと顔を持ち上げ、すっと背筋を伸ばして生垣の切れ目へと走る。そこからなら礼拝堂の様子を視界におさめられるのだ。
ルリの後を追った四人は思わず声を失った。
礼拝堂の入口から丁寧に伸ばされた深紅の絨毯。その両脇に並ぶ、着飾った人々。そして、彼らの視線の中で厚い扉が開き、腕を組んだ新郎新婦が姿を現したのである。
「……うわあ」
「これはまた……」
歓声を上げたのは果たして誰だったのか。
新郎も新婦も白一色だった。白のタキシードというのは些か気障に思えるが、このよき日にとやかく言うべきではなかろう。新郎は照れ臭そうな笑みを浮かべながらライスシャワーの祝福を受け、新婦をエスコートしてゆっくりと進む。雲のように柔らかなヴェールをまとった新婦もはにかんでいるのか、終始うつむき加減で、それでも薄紅色に染まったその頬が幸せな心地を雄弁に物語っていた。
列席者は多くない。二人の近親者ばかりなのであろう。蒸し暑いこの季節、しかも雨の中での盛装を強いられるというのに、笑顔、笑顔、笑顔が並んでいる。礼拝堂から出てきた二人に惜しみない拍手と祝福を送っていた。
(幸せそうですねぇ)
睦まじい夫婦の姿を眺める簪の唇に、やや醒めた色の微苦笑が浮かぶ。
男と女が好き合って、めおとになる。それは当たり前のことで、理想でもあろう。だが、初めの幸せがその後も続くとは限らないことも簪は知っている。人の幸せそうな顔を見るのは悪くはないと思うけれども。
「きれい……」
ガルムは思わず感嘆の声を漏らした。その声が聞こえたというわけでもないのだろうが、ふと視線をめぐらした花嫁が四人の姿に気付き、にっこりと微笑んでみせた。照れたガルムは慌てて傘の影に隠れる。
「妹も、あんな幸せを望んでいたんでしょうね」
ぽつりと呟いたのは夕貴だ。二人で生きようと約束しながら妹のそばに居てやれなかった姉は、殺される直前まで妹が夢見ていた幸せを思い涙をこらえる。
「ここでなら」
夕貴の膝ががくりと折れた。その手からビニール傘が落ち、雨の中に転がる。
しとしとと。さらさらと。
「美優と一緒に生きていけると思っていたのに」
静謐に降り注ぐ雨が、夕貴の髪を、頬を、肩を、少しずつ濡らしていく。おずおずと進み出たガルムが座り込んだ夕貴の上に黄色い傘を差しかけてやった。しかし夕貴はそれに気付かずに両手で顔を覆い、肩を震わせる。
「……何してるの」
しばらくうつむいていたレモンがドレスの裾をつまみ上げ、つかつかと前に歩み出た。そしてきっと口許を引き結んで暗い空を振り仰ぐ。
「何してるのよ美優。ルリも夕貴もあんたを待ってるのよ」
レモンの声は雨の中に吸い込まれ、湿った残響を伴って、消える。
「さっさと出て来なさいよ。ここは銀幕市よ、夢の街よ! 有り得ないようなことだって叶う場所なんだから!」
カラン、カラン。
レモンの悲痛な声を掻き消すように、不意に鐘の音が鳴り響いた。
耳慣れぬ音に簪は思わず眉を顰め、こうべをめぐらせた。礼拝堂の前にしつらえられた鐘が先程の新郎新婦によって打ち鳴らされている。現代の風習には馴染みの薄い簪にも、その鐘が結婚の祝いに鳴らされているのだということは容易に推察できた。
カラン、カラン。
雨とともに降り注ぐ鐘の音。ルリはじっと座っている。身じろぎひとつせずに、凛と背筋を伸ばして。その小さな耳が何かを探るようにぴくぴくと動いていたが、濡れた鼻先が不意に上空へと向けられた。
「――――――」
カラン、カラン。
暗い空を指したガルムの言葉も。それに気付いたレモンの声も。番傘の下で軽く目を見開いた簪の声も、半ば呆然として空を見上げた夕貴が息を呑んだ気配も、すべてが鐘の音に掻き消されて。
カラン、カラン、カラン。
しかし、静かな雨と鐘の中で、“彼女”の声だけがやけにはっきりと耳朶を打ったのだ。
「――ルリ」
ルリの耳がとらえたのは優しさと慈愛に満ちた声。見開かれたターコイズブルーに映るのは無垢なウエディングドレス。天使とみまごうほどに清らかで美しいその純白は、大切な人が身にまとっていた、幸福の約束。
「ルリ。やっと会えたね」
まっさらなドレスの胸元に真っ赤な花をさした美優が、鐘の音とともにルリの前に舞い降りた。
レモンの願いが届いた。誰もが初めはそう思った。だが、そうではないと皆がすぐに悟った。
美優の胸元で咲き誇る深紅の色彩。一見するとコサージュか何かに思えたそれは、大輪の血の花だった。まるで刃物か何かで心臓を一突きにされたかのような。
美優が手を伸ばすのが先だったか、それともルリが駆け寄るのが早かったか。とにもかくにも、美優はしっかりとルリを抱き締め、ルリは求め続けていたその場所に身を躍らせるようにして飛び込んでいた。
「美優」
最初に声を発したのは姉の夕貴だ。妹もまた、姉ににこりと笑顔を向ける。
「お姉ちゃんも来てたんだ。あたしは二、三日前にこっちに来たんだけど」
そして、悲しそうな笑みをもうひとつ。「駄目みたいだね。死んだ後の体で実体化しちゃったみたい」
貴婦人がするようにドレスの裾をつまみ上げてみせる美優のしぐさは少しおどけていたが、誰も笑う気にはなれなかった。
「あたしも探してたんだよ、ルリ。さっき、烏みたいな黒い鳥が近付いて来てね……怖かったけど、こっそり後を追いかけてみたの。そしたらここに辿り着いたんだ」
寂しい思いをさせてごめんね。そう言って微笑む美優の口許にぷっくりとえくぼが浮かぶ。その笑顔はあまりにもあどけなく、無垢だ。
カラン、カラン。
間をおいてゆっくりと打ち鳴らされる鐘。レースの手袋をはめた繊手の下で、ルリは幸せそうに目を閉じて美優の胸に顔をすりつける。
ああ――
美優に身を委ねたルリの、なんと無防備で、幸せそうなことか。
ガルムに抱かれた時よりも、レモンや簪に頭を撫でられた時も、夕貴に声をかけられた時よりも、ずっとずっと幸福に満ち溢れた顔でルリは目を閉じている。
「そういえば」
映画の内容を思い出した簪がふと顎に手を当てて呟く。「猫さんの体の模様は……」
白地に錆びた茶色のようなブチが散るルリの被毛。まるで全身に泥水をぶちまけられたかのようなその柄は、映画の終盤、夕貴に美優の遺体を発見させた後で、雨に打たれながらきれいに消えていくのだ。
「消え……るの? 体の、模様が?」
「へぇ。元はきれいな白猫さんだったんですよ。それが――」
言いかけて、簪はやや躊躇ったように口をつぐむ。「何よ?」とレモンにせっつかれても曖昧に言葉を濁すだけだ。
それを察したのか、美優がそっと微笑んでみせた。
「ルリのこの模様は、あたしの血です」
そして、背筋の凍るような告白をまるで他愛のない世間話でもするかのように口にする。
「ルリはあたしの殺害現場に居合わせたから……あたしの返り血を浴びて、こんな模様に」
カラン、カラン。
柔らかに響き続けるのは穏やかなハーモニー。鐘の音と雨音が緩やかに融け合って紡ぎ出される、幸福の音。
「美優。ねえ、美優」
雨に打たれ、体温を失った夕貴の手が妹に伸ばされた。
「ここに居て。ルリみたいにここに居ればいいじゃない。ここでなら昔みたいに一緒に生きられる、そうでしょ?」
「そうよ」
レモンもきっと顔を上げた。「あんたはここに居て、ルリと夕貴と一緒に暮らすの。そしたらルリもあんたも夕貴も幸せ。それが一番のハッピーエンドじゃない」
だが、美優は静かに首を横に振った。
「あたしは、もう死んでるから」
形の良い唇が紡ぎ出す言葉は、あまりにも冷厳な現実で、事実で、真実。
「ここには居られない。ルリと違って、あたしにはこの世に留まりたいと願う“設定”がないの」
妹が淡々と告げる事実に、姉の顔が歪んだ。美優の言葉の指す真意を悟った簪は軽く目を開き、仕方ないとでもいうように嘆息するだけだ。
愛する男に裏切られて殺され、よりどころであった猫も一緒に死んだ。そして唯一の家族であるはずの姉は、美優をこの世に引き留められるほどの存在ではない。だから美優はこちら側には留まれない、それだけのことだ。
「“設定”なんか今から作ればいいのよ。ごちゃごちゃ言ってないで――」
半ば無理やり美優の手を引こうとしたレモンは、まるで高圧電流にでも触れたかのようにびくりと体を震わせて手を引っ込めた。
レモンの手は美優の手をすり抜け、ただ雨に濡れる空気に触れただけだった。
美優の腕に抱かれたルリにガルムが恐る恐る手を伸ばしてみる。やはり同じだった。小さな手はルリの体をすり抜け、その向こうにある美優の胸すら通り抜けて、虚しく空に差し出されただけだ。
カラン……カラン。
緩やかになり始めた鐘の音の中で、ルリはすっと背を伸ばし、四人の顔を順々に見渡した。
そして。
「ニャア」
それはルリが初めて発した鳴き声だった。簪やレモンやガルムはおろか、夕貴ですら聞いたことがなかったルリの声。
カラン、カラン。
ああ、鐘の音に包まれて。
雨が――
絹糸のように降り注ぐ雨が、ルリの体に飛び散ったブチを洗い流していく。
現れた毛並は、新雪のようにクリアな白。ウエディングドレスに優るとも劣らぬ、一点の穢れもない純白。
すべてを雪(そそ)ぐかのように。すべてから解放されるかのように。
すべて満たされたかのように、汚れた毛並が、美しい白へと戻っていく。
「駄目!」
直感的に事態を察して叫んだのはレモンだった。半ば悲鳴にも似た声は悲痛に雨を切り裂き、美優に迫る。
「駄目、駄目、絶対駄目! 絶対行かせない! あんたたちはここに居るの、ここで一緒に生きるのよ!」
ルリを抱いた美優は答えない。悲しそうに微笑むだけだ。
美優の脚が音もなく地面から離れる。伸ばされたレモンの手はドレスの裾に触れることすらできなかった。
「あんた! お姉さんなんでしょ、なんとかしなさいよ!」
レモンはいきなり夕貴に掴みかかった。「あんたと一緒に生きていたいって思えば美優は行かなくて済むのよ! そしたらルリだって一緒にここに居られるんだから!」
小さなうさぎの背丈は夕貴の腹の高さにも満たない。それでもレモンは夕貴のスーツを掴んで手荒に揺する。鈍い音を立ててボタンが弾け飛んでも、夕貴はただ色を失って雨に濡れるだけだった。
「やめてください。お姉ちゃんのせいじゃありません」
静かな声がレモンを制する。「あたしたちは……もう大人です。ジューンブライドを信じて、二人きりで居たあの頃とは違うから」
思い当たることでもあったのだろうか。夕貴の顔が決定的に歪んだ。
カラン……カラン……カラン。
鐘の音に見送られ、純白の花嫁と真っ白な猫は、ゆっくりと、しかし確実に空へと昇っていく。
「ルリ、さん」
ガルムは半ば呆然と見送るしかない。大きな瞳の縁に盛り上がった涙は今にも溢れ出してしまいそうだ。
「美優さんと一緒に……猫さんがそれを望むのなら」
誰にも止められないし、止めるべきではない。簪はぽつりと呟き、番傘を斜めに傾けて美優とルリの姿を見送る。
「嫌よ!」
叫ぶや否や、レモンは背中の翼を開いて地を蹴った。天使の翼のようなフォルムのそれをはためかせ、緩やかに遠ざかっていく花嫁と猫を猛追する。苦しげにこわばった聖なるうさぎの顔をとめどなく濡らすのは雨だったのか、それとも。
そして、必死に追い縋るレモンの手がルリの背に届いたと思われた瞬間。
一人と一匹の姿は霧のような水蒸気となり、弾けるように消え失せていた。
だが、レモンは確かに見たのだ。振り向いたターコイズブルーの瞳が、まるで微笑むかのように優しげに細められたのを。
カラ……ン……カ……ラ、ン。
祝福の鐘が柔らかな余韻を残して鳴り終わり、雨の中に再び静寂が満ちた。
「夕貴さんには婚約者の男性がいらしたんですよね?」
雨の中に座り込む夕貴に番傘を差し掛けてやりながら簪が尋ねた。
「仕事と婚約者に夢中で、いつしか妹さんの存在が希薄になりかけていた……」
映画の中ではその点についても詳しく描写がなされている。だが、責めるでもなじるでもなく、簪の口調はただただ静かだ。夕貴は両手で顔を覆って嗚咽した。それを無言の肯定とみなした簪はそれ以上の指摘をやめた。
(猫さん、美優さん……ようやく一緒になれましたねぇ)
間断なく雨粒を降り注ぐ空を仰ぎ、そっと目を閉じる。
大切な人と再びまみえて、そばに行くことができた。これからはずっと一緒にいられる。それで充分だし、それが最上だ。そう思うしかない。
「あ……めあ、め」
ややたどたどしい歌声に気付いて視線を落とすと、傘を差すことも忘れたガルムが天を仰いで童謡を口ずさんでいた。
「ぴ、ちぴ……ちちゃ、ぷちゃ、ぷ――」
す、と涙が堰を切り、雨と一緒に頬を伝っていく。
ルリの友達になりたいとガルムは言った。ルリと一緒にいたいと願った。けれど、美優の代わりにはなれないことも分かっていた。
それなのに。分かっていたはずなのに、どうしてこんなに心が痛いのだろう。
「……らん、ら……ん、ら……」
幼い声はどうしようもないくらい震えていて、もはや歌にはならなかった。溢れ出る涙をせき止めることができない。
それでも――ほんのわずか、雨の中でガルムはゆるゆると微笑む。
どうかルリが幸せであるようにと、それだけを願って。
可憐な翼をはためかせ、レモンは雨空の中に留まっていた。窮屈なウエディングドレスが雨を吸って、重い。だが地上に戻る気にはなれなかった。まだしばらくはこうしていたい。
「……幸せに、なりなさいよ」
低く、その言葉を押し出した。怒りとも悲しみともつかぬやりきれない思いが小さな体を苛んでいたが、レモンはそれを呑み込むようにきつく口許を噛み締める。
「あんたたちはこの聖なるうさぎ様の祝福を受けたのよ。幸せにならなかったら承知しないからね!」
いつもの口調でそう言い放ったレモンの顔はぐしゃぐしゃだった。まるで、泣き顔を無理矢理笑顔に作り変えようとして失敗でもしたかのように。
その後、地上に戻ったレモンを交え、四人はしばらくその場に留まった。もしかしたらルリと美優のフィルムが落ちてくるかも知れないと、もしそうならばきちんと受け取りたいと、誰もがそう思ったからだった。
だが、どれだけ待ってもフィルムは落ちて来なかった。翌日も翌々日も同じ場所を訪れたが、フィルムはなかった。
ムービースターが『死んだ』時、その体はフィルムに戻るという。
ならば、ルリと美優はきっとまだ『生きて』いるのだ。
だから、目には見えないだけでルリも美優もきっとこの世界に留まっているのだと――レモンが主張したその結論は、些か強引すぎる解釈だったのだろうか。
(了)
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クリエイターコメント | 皆様こんにちは。当シナリオへ参加していただき、まことにありがとうございます。 予定より早いですが…どうにか梅雨明け前にと思い、お届けいたします。南のほうでは既に梅雨明けしているのかも知れませんが、お目こぼしください。
相変わらずの宮本ぽち風味、いかがでしたでしょうか。 思ったより切ない幕切れとなりましたが、ハッピーエンドかバッドエンドかは例によって皆様の解釈にお任せです。 お三方とも、夕貴の存在は見事にスルーなさっていましたが(笑)。
こういう結果になりましたが、ルリはきっと幸せです。 ルリに寄せてくださった思いや言葉、温もり。ひとつひとつにただただ感謝です。本当にありがとうございます。
それでは、いつかまた皆様の優しさに出会えることを願いつつ。 今回のご参加、重ねてありがとうございました。 |
公開日時 | 2008-07-09(水) 18:40 |
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