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<ノベル>
今時分は多雨の季節だという。行き場をなくした水蒸気が葛湯のように空と地面の間を押し包んでいるが、まだ雨にはなっていない。だがじきに降るだろう。落ちてきそうなほど低い空と、降雨の前に地面が発する湿った匂いがそれを教えてくれる。
(やれやれ。ずいぶん静かなことで)
聞いた話によると、銀幕市にはもうずいぶん前から不穏な気配が漂い始めているという。最近も市全土を巻き込む大がかりな討伐作戦が展開されたばかりだ。それでも、この場所では常人が無防備に目にすれば発狂しかねないほど不気味なあの“異形”の姿が見えない。簪にとっては拍子抜けするほど静かな日常であった。
だが、それにももう慣れた。市内を歩き回るのが趣味であるからか、それとも元々商人として各地を渡り歩いていた身であるからか、食べ物や風習、言葉の違いにもそれほどかからずに馴染んでしまった。
「おや」
今日も今日とて郊外をそぞろ歩き、時刻は既に日暮れ時。鼻の頭にぽつりと水滴が当たったような気がして、簪はふと足を止めて空を仰いだ。
「おやおや……まあ」
ぽつ、ぽつ、ぽつ……ざあああああ。
唐突に夕立の様相を呈し始めた空に苦笑いしか出て来ない。舗装されていない砂利道を歩いているのは簪一人。雨宿りをできそうな場所も近くには見当たらない。が、特に慌てるでもなく背中に手を回し、笈に差し込んでいた番傘を器用に抜き出した。
「おやおや……まあ」
傘を開いて、思わず同じ台詞をこぼす。
最近、雨が多かったせいだろうか。それとも、散策の際にいつも持ち歩いていたせいなのだろうか。傘は穴だらけで、本来の役目を全く果たせそうにない姿になり果てていた。
「困りました、ね」
という言葉とは裏腹に、それほど困っているような様子には見えない。口許に緩やかな微苦笑が浮かんでいるのは心地良い既視感に包まれているせいだろうか。
虫食いの傘の下から見上げれば、泣き顔の空も鈍く瞬く星屑の色に見える。そんなありふれた光景を子供のように面白がったあの男は、今は隣にはいない。
「およしなさいな、お間抜けさん……」
謡うように呟いた後で、「ふふ」と浅い笑みをひとつ。穴だらけの傘をくるりくるりと回し、簪は驟雨の中を急ぐでもなく歩き出した。
雨足が衰える気配はない。激しくも単調な雨音は緩慢な眠気を誘う。うとうとしては目を開き、目を開いてはまたうとうとし……。睡魔と闘うのは緩やかな恍惚にも似て、心地良い。浅くまどろんだ後でふと目を開くと、時刻はすでに夜半を告げようとしていた。
単なる夕立かと思ったが、そうでもなかったらしい。すぐにやむだろうと軽く考えて虫食いだらけの傘を差していたのが仇になった。雨宿りができそうな場所を探しながら歩き続けてとある寺に辿り着いた頃には濡れねずみになり、日もとっぷりと暮れてしまっていた。
簪の姿を見た住職は快く寺に迎え入れ、雨がやまないようなら泊まって行けば良いと勧めてくれた。穴開きの傘しか持たぬ身ではありがたくご厚意に甘えさせていただいたほうが良いと判断した簪は丁重に礼を言って頭を下げたが、人の良さそうな住職は柔和に笑ってそれを制したのだった。
「やれやれ。降りますねぇ」
親切な住職は清潔なタオルを貸してくれたばかりか、濡れた服よりはましだろうと言って簡素な浴衣まで出して来てくれた。ありがたく拝借して着替えを済ませ、簪は縁側に面した小さな客間でまどろみながら寛いでいる。
雨は嫌いではない。締めきった雨戸が軽快に打ち鳴らされる音と、しとどに濡れた空気を味わうのも良いものだ。
「もし。よろしいでしょうか」
静かな足音とともに訪れた住職の声が簪を追想から引き戻した。ややはだけた浴衣の前を直して起き上がると、縁側に面した雨戸が開き、急須と茶筒を捧げ持った壮年の住職が入ってきた。
「よろしければ、粗茶を差し上げたいと」
「へぇ、これはご丁寧に……」
沸騰したての熱湯は茶葉には熱すぎる。程良く冷ました湯をそっと急須に注ぐと、澄んだ香りがふうわりと立ち上った。茶受けの落雁を添えて差し出された緑茶は色も香りも涼しげだ。
「このような古寺にお泊めして……お恥ずかしい限りです」
住職は綺麗に剃り上げた頭に手をやり、申し訳なさそうに身をすくめる。しかし簪は本心から首を横に振り、「助かりました」と言い添えた。
「それに……もしかしたら、珍客が訪れるかも知れません」
「珍客?」
「犬です。黒い、中型の」
寺の雲水が餌をやるうちになついてしまい、頻繁に姿を現すようになったのだと住職は続けた。
「大人しい奴ですから、向かってくることも噛みつくこともありません。もし見かけてもあまり驚かないであげてください」
「はぁ。犬ですか」
「おや。犬がお好きで?」
簪の表情がわずかに和んだことに気付いて住職が問う。
「へぇ、まあ。犬や猫の類は良いものですからねぇ」
「ええ、まったく」
互いに本心から言い、じんわりと微笑み合う。その後もとりとめのない会話を交わし、住職は「どうぞごゆるりと」と頭を下げて退室した。
「犬ですか」
古寺で過ごす夜、犬を話相手に迎えるというのも悪くない。一人になった簪はいそいそと立ち上がり、雨戸を細く開けて庭を透かし見た。この暗闇の上に雨天では判然としないが、それほど広くない庭には石灯籠や背の低い植え込みなどが配置されていて、それなりに手入れもされているようだ。今が昼であったならば雨に濡れた石の白と夏草の緑がはっきりと見えて、さぞ風流だったであろう。
ざあああああ。
ざあああああ。
漆黒の闇を打つ雨は衰えを知らない。だが、そのおかげで程良く冷やされた夜気が流れ込んでくる。はだけた胸倉を軽く揺すると、濡れた涼風が汗に湿った首筋をゆるゆると撫で下ろして行き、心地良さに思わず眼を細めた。
ざあああああ。
ざあああああ。
絶え間なく続く雨音の中に、かすかに「くん」という音が混ざったような気がして簪はふと目を開く。
はて、こんな刻限にこんな場所で何の音か。それに、音というよりは生き物の声のような……。
「おや」
ひょいとかがみこんだ簪は、闇の中でもぞりと動いた黒い色彩に親しみのこもった笑みを向けた。
「あなたが住職のおっしゃった“珍客”ですか?」
視線の先で、雨滴を弾き飛ばすようにぶるぶると体を震わせているのは真っ黒な犬であった。
雨に濡れた野良犬を部屋に招き入れるわけにはいかない。とはいえ、このまま放っておく気にもなれぬ。とりあえず手を差し伸べてみるが、犬はビロードのような鼻先をぷいと横へ向けた。
「つれないですねぇ」
思わず苦笑が漏れる。雲水に餌をもらっているくらいなら人に慣れているだろうと思ったのだが、そうでもないのだろうか。
「部屋には上げられませんが、雨宿りをしたければどうぞ」
雨に濡れる縁側を指し示して簪は雨戸を閉めた。日に焼けた畳の上にしばらく横になっていると、縁側の上に何かがすとんと飛び乗る気配がした。察しつつも知らんぷりを決め込んでいるうちに、雨戸をかりかりと引っ掻く音が耳に届く。
くすりと笑って雨戸を細く開けると、縁側の上に立った黒い犬がびくっと身を震わせて飛びのいた。
「素直においでなさいな」
頭を低くしつつも逃げようとはしない犬をからかうように手招きする。犬は尚もしばらく身を低くしていたが、やがてすいと首を持ち上げ、おずおずと近付いて来た。
だが、頭を撫でてやろうと簪が手を伸ばせばまた後ずさる。簪の手が届かないぎりぎりの距離まではにじり寄ってくるが、それ以上は決して近付こうとはしなかった。野良犬ゆえの用心深さに肩をすくめるしかない。
「お好きにどうぞ」
雨戸を開けたまま再び手枕で横になる。すると、離れれば離れたで犬は甘えるようにくーんと鼻を鳴らし、縁側に腹這いになって簪を見つめるのだ。
素直じゃないと思いつつも、簪はただ微笑を保った。頬杖をついて頭を起こし、一定の距離を保ったまま犬を見つめる。紀州犬ほどの大きさの犬だった。漆黒の毛並みは艶やかに濡れ、体にぴったりと張り付いている。しかしそれが却ってシャープな肢体のラインを描き出すのに一役買っているようだ。きりりと引き締まった鼻面とぴんと立った耳は彼の若さを物語っており、凛々しくも子供のような好奇心をたたえたつぶらな瞳が探るように簪を見つめているのだった。
どうやら雨には縁があるらしい。そんなことを考えてふと苦笑を漏らす。先日、猫の一件に関わったのも雨の中だった。雨の猫の次は雨の中の犬か。
「お腹空いてませんか?」
簪の問いに犬は不思議そうに首をかしげる。とはいえ先刻住職が持ってきた落雁はすでに食べてしまった。部屋の隅に寄せてあった笈の蓋を開け、中をひっかき回す。掘り当てたのは海苔せんべいの袋だ。
「残り物ですが、いかがで?」
封の切られた袋に残っているせんべいは三枚だけである。そのうち二枚を取り出し、一枚は自分の口にくわえ、もう一枚は手に持って犬に差し出した。
が、犬はまたしてもぷいとそっぽを向いてしまう。やれやれとでもいうように簪は肩をすくめ、雨戸のすぐ外側にせんべいを投げてやった。もちろん、無関心を装ってそっぽを向いている犬の鼻先がぴくぴくと動いているのも見逃さない。
寝そべりながらせんべいを食んでいると、案の定、雨戸の向こうからぱりぱりという音が聞こえてくる。よほど腹が減っていたのだろうか、貪るという形容がふさわしいほど一心不乱にせんべいをかじる犬を畳の上に腹這いになって見守る。からかうような簪の視線に気付いたのか、犬は鼻面を持ち上げて咀嚼を止めた。それでもせんべいだけは奪われまいとしっかり前足で押さえている辺りはなかなかの図太さを感じさせる。
「ほら。もう一枚ありますよ」
袋の中に残っていた一枚を雨戸のすぐ外に差し出し、誘うようにひらひらと振ってみせる。犬のしっぽがぴくんと持ち上がった。
「欲しければここまでおいでなさいな」
くすくすといたずらっぽく笑う簪の表情は楽しげだ。真っ黒な犬はといえば、近付かなければせんべいを食べることはできないと悟ったらしい。それでも納得いかないのだろうか、しばし「ううぅ」と唸っていたが、やがて諦めたように鼻先を簪の手に近付けた。
「そうそう。いい子ですねぇ」
簪の様子をうかがいながらも、ばりばりとせんべいを噛み砕く犬。時折上目遣いに持ち上げられる黒目に浮かぶ色は警戒というよりも好奇心に近く、あまりにいとけない。
そんな目が記憶の中のあの男と重なり、簪は思わずゆるゆると目を眇めて犬の頭に手を伸ばす。だが、犬はさっと飛びすさって簪の手を避けた。それでいて、差し出しかけた手を持て余した簪が所在なげに首の後ろを掻いていると、犬は軽くしっぽを揺らしながらとたとたと近付いてくるのだった。
今度は手を出さずに、畳の上に頬杖をついて寝そべったまま黒い瞳を見つめる。犬はやはり一定の距離までしか近付いて来なかったが、さりとてそれ以上離れる気もないらしく、客間と縁側を仕切る敷居を挟んで簪の前に腹這いになった。
「くーん」
甘えるように鼻を鳴らし、暑いのだろうか、はっはっと舌を出す。無防備に口を開いたその顔は笑っているようにも見えて、妙に愛嬌のあるその様子に簪は眉尻を下げた。
甘えたがりの割には、肝心なところでよそよそしい。そのくせ子供のようになつっこい笑顔を向けてくる。
「仕方のない奴ですねぇ」
微苦笑とともに漏らされた台詞は誰に向けられたものだったのか。
「態度はつれないくせにそんな顔を見せて……一体あちきにどうして欲しいんです?」
犬はきょとんとした顔で首をかしげる。そんなところまでそっくりで、簪はさりげなく浴衣の裾で覆った口許を笑みの形に緩めた。
「やれやれ。犬を見て思い出すとは、ね」
聞いてくれますか? と前置き代わりに苦笑いをひとつこぼし、濡れた瞳を向けてくる黒い犬に向かってぽつぽつと語り始めた。成人男性が大真面目な顔をして野良犬に話しかけている光景は傍から見れば奇異なものであろうが、二人―― 一人と一匹を見ているものは雨だけだ。
ざあああああ。
ざあああああ。
雨音が大切な記憶をゆるゆると呼び覚まし、それを慈しむように眇められた簪の目が濡れる庭に向けられる。
ああ。
こうして外を見やれば、穴だらけの番傘を手に困り果てるあの男の姿が目に浮かぶようではないか。
◇ ◇ ◇
簪が生まれた土地が色町と呼ばれ、栄えていたのは過去のこと。もっとも、栄える、という言い方はあまりしたくはないものだが。
売られたり親に捨てられたり、血反吐を吐くような事情と傷を抱えた女が身体を売って成り立つ町だ。彼女たちの犠牲の上に築かれる皮肉な富を思えば、たとえどんなに賑わおうとも“栄える”などと形容するのはためらわれる。
簪の母も遊女だった。母のことを影で悪しざまに言う者もいたが、簪は母が亡くなった今でも感謝と敬愛の念を抱き続けている。
そして、簪にはその同じ母から生まれた弟がいた。といっても、父親が違う。その上、弟の父親のほうが簪の父よりも身分は上ときている。
だが仲の良い兄弟だった。少なくとも簪は間違いなくそう思っている。
一方、弟のほうは兄をどう思っているのか、いまひとつ掴めない。
その日は結構な雨降りであった。
滝のようにとまではいかぬものの、暑さでゆだっていた街を白く叩く雨はそれなりに勢いが強い。笈を背負ったまま、簪はある問屋の軒先で雨宿りをしながら途方に暮れていた。夕方になってから急に降り出したものだから、傘を持っていなかったのだ。その日は売り物の品もかさんでいたのでかさばる番傘を持ち歩く気にもなれなかったし、そもそもかんかん照りの夏空を見て誰が雨など予想しよう。
自分一人なら雨の中を走って帰ることもできようが、あいにく今は大事な品を抱えている。きちんと包んで笈に入れてあるとはいえ、なるべく雨には当たりたくない。商人の性というものだろうか。
(やれやれ。雨が上がるまでここでぼんやりしているしかないんでしょうか)
半ば諦めかけた時、打ちつける雨で白く煙る街道の向こうから見知った人影が歩いてくるのが見えて思わず「おや」と声を漏らした。
「よ。散歩ついでに迎えに来た」
というおどけた物言いには思わず苦笑いが漏れたが、それもいつものことだ。番傘を差し、小脇に抱えたもう一本の傘を持ち上げてぶんぶんと手を振って見せるこの男が簪の異父弟である。
「間の抜けたあんたのことだから、傘なんか持ってないだろうと思ってな」
弟は長身をかがめ、精悍に整った顔立ちをにやにやとさせながら軒先に入って来た。やや軽薄にも見えるが、日焼けした顔を覆う笑みは闊達で、人なつっこい。
「間が抜けているのはどっちですか。あなたねぇ、こんな雨の日にそんなお召し物なんか着てくるもんじゃありませんよ」
「あぁ、これか。別にいいだろう。服ってのは汚れるためにあるものと違うのかい?」
弟が履いている袴はそれほど豪奢でも高価でもないようだが、決して安物でないことくらいは簪にも分かる。そんな袴の裾をまんべんなく泥水で汚してからからと笑っているこの男は何とも大らかというか、大雑把というか。
「ま、傘を持って来てくれたことには感謝しますがね……おやおや、まぁ」
手渡された傘の有り様に思わずまた苦笑いが漏れた。隣で弟も「あちゃあ」と盛大に嘆いて額に手を当てる。
虫にでも食われたのか、それとも扱いや管理が粗雑だったせいか。弟が持って来てくれた番傘は見事に穴だらけになっているではないか。
「やれやれ。間が抜けているのはどっちですかね」
穴開きの傘を示して大袈裟に息をついてみせると、弟は唇をへの字に曲げて自分の傘を差し出した。
「そっちは俺が使う。あんたはこっちを使え」
「何を言いますか。それではあなたが濡れてしまうでしょう」
「大事な売り物が濡れちゃ困るだろう。いいから使いな」
「へぇ、それじゃ……」
奪い取るといったほうが良いような乱暴なしぐさで穴開きの傘を取り上げられ、自分の傘をぐいぐいと押しつけられては受け取るしかない。簪は素直に厚意に甘えることにして、二人並んで傘を開いた――が。
(おや)
視界の端を何かが横切ったような気がして、ふと斜め後ろを振り返る。しかしそこには問屋の店先の風景があるだけで、簪は軽く首をかしげた。
何か、透明なものが弟の肩の辺りで揺らめいたように見えたように思ったのだが……。
(まぁ、この季節ですしね)
おおかた、陽炎のようなものだったのだろう。暑かった大気が雨によって急激に冷やされ、空気や光が一瞬ひずんだだけなのかも知れない。
「お、見ろよ」
不意に、穴の開いた傘を開いた弟が嬉しそうに声を上げた。
「見ろ、ほら。星空みたいだ」
喜々として傘を指し示す弟に、簪はひとつ肩を揺すって答えただけだった。
弟の言う通りだった。薄暗い傘の下から透かし見れば、いくつも開いた穴から差し込む雨空の灰白色は確かにちかちかと瞬く星屑に見えなくもない。確かにそれなりに綺麗ではあるが、いい歳をした男が感嘆して声を上げるようなものでもなかろう。
「本当にその傘を使うつもりで?」
まったく役目をなさない傘をためらいもなく頭の上に差した弟に簪は軽く眉を顰めた。
「ああ。なあに、この季節だ。多少濡れたほうが涼しいだろうさ」
「まったく……およしなさいな、お間抜けさん」
ひょいひょいと雨の中に出て行く弟に小走りに追いつき、傘を差し掛けてやった。弟は頭ひとつ背が高いため、自然と簪が背伸びをする格好になる。
「風邪を引いてしまいますよ。相合傘としゃれこもうじゃありませんか」
わざと上目遣いにいたずらっぽく笑ってみせると、弟はわずかに頬を赤らめたようだった。
「ふざけろ。男どうしで相合傘なんぞできるか、馬鹿が」
「おや、ご存じない? 馬鹿と言ったほうが馬鹿なんですよ」
「うるさい、馬鹿馬鹿馬鹿!」
ぷいと顔を背けてのしのしと大股に歩いていく広い背中は間違いなく成人男性のものであるが、中身がこれでは仕方ない。とはいえ、世話の焼ける奴だと溜息をついた簪の面(おもて)に滲む微苦笑は、口で言うほど嫌がっているようには見えないこともまた事実であった。
なんだかんだ言っても仲の良い兄弟なのだ。周囲にもそう言われるし、簪自身もそれを否定する気はない。種違いとはいえ同じ母の血を分けた弟、簪にとっては今やたった一人の家族なのだから。
しかし、だ。
「簪さん、何やってるんだい。早く来いよ」
「はいはい、ただいま」
からころと下駄を鳴らして追いついた簪の眉がわずかに曇ったことなど、弟は気付かなかったであろう。
簪が身分違いの弟を名前で呼ぶことはない。そして弟もまた、簪を兄とは呼んでくれないのだ。
「母はどんな人だった?」
唐突に漏らされた問いに、簪は傘を張り替える手をふと止めた。
「お、いい具合じゃないか。相変わらず器用だな」
「へぇ、それはどうも」
手元を覗き込んでくる弟に向かって曖昧に笑み返し、質問には答えぬまま再び手を動かす。先日の迎えの礼にとあの虫食いの傘の修繕を引き受けたのだが、穴開きの箇所があまりに多く、いっそのことすべて張り替えたほうが手っ取り早いと判断したのだった。
「ああそうそう。ほら、土産」
弟は持って来た包みをひょいと持ち上げて簪に渡した。中身は団子のようだ。
「おや、ありがたい。いつものお茶屋さんのお団子で?」
あの看板娘がいるあの茶屋かと強調して尋ねると、弟は軽く舌打ちしてがりがりと頭をかいた。
「美味いから買って来たまでさ。悪いかい?」
「いえいえ。ふふ、それじゃあお茶の準備をいたしますかね」
ふてくされた弟の横顔に思わず軽く声を上げて笑い、簪は団子の包みを手に狭い厨へと引っ込んだ。
弟が簪の住まいを訪れるのは珍しい話ではない。むしろ入り浸っているという形容がしっくりくるほど頻繁に顔を見せている。格下の身分の者の住まいに出入りするなと父親にたしなめられても聞く様子はないようだ。そして、図々しく居座る言い訳のように持参する手土産はとある茶屋の団子。少し前に母を亡くした美人姉妹が父親と一緒に切り盛りしている、評判の茶屋である。だが、弟は団子の味を気に入っているだけなのか、懇意にしている娘に会う口実が欲しいだけなのかは簪の知るところではない。
「なあ、母はどんな人だったんだ? 簪さんは知ってるんだろ?」
湯呑茶碗を受け取った弟は畳の上に腹這いになって団子の串をくわえている。今日は先日の袴姿ではなく、ゆったりとした着流し姿だ。暑さのせいと、遠慮のない間柄であるため、前も裾もだらしなくはだけられている。前合わせからのぞく胸板が汗で湿っていることに気付き、簪は団子を頬張りながら団扇を差し出してやった。
だが、弟はその団扇を簪につき返す。
「あおいでくれ」
そしてまた子供のようなことを言い出した。団子と湯呑茶碗で両手がふさがっているのだという意思表示を込めて軽く睨みつけてやるが、簪の眼は笑っている。人なつっこい笑みを返す弟もまた、兄の都合を意に介する様子はないらしい。仕方ないとでもいうように簪は肩をすくめて団扇を受け取った。
「なあ、どうなんだ?」
「だから、何がです」
「とぼけるなよ」
団扇でゆるゆると送られる風に気持ち良さそうに目を細めつつ、弟は話を蒸し返す。
「母のことだ。母はどんな人だった?」
それから、「父は母のことを話してくれない」と呟くように付け加える。その顔にちらりと差し込んだ翳りには気付かないふりをして簪は口を開いた。
「なぜ今になってそれを? あなたのお父上が母のことを話したがらないのは今に始まったことでもないでしょうに」
「それはそうだが。……少し気になるんだ。昔、母が遊女だったというのは本当か?」
「さて。ここの色町自体、あちきが生まれて少し後になくなっていますし」
やんわりとはぐらかすような兄の返答に弟は唇をへの字に曲げた。教えてくれるつもりはないと悟ったようだ。
「どうして今更そんなことを気にするんです?」
今度は逆に弟に質問を向けてみる。弟は団扇の風を受けながらごろりと仰向けになり、頭の下に両手を入れて「いや、何」と物憂そうに応じる。
「遊女というのはどういった心持ちでいるのかと思ってな」
精悍な面差しに再び翳が落ちる。程良く日焼けしたその顔を怪訝そうに覗き込んだ簪だったが、ふつりと漏らされた言葉の真意を詮索しようとはしなかった。
口を挟むべきではない。何か気にかかることがあるようだが、この弟ならば自分で何とかするだろう。彼にはそれだけの腕っ節と機転、胆力がある。そしてそれらはすべて兄である簪より優っているのだから。簪が弟に誇れるのは情報収集能力くらいのものである。
そんな兄の心境を悟ったというわけでもあるまいが、弟はちらりと目を上げた。何があったのか尋ねないのか、とでも言いたげに。どうやら誰かに打ち明けるなり相談するなりしたがっているらしいことは薄々読み取れたが、簪は気付かぬふりをして団扇を動かし続けた。
「いや、いい。忘れてくれ」
弟のほうも切り出すきっかけを見失ったらしい。殊更に晴れやかな調子でそう言い、わざとらしく勢いをつけて体を起こした。簪は「そうですか」とだけ応じて団扇を持つ手を止める。
いつもこうだ。互いに肝心な所では踏み込もうとしない。身分の差があるゆえの遠慮という言葉を用いて説明するのはたやすかろうが、それだけではくくりきれぬやりきれない溝が兄弟の間には横たわっている。
「傘、よろしくな。明日にでも取りに来る」
「おや。今日はもう帰るんで?」
「ん。ちょっと用がある」
立ち上がって着流しの前を直す弟の答えはひどく曖昧だ。だが、いそいそと着物や髪の毛を直すしぐさや、緩んだ口許から何となく予想はつく。
(例の娘さんでしょうかねえ)
詮索するような野暮な真似はしない。代わりに、団子を売る茶屋の看板娘の顔を思い出して簪はくすりと笑みを漏らした。ここを訪れる前にも顔を見てきたのだろうに、飽きないことだ。
「お気をつけて。夜道は物騒ですからね、あまり遅くならないようにしなさいよ?」
「余計なお世話だ」
あかんべえをして下駄をつっかけた弟の背中を何気なく見送った簪の表情と、それまで緩やかに流れていた日常の時間が一瞬にして凍りついた。
背中にどっと冷たい汗が噴き出した。跳ね上がった心臓が口から飛び出すのではないかと思った。この早鐘のような鼓動が弟に聞こえてしまうのではないかとすら危惧した。
それほどまでに唐突な出現で、不意をつかれ、そして気味が悪かったのだ。
――弟の背中にへばりつき、ニタァと笑った赤子ほどのどす黒い“それ”は。
◇ ◇ ◇
簪が元いた世界では、人の心の形が様々な“異形”として目に見えていた。呪いや怨みだけではなく、愛や情念までもが奇怪な形をとって現れていたのだ。
異形はその人の心の形。大抵は本人にぴったり寄り添っていることが多い。だが例外的に、愛する者や殺したいほど憎い相手には、本人のそばを離れてべったりしがみついている。
ざあああああ。
ざあああああ。
雨は相変わらず降り続けている。古寺の一室で腹這になった簪は、鼻先から一尺そこそこの距離に寝そべっている黒い犬の顔を覗き込んだ。
「あなた、恋をしたことはおありで?」
問うたところで犬が答えるわけもない。夜のように真っ黒な犬は軽く首をかしげ、濡れた瞳を眠そうにしょぼしょぼながら簪を見つめ返すだけだ。
「誰が誰を好きになろうと自由ですがねえ……迂闊な真似はよろしくないと思いますよ」
ふしゅん、と犬は軽く鼻息を吐き出した。まるで適当にあしらわれたような気がして簪はゆるゆると苦笑する。
「特に、気のある素振りなどおいそれと見せてはいけない。戯れや気まぐれは罵詈雑言よりも人を傷付けるものです」
ざあああああ。
ざあああああ。
犬は退屈そうにひとつあくびをし、お行儀よく揃えた前足の上に顎を乗せた。だがつぶらな目はちらちらと簪を見上げているし、縁側から降りる気配もない。かといってこれ以上近付いてくる気もないようだ。
簪の面(おもて)を冷めた色の微苦笑が覆っていく。それは諦観とでもいうべき感情だったかも知れない。
「去る気がないのなら、もう少しお付き合い願えますか?」
犬は漆を塗ったような耳をぴくんと持ち上げ、構わないとでも言うように目をしばたたいてみせた。そんな表情までが弟に似ていて、可笑しい。簪はかすかに喉を鳴らして笑い声を漏らした。
「ねえ、ご存じですか?」
くすくすと笑いながら、緩やかに言葉を継ぐ。
「仏教という宗教の世界では、“愛”という言葉は“貪る”とか“執着する”という意味なんだそうで」
犬はいとけないしぐさでことりと小首をかしげた。つられるように軽く首を傾け、簪の意識は降りしきる雨音と追憶にまどろんでいく。
◇ ◇ ◇
今日も今日とて雨である。雨が間断なく地を叩き、町全体が白く煙っているかのようだ。打ち捨てられた建物はどれも傾き、腐りかけた残骸を晒している。それでも、使われていた頃はそれなりに大きくて豪奢な建物だったはずだ。やや華美ながらも細密な彫刻が施された扉や、通りに面した部屋に見世物小屋よろしくはめ込まれた太い格子がそれを無言で物語っている。
暗い灰色に沈む建物の間を簪は歩いていく。番傘を目深に差して、懐かしむでも感慨に浸るでもなく、ただ歩いていく。この一帯をつっきったほうが目的地まで少し近いから通っているにすぎない。それだけのことだ。
この土地が色町と呼ばれていた頃はこの辺り一帯に遊郭がひしめいていた。母に連れられてこの場所を訪れ、着飾った女性たちに可愛がられた記憶がうっすらと残っている。思い出の場所とでもいうべき界隈なのだが、掃き溜めのように一か所に寄せ集められた挙句、こうして誰にも顧みられぬまま朽ちていく有り様などは見ていて心地の良いものではない。
ひょうひょうと、女の泣き声のようなものが耳に届く。風が無人の建物の中を通り抜ければそんなふうに聞こえることもあろう。足を止めることも目を上げることもなく、からころと下駄の音を反響させながら眉ひとつ動かさずに簪は歩く。
「おや」
無機質な廃墟の群れの中に紫陽花を見つけ、ふと立ち止まる。瑞々しい葉の緑と花の青の対比が目にも鮮やかだ。降り注ぐ雨が寄り集まって咲く小さな花の上で水晶のように弾け、ころころと滑り落ちていく。静かに濡れる葉の上をのったりと這うかたつむりの姿に思わず眼を細めた。
(しかし、いつまで降るものやら)
顎を持ち上げ、番傘の下から雨模様の空を仰ぎ見る簪の横顔をすっと翳が撫でていく。
(……傘がなくては不便でしょうに)
ごくごく薄い不安の色が切れ長の瞳にたゆたう様は、水の中に落とされた一滴の墨汁がゆるゆるとほどけていく姿によく似ていた。
弟が簪に番傘を預けてから早十日近く。「明日にでも」などと言っていた割には、弟が傘を取りに現れる気配はない。それどころかこの十日近くの間、顔すら見ていないのだ。家にも帰っていないという。
あの時、“それ”が見えてしまったのは無意識に弟の心を探ろうとしたせいなのかも知れない。弟の背中にへばりついていた“それ”は、大きさこそ赤子程度であるものの、色も姿もひどく醜悪であった。
へどろのような、とでも形容すれば良いのであろうか。濁った、粘着質の黒っぽい体色。つるんとした頭は水頭症を患う者のようにぶよぶよに膨れ、胴や腹はふくよかであるのに、手足がやけに短い。顔には目がなく、眼窩があるべき場所はぽっかりと落ちくぼんでいて、そのくせ鼻と口ばかりがケタケタと声なき笑いを上げていたのだ。吐き気をもよおすほどいとけない表情で。
あれが弟の心の形とは思い難い。簪はずっとあの異形のことを考え、弟の身を案じている。
だが、情報収集に長ける簪である。その気になれば弟の居所を探し当てることもできよう。この状況がしばらく続くようであれば持てる情報網と人脈を最大限に活用して弟の捜索を試みるつもりでいる。現に、今日も商いのかたわらでさりげなく何件か聞き込みを行ってきたところだ。
その途上で気になる情報を得た。弟は普段から賭博をたしなんでいるのだが、いつも顔を出す場所ではなく三つ隣の町の賭場で三日続けて目撃されているという。しかも、正々堂々の真っ向勝負を好む弟がイカサマまがいの危うい方法を駆使して勝ちをかっさらっていったというから穏やかではない。
「よう、ニイさん。久しいな」
今日の分の商売をあらかた終え、休憩と情報収集を兼ねて訪れたのは弟の行きつけの茶屋だ。油を塗った紙についた雫を落とし、番傘をたたんだ簪に店の奥から威勢良く声をかける者がある。目を眇めて声の主を確かめた簪の口許にふっと微笑がにじんだ。
「おや、間明(まぎら)さん。弟がいつもお世話に」
「いいからこっちに上がんなよ、そんな所にいねえでさ」
間明と呼ばれた着流し姿の男は豪快に笑って自分の席に簪を手招きする。
「いらっしゃいませ。あら」
鈴のように軽やかな声を転がし、ぱたぱたとやって来たのは明るい萌黄色の着物をまとった若い娘だ。
「お久し振りです、お兄さん」
娘はぱっと笑みを咲かせてぺこんと頭を下げた。まだ少女といっても良いだろう。小柄で、丸っこい体は弾むように若々しい。その後ろから彼女より少し年上とおぼしき娘も軽く会釈して歩み寄ってくる。こちらは落ち着いた藍色の着物に細身の体を包んだ、涼しげな面立ちの女だった。この店の看板娘をつとめる姉妹である。
「ああ……どうも。えぇと、確か」
確か小柄なほうが妹だったと思い出し、名を呼ぼうとして口ごもる。簪も弟と一緒に幾度かこの茶屋を訪れているが、はて彼女たちの名は何だったか。
「お兄さんったら、ちっとも寄ってくださらないんだもの」
思案している間に小柄な妹は小首をかしげ、冗談めかしたしぐさで簪の二の腕をつつく。口許に浮かぶえくぼはあまりにあどけなく、人なつっこい。
「あちきの代わりに弟が通い詰めているようですからねぇ。売上には充分貢献していると思いますよ」
もっとも、と簪は口許に手を当ててくすりと笑う。「弟の目当ては貴女のようですけれども。えぇと……棗(なつめ)さん?」
「棗はわたくしでございます。妹は環(たまき)」
一歩下がって控えていた藍色の着物の女が静かに口を挟んだ。そして、やけに抑揚のない声で続ける。
「弟さまのおめがねにかなったのは環のほうですわ。弟さまはわたくしではなく環の顔が見たくてお越しになっておりますのよ」
「姉さん、よして」
環と呼ばれた妹が頬を染めて振り返るが、姉の棗は「本当のことでしょう」と軽く妹の頭を撫でた。
そんな二人の姿を眺める簪の胸中にふと甘酸っぱい味の感情が滲む。
妹はためらいなく姉を姉と呼び、姉は当たり前のように妹の名を呼び捨てにする。それがどれだけ幸いなことであるか、この姉妹は気付いてはいるまい。
「そ、それはそうと、弟さんはどうしてるんですか?」
照れ隠しなのだろうか、環は強引に話題を転換して簪を振り返る。だが、あどけなさを残した大粒の瞳にはわずかな不安の色が漂っていた。弟のことを問われて簪も軽く眉根を寄せる。
「それが、あちきの所にも全然顔を見せませんで。どこをほっつき歩いているのやら」
「まぁ。ここ何日か、お店にもいらっしゃらないんですよ。あ、別に、寂しいというわけじゃなくて……」
「そうですわね。頻繁にいらしてくださっていたのに、訪れがぱったり途絶えたのでは少々心配です。お身体でも壊されているのではないかと」
わたわたと顔の前で手を振る環の後を引き取るように棗が付け加えた。
ふむ、と簪は唸って顎を手でさすった。
ほどけた墨汁のようにたゆたっていた不安が胸の中でわずかに凝(こご)る。だがそれをこの姉妹の前で見せることは決してしない。簪は口許に苦笑いを浮かべ、やれやれとでもいうように軽く肩をすくめてみせた。
「何せ気まぐれな奴ですからねぇ、放浪の旅にでも出ているのかも知れません。腹が減ったらそのうちふらっと帰ってくるでしょう」
「あらやだ、野良猫じゃあるまいし」
ころころと笑う環につられて愛想笑いを返した簪だったが、嫌な既視感と寒気が背筋を這いずる感覚に襲われて唇の端をわずかに引き攣らせる。
――環の肩越しに、肌が粟立つようなあどけない笑みを鼻と口だけで浮かべる“それ”がおぶさっていたのだ。弟の背中にしがみついていたのと全く同じ姿をした、赤子ほどの大きさの黒っぽい異形が。
異形は人の心の形。大抵は本人に寄り添うようにして存在している。だが、愛する人間や殺したいほど憎い相手にだけはべったりと張り付いているという。
「ニイさんにも見えたのかい」
姉妹が厨に引っ込んだ後で、隣に座った間明がさりげなく耳打ちした。間明は過去に異形絡みの事件に二、三度関わったことがあるとかで、その方面に関しては簪より強い力を持っている。簪が無言で首肯を返すと、大柄な間明は分厚い肩を揺すって冷めかけた茶の残りを喉に流し込んだ。
「少し前から環ちゃんにひっついてるんだ。何なのかねぇ、あれは。あんなブッサイクなもんが環ちゃんの心だとは思いたくねぇが」
愛という名の感情は美しいものばかりとは限らない。だからといって、この異形が環の心の姿だというのか。環の愛が形となって弟にへばりついていたとでもいうのか?
(……まさか、ね)
凝った不安がゆらゆらと沈み、こつんとわずかな音を立てて底にぶつかる。透明な池の中に落とされた石が水底に堆積した泥を静かにまき上げながら沈んでいくように。そして、いったん舞い上がった泥は、石が水底に横たわった後も尚しばらくは浮遊して水を濁らせるのだ。
「それよか、弟が姿を見せないってえのは本当かい? 俺もしばらく姿を見てねえんだが」
「へぇ……あちきも少し調べているんですが。よその町の賭場で荒稼ぎをしていったらしいという話は聞いたんですが、それ以降はとんと行方知れずで。しかも、イカサマをしたとかしないとか」
「イカサマか」
日焼けした間明の顔がふと曇る。「心配だな。俺のシマならともかく、よそでエグいイカサマをやったらただじゃ済まねえぜ」
間明はその筋ではちょっと有名なバクチ打ちだ。簪より一回り以上年上で、もう四十を出ているはずだが、なぜか弟は良くなついているらしい。賭博に興味のない簪もこの男の開けっ広げな性格や豪胆さには良い印象を持っており、良き情報交換の相手としても付き合いを続けている。
「弟にもあの異形がくっついていました。あれと全く同じ姿のものが」
だからこそ間明には包み隠さず打ち明ける。一見軽薄で口が軽そうに思えるが、この男は信用しても良い。もちろん、あちこちの賭場を出入りしているバクチ打ちであれば一般人が知り得ぬ裏の事情にも通じていると期待したせいもある。
間明はすっと目を細めた。
「あいつと環ちゃんの仲はこの辺の連中なら誰でも知ってるからな。あの手のバケモンが好きな相手にべったりへばりついてるってのはよくある話だ。だからなのかねえ」
と茶卓に頬杖をつき、間明はちらりと店の奥を振り返る。「棗ちゃんがあんなことを言い出したのは」
「あんなこと、とは?」
「ん? まぁ、その」
珍しく口ごもった間明に簪が首をかしげていると、目の前にすっと湯呑茶碗が差し出される。慌てて目を上げると、盆を持った棗がにこりと微笑んでいた。
「よ、棗ちゃん。おやっさんは元気かい?」
頬杖を解いた間明が殊更に明るく話しかける。
「ええ、どうにか」
と答えた棗の表情がふと曇った。「一時はかなり憔悴しておりましたが……。その節はご心配をおかけいたしまして」
「はーい、お団子、お待ちどうさま」
何のことかと簪が口を挟みかけたところへ団子の皿を手にした環がやってくる。二人の前に皿を一枚ずつ置き、盆を胸に抱いてぷっくりとえくぼを浮かべる彼女の背中では相変わらずどす黒い異形がにまにまと笑っているのだ。
「あの、お兄さん。弟さんにもし会ったら、もう無茶はしないでくださいと伝えてくれませんか?」
「へぇ」
と肯きつつも、簪はゆるりと首を傾ける。「無茶とは、どういう意味で?」
「そうお伝えいただければ分かりますわ」
口を開きかけた環の声にかぶせるように棗が言った。口調は相変わらず物静かであったが、どこか冷ややかな声音と目の光には鋭角的な拒絶の意思が滲み出ている。余計な詮索は許さぬという言外の宣告を感じ取り、簪は「これは失礼」と軽く頭を下げて口をつぐまざるを得なかった。
「環も。余計なことを言うものじゃありません」
ぴしゃりと妹を叱りつけ、棗は空になった間明の湯呑を手に店の奥に戻って行く。環は何か言いたげに口を開きかけたが、ぺこりと二人に頭を下げると小走りに姉の後を追った。
ざあああああ。
ざあああああ。
後には気まずい沈黙だけが残された。雨足が勢いを増したらしい。雨粒がばたばたと屋根を打ち鳴らす音が湿った静寂を震わせる。
「棗ちゃんも気が立ってるな。無理もねえが」
そんな中、間明がぽつりと落とした呟きだけが、簪の耳にやけにはっきりと残った。
「あの姉妹に何かあったんで?」
「……口外するなよ。この店のカミさんが病で亡くなったのは知ってるな?」
店の奥の様子をちらりとうかがってから間明は口を開く。
――間明の話はいつも簡潔で単刀直入で明快だ。そして彼は単なる噂やデマに憶測という名の尾ひれをつけて面白おかしく語ってみせるような男ではない。だからその情報に疑いを差し挟む余地など一片もなく、それを知っているからこそ簪は深々と溜息をつくしかなかったのだ。
「……どうしたものでしょうか、ね」
ざあああああ。
ざあああああ。
雨は、しばらくやみそうにない。
そのまま夜になり、天候は嵐の様相を呈し始めた。
古い蔵だからどこかで雨漏りでもしているのだろう。地下への階を降りる湿った足音に、やけに近い雨だれの音が重なる。手にした提灯の中でちびた蝋燭の炎が揺れ、土の壁にぼんやりと投影された影が音もなくうごめく。緩徐に進む病に蝕まれて身をよじらせる女の姿のように。そして、影の背中の部分で赤子ほどの大きさのもうひとつの影がゆらりと動いたのは目の錯覚であったのだろうか。
ひどく簡単なことだった。元々疲弊していたせいもあったのかも知れない。愛する男は、目をつぶって振り下ろした心張棒の一撃で呆気なく昏倒してしまった。以来、この蔵の地下で男を“飼って”いる。
店のためにと、男は金策に走り回った。そして、傷だらけの体でそれなりの額の銭を持って来た。借金の総額からすればすずめの涙ほどしかないが、個人がおいそれと手にできるような額ではない。まっとうな方法で稼いだわけではないとすぐに分かった。
だが、それとて自分のためではない。
すべてはあの女のため。あの女を悲しませないためにと、男はそれだけを考えて動いている。
ざあああああ。
ざあああああ。
地下への扉が軋む音は雨にかき消されて聞こえない。重い扉を押し開けて中に身を滑り込ませた女の唇に、えも言われぬとろりとした笑みが咲いた。
ああ。
冷え冷えとした土の床に横たわる男の、なんと美しいことか。
後ろ手に縛られて柱に繋がれた男は、頼りない明かりでもはっきり分かるほど血の気を失っている。あの健康的に日焼けした肌の色は見る影もない。こけた頬に黒い髪が張り付き、その上から朱の色が絡みつく様子などはひどく扇情的で、病的なまでに艶かしい。その上、血液を吸ってところどころ黒ずんだ着衣の前を直すこともできずに、無防備な姿で素肌を晒しているのだ。
気配に気付いたのだろう。男は重そうに瞼を開いてかすかに頭を持ち上げた。女は男の前にひざまずき、そっと顎を持ち上げて顔の輪郭を指でなぞる。恍惚に濡れる女の瞳の前にすくい上げられた男の顔に、露わな戸惑いが浮かんだ。
皮肉なものだ、と女は唇の端をわずかに笑みの形に歪めた。こんな状況でもこの男は自分を信じ、怖がってはいない。同時に、己がなぜこんな目に遭わされているのかすらも理解してはいないのだ。
「憎らしい、人」
滑らかな首筋に舌を這わせる。ほつれた髪がぞろりと落ちて、男の視界を塞いだ。
汗と血と土埃が混ざり合った味は心地よく舌先を痺れさせた。男の喉仏がごくりと動き、声にならぬ悲鳴が漏れたようだが、頓着しなかった。欲しくて欲しくてたまらなくて、ずっと夢見ていた感触をようやく味わえたのだから。鼻で、舌先で、唇で、歯で、五感すべてを使って愛する男の肌の感触を愛で、貪る。そして、その様子の一部始終を女の肩にひっついたどす黒い異形がじいっと観察しているのだ。眼球のない目をぐりぐりとさせ、無邪気な喜悦を口許に溢れさせながら。
じじっ、と音を立てて提灯の中の蝋燭の芯が燃える。小さな炎がちろちろと揺れ、横たわった男とその上にのしかかる女の影を湿った土壁に写し出す。墨を薄くのばしたようなその影だけ見れば、まるで山姥が行きずりの男を引き込んで喰ろうているようであった。
「本当に……憎らしい」
鎖骨の辺りまで降りて来て、歯を立てた。ぶつりと肉が破れ、男は悲鳴を呑み込むようにびくっと体を震わせる。女の口の中に錆びた鉄の味が広がった。じわじわと滲み出す血液すら愛おしい。舌先に含み、指先でなぞって、すくい上げた朱を、紅でも引いてやるかのように丹念に男の唇に乗せてやる。男はわずかに肩を震わせていたが、抵抗はしない。身をよじって逃れるどころか、女の所行をとどめようとすらしなかった。
情け、あるいは償いのつもりなのだろうか。だからこそ憎らしく――気が狂いそうなほどに愛おしいのだ。
「ああ。美しい人ね」
青白い肌と深紅の唇。毒々しいまでに鮮やかな色の対比は眩暈がするほどの色香をもって女の全身を駆け抜け、理性を融かし、痺れさせていく。
「ねえ、どうかもう無茶はなさらないで? この綺麗な顔に傷が残ったら大変」
整った顔につけられた生傷が憎らしいが、今はそれも彼の色気を引き立たせる役目しか負っていない。
「ずっとここにいてくださいな。欲しい物はお金ではないの」
女はもう一度男の傷口に触れ、小指で唇に血の紅を引いた。朱に染まった形の良い唇を恍惚に綻ばせ、男の頬を慈しむように両手で包み込む。
ざあああああ。
ざあああああ。
激しい雨音は濡れた口づけの音すら掻き消す。
だから、戸口に背を向けていた女は気付かなかった。女の一方的な接吻に甘んじる男だけが、新たなる来訪者の気配と姿に気付いていた。
逃げろ。来るな。口を塞がれたまま、男は必死に目だけで訴えかける。だが、細く開いた扉から顔を覗かせる来訪者の体は硬くこわばったままだ。
そして。
「誰」
とうとう女が気付いてしまった。激しい口づけの名残だろうか、髪を乱し、濡れた口の回りを血まみれにして振り返る女の姿はまるで鬼女か何かのようで――
「逃げろ!」
掠れた声で叫んだ男が渾身の力を振り絞って女に体当たりを食らわせるのと、意を決した来訪者が心張棒を手に飛び出してくるのとはほとんど同時であった。
激しい雨音など耳には入らない。夜が更けゆくのも忘れ、居宅に帰った簪は腕を組んで黙考に沈む。
昼間、あの茶屋で間明から聞いた話がいつまでも耳の奥でこだましている。
この店のカミさんが病で亡くなったのは知ってるな? カミさんの薬代がかさんで、タチの悪い高利貸しから借金しちまったらしいのさ。元金はどうにか返したが、何せ利子が馬鹿高いときてやがる。おやっさんも心労がたたって体調を崩しちまうわ、借金の返済で店の経営も危なっかしくなるわでな……棗ちゃんか環ちゃん、どっちかが身売りしなきゃいけねえところまで来てるんだよ。ところが環ちゃんには好きな男がいるだろ。好きな男と離れるのは嫌だって環ちゃんが泣くもんで、棗ちゃんが名乗りを上げたのさ。棗ちゃんも妹思いの姉貴だからねえ――
借金の返済に苦しむ茶屋。賭場で危険なイカサマを用い、荒稼ぎした弟。睦まじい姉妹を引き裂かぬために金策に走り回っていたのだろうと、勘の鋭い簪でなくともその程度の筋書きは容易に読める。
(あの時……もっと突っ込んで尋ねてやるべきでしたかね)
腕を組んだまま座り込んでいるだけでも首筋に汗がにじむ。蒸し暑さのせいか、正体の知れぬ焦燥のせいなのか、簪にも分からない。
あの時はつい遠慮が出た。立ち入ってはいけないと、詮索されたくないこともあるだろうと、距離を置いてしまった。遊女はどんな心持ちでいるのだろうと弟が尋ねたのも棗の身を案じてのことだったのだと、今なら分かる。
相談に乗ってほしいと弟は言外に訴えていたのに。それを読み取りながら、大人ぶった訳知り顔で自分を諫め、立ち入ることはしなかった。本当は怖かった。下手に詮索して、拒絶されたらと思うと踏み込めなかった。自分がデリケートな領域に踏み込むことを弟は望んでいないかも知れないと思い、二の足を踏んでしまった。
「ああ、もう」
頭をがしがしとかきむしる手つきにも言葉にできない苛立ちが滲み出ている。
ままならない距離感。どうにもならない溝。どちらが悪いというものでもないし、どちらのせいでこうなったというわけでもない。だが、本当に弟のことを思っているのならば寄り添ってやるべきではなかったか。兄ならばそうしてやるべきではなかったか。
「帰って来たら引っぱたいてやりましょうかね」
苛立ちまぎれにそんな冗談を落とすが、わずかに引きつった口許と険しい眦には余裕は窺えない。帯に差し込んだお気に入りの簪――もちろん、髪留めに使うほうの簪である――をかちゃかちゃと弄ぶ指先にも焦燥を隠せない。
ざあああああ。
ざあああああ。
ざああ、あ、が――たん!
簪は弾かれたように振り返った。戸口に何かがぶつかったらしい。がたがた、ずる、と湿った音が続き、びしゃん、と何かが雨の中に倒れるような音が最後に響いて、やんだ。
「――――――!」
息を呑みつつもそれほど驚かなかったのは、案の定、とでもいうべき結果であったからだろう。
吹き込む雨も構わずに戸を開けた簪の目に飛び込んで来たのは、服も髪も乱して地面に崩れ落ちた弟の姿であった。
「かん、ざ……し、さ」
「黙って」
口を開きかけた弟を鋭く制する。抱き起こすと、弟は酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせながらもされるがままになった。頬はこけ、髪は乱れ、はだけた着衣の下の体にもあちこち生傷が顔を覗かせている。どの傷もふさがりかけているようだったが、鎖骨の辺りについた傷だけはまだ生々しく、激しい雨に打たれながらじわじわと血が滲み出していた。
(一体……何が)
頭を支えた手にぬるりとしたものが触れて思わず眉を寄せる。頭を支える手から、指の間から、黒ずんだ生ぬるいものがゆるゆると溢れ出す。それはこの暗闇の中では妙に黒ずんでいたが、白昼の光の下で見ればさぞかし鮮やかな朱の色をしていたであろう。
よそでエグいイカサマをしたらただじゃ済まねえぜ。
昼間の間明の台詞が、いやに鮮明に耳の奥に甦る。
「たま、き……が」
弟の意識ははっきりしているようだ。縋りつくように簪の着流しを掴む手の力も存外に強い。
「いいから、黙りな――」
ぶるぶると震える手を押し戻そうとして、はっとした。
手首にぐるりと貼りつくこの細い黒ずみは何だ。もう片方の手にも同じ黒ずみが刺青のようにして刻まれている。みみず腫れのように見えなくもない。まるで、縄か何かで両手首を長時間縛られた痕跡のような……。
「……とにかく、中へ。話は後で聞きます」
聞きたいことも言いたいことも山ほどある。だが今は手当が先だ。肩を貸して弟を中に運び込もうとした、その時。
ぴしゃん。
ぱ……しゃん。
草履が水溜まりを蹴り上げる音が、豪雨の中でやけにはっきりと耳朶を打った。
「あら、お兄さま」
水菓子のように涼やかな声。雨に煙る闇の奥から現れたのは、夜に溶け入りそうなじっとりとした藍色。傘も差さず、結い上げた髪はすっかりほどけ、雨を吸って白い肌に張り付いている。しかし当の本人はそれを意に介する様子もなく、整った顔には静かな笑みばかりが湛えられているのだ。
「……棗さん」
簪が半ば茫然として呟いたのは、棗の顔に嫣然と浮かぶ微笑がどこか能面めいていたからでも、形の良い唇の周りが血液で汚れていたからでも、白い繊手に無造作に握られていた物に息を呑んだからでもない。
――まるで子泣きじじいのようにして棗におぶさったあの異形が、彼女の肩越しにニタニタと笑っていたのだ。
根拠があったわけではない。半ば直感だった。得体の知れぬ危うさを感じ取り、簪は弟をかばうように素早く抱きすくめた。
「お兄さま。弟さまはお怪我をされていますの」
「へぇ。見れば分かりますが」
「でしたら、わたくしにお渡しくださいませ」
「なぜです?」
背に弟をかくまうようにして一歩前に出る。カカカ、と棗の背で異形が嗤ったような気がした。だが、異形というものはそもそも声を出さない。空耳か、幻聴の類か。思ったよりも己が動揺しているらしいことを悟って簪は低く顎を引く。ならば全身を濡らすこの冷たさも雨のせいばかりではないのかも知れない。
「何日か前、弟さまは怪我をしてわたくしたちのお店にお越しになりました」
打ちつける雨を厭う様子もなく、棗は茶屋の客と世間話をするかのような口調で語り始める。
「お店の借金返済の足しにしてくれとおっしゃって、お金をお持ちになりました。博打……と申しますの? 良からぬ賭け事で儲けたのではないかと環は申しておりましたが……実際、弟さまはいかがわしい方法を使って儲けたせいで博打打ちたちに捕まり、暴行を受けたそうでございます。ようやく逃げ出して、血のついたお金を持ってわたくしたちの所へ」
おかわいそうに、と棗は着物の袖でそっと目許を押さえる。演技というわけではなく、本当に涙をこらえているようだ。
「その後、わたくしがお怪我の手当てをして差し上げました。ひどいお怪我でございましたし、何日か蔵で静養していただいておりましたの。それなのに、先ほど環が逃がしてしまって……こうして見つけられたから良いようなものの。本当にしょうがない妹でございますわ」
「逃がした?」
珍しく、簪の眉が険しい音を立てて中央に寄る。
「ええ、環が逃がしてしまいましたの。せっかく……ようやく捕まえたというのに――」
かくり、と棗の首が折れた。
くすくすくす、くくくくく。
唇を歪めて嗤ったのは棗か、それとも彼女の背中の異形か。いや、異形が声を出すはずがない。だが、その嗤い声はそれほどまでに気味が悪く、全身が総毛立つような昏い音色をもって雨とともに簪にまとわりつくのだ。
「くく、く。カカカカカカカ! いけない、いけない子! わたくしのものを何でも奪ってしまう、いけない妹よ!」
細い右腕がゆるりと持ち上がる。その手に握られ、雨の中で錆びた光を放つのは、大振りの草刈り鎌。
喩えるならば、ばさっ、という擬音が正しいだろうか。水を吸った手拭いを勢いよくふるうような音だった。間一髪、簪は弟を抱いたまま体をひねって鎌の急襲をかわした。だがわずかに刃が届いたのだろう、切られた髪の毛が数本、はらりと雨の中を舞う。頬のすぐ横をかすめた鈍色の刃に鮮やかな朱の色がこびりついていたように見えたのは目の錯覚なのだろうか。
じりじりと後ずらしながら懐に差しこんだ手にひんやりとした物が触れる。小ぶりながらもごつごつとしたそれは護身用のリボルバーだ。
命中率は決して良くない。だが、この至近距離から放てば威嚇にはなろう。
「待って、くれ」
腰を低く落として立ち上がり、銃を抜く機をうかがう簪の裾を弟がぐいと引いた。咳込みながら簪に縋りつくようにして立ち上がり、棗をかばうように前に出ようとする。
「撃つ……な」
「何ですって?」
ぶるぶると首を横に振る弟に簪は眉を顰める。
「撃たないで……くれ。殺す、な」
全身の痛みに顔を歪めながらも、弟ははっきりとそう言い切った。
「環の、たった一人の、姉貴、だ」
たった一人の姉貴。その言葉が、簪の全身に、胸に、甘い痛みをもって突き刺さる。
だが、棗のほうは違ったようだ。
冷たい雨の中でも奇妙に赤い唇がニィと裂け、同様に鮮やかな色をした舌がちろりと覗く。
「環の。そう、環の。わたくしは環の姉にございます」
草刈り鎌に両手を添え、ゆらりと体の前に持ち上げる。
「あなた様はいつもそればかり。すべて環のため。環を悲しませないため。お店の借金を何とかしようとしてくださったのだって、遊女に落とされるわたくしを思ってのことではない。姉と引き離される環がかわいそうだとお考えになったまでのこと」
ざあああああ。
ざあああああ。
頭の上に掲げられた鎌がふらりと揺れ、ぬかるんだ地面をどつりと抉る。弟を庇うように押し倒した簪の背中にちりっと熱が走った。じわりと滲み出す生ぬるい感触を絶え間ない豪雨が洗い流していく。
「環はわたくしの妹。姉は妹のために我慢し、譲らなければなりませんの」
地面に突き刺さった鎌を棗は両手で引っこ抜いた。反動で体がふらりと後ろにかしぐが、頓着しない。かくりと首を折り、握り締めた鎌を体の前で揺らしながらふらふらと歩を進める。どこかぎごちないその動作は操り人形か何かのようで、事実、棗の背におぶさった異形がニタニタとしながら手足を蠢かせている様などはまさに人形の繰り手のようであった。
「幼い頃からそうでございました。手鞠がひとつしかなければ環にあげました。環の風車が壊れればわたくしのものと取り換えてあげました。こたびもそうでございます。姉妹どちらかが身を売らねばならない、妹には想いを寄せる殿方がいる、ならば姉がと……。ねえお兄さま、ご存じ? 弟さまが初めに気に入ってくださったのは環ではなく、このわたくしでございますのよ。それなのに」
棗の声が初めて震えた。
「それなのに、妹が横から! 当たり前の、当たり、ような、前の、ような、顔、顔をし、顔をして、弟さまを、ああぁぁあぁっあ!」
それは血の涙であった。
白い肌の上を滂沱と流れていたのは、血の涙であった。
「たま、たたた、たまき、は、もう、いななな、い、いない、いない。邪魔、じゃじゃ、じゃ、邪魔者は、も、もう、もう、もういな、いいいいいいない。わた、わたくし、に、渡し、て、くだくだ、ください、まし? ね? お兄さ、さささ、ま? ね?」
簪の肝がすうっと冷えたのは、狂ったように頭をがくがくとさせる棗の姿に戦慄を覚えたからではなかった。
(まさか……環さんを)
殺したというのか。たった一人の、あれだけ睦まじくしていた妹を手にかけたというのか――?
だがそれを考えているいとまはなかった。雑草を刈るような無造作な手つきで鎌が振り下ろされる。簪は立ち上がりかけた弟を渾身の力で突き飛ばした。吹っ飛ばされて尻もちをついた弟を視界の隅に捉え、顔の前で両手を交差させて防御するのが精一杯だった。かつっ、と太い釘を打つような嫌な衝撃が電流のように脊髄を貫く。同時に視界がぐらりと歪み、意識がかしいだ。噴き出す血潮の熱さを感じる余裕すらない。草刈り鎌の一撃が左腕を抉り、骨まで達したのだと理解するまでには若干の時間を要した。
「――寝言もほどほどになさいまし」
低く棗を見据えながらも、全身にどっと汗が噴き出る。リボルバーは抜けない。かといってむざむざやられてやる気もない。せめて牽制になるものはないかと着流しを探った手に、帯に差し込んでいた髪留めの簪が触れる。
「渡すとかくださいだとか……手鞠や風車と一緒にしないでくださいな。うちの可愛いお間抜けさんは物ではありませんよ」
飄々とした語り口とは裏腹に、低く押し殺した声音には明らかな不快の色が感じられる。
「たった一人の妹さんでしょう。その妹さんを手にかけたというのですか」
もはや左腕の感覚は失われている。じくじくとした熱っぽい疼きが傷口から全身の末梢神経までまんべんなく広がっていく。腕に打ちつける雨すら激痛となり、寄せては返す痛覚の波に思わず顔が歪むが、右手が無傷で済んでいるだけでも僥倖というべきか。朱に染まる左腕をだらりと下げたまま、さりげないしぐさを装って右手を帯の辺りに置く。帯の影で握り締めるのは緻密な飾り細工が施された二本の簪だ。
「いいいい、も、いも、いもうと」
がくりがくりと首を揺らし、髪を振り乱しながら棗はぐらりと腕を振り上げる。その瞳にはもはや精彩も生気もない。虚ろな眼球がぎょろぎょろと動いているだけだ。
「わわ、くし、くし、わたくしししの、じゃ、じゃ、邪魔を、する、だけけけ、けけけ、の! あ、ああ、あああ、あ、にににく、にくく、憎い、にくいにくくいにいくにくいにくいにくいいににくくくくいいいいいい!」
鈍色の刃が、雨の中で奇妙にぼやけた光を放った。狂った女の手によって命を刈り取らんと振り下ろされるそれはひどく精確に闇を切り裂く。
が。
簪は後退しなかった。一気に息を詰めて前方に走り込んだ。大振りな攻撃の隙をついて、一か八か棗の懐に潜り込んだのだ。
三日月形の刃が空を切り、濡れた地面に突き刺さった。がくり、と不思議そうに首をかしげた棗のすぐ下に簪の姿がある。
(もったいないですが――しかし)
職人が丹精込めて作った品をこのようなことに使うのは本意ではないし、職人に対しても申し訳が立たない。しかし、自分を――そして弟を守るためだ。何よりも大事な、たった一人の家族である弟を守るためなのだ。
そして、弟を守るためならこだわりも迷いも慈悲も情けも捨てる。だから簪は、職人の魂が込められたその品をもって、女性の命ともいえる顔を狙った。
ひゅっという風切り音。一瞬遅れて醜い悲鳴が雨の幕を引き裂く。
それは悲鳴ですらなかった。ただの叫び声、喚き声だった。一閃された簪、本来ならば女性の柔らかな髪を飾るために生み出されたそれは、それなりに鋭利な針となって棗の顔面を襲っていた。
「く――」
どうとも形容しがたい叫び声をほとばしらせ、顔を押さえながら鎌をめちゃくちゃに振り回す棗から簪はふらふらと離れる。既に相当な量の血液が失われているらしく、吐き気とも眩暈ともつかぬぐらぐらとした感覚とともに視界が揺れていた。
背におぶさった異形はもはや棗の全身に絡みつき、どろどろと波打ちながら彼女を覆い尽くそうとしている。醜悪だった。吐き気がするほど醜悪な姿だった。
それでも簪は棗から目を逸らさない。
「憎いとか……邪魔だとか」
ざあああああ。
ざあああああ。
醜い女の姿を見つめる茶の瞳を覆うのは、同情でも憐憫でも軽蔑でもなく、ただやりきれない哀切の色だけ。
「きょうだいって、そういうものじゃないでしょう?」
とめどなく頬を濡らしていくのが雨だったのかどうか、簪自身にももはや分からない。
何もかも妹のために我慢し、妹に譲ってきたと姉は言った。だが、弟は穴の開いた傘を兄にくれた。兄はそれを申し訳ないと思った。だが弟は聞き入れず、穴開きの傘を差して笑いながら雨の中に飛び出した。
ああ。
虫食いの傘を開いて、星屑のようだと弟が喜んだのもこんな雨の日であったか。
夜空を仰いでも何も見えない。ただ雨粒が顔面に叩きつけられるだけだ。頬を、顎を、首筋を、やや乱れた胸元を、冷たい雫が伝い落ちて行く。左腕からぼたぼたと滴るものが血なのか雨なのかすらも分からない。簪はただ雨の中に佇み、全身を打つ雨に甘んじ続ける。
「うし、ろ!」
不意に掠れた警告の声が聞こえて来て、簪ははっと我に返った。雨の中で立ち上がった弟が必死に簪の背を指し、危険を示している。
血で視界を奪われた棗が闇雲に振り回す鎌が確実に簪の背中に近付いていた。すんでのところで体を開いてかわす。だが大量の血液を失った肉体はもはや限界だった。ぐらぁりと世界が揺れ、簪の足がたたらを踏む。
その刹那。
ぐらぐらと揺れる視界いっぱいに、へどろのように黒ずんだものが覆いかぶさってきた。
「――――――っ」
声を上げることすらできなかった。棗の体に絡みついていた異形が、新しい玩具を見つけた子供のように無邪気な笑みをニタニタと浮かべ、両手をいっぱいに広げて簪に飛びついてきたのだ。
顔を塞がれ、雨の中に背中から倒れ込む。ばしゃあんと派手な水しぶきが上がった。大きな鼻と口ばかりが笑みの形に歪められ、短い手足が大事な宝物でも愛でるかのように簪の全身を撫で回す。きゃっきゃっといういとけない笑い声さえ聞こえたような気がした。一方、目があるべき場所はやはりぽっかりとした洞(うろ)になっていて、あたかも簪を品定めするかのようにぐりぐりと動き回っている。異形に巻きつかれた皮膚が、肉が、骨が、酸でもかけられたかのようにずくずくと爛れていくような錯覚に襲われ、懸命に吐き気をこらえた。常人ならばあっという間に気が狂ってしまっていたであろう。それほどまでにおぞましく、全身が粟立つような感触にしがみつかれながら、簪は帯の中に手を差し込んだ。
もう一本。そう、もう一本、髪留めの簪が残っていたのだ。狙いを定めるいとまもない。球飾りがしゃらりと揺れる愛らしい音がこの場に場違いなほど涼やかに響き、華奢な先端がぶよぶよに膨れ上がった異形の頭にざっくりと突き刺さっていた。
容赦はしない。兄を助け起こそうとよろめきながら近付いてくる弟の姿が視界の端に映り込んだからだ。だから簪はともすれば飛びそうになる意識を叱咤し、右手にありったけの力を込めて異形の頭を切り裂く。歯を食いしばって脂汗を浮かべたその形相は、日頃の彼をよく知る者が見ればこれが本当にあの簪かと目を疑ってしまうであろうほど凄絶なものであった。
ぶずぶず、という嫌な手ごたえがあった。決して硬くはないのにやけに手に残る、嫌な感触だ。腐肉を裂いたらきっとこんな手ごたえがあるのだろうか。そんなことがちらりと脳裏をよぎった瞬間、簪の喉仏がごくりと上下し、引き攣れたような悲鳴がわずかに漏れた。
うぞぞぞぞぞ、と溢れ出したのだ。柘榴のように裂かれた頭部から。夜の闇よりも暗い色の、おぞましい虫たちが。
蜘蛛、百足、蚤、虱、ゴキブリ、蛆、蝿……。嫌悪感をもよおさせるのに充分な生き物たちが、切り裂かれた異形の頭からウンカのように湧き出して津波のごとく殺到する。異形の体内いっぱいに詰まっていたのだろうか、後から後から這い出る虫は限りを知らない。百足に這いずられ、蜘蛛が着物の下に入り込み、蚤や虱が皮膚を食い破る感触に急速に全身の血が冷えていく。
「――――――」
しかし、遠のく意識の中、弟が必死に自分を呼ぶ声だけがやけにはっきりと鼓膜を打った。
(今……何と?)
信じられなくて――というよりは、確かめたくて、であろう。弟が口にした言葉をもう一度聞きたくて、簪は軋むような全身の痛みをこらえながらどうにか首だけ振り向ける。
だが、そこまでだった。
よろよろと駆け寄って来た弟の腕に体を預けるのとほとんど同時に、簪の意識は暗闇に放り込まれていた。
意識が水底から浮上するような、とか、霞がかかった頭の中が徐々に晴れていくような、とか、そんな詩的な比喩とは縁遠い目覚めであった。
「いい加減起きろよ」
荒っぽい声とともにぺしっと額を叩かれる。思わず額に手をやると、濡れ手拭いの心地よい感触があった。目を開けばこちらを覗き込む弟の顔。簪と目が合った瞬間、にやにやといたずらっぽい笑みを浮かべるその顔に明らかな安堵の色が広がったように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「おや……手荒い挨拶で……」
焼けついたような喉に声が引っかかり、うまくしゃべれない。頭が熱を持ってややぼんやりしているようだ。濡れた手拭いを額から外して体を起こし、弟が突き出した水差しの水を飲み干してようやく一息つく。見慣れた自宅に布団を敷いて寝かされていたようだ。
今日は珍しく雨が降っていないらしい。小さな窓から、黄昏の少し手前の淡い色の陽光が差し込んでいる。
「あなた、無事でしたか? 怪我の具合は?」
己の容態よりもそれが気になり、真っ先にそう問う。着流しの前合わせから白い包帯を覗かせた弟はばつが悪そうにがりがりと頭をかいた。
「俺は何ともない。あんたの腕の怪我に比べりゃかすり傷だ。まったく、無茶をして……」
心配するこっちの身にもなれ。小声で付け加えられたその一言には気付かぬふりをして、簪はゆるりと微笑んだ。
草刈り鎌に貫かれた左腕には包帯が巻かれている。痛みも熱もまだ残っているが、それとて数日中に消えてなくなるだろう。
「あちきはどれくらい眠っていました?」
「二日……いや、三日だ。怪我のせいでひどい熱だった。覚えていないのか?」
言われてみれば、節々が軋むように痛む。高熱の名残であろう。
「三日。三日ですか……」
ふふ、と意味ありげに薄く笑って簪は顎をさする。斜めに弟を見上げると、きょとんと首をかしげた表情が返ってきた。
「三日も眠っていたのではさぞご迷惑をおかけしたでしょうねえ」
「迷惑?」
「あちきが眠っている間、ずっと看病をしてくれていたのでしょう?」
弟の涼しげな目許にべったり張り付いたくまと、張りとツヤを一時的に失った肌に気付かぬ簪ではない。
「知らん。自惚れるな、馬鹿が」
弟は腕を組んでぷいとそっぽを向いた。予想通りの反応に簪は笑いを噛み殺す。そこへ「よう、ニイさん」と厨から顔を出したのは間明だ。
「やっと気がついたかい。ったくまぁこの三日間、弟の野郎がうるさくて大変だったんだぜ? あんたを心配して枕元で右往左往さ」
「あー知らない知らない、俺は何も知らん!」
弟は間明の声にかぶせるようにして怒鳴り、簪の手から濡れた手拭いをひったくって厨に降りていく。手拭いを濡らしてくれるつもりらしい。
「さて、と。まぁ生きてて良かったじゃねえか」
布団の傍にどっかりと胡坐をかき、間明はからからと笑う。「どうもあの姉妹が気になってな。夜中にこっそり茶屋に行ってみたってわけよ」
茶屋のそばで間明が見つけたのは血まみれになって倒れている環の姿であった。蔵に捕われていた弟を逃がそうとしたところ、その場に転がっていた草刈り鎌で棗に斬りつけられ、ここまで這いずってきたのだという。弟はどうにか逃がしてやったが棗もその後を追った。二人を助けてほしい――。それだけを伝えて、環は意識を失ったという。
(二人……ですか)
棗は環を憎んだ。だが、環は棗に殺されかけて尚、棗が救われることを望んだ。皮肉なことだ。
「環ちゃんもかなりの深手だったんでね。すぐ医者に見せねえとやばいと思って、そこらじゅうの医者を叩き起こして回ったのさ。おかげで棗ちゃんと弟の後を追うのが遅れちまった」
済まねえな、と小さく詫びる間明を笑顔で制し、簪は逆に問う。
「それで、環さんと棗さんは?」
「環ちゃんはまだ眠ってるが、あと何日かすりゃ目が覚めるって医者は言ってらあ。棗ちゃんもどうにか無事さ。体よりかこっちの傷のほうが深かったみてえだがな……」
とんとん、と間明は人差し指で自分の胸を叩いてみせる。それに浅く首肯を返しながら簪はふつりと呟いた。
「あの異形は、棗さんの心の形だったんですね。だから弟と環さんに張り付いていた」
間明は答えない。だが、黙り込んだ顔の上に苦虫を噛み潰したような表情が広がる。あの後あの異形がどうなったのか、簪は問わなかった。自分と弟がこうして無事でいるということは、過去にもこの類の事件に関わったことがあるという間明がどうにかけりをつけてくれたのであろう。
「……最初はな、あいつは棗ちゃんのほうを気に入ってたんだよ」
「へぇ。棗さんもそう言っていました」
「そうかい。恋仲とまではいかねえが、そこそこ親しくしてたらしいぜ。実際、あいつも気のあるようなことを時々口にしてたらしい。ところが弟は次第に環ちゃんのほうに惹かれちまって、環ちゃんも弟に惚れた。恋人ってわけじゃなかったし、あいつからすりゃあ棗ちゃんを捨てたなんて意識はなかったんだろうが……」
「棗さんのほうはそうは思わなかった、というわけですか」
後を引き取った簪の嘆息に、間明の溜息が重なった。
「――まったく」
もうひとつ溜息を落とした後で、簪は低く呟いた。
「本当にしょうがない奴ですね」
「おい、ニイさん」
押さえ付けた声音にわずかな怒りの色を感じ取った間明が諫めかけた時、冷たい水を含ませた手拭いを片手に弟が戻って来た。
「待たせたな。まだ熱も下がりきってないみたいだし、もう少し寝て――」
次の瞬間。
弟の言葉を遮るように、ぱあんと乾いた打撃音が響き、間明はあんぐりと口を開けた。当の弟も呆気に取られて声を出すことができない。
――それほどまでに意外で、異例だったのだ。物静かで穏やかな簪が、明らかな怒りの表情で弟の頬を平手で打つなどという振る舞いは。
「黙って行方をくらませた挙句、怪我をして戻ってくるなど……恥を知りなさい」
予期せぬ一撃に尻もちをついた弟を見下ろし、簪は下ろした右手を小刻みに震わせる。
「たまたま無事だったからよかったようなものの。人に迷惑までかけて。誰にも何も言わずに――少しは心配するほうの身にもなってみなさいな」
「ま、ま、ニイさん、いいじゃねえか。終わり良ければ何とやらだ」
「元はと言えば」
とりなすように肩を叩いた間明を無視して簪は続ける。「棗さんがああなったのだってあなたの中途半端な態度が原因でしょうに。あの姉妹が今後どうなるか、まともに考えたことはありますか?」
弟は答えない。唇を噛んで視線を伏せるだけだ。
棗のことは誰が悪いというものでもなかろう。だが、弟がおいそれと気のあるようなそぶりを見せなければここまでの事態には至らなかったのかも知れないのだ。
「まったく。あなたという人は」
す、と簪の右手が持ち上げられ、弟はびくっと肩を震わせて目を瞑る。
「……どこまで行ってもお間抜けさんですねえ」
弟の前に顔の高さを合わせてかがみこんだ簪は、いつもの微苦笑を浮かべてその一撃を喰らわせた。
「あいたっ」
ばちんと鈍い音がひとつ。いわゆる“でこぴん”をまともに喰らった弟は額を押さえて背中から倒れ込んでしまう。緩やかな色を顔に浮かべてそれを見下ろす簪と、額を押さえてうんうん唸っている弟とを見比べて間明は一瞬呆気に取られたが、すぐにげらげらと笑い声を上げた。
「ああ……そうでした。聞きたいことがもうひとつ」
ふふっと笑い、簪は弟の前にしゃがみ込む。その顔には弟に優るとも劣らないいたずらっ子のような笑みが浮かんでいるのだった。
「あなた、あの時何と言ったんで?」
「あの時?」
「あちきが気を失う寸前です。何か言ったでしょう?」
答える代わりに弟は唇をへの字に曲げた。やはりあれは聞き間違いでも気のせいでもなかったらしいと悟り、簪はくすくすと笑みを漏らす。それがどうも癇に障ったらしく、弟は「うるさい!」と怒鳴って濡れた手拭いを簪の顔に押し付けた。体格の良い弟の体重をまともに受けて簪は布団の上に倒れ込む。
「おやおや、手荒な。あちきは怪我人なのに」
「怪我人は怪我人らしくおとなしく寝てろ、馬鹿!」
「そらまた始まった、お得意の“馬鹿”が。馬鹿と言ったほうが馬鹿なんですよ」
「うるさい、馬鹿馬鹿馬鹿!」
額の上に乱暴に押し付けられた手拭いはひんやりと心地よい。簪は適当なところで抵抗を切り上げておとなしく布団の中に潜り込んだ。
「減らず口を叩く元気があるならさっさと怪我を治せ」
簪がちゃんとおとなしく寝ているかどうか、番をするつもりなのだろうか。弟は枕元にでんとあぐらをかいて腕を組む。
「……悪かったな」
そして、舌打ち混じりにそっぽを向いて早口に言った。「さっさと休め。早く元気になれよ、簪さん」
「へぇ、それじゃお言葉に甘えて……」
胸中に生じた複雑な感情にはとりあえず目をつぶり、弟の視線を感じながら目を閉じる。
(簪さん、ですか)
寝息を立てるふりをしてやると、弟が安堵した気配が伝わってきた。
あの時、弟がああ叫んだのは咄嗟のことだったからなのだろう。今後あの言葉を耳にすることはないのかも知れない。
それでも意義のあることには違いないと――ほんの少しだけ距離が縮まったのだと、内心でこっそりそう思うことにしておく。
いつしか別の寝息が聞こえて来て、薄く目を開いた簪は思わず小さく笑った。あぐらをかいて柱にもたれた弟がこっくりこっくり船をこいでいる。「そっとしといてやんな」と不器用に片目をつぶってみせた間明に微笑を返し、再び目を閉じた。
ふと気がつくと、差し込んでいた光は柔らかな橙色に変わりつつある。
(雨も好きなんですがねえ……)
この時節にしては珍しく明日も晴れるのだろうかと、眠りに落ちるまでのほんのわずかな時間、そんなことを考えた。
◇ ◇ ◇
くあ、と犬が欠伸をする気配で簪はようやく現実に引き戻された。
「ああ……もうこんな時間ですか」
壁掛け時計の長針と短針は既にてっぺんを超えていた。長針は零時の半ば近くを指し、取り残された短針が文字盤の12と1の間で所在なげに揺れている。
「やれやれ。長話が過ぎたようで」
古寺の客間で相変わらず腹這いになり、簪は黒い犬と鼻を突き合わせている。犬は「くーん」と小さく鼻を鳴らして胸を張った。つぶらな瞳をしょぼしょぼとさせているが、話の続きがあるなら聞いてやるぞと言わんばかりの態度だ。
「そろそろ寝ましょう。明日に差し支えます」
犬は拍子抜けしたようにふんと鼻息を吐き出した。簪はくすりと笑い、狭い押入れから出してきた布団を縁側に寄せて敷いた。名残惜しそうに目をくりくりさせ、ことりと首をかしげた犬がその様子を見守る。
いつしか雨音は消えていた。満天の星空というわけにはいかないが、夜空にかかる雲は薄く、うっすらと月の影らしきものもうかがえる。
「じゃあ、ここは開けておきましょうか」
縁側に面する戸を細く開けたまま布団に横たわる。犬は行儀よく揃えた前肢の上に顎を乗せ、ちらりと目を上げた。
「本当に、ねえ」
こうしてさりげないしぐさを装ってこちらの様子をうかがうところまで、あの弟によく似ているようではないか。
(ここにもあなたみたいな奴がいましたよ。ねえ――)
心の中だけでそっと弟の名を呼び、簪は目を閉じる。
簪が弟を名前で呼ばないように、弟もまた簪を兄とは呼ばなかった。
だが一度だけ。あの異形の頭から湧き出した虫に襲われて気を失う寸前、弟は呼んでくれたのだ。
“兄貴”だったか、それとも“兄さん”だったか。咄嗟のことであったし、意識も朦朧としていたため、よくは覚えていない。だがあの時、弟は確かに簪を兄と呼んだ。もっとも、弟にそう呼ばれたのはその時限りで、その後は一度も兄と呼ばれぬままこうして銀幕市に実体化してしまったのだが。
飴玉をゆっくりと溶かすように弟の名を口の中で転がす。ひとつ寝返りを打つと、犬がくーんと鼻を鳴らした。見れば、黒く濡れた瞳がまだ何か言いたそうにこちらを見つめている。
ふふ、と簪は浅い笑みを漏らした。
「今度雨が降ったら、とっておきの星空を見せてあげましょう。穴の開いた傘を通すとね、雨模様の空も星屑のように見えるんですよ」
言葉が通じたのだろうか、犬はもう一度鼻を鳴らし、尻尾をぱたぱたと左右に往復させた。
(了)
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クリエイターコメント | この度はオファーありがとうございました。 そして大変お待たせいたしました。シナリオに引き続いてお会いでき、光栄です。
タイトルは「土砂降り」の英訳です。 今回は犬、そして先日【レイニーキャット】にも参加していただいたということで、それにひっかけて。
お互いに慕い合いつつも、微妙な距離感があるというコンセプトで書いております。 せっかくなので映画内で起こった事件と絡めて。 なお、簪様は脇役だとのことなので、このエピソードの映画内での主人公として間明をもってきました。
売り物の簪を使って攻撃するくだりがありますが…職人の手仕事をこよなく愛する簪様がそんなことをするだろうかと迷ったのですけれども、結局書きました。 弟さまを守るためなら何でもするのだという意味を込めて。それだけ弟さまのことが大事なのだろうな、と。
その辺りも含めて、不都合な部分があったらお知らせください。伏してお詫びするとともに、修正を鋭意検討させていただきます。 それでは、今回も重ねてありがとうございました。 |
公開日時 | 2008-08-01(金) 22:20 |
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