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クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-4751 オファー日2008-09-17(水) 21:00
オファーPC 簪(cwsd9810) ムービースター 男 28歳 簪売り&情報屋
<ノベル>

 何度着ても慣れないものだが、無理もない。この国の庶民にはこんなふうに身体を締め付けられる衣服を着る習慣自体が存在しなかった。特に首元の息苦しさと言ったらないし、手首の締め付けもどうにかしてほしいものだ。こんな衣服に身を包んで生活している外つ国の紳士はどんな生態をしているのだろうと半ば本気で考える。
 衣裳部屋とは名ばかりの小さな和室に並ぶのはいずれも洋服ばかり。見慣れぬ衣服に囲まれ、向き直った鏡に映る自分の姿に簪は思わず苦笑を漏らす。
 (やれやれ。こんな格好をする日が来ようとは)
 顔を変えたわけでもなければ髪形すらいじっていないというのに、この違和感はどうしたことか。ワイシャツに長ズボンという装いに身を包んだ自分はまるで別人である。
 品にけちをつけるわけではない。ぱりっとした見目と手触りの良さを併せ持つ生地と、細かく綺麗な直線をえがく縫製を初めて見た時には目をみはったものだ。しかし良い品が必ず自分に似合うとは限らない。店の女性には「お似合いですよ」などと言われたが、いつもの着流しのほうがしっくりくるし、自分に一番合っているとも思う。
 とはいえ客商売である。身なりを整えないわけにはいかない。舶来品の衣服を売る身であれば尚更だ。
 この癖毛もだらしなく見えると義父は嫌がった。しかし生まれ持ったものはどうしようもない。せいぜい丁寧に梳いて油で軽く撫でつけてやるくらいだ。もっとも、それとて時間が経てばたやすく元に戻ってしまうし、雨の日などには無駄な努力に終わるわけだが。
 「これも着てみろ」
 ぬうと現れた義父が手にしているのはズボンと同色のチョッキ――後にベストと呼ばれることになる品であるが、もちろん簪も義父もそんなことは知らない――である。勧めるというよりも命じるといった口調で差し出されたそれは何とも珍妙な形をしている。肩から先がぷつんと切り落とされて、袖というものがどこにも見当たらない。胸と背中を覆うだけの代物だ。前合わせ代わりのボタンを止めると薄い胸板に圧迫感を覚えた。
 「落ち着きませんね、これは」
 思わず正直な感想がこぼれる。むっつりと腕組みをした義父は「悪くない」と応じるだけだ。
 愛想笑いを返して衣裳部屋の中を見回した簪の視界に、室内に安置された笈が映り込む。
 今の簪は呉服屋の若旦那だ。部屋の片隅に追いやられたこの笈を背負って行商に出かける日は二度と来ないだろう。
 「その笈はもう使わんのではないか?」
 舌打ち混じりの、邪魔だからさっさと捨ててしまえと言わんばかりの言い草に簪は軽く眼を眇めた。
 「後であちきの部屋に持って行きます。邪魔にさえならなければ良いのでしょう」
 「好きにしろ。まったく……あいつに似て強情なことだ」
 「あいつとは、母のことで?」
 「ああ、遊び女のことなど思い出したくもないが。母が遊び女なら子も子だな、扱いづらいことといったら」
 ――あちきの母はあなたの息子の母でもあるのに?
 湧き上がるそんな感慨にはそっと蓋をすることにする。
 露骨な舌打ちをして出て行く義父の背を見送ることなく、簪は笈の前にかがみ込んだ。
 蓋を開けると、湿った匂いと使い込まれた木の香りが無言で立ち上ってくる。熟成された時間と木だけが持ち得る、古い長屋にも似た心地良い匂いだ。
 外界を拒むかのような四角い空間でまどろんでいるのは職人が丹精込めて作った装飾品の数々。これらの品も店頭に並べればいくばくかの売り上げにはなるのだろうが、そのつもりはなかった。大切な記憶と一緒にこの笈の中にしまっておくのが一番良い。誰にも邪魔されず、誰の目にも触れさせず、時折一人で追憶に耽ることができればそれで充分だ。
 それでもお気に入りの簪――もちろん、髪留めに使うほうの簪である――を一本だけ取り出してチョッキの胸ポケットに差し込む。
 「何だそれは」
 着替えを終えて出て来た簪の胸ポケットに気付き、義父はあからさまに眉を顰めた。
 「へぇ……和洋折衷というやつです。洒落ているでしょう」
 これくらい好きにさせてくれてもいいだろう。穏やかな笑顔と冗談めかした口調に滲ませたそんな感情は半ば意地だったのかも知れない。それを読み取ったのかどうか、義父は軽い舌打ちとともに奥に引っ込んで行った。
 「あら、若旦那さん。おはようございます」
 店には既に従業員の女性が来ていて、掃除に商品の陳列にと忙しなく立ち働いている。彼女もふんわりしたブラウスにスカートという西洋の装いだ。雪乃という名の色白の娘は、洋装の簪を見てくすりと好意的な笑みを浮かべた。
 「あたくしが申し上げた通りじゃありませんか。やっぱりお洋服もよくお似合いになりますね」
 「はあ……そうでしょうか」
 「そうですよ、そうですよ。お客さんへの良い宣伝にもなりますわ」
 にこにこと微笑む色白の雪乃の前で、簪は苦笑とともに肩をすくめてみせるしかない。
 呉服屋・皆藤(かいどう)の、開店前のいつもの風景である。



 あの姉妹の一件より後の話。
 混乱と西洋文化の波が押し寄せ、折衷といえば聞こえは良いが和と洋が無秩序に入り乱れていた時代。国がどうの新政府がどうのという話にはそれほど縁のない場所にいた簪の生活も激変することになる。
 さして変わらぬ日々が続いていたのだ。笈を背負って各地を回るうちにただごとではない国内外の情勢を耳にすることはあっても、直接の影響を受けることは少なかった。亡き母への敬愛も、故人である父に対する複雑な感情も変わらない。
 唯一の血縁である異父弟とは相変わらずの親交が続いていた。だが下級職人を父に持つ簪と良家・皆藤の子息である弟では所詮身分が違う。そのせいもあって弟の父は兄弟の交流を決して快くは思っていなかったのだが……。
 「うちの店を継いでほしい」
 いきなり訪ねて来た弟の父にそう言われたのはいつのことであっただろう。
 皆藤家が営んでいるのはそこそこ有名な呉服屋である。本来ならば弟が家業を継ぐはずだったのだが、商才が全くない上に相変わらずふらふらと出歩く日々を送っているため、異父兄で商人でもある簪にお鉢が回って来たのだった。
 といっても雇われ店主にすぎない。大旦那として店の実権を握っているのは弟の父、即ち簪の義父である。いくら稼いでも店の売上のほとんどは義父に流れることになる。理不尽といえば理不尽であるが、弟のためでもあるし、簪自身がその状態を気にすることはなかった。
 皆藤は老舗の呉服屋であったが、世情を反映して自然と外国の衣服も扱うようになった。それでも『呉服屋』という看板を外さない辺りは老舗の大旦那の意地であろうか。古めかしい店舗と革新的な洋服という取り合わせは何とも滑稽だ。
 それでも物珍しさが手伝って客足が途絶えることはない。少しずつではあるが着実に売り上げを伸ばし、若旦那としての簪はそこそこ順調な日々を送っていた。



 「今日もご苦労でした、“若旦那”さん」
 若旦那という単語を茶化すように強調したその声に振り返ると、着流しをややだらしなく着崩した弟がにやにやと手を振っているところだった。いつものことだ。この弟は店が始まる頃にふらりと外に出て、店じまいの時刻を見計らって帰ってくる。
 「あなた、またそんな格好で出かけていたんですか」
 「体に馴染んだ服が一番だ。しかし、あんたはよく黙ってそんな物を着ていられるな」
 「へえ、まあ。仕事のうちですから」
 「あんたらしいな。見ているこっちが息苦しい、外したらどうだ」
 と、ワイシャツの第一ボタンを外そうと無造作に首元に手を伸ばす。簪は「およしなさい」といなすようにしてその手を軽く払った。
 「だらしなく見えます。釦は上まできちんととめるものです」 
 「もう店は終わったんだろう? だらしなくたって構わないさ」
 「はあ、それじゃ……」
 仕方なく、好きなようにさせた。弟は最初は右手一本で外そうとしたがかなわず、左手も添えて両手で外しにかかる。
 日焼けした大きな手が四苦八苦しながら小さなボタンを外す様子を見るともなしに眺めた。大の男がたかがボタンひとつに苦戦して眉間に皺を寄せる様子はひどく可笑しく、愛嬌がある。
 「何がおかしい?」
 咎めるような声に気付いてふと目を上げる。訝しそうな、やや拗ねたような双眸が簪を見つめていた。
 「いいえ。何でもありませんよ」
 緩やかにかぶりを振って店じまいの作業に戻ると、弟も袖の下に手を差し込んでひょいひょいと後をついて来た。
 「どうだい、調子は」
 「はあ。そこそこですかねえ」
 「ずいぶん気のない返事だな」
 「事実を述べたつもりですよ。客入りもそこそこ、目覚ましいほどではないにしろ売上も伸びて来ていますし。詳しいことは大旦那様が――」
 「店の話じゃない」
 かぶせるようにやや苛々と落とされた声に簪はひょいと眉を持ち上げた。振り返れば腕を組んで探るようにこちらを見下ろしている弟の目がある。その眼差しは存外に真剣で、反問を許さぬ峻烈さすら孕んでいるように見えた。
 「あんた自身はどうなんだ?」
 問いの意味を図りかねて簪は軽く首をかしげる。
 「どう、と言うと」
 「今のこの状態に満足しているのか?」
 「ええ、まあ」
 さらりとした答えは間違いなく本音であっただろう。以前の暮らしに不満があったわけではないが、生活環境は格段に改善した。都合の良い雇われ店主という立場であっても名家皆藤の庇護の下で衣食住は保証されている。仕事は慣れ親しんだ装飾品にも通ずる服飾業。おまけに行商で培った接客の技術も生かすことができる。
 何より、同じ母の血を分けた弟と同じ屋根の下に居られるのだ。皆藤の店を盛り立てることが弟のためにもなる。簪がそれ以上のことを望むはずがない。
 「……本当か?」
 しかし弟は眉を寄せ、斜めに簪の目を覗き込む。
 「おや、心外ですね。嘘を言っているように見えますか?」
 「あんたが嘘を言うとは思わんさ。本心を言っているとも思わんが」
 苦虫を噛み潰したような弟の表情に簪は首を傾げるだけだ。
 「何が言いたいんで?」
 「言わなきゃいけないのはあんたのほうだ」
 「どうしたんです? 今日のあなたはおかしいですよ」
 どうやらその一言が決定打になったらしい。
 弟の唇がむずりと音を立てて歪む。不快ゆえかもどかしさゆえか――あるいはその両方だったのか。
 「表のお掃除、終わりました」
 弟が口を開きかけた時、鈴を転がすような声とともに箒を抱えた雪乃が入ってくる。雪乃は弟の姿に気付くと「あら」と口を動かして頭を下げた。
 「よ、雪乃さん。相変わらず別嬪さんだな」
 弟は途端にすいと簪の前を離れ、親しげに雪乃に手を振る。あの姉妹の一件以来女性に対して軽率な行動に出ることはなくなった弟だが、持って生まれた性格はなかなか治らないらしい。兄はやれやれとでもいうように軽く肩をすくめた。
 「坊ちゃん、今日はどちらに行かれていたんです?」
 「坊ちゃんはよしてくれ。そんな歳ではないさ」
 「そうですわね。身を固めていてもおかしくないお歳ですものね」
 「何だ、雪乃さんまで親父みたいなことを」
 「皆藤家のお坊ちゃんならよりどりみどりでしょうに。もしかしてお心に決めた女性がいらっしゃいますの?」
 「参ったな」
 苦笑いしながら頭を掻く弟とくすくす笑う雪乃の様子を簪は静かに見守る。
 「雪乃さんこそ縁談は来ないのか?」
 「あいにく、あたくしを貰ってくださるお心の広い殿方などいらっしゃらないんですの」
 「何だ、世の中の男どもは見る目がないな。こんな気立ての良い別嬪さんを放っておくとは」
 「あらいやだ。お上手で――」
 ほんの一瞬だった。だがその刹那、雪乃の声が確かに凍りついたのだ。
 そのわずかな変化を察した簪も視線を上げ、思わず目をしばたたかせた。

 弟の背中に白い“何か”が巻きついている。
 陽炎のようにゆらゆらと揺らめくそれは紛れもなく異形。様々な姿をとって現れる、人の心の形。
 その姿はまるで蛇であった。物言わぬ白い大蛇が、弟の体に緩やかに巻きついているのだった。

 (また……)
 今度は誰の異形であろうか。
 心の姿である異形は本人に寄り添っていることが多い。例外的に、殺したいほど憎い相手や愛する者には本人の傍を離れてべったり張り付いている。
 「あいにくおべっかは苦手でな。本心しか言えない厄介な性格なんだ」
 からからと笑う弟の背中越しに、雪乃が戸惑いを含んだ視線で簪を見つめている。どうやら雪乃にも異形が見えるようだ。
 若旦那さん、と雪乃の口が動いたような気がした。彼女の視線が大蛇と簪の間を二、三度行き来する。何か言いたげな様子に首をかしげ、もう一度蛇の姿に目をやって――
 胃の腑がぎゅっと音を立てて激しく収縮した。

 あれは、あの醜いおろちは、他でもない自分の異形ではないか。

 「まあまあ、あたくしを持ち上げてどうなさるおつもりですの?」
 雪乃はすぐに微笑を浮かべて弟に向き直った。弟も雪乃の変化には気付いていないらしく、笑い声を上げて応じている。
 (どうして……あちきの)
 心臓の音がやけにやかましい。早鐘のような鼓動が唇に感じられるようだ。嫌な汗が背中にじんわりと滲み出し、ワイシャツを濡らしていく。
 目のない白蛇が鎌首を持ち上げ、緩慢な動作で簪を振り返る。
 裂けた口からちろちろと覗く舌はひどく鮮やかな朱色をしていて、まるで白粉をはたいて紅を引いた女のようであった。



 ぽたり。
 一点の穢れもない白に、一滴の紅が落ちる。
 じわり。
 真白な体の上を紅の色が音もなく浸食していく。
 それはおろちであった。めくらの大蛇であった。口と舌を朱の色に染めた白蛇はゆっくりと体を起こし、鏡の中を這いずっていく。
 簪はその姿をただぼんやりと見つめていた。まるで細胞分裂でも起こすかのような自然さで己が身から分かれていく不気味なおろちを、鏡越しにただ見つめていた。
 ああ。
 この鏡に映るのは、まことに自分の姿であるのか。
 あるいはあのおろちこそが真実の己であるのか。
 (あんたはいつも何も言わない)
 聞き慣れた声にどきりとする。
 鏡の面(おもて)が音もなくたゆたい、弟の姿が映し出された。
 (何も言わず、何も望まず。決して本心を見せてはくれないんだな、あんたは)
 鏡の中を這う白蛇が弟の脚に、腰に、胴に、ゆっくりと絡みついていく。
 (あちきは昔からそうでした。身分の高いあなたには分からないでしょうけれど)
 幼い頃から自分の望みを口にすることなく生きてきた。望んだところで与えられなかった。下級の民とはそういうものだ。だから、いつしか望むことを諦め、それを当たり前のこととして生きるようになっていた。
 (望めば何でも手に入るあなたとは違うんです)
 (違う。そんな話をしているのではない)
 ぽたり。
 おろちに締め付けられた弟の体から、赤い何かが滴る。
 それは血というよりも火焔。ごうごうと燃える紅蓮の色彩。しかしそれは、色の激しさとは対照的に、かぎろいのように頼りなく揺らめいているのだ。
 (あんたは……まるで親のようだ。いつもいつも自分の望みを殺して尽くしてくれた。俺が物心ついた時からそうだった)
 ぽたり、ぽたり。
 次々と滴る紅蓮の色は無言の大蛇へと姿を変え、簪めがけてずるずると這ってくる。
 (俺は、あんたの何だ?)
 ぽたり、ぽたり、ぽたり。
 弟の目から血の色をした涙が滴る。
 簪は答える術を持たない。鏡の中から這い出た紅蓮の蛇が、簪の脚に、腰に、胴に、ゆっくりと絡みついていく。
 醜悪な蛇のなすがままになる兄に、鏡の中の弟がふと微笑んだような気がした。
 (俺の父はあんたの大事な母親を奪ったようなものなんだろう? 母の息子である俺とて似たようなものだ、俺も父もあんたに憎まれてもおかしくないことをしたんだ。今のあんたは皆藤の若旦那として安楽な生活を手に入れたのに……もう俺や父を憎んでもいいはずなのに、あんたはそうしない)
 締め上げられていく。
 兄は真紅のおろちに。弟はめくらの白い大蛇に。
 ゆるゆると、ひどく緩慢に締め上げられていく。
 だが兄は目を閉じ、それを甘受する。弟もただ黙って立ち尽くす。
 (血の繋がった相手をどうして憎まなければならないのです? あなたのお父上も形はどうあれあちきに職と住まいを下さった。憎む理由など……)
 (相変わらずだな。あんたらしい)
 また弟が微笑んだような気がした。
 (だけど、俺が訊きたいのはそんな事ではない)
 締め上げられていく。締め上げられていく。
 骨が軋み、内臓が悲鳴を上げるのが聞こえるのに、感じる痛みはひどく甘く、陶酔にも似て。
 (俺が望むのは……そんな答えではないんだ)
 真白な大蛇は弟の体に、真紅のおろちは兄の体に。
 己が痕跡を刻みつけんと、ただ緩やかに絡みついていく。



 「――若旦那さん?」
 雪乃の声で簪ははっと現実に引き戻された。
 戸惑いとともに視線をめぐらせる。昼下がりの静かな光が差し込む衣裳部屋。鏡。映るのは洋装に身を包んだ己の姿。白昼のまどろみに見た浅い夢のように、双頭の大蛇も弟も消えてなくなっていた。
 「すみません、雪乃さん。何です?」
 「休憩中に申し訳ありません。お客様がいらっしゃいまして、若旦那さんにお品を見立ててほしいと」
 「へぇ、分かりました。今参ります」
 薄い笑みとともに答えると、首の辺りをひやりとした感覚が襲う。何気なく手をやればワイシャツに締め付けられた襟元が汗でうっすらと湿っていた。
 あのおろちもこんなふうに息苦しく全身を締め付けていたはずだ。それにもかかわらず、残っているのは甘美な苦痛の記憶だけ。弟はどうだったのだろう。鏡の中で蛇に締め上げられていた弟はどんな顔をしていたのだろうか。
 単なる白昼夢であれば良い。しかし、もし現実に起こってしまったら。
 ――そう考えた瞬間、ひどく心地良い悪寒が脊髄を貫いた。
 (あちきは何を……何を考えているんです)
 息苦しさを覚えて、思わずワイシャツの胸元を掴む。
 あのまま蛇に締められ続けたら、弟はきっとどうにかなってしまっていた。
 しかし――そうなるならなってしまえば良い。そんなふうに囁くもう一人の自分が体の奥でどろりととぐろを巻いている。
 「差し出がましいようですが、あまりお気になさらないほうがよろしいかと」
 不意に脇からもたらされた声に思わず息を呑む。衣裳部屋から出て来る簪を待つようにして、白いブラウスと紺のスカートに身を包んだ雪乃がそばに控えていた。
 「“あれ”が見えてしまう人間は悲観しがちですけれども……人は見かけによりませんでしょう? 異形も同じだとあたくしは考えておりますわ。目に見える姿かたちはほんの一面にすぎませんもの」
 黒曜石のような瞳にすべて見透かされているような錯覚に捉われて、簪は曖昧に笑み返しただけであった。
 店で待っていたのはひと組の若い夫婦であった。富士野と名乗った夫に伴われた妻の腹はふっくらと膨らんでいる。
 「おめでたいですねえ。失礼ですが、いつのご予定で?」
 若旦那・簪はいつものように微笑を浮かべ、無難なところから話に入る。身重の若妻はぽっと頬を染めてうつむいた。
 「ふた月後……いえ、ふた月を切りました。あとひと月と半ほどです」
 丹念に指を折りながら予定日までの日数を正確に数えるしぐさにさえ幸福の色が滲んでいる。
 「家でおとなしくしていろと言ったのですが、どうしても自分の目で見て選びたいとわがままを言いまして」
 富士野は妻の肩を気遣わしげに撫でながら苦笑する。簪より少し若いと見える彼は西洋の外套に身を包み、白い手袋をはめた手にステッキを握って、良家の紳士といった風情を漂わせていた。
 「わがままとはどういうことです? 私たちの初めてのお子なんですよ、自分で産着を選んであげたいと思うのが親心じゃありませんか」
 「いや、身重の君にはゆっくり体を休めて欲しくてだね」
 冗談めかして夫を睨む若妻と、妻の抗議を真に受けて慌てる夫。男女の情、ことめおとという結びつきに関しては些か懐疑的で冷めた目線を持つ簪であるが、人の幸せそうな姿を見るのは嫌いではない。
 笑顔を絶やさぬまま雪乃に軽く目配せする。雪乃も心得ていたようで、簪の視線を受ける前に腰掛けを持って来て妻の前に置いた。
 「どうぞおかけくださいませ。ご覧になりたい物がありましたらあたくしがお持ちいたします」
 「親切にありがとう。若旦那さん、どれか見立ててくださいませんか?」
 「へえ。産着ということでしたら、あちらの棚の右から二番目の物などは……」
 「それじゃあ、まずそれを見せてくださいな。それから真ん中の段のお品も気になります。それとも一番左の……ああ、どうしましょう。どれも素敵で迷ってしまうわ」
 「ふふ、それなら気になるお品すべてをお持ちいたしますわ。ごゆっくりご覧になってくださいな」
 雪乃は簪と妻が指し示す棚からてきぱきと反物や洋服を取り出し、腕に重ねていく。
 「近くで見ると本当に素敵、これならお義父様とお義母様も喜んでくださるわ。触ってもよろしいかしら?」
 「ええ、どうぞお手に取ってくださいませ。こちらは舶来の……」
 穏やかな昼下がり。店内の客はこの若い夫婦だけだ。金平糖のような声で会話を弾ませる女二人の脇で、簪は笑顔を崩さずに富士野に話しかける。
 「お名前はもうお決まりで?」
 「え? ――あ、ああ、子供の名前ですか」
 静かに微笑みながらぼんやりと妻の横顔を見ていた富士野はふと我に返ったように応じた。
 「実はまだでして。いくつか候補を絞ってはいるんですが、なかなか」
 「そうでしょうねえ。なかなかひとつには決められませんよねえ」
 「ええ、どの名も捨て難くて。男の子ならこの名前、女の子ならあの名前と……あっちに行ったりこっちに行ったりで。親にも妻にも優柔不断だと呆れられますが」
 「そうやって迷う時間もまた幸せなものじゃありませんか」
 「ねえあなた、こちらに来てくださいな。一緒に選んで頂戴」
 妻の軽やかな声に呼ばれた夫は「失礼」と会釈して簪の前を離れた。その背を見送った簪はひょいと眉を持ち上げる。
 (おや、これはまた可愛らしい)
 異形だ。子犬の形をした、小さな異形が富士野の背中におぶさっている。
 (ご主人……それとも、奥様のでしょうかねえ?)
 簪の視線に気付いたのだろうか。物言わぬ亜麻色の子犬――柴犬に似ている――が振り返り、くるんと丸めたしっぽをふりふりと動かす。愛嬌のある黒い瞳に簪の口許が思わず緩んだ。
 「それじゃあ、こちらの藍染の生地で仕立てていただけるかしら。柔らかくて良さそうだし」
 「かしこまりました。こちらの白糸で刺繍を施してはいかがでしょう? 生地に映えるお色かと思いますが」
 「そうね、素敵。あなた、これでお願いしましょうよ」
 「そうだな」
 どうやら商談が成立したらしい。簪は申込用の台帳を出してきて会話の輪に加わった。恭しく差し出した筆と硯を富士野が受け取り、微笑を浮かべながら達者な手蹟で筆を走らせる。
 「本当にありがとう。出来上がるのが楽しみだわ」
 すっかり打ち解けたらしい妻が雪乃に笑顔を向ける。見たところ年齢も雪乃とさほど変わらないようだ。若い女性同士、華やかに話が弾んだのだろう。
 「こちらこそ、幸せな気分のおすそ分けをいただきまして。元気なお子様が生まれるようにお祈りしております」
 「生まれたら主人と一緒に顔を見せに来てもいいかしら?」
 「本当ですの? それは楽しみですこと」
 「ええ、約束するわ。所で、あなたお一人? お年頃だし、器量もいいし……いい人なんかはいないのかしら?」
 お決まりの問いに苦笑したのは雪乃ではなく簪であった。世間というのはえてして下世話で、発想が貧困なものだ。年頃の男女を見ればやれ縁談だ、いい相手はいないのかと、判で押したように皆が同じことを尋ねる。皆藤の若旦那という地位にある簪自身も嫁だ跡継ぎだと同じような質問を幾度されたか分からない。
 しかし、当の雪乃は接客用の微笑を崩さずにさらりと切り返した。

 「あたくしは石女(うまずめ)にございます。そんな女をもらって下さるような殿方などどこにもいらっしゃいませんわ」

 ぱきんと音を立てて空気が凍った。
 富士野夫妻は軽く息を呑み、簪は幾度か目をしばたたかせて雪乃に視線を向ける。気まずい空気の中心で、雪乃は静かな笑みを湛えたままだ。

 「あ――」
 居心地の悪い沈黙を破ったのは富士野であった。手元が狂ったのだろう、それまで紙の上をすらすらと走っていた筆が滑り、べちゃりと嫌な音を立てて墨が広がった。
 「ああ、申し訳ない――」
 白い紙と手袋の上に散った墨に些か動揺しているようだ。静かな微笑みがかすかにこわばっている。
 「大丈夫ですか? そちらの手袋に墨が……こちらで洗わせていただきますわ、よろしければ拝借を」
 「いえ、これは汚れてもいいんです。平気ですから」
 点々と墨が飛び散った手袋を雪乃の視界から隠すように背中に回し、富士野は微笑を浮かべる。雪乃は「では拭くものを持って参ります」と立ち上がった。
 「そう。子供が産めない体なのね」
 手拭いを取りに店の奥に入っていく雪乃の背中を見送りながら妻がぽつりと呟いた。
 「――お気の毒に」
 悲報にでも接したかのようにわざとらしく眉を寄せ、白い手でそっと口許を覆う妻の姿を簪はさりげなく横目で眺めていた。

 お気の毒に。
 短いその言葉に込められた同情と憐憫、そして――優越感と侮蔑の色。繊手の下の彼女の唇は、どんな表情を形作っていたのだろう。



 若い夫婦が呉服屋から出てくるのを見とめ、娘はさっと物陰に身を潜ませた。
 (産着……赤子)
 きつく結んだ唇がかすかにわななき、歪む。
 妻は膨らんだ腹をいとおしそうに撫でながらゆっくりと歩き、夫は気遣うように妻の背中に軽く手を添える。微笑む夫の手には白い手袋がはめられていた。
 自分の知る彼は手袋などしていなかったというのに。結婚後に新たに身に着いた習慣なのだろうか。
 そう考えて、胸が軋む。
 立ち入りを禁じられた家庭という領域の中で、彼は夫に、父親になっていく。彼がどんどん自分の知らない彼になっていく。
 (駄目)
 己を制するように慌ててかぶりを振る。(駄目。あの人の幸せはあたしの幸せなのだから)
 幸せでいてほしい。いつも笑っていてほしい。その心に偽りはない。
 だけど。
 それでも。
 (ああ)
 つ、と音を立てて、痩せた頬の上を涙が滑っていく。
 亜麻色の子犬がとことことやって来て娘の背中に飛びついた。しかし娘は犬に気付かない。柴の子犬の姿をした異形が娘の目に映ることはない。それでも犬はふりふりとしっぽを動かし、娘の頬に小さな鼻を押し当てる。
 (やや子。あの人のやや子。あたしは……あたしは、あたしは)
 涙を流す娘に寄り添っているのは子犬の異形だけであった。



 身重の妻と付き添いの夫を見送った直後、唐突に背後から近寄ってきた足音に簪はかすかに呼吸を乱した。
 「やっと帰ったか。ずいぶん長話をしていったもんだ」
 若い夫婦が帰ったのを見計らうようにして、弟が店の奥から顔を出したのである。
 (また……今日も)
 弟の体には相変わらずめくらの異形が巻きついていて、鎌首をもたげて簪を見つめている。女の肌のように白く滑らかなおろちには眼窩のようなくぼみすら存在しない。それでも不気味な大蛇は簪をひたと見据え、視線を逸らさないのだ。
 「坊ちゃん。失礼いたしました、お帰りに気付きませんで」
 雪乃が慌てて腰を浮かすが、弟は「いい、いい」と苦笑で彼女を制する。
 「客の声が聞こえたから勝手口から入ったんだ。たまに早く帰って来てみればちょうど来客中とはな」
 きまり悪そうに肩を揺する弟の脇を無言ですり抜け、簪は帳簿と筆記用具一式を片付けるために店の奥へと入っていく。
 「お帰りの一言もなしか、若旦那さん」
 からかうように追いかけてくる声を無視し、引出しを開けて用具をしまい込む。そしてまた弟の脇を通り抜けて店へと戻った。
 「あの夫婦、何を注文していったんだ?」
 「へぇ。産着ですが」
 「夫婦揃って産着を選びに、か。仲の良いことだ」
 弟が素直に漏らす感想に相槌を打つこともせず、簪は陳列された反物や小物を黙々と並べ直す。見るまい見るまいと努めても、弟の肩越しにちろちろと舌を出すめくらの白蛇の姿がどうしても視界に映り込む。
 「あなたも早く身を固めたらどうです」
 だから、弟に背を向けたまま無愛想にそんなことを言った。
 雪乃の前で結婚の話題を出すなど、些か配慮に欠ける発言であろう。平素の簪であればそんな不用意な言動はしなかったはずだ。しかし弟に巻きつくめくらの大蛇の姿が簪の冷静さを奪った。弟を締め上げる蛇の姿が瞼の裏に瞬いて、言いようのない狼狽に襲われた。
 だが、当の雪乃は淡々と帳簿の整理をしている。以前弟に「縁談は来ないのか」と訊かれて笑顔でかわしていたくらいだから、もうすっかり慣れてしまっているのだろう。もっと辛辣な言葉を軽蔑や悪意とともに投げつける人間はいくらでもいるものだ。
 「よせよ、簪さんまで。親父から言われるだけでもうんざりだっていうのに」
 「大旦那様もあなたのことが心配なのですよ。あのお歳です、そろそろ隠居したがっているでしょうに。早く安心させておあげなさい。いつまでもふらふら出歩いている場合ではないでしょう」
 「何だって?」
 背を向けられたまま次々とぶつけられる言葉に滲む棘を敏感に察知したのだろう。弟の眉が険悪な音を立てて跳ね上がった。
 「若旦那さん、よろしいじゃありませんか。坊ちゃんには坊ちゃんのお考えがありますもの」
 「あなたもいい加減いい歳でしょうに。皆藤の子息という立場を少しはお考えなさいな。自分の望みだけを押し通す、そんな身勝手な振舞いが許されるのは子供だけです」
 とりなすように口を挟んだ雪乃を無視し、簪はぴしゃりと言い放った。
 ほんのかすかに瞳を震わせて。まるで、弟ではなく己に言い聞かせるかのように。
 「……悪かったな」
 気まずい沈黙。一瞬後で、弟はちっと舌を鳴らして簪に背を向ける。
 「なら、望み通り嫁でも探しに行って来るさ」
 そして、大蛇の異形を背負ったまま荒々しく床を踏んで再び外に出て行ってしまった。
 「放っておいてやってくださいまし」
 慌てて弟を追おうとする雪乃を制し、簪は小さく息を吐き出す。「いい薬です。いつまでもこのままというわけにはいきませんしねえ」
 それに、と軽く顎を引いて静かに視線を向ける。
 「弟についていた“あれ”のことはどうか他言無用に願います。良からぬ誤解を与えかねませんから」
 「……“あれ”がついていたから、坊ちゃんにあんな態度を?」
 簪は唇だけでごくごく浅く笑んでみせた。
 「雪乃さんにも“あれ”が見えるんでしたねえ。さっきの若奥さんについていたものも見えましたか?」
 「ええ。可愛らしい子犬の形をしておりましたわね。ただ」
 そこでいったん言葉を切った雪乃はふと眉を曇らせる。「あれは……もしかすると、あまりよろしくないものかも知れません」
 「あんな可愛い子犬が、ですか?」
 「人は見かけによりませんもの。異形もまた同じこと――」
 滑らかな漆黒の瞳をすっと細め、雪乃はちょっぴり切なげに眉尻を下げる。「心というものは一筋縄ではいきませんわ。玉虫の羽のように、見る角度によって色合いを変えるもの……目に見える異形の姿は心のほんの一端。もっとも、それも心の欠片であることには変わらないのでしょうけど」
 店の前で足音が止まり、新たな客が入ってくる。雪乃はいつものように元気に挨拶をし、柔らかなスカートを軽やかに翻して接客に向かった。



 「おとん、変なにおいがしよる!」
 愛娘がたどたどしく放った一言は子煩悩な父親の心を抉るには充分すぎた。言葉を覚えたばかりの娘が大人ぶって眉を顰めた表情までもが今もはっきりと思い出せる。一回りほど年下の妻はといえば、娘と一緒になってこちらを指差して笑っていた。
 (父親を悪臭扱いするたぁ……)
 子供というのは無邪気で正直だ。そして純粋ゆえに残酷なものである。酒や汗とともに半生を過ごしてきたような間明(まぎら)は元々身なりに気を使うほうではない。四十を超えて尚その有様では“変なにおい”がするのも無理からぬことだろう。
 娘は「そのにおい、嫌や」とこれ見よがしに鼻をつまみ、妻は「あぁクサイクサイ」と屁でも払うかのように手をひらひらとさせた。半ば追い出されるように家を出た間明は知人の男を誘って一杯引っかけ、人気(ひとけ)のない夜道を歩きながら酔いを覚ましている。酔いを残したまま帰ってはまた娘に嫌がられる。それだけは何としても避けなければいけない(臭いがつくのが嫌ならそもそも酒など呑まなければ良いという理屈はこの男には通用しない)。
 「変なにおいがしよるー」
 隣を歩いている男が不意に幼い声で言った。からかうようなその物言いは娘の口調を真似てのことらしい。舌打ちして斜めに睨みつけると、皆藤家の子息である長身の彼はいたずらっぽく笑んでみせた。
 「ったく。どいつもこいつも口ばっかり達者になりやがる」
 「そいつは俺のことか? それとも娘さん?」
 「どっちもだ。ついでにうちのカミさんもな」
 苦々しい表情とともにそう吐き出すと、ほろ酔いの男は声を上げて笑った。 
 「間明さんも人の親か。月日が流れるのは早いものだ」
 「ふん。おまえさんもとっとと身を固めたらどうだ、名家の名が泣くぜ」
 「間明さんまでその話か。あいにくだが当分はそんな気はない、簪さんにはうるさく言われるが」
 「ニイさんがか?」
 意外だな、と間明は軽く唸って腕を組む。
 簪と顔を合わせる機会もめっきり減った。皆藤の若旦那ともあろう男が自分のような人間と親しくしているところを見られては差し障りがあるのではないかという間明なりの配慮である。
 皆藤の御曹子である弟とて似たような立場であるはずだが、この男の場合は生来の遊び癖ゆえか半ば放任されているのが現状だ。皆藤の大旦那ももはや諦めの境地に達しているのかも知れない。
 「あのニイさんはそんなケツの穴の小せえ男にゃ見えねえがなぁ」
 「近頃様子がおかしい。やけに口うるさくなった。“さっさといい人を見つけて皆藤の当主におなりなさい、大旦那様を早く安心させてやったらどうですか”……だと」
 異父兄の声色を真似た男はひょいと肩をすくめてみせる。間明は唇の端からこぼれた笑みに滲む寂寥感を敏感に読み取ったが、気付かないふりをした。
 「――俺が疎ましいんだろうか、簪さんは」 
 だが次の瞬間、ふと落とされた抑揚のない声にひょいと眉を持ち上げる。
 「急に冷たくなった。素っ気なくなった、とでもいうのか? 愛想がなくなってな」
 「何かあったんじゃねえのか? 伝統ある老舗の切り盛りを任されて気疲れしてるのかも知れねえぜ」
 「最初はそうだと思ったんだが。雪乃さんや店の客には相変わらずにこにこしているし……俺の父にだって笑顔で接している」
 俺だけを突き放すのだと男は短く付け加え、息を吐き出した。
 「ふーむ。複雑な親心ってやつかねぇ」
 「親心」
 怪訝そうに反復する男に、間明は半ば冗談めかしたしぐさで片目を瞑ってみせた。
 「兄貴っていうよりおまえさんの親だろ、あのニイさんは。いつも自分のことよりおまえさんのことを考えてる。無償かつ無条件でな。そんな割に合わねえ愛情を注げるのは親くらいのもんだ」
 「……そうだな。その通りだ」
 「ま、あんまり深刻に考えねえこった。家族ってなぁ色々あって当たり前だぜ」
 「実感と含蓄のあるお言葉で」
 「ほっとけ」
 わざと大きな音を立てて男の背を豪快に叩いた間明であったが、ふとその眉が中央に寄る。
 「どうした?」
 間明の様子に気付いた男も足を止め、首をかしげた。間明は生返事をしながら注意深く周囲の気配を探る。
 男のほうも気付いたらしい。めぐらせた視線がはたと止まり、脇道の藪の中に隠れるようにして敷設されている石段の上に落ちる。 
 神社のようだ。長い石段が闇の中へと真っ直ぐに伸びている。両脇から石段を覆い隠すように伸びている背の低い灌木のせいではっきりとは知れないが、人がすれ違える程度の幅はあるだろうか。
 ――それにしても、何事であろう。やけに湿った風が下りてくる。緩やかながらもひゅうひゅうと音を立てるその風は囁きやすすり泣きの声にも似ているが、人間の持つ息吹とは些か異質であるようだ。
 潮が引くように酔いが失せた間明の顔にかすかな緊張が満ちる。
 人と違う能力を持つ間明には分かる。これは、この気配は、恐らく――異形。それも、それなりに強い力を持つ異形だ。
 「誰かいるのか。こんな刻限に」
 一方、男はそちらの方面の能力を持たない。それでも石段の上に誰かがいる気配は察しているらしく、様子を探るように腕組みをして暗闇を睨み上げている。
 「おまえさん、先に帰ってな。俺はちょっと行って様子見てくらぁ」
 「俺も行く」
 日焼けした男の面(おもて)を不敵な笑みが彩る。「腕っ節なら間明さんより役に立つぞ」
 「腕っ節だけじゃ済まねぇかも知れないから言ってるんだがな……」
 若いもんは血の気が多くていけねえやと苦笑いしつつも間明は男の申し出を受けた。確かに異形と一緒に人間の気配も感じられる。といってもせいぜい一人だろうが、巧妙に気配を断って隠れているという可能性もないとは言い切れまい。
 どちらからともなく軽い目配せを交わす。それだけで充分であった。
 二人は息を合わせて石段を一気に駆け上がった。わざと大きな足音を立てて見えない相手の狼狽と混乱を誘うためだ。案の定、境内に潜んでいた何者かが物音を立てて惑う気配が伝わってくる。
 先んじたのは男であった。若さゆえの体力の差であろう。石段を二段飛ばしに駆け上がり、それほど息を乱すこともなく境内へと躍り出る。間明も肩を上下させながら数歩遅れて到達した。
 簡素なものだ。腰まで伸びた雑草に、小さな本殿。敷き詰められた石畳の隙間からも雑草が生え伸びている。頭上を覆う木々の葉は黒く、暗い。風はやんでいるのに葉擦れの音を立てているのはどういうわけか。
 だが――やはり誰かいたようだ。よくよく目を凝らせば所々雑草が踏まれて倒れているのが分かる。ざざざ、という足音が遠ざかって行くのが聞こえた。
 「裏に逃げたか」
 男は素早く方向を見定め、息の上がっている間明を尻目に駆け出す。本殿の裏手に回るつもりのようだ。間明も後を追おうとして――足を止めた。
 湿った風はいつの間にかやんでいる。苔と土の匂いに包まれた境内は耳が痛いほどの静寂に満ちていた。じっとりとした闇の中に佇む朽ちた本殿の姿はひどく無機質で、薄気味が悪い。
 傾いた祠の扉がぎいと軋んだ。その音は風のいたずらにしてはやけに大きく闇の中に響いた。ご神体であろう、祠の中に小さな影がちらりとのぞく。その影がかすかに動いたように見えたのは何の錯覚なのだろうか。
 ざわざわと、頭上で黒い木々が囁いている。
 ぞわぞわと、まるで闇が這いずっているかのようだ。
 たとえようのない悪寒が背筋を這い上がり、間明はきつく眉を寄せる。
 「間明さん、来てくれ」
 しかし次の瞬間、本殿の裏に回った男の声によって静寂は破られた。
 本殿の裏は無秩序な藪だった。しかし雑草や低木が踏みしだかれてかすかな道ができている。その途中で男がしゃがみ込み、地面に落ちた何かを検分していた。
 「……こいつぁ……」
 間明はわずかに音を立てて息を吸い込んだ。 
 それは藁の塊であった。藁で編まれた、成人の両手におさまるほどの簡素なヒトガタであった。さしずめ“呪いの藁人形”。
 それだけならばさして珍しくもない。不気味であることには変わりないが、夜の神社では時折見かけられる光景だ。ましてや異形を見る能力を持つ間明は恨みや憎しみという情に接する機会が一般人よりも多い。このような藁人形を目にしたことも幾度かあったし、ある意味では見慣れているはずであった。
 ただ――目の前のこの人形は、ひどく凄惨だった。
 釘が生えているのである。十や二十ではきかない数の釘が、腹部だけに集中して突き立てられているのである。まるで生け花に用いる剣山のように、太い釘がびっしりと人形の腹を刺し貫いているのだ。
 「ひどいもんだ」
 人形を拾い上げた男の手の中で藁がほどけた。執拗に引き裂かれた腹部はほとほとと崩れ落ち、頭の部分だけが手の中に残る。冷たい音を立てて地面に転がった釘はどれも曲がり、頭がひしゃげ、先端が潰れている。
 「よっぽど恨みがあるのか……普通に打ち込んだだけじゃこんなふうに釘が潰れたりしねぇだろう」
 釘の一本をつまみ上げると粘ついたような感触があった。鈍色の釘にまとわりつく暗赤色の液体を見とめ、傍らの男も幾度か目をしばたたかせる。黒ずんだ血糊は間明の指と釘の間で濃密な糸を引きながら地面へと垂れた。見れば人形を形作っていた藁にも同じ色に染められている。
 「まさかこの人形が血を流したってわけでもねえだろうが……」
 「よしてくれ」
 たちの悪い冗談にでも聞こえたのであろうか、男は薄気味悪そうに眉を寄せる。
 (さて……どうしたもんか。異形も一緒に逃げちまったのかねえ)
 また少し風が出てきたようだ。湿気を含んだ重い風がゆるゆると足下にまとわりついていく。
 かすかに寒気を感じて袖の下に手を突っ込んだ間明はふと顔を上げた。

 どこかで犬が「くーん」と鼻を鳴らしたような気がした。
 異形というものは声を出さない。それは声や音というより異形という存在が持つ息吹そのもので――まるで子犬のような、ひどくあどけない気配であった。



 その娘が訪れたのは富士野夫妻の来店から数日と経たぬある日のことであった。
 「多紀(たき)ちゃん。お久しぶり」
 彼女の来店にぱっと顔を輝かせたのは雪乃だ。多紀と呼ばれた娘もかすかに笑んで雪乃に小さく手を振り返す。
 「どうしたの、しばらく顔も見せないから心配していたのよ」
 「ごめんなさい。色々あって……」
 多紀はちょっぴり疲れたように微笑んだ。雪乃も「そう」と悲しげに眉を寄せて多紀の手を取る。平素とは違うくだけた雪乃の口調に目をぱちくりさせつつ、簪は二人に歩み寄った。
 「雪乃さんのお知り合いで?」
 「ええ。大事なお友達ですわ」
 紹介されて、多紀も軽く頭を下げる。簡素ながらも質の良い和服に身を包んで髪を結い上げた彼女は雪乃とほぼ同じ年頃であろうか。褪せた色の唇とこけた頬のせいでやや年嵩に見えなくもないが、滑らかな肌は彼女の若さを控え目に物語っていた。
 「それで多紀ちゃん、今日はどうしたの? お店にご用?」
 「ええ。産着を選びに」
 「産着?」
 雪乃の眉にかすかな戸惑いの色が乗る。多紀は小さく肯いて若旦那の簪に向き直った。
 「先日富士野様が注文された産着と同等の物をくださいませんか。あたし、富士野様の……知り合いなんです」
 多紀はそこで一瞬言葉を詰まらせ、目を伏せた。その後で「奥様のご懐妊のお祝いにと思って」と付け加える。
 「富士野様のお品はお仕立てでして。同等の素材を用いて同等の品質の物をとなりますと、ご注文を承って仕立てさせていただかなければなりませんが」
 「構いません。お願いします」
 「へぇ。ただ、お値段も少々……」
 「お金はちゃんと用意してあります」
 しかし、簪の言葉を遮るように多紀は言い切った。体の前で両手が幾度か組み替えられ、やがて意志を固めるように動きが止まる。
 「あたし、富士野様にはたいへんお世話になったので……ちゃんとお祝いの品をお贈りしたいんです」
 消え入るような声に滲む確かな意志を読み取って、雪乃は軽く唇を結び、簪は緩やかに微笑んだ。
 「かしこまりました。こちらへどうぞ、まずは生地をお選びくださいまし」
 「よろしければ見立てていただけませんか? 実際に富士野様の注文を受けたお店の方に選んでいただくほうが確実でしょうし」
 「へぇ、それではお手伝いさせていただきます」
 簪は若い多紀を安心させるようにもう一度微笑み、彼女を店の奥へと促した。そこへ新たな客が訪れ、雪乃はそちらの応対に回る。
 あれから弟とはろくに言葉も交わしていない。彼は毎日きちんと帰宅しているが、簪が避けていた。顔を合わせるのが怖かった。あの大蛇の異形の姿がまた見えてしまったらと思うと、目を合わせるのすら躊躇われた。先日間明と一緒に神社で気味の悪い物を見たと聞かされた時でさえ適当に相槌を打ちながら聞き流した。
 雪乃はそんな兄弟を心配し、なにくれとなく気を遣ってくれた。簪だけではなく弟のほうにもなにがしかの言葉をかけているようだ。そんな心遣いをありがたいと思いつつも、簪はいつも微笑でかわすだけだった。雪乃の目にもあの異形が見えているのだ。自分の奥の奥の一番見られたくない部分を彼女の前に晒しているようで、羞恥とも嫌悪ともつかぬ感情が胸の辺りにべったり貼りついて離れない。
 「さすが皆藤さんのお店ですね。良い物ばかり……こちらは木綿ですか?」
 「ええ。どうぞお手に取ってお確かめくださいまし。柔らかさが自慢でしてねぇ」
 多紀の前に立っていても心は別の空に飛んでいる。もっとも、だからと言って仕事で手違いをやらかすほど未熟ではないのが簪の簪たるゆえんだ。
 「富士野様が注文なさったのはどの生地でしょう?」
 「こちらの藍染を主体に、この白糸で刺繍を入れてほしいとのご注文でした」
 「そうですか……確かに、いいお品ですね」
 袖から控え目に覗く手が深い藍をそっと撫でる。
 (おや)
 微笑を絶やさぬまま、簪はふと内心で首をかしげる。
 手触りを確かめるように、あるいはいとおしむように二度、三度と生地の上を往復する多紀の手はかすかに震えていた。
 「富士野様のやや子はこの生地に包まれるのですね」
 震える爪がきゅっと音を立てて生地を引っ掻く。男の背中に食い込む女の爪のように、きつく、甘く。
 決して傷つけぬよう密やかに、しかし、己が存在を刻み込むかのように。狂おしいほどの激情を孕んだ指先は奇妙に艶かしく、生まれたばかりの夜の色をした生地を静かに絡め取っていく。
 「すみませんが……お品は優しく扱っていただけますでしょうかねぇ」
 「あ、ごめんなさ――」
 簪の穏やかな指摘に多紀はびくっと身を震わせた。白い手の中で藍色がばさりとほどけ、緩やかな弧をえがく。
 がたん、という大きな音。簪の目が、雪乃の視線が、雪乃の接客を受けていた客の眼差しが、一斉に多紀へと集まった。
 「あ……失礼しました、手が滑って……」
 「いえいえ、大丈夫ですよ。おみ足にぶつかりませんでしたか?」
 「あたし、あたし……」
 落下した反物を拾おうと腰をかがめた簪は、多紀の声が不自然なまでに震えていることに気付いて目を上げた。
 彼女の顔は幾分青ざめているようだった。わななく唇を隠すように手で覆い、長い睫毛を震わせて視線を伏せる様はただごとではない。
 (何をそこまで……)
 首をかしげた時、視界の隅に不意に茶の色彩が映り込んだ。
 犬だ。どこから入ってきたのだろうか、とたとたと子犬が歩いてくる。柴犬のような姿の異形が。
 異形と呼ぶのがためらわれるほど愛らしいそれは丸めたしっぽをふりふりとさせ、多紀の背中にぴょんとおぶさった。しかし多紀がそれに気付く様子はない。子犬の姿が多紀の目に見えることは決してない。
 簪の視線に気付いたのだろうか、異形がことりと首を傾けてみせる。
 (どうして多紀さんに……それとも、これは多紀さんの)
 物言わぬ子犬を見つめる簪もまた首を傾げるしかなかった。



 神に縋ったところで子を授かれるとは思わない。もしも神というものが真に幸福を与えてくれる存在であるならば、そもそも子宝を切望する人間の体が不妊症であることの説明がつかないではないか。
 (だけど――)
 そっとかがみ込み、闇の底に放り出された“それ”に手を触れる。
 (溺れる者は藁をも掴む……というものね)
 だからこそここに通い詰めたのだろう。人目につかぬこの打ち捨てられた神社を選んだのも相手の男の立場を慮ってのこと。妻になる女が石女だと知れれば最愛の男も同情と侮蔑の目で見られることになるのだから。
 誰にも相談できず、己一人で抱え込むことしかできなかった。子宝の祈願でさえも人目につかぬこんな神社を選んでこっそり行うしかなかった。
 それなのに、ああ。
 (ねえ)
 整えられた眉がぎゅっと寄せられ、白い顔が苦悶に歪む。
 「本当に……他に方法はなかったんですの?」
 声に出して問うても、草木と闇がざわざわと鳴るだけ。
 白い指が切なげに撫でるのは――血と釘にまみれた藁人形。



 使わなくなったとはいえ、時には笈を開けてみることもある。時には自室で大切な品と記憶を慈しみたくなることもある。
 丈夫な木の板に囲まれた四角い空間は外界とは遮断され、この笈の中だけは時が止まっているかのようだ。あの頃の時間と空気が溢れんばかりに詰まっている。買い付けたはいいものの、思いのほか気に入ってしまって売りに出すことをやめた品。自らの手で作った品。あの品はあの町の奥さんが買ってくれて、あそこの宿場の旦那さんからあんな注文を受けて……。何とはなしに笈の中身を出して並べれば次々と思い出が蘇る。
 そして、母が愛用していた品。
 「執着。貪る……ですか」
 母はこれらの装飾品を身に着けて仕事に出ていたのだろう。だが、仕事を離れて一人の男のために着飾ったこともあったはずだ。
 (母はどんな気持ちで愛したのでしょう)
 誰を、とはあえて言わぬ。
 仏教の世界では、愛という語は貪る、執着するといった意味を持つという。
 (ならば、あちきは……)
 胸が甘くつかえて、苦しい。少しでも空気を吸おうと喉を持ち上げれば冷えた夜気が肺の隅々まで広がっていく。

 ああ。
 この葛湯のような感情が芽生えたのはいつからであったのだろう。

 ずるずると、蛇が這う音が聞こえたような気がする。
 じわじわと、全身が締め付けられるような気がする。
 締め上げられて殺されてしまえば良い。
 いっそこのまま――

 「邪魔するぞ」

 そんな感慨に捉われていたものだから、唐突に部屋に入って来た弟に飛び上がりそうになったのも無理もない。
 出かかった悲鳴をごくりと飲み下して振り返ると、部屋着代わりの浴衣に身を包んだ弟が仏頂面で立っていた。

 「……何ですか、人の部屋にずかずかと。声くらいかけたらどうです」
 「ふん。声をかけたら入れてくれないだろうが」
 弟はどっかりと簪の前に胡坐をかいた。その様子をちらりとうかがった簪はそっと安堵の吐息をこぼす。どういうからくりがあるのか知らないが、今日はあのおろちの姿は見当たらない。
 夜の帳の上に分厚い沈黙の緞帳が下りる。
 簪は横を向き、取り出した品々を丁寧に笈の中にしまい込んでいく。言葉を探すように腕を組んで黙り込んでいた弟は見るともなしに簪の手許を眺めている。
 だが、不意に何かを思い出したように「なあ」と口を開いた。
 「何ですか」
 「何か欲しい物はないのか?」
 「はぁ?」
 またその話かとでも言いたげに眉を寄せて顔を振り向ければ、苦虫を噛み潰したような弟の顔がある。
 「まあ、何だ。今食べたい物とか、その程度でいいんだが」
 「何ですか、急に。今食べたい物と言われても……」
 首を傾げてしばし考え込んでみるが、改めて問われると咄嗟には思いつかない。
 「さて……特にありませんがねえ。あなたの食べたい物でいいですよ」
 「あのな、食いたい物くらい言ったらどうだ」
 「だから言っているじゃありませんか、あなたの好きな物で良いと」
 ちっと弟が軽く舌打ちした。弟が「煎餅くらい要求してくれればいいんだが」と口の中で呟いたのも、弟の視線が笈から覗く残りわずかな煎餅の袋に向けられていたことにも簪は気付かない。
 だが空気が気まずさを増したことだけは簪にも感じ取れた。
 「お茶でも淹れましょうか」
 と独りごちて腰を浮かしかけたものの、手首を弟にぐいと掴まれて体がかしぐ。
 「……何ですか」
 「逃げるな」
 「逃げてなどいません」
 「そんなに俺が嫌か」
 「誰が――」
 誰がそんなことを言いました?
 胸につかえたその言葉は決して声にはならない。声にすることなどできやしない。代わりに軽く顎を引いて弟を見据えると、弟は軽く舌を鳴らしてふいと目を逸らしてしまう。
 「……いや。こんな話をしに来たわけではない。用があって来たんだ、席を外されちゃ困る。――神社の藁人形の話、覚えているか?」
 「ああ……先日間明さんと一緒に見たというあれでしょう?」
 「何だ、ちゃんと覚えているのか」
 意外そうに眉を持ち上げる弟に簪はちょっと苦笑してみせた。確かに愛想のない相槌を打ちながら背中で聞いていただけだが、客商売という職業柄、何気ない話題であっても記憶していることが多い。荒れ果てた神社に残された藁人形と血まみれの釘という奇異な組み合わせであれば尚更だ。
 「その件に関して間明さんがあんたに会いたいって言ってるんだ。今から一緒に出られるか?」
 「へぇ、構いませんが」
 簪の表情が初めて緩む。「間明さんと会うのも久し振りですね」
 「気を遣っているらしい。皆藤の若旦那サマともあろう者が自分のような人間と一緒にいる所を見られてはまずいだろう、とさ」
 皮肉っぽく唇の端を持ち上げる弟に、簪はちょっと眉を寄せて応じただけだった。
 間明は店から少し離れた場所で待っていた。以前と同じように「よう、ニイさん」と手を振る姿に懐かしさと安堵を覚え、思わずほんの少し相好を崩す。
 「――ってわけよ。弟からも簡単に聞いてるかも知れねえが」
 「事情は大体分かりましたが、どうしてあちきに?」
 つぶさに経緯を聞いた後で簪は軽く首をかしげる。間明は「いや、実はな」と歯切れの悪い前置きをして腕を組んだ。
 「あの後も俺一人で何回か神社に行って様子をうかがってたんだが……ニイさんの店の雪乃嬢を二、三回見かけたんだ」
 唐突にもたらされた予期せぬ事実に兄弟は思わず顔を見合わせた。
 「あんな刻限に若いお嬢さんが一人であんな神社に行くなんざぁ何事かと思ってね」
 「お百度参りのようなものでは? 何かの祈願かも知れません」
 「あんな荒れ果てた神社にご利益があるとは思えないぞ」
 脇から口を挟んだ弟に簪は軽く唸る。その神社を実際に目にしたことがあるわけではないが、間明と弟の話からは打ち捨てられた社という光景しか思い浮かばないからだ。
 「関係あるかどうか分からねえが」
 思案顔の簪をじっと見つめるようにして間明は口を開いた。「その神社、元は子宝成就の神様を祀ってたって話だ」



 赤子に罪はない。
 ぐさり。
 だが、子が欲しかったのか。子を産める女なら誰でも良かったのか。
 ごきり。
 (やめて)
 ぶつり。
 (やめろ。いけない)
 声が聞こえる。
 己が声か、あの人の声か。分からない。分からない、知りたくない、聞きたくない。
 (ああ――ああ、ああああああ)
 ずぶり。
 心を突き刺すような悲鳴は誰のものか。あるいは手の中の藁人形が断末魔を叫んでいるのか。
 「ああ」
 声が震える。釘が突き刺さる。
 「いけない。いけない。いけない……」
 どつっ、と肉を断つ感触。
 手から釘が生えた。
 掌を貫いた釘が、既に幾本もの釘に引き裂かれている人形の腹に突き刺さった。

 あおぉぉぉん。
 耳の奥で犬の声なき咆哮を聞いた気がした。

 どくどくと溢れ出る血液が釘を伝い、人形を暗赤色に染めていく。
 その光景をまるで他人事のように眺めながら、ただぼんやりと闇の底にうずくまるだけだった。



 きんと音を立てそうな夜気は全身を澄み渡らせ、神経を鋭敏にさせる。石段を一段上るごとに、苔と湿気のにおいが濃くなっていくようだ。
 隣には間明、後ろには弟。弟に聞こえぬよう、間明がひそりと問いを落とす。
 「ニイさん。犬に心当たりはあるかい」
 余計な単語を一切加えぬその問いはあまりに言葉足らずであったが、簪はすぐにぴんと来た。
 「……ええ、まあ。お店で幾度か」
 そして「雪乃さんのものとは思えませんが」と短く付け加える。
 間明は答えない。何事かを思案するように鼻の頭をもぞりとうごめかせただけだ。
 「まぁ、百聞は一見に如かず……ってな」
 「……へぇ、その通りで」
 「何をひそひそ話している?」
 背後から半歩遅れて続く弟が二人の会話に割り込んだ。ぶっきらぼうな声音は訝しさ半分、嫉妬が半分といったところか。自分だけのけものにされているとでも感じたのかも知れない。
 「なーに、大人の話ってやつさ。それよかおまえさん、本当に来る気か?」
 「ああ。言っただろう、腕っ節には自信があると。少なくとも簪さんよりは役に立つぜ」
 「勝手になさい」
 簪は不敵に笑う弟からふいと目を背け、足早に石段を昇る。「その代わり、何かあっても自業自得ですよ」
 味も素っ気もない言い方。目をぱちくりさせる間明の顔も、苦い表情で舌打ちする弟の姿も簪の目には入らない。
 石段を昇り切ると打ち捨てられた社が現れた。
 墨色の湿気に沈む小さな境内に人影は見当たらない。しかし気配の残滓とでもいうべきものがそこここに散らばっていて、張り詰めた空気が五感に突き刺さる。
 間明が注意深く気配を探る脇で簪は顎を持ち上げ、頭上に視線を巡らせた。
 背の高い木々の葉は黒く、冷たい。視界を円形に囲む木の枝たちがあるかなしかの風にざわざわと囁く。蠢く葉の隙間から覗く夜空は星ひとつなく、木々の葉よりも更に深く濃い漆黒の色をしていた。
 「急に寒くなったな」
 なにがしかの気配を感じているのであろう。弟がぼそりと呟き、さするようにして己が腕を抱え込む。
 「あら。どなたかと思えば」
 静かな足音とともに軽やかな声が唐突に闇を震わせ、静寂を破った。
 本殿の裏手から出て来たらしい。――漆黒の闇の中にほの白く浮かび上がるのは、雪乃の姿。
 「若旦那さんに坊ちゃん。それとそちらの殿方は……」
 涼やかな視線が兄弟の顔を順番に辿り、最後に間明の上で止まる。「お名前は存じ上げませんが、幾度かあたくしの姿をご覧になっているはずですわね」
 朗らかに微笑みかけられ、間明は「お見通しか」と軽く肩を揺すった。
 「どうかこの先はご遠慮くださいませ」
 雪乃は体の前で両手を揃え、店での接客と同じように丁寧に腰を折った。
 「どんな人間にも他人には知られたくないことがございます。自らの傷に関する事柄であれば尚のこと――」
 顔を上げた雪乃の目がすうと細められ、紅い唇が作り物のように綺麗な笑みを形作る。
 「どうかこの神社で見聞きしたことはお忘れください」
 「じゃあ、おまえさんはこんな刻限にこんな所で何をしてるんだ?」
 「あなた様には関わりのないことでございます」
 間明の問いをするりとかわし、黒曜石のような目がひたと簪に向けられる。
 それは強固な漆黒。静謐ながらも、平素の雪乃からは考えられぬほど激しい意志の色。
 「もちろんお店にも迷惑はかけませんわ。どうか目を瞑ってくださいませ、若旦那さん」
 「……そうですね。場合によってはそれも考えていましたが」
 ひゅうと音を立てて風が吹き、簪は闇の奥を見透かそうとするかのように目を眇める。
 「“それ”を見てしまっては、残念ながらそうもいきませんねぇ」
 雪乃の後ろからとことことやって来たのは子犬の姿をした異形。
 彼女がはっと足許を見下ろしたのは、犬の体が爆ぜるように膨張した直後であった。



 常人が無防備に異形を目にすれば発狂してしまうこともあるという。異形という存在は本来それだけ気味が悪く、醜悪なものであるのだ。だから、あの茶色い柴の子犬のようなものが異形であるとは些か信じ難かった。
 だが、今はどうか。
 もし西洋の地獄の神というものにしもべがいるのならばきっとこんな風貌をしているはずだ。そんなふうに感じるほど、犬の姿は“異形”と呼ぶにふさわしいものになり果てていた。
 「雪乃ちゃん……雪乃ちゃん」
 か細い女の声。肩を押さえながら本殿の裏からよろよろと出てきた娘の姿を見とめ、簪は小さく息を呑む。押さえた肩の辺りが赤黒く濡れ、あまつさえ太い釘が顔を覗かせているように見えるのは目の錯覚なのだろうか?
 「――――――」
 一陣の風がごうと吹き付け、彼女の名を呼ぶ雪乃の声はいともたやすく掻き消されてしまう。
 闇よりも濃い黒をした犬の大きさは大型の牛ほどであろうか。爛々と光る両のまなこに、鈍く光を反射するむき出しの牙。体は陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていて、ひどく醜く、不安定だ。死体から爛れ落ちる腐肉のように、漆黒の塊がぼたりぼたりと絶えず全身から滴り落ちている。
 そして――兇暴に光る双眸からねっとりと溢れる、血と同じ色の涙。
 漆黒の犬は雪乃に支えられた娘に寄り添った。否、張りついた。べったりと背中におぶさり、そのまま彼女を呑み込まんと爛れたあぎとをがばりと開く。
 「ニイさん、弟を連れて裏に回ってくれ。裏にもう一人いる」
 気配を読んだ間明が素早く指示を飛ばす。「ここは俺と雪乃嬢で何とかすらぁ」
 「何ですって」
 娘をかばうように抱きすくめる雪乃の柳眉が跳ね上がった。「余計な手助けなど無用です。彼女はあたくしの大切な友人。あたくし一人で何とかいたしますわ」
 「無償の厚意を受けられるのは若いうちだけだぜ。年増になったら見向きもされねえ、今のうちに甘えときな。それとも、おまえさん一人でカタをつけられるってのかい?」
 わざとおどけるように片目を瞑ってみせる間明に雪乃は軽く唇を噛む。
 「ってわけだ。ニイさんは裏手を頼む」
 それを肯定とみなした間明は簪を振り返り、ニィと笑ってみせる。簪は素直に肯いた。能力を持たぬ弟を連れている以上、この場にいるよりはそちらのほうが安全であろう。それに、これまで幾度となく異形と対峙している間明の身を案じる理由も存在しない。
 「分かりました、それではあちきは裏に。くれぐれもお気をつけて……などという気遣いは不要ですかねえ」
 「は。よく分かってんじゃねぇか、ニイさんよ」
 嬉しいぜ、と間明は愉快そうに声を上げて笑った。
 異形を見る能力を持たぬ弟は目を白黒させているが、あいにくだが事細かに説明している時間はない。簪は「いいから来なさい」とやや乱暴に弟の腕を引いた。



 血が止まらない。このまま止まらなければ良い。いっそこのまま全身の血が流れ出て死んでしまえば良い。
 手の感覚などとうに失われている。幾度も釘に貫かれたとあっては無理もない。前の傷が癒えぬうちにまた釘を打ち込んだ。その傷を隠すために妻の前でも手袋を手放さなかった。
 妻に見立てた藁人形の腹に幾度も幾度も釘を刺した。憎かった。妻が、子が、彼女が、何もかもが憎かった。妻の腹に子さえ宿らなければとすら思って涙を流した。
 だが、一番憎いのは他ならぬ己自身か。一番不甲斐無いのは他でもない自分なのか。
 いけないと、彼女ならきっとそう言った。言われるまでもなくいけないことだと自分でも分かっていた。やめて、いけない、耳の中で響く彼女の声と自分の声に苛まれ、それでも釘を打ち込む右手は止まらなくて、藁人形の前に己が左手をかざした。藁人形を守るようにかざされた左手を、藁人形に向かって振り上げた右手の釘が容赦なく貫いた。
 何もかも分からなくなっていった。
 やり場のない感情が黒々と渦を巻き、ずくずくと音を立てながら全身を侵食していった。
 身の内に巣食った“それ”が自分の肉を食らい、どんどん肥大していく様を感じながら妻に笑顔を向け続けた。そうしなければいけなかった。だから、いつしか顔が能面のようにこわばり、笑った表情しか作れなくなったことにも気付かなかった。
 かつてこの神社に通い詰めていた彼女もこの行いに薄々気付いていたらしい。そしてとうとう今宵、藁人形に釘を打ち込んでいる最中に彼女が現れた。
 いけない、やめてと彼女は泣いて縋った。だがそれを振り払った。彼女は藁人形をかばうように身を投げ出し、藁人形に代わって肩を釘に貫かれた。
 「もし。――大丈夫ですか?」
 不意に穏やかな声に呼ばれ、びくりと身を震わせる。
 のろのろと顔を上げると、立っていたのは青年二人。一人は呉服屋・皆藤の若旦那であった。



 「ああ……若旦那さん。奇遇ですね、こんな所で」
 穏やかな笑みを浮かべながら立ち上がった富士野に簪は息を呑んだ。
 赤黒い血と肉に塗れた左手を見ても、そこにしっかりと握られた藁人形を見ても、地面に散らばる釘や金槌を見てもさして動揺しなかった。予想していたことだからだ。
 だが、富士野のこの笑顔はどうか。
 顔の上で固まっているようなこの微笑はどういうことか。
 弟が無言で一歩進み出た。簪を背に庇うようにして富士野を睨みつける。しかし富士野は警戒と敵意をむき出しにした弟にも変わらぬ笑顔を向けるのだ。
 まるで、微笑以外の表情をすべて忘れてしまったかのように。
 「一体どういう事情がおありなのです?」
 簪は弟の横に並んで単刀直入に切り出した。「はい?」と富士野は緩やかに微笑む。作り物めいた微笑に寒気を覚えつつ簪は言葉を継いだ。
 「個人的なことなのでしょうし、話したくなければ結構……と言えれば良かったのですがねぇ。しかし、状況が状況でして」
 「若旦那さんには関係のないことです」
 「そうもいきません。多紀さんが怪我をしているのを見てしまいました。それに」
 簪の視線がちらと富士野の左手に向かう。「その藁人形と釘。多紀さんの怪我と無関係とは思えません」
 「庇ったんですよ」
 「へぇ?」
 「庇ったんですよ、彼女は。僕の妻を。こんな人形に釘を打って妻を貶めるような真似などやめてほしいと」
 人形を握り締めた左手がぎちぎちと震え、藁に刺さった釘の先端が掌にずぶずぶと食い込んで行く。
 「彼女はいつもそうでした。僕のためにというのが口癖でした。自分は石女だから跡継ぎを産めない、だから子供を産める女と一緒になれと。それが僕の幸せなのだと。そう言ってあっさり僕の元を去りました」
 ざあっと風が吹き、草木が、闇が、ざわざわと音を立てる。
 「僕は……彼女の体のことも全部知っていました、それでも彼女を愛していました。子など授からなくとも彼女が僕のそばにいてくれれば良いとまで思っていました。だけどきっと彼女は僕を愛してはいなかった。だからああもあっさり――」
 「それはどうでしょう?」
 簪は静かに富士野の言葉を遮った。「男女の情など所詮は水物。永久(とわ)の契りなど所詮はまやかし。しかし、そう簡単に割り切れるとは思いません」
 そして穏やかに、しかしきっぱりと言い切った。
 「先日、多紀さんがお店にいらっしゃいました」
 相変わらず笑顔に硬直したままの富士野の頬がぴくりと震える。
 「富士野さんに産着をお送りしたかったそうで。富士野さんに相応しい物をと、少し無理をして高価な生地をお選びになっていました。ちゃんとお祝いを贈りたいのだとおっしゃっていましたが……ひどく複雑な顔をしておられましてねぇ」
 滑らかな生地に爪を立てる多紀の指先が忘れられない。
 切なくも甘く、静かながらも激しく。愛する男の幸せを素直に祝福したくて、だけど割り切れない思いがくすぶっていることも確かで、それでも懸命に自分の中で折り合いをつけようとして。倒錯して矛盾した感情に苛まれながら多紀は産着を選んだはずだ。
 富士野の面(おもて)は静かにこわばったままだ。引きつったような笑みを穏やかに浮かべ、無言で佇んでいる。
 「なぁ、あんた」
 それまで黙っていた弟が初めて口を開く。余計なことは言うなと簪が目配せするが、弟は知らん顔だ。
 「祝言を挙げて子を授かって、それでもその女のことを忘れられないのなら」
 弟はぎりっと歯を鳴らした。「どうしてその女と一緒にならなかった」
 「およしなさい」
 富士野の微笑がぎちりと音を立てて痙攣し、簪はそっと弟の袖を引く。しかし弟は止まらない。簪の手を振り払い、つかつかと富士野に歩み寄って胸倉を掴む。
 「好き合っているならさらって逃げるくらいの根性を見せてみろ、それが男ってもんだろうが! その女もそうだ! あんたのことが本当に欲しいなら、全部奪って自分のものにしてしまえば良かったんじゃないのか!」

 (ああ――)
 ひどく甘い痛みを覚え、簪は我知らず己が胸を掴む。
 富士野に投げつけられる言の葉が、どうしてこんなにも心を震わせるのだろう。

 「相手のためだとか、相手の幸せだとか」
 胸倉を掴んだ弟の手が小刻みに震えている。両手できつく富士野の着衣を握り締め、長身の彼は身をかがめるようにして声を詰まらせる。
 「自分は。肝心の自分の気持ちはどうなんだ。本心を殺して、仕方がないと笑って、それで満足か! あんたもその女もそれで満足か! あんたたちはそれで幸せになれたのか!」
 苦しげに丸まった背中を見つめながら、簪の心が、全身が、ぎしぎしと音を立てる。
 「あんたは……あんたは」
 先に慟哭したのはどちらであったか。
 富士野と弟は同時にその場に崩れ落ちた。弟は声を上げて泣き、富士野は微笑で固まった顔のまま涙を流していた。
 ばたばたと複数の足音が駆けてくる。まず間明が、続いて雪乃が顔を見せた。間明の背に負われた多紀は蒼白な顔で目を閉じているが、気を失っているだけのようだ。 
 「どういうこった?」
 抱き合うようにして泣きじゃくる男二人を見下ろし、間明は首をかしげた。
 「へぇ……ちょっと込み入った話をしてまして」
 そう答えるのが精いっぱいだった。子供のように泣き続ける弟の傍にしゃがみ込み、そっと背中を撫でてやるのが精いっぱいだった。
 こんな時――いつもなら、泣くなと言って肩のひとつでも抱いてやっていたはずだ。
 だが今はできなかった。軽々しく弟に触れてはいけない気がしていた。
 「せいぜい泣き喚けばよろしいのです」
 富士野に対して冷たく言い放った雪乃に間明は目をぱちくりさせる。富士野を見下ろす雪乃の顔は石膏像のように美しく、冷たい。
 「多紀ちゃんはその何十倍、何百倍もの涙を流したのですから。せいぜい泣いて苦しめば良いのですわ」
 その後で間明の視線に気づいたのだろう、ふと微笑を浮かべる。「――あら失礼。口が過ぎましたかしらね」
 「……いいや。気の強い女は嫌いじゃねえさ」
 「ふふ。褒め言葉と受け取っておきますわ」
 悪戯っぽく流し目を送り、口許に手を添えた雪乃はもう一度微笑んだ。



 静かな日常が戻って来た。
 皆藤の店は相変わらず繁盛している。簪もそつなく仕事をこなしているし、雪乃もしっかり働いてくれていた。弟とのわだかまりもほんの少し解け、以前ほどではないにしろ睦まじくできるようになった。間明とも時折会って安酒を酌み交わしている。
 「多紀さんの具合はいかがで?」
 台帳に筆を走らせながら簪が尋ねると、閉店後の店内を掃除していた雪乃はにこりと微笑んだ。
 「もうすっかり良くなりましたわ。少しずつ立ち直ってくれていますし」
 「それは何より。富士野さんのほうはなかなか難しいようですねぇ……」
 夫の行いと本心を知った妻が笑って水に流すはずがない。生まれてくる子のためにと両親に取りなされていったんは矛先をおさめたらしいが、火種は今後もくすぶり続けるだろう。
 「思い知れば良いのです。名家の跡取りというあの方のお立場は分かりますけれど、多紀ちゃんだって同じくらい……いいえ、もしかしたらあの方以上に苦しんでいるのですから」
 ぴしゃりと言い切る雪乃に簪は「へぇ」と苦笑いする。
 「雪乃さんは多紀さんと富士野さんのことをご存じだったんですね」
 「ええ、もちろん。同じ悩みを持つ者同士、人に言えないことを語り合う仲ですもの」
 「では富士野さん夫婦がお店にいらした時……もしや、富士野さんの反応を見るためにご自分の体のことを明かしたんで?」
 雪乃は答える代わりにそっと微笑み、言葉を継いだ。
 「せめてあの方が、間明さんのように“愛した女の子供でなければ意味がない”とでも言って下されば違った結果になったかも知れませんのに」
 「へぇ?」
 「あの時、若旦那さんと坊ちゃんが場を離れた後……あたくしが事情を話した後で、間明さんが呟いておられましたのよ。あの方もお子さんがいらっしゃるそうですわね? “確かに子供はいいもんだ。だが子供が欲しかったわけじゃない、カミさんに惚れたからカミさんの子供が欲しいと思ったんだ”……と」
 間明の口調を真似る雪乃に簪は思わずくすりと微笑んだ。そんな台詞を家でも言ってやれば良いのだ。間明夫妻が来る日も来る日もしょうもない口喧嘩を繰り広げていることは弟を通して知っている。
 「所で……あの異形は多紀さんと富士野さん、どちらの心の形だったのでしょう?」
 「それはあたくしには分かりかねますわ」
 雪乃はちょっぴり切なげに眉尻を下げた。「どちらとも決められないんじゃありませんこと? お互いに強く想い合っていたことは事実ですもの。きっと二人とも、根本はひたむきで曇りのない気持ちだったのでしょう」
 そう、まるで愛くるしい子犬のように。
 その言葉を残し、掃除を終えた雪乃は着替えるために軽やかに店の奥へと入って行った。
 (子犬のようにひたむきに……ですか)
 どんな想いでも最初はきっとそうなのだろう。だが人間はいつまでも純真でも無垢でもいられない。時間という名の残酷な刃が、新雪のような気持ちを変質させ、劣化させ、摩耗させていく。
 やがて着替えを終えた雪乃が店を辞し、簪一人が残された。
 「よう。帰ったぞ」
 そしてそれを見計らったかのように弟が顔を覗かせる。「片付けが済んだら呑みに行かないか。間明さんも一緒だ」
 手で杯の形を作って傾けるしぐさをしてみせる弟に簪は黙って微笑を返した。
 弟の体にはあの白い大蛇が巻きついている。めくらの異形は弟の肩の上で鎌首をもたげ、相も変わらず赤い舌をちらちらと覗かせながら簪を見下ろしている。
 「へぇ……それじゃご相伴にあずかりましょうか。その前に着替えておいでなさいな」
 ざわつく心を抑えつけるようにそっと目を逸らすと、弟は「そうだな」と答えて母屋へと足を向けた。
 白いおろちの姿が視界から消え、詰めていた息を吐き出し――かけて、また息を呑んだ。

 赤い色彩が肩の辺りをずるりと這いずったような気がした。
 燃え盛る業火のような色をしたそれが何であるのか、振り向いて確かめてみる気にはなれなかった。



 (了)

クリエイターコメントこれでもかなり削りました。

大変お待たせいたしました。そしてオファーありがとうございました。
ようやっとノベルをお届けいたします。

まるで私が『偽形』シリーズの原作者になったかのような錯覚に陥りまして、色々と小ネタを詰め込みました。
異形の主については解釈にお任せします。どうとでも解釈できるように構成したつもりですので。
そしてラストには思わせぶりな描写をちらりと。ええ、三作目の伏線のつもりで。

その辺りも含めてお気に召してくださったら嬉しいです。
重ね重ね、ご指名ありがとうございました。
尚、作中、不妊症に関して不適切な描写が多数ありますが、あくまで時代考証の一部であることを申し添えておきます(ベースが江戸末期〜明治初期とのことで、ああいった差別や軽蔑が現代以上に横行していた頃でしょうし)。
公開日時2008-10-08(水) 21:50
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