★ 凍て蝶 - to walk with the black dog - ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-5202 オファー日2008-11-08(土) 21:00
オファーPC 簪(cwsd9810) ムービースター 男 28歳 簪売り&情報屋
<ノベル>

 まだ夜なのだろうか。目を開けた時は思わずそう錯覚してしまった。
 しかし冬の太陽は朝寝坊だ。雨戸を細く開けてみると東の空は既に白々と明け始めている。しんしんと肺に入り込んでくる空気は確かに朝の気配を纏っていた。
 小さく乾いた咳が出た。軽く鼻をすすり上げると後頭部に不快な重みがのしかかり、思わず眉根を寄せる。
 (まあ、高熱で倒れたりさえしなければ……ね)
 冬将軍が性急に進軍してきたせいなのだろうか、最近の簪は些か体調が優れない。軽い頭痛に加えて時折咳が出たり、鼻水が出たり。起き抜けなどは喉がひりひりと乾き、声が掠れることもあった。
 とはいえ大したことはない。家業を休むわけにもいかないし、呉服屋・皆藤の若旦那は自分の体をごまかしながら淡々と仕事をこなす日々を送っている。
 (おや)
 綿入れを羽織りながら、視界の隅を黄色い切れ端が横切ったような気がして顔を上げる。
 ことりと雨戸を開けて外を覗き込んでみるが、黒から藍へと変わり始めた空があるだけだ。
 (まさか、ね)
 この季節にいるわけがない。
 明け切らぬ空の下をはたはたと漂っていたその黄色は、まるで揚羽蝶のように見えたのだ。


 雪乃と一緒に店を開ければいつも通りの一日の始まりだ。経営は順調である。客足は途切れず、忙しさの中に身を置いていると適度に気も紛れる。
 「若旦那さん。坊ちゃん、このところ毎日お出かけになりますね」
 心配そうな雪乃に簪は曖昧な微笑を返すだけだ。弟の外出はいつものことである。気まぐれな彼は店が始まる頃にふらりと出かけ、店を閉める頃になるといつの間にか帰宅している。
 「放っておいてやってくださいな。あのお間抜けさんは元々ああいう人なんですよ」
 「ですけど、最近は特に頻繁じゃありません?」
 「へえ……確かに」
 「あたくしごときが申し上げるのは差し出がましいようですけれど」
 雪乃はほんの少し躊躇ってから口を開く。「お店が閉まった後も帰って来なかったり……一度、へべれけになって帰って来たこともあるじゃありませんの」
 控え目に「心配ですわ」と付け加えながら、涼しげな黒い瞳はちらちらと簪の肩の辺りを気にしている。
 だからというわけではあるまい。だが、背中で濃密な何かがずんと凝(こご)ったような錯覚に捉われ、思わず肩に手をやる。肩に触れた手の上を燃え盛る業火の切れ端のようなものが這いずった気がしたが、気付かないふりをした。
 簪にも雪乃にも異形の姿が見える。異形は人の心の形。何の耐性も持たぬ人間が迂闊に目にすれば発狂してしまいかねないほど不気味な形を取る、人の情念の姿。
 人の心である異形は大抵は本人に寄り添っている。だが例外として、殺したいほど憎い人間や深く愛している者には本人の傍を離れてべったりと張りついているという。
 今――簪には、紅蓮のおろちの姿をした異形が巻きついている。雪乃にはそれが見えているはずだ。そして恐らくその異形の主が誰であるかも知っているはずなのに、彼女は何も言わない。今はそれがただ有難い。
 「仕方のない奴です、雪乃さんにまで心配をかけて。今後は少し慎むように大旦那さまから言っていただきましょうか。あのお間抜けさんはあちきが言っても聞きやしないでしょうし」
 弟と言葉を交わす機会も減った。顔を合わせれば挨拶や世間話くらいはするし、間明(まぎら)も交えて三人で外出することもあったが、それだけだった。以前ほど睦まじくすることはなくなった。
 或いは、睦まじくすることが“できなくなった”と述べるほうが適切なのかも知れないが。
 どこかぎごちない、微妙な距離を保って生活している。無難な笑顔を浮かべ、穏やかな言葉をかけ合いはしても、心にはどこか頑なな仕切りを立てている。あたかも客と売り子のように。
 それでも構わなかった。元々、何の制限もない間柄というわけではないのだ。兄弟とはいっても父親が違う。簪の父は下級職人、弟の父は名家皆藤の当主。別々に暮らしていた頃から弟は簪の居宅に入り浸っていたが、皆藤の大旦那はそれとて快くは思ってはいなかった。
 「心配といえば、若旦那さんのことも」
 「へぇ? あちきが、ですか?」
 「ええ。失礼ですけれど、最近少しお顔色が優れないように見えて……」
 「そうですねえ……実は少し風邪気味でして。頭痛と、咳も少し」
 雪乃の前だからこそ素直に打ち明けた。彼女に対して格別の信頼を寄せているわけではない。下手な隠し立てなど通用しないと知っているからだ。
 「一度お医者様に診てもらったほうがよろしいんじゃありません?」
 「とはいえお店を空けるわけにも。休業日もやることはありますしねぇ」
 「良いじゃありませんの、少しくらい。お医者様のところに行くのに丸一日かかるわけでもなし……少しくらいの仕事ならあたくしでもお役に立てますわ」
 「ありがたい話ですが……しかし、休業日まで出て来てもらうわけには」
 「あらやだ、水臭いですこと。若旦那さんのためならあたくしは何でもいたしますわよ」
 わざと冗談めかして笑う雪乃に簪はようやく表情を緩めた。
 確かに、午前中の早いうちに出かければ昼前には帰って来られるだろう。もしこじらせて床に臥せるようなことがあればそれこそ迷惑をかけることになる。
 「それじゃお言葉に甘えさせていただきましょうか。雪乃さんの都合が良ければ次の休みにでも――」
 ぴたりと言葉を切った簪に応じるようにして雪乃は背後を振り返った。
 「……帰ったぞ」
 二人の視線を避けるようにして弟は母屋へと引っ込んで行く。「今日はお早いお帰りですね」という雪乃の言葉は彼の背中にぶつかって空しく跳ね返るだけだ。
 弟に巻きついた白い大蛇が緩慢な動きで鎌首をもたげ、簪を振り返る。目のない真っ白な顔の中、ちろちろと覗く舌の赤だけが奇妙に鮮やかで、簪は思わず目を逸らした。
 弟との距離がままならぬのは今に始まったことではない。今更気にするようなことではないのだと、諦めて日々をやり過ごすしかなかった。


 診察を終えた医者は軽く首を捻った。
 「分からない……とおっしゃいますと?」
 簪も同じように首をかしげる。ごま塩の髭を生やした医者はもう一度首を傾け、「さて」と呟いた。
 「症状は風邪に似ていますが、どうも風邪とは違うようですね。しかし原因が今ひとつ……。ちょっと失礼」
 医者は簪の首筋を両手で探った。耳の下を触診した後で首の根元を二本の親指で軽く押さえ、「唾を飲み込んでみてください」と指示を出す。言う通りにすると医者は短く礼を言って手を放した。
 再び首をかしげた医者の横顔を見ながら、簪の心にわずかな不安が差す。
 「……ま、症状を抑える薬をお渡ししておきましょう。寒くなってきましたし、あたたかくしてゆっくり養生してください。といっても皆藤さんの若旦那さんでは難しいでしょうが」
 なるべく無理はしないことですと付け加えた医者に簪は浅い苦笑を返した。
 今のところは日常生活に支障があるほどの症状ではない。とりあえず出された薬を服用して様子を見ればいいだろう。それで快方に向かわなければまた診てもらえばいい。
 渡された薬を丁重にしまい込みつつ医者の元を辞す。
 陽はだいぶ高く昇っているというのに吐く息は白い。頬を撫でる風は冷たく、鋭く。乾いた空はくすんだ綿のような雲を低く抱き込んでいる。雪の季節もそう遠くあるまい。
 そんなことを考えていたせいでもなかろうが――ふと、鈍色の空から雪が落ちて来たように見えて顔を上げる。
 それは雪のようであったが、雪ではなかった。
 そもそも色が全く違う。黄色いそれは雪とは呼べぬ。だが、雪のように脆弱で、ちょっと触れればすぐに壊れてしまいそうなほど儚い色彩を纏った、美しい揚羽蝶であった。
 (まさか……この季節に)
 粉雪のような鱗粉を纏い、はたはたとたゆたう。ひどく弱々しいが、確かに飛んでいる。
 まるでよろめくように――酩酊しているかのように。あてどなく、凍てつく空と陸の間を漂うことしかできない蝶の姿はひどく物悲しく、胸が詰まるほどに切ない。
 (かわいそうに。……この寒さではもう長くはないでしょう)
 蝶の姿を追う視界の中に女性の姿が映り込んだ。
 大事そうに両腕に何かを抱え、まだ若い女性がうつむきながら歩いてくる。腕の中でいとけなく動いているそれはどうやら稚児らしい。まだ赤子と言っても良さそうな稚児だ。我が子を寒さから守るように背中を丸めて先を急ぐ彼女の横顔はやつれ、張り詰めていた。方向から察するに先程簪が世話になった医者の所へだろう。
 その親子とすれ違いざま、思わず足を止めた。
 懐かしい匂いがした。
 人間なら誰でも懐かしさを感じずにはいられない匂い。遺伝子に刻みつけられた原点、あるいは本能とも呼ぶべき幸福の記憶。
 むせ返るような、母乳の匂いだった。
 頑是ない乳飲み子は短い手足をばたつかせ、己をしっかりと抱える母親の細腕の中から逃れようとしている。狭い場所が気に食わないのだろう、多少むずかっているようだ。ごめんね、もう少しだけ我慢してねと小声で呼びかける母親の頬は削げ落ち、疲労と憔悴の色ばかりが浮かんでいる。
 そんな母子の姿を見送る簪が目を眇めたのは、母親がまとう乳の匂いに大切な記憶を揺さぶられたからでも、あどけない稚児と懸命な若親の姿に心が和んだからでもなかった。
 背虫のようにして、母親の背中に異形がおぶさっていたのである。ひどく不気味な姿をした、小さな異形が。
 まるで芋虫であった。毒虫であった。腐った肉が発するような淀んだ緑色。何節にも分かれた体の上に毒々しい大目玉の模様を散らして緩慢に蠢いている様子などはひどく醜悪で、体中の毛がぞわぞわと粟立つかのようだった。
 視線に気付いたのだろうか。子猫ほどの大きさのその虫がゆっくりと頭を持ち上げ、振り返った。ひたとこちらを見据える目玉はどれが本物でどれが擬眼なのかも分からないし、本物の目がどこにあるのかすらも判然としない。あるいはすべて体に描かれただけの目くらましであるのか。
 簪がぶるっと身を震わせて両腕をさすったのは寒さのせいだけではあるまい。
 蝶の幼虫に見えなくもない。確か揚羽の幼虫はああいった姿をしているのではなかったか。
 (ですが……あんな芋虫が綺麗な蝶になるとはにわかには思い難いものですねえ)
 もっとも、昆虫というのはそういう生き物だろう。蝶にしろ蝉にしろ蜻蛉にしろ、醜く地味な幼虫の姿からは想像がつかぬほど美しい成虫へと変態を遂げるものだ。
 しかし――あの醜い異形の中にみっちりと詰まっているのは、果たして美しい蝶であるのだろうか。


 静寂の中を蝶が飛ぶ。闇にさざなみを立てながら、美しい蝶が夜を漂う。
 ほろほろと鱗粉が落ちる。墨色の帳の中、微細な粒子がまるで星屑のように鈍く瞬く。
 揚羽蝶は緩やかに羽ばたき続ける。凍えそうな夜気の中、まるで熱に浮かされたかのように――夢遊病にでもかかっているかのように、ただはたはたとたゆたう。
 「ねん、ねん、ころ、り、よ、おこ、ろ、り、よ……」
 乳をあげても子守唄を歌っても泣き止まなかった我が子は蝶の姿を見つけるとぴたりとぐずるのを止めた。土間の小さな窓越しに見る季節外れの蝶がよほど珍しいのだろう、熱に潤んだ瞳をきらきらとさせて、蝶を追うかのように短い手を懸命に伸ばす。
 「お外は寒いからね。また明日ね……」
 病に冒された我が子を気遣い、若い母親はそっと窓に背を向ける。しかし頑是ない赤子はそれを聞き分けず、再びぐずり始めてしまう。
 「うるせえぞ!」
 という怒鳴り声にびくりと身を震わせると、寝巻のままの夫が足音も荒々しく土間へと降りて来た。
 「外に連れてけ、うるさくて眠れねえだろうが!」
 「でも、この子は体が……こんな寒い時に外に連れて行ったら……」
 「死んじまえばいいんだそんな糞ガキ! 死んだほうがせいせいすらあ!」
 憎々しい舌打ちとともに放たれた言葉に、憔悴した彼女の顔が決定的にこわばる。
 夫は苛々と水がめに柄杓を突っ込み、乱暴に水を喉に流し込んだ。
 「ったく……病弱なガキなんぞ何の役にも立たねぇだろうが。だから俺はガキなんていらねえって言ったんだ。こいつのために金ばかり飛んで行きやがる。金食い虫たぁこのことよ、いっそ俺が殺してやろうか!」
 そして、ぐずる赤子に向かって一片の慈悲も容赦もなく柄杓を投げ付けた。柄杓は咄嗟に我が子の上に覆いかぶさるようにして体を丸めた彼女の頭を直撃したが、夫は頓着せずに再び寝室へと戻って行った。
 彼女の背には相変わらず気味の悪い虫がおぶさっている。人間の赤子程もあるその虫だけが、まるで気遣うように無言で彼女を覗き込んでいる。芋虫のような体に描かれたいくつもの大きな目玉が彼女の乱れ髪をじいっと見つめていた。
 「お外に行こうね、お外に……」
 このまま家にいたのでは本当に殺されてしまう。それなら外に連れて行ったほうがましだ。彼女が本気でそんなふうに考えてしまうほど、夫の態度は殺気に満ちていた。
 涙をこらえて外に出ると身を切り裂くような夜気が待っていた。あかぎれた手で我が子を寒さからかばうように抱き直し、そっと頬を寄せる。
 こんなにも温かい。こんなにも柔らかい。ふっくりとした頬は、弱く不規則な呼吸に合わせて確かに上下しているではないか。
 (ああ)
 この子は生きている。この小さな体で、懸命に生きている。
 「死んだりなんかしないよね……死なせたりなんかしないからね……」
 涙は止まらない。嗚咽をこらえる母の腕の中で我が子は未だ言葉にも成らぬ声を上げる。
 「ずーっとずーっと一緒だからね……」
 いとけない稚児は暗闇にぽつりと浮かぶ黄色を見つけ、きゃっきゃっとかすかに笑ったようだった。
 つられるようにして、若い母親も思わずそちらを見やる。
 どこぞに行くあてでもあるのか。なぜこんな寒さの中を飛ばなければいけないのか。目的も理由も分からぬまま彷徨うことしか知らぬ揚羽蝶は、ただ弱々しく闇の奥へと消えて行った。


 呉服屋・皆藤は冬の足音とともに繁忙期を迎える。正月用の晴れ着を仕立てるための客が多く足を運ぶからだ。客足が頂点を迎える時期は休日を返上して営業することも珍しくない。そんな時に体調が悪いからと言って部屋で休んではいられないのだと若旦那は頑として譲らなかった。
 くるくると目の回るような忙しさの中に身を置いているとほんの少し気が楽になるのかも知れないと雪乃は思う。余計なことを考えずに済むからだ。慌ただしく接客をこなしている間は仕事以外のことに気を取られずに済むからだ。
 それでも、ふと客足が途切れる時間帯というものはある。そんな時、張り詰めていたものがぷつりと切れて、見ないふりをしていたものが一気に溢れ出しそうになるのだろうか。
 「若旦那さん。具合はいかがですの?」
 だから雪乃は、店の奥の椅子に腰掛けて力なく壁に背をもたせた簪に声をかけた。
 「これはだらしないところを見られてしまいました」
 簪は苦笑しながら背を起こし、椅子の上にしゃんと腰かけてみせる。しかしその顔には生気がない。頬はこけ、肌の艶もなく、目の下にはうっすらとくままで出来ていた。
 「少しやつれたんじゃありません?」
 「そうですか? 食事も睡眠も摂っていますよ。ああそうそう、午後のお薬がまだでした」
 わざとらしいしぐさでぽんと手を打ち、独りごちるようにして立ち上がる。暖簾の奥へと入って行く簪の背中にはひんやりとした拒絶が滲み出ていて、雪乃はそれ以上声をかけることができなかった。
 簪は何も言わない。何を尋ねてもただ大丈夫だと答えるだけだ。だが、彼の体調が日に日に優れなくなっていることは雪乃の目にも明らかだった。
 医者にはきちんと通って、薬も飲んでいる。だが効き目は一向に現れない。それでも簪は多忙な時期だからと言って休もうとしなかった。だから余計に具合が悪くなる。体の不調が心の調子にまで影響しているのだろうか、最近の若旦那は少し雰囲気が変わったようだ。客に対しては相変わらず柔らかな微笑を浮かべて接しているが、口数が目立って減った。雪乃と他愛ない世間話をして笑い合うこともなくなった。
 弟とは相変わらずだ。雪乃の目に見える範囲では、兄弟はろくに言葉も交わしていない。
 (若旦那さん、お気付きなのかしら)
 幾分痩せたように見える背中には、業火のごとき烈しい色をした大蛇が巻きついている。
 (あの異形……心なしか、少し大きくなっているみたいだけれど)
 簪の顔色が優れなくなるのと反比例して、彼に巻きつくおろちは肥り、深紅の体もますます鮮やかさを増していくかのように見えるのだ。
 奥の部屋から激しく咳込む音が聞こえて来てはっとする。苦しげな、ひどく湿った咳だ。こちら側とあちら側は大きな暖簾で仕切られており、向こうの様子は窺えない。暖簾の向こうは皆藤の屋敷だ。行くべきか行かざるべきか逡巡していると、暖簾の向こうからふらりと簪が戻って来た。
 「いけませんねえ。どうも粉薬というのは苦手で」
 粉薬にむせていただけだ、余計な詮索はするな。無言でそう言い渡されたように感じて、雪乃はきゅっと唇を引き結ぶ。
 「若旦那さん」
 それでも意を決して顔を上げた。「やっぱり、何日か休まれたほうがよろしいですわ」
 「へぇ……御心配には及びませんよ」
 だが、ゆるりと振り向けられた顔に思わずぞっとする。
 物静かな若旦那の面(おもて)には平素通りの穏やかな微笑が湛えられていた。だが、それは無機質な能面のようであった。顔の上に張り付いてこわばった、愛想笑いという名の頑なな仮面のようであった。
 「たかが風邪であまり大袈裟に騒ぎ立てないでくださいますかねえ。流行り病だなどとお客に誤解されたらお店の評判にも関わりますし」
 「ですけど、そんな状態では――」
 「雪乃さんには関わりのないことです」
 珍しく簪の声が上ずった。まるで引きつれたような――上ずった声をぴしゃりと叩きつけられ、雪乃は苦しげに眉尻を下げる。
 「とにかく、あまり騒ぎ立てないでくださいな。あちきの体のことはあちきが一番良く知っていますから、どうぞお気遣いなく」
 雪乃がそれ以上口を開かなかったのは、有無を言わさぬ物言いに反抗を覚えたからでも、余裕を失ってしまった若旦那の様子が哀しかったからでもなかった。
 少しだけ動揺してしまったのかも知れない。だからかけるべき言葉を見失ってしまった。
 ごうごうと燃え盛るような色彩をした大蛇が、簪の首に幾重にも巻きつけていたのだ。まるで簪を絞め殺さんとでもしているかのように。


 知り合いの様子がおかしい、どうも子供の病気のことで心労を溜め込んでいるようだ。とても心配だがどうしてやればいいのか分からない。だから一度様子を見て来てくれないか――。妻の主張をまとめると概ねこんなところだった。
 なぜ自分が、と間明は反駁した。妻の知り合いだというその女は間明自身とは付き合いがないし、顔を合わせたこともない。見知らぬ男が急に顔を出せば向こうも警戒するだろうという間明の言い分はもっともだったが、所詮間明は妻には頭が上がらないのだ。きゃんきゃん吠え立てる妻から逃げるようにして家を出た哀れな四十男はその足でいつもの飲み仲間を誘い、行きつけの酒場にやって来たのだが……。
 「ニイさんがか?」
 手垢のしみ込んだ卓の上に肘をつき、間明は猪口を舐めながら視線を上げた。
 「ああ。どうも調子が悪いらしい」
 間明の向かいで、簪の弟は眉を寄せて腕を組んでいる。猪口に注がれた燗酒は既に冷え切っているというのに、口をつけた様子はない。
 「風邪か何かじゃねえのかい? 近頃めっきり寒くなったしなぁ」
 「……だといいんだが」
 「医者には行ったのか」
 「多分な」
 「多分たぁ、どういうこった」
 「薬を飲んでいるところを何度か見た。薬を持っているからには医者に行ったんだろうと当たりをつけただけだ」
 ふうん、と間明は鼻を鳴らした。
 「らしくねぇな」
 「何がだ?」
 「医者に行ったかどうかすら直接本人に訊いてねぇってことだろ? 一緒に暮らしてるのにそんな会話すらしねぇのか」
 「尋ねてまともに答えてくれる相手なら何度でも問い質すがな……」
 弟の眉間の皺が深くなったことには気付かぬふりをして間明は手を上げ、売り子を呼んだ。
 後ろの席に座った赤ら顔の男が豪放な笑い声を上げた。酒が入っているせいだろう、うるさいほどの大声である。同じ卓に着いていた客の間にも賑やかな笑いが波及した。一気に喧騒が増した狭い酒場の中、間明は運ばれて来た徳利を受け取って猪口を満たし、弟に差し出した。冷めた酒と取り替えてやろうと思ったのだが、弟はそれにすら気付かぬらしい。深く腕を組んで黙考に沈んだままだ。
 「溜め込む性格だろうからな、あのニイさんは。あの分じゃ弟のおまえさんよりも早死にしちまうだろうぜ、なぁ?」
 わざと冗談めかしてからからと笑ってみせるが、弟は苦しげに眉を動かしただけだ。
 さすがの間明も口をつぐむ。
 「……悪い。冗談が過ぎた」
 「いや……」
 重苦しい沈黙が降りる。
 弟は機械的に猪口を持ち上げ、冷えた酒に口をつけた。ほんの少し唇を湿らせただけですぐに猪口を置く。陽に焼けた指先が安っぽい猪口の上を落ち着かなく幾度もなぞった。
 「俺は、簪さんの何なんだろうな」
 今度は間明がひょいと眉を持ち上げる番だった。
 「間明さん、以前言ってたよな。簪さんは俺の親みたいなものだと」
 「ああ。気に障ったかい?」
 「いいや、そういうことじゃない。事実、簪さんからすれば俺は弟というより子のようなものなんだろうさ」
 簪が弟に向ける感情はまるで親子のそれだと以前間明は指摘した。無条件かつ無償で、それも自分の望みを全く言わずに尽くす簪は兄というより親のようであると。
 ふーむ、と間明は軽く顎をさすった。
 「あのニイさんは血の繋がりをえらく大事にしてる節があるからなぁ。おまえさんを過保護にするのも無理からぬことだろうぜ」
 「だが、時々分からなくなる。簪さんが欲しいのは血の繋がった相手……母の血を分けた人間であって、俺ではないんじゃないかとな」
 そっと落とされた微苦笑には、平素の彼らしからぬ大人びた諦観が滲んでいる。
 「……ま、あんまり考え込まねえこった」
 だから間明はそう応じるのが精一杯だった。
 簪が血の繋がりを重視していることも、彼の唯一の血縁がこの弟であるということも知っている。
 (血縁を『大事にする』ってぇより、どうも血縁に『執着』してるように見えるんだよな)
 思案するふりをしてちらりと弟の顔を盗み見る。
 (……だからなのかねぇ、こいつがひっついてるのは)
 弟の体には真っ白なおろちが巻きついていて、物憂げに首をもたげて間明を見つめているのだ。
 (こいつは弟のじゃねぇな。ひょっとするとニイさんのかも知れねえ。てぇことは、弟の異形はどこに行った?)
 所在なげに舌を出すめくらの大蛇の姿に間明は軽く眼を眇めただけだった。


 「食欲はありますか?」
 「へぇ、それなりには」
 「少し痩せたようにお見受けしますがね……」
 「はぁ……家業が少し忙しいもので、多少の疲れは」
 「立場上難しいでしょうが、休むことも大事ですよ。こじらせたらもっと大変です」
 では、休めば治るんですか? おとなしく寝ていれば必ず治るんですか?
 ――そもそも、あちきは何の病なんです?
 喉を塞ぐその問いは辛うじて呑み込み、簪は形だけの会釈を残して医者の元を辞した。
 今は薬で様子を見ましょうというのが医者の言葉だった。とりあえず対症療法でしのごうということか。治療法どころか原因すら分からないのだからそうするしかないということなのか。
 ……あるいは、本人には告げられない類の病名であるのか。
 体の不調は心にも影響を及ぼすことがあるという。疑心暗鬼がしんしんと積もり、焦燥と不安が弱った体を蝕んで、体力とゆとりを削ぎ落としていく。だから余計に具合が優れなくなる……。そんな悪循環に陥っていることすら今の簪は自覚できていなかった。
 外に出ようとした簪の鼻をふと乳のにおいがくすぐり、続いて子供の泣き声が聞こえて来た。
 若い母親の腕に抱かれた稚児がぐずっている。痩せた母親は我が子に懸命に言葉をかけながらあやしている。
 簪の視線に気付いた母親がふと目を上げた。すみません、と唇を動かして慌てて頭を下げる。ぐずる子供がうるさいと咎められているとでも思ったらしい。
 普段なら微笑んで「いいんですよ」とでも言葉をかけてやっただろうが、簪は頭を下げる母親に無表情な一瞥をくれてやっただけだ。
 「お。久しいな、ニイさん」
 だが、不意に横合いから呼び止められて眉を持ち上げる。
 「なんでぇ、シケたツラしやがって。まるで病人じゃねぇか」
 いつもの開けっ広げな笑いを浮かべながら背中を叩く間明に薄い愛想笑いを返しつつ、簪は医者から受け取った薬をさりげなく懐に隠した。
 「あまり強く叩かないでもらえますかねぇ……体に響きます。見ての通り、あちきは病人でして」
 「何でえ。弟からちらっと聞いたが、本当に具合悪いのかい」
 「弟が何か言ったんで?」
 「心配してたぜ。薬を飲んでるのにさっぱり良くならねぇみたいだってな」
 「へぇ、そうですか……」
 緩やかな双眸の上を冷めた色が覆っていく。「ろくに家にも帰らずあちきと話もしないくせに、見ている所は見ているというわけですね。まったく、お間抜けさんのくせに目敏いというか、何というか」
 「……どうしたんだ、ニイさん」
 ぽんぽんと放たれる棘に間明の眉が中央に寄る。「らしくねえじゃねぇか」
 「らしくないとはどういう意味で? あちきらしいとはどういう状態を指すんです?」
 緩やかに振り返った面にはこわばった微笑が凍りついていて、間明は顎を引いて口をつぐむしかない。
 「所で、間明さんはこんな場所で何を? 病……のようには見えませんが」
 「あいにく俺は医者がでえきれぇでな。熱を出そうが腹を下そうが医者にかかったことがねえのが自慢さ」
 間明はさりげなく簪の背を押し、ぐずり続ける赤子をあやす母親の傍から離れた。
 「後ろにいる親子な、カミさんの知り合いなんだよ」
 「へぇ?」
 「カミさんの話じゃ、最近どうも様子がおかしいらしい。子供が病を患ってるとかで、その看病と医者通いでだいぶ心労が溜まってるみたいだってな……最初は聞き流してたんだが、あんまり心配だ心配だってうるせえもんだから詳しく聞いてみたら」
 そこで言葉を切り、簪の耳元にそっと口を寄せる。「――話を聞いてる限りじゃどうも『アレ』が関わってるんじゃねぇかって気がしてな。カミさんにゃ『アレ』の姿は見えねえから何とも言えねえが」
 それで確かめに来てみたのだと言葉を結び、間明は立てた親指で軽く背後を指した。促されるようにちらりと背後を振り返った簪の目に映るのは先程の母子の姿。
 そういえば見覚えがある。前日、医者に世話になった帰りにすれ違った親子ではなかったか。
 しかし――簪が首を捻ったのはそればかりではない。
 「……おや。だいぶ大きくなりましたねぇ、あの虫」
 やつれた母親の背におぶさる芋虫が、倍以上にも肥ったように見えるのだ。
 初めて簪が目にした時は子猫ほどしかなかったというのに、今はどうか。腐敗した色の体に禍々しい大目玉の模様を散らした芋虫は、童ほどの大きさにまで成長してべったりと母親におぶさっている。
 「大丈夫、大丈夫、すぐ良くなるからね……」
 背中を丸め、ぐずぐずと泣きじゃくり続ける我が子を必死であやす若い母親。気味が悪いまでにむっちりとした芋虫が、痩せた背中にへばりついてもぞもぞとうごめいている。
 そう――まるで、柑橘の硬い葉を獰猛に食い荒らす揚羽の幼虫のように。
 「大きくなったってえのはどういうこった」
 簪が漏らした何気ない感想に間明は眉を跳ね上げた。
 「以前、ここの帰りに一度すれ違ったんですが……その時に比べて異形が大きくなっているようで。確か最初に見た時は子猫ほどの大きさしかなかったと思ったんですが」
 「そりゃ確かかい?」
 「へぇ、少なくともあんなに大きくはなかったはずです。……何か?」
 腕を組んで苦虫を噛み潰す間明の様子に簪はふと首をかしげた。
 「……いや」
 やがて間明は腕を解き、軽く舌打ちしてがりがりと頭を掻いた。「アレがでかくなってるんだとしたら、ちぃとばかしまずいことになるかも知れねぇ」
 「放っておけばいいのでは?」
 簪の声はあくまで冷めている。「確かにあれは不気味ですが、人に直接危害を及ぼすものではないでしょうに」
 医者に呼ばれた母親が立ち上がり、ひそひそと言葉を交わす二人に怪訝そうな視線を送りながら奥へと歩いて行く。彼女が医者の待つ部屋へと入ったのを確認してから間明は口を開いた。
 「ごく稀にな。アレにくっつかれると、具合が悪くなることがあるらしい」
 「……とは?」
 簪の表情がにわかに険を帯びた。
 「あんまり長期間ひっつかれるとどうも心の中に入り込まれることがあるみたいでな。心と体ってのはどっかで繋がってるもんさ、体の調子が悪い時は心も弱気になるだろ。その逆で――」
 間明は中指でとんとんと自分の胸の辺りを突いた。「異形にここを侵食されると時たま体のほうに害が出ることもあるって話だ。で、そんな時は異形がちょっとずつでかくなっていくらしい。まるで相手の情念を餌にして成長してるみたいにな。まぁそんな事態は本当に稀だ、俺も一度しかお目にかかったことがねえ」
 簪の喉がひゅっと音を立てて鳴った。
 背中を――着衣の下の皮膚の上を、ずるりと何かが這ったような気がした。肩から腰の辺りにかけて、ずくりと焼かれるような痛みが走った気がした。
 「……時に、ニイさん」
 間明は斜めに簪を見やった。何かを検分するように眇められた眼は簪の肩の辺りに向けられているらしい。
 「自分の背中にも何かくっついてるの、知ってるかい?」
 それは質問というより確認であったのだろう。
 だが、簪は曖昧に笑んで間明の視線をかわしただけだった。
 (弟の言った通りだな。かなり消耗してやがる)
 間明も追及するような真似こそしなかったものの、表情は晴れない。(それに、こいつぁ……弟にくっついてたアレと対になるモンじゃあねえのか?)
 簪の体を緩く絞め上げる真紅の大蛇の姿が間明の目にははっきりと見えている。その赤は血というよりも炎だった。ごうごうと唸りを上げて獰猛に燃え盛る業火のようであった。
 だが――弟に巻きついていた白いおろちよりも一回り、いや、二回り近く大きい。もしこの異形もあの芋虫と同じように成長しているのだとしたら……。
 (人の心を喰らって肥る、ってか。洒落にならねぇぜ)
 ちらりと簪の横顔をうかがうと、窓の外に視線を投げた彼はあらぬ方向を見つめている。つられるように外に目をやっても冬の色に染まった空が広がっているだけだ。
 「おや。また」 
 だが、虚空の一点を見つめたまま簪はぽつりと口を開いた。「こんな季節に……何なのでしょうねえ。最近時々見かけますが」
 「何だ? 珍しいもんでも見えるのか?」
 「へぇ。ほら、揚羽蝶ですよ。この寒いのに、どうしたことでしょう」
 簪が指で示す方向を注視しても、そこにはやはり曇り空があるだけだ。
 「……ニイさん」
 氷の刃で腹を撫でられたような錯覚に捉われ、間明は弾かれたように簪を振り返る。
 「気の毒に。先日見た時より色褪せているようで。もう長くないのでしょうねえ……」
 簪の目には、寒空の下をふらふらと漂う揚羽蝶が確かに見えていたのだ。


 「ねん、ねん、ころ、り、よ、おこ、ろ、り、よ……」
 ぼう、や、は、よい、こ、だ、ねん、ね、し、な……。
 子守唄を紡ぐ声は掠れ、たどたどしい。それでも赤子は静かに眠っている。
 眠っている?
 ――死んでいるのではないのか?
 慌てて揺さぶると小さな口がむにゃむにゃと動き、不規則ながらもかすかに寝息が漏れる。
 良かった。生きている。まだ生きている。
 ぐずることはあっても火がついたように泣くことはなくなった。泣く体力すらもう残されていないのかも知れない。熱で頬を真っ赤に腫れ上がらせた我が子を抱いて、黒ずんだ寝巻を纏った母親は子守唄を歌い続ける。
 いとおしそうに赤子を抱いて、暗い土間の中をゆっくりと往復する。狭い土間いっぱいに広がったぬめぬめした液体に足を取られそうになりながら、ふらつくようにただ彷徨う。
 気まぐれな月が顔を出し、小さな窓からそっと光を投げかける。
 浮かび上がったのは我が子の寝顔と、ぬらぬらと光る赤黒い水溜まりの中に突っ伏した夫。夫の背中から生えた出刃包丁が控え目な月の明かりを受けて鈍く光る。
 その暗澹たる光景に怯えたというわけでもあるまいが、恥ずかしがり屋の月はまたすぐに雲の向こうに隠れてしまった。
 「ねん、ねん、ころ、り、よ……」
 ゆっくり眠ればいい。静かに眠ればいい。
 眠って眠ってうんと眠って、そうすればきっと元気になるから。
 赤黒くじっとりと湿った寝巻を纏ったまま、母親は至福と安堵に満ちた表情で子守唄を歌い続ける。菩薩のようなその表情は、錆びた鉄のにおいが凝るこの場にはひどく不似合いだった。
 「もう怖い人はいないからね。今夜はゆっくり眠れるからね……」
 痩せた母親の背中にはでっぷりと肥った芋虫がまとわりついて、体に描かれた目玉の模様をぐりぐりとさせながら彼女の様子をうかがっている。
 「ね、ぼうや。ずーっとずーっと一緒だからね」
 その言葉を待っていたのだろうか。
 背中におぶさった芋虫がもったりと頭を持ち上げ、音もなく糸を吐き出し始めた。
 不思議な糸だった。この醜い異形のどこにこんなものがと思うほど滑らかで、美しく、細い糸だった。雪のように儚い色をしたそれは月が隠れた闇の中でもかすかに瞬いて見える。絹のような糸は緩やかな弧をえがき、幾重にも重なりながら異形を、母を、赤子を、ゆっくりと包み込んでいく。
 それは静謐な光景だった。まるで終齢幼虫が蛹へと変態を遂げるかのような、静かで、厳かですらある光景だった。
 「ああ……ぼうや、見てごらん」
 繊細な糸の重なりの下で、疲れ切った母親は幸せそうに眼を細めた。「おまえの好きなちょうちょだよ。揚羽蝶が飛んでいるよ」
 小さな窓の外、母親が力なく指した先を揚羽蝶がふらふらと飛んでいる。黒と黄色の美しい模様はすっかり褪せ、薄くなってしまっていた。哀れな蝶は漂うように、弱り切った病者の身じろぎのように、ただほとほとと音もなく彷徨う。
 「ねん、ねん、ころ、り、よ、おこ、ろ、り、よ――」
 しっかりと守るように。まるで繭に閉じ込めるかのように。糸にくるまれた母親は我が身よりも大事な我が子を腕に抱き、胎児のように体を丸めていく。
 「ぼう、や、は、良い、子、だ、ねん、ね、し、な……」
 するすると。ゆるゆると。
 脆弱な生糸が親子の体を静かに閉じ込めていく。
 やがて――かすかに聞こえていた子守唄も途切れ、その場には頑なで巨大な、蛹とも繭ともつかぬ物だけが残された。


 夕方前に外出したと思った妻は泡を食って帰って来て、真っ青な顔で間明を表に引きずり出した。ひどく動揺しているらしく、事情を聞いても要領を得ない。それでも長い付き合いだ、多少言葉が足りずとも相手の言わんとすることをある程度察することはできる。どうも例の友人の件らしいと悟った時には間明のほうが先に立って駆け出していた。
 「来るな!」
 先に目的地に着いた間明は、息を切らして走り寄る妻を一喝した。
 「……来ちゃ駄目だ」
 夫の低い声に押し留められ、勝ち気な妻は素直にその場で足を止める。
 ――妻の知人である親子が暮らす家は、不自然なまでにひっそりとしていた。
 ただの静寂ではない。これは人が住む家ではない。生活の息吹というものが――人間の気配というものが、全く感じられない。
 いくら戸を叩いても家人の応答はなく、明かり取りの小さな窓から家の中をそっと覗いてみた妻は中で倒れている親子の姿を見たという。何かあったのではないかと直感した妻は我が家に取って返し、間明に助けを求めたのだ。
 間明が何度か肩をぶち当てると、立てつけの悪い戸はごとごとと音を立てて倒れた。同時に顔へ襲い掛かってくる血のにおい。土間を染め上げる血糊は既に乾いて、その中に突っ伏して倒れている男がとうの昔に事切れていることを明確に教えてくれた。
 だが、間明の目を奪ったのは背中をひと突きにされて死んでいる家主の姿ではなかった。
 土間の奥、赤く斜めな光と濃い陰影が差し込むその場所に、母親と赤子が倒れている。
 二人は干からびていた。まるで干物にでもされたかのように、形を保ったままかさかさに乾燥していた。
 なのに――どうしたことだろう。体中の水分という水分を失った母も子も、ひどく安らかで、至福に満ちた表情を浮かべているではないか。
 (あの異形の仕業なのか? だとしたら肝心の異形はどこに行った。気配は感じねえが……)
 その時、きゃっきゃっというあどけない稚児の声が聞こえたような気がして身をこわばらせる。
 だが、そこには満ち足りた笑みを留める母子の木乃伊が横たわっているだけだ。
 あの芋虫は子の情念であったのかも知れない。病に冒された赤子が、大好きな母親と死に別れたくないがために生み出した異形。だからあんなにも母親にへばりつき、こうもたやすく母親の心を侵し得た。
 親子の情や母への無邪気な愛というよりは、執着、執念とも呼ぶべきものであろう。痩せた母親の肉を喰らって成長していたかのような芋虫の姿が瞼の裏からどうしても消えない。
 (これも愛情の形ってか。確か、仏教の世界じゃ『愛』ってぇ単語は『貪る』とか『執着する』っていう意味だって聞いたことがあるが)
 間明は「くそ」と呟き、ぎちりと拳を握り締めた。
 異形が人に害を及ぼすことはごくごく稀である。だが、胸の奥からざわざわと湧き上がる黒雲のような感情をどうしても抑えることができない。
 視界の端を黄色っぽいものが掠めたような気がしてはっと顔を上げる。
 その褪せた黄のかけらは、果たして揚羽蝶であったのだろうか。
 (ニイさん……妙なことになってなきゃいいが)
 冬の黄昏はせっかちだ。はちみつ色の太陽はどんどん山の稜線に近付き、天球は濃い藍色に支配されようとしている。


 夢であるのかうつつであるのか、それすらも判然としない。まどろみという名の淀んだ淵の底に横たわり、簪はただゆらゆらとたゆたう。
 布団の下の体がじっとりと汗をかいて、不快だ。しかし着替えるために起き上がる気にはなれない。朝まで少しでも体を休めておかねばならぬ。
 体調は日を追うごとに優れなくなっていった。食欲などとうに失くした。だが食事は無理やり喉に押し込んでいる。少しでも食べねば体力がつかないし、食べる姿を見せなければ病状に関して余計な詮索をされかねないからだ。
 流行り病だなどと疑われては隔離の憂き目に遭う。たちの悪い病に冒された若旦那が接客をしていたなどと知れれば皆藤の呉服屋も風評被害に遭うやも知れぬ。だから簪は必死だった。言うことを聞かぬ体に鞭を入れて平素通りに振る舞おうと努めた。弟とはろくに顔を合わせていない状態が続いていたが、自分のことで手一杯で、気にかける余裕などなかった。
 ずるずると、蛇が這う音が聞こえたような気がする。
 ゆるゆると、全身が絞め上げられていくような気がする。
 胸の辺りに甘い圧迫感を覚えてうっすらと目を開くと、目の前で獰猛な焔が燃えていた。
 否――業火の色をした、弟の異形であった。
 大蛇の姿をした弟の情念がどろりととぐろを巻いて簪を覗き込んでいる。その色彩はひどく暴力的であるのに、不快ではない。簪は乾いた唇をかすかに笑みの形に持ち上げ、好きにしろとでもいうようにそっと目を閉じた。
 でっぷりとした蛇は目を閉じた簪の顔をじいっと観察していたが、やがて首を下ろしてずるずると這いずり始めた。
 寝巻の下にざらざらとした感触が入り込み、動かぬ全身がぞわりと総毛立つ。しかし脊髄を貫く刺激は恍惚にも似て、甘い。くらくらと眩暈がする程の陶酔はまるで阿片でも吸ったかのよう。一度味わったら二度とは戻れぬ、禁断の道。
 無防備な首筋の上を二股に裂けた舌がねっとりと這った気がした。しかしそれすら拒む気にはなれず、簪はただ弟の情念のなすがままに甘んじる。
 粘つくような感触が首筋から鎖骨へ、鎖骨から薄い胸板へ、ゆっくりと降りていく。脇腹に浮いたあばらの間を、まるで口づけるかのように丹念に舌がなぞっていく。唾液なのだろうか、湿った音がぴちゃりと静寂を濡らしたような気がした。
 どうしてこんなにも静謐なのだろう。激情を秘めたはずのおろちはひどく躊躇いがちに――まるで初めて男に触れる生娘のように、遠慮がちに簪の素肌を這っていく。
 好きにすれば良い。全身を蛇に絡め取られ、動きを封じられたこの状態では抗うことなどできやしない。
 まるで底なし沼にでも沈んでいくかのようだ。水底に堆積した泥の中に緩慢に体が埋もれていくかのようだ。
 ああ。水面がどんどん遠のいて行く。蟻地獄の巣にはまったかのように、光の差さぬ泥の底へとゆっくりゆっくり没して行く。
 このまま沈んでしまえば良い。暗い暗い水の底へ埋没して、何も分からなくなってしまえば良い。
 ゆるゆると自我を手放しかけた時、頬を打たれるような痛みが走り、意識がわずかに浮上した。
 『簪さん。しっかりしろ簪さん!』
 聞き慣れた声が耳朶を打つ。
 うっすらと目を開けてみれば、分厚い水面(みなも)の向こうで見慣れた顔がゆらゆらと揺らめいているかのよう。
 「――――――」
 かすかにその名を口に含むと、葛湯のような水を突き破って太い腕が伸びてきた。
 「簪さん!」
 浅黒く日焼けした腕に掴まれて、薄い体はまどろみの淵から一気に引き上げられていた。


 夢であったのか。
 溺れた者のように懸命に息を吸っても空気がひゅうひゅうと気管を通り抜けるだけ。ぴしゃぴしゃと頬を叩かれてようやく、自分が誰かの腕に抱きかかえられていることに気付く。
 「馬鹿野郎……何やってるんだよ」
 整った顔をくしゃくしゃにして、半べそをかきながらこちらを覗き込んでいるのは弟だった。

 ――馬鹿と言った人が馬鹿なんですよ。
 ――うるさい、馬鹿馬鹿馬鹿!

 そんなやり取りを交わして笑い合っていた日のことを、どうしてこんな時に……こんなに鮮明に思い出すのだろう。
 それでも簪の頭は妙に醒めていて、自分の体を抱える弟の腕の逞しさや胸板の厚さをただぼんやりと眺めるばかりだ。
 「おや、あなた……こうやって見上げるとなかなかいい男じゃありませんか」
 「何を言ってやがる、こんな時に」
 弟は再びくしゃりと音を立てて顔を歪め、簪をかき抱いた。痩せ衰えた体が壊れてしまいそうなほど、きつく、きつく。厚く熱い胸板に抱き締められると息が詰まる。だが簪は甘い胸苦しさに身を任せ、だらりと腕を下げていた。
 夕餉を済ませて湯を浴び、寝室に戻ろうとしたところまでは覚えている。その途中で倒れてしまい、廊下でそのまま気を失ってしまったということなのか。
 「こんなに痩せて……こんなになるまで隠していたのか」
 「隠していたわけでは、ありま――」
 そこで咳込んだ。痰が絡んだ、湿った咳だ。それなのに喉はぱりぱりに乾燥して、咳が通り抜ける度にひりひりと悲鳴を上げる。
 「じゃあ尋ねればまともに答えてくれたのか。雪乃さんが言っていた。何を聞いても……何度聞いても、大丈夫だとか心配するなとか言われるだけだったと」
 あんたはいつもそうだ。呻くようにそうこぼし、弟は唇を噛み締める。
 「そうやって黙って全部溜め込むからこんなことになるんだ。いつも煙に巻いて。何も言わない、肝心なことは何も言ってくれない」
 そして、とうとう低い嗚咽を漏らし始めた。震える腕と胸の中で簪は酸欠の金魚のように口をぱくぱくとさせ、息を吸う。
 弟の肩越しに白い大蛇の姿が見えた。眼のないおろちは首をかしげるようにして兄と弟の様子を交互にうかがっている。だが、簪の情念に絡みつかれた弟は平然としているではないか。
 唇の端がかすかな笑みの形に歪み、引きつった。
 自分は弟に心も体も侵されているのに、弟はけろりとして日常生活を送っている。簪が異形の存在を半ば無視しているせいなのか。簪が自分の感情を見て見ぬふりをしているから、この異形も弟に影響を与えるほどの力を持たぬということなのか。
 弟を苦しめたいわけではない。自分と同じ目にあわせてやりたいなどと思っているわけでもない。
 ――だが、些か憎らしいではないか。
 なぜこの弟はこんなにも平然としていられる?
 「言えば……どうにか、なったのですか」
 乾いた喉と唇で紡ぐ言葉には抑揚も感情もない。弟の腕の中でかろうじて半身を起こし、縋りつくようにして胸倉の辺りを掴む。
 「ねえ、あなた。教えて……くださいな。言えば、良かった、のですか?」
 骨の浮いた手がかすかに震えながら弟にしがみつく。「言って、どうにか、なりました……か?」
 幼い頃から何も望まずに生きてきた。遊女と下級職人の間に生まれた簪は望んでも何も与えられないのが当たり前だったからだ。いつしかそれにも慣れ、何の疑問も持たず、望むことを諦めるようになった。
 はたはたと、緩い羽ばたきの音が聞こえたような気がした。
 蝶だ。弱り切った黄揚羽が、家の中を彷徨している。
 哀れなものだ。繊細な黄と黒の彩りは空しく褪せて、美しい翅(はね)は向こう側が透けて見えるほどに鱗粉と生気を失っている。それでも蝶は飛んでいる。飛ぶことしか知らぬとでもいうように、ふさふさに裂けた翅を愚直に動かして、目的も分からずにただ飛んでいる。
 「かわいそうに」
 虚ろな蝶の姿を追いつつ、唇の端に浅い笑みを浮かべる。「いよいよ……長くありませんね」
 「何、言ってる」
 弟の声が上ずった。酩酊したようにふらつく蝶の姿は弟の目には見えていないらしい。のろのろと視線を持ち上げると、ぼろぼろと涙をこぼす弟の顔があった。
 弟の頬を涙が滑り落ち、顎を伝って、簪の額の上でぱたぱたと跳ねる。口を開きたくとも息苦しさと咳が喉を塞ぐ。代わりにどうにか指を持ち上げて弟の頬に触れると、濡れた睫毛が戸惑ったようにぱちぱちと瞬いた。
 「子供じゃ……あるまいし」
 眼の下に触れた指が濡れた頬をそっと撫で、頬から顎へ、顎から首筋へと縋りつくように滑っていく。
 「泣きなさんな。大の男が、みっとも、ない……」
 血の通わぬ指先はひんやりとして、こわばっている。それでも弟の皮膚の感触と温かさはかすかに伝わる。
 首筋から鎖骨へ、鎖骨から服の前をはだけて胸元へと達して、思わず爪を立てた。弟の眉がびりっと中央に寄る。それでも弟は簪の手を払いのけようとしなかった。
 痩せた指の下でとくとくと血肉が脈打っている。温かい感触に酔いしれ、夢中で、なぶるように指を這わせる。弟は何も言わない。痛みに顔をしかめながら、戸惑ったように兄を見下ろすだけだ。
 「ねえ、あなた……もし」
 ぎちりと音を立てて爪が肉に食い込む。生ぬるい血が溢れ出し、爪の先から手の甲へと伝い落ちていく。とろとろととろけるようなその感触に、手の甲から腕が、腕から肩にかけての辺りが、さざなみが立つように一気に粟立った。
 「もし、あちきが、このまま……このまま」
 濡れた瞳で、陶然と、うわごとのように繰り返す。
 このままどうしたいというのか。指先までみっちりと詰まった望みは言葉になることはなく、ただ痰と一緒に喉に絡め取られ、薄い胸板の底へと沈澱していく。
 だが――簪の情念の形である白蛇は違った。
 弟の肩からどろりと這い降りた白蛇は簪の体の上を這い、簪を絞め上げる赤い大蛇へと近づく。めくらの白蛇がちらちらと揺らす赤い舌はまるで灯明か何かのようだ。
 簪に巻きついていたおろちはゆっくりと鎌首をもたげ、でっぷりと肥った体で白蛇を見下ろす。白い大蛇も応じるように首を持ち上げた。
 濃密な沈黙が凝る。
 だがそれもほんの刹那のことで――双頭の大蛇は、すぐにずるずると這いずり始めた。
 シャーッという威嚇音が聞こえた気がした。裂けた口の中で二本の牙が鈍く光る。互いに相手を喰らわんとでもするかのようにあぎとを開き、頭を揺らしながら機をうかがう。
 一瞬の出来事であった。兄の蛇は弟の蛇の尾に。弟の蛇は兄の蛇の尾に。二匹の大蛇は相手の蛇の尾に喰らいつき、牙を突き立てる。白蛇には目がないというのに、ひどく正確に赤い蛇を喰らい、その体に己が身を絡みつかせていく。
 白は紅蓮に燃やされ、紅蓮は白に侵され、どんどん姿を失っていく。だが、静かだ。あまりに静かだ。異形というものは声を出さない。二匹の大蛇は激しく、静謐に喰らい合う。
 (ああ……おあつらえ向きじゃありませんか)
 貪り合う異形の姿を力なく見守りながら、簪の唇に緩い諦観の笑みがこびりつく。
 兄は弟を。弟は兄を。互いに互いを喰らい、滅ぼしていく。つがいのおろちは己が身が喰われるのにも頓着せず、夢中になって相手を貪り、執拗に絡みついたまま決して離れようとはしない。
 「おい。――おい!」
 腕の中で急速に力を失っていく異父兄に気付き、弟が悲鳴を上げる。怒鳴るように名を呼んでも必死で揺さぶっても兄はくたりとしたまま動かない。
 だが、薄く開いた瞼の下で簪は確かに見た。
 もはや頭だけしか残っていないというのに喰らい合うことをやめない大蛇の姿を。
 「簪さん、簪さん! 馬鹿、目開けろ! 簪さん!」
 二人の頭上を彷徨っていた蝶がほとりと床に落ちる気配を感じたのを最後に、簪は意識を手放した。


 意識がゆっくりと焦点を結び始めたようだ。無秩序に散らばっていた記憶が徐々に枝葉をつけ、芽吹き、繋がり始める。
 しんしんと寒さが入り込む。だが、体の下は温かく、心地良い。
 ――体の下?
 眼を開けようとするも、後頭部に居座る痛みが邪魔をする。かすかに身じろぎをすると体の上にも何か温かいものがかけられていることに気付いた。
 ようやく開いた視界に映り込むのは見覚えのある天井。しかし皆藤の家の天井ではないようだ。寝かされた布団の感触も体に馴染んだものとは違う。
 「お目覚めになりましたか」
 聞き覚えのある声に目を動かすと、いつも世話になっている医者がこちらを覗き込んでいた。
 「どう、し……」
 あちきはどうしてここに?
 そう尋ねようとしても喉がこわばり、声が出て来ない。ごま塩の髭を生やした医者は無理をして喋るなとでもいうように軽く片手を挙げ、簪を制した。
 「昨晩、弟さんが倒れた貴方を背負ってここに担ぎ込んだのですよ」
 「へ、え?」
 「夜になってから帰宅した弟さんが廊下で倒れている貴方を見つけたそうで……ひどく狼狽しておいででした」
 医者は簪の枕元を離れ、部屋の外へと声をかける。入って来たのは弟だった。眠っていないのだろうか。目の下に青黒いくまが張り付き、顔には濃い疲労の色が滲んでいる。
 それでも彼は、目を開けた簪の姿を見とめると安堵したように口許を緩めるのだ。
 「ともかく、熱は下がったようですから一安心です。しばらく休まれてからお帰りなさい」
 「ですが……家業が――」
 「そんなことを言っている場合か」
 声を荒げたのは弟だ。重い頭をゆっくりとめぐらせて視線を向けると、つかつかと歩み寄ってきた弟はぴしゃりと簪の額を叩いた。病人に対する手荒な待遇に医者が目をぱちくりさせるが弟はお構いなしだ。
 「少し休め。その体じゃ働くこともできないだろうが」
 「しかし、この忙しい時節に」
 「休めと言っているんだ。……心配するほうの身にもなれ」
 そっぽを向いてぼそりと呟く弟に簪は目をぱちくりさせたが、ふと懐かしい既視感に包まれて緩く微笑む。
 前にも一度、似たような状況があった気がする。皆藤の家で暮らし始める以前の話だ。こうして思い返してみればずいぶん昔のことに思える。
 「とにかく休め。これ以上のわがままはこの俺が許さん」
 「これ以上……とは、どういう、意味で? あちきがいつ……」
 わがままを言ったのですか、と言いかけて簪は口をつぐむ。
 ――理由はどうあれ、弟に心配をかけたことも、弟が言うようにすべてに蓋をして溜め込んでいたことも事実なのだ。
 「……あんたが俺をどう思ってるかは知らんし、あんたが俺に何を求めてるのかも知らん」
 簪の心中を察したというわけでもあるまいが、枕元にどっかりと座った弟は腕を組んで苦虫を噛み潰している。
 「あんたが求めてるのは俺じゃなくて母の血筋だとしても、そんなことは知らん」
 「お待ち……なさい、な。あちきが、いつそんな」
 「だが」
 簪の抗いを封じるようにぴしゃりと言い放ち、弟はがりがりと頭をかきむしった。
 「――俺はあんたの弟で、あんたは俺の兄だ。それだけは言っておく」
 眼をしばたたかせて弟を見上げると、その肩には既に異形の姿はなかった。完全に消えたのか、単に一時的になりを潜めているというだけなのか。
 ならばあの情景はすべて夢だったのだろうか?
 だとすれば弟の胸元につけたあの傷はどうなっているのだろう。あれだけ激しく爪を立てて血を流させたのだから傷痕くらい残っているはずだ。だが、傷が残っているかどうか確かめてみる気にはなれなかった。
 (結局……最初に逆戻り、ということなんですかねえ)
 こけた頬の上で諦観とも安堵ともつかぬ微笑がさざめく。
 それでもいい。今はそれでいい。兄弟としてともに睦まじく暮らせる日々は何物にも代えがたく、貴い。
 「間明さんももうじき見舞いに来るそうだ」
 「間明さん、にも、知らせた……のですか? まったく、大袈裟な……」
 「うるさい。兄が倒れたんだ、動揺もするだろう」
 つっけんどんに言い放って背を向ける弟を苦笑で見送ることしかできないのがもどかしい。もう少し心身が元気であればもっと言葉を尽くして語りかけられただろう。
 だが、焦る必要はない。弟と話す機会はこれからいくらでもあるのだろうから。


 弟が間明の家に駆け込んで来たのは明け方のことだ。昨晩家の中で倒れていた簪を医者の所に担ぎ込んだのだが、居ても立ってもいられなくなったのだという。だが、簪が医者に預けられた以上、バクチ打ちである間明がしてやれることは何もない。夜が明けたら様子を見に行くと約束して、うろたえる弟をなだめるのが精いっぱいだった。
 (やっぱりあの蛇が関係あるのかねえ)
 医者の元へと向かいながら間明は顎をさする。(ニイさんについてたあの真っ赤なアレはもしかして弟のだったのか? だとしたら、弟についてた白いアレはやっぱり……)
 もっとも、今となってはそれを確かめる術もない。明け方にやってきた弟には異形などおぶさっていなかったし、気配も消えていた。
 (ま、これで元気になってくれりゃいいんだがな)
 干物のようになりながら至福の微笑を浮かべて死んでいたあの母子の姿が鮮やかに脳裏に甦り、ぼりぼりと頭を掻く。
 朝にしては遅いが昼にはまだ早い。往来は少しずつ活気が出てきたようだ。太陽も少しずつ高く昇り、弱々しくも暖かい光を投げかけてくれている。
 きゃっきゃっという童の声が耳に入り、間明は思わず足を止めた。
 兄弟であろうか。幼い男児が二人、軒先からぶら下がったつららを枝でつつきながら笑っている。溶けかけて濡れたつららは根元からぽきりと折れて地面に落下し、砕けた。
 砕けた氷のかけらを枝の先で弄ぶ弟のほうが不意にあっと声を上げた。
 「にーちゃん、ちょうちょ! こおりのなかにちょうちょいる!」
 「馬っ鹿、冬にちょうちょなんかいるはずないだろ」
 「でもちょうちょ、ちょうちょだよ! あげはだ!」
 眉を跳ね上げた間明は思わず兄弟の間に割って入っていた。

 それはまさしく揚羽蝶であった。
 力尽きて水溜まりの上に落ち、そのまま凍りついてしまったのだろう。季節外れの鮮やかな蝶が氷漬けになって死んでいた。

 翅を閉じて横たわった蝶が氷の中で(こご)っている様は美しい光景ではあった。凍えた水晶のような氷と蝶の紋様の対比が鮮やかだ。蝶の翅は疲弊し、憔悴して、些か色褪せ過ぎてはいたが、その病的な美しさにはどこかしら寒気を覚える。
 氷に閉じ込められた蝶は何も言わない。くたびれきって凍りついた骸は、もはや動くことも喋ることもできやしない。ただぼんやりと、透き通った氷の下から空の色を仰ぎ見るだけだ。
 ちょっと力を入れて踏めばぱりんと音を立ててたやすく粉々にしてしまえるだろう。
 ぼろぼろに裂けた薄い翅と色褪せた模様はあの母子と簪の姿を想起させて、間明はきつく眉根を寄せた。


   ◇ ◇ ◇


 「おや、簪さん。いつもどうも」
 聞き慣れた声に顔を上げると、にこやかな顔の住職が歩み寄ってくるところだった。
 「へぇ……すみませんねえ、毎度お邪魔しまして」
 「いえいえ、いいんですよ。ねえ、おまえも嬉しいだろう?」
 住職は簪の傍にお座りをした黒い犬に声をかけるが、犬はつんとそっぽを向くだけだ。
 確か梅雨の時期のことだったか。銀幕市内を散策中に驟雨に見舞われた簪はたまたまこの古寺に辿り着き、一晩の雨宿りを請うた。古びた客間で一夜を過ごす簪の元に姿を現したのがこの黒い犬だ。若々しく引き締まった風体と好奇心旺盛な表情に弟のことを思い出した簪はついつい思い出話を語ってしまったのだが、それ以来どうも懐かれてしまったらしい。
 犬は簪に頭を撫でられながら気持ち良さそうに目を細めている。初めはまともに触らせてもくれなかったのだが、今ではこの通りだ。膝を折って両手で体を撫でても逃げる気配を見せない。
 「今日も行商の途中ですか?」
 「へぇ。あらかた終わりまして、そろそろ戻ろうかと……その前にちょっとこいつの顔が見たくなりまして」
 戻るという言葉に反応したのだろうか、犬がぴくんと耳を立てた。
 「おや。何ですか、あなた」
 住職に頭を下げて辞去しようとした簪の後を黒い犬がとたとたとついて来る。
 「あちきは帰るんです。あなたも自分のねぐらにお帰りなさい」
 律儀にお座りをした犬に声をかけて数歩歩く。が、まだ足音がしたような気がして振り返ると、犬はびくっと身を震わせて足を止めた。
 「困りましたねえ……」
 犬や猫の類は好きだ。しゃがみ込んで招き寄せると、犬はとことこと簪の手の中に入ってくる。鼻面を掻いてやると気持ち良さそうに目を閉じて頭をすりつけてきた。
 「連れて行きたいならどうぞ」
 簪と犬の様子を見守りながら住職がくすくすと笑っている。「元々そいつは野良です。うちで飼っているというわけでもありませんから」
 言われてみればそうだった。どうするかとでもいうように犬を覗き込むと、犬はつやつやとした黒眼をぱちくりとさせてことりと首をかしげた。
 「お好きになさい」
 緩い苦笑を落として歩き出す。犬は早足で簪の脇についた。
 「まったく……物好きですねえ。あちきについて来ても何も出ませんよ?」
 犬はふんと鼻を鳴らした。構わないとでも言われたような気がして――そんな勝ち気なしぐさがあの男を思い起こさせて、簪はもうひとつ苦笑をこぼす。
 寺の門を出た辺りで犬はふと足を止めた。
 「どうしました?」
 犬がどことなくそわそわし始めたのだ。鼻面を上に向けて、空を仰ぐようなしぐさで身構えている犬の視線を追った簪は思わず「おや」と声を上げた。
 揚羽蝶だ。この寒空の下、黄色い揚羽蝶がはたはたと飛んでいる。
 「かわいそうに……もう長くはないでしょうねえ」
 蝶は弱り切っているようだ。平衡感覚を失ってしまったかのように、不規則な軌跡をえがきながら飛んでいる。ふらふらと、高く、低く。色も模様もすっかり褪せて、脆弱な翅もふさふさに裂けているというのに、どうして飛ばねばならないのだろう。
 よろよろと彷徨う蝶は徐々に高度を下げて、簪の肩の辺りまで降りてくる。
 それを虎視眈々と狙っていた黒犬が不意に跳躍し――蝶をくわえて叩き落とした。
 「ああ、かわいそうに」
 狩猟者としての本能だろう、犬や猫は小さくて動くものに興味を惹かれるものだ。しかし蝶は幸運にも第一撃を逃れたらしい。地べたに叩きつけられ、欠けた翅を引きずり、尚も飛び立とうともがいている。
 だが、それはもはや断末魔の痙攣のようでもあった。
 「およしなさいな」
 格好のおもちゃを見つけたと言わんばかりに目の色を変えた犬を制し、簪は蝶をそっと掌にすくい上げた。
 「むやみな殺生はいけません。あなたもお寺の犬ならわきまえなさい。……と、そういえばあなたは野良でしたね」
 犬は軽くうなだれるようにして「くーん」と鼻を鳴らした。
 掌の中でぴくぴくと痙攣する蝶を道端の植え込みに放してやった。しかし蝶はもはや飛ぶことはできない。夜になれば霜と一緒に凍えて死ぬだけだろう。
 「ほら、行きますよ」
 断末魔に苦しむ蝶に背を向けて犬を呼び寄せ、再び一緒に歩き出す。原作内で自分が辿る運命など知るよしもないままに。
 かさかさと身じろぎしていた蝶は植込みの上から滑り落ち、冷たい地面にほとりと落ちた。
 色褪せ、疲弊し切って死んでいく揚羽に気付く者などいなかった。


 (了)

クリエイターコメントいつもより若干短くまとまりました。…若干。

三度目のご指名ありがとうございます、宮本ぽちでございます。
考えようによっては多少残酷な、少し含みを持たせた幕切れとなりました。

まるで私が『偽形』シリーズの作者になったかのような錯覚に陥りまして(二度目)、やりすぎかな? やりすぎかな? と思いつつ結局色々とやってしまいました。
ご兄弟の間柄に重点を置いたエピソードということで、事件のほうはやや軽めに流す感じにしておきました。
クライマックス(?)のくだりは、もう…夢か現実かは解釈にお任せいたします。どちらともとれるように書いたつもりですので。

多少艶っぽい部類に入るノベルになったかも知れませんが…いかがでしたでしょうか。
お気に召してくだされば幸いです。
この度もどうもありがとうございました。
公開日時2008-11-27(木) 20:40
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