|
|
|
|
<ノベル>
そこは、銀色の鳥籠。
そこは、鳥籠を模した温室。
咲き誇る花もなく、辺りは闇に包まれ、銀のテーブルと銀のイスが置かれているだけの場所。
けれどそこには、一羽の小鳥が囚われているという。
歌も忘れ、飛ぶことも忘れ、眠り続けるその小鳥にまつわるひとつの噂。
それは――
*
鳥籠の中には小鳥がいる。
けれど、小鳥がいるはずのこの《鳥籠》は空っぽにしか見えない。
そこは、まるで来訪者を待ちわびていたかのようにその入り口を開けていた。
簪は背負っていた大きな笈を足元に下ろし、自身もまた傍にあったひじ掛けのあるアンティークチェアに腰を下ろして、ふぅっと大きくため息をつく。
身体から自然と力が抜けた。
さして疲れたわけではないけれど、それでも大きな荷物を下ろす時にはついやってしまう。
椅子に背を預け、ゆったりと辺りを見回してみる。
異国の花々のささやかな香りとともに、何かで満たされながら、何もないかのように思わせる、現実感の希薄な場所だ。
天井付近で乱反射を繰り返しながら広がる陽の光は、磨きこまれた大理石の床まで届く。
銀の格子と嵌め込まれたガラスで形作られた鳥籠は、手入れの行きとどいた光あふれる温室でもあるらしい。
だがここに、主と思しき者の姿はなかった。
ただ、時折小鳥の羽ばたき、そして木々の合間を飛ぶ影は認められる。さえずりは聞こえない。
あるようでなく、ないようである。
それはまるで……
「……ムービースターのよう、ですかねぇ……」
こぼれおちた呟きは、思いのほか的を射たものだったのかもしれない。
思考が、ゆるやかに流れだす。
「あるようでなく、ないようであるというのなら」
遠い日の幻のように秘めやかで曖昧なまどろみを肌で感じながら、簪はごく最近耳にしたばかりの《物語》へと想いを馳せる。
「……あの子供らの言う《青い鳥》とは、はて、一体どういうものなんでしょう」
ソレを知ったのは、実に偶然らしい偶然だった。
たまたま街中ですれ違った幼い子供たちが交わしていた会話、その中で飛び出してきたのが《青い鳥》の話だ。
幸せを求め、青い鳥を探して旅をするふたりの兄妹。
お伽噺には教訓が含まれるものだが、では、あの兄妹と小鳥の物語には一体どんな《教え》が含まれているのだろうか。
「《青い鳥》を見つけたら幸せになれるという。それじゃあ、《青い鳥》というのは幸せそのものということになるってことでしょうに」
銀幕市に来てから、たくさんの鳥を見た。
オオルリやインコも青い鳥だ。
数多くの青い羽根を持つ鳥たちの中で、では、本物の青い鳥とは一体どれをさすのだろう。
どこにいて、どんな姿をしているのだろう。
「ねぇ、本当にそんな鳥がいるんでしょうかねぇ?」
ふわり。
温室だと思っていたここは、やはり鳥籠なのだろうか。イスに身を預けた簪の前に、小鳥がやってくる。
「あなたはその答えを知っていますか?」
小鳥はひじ掛けに止まり、首を傾げる。
丸い瞳は可愛らしく瞬きを繰り返す。
小鳥がなにがしかの答えをくれるはずがない。それでも構わず、問いを口にする。
「そもそも、青いことに何か意味があるんでしょうか?」
詳しい話を簪は知らない。
青いことで何か救いとなるような、青という色によって幸福となるような、そんな理由が物語の中で語られているのだろうか。
「いるのかいないのか分からない鳥……見つけられたら幸福になれる、そんなことが約束された鳥というのは、どういう存在なんでしょう」
幸せ。
幸福。
幸福を約束する小鳥。
あるようでなく、ないようである者に、触れることで起こるかもしれない奇跡を語るのか。
それとも。
「ただの、運だめしだったり、するんでしょうか? ゲンを担ぐように、鼻緒が切れたら不吉だと言うように、茶柱が立ったらいいことがあると言うように、“青い鳥を見たらいいことがある”、なんて、その程度のものだったりも、するんでしょうかねぇ」
ふと、笈の中に手を入れ、簪は食パンの入った紙袋を取り出した。
銀幕市のパン屋で仕入れたものだ。
パンの端をほんの少しずつつまんで指先に乗せて差し出せば、とととっと小鳥が近づいてきて、その小さなくちばしでパン屑をついばむ。
穏やかな時間だ。
鳴かない小鳥が簪を見る。
鳴かない小鳥を簪も見つめる。
「いずれ消える存在、初めからいない存在が、ここの住人達の《青い鳥》になれるものなのでしょうかねぇ?」
絶望と戦う銀幕市民の姿が浮かぶ。
ムービースターとムービーファンとエキストラによって分類されたこの街の住人達の、戦いは壮絶だった、と思う。
スターの力の中には常識を軽く凌駕する者も多い。制限されてなおありあまる異能は、数多の絶望と対峙する時、この街の助けになっただろうか。
壊れた何かを直し、傷ついた誰かを癒し、失われたものをもう一度見つけ出し、そうして紡ぐ時間の中で、スターは元の住人達にとって《青い鳥》でいられるのだろうか。
消えることが定められ、喪失を与えると決まっていながらなお、関わるものたちに幸福を見せられるのだろうか。
「あるいは、もしかすると……ムービースターという存在が、ここに青い鳥を求めているということなのでしょうか」
ここにはいない、弟の姿が浮かぶ。
愛おしい、何物にも替え難く、だからこそ何物にも変えないために距離を置いた、大切な大切なお間抜けさん。
胸が潰れるような痛みを、自分はまだ覚えている。
理性が揺さぶられた瞬間を、自分の中に駆け巡った情動を、まだ覚えている。
もしも弟もまたこの世界に実体化できたとしたら、あるいは、《映画の中》とは違う関係を築けたのだろうか。
自身に課せられた運命の筋書きを書き換えるような、そんな救いが用意されたりしたのだろうか。
実体化。
あるようでなく、ないようである存在の、これは奇跡。
その奇跡の中でなら、どんな願いも叶ってしまうのだとしたら、ムービースターこそがこの街に、青い鳥を見ているのかもしれない。
自分の物語を俯瞰して、奇跡のカケラを拾い集めて、不幸だと、不運だと、そう思っていた運命を変えるために、働きかけているのかもしれない。
青い鳥を幻視する。
望むあまりに、幸福を幻視する。
「《青い鳥》は幸せの象徴……ですがね、本当の幸いというやつが、はたして探したところで得られるものなのかという話で」
探して探して捜しまわって、ソレに果たして意味はあるのだろうか。
手に入れたいと願うことすら赦されず、傍にいるためには距離が必要で、触れることが罪になり、思うことが枷になる、そのようなものであっても、青い鳥は幸せを約束してくれるのだろうか。
問いは繰り返される。
矛盾を孕み、繋がるようで繋がらず、続いていないようで続く思考、幾度も繰り返されるその問いに対し、小鳥は何も答えない。
応えずにただ、時折パン屑をついばみ、時折簪を見つめ、時折羽ばたこうとするそぶりを見せる。
けれど結局は簪の呟きに付き合ってくれている。
「……さぁて、これをどう解くかということなんですがねぇ、答えなど出るものなんでしょうかね? ねえ……?」
「結局のところ、気づこうと思わなければ永遠に見つからないものなんだと思うわ」
「……へ?」
唐突に過ぎる、言葉の返し。簪からこぼれおちたまま、自身には還ってくるはずのなかった言葉が返された。
いつの間にここに来たのだろう。いや、もしかすると自分が気付かなかっただけで、彼女はずっとここにいたのかもしれない。
それほどに自然に、それほどに当たり前に、少女が佇んでいた。
漆黒に染められたアンシンメトリーのレースの裾が吹くはずのない風に揺れて、その優雅さが簪に鳥の羽を思い出させた。
「ごきげんよう、簪売りさん」
ドレスの裾を持ちあげて、少女は優雅に一礼した。
そうして顔をあげ、微笑みをくれる。
けれど、彼女の顔が分からない。確かに見ているはずなのに、笑っていると判るのに、奇妙にピントがずれた写真のように判然としない。
「いったい、あなたはどなたさんで?」
「あんまり楽しそうにその子とおしゃべりしているから、そしてあんまりたくさんの質問を繰り返しているから、引かれてしまったのよ、簪売りさん」
質問への答えにならない答えを返し、くすりと笑う。
歌うように楽しそうに笑う彼女の肩に、たった今までパン屑をついばんでいた小鳥が飛んだ。
それまでどこに潜んでいたのかと思うほどの小鳥たちが、彼女の肩や頭やほんの少しだけ掲げた指先に止まる、あるいは彼女の周りを舞う。
花に蝶が群がるように、彼女に小鳥たちが引き寄せられる。
それは、不思議な光景だった。
けれど、そこに青い鳥はいない。
「よかったら、そうね、きっと良いことだと思うのだけど、せっかくだから探してみるのはどうかしら、簪売りさん?」
光や色彩にあふれる鳥籠の中でどこまでも黒のみをまとう彼女は、世界に落ちた影のようにも見えた。
「青い鳥を見つけるのも、見逃すのも、見ていないことにするのも、全部あなた次第だわ、簪売りさん」
くすくすと彼女は笑う。
笑い、歩き出す。
小鳥たちを引き連れて、彼女は軽やかな踊るような足取りで、歩き出し、そして、ふ…っと、花の中に消えた。
とけるように消えた、小鳥たちとともに、蜃気楼のように幻のように消えてしまった。
「……これは……誘われているのなら、誘いに乗るべきでしょうかねぇ」
思わず小さく苦笑が漏れた。
小鳥に問いかけながら、自問自答であったはずの、答えが見つかるのか見つからないのか分からない独り言へと返された言葉。
返されてはいても、問いかけへの答えではない言葉。
簪は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
小鳥のさえずりは聞こえない。
けれど、どこからか吹き込んでいるらしい風によって生まれる植物たちのさざめきなら聞こえる。
青い鳥、幸せの証、幸福を約束する鳥、ここは、ある種の《約束の地》。
「青い鳥はいるのかいないのか、生きているのか生きていないのか、それをあちきに決めさせてくれるんでしょうかね」
緑の葉が揺れる。
見たこともない形の花、冬色や虹色や真珠色の花たちの揺れる、ガラス細工の鳥籠の中で。
羽ばたきが聞こえた。一羽や二羽ではない、数十を超える羽ばたき。
――青い鳥。
ガラスと格子をすり抜けて、飛び立ち、視界を覆い、そうして舞い上がる、青の群、蒼の羽ばたき、藍の色彩。
青い鳥が飛ぶ。
簪の知らない、見たこともない種類の青い鳥たちが、一斉に緑の中から飛び立ち、舞い上がり、天上へと、光射す空へとガラスなど初めから存在していないかのように、飛んでいく。
鮮やかすぎて、圧倒される。
誰かの役に立てるのかどうか、自分の運命を変えたいがために縋り期待しているのだろうかとか、そんな巡り巡る思いも、本当の幸いというモノの定義すらも遥かに飛び越えて。
それはただ、青かった。
ひたすらに青く、その青さは、見ているだけでもう、どうしようもないくらいに美しかった。
ちゅぴり。
ちゅぴり、り、りりりりり……
耳を打つ、それはかすかな小鳥のさえずりだ。ガラスのように澄んだ、透明な歌。透明すぎて儚い、遠い日の記憶のような旋律。
それを合図に、簪は顔を上げ、目を細める。
「ああ、寝入ってしまったみたいですね」
銀の格子にガラスのはめ込まれた、この温室にして鳥籠、鳥籠にして温室と呼ぶべき場所には、自分とアンティークのテーブルセットひとつを除いて何も存在していなかった。
咲き誇る花も、はばたく小鳥も、異形とも呼べない黒い少女も、なにもない。跡形もなく、消えている。
だが、この光景こそが、簪がはじめに目にしていたものだ。
歩いて歩いて歩き続けて、ふとした拍子に訪れた、ここにまつわる噂話は耳にしていた。
自分の終わりを見るという、あるいは失われたものと再会すると言う、そんな話であったはずだが。
「そう簡単にはいかないってことなんでしょう」
簪はイスから立ち上がり、荷物を再び担ぎあげた。
休憩は終わりだ。
答えの出ない答えを探求し、思考を巡らせ、想いを馳せて、そうして自身が抱く喪失感にそろりと触れてみる行為は、ひとまず終わりだ。
だから、歩き出す。
何もない空っぽの鳥籠、なのに何かで満たされたこの籠の中から、一歩を踏み出して。
再び、小鳥のさえずりが聞こえた気がした――
「おや、眩しい」
思わず手庇で空を仰ぐ。
太陽の光が、折り重なる木々の合間から自分を照らす。
杵間山は今日も、視界を埋め尽くすような圧倒的な存在感の深緑で溢れていた。
簪は笈を背負い直し、空と緑を見つめる。
「いま、夢と現の境界を越えた気がしますねぇ」
小鳥たちのいた鳥籠、小鳥も花々もない温室、それらを経て、再び自分は自分の《いまの日常》へと戻ってきたのだろう。
夢から現へ、その現ですらも現でありながら儚い夢の中に、簪はいま立っているのだ。
「あれは結局何だったのでしょうねぇ?」
こぼれた問いに答えるモノはない。けれど、あの鮮やかな青の羽ばたきは確かな存在として目に焼き付いている。
青い鳥が持つ命題。
それに対する明確な回答を得たわけではないけれど、それでもあの鮮やかさに惹かれたことは事実だ。ほんの一瞬とはいえ、失われたものへ想いを馳せることも忘れるほどに。
つま先に触れて転がったモノ、光の反射してきらめくモノを目で追いかけ、好奇心に駆られて手を伸ばす。
「……卵? いや、石でしょうか……?」
摘みあげたソレは、卵を模した小さな小さな石だった。
「これは、ふぅむ、なかなかの逸品」
清水ほどに美しい、水浅葱の石を透かして空を見た時、一瞬、本当に一瞬、その中に、小鳥がよぎった。
それは――
「なんとまあ、粋なことを」
くすくすくすと笑いながら、簪は歩きだす。
その懐に小さな石をしまいこんで、小鳥のさえずと木々のさざめき、小川のせせらぎによって揺れる森の中を、思うままに歩き続ける。
END
|
クリエイターコメント | 《鳥籠》の中にて語られる十個目の《夢》をお届けいたしました。 鳥籠には、追い求める《青い鳥》の定義、それを軸とした夢と現の不確かな境界での思考を映させていただきました。 明確な言葉にならない喪失感、馳せる想い、答えの出ない問いの答えを、繰り返される言葉の中に、そして色の中にひっそりと綴らせていただいたのですが、いかがでしたでしょうか?
小鳥が眠るこの鳥籠へとお立ち寄りくださり、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-06-21(日) 18:50 |
|
|
|
|
|