★ 小鳥の心臓 ―With All One’s Heart― ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-7257 オファー日2009-04-02(木) 00:05
オファーPC 理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
ゲストPC1 ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
<ノベル>

 1.強張る唇

 何の変哲もない日の午後だった。
 理月(あかつき)は、いつものような黒ずくめの武装で、いつものように手土産を持って黒木邸を訪れていた。
 今日の手土産は、カフェ『楽園』の一押しシフォンケーキとマドレーヌ、そして理月が、この黒木邸の主、ブラックウッドと一緒に見たいと思って買った大きな百科事典で、特に見事な写真や絵画が全ページを彩る大型本は、ブラックウッドの目をも楽しませるだろう自信があった。
 出迎えてくれた金髪のメイド嬢に礼を言い、彼女から客が来ているらしいと聞いて、とりあえず邪魔をしないように様子を見ていよう、と思って温室へと向かった。
 ブラックウッドは、そこで客に応対しているのだと言う。
「ブラックウッドさん、お客って……」
 鮮やかな緑のカーテンを掻き分け、ブラックウッドの姿を探して温室を彷徨う。個人所有の温室のはずなのに、多種多様な植物が見事な共演を見せるここは、下手な植物園より素晴らしい生態の坩堝だ。
「あ、こっちかな」
 かすかな溜め息が聞こえてきて、理月は大きな棕櫚の葉を掻き分けて向こう側へ踏み込み、
「――……あ」
 思わず言葉をなくして硬直した。

 ああ。

 漏れた声には恍惚があった。
 見も知らぬ女が、うっとりとした表情でブラックウッドの腕に抱かれている。
 いつも通りの上質なスーツに身を包んだブラックウッドの顔は見えない。何故なら彼は、パッと目を惹く美しい顔立ちをした女の首筋に顔を埋めていたからだ。
 ――液体を啜る音が耳を打つ。
 自分が経験した限り、それはそんなに大きな音ではないはずだったが、今の理月の耳に、それは意識を打ち据えるほどの大音響のように感じられた。

 ああ。

 また、小さな溜め息。
 ブラックウッドの腕に抱かれ、ブラックウッドの身体に縋りつく彼女の、あの恍惚の理由を知っている。
 血を吸われることには、抗い難い、激しい快楽が伴うのだ。
 不死者たちが『餌』をつなぎとめ逃げる意志を削ぐために持つというその能力は、一旦はどうにか喰らい尽くされることを免れた犠牲者に、再び彼らの牙の元へ身を投げ出させる理由になっているのだとも聞く。
 つまり、ブラックウッドは今、
「……客って、そういうことか」
 『食事』の真っ最中なのだ。
 恐らく彼女は、ブラックウッドの『協力者』のひとりなのだろう。
 理月がいることに気づいているのかいないのか、気づいていても『食事』を止めるほどのことではないのか、無心にと言って過言ではない規則的な音を響かせて――実際にはそれは、ごくごくかすかなものであったのだろうけれど――、ブラックウッドが血を啜っている。
 理月はそれを、身動きも出来ずに見つめていた。
 女の至福の、愛しげですらある表情に、胸の奥が苦しくなる。
「……何だ、これ……」
 眉をひそめ、胸元を抑えた時、菓子や本の入った大きな紙袋が手から離れて地面に落ちた。
 その、どさり、という音に、一番驚いたのは理月だったが、
「――……理月君?」
 そちらに気を取られている間に、ブラックウッドが顔を上げていた。
 唇にほんの少し付着した赤に、何故か目の奥が痛くなり、理月はきつく拳を握って一歩退いた。
「理月君、」
「ごめん、邪魔して」
 それだけ、搾り出すように言って身を翻し、メイド嬢たちへの挨拶もそこそこに、逃げるように黒木邸をあとにする。
 別に何でもない、用事を思い出しただけだ……と自分に言い聞かせても、滑稽なほどに、他愛ないほどに踊る心臓を落ち着かせることは出来そうにもなかった。



 2.冷たい壁

 何となく、予感はあった。
「理月君、待ち給え。――……どうしたと言うのだね」
 だから、立ち止まった瞬間背後から声をかけられても、理月はそれほど驚きはしなかった。
 むしろ、ブラックウッドが追いかけてきてくれたことを、くすぐったく嬉しくすら思ったが、それも、先ほどの光景が脳裏を過ぎると、すぐに冷えて凝り固まってしまう。
「……別に、何でも」
 薄暗い路地の片隅を見遣りながら理月は首を横に振る。
 他に何と答えればいいのか判らなかったのだ。
 何故自分がこんな気持ちになっているのか判らないのと同じく。
「お客さん……置いてきたのか? 早く戻った方が、」
「彼女は私の『協力者』だよ、知っての通り。それ以上でもそれ以下でもない」
「……」
 静かな、普段と何ら変わりのないブラックウッドの言葉に、理月の視線は下を向く。
 何故自分がこんな気持ちになっているのか、自分でもはっきり判らない。
 判らないのに、胸の奥がもやもやとして苦しい。
「……あんたに」
「ああ、どうしたね、理月君」
 ブラックウッドが向けてくれる穏やかな眼差しに息が苦しくなって、唐突に理月は、自分は今嫉妬しているのだと気づいた。
 本当は知っている。
 ブラックウッドには『協力者』が何人もいて、二千年を経たエルダーに血液という名の食料を提供していること、そして、それらの『協力者』なしには、吸血鬼たるブラックウッドは生存出来ないのだということも。
 さっきの女が、そのひとりだということは判っている。
 ブラックウッドにとっては本当にそれだけのことなのだろうと、感謝や親愛の情があるだけで特別なことではないのだろうとも思う。
「あんたにとって俺は、その他大勢のひとりでしかねぇのか」
 判っていてそれを言ってしまったのは、最近になってようやく芽生えてきた幼い頑是ない独占欲が、あの時女が浮かべていた恍惚の……至福の表情が許せないと、ブラックウッドの腕の中に彼女が収まっていたことが耐え難いと叫ぶからだ。
 それと同じく、ブラックウッドの『おやつ』である自分もまた、ブラックウッドにとってはたかだかそれだけの、十把ひとからげの存在でしかないのかと、では自分がブラックウッドに対して抱いているこの深い信頼と執着は――とはいえ理月は、それが執着だとはっきり自覚しているわけではなかったが――どうすればいいのかと、理月の中の幼い部分が途方に暮れるのが判るからだ。
「俺にとってあんたは、俺の半分くらいに大きいのに」
 この街に来て理月は救われた。
 たくさんの人々が向けてくれる善意が、理月の傷を癒し、その痛みを和らげてくれた。
 ブラックウッドは理月にとって、兄貴分である天人の青年と並ぶ、救い主の双璧だ。
 彼のお陰で乗り越えられたものも、決して少なくはない。
 ――だから、それなのに、と思うのだ。
「あんたにとって俺は、日常の一欠片程度でしかねぇのか」
 泣きそうな顔をしていたかもしれないと思う。
 いい年をした大人が駄々をこねるなどみっともないと思う。
 しかし、この年になってようやく、特別だとかひとりだけだとか感じる相手が出来たのだ。未発達だった感情は、唐突な変化に驚き、やはり唐突に突きつけられた彼我の差異に痛みを感じている。
 それゆえにこぼれた言葉だったし、こんなことを言えばブラックウッドを煩わせると判っていて、思わず口をついて出た言葉だった。
 けれど、正直なところ、返事を聞くのも怖くて――その通りだと言われてしまったら、理月は居場所のひとつを失うことになるのだから――、今すぐにここから逃げ出したい、と理月が竦んでいると、
「――……言い訳は、しない」
 ブラックウッドがぽつりと言った。
 そこに紛れもない哀しみを感じ、理月はハッと顔を上げる。
「これもまた、私なのだから」
 見つめた先で、ブラックウッドは、穏やかに……しかし哀しげに微笑んでいた。
 望むと望まざるとに関わらず、ただ強い渇望のために生命の理を捻じ曲げて蘇り、数多の艱難辛苦を乗り越えて今を生きる吸血鬼の、甘受と自己肯定、そしてわずかな諦観の混じった微笑だった。
 咽喉元を苦い後悔が這い上がる。
「ご、ごめ、」
 ブラックウッドにそんな表情をさせたかったわけではなく、彼の在り方に疑念を投げかけたかったわけでも、ましてや彼の存在を否定したいわけでもなかった。
 子どものようなわがままで、ブラックウッドを困らせた、と、嫉妬心や独占欲を上回る後悔と自己嫌悪が込み上げ、理月がぎゅっと唇を噛んで俯いた、そのときだった。
「……!」
 唐突に表情を厳しくしたブラックウッドが、あっという間に間合いを詰め、理月の懐に入り込むと、
「え、あ、何、」
 狼狽する理月を腕の中に抱え込む。
 その途端、

 ぐにゃり。

 周囲の風景が歪み、ひどい眩暈が襲った。
「何だ、これ……」
 すべて言い終わるより早く、ふたりはその歪みに飲み込まれる。
 理月は、何が起きているのかと訝りつつ、耳鳴りを伴う激しい眩暈に耐え切れず、意識を手放した。
 ――肩に触れる、冷たい手の感触に、条件反射のように安堵させられる自分を滑稽だと思いながら。



 3.【夢魔の館】

 降り立った先は、何故か、広大な館の一角、赤い絨毯で埋め尽くされた大広間の片隅だった。
「……理月君、大丈夫かね」
 何故か妙に『閉じた』感覚と、邪まな意志の存在とを、ブラックウッドは感じている。
 魔術的な要素、下地を持たぬがゆえに、場の歪みに耐え切れなかったのだろう、自分の腕の中にぐったりと身を委ねる理月をそっと呼び起こしながら、ブラックウッドは油断なく周囲を伺った。
「う……」
 低く呻いた理月が目を開ける。
 ブラックウッドの姿を認め、怜悧な銀眼が安堵の色彩を孕むが、先刻のやり取りを思い出したのか、それはすぐに強張り、理月はブラックウッドの腕から逃げるように立ち上がり、距離を取った。
 理月の気持ちが判るから、ブラックウッドは特に何も言わず、黙って彼の動作を見守った。
 『食事』は『魔』としての本能がもっとも強く現れる行為だ。
 それを傍目に見ると、『食事』中のブラックウッドは、普段の彼とは『同じ姿をした別の生き物』のように感じられる。ブラックウッド自身もその変貌の落差を知っており、あまり他人に見せるものではないと思っている。
 親しいものであるなら、尚更だ。
 言い訳など今更する気はないが、ただ、そうしなくては生きられぬ己の業深さを思いもする。
 とはいえ、先刻の理月の反応は、『魔』としてのブラックウッドを目の当たりにしてしまったショックというよりも、ブラックウッドが自分以外の誰かの血を摂取しているところへ行き逢ってしまったことに対する嫉妬と言った方が正しいようで、実はブラックウッドは、ほんの少し面映い気持ちになっていたのだが、今それを口にしても仕方がないので、やはり沈黙を守る。
 数多の愛とともに生きて来て、時には愛ゆえの諍いにも行き逢ってきたブラックウッドだが、理月のように、何の裏表も背景もなく、何ひとつ損得を換算せずに、子どものような他愛ない独占欲を口にした者はなく、
「……ここ、どこかな……いやあの、別に、独り言なんだけど」
 先ほど自分が言いすぎたと思っているのか、シュンとしている理月の可愛らしい姿に、ブラックウッドがこっそりと胸中だけで微笑し、愛しさを募らせたとして、誰が彼を笑えただろうか。
 恐らく理月が思うよりも、ブラックウッドは、この不器用で無邪気な、可愛らしい傭兵のことを愛しているし、特別だと感じているのだが、それはいちいち、言葉にして伝える必要のないことだとブラックウッドは思っている。
「さて……どうだろうね。無論、これも独り言なのだけれど」
 呟き、周囲を見渡す。
 理月は、ブラックウッドの物言いに珍妙な表情をして、それから唐突に顔を強張らせた。
「あ、な、何だ、これ……?」
 胸を押さえてぐらりと上体を傾がせる理月の傍らにそっと立ち、彼の背に手を当てて支えると同時に、理月に触れることで彼の『気』にも触れ、彼の異変の原因を探る。
「ふむ……この波動は……」
 と、不可解なエネルギー、しかも邪まな力を孕んだそれが、幾つもの方向から向けられ、理月を雁字搦めにしていることが判り、ブラックウッドは黄金の目を細めた。
「ひどく近しい匂いを感じる」
 それは、他者の精を奪って生きるものの匂いだ。
 理月を絡め取るエネルギーの帯は、そいつらが、理月を呪縛して衰弱させ、弱った魂を喰らおうという魂胆の元に放ったものだろう。
「だが……お粗末な檻だ」
 ブラックウッドはくすりと笑い、人差し指と中指を合わせて空気を切る仕草をした。

『恒久の王の名において、枷は朽ちよ、牢獄は燃え堕ちよ』

 それは、とても簡単な、呪縛を断ち切るための呪文だったが、二千歳級のエルダーが揮うことで大いなる効果を発揮し、
「……あ、楽になった」
 理月がホッとした表情を見せた。
「あの」
「どうしたね?」
 己と『つながって』いるエネルギー帯を情け容赦なく切り払われた所為だろう、ここからそう遠くない部屋から、三人四人分の、身の毛もよだつ断末魔の絶叫が聞こえたが、ブラックウッドは涼しい顔で、私のものに手を出そうなどとするからだよ、と胸中に嘯いていた。
「……いや、その、……ありがとう」
 ぎくしゃくとした態度のまま、視線は合わせないままだったが、理月がぼそぼそとそんなことを言い、首を横に振って何でもないと返してから、ブラックウッドはまた、思わず胸中に笑う。
「これは独り言だけれど、この『閉じた』場所には、私と性質を同じくする者たちが数多く巣食っているようだ。やり口から言って、吸血鬼ではなく、夢魔の類いかな」
「んー……俺には、吸血鬼と夢魔の違いが今一つ判らねぇから何とも言えねぇけど、この場所が閉ざされてるってことは何となく判るな。これって、どうやったら出て行けるんだろう、……あ、これも独り言なんだけど」
 先ほどのことが気になって仕方がないけれどどうすればいいのか判らない、と言った趣で、ぎくしゃくし困惑した様子のまま理月が周囲を見渡す。
 と言っても優秀な武人である理月なので、ブラックウッドとのことに気を取られつつも隙はない。右手はいつでも刀を抜けるよう、腰の『白竜王』の柄にかかっている。
 ブラックウッドはそれを頼もしげに見つめたあと、ゆったりとした動作で歩き出した。
「思わず口に出して言ってしまうけれどもね、ひとまず館の正面フロアへ回ってみるべきではないかな。エントランスがそのまま出口であるかどうかは判らないけれど、この館の構成を調べることは有意義だろうと思う」
「……俺もぽろっと零すけど、単独行動よりは一緒に動いた方がよさそうだな、何かあった時に対処しやすいから。ええと、ほら、扉はひとつだけだし、進行方向もひとつだけだから、仕方ないよな」
 言い訳のようにもごもごと言って、理月がブラックウッドの隣に並ぶ。
 ブラックウッドは、困ったような、目先をそらされて落ち着いてしまったような、複雑な表情を浮かべている理月をこっそり見遣り、胸中にくすくすと笑った。
 状況としてはあまり有利ではないが、少なくともふたりでいる限り、問題があるようには思えないから不思議だ。



 4.情熱

 シャア、と金属が擦れるような音を立てて襲い掛かってきた、猫と蝙蝠を掛け合わせたかのような生き物を、理月の『白竜王』が一刀の元に切り捨て、呆気なくプレミアフィルムへと戻す。
「ったく……キリがねぇな……!」
 ぼやく理月の、滑らかな黒褐色の面には、かすかな疲労の色が滲み始めていた。
 館は広く、潜む魔は多く、ふたりは何度も激しい戦闘を余儀なくされたし、時にはヒヤリとさせられることもあった。
 基本的に夢魔という存在は、面と向かって獲物と戦うことはないのだが、ブラックウッドが理月に、『精神に侵入・接近出来なくなる膜』を被せてしまったので、腹を空かせた夢魔たちは、理月の魂を食べるためには、目の前に姿を現して襲い掛かるしかなくなってしまったのだ。
 ちなみに、どうやら同属であるブラックウッドの魂は不味であるようで、夢魔たちは彼には目もくれない。
「だが……出口は近そうだよ。空気の匂いが変わってきた」
 ブラックウッドが言うと、理月は豪奢なシャンデリアに煌めく天井を見上げ、空気の匂いを嗅ぐ仕草をした。
「……判んねぇや」
 と、首を傾げてから、また、左の部屋から飛び出してきて襲いかかった夢魔の一体を、『白竜王』の一閃でプレミアフィルムに戻してみせる。
 ふたりがここに迷い込んでから数時間が経過していた。
 少なくとも、感覚の上ではそうだった。
 あまりにも広大なこの館、このムービーハザードは、館の体裁を保ちつつも実際には小世界めいている。
 お陰で、ここまで来るだけでちょっとした長旅になった。
「あ、」
 不意に理月が声を上げ、延々と続く廊下の向こう側を指差した。
「……ああ」
 その先に、エントランスによくある造りの階段と、重厚な彫刻の施された大きな扉を見い出し、ブラックウッドは満足げに微笑む。
 ブラックウッドは、自分たちが迷い込んだのは部屋の向きや形状からして館の東端であると判断し、また夢魔たちの気配の分散具合、部屋の配置などから判断して館の中央即ちエントランスは北に位置すると推測、夢魔たちと戦いながらそのように進んできたのだが、予測は当たっていたようだ。
「……やっぱり」
 真っ直ぐに前を見て歩く理月がぽつりと言う。
「ブラックウッドさんは、すごい」
 大きな扉が目前に迫る。
 ――扉の向こう側からは、『閉じていない』匂いが漂ってくる。
「お褒めに預かり、光栄だよ」
 ブラックウッドがおどけた仕草で肩を竦めてみせると、理月が小さく声を立てて笑い、その邪気のない笑顔をブラックウッドにも向けた。ぎくしゃくしていたことを吹っ切ったというよりは、戦いと大移動にかまけてすっかり忘れている、というのが正しそうだ。
 そういうところも可愛らしい、などと胸中に微笑みながら、ここから出たらもう少しきっちり話をしよう、とブラックウッドが思った、その瞬間、理月がサッと顔を強張らせ、
「ブラックウッドさん、危ねぇっ!」
 鋭く危険を告げると同時に、我が身をぶつけることでブラックウッドを突き飛ばした。
「理月く、」
 さすがに少し驚いたブラックウッドが、ん、を言い終わるより早く、大きな黒い影が、先ほどまで彼が立っていた場所を薙いでいった。
「!」
 今、そこには、体勢を崩した理月がいる。
 次の瞬間響くのは、肉を裂く、鈍い、生々しい音、生身が弾き飛ばされ打ち据えられる硬い音。
「……ッ!」
 黒い影に右肩から左脇腹までを切り裂かれ、更に吹き飛ばされて、エントランスの大きな扉に激突した理月が、ずるずると崩れ落ちていく。
 ほんの一瞬の出来事だった。
「理月君……!」
 素早く、しかしどこか優雅に、倒れた理月に駆け寄り、抱き起こすと、彼の肩から脇腹にかけて、三本の深い裂傷が走り、激しく出血している。
「また、無茶を……」
 声が責める響きを帯びたのは、諍いの最中にわざわざ自分を庇って傷つく必要はないと思ったからだったが、ブラックウッドの腕の中で咳き込み、痛みに脂汗を滲ませながらも、そして出血に震え意識を危うくさせながらも、理月は無防備に、困ったように笑ったのだ。
「……駄目だ」
 唇に血を滲ませながら、息を荒らげながら、理月が笑う。
「何がだね、理月君」
 手早く裂いた衣装の裾で傷口を縛りながら――前方にわだかまる黒い影を警戒しながら問う。
「やっぱ、駄目だ。俺、あんたが俺のこと嫌いだとしても、あんたのことが大好きだ」
「……理月君」
 傷は深く出血も多いが、致命傷ではない。
 それが判っているのだろう、理月はひどく落ち着いている。
「あんたが、俺のことをどう思ってたって、俺が、たった一欠片に過ぎなくたって、あんたが俺に、たくさんのものをくれたってことに変わりはねぇんだ。――……だから、俺は、あんたを守らなきゃ」
 言ってから、血が咽喉に絡んだのだろう、激しく咳き込む。
 口元を押さえた拳には、赤い血がこびりついた。
 ――それでも、理月は立ち上がろうとしていた。
 自分が言ったように、ブラックウッドを守るべく、『白竜王』を手にして立ち上がろうとしていたのだ、普通なら、いつ意識を失ってもおかしくない深手だというのに。
「……」
 ブラックウッドは言葉をなくして彼を見つめた。
 悩みつつも自分の心に問いかけて、自分なりの答えに辿り着き、こうして全身全霊で――命すらかけて気持ちを示してくれる、無防備で危なっかしい、愛しい傭兵氏の、全力の誠と友愛に、血の通わぬ胸の奥が暖かく、熱く、甘い熱情で満たされる。

『やはり貴様は同属か……先に始末してしまうに限るな』

 背後に響く、美しい女声が、先ほど理月を傷つけた黒い影のものであることは明白だ。
 咄嗟のこととは言え、理月が防御も反撃も出来なかった辺りを鑑みれば、あれはこの館を支配するものか、もしくはこの館でも強い力を持った夢魔だと考えるべきだろう。
「君は……この館の主かね」
 理月をエントランスの大扉にもたれさせ、しばらくそうしていなさい、万が一無理をしたらこのまま『寝所』に連れ込むよなどと若干脅迫気味に念を押してから、ブラックウッドは立ち上がり、声の主と対峙した。
 ブラックウッドの視線の向こう側には、豊満な肉体を持つ、絶世の美女の姿がある。
 吸血鬼が獲物を逃がさぬために至上の快楽を与えるように、夢魔もまた獲物を繋ぎとめる美しい容色の持ち主が多いが、彼女の場合は、姿かたちの美しさだけではなく、全身からあふれ出す雰囲気のすべてが、人々を虜にし縛り付ける魅了の力に満ちている。
『いかにも……私はこの【夢魔の館】を統べるもの、夜を渡りヒトの精を啜るものたちの主』
 女はそう言って、耐性のないものならそれだけで陥落しそうな笑みを浮かべた。
 そして、
『こちらへ来い、人間。お前に至上の幸福と快楽を与えてやろう』
 再度艶然と微笑み、扉にもたれかかって何とか姿勢を保っている理月に手を伸ばす。
 さすがは主と言うべきか、漏れ出る誘惑の力は他の夢魔たちの比ではなく、普通であれば、一般人であれば、なすすべもなく彼女の虜となって喰らい尽くされることだろう。
 しかし、ブラックウッドは、館の主と対峙しながら、残念ながら……と胸中に思った。
「嫌なこった」
 咳き込みながら理月が笑う。
「俺は、あんたなんかより、ブラックウッドさんの方が何百倍もいい」
 予想通りの、揺らぎのない言葉に、至福とはこういうことだろうかなどと少々惚気つつ、ブラックウッドは悪戯っぽく言った。
「おや、何百倍程度かね?」
「えー……何万倍、くらいの方がいいかな?」
「そうだねぇ、多ければ多いほど私は嬉しいね」
「うん、じゃあ、ブラックウッドさんの方が何万倍もいい、にしとく」
 生真面目に頷く理月。
 ブラックウッドはかすかに声を立てて笑い、自分の力が通じないことに不快げな表情をしている夢魔の主に向き直った。
『……仕方がない、貴様を殺して強引に魂を喰らうとしよう。不死者の魂など食えたものでは、』
「君は、悠長に構えているようだけれど」
 女の言葉を遮り、一歩踏み出す。
 微笑とともに、じわり、と冷たいものが滲み出す。
「……私の大切なものを傷つけ、私を怒らせた罪は、重いよ?」
 ブラックウッドの全身から、静かでありながら煉獄の業火のように激しい殺気が溢れ出たのは、その一秒後だ。
『なんだと、貴様、』
「――……時間をかけるつもりはない。疾く逝き給え、恐怖と絶望とともに」
 断罪者の如き傲然たる物言い。
 気圧されて一歩退く夢魔の主に向かい、ブラックウッドは跳んだ。
 鉤爪が、牙が、白く凶悪に輝いた。

 ――次の瞬間、響き渡った断末魔の悲鳴が誰のものであったかなど、今更賢しく書きたてる必要も、ないだろう。



 5.絆とまごころ

「……その、ごめん」
 ブラックウッドが夢魔の主を文字通り粉々にした次の瞬間、ふたりは元の路地裏に戻っていた。
 ずいぶん長い時間、あの迷路のような館を彷徨ったように思うのに、空を見上げても、太陽は少しも動いておらず、ブラックウッドからもらった銀の懐中時計を開けて確かめてみても、理月が黒木邸を飛び出してから三十分も経っていないのだった。
「いいや……私こそ、すまなかった。私は私の、魔物である部分を否定することは出来ないけれど、それで君を哀しませたかったわけでもないのだよ。それだけは、判ってくれるかい?」
 穏やかに微笑むブラックウッドに、理月は首をぶんぶんと横に振り、それから勢いよく縦に振った。激しく出血したあとなのでさすがに眩暈がしたが、いつものことでもあるのであまり気にしてはいない。
「や、その、あんたのこと考えずにやきもち焼いたの、俺だし。……でも、やきもち焼くより大事なこと、いっぱいあるんだよな。それ、判ったから、もういいんだ」
 今更のように自分のみっともなさが思い出され、耳の先まで赤くなって理月が言うと、ブラックウッドはくすくすと笑って、アンティークの指輪が輝く左手の中指にそっと口付けた。
「これは独り言だけれどもね」
「えっ?」
「滅多に口にはしないけれど、ブラックウッドという人物は、理月という青年を、実は、彼が思うよりも、特別に、大切に思っているのだそうだよ」
「……!」
 悪戯っぽい口調の中に織り込まれた、ブラックウッドの真摯な言葉、愛情に、理月は思わず卒倒しそうになった。
「俺、その、あの、」
「……その証拠に」
 ブラックウッドの優美な手が伸びて来て、理月の顎を捕らえる。
 同時に、ブラックウッドの、冷たい、美しい弧を描く唇が、親愛を込めて理月のそれをかすめていき、
「こんなキスは、他の誰にもしないようだから」
 そんな、甘くやわらかい言葉が、理月を更に硬直させる。
 どうしたらいいのか判らなくなって、棒きれのように突っ立つ理月の姿にくすくすと笑ってから、ブラックウッドは理月の手を取り、引いた。
「さあ、帰ろうか。素敵なお土産を持って来てくれたのだろう?」
「あ、う、うん……」
 傍目には判らずとも首まで赤くなったまま、ブラックウッドに手を引かれて来た道を戻りながら、ブラックウッドが時折向けてくれる、慈しみと友愛の視線に腰が砕けそうになりながらも、理月は、もう何も心配することはないだろうし、何かを疑うこともないだろう、と、意味もなく確信していた。
 築き上げられた関係と、深まった絆と、ブラックウッドが与えてくれるまごころ、そして自分の中に脈打つ強い思いに、理月は、自分はこんなに幸せでいいのだろうか、などと思い、同時に、きっとブラックウッドも同じことを感じていると確信して、また、照れたのだった。

クリエイターコメントオファー、どうもありがとうございました!

何を語る必要もない気がしますが、おふたりの、ほんのわずかなすれ違いとちょっとした戦い、そしてそれゆえに深まる絆について書かせていただきました。何と言いますか……ごちそうさまでした。

理月さんの可愛らしさと懸命さ、ブラックウッドさんが大好きだと言う素直な気持ち。ブラックウッドさんの包容力と強さ、実は理月さんが思うより彼のことを大切に思っているという大人の愛し方。
そんなものを、より一層深まったおふたりの絆同様、巧く描写できていれば幸いです。

それでは、素敵なお話を書かせてくださってどうもありがとうございました。またご縁がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
公開日時2009-04-06(月) 22:30
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