何十もの赤とか紅とか朱色の風船が、弾けるような音楽を合図に一斉に商店街の空へと放たれた。
ガラスのような青空を背景に、大勢の人々の視線に見送られながら広告塔を越えて散りばめられていく赤い色は、なにかとても特別で不思議な感じがした。
ランドルフ・トラウトはそれを眩しそうに眺める。
新作映画の公開初日イベントだ。
アクション・アドベンチャーにオカルトと恋愛の要素を取り入れたその映画は、数ヶ月前からかなり大掛かりなキャンペーンを展開していた。
警備員の仕事仲間がいろいろと教えてくれたのだが、話を聞く限り、かなり面白そうだ。
観にいけたらいいと思う。
できるならそれに誘いたい相手がいるけれど、そこに至る勇気が出るかどうかも分からない状態だ。
「すごいな、ありゃ」
つめかけたファンたちに目を配りながらその場を離れようとしたランドルフの隣で、桑島平もまた物珍しそうに風船を目で追いかけている。
「ああいうの、どうやって企画してんだろうなぁ。楽しそうだ」
ああいう笑顔は守らなくちゃいけないよな。
そういって照れ笑いを浮かべた桑島に、背中をバシバシと叩かれた。
「それじゃ、捜査といくか。消えちまった花嫁、早く見つけてやんねぇとな」
「はい」
「今回は俺なんだが、まあ、許してくれや。あとひとり、もう少ししたら合流すっからよ、頼むわ」
「いえ、あの、そんな……はい、こちらこそよろしくお願いします。あの、ほんとに、ご一緒できて光栄です、ええと、はい」
なかばしどろもどろになりながら、ランドルフは何度も巨体を小さくして頭を下げた。
どうにも落ち着かない。
彼のことは知っている。
ほとんどはジャーナルで、時折は彼女の口から、そのどちらかでしか自分は彼を知らない。
それでも、この銀幕市を守りたい、困っている人を救いたい、少しでも力になりたいと願って行動する彼を悪く思えるはずがなかった。
なにより『桑島平』は、ひそかに想いを寄せる女性の先輩であり相棒でもあるのだから。
まるで父親と接しているような緊張感だ。
「しかし、どうして彼女は消えてしまったんでしょう……」
「さあなぁ。映画の中じゃできなかったことをしてんのかもしれねぇけどよ」
「映画の中でできなかったこと……」
「決まったストーリーじゃなくてよ、なんてんだ、ちょっと違った景色を見たり、だな」
「……そういうこともあるんでしょうか」
「あるかもしんねぇだろう?」
長年、現場の第一線で刑事をしている桑島には、ランドルフには思いつきもしないような心理と可能性が見えているのかもしれない。
そんな思いでついしみじみと眺める自分に、彼は肩越しに振り返り、ニヤリと笑いかけてくる。
「もしこれで駆け落ちだったりなんかしたら俺らの出る幕ねぇわな」
「え」
「本人の意思での失踪ってのは扱いが厄介なんだよ」
「……ですが、花婿のあの人は、教会でずっと待っていると言っていましたが……」
「だな」
重なるのは、かつての友人の姿だ。
戻らない花嫁、帰りを待つ花婿、結婚するはずだったふたり、けれど果たされなかった、その理由は明白で。
では今回はどうなのだろう。
映画館の前から、賑わう商店街を抜けて裏路地に入り込みながら、まるで猫を探すようにふたりは連れ立って歩く。
花嫁は消えた。
ふたりだけで行う予定だった結婚式、白いチャペルから彼女だけが忽然と姿を消してしまっていた。
理由は分からない。
「目撃証言はこの辺だったんだけどな。なあ、ニオイは残ってるか? なんか分かれば助かるんだが」
桑島に何気なく問われ、ランドルフはすんっと空気を吸い込んでみる。
吸い込んで、そして顔をしかめた。
「あいつの好きだっつってた映画のヒロインだしな。できれば一番いい形で収めてやりたいんだが……、お、どうした?」
「……」
無言のまま、ランドルフは入り組んだ狭い路地を走り出す。
「なあ、おい、どうした? なんか見つけたか、おい、おいって!」
「…………」
桑島の呼びかけにランドルフは答えることができない。
ただひたすらに嗅覚を刺激するニオイを追いかけ、ゴミ箱やダンボール、積み上げられた障害物を避け、時にぶつかり、時に飛び越えながら、その場所を目指す。
目指し。
辿りついたそこで、足を止め、固まった。
年齢のわりに鍛えている桑島もまた、てこずりながらも何とかランドルフに追いつくことができた。
肩で息をしながら、突然の相手の行動を訝しく思いつつ、ランドルフと同じものを見ようと彼の巨体の脇をすり抜け――息を詰めた。
その視線の先にあるもの。
そこにいるもの。
ソレは、ひとりの黒装束を纏った男であり、ビルの壁面に飛び散った凄惨な赤であり、そして、ちょうど一巻のプレミアフィルムに変わってしまった花嫁であった。
「おい」
男はゆるやかに振り返る。
そのカオは、ランドルフにとって、とてもよく知る――
「やあ、オレ達の結婚式に乱入するなんて、あんたら、いったい何ごとだよ」
ニタリと自分に、そして桑島に笑みを向ける、そのカオは、かつて映画の中でランドルフが人生を台無しにした友人とそっくり同じもので。
「邪魔しないでくれないか?」
まるで、彼に言われているかのような錯覚に陥る。
「おまえ、なに考えてやがんだ、彼女をどうして」
「彼女はオレのものだ。だからさ、オレから逃げられないように、他の誰にも取られないようにしようとしたのに、抵抗するんだもんな」
「どういう理屈だ、そりゃ!」
桑島と男が言葉を交わしている、それを遠くで感じながら、ランドルフは急激な眩暈に襲われていた。
記憶の奥で、教会の鐘の音が聞こえた気がした。
遠い日、あの日、自分が聞いた鐘の音に、ソレはひどく似ていて――鐘の音が、ランドルフの中にあった〈何か〉を呼び醒ます。
「オレは幸せになるはずだった、なのに奪いやがった奴がいる、なあ、オレは幸せになれるはずだったんだ、すごいだろ、ステキだろ、幸せは自分でつかまねぇえとな」
呼び醒まし、呼び起こし、突き動かして――
「おい?」
驚いたように見開かれた桑島の目が視界に入った。
そこでランドルフの理性は振り切れていた。
桑島を押しのけ、何故こんなことになったのか、何故こんなことをされるのか、まるで理解できないとばかりに驚きの表情で固まった男の頚部に牙を立てた。
抉り取ったのは、相手の生命。
口の中に甘美で懐かしい味が広がる。
とろけるような、身を焦がすような、背徳的な。
「なにすんだ、オイ、やめろ、やめろってランドルフ――ラ……っ」
そして。
意識が完全に飛んだ。
飛んで。
空白の時間。
そして、はたと我に返った時、ランドルフはペンキをぶちまけたような赤い世界に立っていた。
たったひとりで。
「あ、ああ、わ、私は、私は何を、何を……?」
全身を駆け巡る、致命的で決定的な感覚に、ひたすら慄く。
慄きながら、落とした視線の中に、きらりと光るものが見えた。
指輪。
それは、たったいま喰い殺した人間が、その指にはめていた結婚指輪だ。
食い殺した。
女を殺した男も、そしてともにここまで来た、桑島平、あの人の大切な相棒をも、自分は――
「あ、ああ、ああぁあ…………っ」
まるで咆哮のような悲鳴が全身から迸った。
ソレを自ら発していることすら理解できずに、なかば反射的に指輪を拾いあげると、ランドルフは地を蹴り、跳躍する。
逃げるつもりはなかった。
なのに、逃げた。
悲鳴に駆けつけた人々の視線、人の声、ふたたびの悲鳴、叫ぶ、誰かを呼ぶ、別のものたちも駆けつける、人々の発する様々な音を背後で聞きながら。
ランドルフ・トラウトは、罪深き食人鬼は、白昼の銀幕市の屋根やビルの屋上を足場に逃亡した。
その時、普段ならけして落とすはずのない大切なものを、血溜まりの中に滑り落とし、残して。
桑島平は、抗いがたい睡魔と熱く灼けるような痛みに侵されながら、なすすべもなく、ただじっと空を見上げていた。
驚くほど鮮やかな血が、驚くほどの質感を伴って、自分のあちこちからあふれ出していく。
抉られ、欠けた体の至る所から噴き出し、溢れ、落ち、広がり、世界を染める赤の色彩にまみれる。
意識が遠退いていく。
何がいけなかったのだろうか。
何がキッカケだったのだろうか。
花嫁が死んだ。教会ではいまも夫となるべき男が彼女の到着を待っている。待っているはずだ。待っているのに、連れて帰ってやれずに終わる。
花嫁は死んでしまった。
その彼に、この悲劇を伝える者がいるだろうか。
そして、この自分の死を、相棒に伝えるのは誰だろうか。
死ぬ。
死んでしまうのだ、花嫁になり損ねた『彼女』も死んだが、『自分』ももうじき死ぬのだ。
暑さも寒さも痛みも怖さも、もう何ひとつ感じない。
ただ。
ひどく不安だった。
最期の瞬間、脳裏を過ぎったのは、まだ18歳の息子と、そして市外の病院で自分の面会を待っているだろう妻の姿だ。
2人を残して、自分は死ぬのだろうか。
自分が死んだとしたら、妻と息子はどうなるのだろうか。
刑事でいる以上、いつ何が起きてもおかしくない場所で日々を送らねばならない。
その覚悟を自分も、そして家族もすでにしている、つもりだ。
だが。
こんな結末が耳に入ってしまったら、妻と息子はどう思うだろうか。
この銀幕市に、何を思うだろうか。
そして。
そう。
ふたりは自分に――
子供たちがくれたとびきりの笑顔と歓声を胸に、赤城竜は今日の仕事を思い返す。
遊園地のヒーローショーは時に映画の撮影以上に過酷なこともあるが、その分、ファンの声援を始め、観客の存在をダイレクトに感じることができる。
幼い子供から大きなお友達まで、彼らが与えてくれるあのきらきらとした時間は、スーツアクター冥利に尽きるというものだ。
そして、いま。
ヒーローの【スーツ】を脱いだ赤城は、真っ赤なジャージに熱血と書かれたTシャツ姿で商店街を訪れていた。
ショーの後になってしまったが、予定をひとつ入れていたのだ。
待ち合わせは、ぎんぼし電気の店前。
しかし。
「どこ行ってんだ、あいつぁ」
ガシガシと短い髪を掻きながら、周囲を見回す。
予定の時間はとっくに過ぎているにもかかわらず、相手の姿がどこにもない。
連絡を付けようにも、携帯も繋がらない。
遅刻はしても無断欠勤はしないという変なポリシーを持った刑事の親友は、あまり時間に正確とは言えなかった。
だがそれでも、なんの断りもないというのが気になる。
非番だとしても、彼は刑事だ。事件があれば否も応もなく借り出されるのが宿命だとすれば、それほど心配するような事態でもないのかもしれない。
だが、胸騒ぎがするのだ。
いつもとは違う何かを肌が感じ取り、心がザワザワと落ち着かない。
「なんだってんだろうな、いったい」
首を傾げつつも商店街の角を曲がった瞬間。
赤城の視界に、あたりを染めるような赤色灯の光と、むやみな騒音、大きな人垣が飛び込んできた。
事件か、事故か、それともただの撮影か?
判断に困った。
だが、困りながらも、赤城の中で不吉な予感が走りぬけた。
困りはしたが、迷いはせずに、ヒトゴミの一番外側を構成する青年の一人を捕まえて問い掛けた。
「……おい、なにがあったんだ?」
「事件だよ。男が喰われたんだ」
「喰われ……?」
背筋が、……違う、全身が凍りついた。
あの胸騒ぎは、この不安は、予感ではなく確信なのか。
すまない、通してくれと声を張り上げながら人ごみを掻き分け、やっとの思いで辿り着いた中心部で、赤城は信じられない光景を目の当たりにする。
ちょうど、路地裏から担架を担いだ隊員が出てきたところだ。
布で覆われた、ふくらみ。
その隙間から、ちらりと覗く、その腕に、スーツの袖に、質感に、ざわりと全身の鳥肌が立った。
「あ、これ以上は中に」
ロープを乗り越えようとした赤城を慌てた警察が抑えにかかる。
だが、おとなしく引き下がることなどできなかった。
「待ってくれ、あいつ、そこにいる奴、俺の知りあいかもしんねぇんだ!」
赤城を押し留める力が消え、代わりに『KEEP OUT』の線を越えて自分を迎えてくれた。
駆け寄る。
担架に駆けより、断りを入れてから赤城はちらりと覆い布を持ち上げ、そして、……絶句した。
何かの間違いならいい。
間違いなら、その方がいい。
目の前が暗くなる。
何が起きたのか、明白なはずなのに、脳が理解することを拒否していた。
だが。
〈遺体〉の胸ポケットから滑り落ちてきたもの、血でべっとりと汚れた警察手帳、それが赤城に決定打を与えた。
そこからは、かろうじて親友――〈桑島平〉の名が読み取れてしまったのだから。
「うおぉおおぉおぉぉ……っ」
赤城は叫んだ。
叫んで、取りすがって、号泣する。
大の男がそんな姿を晒すことにまるで頓着せずに、振りきれた感情に身を任せる。
何故だ、何故、何が起きたんだと、思考がグルグルと空回りし続ける。
桑島が『同僚』たちの手によって運び出されてからも、ひとしきり叫んで、泣いて。
それからようやく赤城は、まだ思考や感情のどこかが麻痺した状態だったが、よろけながら立ち上がり、ふらふらと歩きだしていた。
「あの」
その背に、声を掛けるものがあった。
振り返れば、若い刑事が何か小さな袋を持って立っていた。
「これに見覚えはありませんか?」
差し出された手の中、そこに収まっていたのは指輪だった。繊細な、女物の、桑島が大切にしていた自身の結婚指輪とは似て非なるもの。
指輪。
記憶のどこかに触れる感触。
思い出せない。
いや、思いだせるはずだ、思いだせ。
「……そういや、桑島のヤツ、俺に今日は誰かと会うって……」
「あの、それは」
思い出せ、思い出せ、思い出せるはずだ、彼は、桑島は、――今日、そうだ、ランドルフという男と会うといっていた。
対策課に出された調査依頼は、消えた花嫁の捜索だ。いわゆる人探し。ムービースターを探すため、桑島は赤城と共に捜査を引き受けた。
そして。
ランドルフ・トラウト。
彼もまた名乗りをあげていたという。
では。
彼が桑島平を喰ったとでもいうのか?
そんなはずはない、そんなことができるはずがない、ランドルフではない、これは何か別の、全く別の事件であるべきだ――
「あの……っ」
赤城は知らず、駆けだしていた。驚いた捜査員の呼び止める声をあえて振り切って、ひたすらに走る。
ランドルフがどこにいるのか、見当がついているわけではない。
だが、自分が行くべきだとなぜか確信していた。
*
ソレは羨望なのか、憎しみなのか、渇望なのか、罪悪感なのか、願いなのか、祈りなのか、不安なのか。
わからない。
ただひとつわかるのは、この身を動かすものが衝動だということだけ――
ランドルフはその手に掛ける。
数多の命をそのアギトに掛けながら、巡る思いは切なく狂おしい。
教会の鐘が鳴る。
鐘の音を聞きながら、走り続ける。
目に付くものすべてを、自らのうちに取り込みたいという衝動に駆られながら。
事実、それを繰り返しながら。
壊れてしまった方がいい。
彼女を食ってしまったのなら、同じように自分は食い続けなければならない。
この街でも、この世界でも、自分は喰わなければならないのだ。
マトモなふりなんか、していてはいけないのだ。
幸せを考えてはいけないのだ。
一切の例外なく喰らい尽くすことでしか、彼女に詫びる手段が見つけられない。
彼女を喰ったのなら、彼も喰うべきだった。
彼女と彼を喰ったのなら、その家族も、その周囲の友人も、そして最後には自分自身も食うべきだった。
なぜ、映画の中の自分はそうしなかったのだろうか。
なぜ、映画から抜け出した自分は、その事実に思い至らずに、今日まで過ごしてきたのだろうか。
食わなければ。
これは衝動であり、課せられた義務であり、絶対的使命だ。
ただ。
ただこの罪深き『姿』を、彼女にだけは、蝶のように可憐で凛々しくまっすぐに生きる『彼女』にだけは知られたくない。
彼女にだけは彼女の相棒を食い殺し、そうして数多の命を消化し続ける自分を知られたくない。
それは、ひどく虫のいい願いだ。
なのに、願う。
例外なくすべてを飲み込みたい衝動に突き動かされながら、それでも彼女にだけは――と。
*
赤城は銀幕署からはじめ、児童公園、自然公園、中央病院と、ひたすらランドルフ・トラウトの行方を探していた。
対策課が動き出しているという。
当然だ。
ひとりの食人鬼が、銀幕市という夢にあふれたこの〈街〉に、おそるべき絶望と恐怖を振り撒いている。
人が喰われる、喰い殺される、喰われ、殺され、残されたのは無残な死体かフィルムだ。
そう、いくつも死体が残されているのだ。
ソレが何を意味するのか、いまの銀幕市民たちなら十分過ぎるほど理解している。
だが、赤城にはランドルフがそんなことをしているとは思いたくなかった。
赤城は子供が好きだ。
子供たちの笑顔と歓声の中にいる時、自分は生きていると実感する。
子供たちの期待に応え、アクロバットを決める時、たしかな幸福感に満たされる。
同じように、ランドルフもまた子供に好かれている。彼は子供好きだ。直接なにかのイベントや事件で彼と関わったわけではないけれど、確信していた。
でかくて、強面だが、にじみ出る雰囲気は、子供たちを守るヒーローの風格をもっていると感じた。
子供に好かれる人間に、悪い奴はいない。
子供は悪意ある存在に敏感だから。
だから、考える。
ランドルフ・トラウトに、桑島を、そして今の銀幕市民たちを殺すような理由はあったのか。
懸命に考えてみる。
考えてみたが、答えは見つけられなかった。
それもそのはずだ。自分は彼のことをほとんど何も知らない。知っているとすれば、桑島を介して、あるいは時折目にする銀幕ジャーナルを通しての情報のみだ。
消えた花嫁、彼女を殺した男、その男と花嫁を探していた桑島が喰われて死んだ。ふたつのフィルムとひとりの死者。
その構図の中に、自分は何を見出せば良いのか分からない。
せいぜいが、そう、ランドルフの中で決定的な変化が起きてしまったということだけだ。
それまでの彼を変えてしまうような〈何か〉が。
ついで、桑島平に、殺されるような理由はあったのか。
考える。
考えてみても、やはりこちらにも答えは見つけられなかった。
桑島平は、ごく普通の刑事だった。
事件の多くなったこの銀幕市で、ベテラン刑事としての視点と、情にもろくて付き合いのいいひとりの男としての視点でもって、この二年を過ごしてきた。
ドラマチックな出来事など、現実の世界ではそうそうない。
おでん屋で意気投合し、ひとつの煮卵をふたりで分けるのを繰り返しながら、着々と積み上げられてきた友情。
いつも彼は何かを悩んでいた。
ささやかな愚痴めいたものから、銀幕市の現状を反映した重苦しいものまで、桑島平は何かしら悩んでいたが、そんな彼だからこそ、ランドルフとの間にトラブルが発生するとは思えなかった。
なぜ、こんなことが起きてしまったのか。
なぜ、と同じ問いに戻ってきてしまう。
いっそ、だれかに相談すべきだったんだろうか。
そう、例えば桑島が認め、ランドルフが頼りにしているという、銀幕市立中央病院勤務の精神科医。
彼に助言を仰ぐべきなのか。
だが、おそらくソレは桑島の〈相棒〉が、すでにひとつの手段としてソレを選んでいるだろう。
だから、赤城はあえて誰にも頼らなかった。
矜持と言えば聞こえはいいが、もしかすると意地になっているのかもしれない。
気に入った高架下の屋台や居酒屋で酒を酌み交わしていた日々が、ひどく遠いモノのように感じた。
考えることは得意ではない。
だが、いや、だからこそ、話したいと思った。
ランドルフを見つけ、向きあって、彼の今の心境に正面から当たってみたいと望んで。
ひっそりと静まり返る、夕暮れの記念公園の中心で、ランドルフはひとり、じっと佇む。
ここは、かつて神子が作り出し、数多の悲劇と絶望がうずくまる暗い昏い深すぎる穴のあった場所。
様々な物を飲み込んで、様々な想いを飲み込んで、けれど今はもう、美しい花々に囲まれた希望の場所。
ランドルフは、花々にあふれた場所で、やわらかな夕日に染まりつつあるこの場所で、かつてそこで繰り広げられた戦いに、かつて関わった事件に、そしてかつて投げかけられたいくつもの問いに想いを馳せる。
何かを為したいと、ずっと願っていた。
誰かを守りたいと、救いたいと、ずっと願いながらきた。
けれど、この手はけして届かなかった。
誰ひとり守れないまま、誰の問いにも応えられないまま、何も為せず、何も残せず、むしろいくつもの血に染まりながら自分はここまで来てしまった。
ランドルフは考える。
絶望とは何だろうか。
絶望とは、どこから生まれて来るのだろうか。
この内側から聞こえてくる【声】もまた、絶望によって発せられているものなのだろうか。
考える。
じっと、ひたすら、考えて考えて考え続けて。
背後で、物音がした。続いて相手の、息を飲み、警戒と嫌悪と緊張と恐怖の感情にまみれた匂いが、ランドルフの鼻先に届く。
「お前、もしかして――」
振り返る。
そこに男がいた。正確には、親子連れだ。父親と、その子供。子供はまだ幼く、父親も自分より年若く見える。
もしかしたら、そう、あの日、彼女を食わなければ、友人たちもまたごくあたりまえに我が子を得て、そんなふうに手を繋ぎ、こんなふうに何気ない日常を過ごせたかもしれない。
自分が奪った、友人たちの幸福。
友人は壊れた。
友人の幸福はもう永遠に取り戻せない場所に堕ちてしまった。
絶望だ。
そう、そこにあるのは、絶望。
彼女の、彼の、大切な友人たちの悲鳴に、厳格なる教会の鐘の音が重なった――
赤城が、ランドルフと向き合いたいと望みながら、結局最後に選んだ場所は、銀幕市記念公園だった。
何故自分がここに来たのかは、分からない。
だが、ここにきた。
そして、そこで赤城は子供の悲鳴を聞いた。
「なんなんだ」
赤城は何より、子供の声に敏感だった。
目の醒めるような花が咲き乱れる庭園と、そして陽の光に閃く噴水。
そこで子供が泣いている。
火がついたように、という表現がピッタリくるほどの激しさで全身で泣いている。
「ボウズ、おいどうした? おっちゃんに言ってみろ? な、どうした?」
「あ、ああ、おと、おとうさ……うあぁ……っん」
ガタガタと震え、マトモに口もきけないで地面にへたりこんで泣いている子供は、それでも必死に赤城にしがみついて助けを求めてくれた。
痛々しい。
幼い小さな体を両腕でしっかりと抱きしめて、大丈夫だとなだめるように声をかけながら、赤城はゆっくりと顔を上げた。
子供が目撃していた光景、顔を背けて怯えながら指さす方向に視線を向ける。
そこに、黒い山があった。
通常の人間に比べ、ひとまわりもふたまわりもデカイ、巨大な影が闇の中にうごめいている。
「あいつか」
思わずこぼれた呟き。
「……ランドルフ・トラウト、なのか……? なんでこんなことしてんだ。追われてるぞ、なにか理由があんならおっちゃんが一緒に」
ソレを聞き取ったのか、黒い山が動いた。
ぞろりと、恐怖が赤城の全身を舐めるように這いあがる。
そこにいたのは、ジャーナルで見かける心優しき超人ではなかった。
口を、頬を、顎を、首を、腕を、胸を、どす黒い赤で染め上げた、食事をひとつ終えたばかりの鬼だった。
だが、その目にはまだ理性の閃きが残っている。
鬼でありながら、人の光を持っている。
「……何が、あったんだ」
しがみつく子供をしっかりと腕に抱きながら、赤城は改めて問い掛ける。
食人鬼との距離は十メートル以上ある。だが、それがけして安全圏にはなりえないことはわかっていた。
だが、問い掛けることをやめない。
「対策課が動いてるんだ。弁明すんなら今しかないだ、なあ、ランドルフ、なにがあったかオレに話してみたらどうだ? な?」
彼は桑島平を、自分の親友を、食い殺したのかもしれない。
だが、違うと信じたかった。
今もまだ、赤城は彼を信じたかった。
「……考えていました」
ぼそりと、黒い影は呟く。
「ランドルフ?」
「私はいつか消える存在です。消える前に、何かをここに残せたらそれでいいと思い始めていた」
体中を血にまみれさせながら、それでも彼の声は落ち着いているように感じた。
食人鬼騒動の『犯人』は彼ではない、他の誰かで、そして今彼の体を染めているのはそいつとの戦いの跡ではないかという希望まで抱いてしまうほどに。
そして赤城は、言葉が交わせる、会話が成立する、そのことに一縷の望みを託して、懸命にランドルフに耳を傾けた。
恐怖などもうどこかにいってしまった。
とにかく彼の言おうとしている言葉、思い、それを受け止めようと決めて、向き合う覚悟をする。
だが。
「ですが、ダメなんです、私は人を喰った、すでに食って、大切な友人ふたりの人生を完全に破壊した罪を負ったバケモノです」
彼はひどく哀しく重苦しい溜息とともに、困惑した不器用な笑いを浮かべた。
「鐘の音が聞こえます……弔いと贖罪と断罪の鐘が、私には聞こえる。私を急き立てる。ああ、ほら、鐘の音ですよ、鐘の音が、すべてを喰らい尽くせと叫んでいるんです!」
ぐわりと、ランドルフの体が更に膨れ上がった。
赤城はスーツアクターだ。
演じる側の人間であり、それはつまり特別なチカラを持っていないということ。
だが。
ランドルフの襲撃が赤城達に届くより早く、空気が歪むような違和感が辺りを包み、自然公園は真夜中の摩天楼に変わった。
同時に銃声が鳴り響く。
四方八方から、一斉に、火花を散らして。
とっさに赤城は子供を腕の中に抱きこんだ。
見せてはいけない、そう思い、とっさに少年の頭を抱きこんで、耳も目も塞いだ。
そんな二人を避けながら、咆哮を上げてのたうつ食人鬼を確実にしとめるように、弾丸の雨が正確無比に、かつ圧倒的な破壊力をもってランドルフ・トラウトに向かって降り注ぐ。
対策課が動いている。
ソレが何を意味するのか、分からないわけではなかった。
だから、間に合いたかったのだ。
間に合って、ランドルフと話をして、そうして赤城は理由を問い質して、できるなら彼が冤罪だと証明したいと願った。
すべては、叶わぬままに終わってしまったが。
銃弾はなおも降り続く。
強固な鋼の肉体をまるで紙にようにたやすく貫く銃弾は、きっと、ムービースターの誰かの能力。
食人鬼の巨体が、抗うように弾丸を降り払いながらも全身を撃ち抜かれ、恐ろしいほどの鮮赤を振り撒いていた体が、ついに地面に倒れこむ。
倒れてもなお、銃弾は注ぐ。
誰かのロケーションエリアがその効力を失うまで、ひたすらに攻撃が続いて。
彼は死の間際、ポツリと呟いた。
「……かつて……、ある人が……いって、いました……」
「なんだって?」
「絶望に感染したものは……、死することでしか、赦されない……のだそう、です……」
ソレは告解のようでもあり、告白のようでもあり、祈りのようでもあった。
「…………あの日から……私は、ずっと……、あの病に、おかされて…………」
「おい、おいしっかりしてくれ、ランドルフ!」
少年をしっかりと自分の腕に抱え込みながら、それでも赤城は懸命に呼びかける。
しかし。
食人鬼は沈黙し。
血にまみれたプレミアフィルムにその姿を変えた。
その表面には、『debacle』の文字が黒々と爛れた形で刻まれていた。
遣る瀬無い。
どうしようもなく、息苦しい。
どうしようもなく、哀しい。
何もできなかった、何も言えなかった、なにも、なにも、なにひとつ――赤城は途方もない虚無に抱かれる。
「……オレはな、何でこんなことになっちまったんだって思うんだよなァ」
フィルムを回収するためにふらりと姿を現した討伐隊の姿を眺めながら、赤城は深い深い溜息を落とした。
死をもって贖われた罪。
けれど、本当は何ひとつ贖われてなどいない。
ただ途方もない犠牲がこの夢の街に払われただけ。
そして、【死に至る病】がこの街をゆるやかに蝕んでいく。
次なる犠牲と悲劇を引き起こすために――
*
*
*
「一体どういうことなんでしょうか」
戸惑うようにランドルフがふたりを見やった。
銀幕警察署の狭い会議室で顔を突き合わせているのは、三人の男たちだ。
ランドルフ・トラウト、赤城竜、そして桑島平。
桑島は相棒を通じてランドルフから連絡を受け、その足で赤城に自分から連絡をいれ、少々遠回りをしたが【本】の登場人物を集めることができた。
そしていま、目の前にはようやく読み終えた一冊の【本】がある。
滑らかな手触りの鮮赤が禍々しい美しい表紙には、金の飾り文字で〈Impulsive Red〉と綴られていた。
〈衝動的赤〉と訳されるのだろう、けして厚くはない、けれど奇妙な存在感を持つその【本】は、なぜか夜警の仕事から帰って来た時、ランドルフの自宅の玄関に置かれていたのだという。
「作り話とはいえ…あまり気持ちの良いものではありませんし……」
「いや、でもな、本で良かったって本気で思うぜ、オレは。現実でこんな事が起きたら洒落になんねぇよ……なあ、桑島?」
同意を求めるように赤城がバシリと桑島の背を叩き。
いつもなら釣られて何か返してくるはずの相手の、思わぬ無反応に訝しげに眉を寄せた。
「どうした、桑島?」
「あの、桑島さん?」
「…………」
答えを返せなかった。
和やかな雰囲気の中で、自分だけがピリピリとした緊張感をもっていることに気付かれたくはなかったのに。
「あの」
「やめろっ」
心配げに向かいの席から伸ばされかけたランドルフの、その行為に反射的な恐怖がはじけた。
飛びのき、振り払う、それは明確な恐怖であり、嫌悪だ。
桑島の中に、ランドルフへの不信と不安が渦を巻く。
「桑島、どうした? ひでぇ顔だぜ?」
「ああ、ああ、悪い……なんか、すまん……そういうつもりじゃねぇんだけど」
「あの、私……」
「わからん、わからんが、何だ……急にこう、怖くなっちまったんだな、情けねぇ」
情けないと繰り返しながら、肩をすくめ、ばつの悪そうな顔をする。
「まったく、悪趣味な毒にでも当てられちまったかな? いや、すまん、気ぃ悪くさせたな。謝るぜ、ランドルフ」
そうして何でもないような顔をして、何でもないようにふるまう。
「いえ、あの、むしろこちらこそすみません……私のせいで」
「おまえのせいじゃねぇって、ランドルフ。この本書いてばら撒いてるヤツが悪いんだかんな」
そうして笑い飛ばし、ついでバンバンと【本】の表紙を叩いて見せた。
「で、この本、どうすんだ?」
「どうしましょうか?」
「手元に置いとくもんでもないか、どう思う、桑島?」
「燃やしちまうか! いっそ、どうだ、景気よく! そうした方がよくないか?」
「お、いい案だな」
「私もそれで構いません」
思いきった桑島の提案に、ふたりから揃って同意が返って来る。
じゃあ、そうしようと笑いながら、桑島は無言のうちに何度も自分に言い聞かせる。
なんでもない。
ランドルフ・トラウトはけして危ない存在じゃない。
だが、頭ではわかっていても、心の底から、それこそ本能レベルでいま自分の目の前にいる存在に恐怖している。
ソレをどうすることもできないのだ。
この部屋でごく当たり前に彼と接していた自分の無防備さが恐ろしくさえ思えてくる。
それでも。
「それじゃ、ひとまずやるか。ああ、あれだ、変なとこで燃やすと怒られっからな、焼却炉んとこにでも行くか」
自分の中で膨れ上がっていくばかりの恐怖と不信感を悟られない様に押し隠すことには、ひとまず成功しただろうか。
桑島の提案に、異を唱えるものはいなかった。
それにわずかながらホッとしつつ、桑島は自ら【本】を取り上げると、率先して銀幕警察署の裏手に位置する焼却炉を目指した。
一応、署の担当者に声を掛けておくことも忘れない。
そして。
そう。
そうして、食人鬼の凶行と悲劇を描いた【赤い本】は、三人の男たちの手によって赤い炎にまかれることとなる。
燃えて。
燃え続けて。
その炎がやがて小さくなり、最後にはまるで血を燃やしているかのような鮮烈な光を放った後、一握りにも満たない灰へと変わったのだ。
ソレを眺めている間に、桑島の中であれほど渦巻いていたランドルフへの不信と恐怖も消えていった。
だとしたら、やはりあれは自分で弁明した通り、一種の【本が含む毒】に当てられた状態に陥っていただけなのか。
わからない。
さっぱり、自分の感情の動きも、この本の存在も、この本をばら撒くものの意図も、さっぱり何ひとつ分からない。
「しっかし、何だったんだ」
「ん、どうした桑島?」
「なんでもねぇよ」
今度こそ本当に、心の底から、桑島は笑った。
笑って、それから一時的とは言え、相棒の友人に対してあんなひどい感情を抱いてしまった罪滅ぼしをしようと決める。
「そうだ、これから飲みに行くか!」
「え、いいんですか?」
「いいんだよ。な、赤城さん」
「そうだ、仕切りなおしだ。落ち込んだまんまじゃダメだ、パーっと行こう、パーっとな!」
がははと豪快に笑う赤城と桑島に背を押されるかたちで、恐縮しきっていたランドルフは、ようやく日の傾きかけた銀幕市を連れ立って歩くことになった。
その日の高架下のおでん屋では、三人の男たちが止まり木に並んで座り、ああでもないこうでもないと語り合いながら、かなり遅くまで飲み明かしていたという。
しかし、【本】はまだ『そこ』にある。
例えその一冊が燃やされようとも、ある者には〈沈黙〉を、そしてある者にはひそやかな〈囁き〉を与えながら、【本】はそこにあり続けるのだ。
And that's all…?
…No, it still continues.