★ 死出の月 ★
<オープニング>

 夢をみた。きっときっと、これは預言なんだとおもった。


 陽が沈んだ後でも夏の暑気はその名残りを充分すぎるほどに大地の上に刻み残している。むろん、昼のそれとは違い、茹だるような暑さというわけではない。椎の樹の葉を揺らす夜風はいくぶん涼やかなものに感じられるし、天を散り染める星や、なによりも大きく煌々と輝く満月が太陽のそれとは異なる光を注いでいる。
 敷かれた玉砂利、それを鳴らしながら行き交う浴衣姿の女や男、子供たち。橙の灯りを落とすのは参道の敷石の両脇に軒をかまえている屋台のそれぞれ。神社の大きさを見れば相応となるのだろうか。屋台の数は決して多くはないが、それでもそれなりに賑わい、楽しい、朗々とした空気が夏の夜を彩っていた。

 長い石段を上りきったところにある小さな拝殿を過ぎて進めば、規模は小さく古めかしい印象を落とす本殿がある。その中には一枚の皿が祀られているというが、それを目にしたことのある者は皆無に近いという。


 夢をみた。
 凍りつくように冷えた水の底に沈んでゆく自分。何も掴むもののないその中で、私はなにかを求めるように片手を伸べる。ゆらゆらと揺れる水の向こう、しらじらとした光を静かに落とす月があった。いま、自分を見ているのはあの月だけなのだと思った。月だけがわたしの最期を見取っている。死出の旅につく私を、月光ばかりが送り出してくれている。
 ――違う、知っている。
 知っているわ、
 この足に重石をくくりつけたあなたが、池のほとりに立っている。せめて、少しだけでも泣いてくれていれたなら、私はどれほどにしあわせか。


「知っているかい、お嬢さん」
 タキシード姿にシルクハット、口もとにはヒゲを生やした二人組の男が呼び止めたのは銀幕市の高校に通う女子高生だった。映画好きだった彼女は、二人組が”自分が観たことのある映画”の登場人物かどうかを考えて、そうして思い出した。 
 男のうちの一人が口もとに笑みをたたえて声を続ける。足をとめた少女を逃さぬようにするためか、あるいはそんなことなどまるで考えてもいないのかもしれないが。
「この神社を囲む杜の奥に池があるね。その池には、昔、遠い昔、生贄の女を沈めていたのだそうだよ。夏の日照りで作物なんかが取れなかった年の冬にね、こっそり、重石をつけて沈めるのだよ」
「そうすればその女が預言をくれるというのだよ。その次の年が良い年になるかどうかをね」
「それに実りが多くなるように、神の妻となって大地を潤してくれるのだそうだ」
「預言は水鏡を通してよこすのだそうだね。だからこの神社の本殿には皿が祀られている」
「水鏡に用いた皿なのだよ」
 矢継ぎ早に、まるで示し合わせたかのように、二人の男は交互に言葉を紡ぐ。
「けれども、ある年にね、他に女ができた男が、許嫁(いいなずけ)だった女に重石をつけて池に沈めたのだそうだ」
「それ以来、生贄を沈めても託宣が訪れることはなくなった」
「女の呪いだよ」
 言って、男たちは同時に、まるで合わせ鏡に映る一人の人間のように、ニタリと気味の悪い笑みを浮かべた。
「キミは騙されて沈められた女の生まれ変わりだ」
「キミを騙した男の生まれ変わりは、いま、のんきに祭りを楽しんでいる」
「憎いだろう? 憎いだろう? さあ、呪いを下しておいでなさい」
「どの男がそうなのか――もしかすると女に生まれ変わっているかもしれないし、老人かもしれない、赤ん坊かもしれない。いっそ皆を殺めてしまえば話もはやい」
「ああ、それがいい」
「それがいい」


 惨劇が繰り広げられたのは、それから間もなく後のことだった。本殿の裏に迷い込んでいた少女が参道に現れて、どこからか携えてきたナイフを振りかざしたのだ。
 浴衣の襟もとには、古い、鈍く光る鏡のようなものがあった。

種別名シナリオ 管理番号671
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
クリエイターコメントお久しぶりです。久しぶりの単発シナリオとなります。よろしければお目を通していただければと思います。

和風な、不条理な感じのホラー? 怪談? な感じのシナリオにできればと思います。ご参加くださる皆々様には、お好きなように動いていただければと思ってます。当日、現場に居合わせたという形は固定となりますでしょうが。
プレイングによっては、場合によってはボツありかもしれません。が、皆々様に見せ場のあるノベルをお届けできるよう(その他もろもろな面でも)、努めます。

参加者
針上 小瑠璃(cncp3410) エキストラ 女 36歳 鍵師
ツィー・ラン(cnmb3625) ムービースター 男 21歳 森の民
取島 カラス(cvyd7512) ムービーファン 男 36歳 イラストレーター
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
<ノベル>

 月は皓々と照っている。白々としたその静かな光に眼を細め、針上小瑠璃(シンジョウ・コルリ)は火を点けたばかりのタバコからのぼる煙の行方を見送った。
 日中の、茹だるような暑気には辟易とするばかりだった。夕闇がまちを包み、暑さも幾分かやわらいだのをみはからい、客足が切れたのを良いことに、タバコとライター、携帯用の灰皿、仕事着はそのままに、ポケットには小銭だけが少しばかり。そんな軽装のまま、ふらふらと気の向くままに夜の散歩に出てきたのだ。 
 どこからか流れてきた賑やかな気配をうけて、そういえば今日は祭りがあったんだったと思い出し、静かな住宅地のはずれにある小さな神社を前にする。長い石段を上りきったところにはいくつかの屋台が並び、浴衣を着込んだ人影が賑やかに行き来していた。
「――賑やかやなぁ」
 呟き、口もとに小さな笑みを浮かべる。そうしてタバコを灰皿の中に押しやり、屋台を横目にしながらぶらぶらと参道を歩き出す。見知った顔がかわるがわる声をかけてきて、それに向けては笑みや軽い挨拶で応じる。あんず飴をひとつ買って口に運びつつ、ふと、小瑠璃は参道の奥――本殿のある方に視線を向けて首をかしげた。
 杜の木々が夜風に乗じてざあざあと騒いでいるような気がする。
 しばしそのまま本殿を囲む夜の闇を見据えていたが、ほどなく、小瑠璃は敷石を踏んで歩みを進めた。
 違和感。
 頭のどこかが、それを確かに感じ取っていた。

 本殿の近く、大きな椎の木の上で、ツィー・ランは森の緑を映した鋭い眼で眼下の様子を見据えていた。
 視線の先にはひとりの少女の姿がある。夢を見たまま彷徨い出てきてしまったかのように、どこか虚ろな印象の強い娘だ。そうして、その少女を囲むように、ゆらゆらとゆらめく黒い影もふたつ確認できる。よく見ればそれらは全身を黒でまとめた出で立ちの、まるで面を被っているかのような、薄気味の悪い笑みをたたえた顔の男たちのようにも見える。が、それは確たる形を持たない、そのまますうっと夜に紛れて消えていきそうな――すなわち、文字通りの影と呼ぶほうがしっくりとくるように思える。
 本殿の向こうでは賑やかな祭りが続いているというのに、本殿の裏にあたるこの場所には賑やかさのかけらもない。ざわめく木立ちは枝葉を触手のように動かしているし、どこからか漂い流れてくる水の気配は杜の湿った落葉の匂いを色濃いものにしている。月が空を飾っているが、その光も木々に阻まれ、おそらく少女のいる位置にまではあまり届いてはいないだろう。
 ツィーは、ほんのたまたま、偶然にこの祭りへ辿り着いたのだ。まちの木々を巡り歩いているうちに、小さな規模ながらもそれなりの賑わいをみせている小さな神社に出たのだった。ふらりと立ち寄り、やはりたまたま気の合った的屋の男に誘われて投げ縄をやった。渡された縄は五本。初の試みではあったが、それでも見事にふたつの景品をゲットするに至った。
「……まさかこんな場所で、」
 投げ縄で入手した景品は小さな風鈴と、花火が数本セットになったものの二種だった。夜店の景品の中では当たりの良いほうに分類されるかもしれないそれらを握りしめ、ツィーは眼を細める。
 杜は“森の民”であるツィーの気配を巧みに隠し、守っている。そのおかげもあってか、少女も男たちもツィーが彼らの話を聞いていることに気付いてはいない。
「……今の話は本当なのか」
 誰にともなく呟く。
 応える者は誰ひとりとしていなかった。

 敷石や玉砂利を下駄の底で踏み鳴らしながら、目につく屋台を片っ端から巡る。わたあめ、金魚すくい、風船釣り、焼きとうもろこし。かき氷の屋台はみっつほど出ていたから、どの屋台のものが一番おいしそうかを吟味した。結局どこも大きく変わらず、ひとまず練乳をおまけしてくれる屋台で定番のイチゴミルクを買った。
 人混みを巡ることで汗をかいた身体を、氷の冷たい甘さが心地良く冷やしていく。
 香玖耶・アリシエート(カグヤ・アリシエート)は新しく買ったばかりの浴衣をまとい、見知らぬ子供が楽しげに金魚を追っているのを横で見ていた。五歳ぐらいの男の子だ。心もとなくも見えるその手元を、母親だろうか、ワンピース姿の女が微笑みながらフォローしている。
 初めこそ、その子供の愛らしいのもあって、思わず“手助け”をしようかとも考えた香玖耶だったが、ふと、それは無粋な行為になると思い立ち、そこからはただ応援するだけにとどめた。そうして、子供がようやく一匹の小さな紅い金魚をすくいあげたとき、まるで自分が成功したかのような心地でそれを喜んだ。子供もまた香玖耶がそれを喜んでくれているのを知ってうれしそうに、そして満足そうに笑い、小さな袋の中で泳ぐ金魚を得意気に披露してくれた後、母親と父親とに手を引かれ、浮き足立った足取りで祭りを後にしていった。
 紅い金魚と黒い金魚。それが水の中で泳いでいる。
 金魚売りの若い男は「姉ちゃんもやるか」と言ってポイを差し伸べてよこしたが、香玖耶はそれをやんわりと断り、それから再び屋台のひやかしに足を進めた。
 気がつけば、祭りに来ているのはほとんどが家族連れであったり恋人同士であったりしていた。友人と連れ立って来ている者もいる。――香玖耶だけがひとりだった。
 手水のそばの大きな椎の木のそばに移動して、かき氷の残りを一息に口の中に放り込む。椎の木には注連縄がしめられていて、それがこの神社の神木であるのを知らしめていた。それもあってか、その枝葉が落とすざわめきはどこか穏やかで優しく、まるで香玖耶を慰めようとでもしているかのようだった。
「ありがとう」
 幹に触れてそう呟くと、応えるように風が流れた。
 ――そうして、その風の端に、澱んだ水の匂いが含まれているのを感じ、香玖耶ははたりと顔をもちあげ、本殿の向こうに見える鎮守の杜に視線を向けた。
 神木がさわりと声をひそめる。
 眉をしかめ、空になったかき氷の容器をゴミ箱に入れる。そうして静かに足を進め、祭りで賑わう人びとの流れとは逆側に向かった。

 それまで場に広がっていた長閑(のどか)でほっこりとした明るさが、まさに空気を切り裂くような絶叫と共に一変した。
 取島カラス(トリシマ・カラス)は、日頃とは異なり、紬の浴衣姿で夜店を愉しんでいたところだった。袖や襟元を通り過ぎていく夜風が心地良く、ふらりと立ち寄り買い求めた水ヨーヨーが手の中で軽やかな音を立てながら弾む感触も楽しかった。そうしてひとしきり夜祭を楽しみ、そろそろ帰路に着こうかと思い始めていた矢先のことだった。
 若い女の叫び声が最初だった。何ら意味を成さない、けれどもその声が放つ異質さが、その叫び声をあげた女の身に、何か恐ろしいことが生じたのであろうことを予測させた。
 場を満たしていた笑い声や話し声が一瞬にして静まり、辺りには水を打ったような静寂さばかりが残された。しかしそれもつかの間。女の叫び声は間をあけずに再び場の空気を震わせ、次いで、それに扇動されたかのように、何人かの男女が声を張り上げ、きびすを返して参道を駆け抜け始めたのだった。
 子供を抱きかかえ走る母親や父親、あるいは恋人の手をかたく握り締めて走る若い男。中にはカラスのように事態を飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くしている者も少なくない。遠くにまで走り逃げた後、携帯で何かを撮ろうとしている人影も、まばらにではあるが窺える。いずれにせよ、カラスは、眉をしかめ、初めに女の叫びが轟きはじめた辺りに目星をつけて振り向いた。――そうしてそこに、ナイフを握り締めた少女の姿を見つけたのだ。
 少女はどこか夢に惑っているかのような表情を浮かべ、片手でナイフを、もう片方には黒髪の女の頭を無造作に掴んでいる。掴まれている女はメガネの奥で眼を眇め、少女を刺激するまいとしているのか、あまり余計な動きをとろうとしていない。ただ、少女の手を引きとめようとしているのか、時おり動かすそのてのひらにはいくつかの傷が窺える。おそらくは少女が手にしているナイフに襲われ、咄嗟に伸べたのだろう。その傷からは血が流れだし、砂利をぽつぽつと赤く染めていた。少女の手はぬらぬらとした赤黒い色で染められており、何かを捜しているかのように、ふらふらと視線を移ろわせている。
 少女の姿を見とめて事態を把握したカラスは、まず、周りの様子を窺った。逃げ遅れた者はいないか。――どうやらそれは大丈夫だったようだ。小さな子供を屋台の影に隠し、それを庇いながら少女の動向を見ている男もいる。子供や女はそこここですすり泣いているが、その声も、ざあざあと杜の木々を鳴らす夜風の音にまぎれて聴こえ辛い。
 改めて少女の姿に眼を向け、手にしていた水ヨーヨーを少女に向けて構えたとき、カラスの鼻先を、澱んだ水の匂いがかすめ通っていったような気がした。

 自分の頭をわしづかみにしている少女の横顔を盗み見ながら、小瑠璃は唇の端を軽く噛んだ。てのひらにつけられた傷はもちろんひどく痛むが、それでも、おそらく自分がとった行動は誤りではなかったんだと実感できる。
 少女はたぶん、小瑠璃がそうしなければ、別の誰かを――それこそ通りかかった子供や、そういった相手を誰彼かまわずに捕らえ、あるいはもうすでに殺してしまっていたかもしれない。それを思えば、いま、自分がこの程度の傷でおさまっているのは、もしかするとひどく幸運なことなのかもしれないとも思えた。
 小瑠璃が感じた小さな異変の気配。それはほどなく小瑠璃の前に姿を見せた。
 祭りに賑わう場所からは少し外れた、本殿の裏に広がる鎮守の杜からふらふらとした足取りで歩き進めてきたのは浴衣が目立つ群集の中にあってはいくらか異質にあたる、可愛らしい浴衣を身につけた少女だった。小柄な、どちらかといえば大人しそうな。いたって普通の、それこそどこにでもいそうな少女。
 初めは、もしかすると少女が何か――そう、例えば祭りに浮き足立った男に暗がりに連れ込まれて乱暴されたのではないか。そんな危惧を浮かべた。が、その危惧はすぐに立ち消えた。少女に歩み寄った小瑠璃の目が捉えた少女は、浴衣の乱れや頭髪の乱れも特に見受けられず、あるいは土汚れや怪我といったものを何一つとして負っていなかったのだ。わずかに安堵した小瑠璃は、しかし次の瞬間、少女の手にあるナイフを見とめた。刃渡りの大きなものだ。その気になれば殺傷能力をゆうに保有しそうなそれが夜の闇の中、祭りの灯をうけて鈍色にまたたく。少女は虚ろな目でどこをともなく見つめ、ふらふらと、今にも転びそうな危うい足取りでこちらに向かって歩いて来ている。口もとが何かをぶつぶつ呟いていた。
 ――異変。
 ぞわりと背に冷えたものが走ったように思えたのは、少女の周りを跳梁している昏い影を見つけたときだった。
 ふたつの、形をもたない影が跳梁している。もちろん、夜の中ではそれがはっきりと映るはずもない。が、それは明らかにはっきりと、小瑠璃の目に映されていた。
「待ってください」
 少女に向けて歩み寄ろうとしていた小瑠璃を、そのとき、青年の静かな声音が呼び止めた。
「彼女に近寄ってはいけません。――あなたにはあれが見えるのでしょう?」
「……あれ?」
 返し、小瑠璃は声のする方に目を向ける。
 ざわめく群集を後ろに、声の主はすぐに見つかった。
 女性としては背の高い小瑠璃よりもいくぶん背丈の高い青年。短く揃えられた髪も涼やかな眼も、まるで深い森の色を映したかのような緑色をしている。年は小瑠璃よりも一回りは年下だろうか。けれども青年がまとう空気は年齢よりもずっと年を経たものであるかのように思わせる。
「あれって、なんのことやら、うちにはよう解りまへんけど」 
 ゆるりと眼をすがめながら首をかしげた。そうしながらも横目に少女の姿を追う。影はやはりふたつ。ゆらゆらと跳ね回りながら少女を囲っている。
 青年は首を小さく左右に振って口を開けた。
「ツィーは、あの少女があの影に囲まれ、いくつか言葉を交わしているのを聞きました」
「ツィー? ……あんたのこと?」
 問いかけた小瑠璃に肯きを返し、ツィーはそのままふっと視線を動かした。その先には少女の姿がある。少女は今すぐにでも手の中の兇刃を振り上げるかもしれない。そうなれば今この祭りに賑わう楽しい場に居合わせている誰かが犠牲になってしまうかもしれない。 
 まして、少女に気を向ける人間は誰ひとりとしていない。鳴り響く太鼓の音、笛の音色。屋台の明かり、揚々とした空気。そういったものに浮き足立って、誰も少女が放つ異質に気がついていない。たった今少女の横を駆け抜けていった少年でさえも。あるいはそこに少女が存在していることにすら気がついていないのかもしれない。
「……止めんと」
 ぽつりと落とし、ツィーの横をすり抜けて少女に足を向ける。それを引きとめるように、ツィーの声が小瑠璃の背中を追った。「この神社の裏の奥に池があるらしいですね」
 小瑠璃は再度足を止められたことに眉をしかめ、肩越しにツィーを振り向き小さな息を吐き出す。
「知らん」
「その池には、昔、女性が沈められていたのだそうです」
「――は」
「人身御供、というものだと。飢餓に陥りそうになったとき、女性をひとり池に沈めていたそうです。重石をつけ、冬の、冷えた水の底に」
 ツィーの涼やかな目許がわずかに歪む。あまり好ましく思えない内容なのだろう。察し、小瑠璃もまた眼を眇める。
「うちは知らん、そんな話。あんた、誰に聞いたん?」
 問うと、ツィーはすうと片手を持ち上げ、少女を指した。
 否、それは少女の周りを跳梁するふたつの影を指していた。
「……あれは何なん?」
「わからない」
 ツィーは応え、でも、と小さく呟く。
「あの少女はその犠牲になった女性の内のひとりらしいんです」
「は?」
 訝しく眉をしかめた小瑠璃を見据え、ツィーは続ける。
「生まれ変わり、なんだそうです」
「生まれ変わりやて?」
 そんなんほんまにあるんか。ともすれば戯言として切り捨ててもおかしくはないような話だ。思い、そう返そうとした矢先。不意にツィーが砂利を蹴り上げて駆け出した。それに気をとられ、小瑠璃は口に出しかけていた言葉を飲み込む。次いで思い出したように少女を見やり、ツィーが駆け出した理由を目にした。
 少女は足を止めていた。まるで白昼夢を見ているかのような、ふわふわと定まらない視線で周りを見ている。――果たして、見ている、のだろうか。
「あ」
 あんた、と言おうとしたのかもしれない。あるいは危ない、と言おうとしていたのかもしれない。自分でもわからないまま、小瑠璃はツィーを追って少女に向かい走った。すれ違う人びとの手や肩にぶつかり、そのたびに足を緩めて早口に謝罪を口にする。小瑠璃に対し、ツィーは器用にも人の乱立する中を縫うようにすり抜けて行く。見る間に少女が近くなった。

 そこかしこに満ちていたのが仄暗い意識の残滓であるのを知って、香玖耶は唇の端を噛んだ。
 満ちているのは夜風に紛れ流れる怨嗟の声、声、声。怨みや辛み、啜り泣き、あるいは罵倒。親が子を、子が親を呼ぶ声。苦しみにもがく声。
「――あぁ」
 呟き、その怨嗟を消すために耳を塞ぐ。けれどそれはまるで直接香玖耶の頭の中に叩き入れられてきているかのようで、かたく耳を塞げば塞ぐほどに烈しいものとなって響いた。
 水の匂いは杜を進めば進むほどに強烈に鼻先をくすぐる。杜を満たす木々は夜風に――あるいは怨嗟の声に揺られて大きく左右に震え、落とす影はあたかも骨と皮ばかりとなった人間の腕が招きよせているかのようだ。大きく揺らぎ、足を踏み入れる者を現世へ戻すまいと彷徨わせようとしているように見えた。
「そうなのね……あなたたちは」
 耳を塞ぎ俯いていた顔をゆっくりと持ち上げる。耳を塞いでいた手を外し、傍の樹に背を預けた。
 杜を満たしているのはどれも女の声ばかり。年代の差はいくぶんひらくのかもしれないが、それでもいずれもが年代的に近いものであろうことは間違いないだろう。それもたぶん、香玖耶とさほど変わらない年頃だろうと思われた。
 その女たちの残滓が今、香玖耶の目の前で自分たちの末期を知らせてくれている。
 彼女たちはいずれも自らの意思とはまるで無関係に選抜された。まさに、白羽の矢が立った状態だったのだろう。けれどその矢は彼女たちの命運の末期を報せる悪夢の遣いだった。白羽の矢によって選抜された彼女たちは家族や恋人に別れを告げ、両手を縛られ、足に重石をくくりつけられて、身体の自由を完全に奪われた状態で水底に放り投げられたのだ、神への供物として。けれどそれは彼女たちにとっては理不尽な殺人以外のなにものでもなかったはずだ。理不尽な死を突きつけられ、惨めに奪われた。それ以外のなにものでもない。少なくとも、香玖耶が捉える彼女たちの言い分は確かにそう告げている。
 宥めるように両手を伸ばす。宙を掴むような小さな動きを見せる両手には、けれど、常人の目にはとまることのない存在――精霊の姿があった。杜に住まう精霊たちだ。杜の緑に、吹く風の中に、あるいは女たちが沈められた池の中に。どこにでも精霊は住まう。エルーカ(召喚師)と呼ばれる香玖耶の目には確かに映る精霊たちは、香玖耶の手によって宥められ、ほどなく、不気味に蠢いていた杜の空気もやわらいだ。
「黒き宵を奔る風、其れは虚、北の天より吹き流れる。虚は空、すなわち風は空よりいずる」
 朗々と詠う。それは夜吹く風に住まう精霊たちを呼び止める詞だ。
「我が名は香玖耶。古より息吹くエルーカ。……私の声を聞いてくれてありがとう」
 言って微笑む香玖耶の周りには、いつしか柔らかく静かに吹く風の渦が出来ていた。
「聴かせて。――この地で起きた、忌まわしい記憶を」

 カラスが投げた水ヨーヨーは見事に少女の手に命中した。それは容易く破裂し、周辺に水を撒く。むろん少女の手や浴衣にも水はかかり、少女はふと驚いたように顔をあげた。と、少女の周りを跳梁していた影が刹那姿を消したように思えたが、カラスはそれを確認しようもなく、あるいは見とめるよりも早く、下駄の底で砂利を蹴った。
 小瑠璃は少女に頭をわしづかみされた姿勢のまま、走ってくる男の姿に目を向けていた。浴衣姿の、自分と同じ年ほどだろうか。優男と呼ぶのがしっくりとくるような見目をしている。男が何か叫んでいるのを、小瑠璃はぼんやりと見ていた。
 ツィーと共に少女に寄り、声をかけた。少女に近寄る寸前、ふたつあった影の内のひとつとぶつかった。その時、何かが耳元でしのび笑うような声を聞いたような気がした。
 ともかくも少女に近寄って、まず先にツィーが少女の腕を掴んだ。ナイフを持っているほうの手だ。少女は虚ろな目でツィーを見上げ、そうして頬にやんわりとした笑みを滲ませた。
「あなたが……なのね」
 辛うじて聞きとれるような小さな声で呟き、次の瞬間、少女の表情は一変した。音をなさない叫びをあげ、ツィーの身体を跳ね飛ばすほどの力をみせたのだ。もちろんそれは相手が非力な少女であったためにツィー本人が抑える力を極力弱めていたためなのだろうが、それでも、それを考慮に内にいれたとしても、瞬間みせた少女の力が尋常のものではないことを知らしめるには充分たるものだった。
「あなたがあたしを殺したんだ! あ、ああああ、愛してたのに!」
 言って、少女は跳ね飛ばしたツィーの腕にしがみつき、間をおかずナイフを振り上げた。
「それはちゃうで!」
 気付けば、叫んでいた。小瑠璃の声に、少女だけでなく周囲の人間たちの何人かが足を止める。
「あんた、うちがあれやろ。うちが池ん中に放った女やろ」
 続けて口にし、深いため息をひとつ。取り出したタバコを口に運び、小瑠璃は出来うるかぎりの冷ややかな視線で少女を見据えた。
 ツィーが何かを言いたげな顔をしていたが、小瑠璃は応えるように片頬を歪めあげた。
「思い出したわ。うちがあんたを沈めた男や。今は女に生まれ変わってきとるけどなあ」
 言いながらも小瑠璃は頭の中で整理する。ツィーが偶然に耳にしたという話、少女の周りにある影。これはハザードや、そういった類に含まれる現象なのだろうか。いや、けれど、少女はたぶんただの人間だ。バッキーすら持ってはいないだろう。
 少女は小瑠璃の話を耳にしてわずかに首をかしげた。そうして喜色を満面にたたえた表情を浮かべ、ツィーに背を向けて小瑠璃に向かってきたのだ。両手をいっぱいに広げ、まるで恋しい相手に抱きつく寸前の女のように。
 ――ハザードであれ、もしもそうでなくとも。いずれにせよ原因はあるはずだ。それを突き止めなくては、少女はきっと止まらない。そんな気がする。なら、今、少女は自分が引きとめておけばいい。ツィーはその隙にその原因を探ればいいのだ。
 ツィーは小瑠璃が自分をまっすぐに見ていたのを知って、しばし視線を交わした。そうして小さくうなずいて振り返り、場を後にした。
 少女が、もしも仮に、本当にかつて池に沈められた女の生まれ変わりならば。あるいはその池の中に、その名残が残されているかもしれない。
 後ろで女の叫び声が響いた。小瑠璃のものではない。おそらく周囲にいた誰かのものだろう。一瞬それに足を引きとめられそうになったが、振り切り、ツィーは本殿の裏、杜の奥にあるはずの池を目指したのだった。
「それを放すんだ」
 少女のすぐ目の前で足を止め、カラスはメガネの奥の目を細める。横目に女を検めるが、致命傷となるような傷は負っていないようだった。「そのひとを放して、ナイフも捨てるんだ」言いながらじわりと半歩を進める。少女はカラスの声などまるで耳にしていないかのように、純朴な、透明な笑顔を浮かべていた。
「この子にはうちの声しか聞こえておらん」
 少女に囚われている女が不意に口を開けた。
「この子にとって、うちは今、昔の恋人になっとるんや」
「……昔の恋人?」
 眉をしかめたカラスに苦笑を浮かべ、小瑠璃はどうにか体勢を変える。それを諌めるように、少女がナイフを振り上げた。切先が小瑠璃の腕を裂き、鮮血が周りに散らばった。
「この神社の裏に池があるらしいんやけど」
「話に聞いたことはある」 
 以前、イラストの仕事を頼まれたことがあった。地元の小さな新聞に載せる史学に関する依頼だった。その時、さわりだけではあったけれども調べてみたことがある。――仄暗い逸話を抱えた池だったはずだ。
「……なら、放っといて」
 うちらがどうにかするから。そう続けた小瑠璃の頬が、少女が再び振り上げたナイフによって傷を負う。自分以外の誰かと口をきくなということのようだ。
「……そうはいかないでしょう」
 ため息を落とすように口にして、カラスはふと少女の浴衣の襟元に目をやった。
 ――鏡?
「その子は様子がおかしい。……誰かに操られてでもいるのかもしれない」
「それは調べに行ったやつがおるわ。……もう、どっかいってや。……あんたと話しとると、この子がヤキモチやくやろ」
 自嘲気味に頬を歪めた小瑠璃に眉をしかめ、カラスはしばし口を閉ざす。
 ――そうだ、確か。
「この神社で祀られているのは、確か鏡……正しくは皿だったはずだけど、……でも」
 盗まれたとか紛失したとかいう話を聞いたことはない。そもそも数年に一度しか公開されることのない本殿であったはずだ。取材をしたカラス本人も、実際にそれを目にしたことはなかった。
 しかも。
 しかも、少なくとも百年単位での昔の品になるはずの鏡――皿だ。いくら状態が良くても、それなりの渋味は出ているはずなのだ。けれど、今、少女の襟元に覗くそれは明らかに真新しいものであるように見える。
「ごめん、これは俺の独り言だから、君は一切答える必要もない。――なんにせよ、その子から君を放さなくちゃならない。それとその子が持っているナイフ。それも引き放す必要があるよね。だから」
 言って少女を見やったカラスの目が、ほんの一瞬、穏やかで優しいものから豹変した。冷ややかな、見るもの全てを射抜くような鋭利なもの変じたのだ。
 カラスの足が砂利を蹴り、次の瞬間、少女の真後ろに立った。右手で手刀を作り、それを少女の首をめがけて振り下ろし――かけた時、それまではカラスの目に映っていなかったものが突如カラスの眼前に現れ、視界を奪った。少女が肩越しにこちらを振り向いていたのがわかる。その目は、確かに、カラスの存在を見据えていた。
(いけない、いけない。いけないなぁ、この子の邪魔をしちゃあいけない)
 視界を奪ったそれは夜の闇に浮かぶふたつの影だった。英国の紳士然とした風貌であるように思えるが、それはなかなか形を定めない。ゆらゆらと揺らぎながら闇を跳ねるそれは、なぜか、カラスの目に、少女自身の意思のようなものとして映りこんだ。
(この子はこの子として生まれ変わってくる以前、大変に不幸な運命を辿ったのだよ)
(つまり不遇な前世をとげ、そうして新たな身体を得て現世に生まれ変わってきたのだ)
(そうしてかつての恋人とこうして再会できたというわけだ)
(浪漫! 浪漫だね!)
 影は跳ねながらカラスの周りで渦を巻き、かわるがわるにさえずる。窓の隙間をぬって入り込む夜風がならす声のようだ。
 カラスはわずかに眉をしかめ、かまわずに手刀を落とした。それは少女の首をきれいに叩き、少女は何かを言いたげな口をしたままがくりと意識を手放す。同時にふたつの影もまたかき消え、ナイフが砂利の上に落ちる音だけがひっそりと響いた。

 池は小さなものだった。ゆっくりと一周してもせいぜい二十分もあれば充分だろう。夜目のきくツィーの目にはその水面が昼のそれと違わぬ姿で映る。苔の色の強い、深い緑色を一面に広げた池だ。底など窺いようもない。
 小瑠璃と行動を別にしてから、まだ数分といったところだろうか。しばらくの間悲鳴や逃げ惑う気配が響いていたが、今はそれももう静まっている。おそらくあの場にいた人間たちは皆避難したのだろう。――少なくとも、小瑠璃の他の人間たちは。
 一刻もはやく小瑠璃のもとに戻らなくてはならない。誰か、ひとりでも小瑠璃に力を貸すと名乗り出てくれる者がいればいい。どうか無事であってくれと祈り、ツィーは池のほとりで足を止めた。
 盗み聞いたあの会話が事実なら、かつて女たちが沈められたという池の中に、もしかすると何らかのものがあるかもしれない。むろん死骸やそういったものはあるだろう。もしも女たちの怨嗟による影響を少女がうけてしまったのだとすれば、そういった死骸や名残を浄化してやれば、あるいは治まるかもしれない。
 両手で髪を整え、池に潜る準備を整えながら、ツィーは横目に一本の大きな樹の裏に目をやって口を開けた。
「君もここを調べに来たんですか」
 静かに放たれたツィーの声に姿を見せたのは、夜の闇の中にあってもひらひらと輝く銀の髪をもった女だった。白地に藍と紅の華を咲かせた柄の浴衣を身につけている。女の、どこか訝しげにツィーを見つめる目に気がついて、ツィーはゆったりと首をかしげた。
「君の周りにいるそれは、精霊ですか」
 訊ねたツィーに女は一瞬驚いたように目を見開き、そしてすぐに頬を緩めて歩みを寄せる。
「あなたには視えるのね」
「はい」
 応え、ツィーは女の指先で遊ぶ水の塊を見た。それは小さなヒトに似た姿をとっている。水の塊に見えたのは、その精霊の髪や手先が水流を模して一定の形をとらないためだろう。明らかに水に属する精霊だ。
「杜のざわめきが治まっていますね」
 今度はツィーが訊ねた。女は穏やかに微笑み、ついで、指先で遊んでいた精霊をぽぅんと宙へ躍らせる。放たれた精霊は宙でひらりと回転し、飛沫を撒きながら、主と同じ大きさほどに身を変じさせた。しかしその姿はやはり水流のようで、表情やそういったものはあまり深く窺えない。だが漂うやわらかな空気が、何よりも雄弁に精霊の心を表しているようだった。
「ツィーといいます。あなたは」
「香玖耶」
「香玖耶殿。――ツィーもこの下に潜ってきます。あなたの精霊としばし行動を共にすること、お赦しを」
 断り、飛沫を跳ね上げることなく水の中に身を沈めた精霊の後を追う。
「行ってらっしゃい」
 池の水面に波紋がひとつ広がった。
 香玖耶はそれを見守った後、自らも静かに目を閉じる。
 精霊に意識を重ね、自分も水の中の景色を“視る”ためだ。

「消えた」
 少女が意識を手放したのと同時に消え失せたふたつの影、それが今まであったはずの位置を探りながら、カラスはぼんやりと口を開けた。
 小瑠璃は小さく咳ごみ、頭をさすりながら砂利に膝をつく。そうして倒れている少女を抱え上げ、メガネをただしながらカラスの顔を仰ぎ見た。
「なあ。……この子はどうなっとるんやと思う?」
「どうなってと言うと」
「……うちがさっき会った男の話やと、この子はふたつの影に囲まれて何やら話しとったっていうんやけど」
「影は消えたね」
 カラスが返すと、小瑠璃は表情を曇らせ、少女の、わずかに乱れた襟首をそっと整えてやった。そうしてふとその襟元に鏡があるのを知って、改めてカラスの顔を仰ぐ。
「これ……何やろうか」
 言いながら手にした鏡が屋台の明かりを反射してきらきらと閃いた。
「知ってるかな。――この神社の裏には古い池があって、昔、日照りや冷夏なんかで作物が思うように採れなかった年の冬、神への供物として、女性がひとりその池の中に沈められていたんだそうです」
 カラスの声が静かに話し始める。小瑠璃はうなずき、「この子は、それにまぎれて殺された女の生まれ変わりやて言われてたらしい」
「真偽はわかりません。もしかするとそういったことが実際にあったのかもしれない。でもそれが文献に残されていない以上、それが本当にあったことなのかどうかを俺たちが知る術はない」
 カラスが言ったのに、小瑠璃は小さくうなずく。確かにその通りだ。
「それと、この神社に祀られているのは豊作を占う鏡だとされているんです」
「鏡……て、まさか」
「いや、それじゃないと思います。それは本当の鏡だ。――昔、占具として用いていたのは水鏡だったといいます。つまり、皿に水を張って鏡のように映す」
「それじゃあ、」
 言いかけた小瑠璃にカラスはわずかに首を縦に動かしてみせる。そして小瑠璃が手にしている鏡に目を落とし、驚いたように口を開けた。
「鏡を放してください!」
 言われ、けれど小瑠璃はカラスにつられて鏡に目を落とす。そうして同じように目を見張り、鏡の中に映りこんでいるものに気をとられた。
 円い鏡の中、映りこんでいるはずのカラスと小瑠璃の顔。だがそこに映っていたのは無数の蠢く闇だった。黒い、深淵を思わせる闇の中、数多の形なき影がうねりながら鏡を叩いている。まるでそこから出せとでも言いたげに。
 風が吹き、小瑠璃とカラスの髪を大きく揺らす。
 その風の中に低く呻く声のようなものが混ざっているのに気がついて、カラスは咄嗟に上空を見た。小瑠璃は少女を庇うように抱きしめ、本殿の裏に広がる深い杜に目を向ける。
 意識を手放していたはずの少女が、小瑠璃の腕の中、意味をなさない叫びをあげながら泡を吹いた。

 水面を満たしていた苔は、しかし、水面下にまでは広がっていなかった。潜ってみれば案外とクリアな視界が広がっていて、ツィーは思ったよりも悠々と底を目指すことができた。
 池は思ったよりも深く、そして冷たかった。今は夏。夏の夜でこれほどの温度なら、冬の夜ともなれば水温はさぞかし低くなっていたことだろう。その中に沈んでいく女たちは、果たしてどれほどに世を、人を恨んでいただろうか。遠くなっていく水面を仰ぎながら、その心中には果たしてどんなことを浮かべていただろう。
 隣では香玖耶が放った精霊が美しい魚のような肢体で悠然と泳いでいる。時おり閃くのは精霊の髪なのか、それとも鱗のようなものでもあるのだろうか。思いながら、やがてツィーは池の底に足をつけた。
 水草がびっしりと埋め尽くしたそれは、まるで水の底に広がる草原のようだ。それが波を受けて静かに安穏とそよいでいる。
 ――その中に、何か、亡くなった方たちに関わるようなものはありませんか。
 精霊の口から香玖耶の声がする。ツィーは首をかしげ、水草をかきわけてさらにその下を探った。骨ひとつ見つかりそうにない。
 静かにそよぐ水草をかきわけながら、しかし、ツィーはふと足を止めて上空を仰いだ。
 苔が広がり、水面の上を窺うことは出来ない。出来ないはずなのだが、けれど、そこには確かにゆらゆらと揺らぐ満月の光がある。 
 はたりと首をかしげたツィーに気がついたのか、精霊が水草の隙間で光を跳ね上げた。それはまるで月の光を得て跳ねる魚が放つ輝きのようだった。
 ――ツィーさん、それは
 香玖耶の声がする。
 ツィーが、精霊の泳ぐ位置を探る。
 そこに、古びた円い鏡が隠れていた。

「ちょ、これ!」
 どうなってるんと口にする小瑠璃の手から鏡を奪い、カラスは改めてその中を覗き確かめる。渦巻く闇は、鏡の中、今にもこちらに渡り来そうな風に鏡面を叩いていた。叩かれるたびに面が大きく揺れる。
 辺りを奔る風は――否、怨嗟をうたう呻き声は、地の底から這い出てくる何かが放つもののように空気を震わせていた。
 少女が泡を吹き暴れるのを検めてから、カラスは手の中の鏡を大きく振り上げ、そして砂利に叩きつけた。
 少女の叫びが闇を引き裂き、轟く。

 杜の木々、水、眠りについていたはずの草花。そういったものたちが一斉にざわめき始めたのを知って、香玖耶は大きく両手をかかげた。
「この地に息吹く万物の血脈たち。私の声を聴いて。私の声を効いて!」
 言って、大きく手を鳴らす。池を出でたツィーは、共に上がってきたはずの精霊の姿が既にそこにないのに気がつき、香玖耶の姿を探した。精霊はもうすでに主の傍に控え、踊るように跳ね、仲間たちを宥めている。
 杜が、何か別の意識に影響を受けているのがわかる。
 ツィーは拾い上げてきた鏡を持ちながら足もとの草を跳ね上げて、次の瞬間には杜を満たす樹木の中でひときわ古い樹の幹に登っていた。
「おまえはこの杜の中で一番古い樹だ。――皆を宥めてやってくれないか」
 幹肌を撫でながら声をかける。
 瞬間、杜が、それまで自分たちを支配しかけていた暗い意識を弾き飛ばしたのがわかった。
 どこかで何かが割れるような、女の悲鳴のような、そんな音がした。


 
 目覚めると、そこは本殿の床の上だった。
 少女は未だぼんやりとする頭を抱えながら目をこすり、小さなあくびをしながら、初めて自分の周りに四人の人影があるのに気がついた。
「おはよう」
 銀髪の女がやわらかく微笑む。
「どこか気持ち悪いところとかはないかな」
 浴衣姿の、メガネをかけた男が少女の髪を片手で撫でた。少女は目を瞬かせながらうなずき、ついで、自分が誰かの膝の上に頭を乗せていたのを知って身体を起こす。
「ああ、ゆっくりしてええよ。寒いやろう。これ、引っ掛けとき」
 膝を貸してくれていたのは艶のある女だった。女は少女に薄手の上着をかけてよこし、片手で自分の前髪をかきあげる。
「あの……あたし」
 おずおずと口を開けた少女に、柱に背を預け立っていた男がすうと目を細める。
「悪い夢でも見てたんでしょう。――ひどくうなされていました」
「……夢」
 呟き、少女は頭を抱えた。
 夕べは友人と祭りに来る約束をしていた。出かける時間まで余裕がずいぶんとあったので、兄の部屋にあったビデオを適当に選んで借りてきた。兄は映画監督になるのを夢見ていて、なにしろバッキーを連れているぐらいの男だ。妹が無断でビデオを拝借したところで、感想を聞きこそすれ、怒るようなことはした例がなかったから。
 ――そして。
「あたし……部屋にいたはずなのに」
 友人と出かける用事があった。だから眠ったりもしていないはずだ。ビデオはひどく古い映画で、画面も白黒で、内容も単調なものだった。確か、ふたりの奇術師が出てきて、様々なコミカルな事件を引き起こし、町を楽しい騒動で満たしていくという。
「ひとつ、訊いてもいいかな」
 浴衣姿の男が口を開く。
「この神社の裏には池がある。知っているかい?」
「……ええ」
 問われ、少女はふと表情を強張らせる。
「それじゃあ、その池で昔何があったのかは?」
 銀髪の女が訊ねる。少女はわずかに視線を泳がせた後、小さく、かすかにうなずいた。
「……前、郷土史を調べる授業があって」
「そうなんだ」
 銀髪の女は少女の答えにやわらかな笑みを浮かべる。そしてそれきり誰も何も訊ねてこなかったので、少女はそれきり口をつぐんで俯いた。
 ――あの夢の話なんかしたところで、誰に理解されるはずもない。
 沈んでいく自分。水の冷たい感触。息苦しくなって、朦朧としていく意識。伸ばす指。何をも掴むことのない指。――あの夢が自分の前世の記憶なんだと話したところで、どうせ、また、

 ――いじめられるだけだ

 目を塞ぎうつむいた少女に、膝を貸してくれていた女の声が降ってきた。
「あんたなあ。――男に騙されるとか、そんなん生きてりゃようあることやで。騙して騙されてナンボや、男と女なんてもんわな」
 言われ、少女は弾かれたように顔をあげる。映ったのはやわらかく、穏やかに微笑む四人の顔だった。
「前世でのあんたがどんな目に遭うたんかは知らんで。でもな、そんなアホのために、今世までダメにする必要とか、一個もないんやで」
「……あの、……あたし」
 驚きに声が出ない。――なぜこの人たちは自分のことを知っているんだろうか。
「あのね。心っていうのは生まれ変わっていけるものだと思うのよ。哀しみも苦しみも憎しみも、愛も、ぜんぶ、全部がね。輪廻を重ねて、そうして成長していけるものだと思うの」
 銀髪の女が口を開けた。どこか、寂しそうな笑顔だった。
「――だから、ね。……今はもう少し休んで。次に起きたらきっと、嫌なことは全部夢の底に眠っているわ」
 そう言って伸ばした女の指に髪をすかれ、少女はまるで誘導されるように、再び眠りについた。
 眠りに落ちる瞬間、けれど少女はふと思う。
 ――そういえば誰と約束していたんだったっけ


 朝を迎える直前の空は薄い紫色をしている。
 ツィーは再び池の傍に足を寄せ、拾い上げてきた鏡をひとしきり手の中で弄んだ後、それを再び池の底へと沈めた。小さな波紋を広げながらゆっくりと沈んでいく鏡面に、薄紫の中で白々とかすかに光る月の姿が映っている。
「あなたたちも、もうゆっくり眠るといい」
 呟き、静かに目を伏せて黙祷を捧げる。
 応えるように、鏡面に映る月がわずかに歪んだ。
 
  
 

クリエイターコメントお届けがぎりぎりになってしまいました。お待たせしてしまい、申し訳ありません。
宣告通り(?)、プレイングは多少切り捨てさせていただいたりしました。捏造も、た、多少。
えー。作中でもろもろ書かせていただいたつもりですので、付随的なコメントはなしです。とにかく楽しく書かせていただきました。
ご参加くださいました四名様、ならびにお読みくださっている皆々様方が、少しでもお愉しみくださっていればいいなと祈りつつ。

口調・設定等、捏造しすぎだろ大概にしとけよといった箇所がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ。
公開日時2008-08-25(月) 12:10
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