★ 【眠る病】顔のない夢 ★
<オープニング>

 それは、なにかの不吉な兆しだったのだろうか――。
 銀幕市の医師たちは、運ばれてくる患者に、一様に怪訝な表情を浮かべ、かぶりを振るばかりだった。
 眠ったまま、どうしても目覚めない。
 そんな症状を見せる市民の数が、すでに数十人に上ろうとしていた。
 患者は老若男女さまざまで、共通点は一見して見当たらないが、ムービースターやムービーファンは一人も含まれていないことから、なにか魔法的なものではないかという憶測が飛び交っていた。
 そもそも、医学的に、これといった所見がないのである。
 ただ、眠り続けている。
 しかし放置するわけにもいかない。
 銀幕ジャーナルの読者と、中央病院の医師たちは、この症状にひとりの少女の名を思い出さずにはいられない。
 しかし彼女の難病とは、いささか異なる点もあるようだ。
 そんなおり――
 市役所を訪れたのは、黄金のミダスだった。

「ではこれが、ネガティヴパワーの影響だっていうんですか!?」
 植村直紀の驚いた言葉に、生ける彫像は頷く。
『すべてが詳らかになったとは言えぬが……そうであろうと思う』
 ミダスの手の中で、あの奇妙な、魔法バランスを図る装置がゆっくりと動いていた。
「では、いったいどうすれば」
『夢だ』
 ミダスは言った。
『眠るものたちはすべて夢をみている。そこに手がかりがあろう』
 装置をしまいこみ、かわりにミダスが取り出したのは、一輪の薔薇のドライフラワーだ。
『この<ニュクスの薔薇>を火にくべよ。立ち上る煙は人を眠りに誘い、同じ場で眠るものたちを、夢の世界へ導くだろう。そして人のみる夢は繋がっている』
「つまり、このアイテムを使って、眠ってしまった人たちの夢の中へ入り込んで調べる、と……そういうわけですね」

 ★ ★ ★

 井戸の前に、少女が立っている。
 井戸の中を覗き込めば、そこに広がっているのはまるでネガティブゾーンのような海。
 少女が身にまとっているのは、血染みの目立つ何処かの学校の制服。
 少女の身体に目立つのは、暴力を受けた痕跡。

 少女は少し前まで、家で人の形をした者達に罵声と暴力を浴びせられていた。
 その前には、学校でやはり人の形をした集団から様々な嫌がらせを受けていた。

 この世界には、この井戸の外には、それしかない。
 そして、それら全てが私を拒むのなら、私はこの世界にいなければいい。
 そうだ、そうすればきっとみんな喜ぶ。

 少女はそう考え、迷わず井戸に身を投げた。
 井戸の中は静かで、空気も澄んでいた。
 あんな世界よりもずっと居心地が良い。そう少女が思った次の瞬間、海は蠢いて落ちてくる少女の身体を包み込んだ。
 それは、弾力性があってとても温かかった。


 対策課では依頼に応じて集まった人達に眠り続けている人々の情報を提供していた。
 その中には訳ありで市外から移ってきた人の名前も含まれていた。

 中村晴未、13歳。
 銀幕市に魔法がかかった後に市外の精神病院から転院し、そのまま中央病院に入院している。
 家庭や学校の環境に恵まれなかった彼女は、生まれた時から邪魔者として扱われ続けたために極度の人間不信に陥っているらしい。
 その心の傷は非常に深く、前の病院では対応しきれないという事で医師や設備が充実し魔法による奇跡が日常化している銀幕市に移された、という事になっている。
 色々と複雑な事情があるようだが、そう簡単に話せる内容ではないらしくそこまでの情報は対策課も得ていなかった。

「――ですが夢の中に入る皆様になら、あるいは話してもらえるかもしれないですね」
 彼女の夢に入る事になったメンバーに、植村が簡単に状況を説明した。
 主な目的は、夢の中に入って眠り続けている人を助ける事。
「それと、これは彼女の担当医師からのお願いなのですが……」
 夢の中に入るわけですからねと、植村はその願いをそのまま伝えた。
 ――出来れば彼女の心を助けてあげてください、と。

種別名シナリオ 管理番号952
クリエイター水華 月夜(wwyb6205)
クリエイターコメントこんにちは、水華です。
なにやら不穏な事件が起きているようです。

今回の依頼は眠り続けているの夢の中へ原因を探りに行くというものです。
依頼を受けた皆様には夢の中へ入ってもらうわけですが、
身につけている装備品などは基本的に全て持って行く事が出来ます。
乗り物とかになると厳しいですが。

夢の中でのスタート地点は学校の何処かになります。
夢世界の地上では晴未が受けた行為の幾つかを追体験する事になりそうです。
死ぬ事はないですが、かなりひどい目に遭うかもしれません。

その他基本的な情報はほぼオープニングに入っていると思います。
井戸の中のネガティブゾーンのように見える海は本物のそれではありません。


なお、今回は晴未に対するスタンスが非常に重要になります。
彼女はある理由で事件の原因排除を妨害しますので、
それにどう対応するかは必ず書いておいてください。

戦闘も起きそうですが、どちらかというと心理描写重視になりそうです。
それでは、皆様のご参加お待ちしています。

参加者
レイ(cwpv4345) ムービースター 男 28歳 賞金稼ぎ
チェスター・シェフィールド(cdhp3993) ムービースター 男 14歳 魔物狩り
ケト(cwzh4777) ムービースター 男 13歳 翼石の民
白の奇術師(czzu5885) ムービースター 男 16歳 奇術師
<ノベル>

(お兄さん暇じゃないんですけど)
 市役所から病院への道すがら、レイはメンバーの年齢層の低さにちょっぴりげんなりしていた。まあ眠っている人物のことを考えればむしろこれくらいの年齢層の方がいいのかもしれないが。
(まあ全員スターだし、見た目だけで判断するのもあれか)
 少なくとも1人はついこの間別件で一緒に行動しているわけだし。
 そう思いながらレイが視線を向けた先には、お世辞にも機嫌がいいとは言えない表情をした白の奇術師が居た。
 実際、彼は少々腹を立てていた。まだ詳しい事は分からないが、善意や好意を持って接する人だって確かにいるはず。そうでなければ今回晴未に関する依頼は出されなかったわけだし。
 なのに、だ。対策課で聞いた限りでは、彼女はそれを受け入れることなく誰にも心を開いていない。
 境遇には同情できる。が、行動に共感は出来ない。
 だから、彼女にはちゃんと教えたい。皆が悪意を向ける存在ではない事を。

(どうにかしたいよなぁ)
 チェスターはメンバーの先頭を歩きながら考えていた。
 歳が近いのもあるし、このまま眠ったままというのも何だし。
 どんな夢かは分からないけれど、ネガティブパワーが絡んでいるわけだし良い夢ではないだろう。ゴールデングローブはなくても大丈夫らしいのは幸いだが。
 何が起こるか分からないわけだし、気をしっかり持っておかないと。
「なあチェスター。聞いただけじゃよくわかんないんだけどさ、チェスターはどういう事か分かるか?」
「簡単に言えば人間不信に陥っている人物の夢に入って眠る病の元凶を探してこいって事だろ?」
 幸いというか、こういうのに向いているのかは別として気心の知れたケトも来ているし。人手は、多い方が良さそうだ。
 人間不信の彼女の夢の中だ。何が起こるか分からないけれど。
(でも、できれば彼女とは戦いたくないよなぁ)
 助ける相手と戦うような事態は、出来れば避けたい。
 ちなみにケトだが、暇なのでチェスターに付いてきてそのまま今に至る。いまいち事情は飲み込めていないけれど、出来ればどうにかしてみたいのは他のメンバーと同じだ。
 他の3人の方が思うところがありそうだ、とも思っていたりするのだが。


「こちらです」
 対策課からと伝え、担当医師と共に中村晴未の病室に入った4人はその風景に僅かに違和感を覚えた。
 異常なまでの物の少なさ。病室の備え付け以外に置かれている物といえばレヴィアタン戦の記事のページが開かれている銀幕ジャーナルくらいしかない。そして、妙に使い込まれた感じのある可動式点滴台。
 肝心の晴未はと言えば、ただ無表情に眠り続けている。しかし布団から出ている顔や腕はひどく痩せていて、素人目にも健康ではない事が一目瞭然。
「……どういうことだよ」
 思わずチェスターが声に出す。病院は健康じゃない人が入院して健康を取り戻したりする場所だけれど、精神科で入院しているのにやつれているとなると余計な疑念が沸いてきてしまう。
「晴未さん、全く食事に手をつけないものですから」
 食事そのものにトラウマがある、というよりもそもそも入院のきっかけがとんでもないものを食べさせられた末に道端で倒れて救急車に運ばれたとのこと。そのため食事を取らせようとするたびに激しく抵抗され、やむを得ずこうしているのだそうだ。
 これでも少しは体重増えているんです、と沈痛な表情で語られては引き下がるしかない。が、気になる事が1つ。
「で、その『とんでもないもの』とは一体何なんだい?」
 白の奇術師が訊ねると、医師は一瞬顔色を青くしてから答えた。
「言っても良いですけれど……絶対大声を上げないで下さい。病院ですから」
「そんなにひどいものなのか?」
「ええ。想像しない方がいいです」
 一連のやりとりを聞きながら、チェスターは密かにケトの口を塞ぐために構えた。
「心の準備は良いですか?」
 そこまでのものなのかと思いながら、先を促す一同。
「じゃあ言いますよ。晴未さんが食べさせられたものは――と――です」
「なっ」
「ちょっ」
「――――っ!!」
 言われた瞬間にチェスターが反応したので、ケトが絶叫するのはかろうじて避けられた。
 確かにそれはとんでもなかった。食事にトラウマが出来る、どころの話ではない。
 ――下手をすれば、死んでいた。



 室内に簡易ベッドを用意して貰い、身体を横たえた――ケトは既にあの後気絶していたが――のを確認してニュクスの薔薇に火をつけた。
 煙に誘われるように眠りに落ちた4人は、やがて霞んだ世界に投げ出された。
 そこは、小学校。
 だが、窓から外を見れば学校の周囲は濃霧に覆われたかのように霞んでいて。
 そして、それぞれの周囲には――。


 レイは金属製の壁に押し付けられた衝撃に目を開いた。
 喉元には、カッターナイフの刃が当てられている。
(何だ……?)
 レイは周囲を確認した。いかにも公共施設といった感じの廊下、霞がかかったような壁面、行き交う人型の黒い影。そして自分を防火扉に押し付けて刃物と突きつけているのは、少年風のやはり黒い影。
 ああ、そうか。夢の世界か。
 そう納得したレイは、黒い影の腕をつかんで刃先を押し戻した。
「ガキのやることにしちゃぁ度が過ぎてるんじゃねぇか?」
 そう言いながらレイが睨み付けた黒い影は、表情なんて分からないはずなのににやりと笑ったように見えた。
「ちっ」
 キーンコーンカーンコーン――。
 舌打ちとほぼ同時に、チャイムが鳴り響く。
 すると辺りを行き交っていた黒い影も、腕を押さえていた黒い影も崩れ落ちるように消滅した。同時に霞がかかっていた壁面があらわになる。
(――なるほど、そういう事か)
 ここは学校だ。つまり、チャイムが鳴ったら教室に戻らないといけない。
 少々拍子抜けした感も受けつつ、レイはとりあえず校内を探索する事にした。
 学校という、あまり体験のない場所への興味も少しばかり抱きながら。

 チェスターは顔面に水を流される感覚に目を開こうとした。が、すぐに止めた。水音に聞き覚えがあったからだ。
 そう、これはトイレを流す時の音。
 さらに言えば、顔面に違和感があったのもある。多分、今目を開けると悲惨な事になる。匂いはあえて無視だ。
 水の流れが止まったのを感じながら――顔に何かが残っているのはあえて気にしない事にして、チェスターは背中を押さえている何かの手を払って体を起こそうとしたのだが。
「――ぐぁっ」
 起こしかけた身体を再び押さえつけられ、和式便器の底に顔を押し付けられた。
「起きあがってきてるんじゃねーよ」
 音はしていないはずなのに、何故かそんな声を聞いた気がした。そして再び水が流される。
(こ、こいつら溺れさせる気かっ)
 体を起こそうにも、上からの力が強い上に姿勢も悪く抵抗する事が出来ない。一瞬見えた黒い影達が笑っているのが、音ではなく脳で感じられる。
 息が苦しくなり口を開くたびに大量の水が流れ込み、溺れかけたところで引っ張られてむせかえる。そしてまた便器に押し付けられる。
 何度も繰り返された拷問のような行為は、チャイムが鳴るまで続いた。
 解放されたチェスターが真っ先に洗面台で顔を洗ったのは言うまでもない。
(……大丈夫かな、ケトのやつ)
 ある程度覚悟はしていたが、正直かなりハードだった。耐性がないと、持たないかもしれない。
 トイレから出たチェスターは、とりあえずケトを探す事にした。
 程なくして、聞き慣れた絶叫が彼の耳に飛び込んできた。

「いでぇーっ」
 ケトは背中に突き刺さる鋭い痛みに絶叫しながら目を開いた。
 視界に入ってきたのは沢山の机と椅子、教卓に黒板、掲示板に掛け時計。要するに教室である。
 とっさに翼を羽ばたかせて刺さった何かを振り落としたが、落ちた物を見て思わず息を飲んだ。
 そこに落ちていたのは、血の付いた画鋲。漫画に出てくるみたいに靴の中にではなく、背中に直接刺されたのだ。
「――ってちょっと待って無理だから無理だからつーか痛ぇって危ねえって止めろぎゃー」
 教室にいる黒い影達は、容赦がなかった。次の画鋲を刺されそうになったのを感じ、反射的に机を蹴り倒しながら宙に逃げたケトに飛んでくる画鋲鉛筆消しゴムチョーク黒板消しバケツほうきちりとりモップ椅子鞄ゴミ箱割れた蛍光灯の破片エトセトラエトセトラ。
 マジであぶねーってのつか自分らも危ないじゃんと下を見れば、何とも見事に連携して被害に遭わないように動いている。
 逃げようにも壁も天井も白い霞に覆われていて、通り抜けようとしてもスポンジみたいな感触がするだけでその間にも物が飛んでくるからとてもじゃなけど脱出なんて出来そうもない。ついでに室内だから狭くて全てを避けきるのも無理なわけで。
「あだだだだ当たってる当たってるつか刺さってるってぇー」
 チャイムが鳴るまで狭い教室内を飛び回って何とかしのいでいたケトは、チャイムが鳴ると同時に現れた扉から急いで脱出しようとして。
「ぶわっ」
「あぎゃーっ」
 叫び声を辿ってきてまさに今外から扉を開いたばかりのチェスターと正面衝突した。
「もう無理マジ無理絶対無理痛いから止めてくださいお願いします勘弁してください助けてチェスター」
「いやもう助けたから」
 錯乱状態に陥っているケトをひとまず落ち着かせながら、チェスターは途中で合流したレイと3人でこれまでの校内での出来事を確認し合った。
 レイはあの後も家庭科室で包丁を振り回されたりトイレで水を掛けられたり音楽室のピアノでひき潰されそうになったりと探索した分だけ色々な出来事に遭遇していた。
 チェスターもレイほどではないが階段の上からたんを吐かれたり、あと体験ではないが廊下に晴未の物と思われる体操服と私服が一緒に落ちていたりもした。
 共通点は、チャイムが鳴るとその場面から解放される事。それと。
「傷まで消えるんだよなぁ」
 チェスターの後ろからしっかり観察していたレイは、外から見てもボロボロだったケトが扉をくぐると同時に綺麗に回復するのをしっかりと見ていた。まるでフィルムをはがすかのように、傷だけが綺麗さっぱり落ちたのだ。
「……つかさ、いくら何でもひどすぎじゃね?」
 どうにか精神的に立ち直った(出来事確認を聞きながら気を失いそうにはなったが)ケトの言葉に2人は頷いた。環境に恵まれなかった、で済ませられる話ではない。ここまで来るともう犯罪だ。
「とりあえず、ここから出た方が良さそうだな。大体回ったがひどい目に遭うだけで大した収穫がない」
「でも、まだマジシャンと合流してないしさ。この流れだと学校のどこかにいるんじゃ――」
「あーっ!?」
 チェスターの話をケトの叫びが遮る。
「なんだよケト」
「あ、あれっ」
 ケトが窓から中庭を指差している。その先にあったのは。
「マジシャンじゃん」
「マズイな……」
 黒い影達に担がれ運ばれている白の奇術師の姿だった。

 白の奇術師は食器を置く音で目を開いた。
 そこに広がっていたのは、ごくありふれた給食時の教室の光景。
 ただ一つ、決定的に違うのは自分の席だ。
 周囲はおそらく班別に机を固めているが、自分だけ孤立している。
 食事も違う。目の前にあるのは、お椀に盛られた細長い黒豆らしき物体のみだ。
(そうか、これは)
 眠りにつく直前の話を振り返る。これは、晴未が救急車に運ばれた日の昼食だ。
 だから、これは黒豆なんかではない――ゴキブリの、卵だ。
 一部で消化されずに胃の中で孵って内蔵を食い荒らされるという噂があるが、これは都市伝説の域を出ない。実際には胃酸で消化される……はずである。
 だが、正体が分かっているのにあえて口を付けられるような代物でもない。
 一向に口にしない白の奇術師に、教室中の黒い影が視線を向けてくる。
「あんたなんかそれで充分よ」
「苦労して集めたんだからね。ありがたく食べなさいよ」
 悪意に満ちた言葉が直接脳に突き刺さる。でもそれ以上に、笑いがこみ上げてきて仕方がない。
 だって、あまりにも滑稽ではないか。そこまでして嫌がらせをせずにいられないのかと思うとむしろ同情すら覚える。
 白の奇術師は、箸を伸ばした。
 これは彼女の悪夢だ。そこから逃れる事は、おそらく彼女から遠ざかる事を意味する。
「うっわー、本当に食べてる。馬鹿なんじゃないか」
 何とでも言えばいい。こんな事のためだけにここまでする方がよほど馬鹿げている。
(さて、問題は次なんだよね)
 もしこれが再現だとしたら、この後に待っているのはホウ酸団子だ。彼女はその中毒で病院に運ばれたのだから。
 が、それは来なかった。代わりにやってきたのは、胃を食い荒らされるような強烈な痛み。
(ちょっと待て、どういうこと――)
 そう思いかけて、気付いた。
 これは、彼女の悪夢。だから、全てが現実通りとは限らない。
「あはははは、いいぞ、もっと苦しめ。そのまま死んじまえ――」
 黒い影達が笑っているのを感じながら、白の奇術師の視界は暗転した。


 がこっ、と重めの音がして、暗転した視界に光が戻ってきた。
「おーい、生きてるかー」
「ご覧の通り、ね」
 手を伸ばしながら声を掛けてきたレイに返事をしながら、白の奇術師はその腕をつかんだ。
 そのまま引きずり出された白の奇術師の居た場所は、焼却炉の中。ケトが運ばれるのを見かけ、3人は急いで駆けつけたというわけだ。
「まあ、とりあえずこれで全員集まったわけだよな」
 確認するようにチェスターが言う。見た感じ、特に誰も身体的な異常はなさそうだ。白の奇術師も視界が暗転した時点で痛みは消え去っている。
「で、これからどうすんの? なんか周り霞んできてるんだけどさー」
 ケトに言われて他の3人も周りを見渡せば、校舎全体に薄い霞がかかっている。まるでもうここには何もないとでも言うように。
「そうだな、出るか」
 レイがそう言いながらおもむろに歩き出したので3人も付いていく。
「校門が開いているんじゃないかな」
「そうだな、さっきは霞んでいたが変化しているかも知れないな」
 白の奇術師とレイがそんなやりとりをしている後ろで。
「えー、出口って尻のあぶぁっ」
 余計な事を言おうとしたケトはチェスターにグーで殴られた。しかも顔面ストレートで。
「いってぇ。なんだよチェスター、グーで顔面はひどくね?」
「うるっさい。余計な事を言うからだっ」
 ケトにしてみればちょっとした冗談だったかもしれないが、さっきトイレでさんざんな目に遭わされたチェスターにはとてもじゃないが笑えなかった。

 校門からは、一本道が続いていた。
 道路記号を見る限りは分かれ道があるはずだし周りに家とかもあるはずだが、それらは全て白い霞の向こうのようで。
 僅かに茜がかった空の下を歩きながら、4人はこれまでの情報を整理していた。
「――となると、全てが実体験とも限らないわけか」
「そうだね。実際より過剰だったりするのもあると思うよ」
 だって彼女の夢の世界だから。
 そんな話をしながら、やがて辿り着いたのは1軒の古い家だった。
 表札は「中村」。
「晴未の家、か」
 インターホンらしき物が見あたらないので、とりあえず入ってみる。
 開けっぱなしにされた扉からは居間が見え、3体の黒い影がなにやら話をしているような仕草を見せていた。
 近づいてみると、やはり脳に直接言葉が飛び込んでくる。

「ねえ聞いた?」
「うん、晴未が銀幕市の病院に移るんでしょ」
「そうか、あの銀幕市に行くか」
「そうよ、あの銀幕市に行くのよ」
「そりゃいいわ」
 ――ハザードにでも巻き込まれて、さっさと死んでくれないかしら?

 何なのだ、これは。
「事実ではなさそうだね」
 白の奇術師はそう言うけれど。
「ああ、一時帰宅や面会は一切無かったらしいからな」
 レイはそう言うけれど。
「でもさ、そう思ってしまうだけの事はされていたわけだよな……」
 チェスターの一言でその場が静まりかえる。
 晴未をどうにかしたいし、ひどい目に遭っていただろう事は分かる。
 でも、そこから先は、それぞれに違っている。
 他者の全てを理解する事は無理だから。その間の埋め方で、想像上の相手の性格はずいぶんと変わる――。

 ふと気が付いた時には、家の中は無人になっていた。


 あの後、家の中や周囲を探っていたが、家の中には特にこれと言ったものはなかった。
 そう、文字通り「なかった」。晴未の存在を思わせる、一切の物が。
 そして、家の外では。

「おいおい……」
 最初に井戸の中を覗き込んだチェスターは、思わずそう声がこぼれた。
 その中に広がっていたのは、まるであのレヴィアタンが居たネガティブゾーンのように見える空間。
「どうした?」
 他のメンバーも一様に井戸の中を覗き込み、そして息を飲む。
「そういえば枕元にも置いてあったよなーネガティブゾーンの記事」
 そう言うケトもかつて探索で本物のネガティブゾーンに行った事がある。だから、分かる。
「けどさ、見た目は似てるけど違ぇよなー」
「だな。雰囲気は全然違うし」
 一緒に行ったチェスターも頷く。
 似ているのは、見た目だけ。ネガティブゾーンで感じた感覚までは、この井戸からは感じない。
「入るか」
 あまりにもあっさりと、レイは言った。
「状況から考えて、一番晴未が居そうな場所だろ?」
 本物ではなくとも、それは絶望の象徴。現実に絶望していそうな彼女が、一番居そうな場所。

 白の奇術師が貼ったワイヤーで井戸の中へ降りてゆく。
 そこは確かに本物のそれではなく、だから誰かがキラー化する事はなかったが。
 別のそれなら、あった。



  「あーあ、なんであんたなんか産んじゃったんだろう」

  「お前さえ生まれなければ幸せだったのに」

  「明日が来るのが憂鬱だわ」
  「晴未の誕生日だものね」
   
  「この穀潰しが。食えるだけありがたいと思え」
  「殺したら後始末が面倒だから生かしているだけよ」

  「ママー、あの子汚い」
  「しっ、関わっちゃいけません」

  「寄るなばい菌」
  「晴未病が染るぞー、逃げろー」

  「あんたさえいなきゃ何の問題のないクラスなのに」

  「ゴミはゴミ箱に捨てないと。ほら、さっさと入りなさいよ」

  「気持ち悪いわね、同じ給食食べないでよ」

  「お前が来るから雨が降ったじゃねぇか。遠足楽しみだったのにどうしてくれるんだよ」


    ――物心付いた頃から 皆が私を邪魔と言った
     悪い事が起こるのは 全部私のせい
      生きている事が間違いだって 生まれた事自体が間違いだって
       何を頑張ったって 何に気をつけたって
        私だからという理由だけで全てが悪い事になる
         邪魔なのにどけられないから余計に質が悪いって

     死なせたら捕まるから生かしているだけなんだよね
      生きているのが迷惑だから消えようとしても
       それすら迷惑だなんて言われたらどうすればいいの?
        どうして あの時私は死ななかったの?

      ――私は 何を無惨に生き永らえているの?


「う、うわぁぁぁっ」
 視界が急速に歪みだし、ケトが叫び声を上げた。
 一緒にいるのは、誰だ?
「おいケト、どうしたんだよっ」
「いやだー、来るなっ来るんじゃねぇーっ」
 そこにいるのは、レイの、チェスターの、白の奇術師のはずなのに。
 歪んだ視界には、黒い影にしか映らない。
 そこにいるのが誰なのかが、分からない。


       ――分かっちゃったんだ
        人間 それは怖い生き物
         生きる事も 消える事も 許してくれない
          ただ 際限なく苦しめてくるだけの存在

        だから 気をつけて
         見かけたら絶対 気を許したらいけないよ
          少しでも油断したら 明日はもっとひどくなる
           何もかもが許されないのだから
            それが日常 あるいは私と人間との関係――


「いや無理だってそんなに器用に出来ないからってだから寄るんじゃねぇ」
「ケト!」
 ケトは、飲まれていた。
 4人が4人ともほぼ同じ声を聞き、同じ視界に陥っていたが、恐怖への耐性は全く違っていたから。
「来 る な」
 視界と声に飲まれ、3人を恐怖の対象にしか見られなくなったケトは、その場で取れる最短の脱出手段を取った。
 ――ワイヤーから手を離し、自由落下に身を任せたのだ。



 ぶにょん、と音がした。
 途中でワイヤーから手を離したケトと、それを追うようにやはり手を離して落ちてきた3人は井戸の中の水面らしき物に受け止められた。
 それは水ではなく、弾力があって柔らかい何か。
 ――反動で押し出されるまでの僅かな間、少しだけ嫌な感覚を受けた気がした。

 押し出された身体が宙に浮き、柔らかくしりもちを付いた。
「大丈夫か?」
 誰ともなく声を出す。降りてくる途中で歪んだ視界は、もう元に戻っている。
 特に誰も外傷がなさそうな――1人まだ錯乱状態だが――のを確認したレイは、ふと疑問に思った事を口にした。
「そういえば、お前確か瞬間移動使えなかったか?」
「使えるんだけどね」
 声を向けられた白の奇術師は、その先の質問まで読んで言葉を返す。
「ここではなるべく使わない方がいいと思うんだ。こっちが先に逃げるような真似はしたくないし」
 それもそうだなとレイの相槌が入る。
「それに」
「ん?」
「何だかんだでどうにかなっているからね。今度もどうにかなるんじゃないかと思ったんだ」
「どうにかねぇ……」
 少なくとも大丈夫じゃないのが1人居るだろとでも言うように、レイが視線を変えたその先では。
「チェスターだよなチェスターなんだよなどこからどう見てもチェスターだよな黒い影に化けたりしないよな」
「うるさい抱きつくなってか俺は俺だしそれは幻覚だ――多分」
「多分ってなんだよー」
「俺達も似たような感じだったから……ちょっと待て服で顔を拭くな」
「怖かった怖かったんだってだから怖かったんだよー」
「あーもーうるさい落ち着けっ」
 取り乱しっぱなしのケトをチェスターがどうにか落ち着かせていたが、とうとう業を煮やして頭をむんずとつかんで地面に叩き付けた。
 ぐにょ……ぼーん。
「うぎゃー」
「へ?」
 あまりにおかしな光景に一瞬唖然とする一同(ケト除く)。ぶよぶよの地面にめり込んだケトの頭からチェスターが手を離した次の瞬間、地面からグーパンチが現れてケトを吹き飛ばしたのだ。
「これは……」
「あまり、これを刺激しない方が良さそうだな」
 白の奇術師とレイが頷き合う。これまでの空間とは、様子が違いそうだ。

 巨大な水風船のような足場に苦戦しつつ、晴未の元へと向かう一行。距離感や方向感覚を失いそうなほどだだっ広く何もない空間だが、レイは先程の雑談がてら望遠で周囲を探ってそれらしき姿を確認していたのだ。
「なーなーグーパンチ2回目だぜどう思う、なあってば」
 あれほど色々な目にあってまだケトが元気なのは、素なのか恐怖を紛らわしているからなのか。
 それにしても、だ。ここに降りてくる途中の出来事は何だったのだろうか。
 あの言葉と視界が彼女そのものとしたら――。
 そして、この地面に身体が沈んだ時の感覚。
 ネガティブゾーンに近づいた時に感じるそれと、似ていなかったか?
 確か、この病にはネガティブパワーが関係していたはず。
「ひょっとして、さ」
 ふとチェスターが呟いた。
「晴未に悪夢を見せているのって、これなんじゃないか」
 そう言って足元の地面を指差すチェスター。
 さっきの感覚から考えて、その可能性はありそうだ。
「だとしても、倒し方がわからんとどうしようもないんじゃねぇか?」
 とは言っても、レイの言うとおりこんな化け物をいきなり倒せと言われてもちょっと無理がある。
「うーん、アクションRPGなんかだと核みたいなのが弱点なんだけどなー」
 チェスターがそう呟くものの、実際そのようなものはレイの機械の目でも見つけられなかった。

 その後も4人4様に考え込んだり、あるいは話し合いながら。
 どれくらい歩き続けただろうか。やがて小さな出っ張りのようなものが肉眼でも見えるようになった。
 それこそが、目的の人。
 晴未はこのただ広い何もない空間で、不思議な地面を身体にまとって座り込んでいた。
 そして彼女は、いかにも何かの核のような黒い球形の塊を抱えていた。


 晴未は、4人が間近まで来ても何の反応も示さなかった。
 目は開いているから、眠っているわけではない。
 視界には、確実に入っているはずなのに。まるでうち捨てられた人形のように、無表情のまま身動き一つしないのだ。
「晴未」
 それは、声を掛けられても同じ。
 チェスターには、そのことが少し意外だった。もう少し嫌がられたりするものだと思っていたのだが、それがなかったから。
 いや、それすらもなかったのだ。
 全く反応のないその様子は、拒まれるよりもずっと危うい。
 だが、その感覚は全員には共通していなかった。
「こんな所に居ても仕方ないだろ。それを渡してくれねぇか?」
 最初に声を掛けたレイは、彼女が抱えている球体に手を出そうとしたのだが。
「危ないっ」
 チェスターがそう叫ぶのと同時に、地面から生えてきた触手に弾き飛ばされた。
 地面に打ち付けられるレイ。着地の衝撃は殆ど感じない場所だが、邪魔するように立ちはだかる触手と戦うには少し足場が悪い。
 にわかに身構える4人。だが。
「……だめだよ、手を出したら」
 その時突然、彼女が口を開いた。
「下手な事をしたらもっとひどい事をされるから」
 その声に、触手はずぶずぶと地面へ戻ってゆく。
 声もまた、無表情だった。ただ深く沈んでいるだけのような声。
 彼女とこの地面の関係は分からない。ただ、触手が引き下がったのは確か。
 レイは再び彼女に手を伸ばしたが、彼女は身体を丸めるようにして球体に触れる事すら許してくれなかった。ならばと身体を引き上げようとしても、これが何故か全く動かない。
 どうやら、彼女自身を説得しないと球体には手を出せなさそうである。それに、無理に奪ってどうにかしたところで、それは彼女の救いにはならないだろう。
「はあ、そんなに嫌か」
 ため息と共に出されるレイの言葉には、やはり彼女は反応しない。
「あのな、ひどい目にあったのは何となく分かった。だけど、ここで眠ってるだけじゃ傷はひとつもなおらねぇよ。目を開けて前へ進んで、それでないと癒えない傷なんじゃねぇのか」
「……」
 相変わらず、無口である。
 こういった、自分を不幸のヒロインとでも思い込んでいそうな人間はレイは好きではない。
 だが、戻って来て欲しい人間もいる事は伝えておきたい。
 そうレイが思考を巡らせている間を縫って言葉を継いだのは白の奇術師である。
「それに、この街には味わっても味わいつくせないほどの楽しみがある。なのに君はその幸せを一つすら食べずにテーブルを立とうとする。そんな事は僕は許さない……幸せを粗末にするなよ!」
 白の奇術師は、夢の内容に彼女の思い込みも含まれていると考えていた。自分に善意を向ける人なんて居ないって思い込んで、勝手に絶望していると感じていた。
 2人のそれは、あくまで主観である。当人でないのだから、実際の所なんて分かりようがない。
 実際、ずれていたのだ。
 2人の発言は、ある意味正しい。が、他人に向ける言葉は正しければいいというものではない。
 受け止められなければ、意味を成さないのだ。
 そして、一方的に向けられた言葉を素直に受け止められる人間は、そう多くはない。
 だから、彼女は口を開いた。
 開いたけれど。
「……だから、何?」
 紡がれた言葉は、決して良い物ではなかった。

 そう、そこで少し立ち止まれば良かったのかもしれない。
 だが、得てして一度気持ちが入ると、容易には止まらなくなる。
 そしてもう一つ、一度こうと思い込んだ事はすぐに変えるのは難しい。
 だから、続けてしまったのだ。
「例えば、君が舞台で歌っているとき、無粋な観客は君にブーイングを投げかけるかもしれない。でも、それでも歌っていれば、いつかは誰かが拍手をくれて、一緒に歌ってくれる」
 白の奇術師と。
「あんたは死んだほうが喜ばれるだろうと思ってんだろうが、あんたに助かってほしいと思ってるバカがココには結構な数いるんだよ。それと向き合わずに逃げ出すのは、どうなんだ?」
 レイは。
 ケトは思うところがありそうだからと2人に譲っていたし、チェスターはそれで彼女の話が聞けるならと思っていた。が、さすがに拙いと感じて止めようとはした。少しだけ、遅かったけれど。
「……それで?」
 声色は変わらず、しかし表情は。さっきまで以上に、色が消えているように見えた。
 流れで相手に投げかけた形になったレイはそこで気付いたけれども。
「だから、君の事を思ってくれる人の事をもう少し考え――」
 気付かずにいた白の奇術師は途中でチェスターに腕を引っぱられた。
「ちょっと、何をするんだい」
「馬鹿、顔をよく見ろ」
 そこにあるのは、何だろう?
 諦め? 呆れ? それとも――絶望?
「……なんだ、こんな所にまで来て私を責めるんだ」
 ゆっくりと、彼女の口が動く。
「初めて居場所を見つけたと思ったのに。まだ足りないんだ。夢の世界でも、絶望の世界でも駄目なんだ」
「ち、違う」
「違わない。人間はみんな一緒。私の事が許せない生き物。苦しめたいんでしょ。私の知らない事を言って、私にないものを言って、お前はそんなものだって、笑いたいんでしょ」
 違う。全然違う。
 そもそも前提が成り立っていなかった。
「目を開けて前へ進んで、血まみれになった姿が見たいんでしょ」
 それ以外の日常を知らないから、前に進む事が再び傷つく事にしか見えなかった。
「楽しみ? 幸せ? そんな物知らない。私は拒まれる事が全て。それ以外はないの」
 粗末にする以前に、その存在を知らなかった。
「無粋な観客? 耳が腐るって、誰も来ないに決まっているじゃない」
 舞台は単に、拒まれる場所でしかなかった。
「向き合ってどうなるの? 私に助かって欲しい人なんて、トランプのババを引きたくない人だけ」
 本気で思われる経験なんて、全くなかった。
「そもそも私の事なんか気にしている人がいるのなら」
 ああ、そういえば病室には本当に最低限の物しかなかったっけ。
「――どうして、仕事以外で誰1人、私の様子を見に来る人が居ないの?」
 誰も、居なかったのだ。彼女にポジティブな感情を教える存在が、誰も。

 ケトは圧倒されていた。彼もまたこんな世界より現実の方が楽しいと伝えたいと思っていた。でも、どうだ。彼女の現実は、それ自体が苦痛でしかないのだ。それなのに、現実が楽しいだなんて伝わるわけがない。
 白の奇術師も、そのことに気付いた。善意や好意を無視していると思っていたけれど、そうじゃない。その存在を知らないのだ。だから、理解する事なんて出来るわけがない。全くの未知の存在を、果たしてどうやって伝えればいい?
 そして、レイは。
 彼女と自分とは全く違うはずなのに、何故か自分の過去を――研究所時代の事を、思い出していた。
 全く違う――でも、1つだけ。外の世界を知らないという点は、共通しているかもしれない。
 いや、それだけか? それしかなかったとしても、「だけ」と言えるのか?
 環境と時間。それが人を変えられる事を、良い意味でレイは知っている。
 だったら、まずは外に出るきっかけがないと。
 しかしそれは、容易に見つかりそうにはなかった。

 きっかけはどうあれ、少しだけ話を聞く事は出来た。
 チェスターは思う。
 ただ淡々と、ゆっくりと無感情に話す彼女は、ひょっとしたら自分が絶望している事にさえ気付いていないのではないだろうか。
 単に、それが当たり前なだけ。
 長く続きすぎて、自分を責める事で納得し続けすぎて。感情を押し殺しすぎて、慣れてしまって、心で感じる事すら忘れて。
 残ったのは、自分を邪魔だと思う事だけでバランスを保つ事。
 そうじゃなきゃ、そうじゃないと。あんなに淡々と、あんな事を言えないのではないか。
 彼女の言葉はただ拒んでいるように見えて、おそらくその一点だけは共通している。
 ――それでも。
 本当に何の希望もないわけでは、ない気がする。
 枕元にあったジャーナル、そしてこの場所。
 現実が悪夢、人間が恐怖の対象でしかない彼女なら、ネガティブゾーンに逆に希望を見いだしてもおかしくはない気がする。
 それは普通の人からすればとても寂しい、反転した希望でしかないのかもしれないけれど。
 それでも、本当に何の希望もないよりは、ずっといいのではないだろうか?


 奇妙な静寂が続いた。
「あーうーえーっとぉー」
 いや、ケトが思い悩んでいる様子をそのまま口に出しているから静寂と言うには語弊があるかもしれない。
 とにかく、言葉が見つからない。
 晴未に何を言って良いのかが分からない。
 だって、何を言っても届きそうにないのだから。
 そう、分からない。いくら考えても分からないから。
「んーあーえっと、あれだ。あんた本当に今の状態を望んでるん?」
 ――訊いてみた。
「……」
「あれ、俺ひょっとしてまずった?」
 すぐに返事がなかったのでケトは少し慌てたが。
「……望むって、何?」
 それは単純に、質問がよく分からなかったかららしい。
「あーえと、あれ。こんな事したいとかこうなったらいいなとか、そんな感じ?」
「……訊いてどうするの?」
「あ? んと、ちと気になっただけっつーか。俺だったらこんなトコずっと居るなんて耐えらんねーし、どーなんかなって」
 純粋な、他の事を取り払ったただの疑問。それが。
「……いいな、人間じゃない貴方は正直で」
 翼がある分「怖い人間」の枠から外れていたのも手伝って、届いた。
「私の望みは、多分、人間の来ないところに行く事」
「えー、それって凄く寂しいじゃん」
「でも、私はその方がいいから」
「あー、人それぞれだよなぁ、そこら辺」
 普通に、会話している。
 自分達はあんなに拒まれていたのに。
 白の奇術師は人間じゃないからかなと考えて、すぐにそうじゃないと思い直した。
 普通で、良かったのだ。
 彼女をどうしてやろうとかじゃなくて、普通で。
 向き合って、相手の事をちゃんと見て、分からなかったら訊いて。
 多分、彼女はまともに認められた事がなかった。
 だから、ただありのままの彼女を肯定するだけでも随分違ったのかもしれない。
 ――そりゃ、さっきのじゃ止められても仕方ないか。
 あまりにも一方的だったからね。
 白の奇術師は思った。
 チェスターとケトの2人はきっと、彼女自身を見ようとしていたのだと。

 ケトと晴未の会話は続いていた。
「じゃあさー、そういうの全部とっぱらっちゃったらどうなん?」
 ケトは彼女の本当の望みが知りたかった。
 彼女の答えはどうしても今までの悪夢みたいな生活の延長上になっていたから。周りがどうとか、そういうのを一切無くした上で純粋に彼女が望む事が訊きたかったのだ。
「えっと……」
 そんな事を考えた事もなかった晴未はしばし悩んで。
「何も気にせず笑ったりとか泣いたりとか、出来るようになったらいいな」
 そんな事を口にした。
「それ、難しいん?」
「やったら何されるか分からないから。それに」
「それに」
「笑い方も泣き方も、覚えてない」
 だから、叶わない望みって。そう言われたって、叶えてあげたいじゃないか。
「じゃーさ、思い出してみようぜ。俺も手伝うからさ」
「そんなこと……」
 チェスターはその会話をじっと見ていた。さっきの事もあるし、人間にしか見えない自分が出ていくのは逆効果になりかねない。
 だからケトに任せていた。
 もし何か大ポカやりそうならフォローしようと思っていたが、今のところその心配もなさそうだ。
 あとは、この夢から彼女を解き放つ方法。
 彼女が大事に抱えている球体が明らかに怪しいのだけれど、そう簡単には渡して貰えそうにないし。
 どうしようと足元を見て、ぞっとした。
 何かが、ケトに向かって走っていた。
「ケト!」
 チェスターが叫んだのと、触手が飛び出してケトを締め上げたのは、ほぼ同時だった。
「いぎゃー何これいだぐるじい誰かぁー」
「だめだよ、その人は大丈夫なんだから」
 ケトが叫ぶ。晴未が静かに語りかけても、今度は触手は引き下がらない。
「なんで……だめ。私はそんな事望んでない」
 晴未が何を言っても触手は言う事を聞いてくれない。
 なぜなら、それはネガティブパワーだから。
 晴未を眠らせているのはネガティブパワーだから。
 だからネガティブでいてくれないと。
 居心地の良いネガティブな晴未でいてくれないと。
 そうじゃなくなるなら、それを邪魔されるなら。
 そんなのは追い払わなきゃ。そしてネガティブな晴未を取り戻さなきゃ。
 そうだ取り戻さなきゃ。邪魔者は追い払わなくちゃ。

 地面が急に暴れ出した。
 それは4人を締め付けようと、叩き付けようと、飲み込もうと、殴り飛ばそうと、様々な手段で攻撃を仕掛けてきた。
 対応しようにも巨大で不定型な地面そのもののそれはとてもやっかいで。
 白の奇術師の瞬間移動で避わし続けているものの。物理攻撃は全く効かない、魔法や爆発で吹き飛ばしてもすぐに修復するものだかららちが明かない。
 そして晴未は。

 ずぶり。
 彼女の身体が、地面に引きずり込まれてゆく。
「……ああ、そっか」
 飲まれながら、彼女は呟く。
「あなたも苦しませたかったんだ。そうなんだ――」
 ――ずぶり。
 ゆっくりと呟く途中で、完全に飲み込まれてしまう。
 声は聞こえなくなるけれど、脳には続きが響いてくる。


  ――人間じゃないから 守ってくれるみたいだから
   だから信じて 裏切られて
    馬鹿みたい 私
     なんで何かを信じようなんて思ったの?

   私が期待なんかしても 何かを失うだけじゃない


 確かに晴未は再びネガティブに引きずり落とされた。
 それはそうなったけれども。
 信じなくなった彼女は、抱えていた黒い球体を――ためらいもなく、離した。

「あははっ、取り戻そうとして信頼を失うなんてずいぶん間抜けだねぇ」
 白の奇術師はワイヤーを伸ばし、地面の中の球体に届かせると空間転移で空中に取り出した。
「人の痛みにつけ込んでるんじゃねぇっ」
「こっの、人のトラウマを弄びやがって」
「人が幸せになる権利を奪わないでくれるかいっ」
 そしてレイの銃撃が、チェスターの魔法が、白の奇術師の無数のナイフが、球体に殺到する。

 スパァン!

 それまでの苦戦が嘘のように、あっけなく終わった。
 核を失った地面は、晴未の夢の中で彼女の絶望を取り込んで肥大化したスライム状に実体化したネガティブパワーは、5人を残して崩れ落ちた。
 ケトは急いで晴未の側に飛んでいこうとした。
 ――そして、白い光が辺りを包み込んだ。



 4人は、目を覚ました。
 おもむろに簡易ベッドから起きあがり、お互い顔を見合わせた後、晴未のベッドに視線を向けた。
 彼女も、目を覚ましていた。
 覚ましていたけれど。
「晴未ー」
 ケトが声を掛けても、全く反応しない。
 近づいても、反応しない。
 ただ、目を開けているだけ。
 それは、ネガティブパワーの置き土産。
 ほんの少しだけ浮き上がった所を激しく底に叩き付けられた彼女は、夢の中以上に心を閉ざしてしまっていた。
「こんなことが……こんなことがあっていいのかい?」
 白の奇術師が悔しそうに呟く。
 いいわけがない。だから――諦めない。
「晴未ー、起きてるかー。早く一緒に笑い方とか思い出そうぜ」
 反応が無くても、ケトは諦めない。他の3人だって、諦めさせない。
「あのくらい全然平気だからさーってか起きてくれねぇと締められ損だし」
「……――い」
 根気よく声をかけ続け、どうにか彼女の口を開かせた。
「あ、起きてんじゃん――」
「……ご、めん、なさい」
 でも、まだ。
「ごめんな、さいごめん、なさいごめん、なさいごめんな、さいごめんなさい、ごめんなさいごめん、なさいごめんなさいご――」
 途切れ途切れに、そればかり繰り返す。
「いや謝るも何も晴未のせいじゃないじゃんさ、気にすんなって……おーい」
 ケトが声をかけても止まらない。目の前で手を振ってみても止まらない。
「ごめんなさい私のせいで私なんかが誰かを傷つけたら駄目なのにそれだけはだめなのにだめなのにだめなのに――」
 ケト以外は、手を出せない。夢の中での事が足かせになって動けない。
「だめなのに。やっちゃった、よぉ……」
 ようやく、止まった。
「えっと」
 チェスターは、動いた。
 これは、さっきと違うかもしれない。
「俺達も、気にしてないからさ」
 こちらを拒んでいるのではなく、自身を責めているのなら。それを解きほぐす方が、優先だと思う。
「やったのはおめぇじゃないだろ」
「そうだよ、それにあれはもう解決した事だよ」
 レイと白の奇術師からも、許しの言葉が出る。
「ほらみんなああ言ってるんだしもう気にすんなって大丈夫だからさ」
 これは、ちょっとした賭け。
 届くか届かないか、届いても大丈夫かどうか分からないけれど。
 それでも、何もしないでこのままでいるくらいなら。
「……私」
 反応は、あった。
「もう、何も信じる気はないんだけど」
 その反応は――。
「でも――貴方の事は、大丈夫そうって思ってみる」
 悪くは、無かった。


 ほんの少しだけ、いい変化になったらしい。
 担当医師の話では、僅かに心を開かせただけでも大した物だそうだ。
「やったぜどうだ凄いだろなあ聞いたかやったんだぜ俺」
「あーもーわかったからせめて院内では静かにしろよな」
 さっきから何度も自慢されているチェスターはケトを物理的に黙らせようかと考え始めていた。
 でもまあ、やる時はやるじゃんと改めて思ったのも事実なわけで。口にはしないけれども。
「まあでも、良い変化ではあるね」
 白の奇術師は、事が終わったらマジックを披露しようと思っていたが今回それは叶わなかった。
 ただ、あのタイミングというのもあったとは思うが「私が貴方を大丈夫と思えるようになるまで待ってくれたら、その時は見ても良い」との言葉を引き出していた。
 それは小さな変化だけれど。少しずつでも、良い方向に向かってくれればいい。

 少し先に出ていたレイは、道端でふと病院を振り返った。
 前に進めるのなら、多少の遠回りもありかなんて思いながら。
(って、らしくねぇかな?)
 思わず苦笑しつつ、多少複雑な気分もなくはないがまあいっかと気分を切り替えた。
 とりあえず、事件は解決した。
 少なくとも、悪い結果ではなかったはずだから。

クリエイターコメントまずは参加して下さった皆様、ここまでお読み下さった皆様、
ありがとうございました。
楽しんで頂けていれば幸いです。
結構アレな描写とかも今回ありましたので、
苦手な方が居たら申し訳ないです。
G卵食とか……。

正直、晴未の状態に関してはものすごく悩みました。
何度妄想してもデッドラインギリギリだったものですから。
なのであんな感じになりました。
ついでに締切的な意味でもデッドラインギリギリだったりしました。
今回は本当に危なかった……。

それでは、今回はこれにて失礼いたします。
公開日時2009-03-11(水) 19:00
感想メールはこちらから