★ ナイトメア・イン・ザ・ダーク2 The Reason Makes me what I am〜我天命のゆえにかくのごとくあり〜 SIDE−A ★
<オープニング>

 ごぼり。
 ごぼり。
 ……ずるり。

 銀幕市の一角、閑静な住宅街で、粘着質の何かが泡立つような、大きな何かが這いずるような、そんな気味の悪い音が響き始めたのは、ヒトの悪夢を食らう邪なるモノが、銀幕市民たちの手によって蹴散らされて一ヶ月ほどが経ってからのことだった。
 ナイトメアと名づけられ、二十数人もの被害者を出したそれらは、調査と殲滅の過程で、生命そのものではなく、何か大きな一個の存在の端末であることが判明していたが、その一個の存在が何であるのかは、あまりにも情報が少なすぎて調査が進まず、また心を食われて昏睡状態に陥っていた被害者たちがすべて目覚めたこともあって、その他の雑多な事件に紛れ、いつしか人々の記憶から薄れようとしていた。
 ――その矢先のことだった。

 唯瑞貴(ユズキ)はその時、忠実なる巨犬オルトロスと義兄ゲートルードの側近である劫炎公ベルゼブル、最近よく行動をともにしている妖幻大王真禮(シンラ)と一緒に、閑静な住宅街の一角を訪れていた。
 この銀幕市に魔法をかけた張本人である神の娘リオネと、唯瑞貴たちの出身映画内では最大に位置する力を持つ、地獄の王にして死と暗黒の神である魔王が、まったくの同時刻に、この地域で何かが起きるという予知を行ったため、ゲートルードに命じられてその調査に来ていたのだ。
 真禮は途中で行き逢っただけだが、話を聞くと協力を申し出てくれたのである。
「……確かに、何か、おかしいな」
 決して高級住宅街などではないものの、清潔に整えられた町並は美しく、そして平和だった。
 しかし今、この場に立ってみて、唯瑞貴は、初夏の、緑の匂いを含んだ爽やかな空気が――そうあるはずの空気が、じっとりと重苦しい何かに浸食されているような気がしている。
 オルトロスが鼻を動かして空気の匂いを嗅ぎ、低く唸った。
 ベルゼブルがアイスブルーの眼を細めて周囲を見渡し、真禮は精悍な顔を鋭く引き締めて空を見つめている。
「何かが、来る――……だが、何かとは、何だ?」
 真禮が小さくつぶやいた、そのときだった。

 おお、ぉ、おおお……ん!

 町の一角が、鈍く、重々しく、震えた。
 そして、それと同時に。
 位置で言えば、彼らから百メートルも離れていない辺りの空間が、インク壷でも引っ繰り返したかのような唐突さで、暗闇の中に沈んだ。
 ――恐怖と絶望と悲嘆と苦悩をほどよくミックスして、断末魔というスパイスで味付けしたかのような、聞いているだけで思わず喉元をかきむしりたくなるような悲鳴が、あちこちから響いてきたような気がしたが、それらもすぐに掻き消え、町の一角は完全なる暗闇に多い尽くされた。
 民家や広場、ちょっと感じのいいカフェや道路など、飲み込まれたものは少なくなかった。
「今のは……一体……」
 悲鳴に含まれた、魂を引き裂かれるような苦しみの色は、その声を直接耳にしたものにしか判らないだろう。
 闇に飲み込まれた区域は、今や、暗闇に満たされた沼地のように、人々の悲鳴など初めからなかったとでも言うように、不気味な静けさをたたえておどろおどろしくたたずんでいる。
 その闇の中から、どうとも表現しがたい姿をした『何か』が這いずり出てきたのは、町の一角が飲み込まれて数分が経過してからのことだった。
 闇に溶け込むかのような漆黒の身体は、叩き潰された人体のようにも、幅の広すぎる爬虫類のようにも、体毛のない肉食獣のようにも見えたが、結局それは、そのどれでもありえないかたちをしていた。
 何ものでもない姿をした、得体の知れない存在。
 それは、つまり。
「――……ナイトメア、か」
 つぶやくなり、ベルゼブルが印を切った。
 ゆるり、と、彼の周囲を蒼いオーラが舞う。

『氷雪が剣、蒼白なる刃、凍てつきの咎と蒼麗の雫にのみ、極光の慰めは舞い降りよ』

 力ある言葉は、完成するや否や、水晶を髣髴とさせる鋭い鏃(やじり)を持った大きな矢――もしくは弩(いしゆみ)、槍かもしれない――となった。
 蒼く清冽な光を反射させたそれらは、空気を切り裂く鋭い音を立てながら飛び、今しもこちらへ向かってこようとしていた複数のナイトメアたちを、百舌鳥の速贄さながらに貫き、凍りつかせて、あっという間に沈黙させてしまった。
「なるほど……永遠の炎ではなく、炎を劫(おびやか)す者か」
「いかにもその通り……と言いたいところだが、実際の話、与えられた名などどうでもいいことだ。それよりも……かの神の娘と、我らが魔王陛下の予知された『何か』はまず間違いなくあれのことだろう。どうも、面倒臭いことになりそうだぞ」
「ああ。しかし、あれは……何なんだろう」
「判らんな。ナイトメアの発生源だということ、内部に大きなエネルギーが渦巻いていることだけは判るが」
「だが……まァ、放ってはおけまいよ。無粋なムービーハザードに蹂躙され涙するのは常に罪なき民草だからな。あれを黙って見過ごすようで、銀幕市に住まう資格はあるまい」
 真禮の言葉はもっともだ。
 この町に間借りさせてもらっている身として、町に降りかかる危険を見過ごすわけには行かない。
「確か、ナイトメアには『核』となる本体が存在するという話だったな。となると、内部に潜入して『核』を見つけ出し、始末するのが妥当か」
「お前にしてはまともなことを言うじゃないか、唯瑞貴。立派に育ってくれてお兄ちゃんは嬉しいぞ」
「……色々な部分で色々な指摘をしたい気持ちはあるんだが、それどころではないようだから今はやめておく……」
 にやりと笑ったベルゼブルの軽口に脱力しつつ、唯瑞貴は腰の剣を抜いた。
 幸いというか虚しいことにというか、ここにいる三人と一匹は、荒事には驚くほど慣れている。
「なら、行こうか?」
 確認するように言って歩き出そうとした唯瑞貴を、
「待て、ユズ」
 真禮の声が呼び止めた。
「どうした、真禮」
 唯瑞貴が首をかしげると、真禮は少々考え込むそぶりを見せた。
「オレは仮にも半神だ、結界の張り方も心得ている。だが……ユズは大丈夫なのか、その、心の疵という奴は」
 過去のジャーナルを読んでのことなのだろう、心配そうな真禮の言葉に、返ったのはベルゼブルの小さな笑い声だ。
「あいつの虚ろは、闇の端末ごときに辿り着けるほど浅くない」
 清々しいほどきっぱりとした、褒められているのか貶(けな)されているのかよく判らない物言いに、しかしそれは否定するようなことでもなく、唯瑞貴はひっそりと苦笑する。
 生まれたときから闇と欠落を抱える唯瑞貴の魂は、初めからいびつであるがゆえに、いかなる他者からの介入もよしとはしないのだ。
 もしもそこに辿り着ける悪夢があったとしたら、ナイトメアは、すでに蹂躙され、元々あるべきかたちから逸脱した、虚しく醜悪な魂を眼にすることになるだろう。
 ――それを暴かれたとき、自分は一体どうなるのだろうかという疑問と、そうなった自分を一度見てみたいという奇妙な願望とが、唯瑞貴の根底に根ざしていることも事実なのだが。
「そもそも、だ。これは我々だけで何とかすべきことなのか? 血気に逸って突っ込むだけで事態は好転せぬぞ」
「おや、妖幻大王真禮ともあろうものが、気弱なことを」
「オレは慎重なタチなのでな。大体にして、地獄の大公に言われても厭味にしか聞こえぬぞ。我が身を惜しんでのことではない、我々がしくじったときの被害を考えているのだ」
「ふむ……まぁ、そうだな。我々だけでは、確かに心許ない。あの内部は、どうにも広そうだからな」
 言ったベルゼブルが、長い指をぱちんと鳴らすと、彼の周囲に数匹の黄金蛾が現れ、ふわりと優美に羽ばたいた。琥珀のような眼が、重苦しい暗闇を映し出している。
「この端末は、一定以上の力を持った者に届くようになっている。この端末に気づき、メッセージに応えてくれる者がいることを祈るとしよう」
「ああ――……うん、それなら、何とかなる、かな」
「何とかならねば困るぞ、ユズ。疵というエネルギーを喰らえば、あの闇は更に大きくなるだろう。大きくなればなるほど、飲み込まれ喰らわれる者が増えるということなのだからな」
「そういうことだ。さて……では、行って来い、お前たち。精々、優秀な助っ人を連れて来てくれよ」
 言ったベルゼブルが軽く手を振ると、鱗粉ではない金色の欠片をふわりとこぼしながら、彼の端末たちが飛び去って行く。
 きらきら光る黄金を見送って、
「……あれに名をつけるとしたら、何だと思う?」
「オレならば、――常夜の沼、と」
「ふむ、言い得て妙だな。妙な深みが存在しないことを祈ろう」
 と、三人が銘々に言葉を交わした、そのとき。

 ごぼっ、ごぼごぼごぼッ!

 常夜の沼が、気味の悪い音を立てた、と思った瞬間、唐突に闇が膨れ上がった。膨れ上がった闇は、周囲の景色を飲み込みながら、三人と一匹に向かって押し寄せてくる。
 それまるで、漆黒をした津波のようだった。
「……!」
 誰もが避けることも出来ず、なすすべもなく、その暗闇に飲み込まれる。
 闇はぐにゃりと生暖かく、奇妙な現実感を持って、彼らを包み込んだ。

 ――昏(くら)い、深い位置で、何か澱んだものが笑った、ような気がした。



 眼を開けると、視界には暗闇にわだかまっていた。
 しかし、時折、ちらりちらりと真珠のような光が瞬くので、周囲の様子を伺うことは出来るのだった。
 つい先刻まで、確かに銀幕市という町の一角であったはずのここは、今、不可思議に折れ曲がった樹木がまばらに生える、不気味に寒々しい平原へと変化していた。
 ちらちらと瞬く真珠の光に、無性にホッとさせられる。
「あれは……もしかして、『疵』の光か」
 つぶやき、歩き出そうとすると、腕と腋(わき)の間に、大きくてふわふわしたものがずぼっと入り込んできた。
「……オルトロス」
 唯瑞貴は微笑み、オルトロスの双頭を撫でる。
 オルトロスは太い蛇の尻尾を千切れんばかりに振って、唯瑞貴への友愛を示してみせた。
「二人とは……はぐれたか。それとも、飛ばされたのは、私なのかな」
 周囲を見渡しても、唯瑞貴たち以外に身動きするものはない。
 危険な気配もしない。
 唯瑞貴はオルトロスを促して歩き出した。
「まずは……『核』を……」
 狭くはないといっても広くもなかったはずの町の一角は、今や広大なる平原へと姿を変えている。そこから常夜の沼のヌシを探し出すのは、少々骨が折れそうだ。
 しかし、ベルゼブルの端末が『生きて』いれば、じきに助っ人が来てくれるだろう。
「銀幕市は、本当に不思議な町だ」
 現実と非現実、異文化と異文化が溶け合い、共存する不思議な町を、唯瑞貴は確かに信頼している。
 町の人々が、何も心配は要らないと言いながら笑顔で現れる様子を想像するだけで、唯瑞貴の唇は自然笑みを刻む。
 油断するつもりはなかったが、同時に、焦るつもりも恐れるつもりもなかった。
 ただ、なすべきことをなす自然な足取りで、唯瑞貴は暗黒の平原を歩く。

種別名シナリオ 管理番号138
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さんこんにちは、久々に新しいシナリオのお誘いに参りました。

町の一角を飲み込んだ『常夜の沼』は、前作『ナイトメア・イン・ザ・ダーク』において、人々の悪夢を食らうナイトメアを生み出し、使役するなにものかの棲家です。

今回、同時公開された二本のシナリオのうち、こちらSIDE−Aでは、SIDE−Bにおいて討伐者の皆さんがナイトメアたちを足止めしてくださる中、常夜の沼のヌシを見つけ出し、滅していただきたく思います。
ヌシもまた、端末たるナイトメア同様にトラウマを喰らいます。その力の強さ、危険度で言えば、ヌシの強大さはナイトメアの及ぶところではありません。無論、ヌシを早期に発見できれば、討伐者たちの負担は軽くなります。どこを探すか、何をすれば現れるかなど、自由に考えていただければと思います。

SIDE−Aは自分の心と向き合うための内なる旅でもあります。ヌシは心の中にある疵を、まるで甘い飴玉でも拾い上げるかのごとくに引き出し、喰らおうとするでしょう。その『疵』と、乗り越えるための『鍵』とを、プレイングに書いていただければ幸いです。
なお、前回から引き続いてのご参加の方は、多少なりと疵を克服されたというスタンスで書かせていただこうと思いますので、同行の方のフォローについてなどもお考えいただくと面白いかもしれません。
ちなみに、基本的にNPCのトラウマ、疵を描写するつもりはありませんが、もしも彼らの過去の疵などを見たい、とお思いでしたら、その旨どこかにお書き加え下さると幸いです。

そしてこのシナリオは、完全に『ナイトメア・イン・ザ・ダーク2』SIDE−Bと時系列的にリンクしております。
双方のお話が同時に進行することになりますので、同一PC様での双方へのご参加はご遠慮くださるようお願いいたします(万が一ご参加の場合、どちらかではご活躍いただけない可能性もあるものとお知りおきくださいませ)。


それでは、皆さんのご参加を切にお待ちしております(製作日数が上乗せされている点、どうぞご寛恕くださいませ)。

参加者
白亜(cvht8875) ムービースター 男 18歳 鬼・一角獣
八之 銀二(cwuh7563) ムービースター 男 37歳 元・ヤクザ(極道)
理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
<ノベル>

 1.闇夜を仰ぐ

 ざっ、と、空が掻き曇った。
 金盆のような満月が、沈鬱な色合いの雲に覆われ、辺りは闇に包まれる。
「……妙な……気配、だな……」
 白亜(ハクア)はそのとき、杵間山に居を構える知り合いに分けてもらったたくさんの野菜を手に、銀幕市内にある仮宿へと戻ろうとしているところだった。
 こんな時間になったのは、この銀幕市に実体化して数ヶ月、現代なる不可思議な世界に適応すべく、くだんの知り合い宅で現代生活の何たるかについての特訓を繰り広げていたからなのだが、現代社会はなかなかに手強く、今日も白亜はぐったりと疲れていた。
 しかし白亜は、どんなに疲労していようとも、背筋をぞろりと撫でられるような、この不快さを伴った不可解な感覚を見逃すほど間抜けではないし、安楽で平和な世界に生きていたわけでもない。
 そう遠くない場所で何かがあった、と、周囲を見渡す彼の頭上を、不意に金色の光がかすめた。
「……?」
 見上げると、金色の光をまとった大きな蛾が、夜空を漂いながら、琥珀色の目で白亜を見つめているところだった。そこに強い、練られたエネルギーを感じはしたが危険な気配ではなく、白亜が手を差し伸べると、蛾はふわりと彼の掌へ舞い降りた。
 その瞬間、彼の脳裏を、いくつかの『情報』が駆け抜けていった。
「これ、は」
 常夜の沼と命名されたおどろおどろしい暗闇に飲み込まれる集落、ぞろぞろと這い出すナイトメア、沼のヌシを何とかしないと、被害は大きくなるばかりだという事実。
 手助けを求めるメッセージを、言葉ではなく感じ取ることが出来る。
「……」
 白亜は、黄金の蛾を手に停まらせたままでしばらく考え込んでいたが、やがて手にしていた野菜を物影にそっと隠し、蛾の――劫炎公ベルゼブルより託された端末が意識に囁くまま、暗い夜道を、特に不便さを感じるでもなく真っ直ぐに歩き出した。
「私に、何か、出来ることがあるのなら」
 小さな、万感の込められた呟きを、暗い夜だけが聞いていた。



 それが目の前に現れたとき、八之銀二(ヤノ・ギンジ)は、仕事を終えてねぐらへと帰るところだった。
 元極道という過去を活かし、所謂夜の仕事に就いている銀二だが、まっとうとは言い難いあの世界にも、様々な事情や思惑や粋や趣があることをよく理解しているし、そういう世界を悪くないとも思っている。
 そして、きらびやかで油断のならない、あの夜の町を楽しんでもいる。
「さて……帰って、寝るとするかな……」
 しかしさすがに疲れた、と、銀二が小さな欠伸をした、そのときだった。
 頭上で、金色の光が瞬いた。
「……?」
 訝しく思って見上げると、そこには、黄金の光を瞬かせた大きな蛾が、見事に滞空しながら、琥珀色の目で銀二を見下ろしている。
 銀二はファンタジーな力や存在とは無縁な、ばりばりの現代物、極道映画の出身だが、それでも、目の前をたゆたう黄金の蛾が、普通の、ただのちょっと大きな昆虫だと思えるほど銀幕市に不慣れではない。
「誰、だ……?」
 言いつつ手を差し伸べると、蛾が、ふわりと翅をはためかせて彼の掌へ舞い降りた。
 その瞬間、彼の脳裏を、いくつかの『情報』が駆け抜けていった。
 発信者はベルゼブル、その傍には唯瑞貴と真禮、オルトロスがいる。
「……ふむ」
 常夜の沼と命名されたおどろおどろしい暗闇に飲み込まれる集落、ぞろぞろと這い出すナイトメア、沼のヌシを何とかしないと、被害は大きくなるばかりだという事実。
 手助けを求めるメッセージを、言葉ではなく感じ取ることが出来る。
 位置は、ここから、遠くない。
「ああ……あれ、か」
 見やれば、確かに、ただの夜闇ではない暗黒に飲み込まれた町の一角が見えた。その沈鬱な闇の中で、飲み込まれつつある人々が、声なき悲鳴を上げているような気がした。
「これでも、何の変哲もない一般人のつもりなんだがなぁ」
 銀二はひとつ溜め息をつき、苦笑した。
 蛾は一定以上の力を持ったものに反応し、自動的に助けを求めるようにセッティングされているらしい。そんな、大仰なものではないと、銀二自身は思っているのだが、しかし。
「――だが、助けを求められて拒否するようでは、俺は八之銀二を廃業しなくてはならなくなる」
 それは銀二が銀二であるための不文律だ。
 その信念、その矜持を自ら腐らせるような真似は、彼には出来ない。
「では、行くとしようか」
 現場目指して足早に歩き出した銀二の視界に、背の高い、しなやかな細身の見慣れた姿が映ったのは、そこから数分後のことだった。
「おや……」
 鋭角的に整った顔立ち、短く切り散らした黒髪に、まぶしく鋭い白銀の眼、暗闇に溶け込むような黒褐色の肌。髪や肌と同じ漆黒の武装、腰には美しい装飾のなされた刀。
 いつもと違うのは、その鍛え上げられた全身を、真っ白な包帯が包み込んでいたことだろう。
 どうやら先日、どこぞに実体化した仇敵の城へ単身で突っ込み、色々と大変な目に遭ったらしい。らしい、という伝聞形ではあるが、その救出に向かった義兄弟に直接話を聞いたのだから、間違いない。
 あの事件から一週間程度しか経っていないのだ、傷もまだほとんど癒えてはいないだろうに、こんなところで何を、と思っていた銀二だったが、男の掌にも、自分の先導者と同じ黄金の蛾を認めて苦笑した。
 タイミングの悪い、と言うべきなのか、あの傷でも助っ人に選ばれるほどの実力者なのだと感心すべきなのか、非常に微妙なラインだ。
「おおい、ちょっと待ってくれ」
 ならばせめて一緒に行こうと思い立ち、銀二は彼の背中に声をかけた。
 銀二には気づいていたのだろう、凄腕の傭兵は立ち止まり、振り向いて、笑顔を見せる。



 理月(アカツキ)は夜の街をぶらぶらと散歩していて黄金蛾の訪れを受けた。
 無論、まだ全身が傷だらけ、包帯だらけだ。
 現代的観念から言えば彼の傷は浅くなく、ムービーファンにしろムービースターにしろ、この時代に生きる友人たちは口をそろえて安静にしていろと言うのだが、理月にとってこの程度のことは日常の一環に過ぎないのだ。むしろ、じっとしていると、かえって不要な思考に苛まれそうな気がして、理月は無目的にあちこち歩き回っていた。
 そこで、常夜の沼の実体化と、ナイトメアに関する情報を受け取ったのだ。
 心の闇や疵やトラウマなどという言葉は、理月にとっては鬼門に均しく、一瞬躊躇したものの、先日の、仇との戦いや、助けに来てくれた友人たちとのやり取りの中で、このまま逃げ続けても仕方がないという意識が芽生えたのも事実だった。
 やるだけのことはやってみよう、と、現場へ向かっていたところ、背後に見知った気配を感じ取った。
「おおい、ちょっと待ってくれ」
 声の主は、わざわざ振り返って確認するまでもなく、銀幕市で一番の漢と名高いムービースター、八之銀二だった。理月が家に入り浸っている友人の義兄弟であり、ある意味一番の被害者でもある人物だ。
「……銀二さん」
 振り向いた理月は、彼の大きな掌の上で、黄金の蛾が翅をはためかせていることに気づいてかすかに笑う。
 それはもしかしたら安堵だったかもしれない。
「君も、常夜の沼に行くのか」
「――そう、求められたからな」
「だが……大丈夫なのか、そんな傷だらけで」
「ん? ああ……まぁな。大したことじゃねぇよ、よくあることだ……なんて言っちゃ、てめぇの不甲斐なさを露呈しちまうが」
「謙遜はよしてくれ、凄腕の傭兵が。――まぁ、なら、大丈夫なんだな」
「ああ、気にしねぇでくれよ、これのことは。さておき……あんたも、呼ばれたのかい?」
「ああ。放ってはおけんだろう」
「そうだな」
 ぽつぽつと言葉を交わし、当然のように連れ立って歩き出す。
 銀二とは、これまでにも何度か、様々な事件や市が主催するイベントなどで一緒になっているし、ジャーナルでも様々な活躍を伝え聞いている。その、人柄や実力をよく知っている身としては、彼と同じ道行きを安堵し、喜ぶのも当然だろうと思うのだ。
「……しかし」
「どうした、理月君?」
「いや、何なんだろうな、と思ってさ」
「……ああ」
「あの、常夜の沼? ナイトメアにしてもそうだけど、何つーか、何のために、って気がするんだよな」
「生きるために、じゃないのか、それは」
「うん、そりゃそうなんだろうけど。いや、ヒトの苦悩とか哀しみなんか、食って美味いものなのかと思ってさ。そんなもんを食ってまで生きながらえなきゃいけねぇってんなら、ある意味不幸だよな」
「はは、理月君らしいな。俺も、それは確かにそうだと思う。何故、と思わなくもない。だが……だから他者を犠牲にしていいという理由にはならんぞ」
「まぁな」
 銀二の一本気な言葉に軽く肩をすくめた辺りで、前方に黒々と凝(こご)った闇が見えて来た。その沈鬱な、見ているだけで気が滅入ってくる黒に、理月は思わず顔をしかめる。
「何て、嫌な色だ。俺、黒ってのは綺麗な色だと思ってるけど……あれは、なんか、違う」
「――……ああ」
 不気味で攻撃的で嘲笑的で、しかしどこか悲痛にも感じられるその闇は、黒々と、どろどろと、踏み込むのを躊躇したくなるようなおぞましさでふたりの前に横たわっていた。
 しかし、無論、躊躇っている時間はないのだ。
 放っておけば、人々の苦悩や疵を喰らった常夜の沼のヌシは、更に強大に肥え太り、新たな被害者を生み出すことになるだろうから。
 ごくごく近くに迫った暗黒を前に、銀二と顔を見合わせた理月が、覚悟を決めて踏み込もうとした時、背後からヒトの気配が近づいてきた。
「あの……もし」
 かかった声は、やわらかい、中性的なものだった。
 振り向くと、そこには、艶やかな黒髪と穏やかな黒瞳をした、小柄な少年が佇んでいる。細身の、少女めいた美麗な顔立ちをした人物で、額の真ん中に、白く光る宝石が嵌め込まれたようになっている様子から、ムービースターであるらしかった。
「白亜君」
 知り合いらしく、銀二が少年の名を呼び、少年はかすかに笑って一礼した。
 その少年の手にも、黄金の蛾を見つけ、ふたりはまた顔を見合わせる。
「……君も、か?」
「はい。出来る限りの手伝いを、と思い、馳せ参じた次第」
 淡々とした言葉に銀二が苦笑し、頷く。
 理月は肩をすくめた。
「なかなか面白ぇ組み合わせになったが……心強ぇじゃねぇか」
「ああ、そうだな」
「白亜、っつったか。俺は理月だ、よろしくな」
「はい……理月殿、ではなくて、理月さん」
 それから一同、星の瞬く空を仰ぎ、沈鬱な暗黒を見やって、誰ともなく更なる一歩を踏み出す。
 ぞわり、と闇が蠢き、三人を包み込んだ。

 ククク。

 誰かが嗤った、ような気がした。



 2.闇黒は蠢く

 常夜の沼へ踏み込むと、炭のような暗闇と奇妙な浮遊感が襲い、三人は三様に顔をしかめた。
 あまり心地のよい感覚ではなかった。
 遊園地の出来の悪いアトラクションのような感覚に耐えること数秒――否、それはもしかしたら数分、数時間の出来事だったのかもしれない――、足の裏を地面の感覚が訪れ、安堵すると同時に視界を遮る暗黒がなくなり、三人は周囲を見渡す。
 周囲は暗く、視界には暗闇がもやもやとわだかまっていたが、時折、あちこちでちらりちらりと真珠のような光が瞬くので、辺りの様子を伺うことは出来るのだった。
 つい先刻まで、確かに銀幕市という町の一角であったはずのここは、今、不可思議に折れ曲がった樹木がまばらに生える、不気味に寒々しい平原へと変化していた。
 ちらちらと瞬く真珠の光に、無性にホッとさせられる。
「あれは……もしかして」
 真珠色の光を見上げて呟いたのは白亜だった。
 銀二と理月がうなずく。
「前のジャーナルで読んだな。疵の光だろう」
「ってことは、もう何人もの連中が心を食われちまってる、ってことか」
「……ああ」
 その事実に、自然、三人の表情が引き締まる。
 断末魔を思わせる不気味さで捻じ曲がった樹木の脇を通り抜け、有名な画家が描いた、絶叫する人間を髣髴とさせる岩と岩の間をすり抜けて、地の底へ誘うかのごとくにざわざわと蠢く触手めいた草の群を踏み越え、別々の方向をつぶさに観察しつつ、三人は闇の中を進む。
 黄金の蛾は、彼らが常夜の沼に踏み込むなり姿を消していたが、そのことに関しては、何故かあまり不安を感じなかった。外観からは想像もつかないほど広々としたこの平原にあって、常識的に考えれば先行の三人と一匹に出会えない確率の方が高いことは明白なのに、何故か三人は、確信を持って平原の奥へと進んでいた。
「……静かだな。生き物の気配ひとつしねぇ」
「本当に。平原の姿を取りつつも、その実、もっと別のもののような」
「そうだな、この平原全体が脈動してる気がする。――なのに、何でだろ。このまんま進めって、誰かに言われてる気がする。白亜、あんたは?」
「……不思議なことに、私も」
「俺もそれには同感だ。もしかしたら、誘い込まれているのかもしれないな、沼のヌシとやらに」
「ああ……ありえるな、そりゃ。巣に入り込んだ『餌』をおびき寄せてるのかもしれねぇ。飛んで火に入る夏の虫、って奴だな、俺たちは」
「しかし、懐に入り込まねばヌシを倒すことも不可能かと」
「ま、そういうこったな」
「――ああ、見ろ、ふたりとも。唯瑞貴君だ」
 銀二の指差す先、ここから数百メートル進んだ先には、彼らと同じように、まるで誘われるように平原の奥を目指す唯瑞貴と、彼を守るようにその横を行く忠実なる友・オルトロスの姿がある。
 だが、そこには、彼らしかおらず、理月は首をかしげた。
「ん、あ、本当だ。ベルゼブルと真禮はどうしたんだ?」
「判らん。ともあれ、行ってみるしかあるまい」
 銀二の言葉に否やはなく、小走りに進み、声をかけると、平素とまったく変わりない様子で振り向いた唯瑞貴がかすかに微笑んだ。オルトロスが親しげな、甘えるような声でわんと鳴き、蛇のかたちをした尻尾を大きく振った。
「端末が、届いたのかな」
「ああ」
「……感謝する」
「感謝されるためにやっていることではないが、な」
「出身は違えどこの町での立場は……この町に世話になっている事実は同じ。ならば私たちにも、お手伝いする義務があるかと」
「白亜の言う通りだな。放ってはおけねぇよ」
「そうだな、と言いたいところだが、理月、あなたは……そんな怪我で」
「ん? 掠り傷だよ、掠り傷。よくあることさ、気にすんな」
 にやりと笑い、理月は肩をすくめた。
 今更、我が身可愛さに戦いを……痛みを躊躇するほど彼は腰抜けではないし、自分を大切だとも思っていない。
「そういや、ベルゼブルと真禮は?」
「ああ、どうやら、飲み込まれる際に弾かれたらしい。あのふたりのことだ、問題はないと思うが」
「ふむ……向こうは向こうで勝手に動くか。そうだな、では我々も、やるべきことをやるとしよう」
 何にせよ、合流出来たのを幸いと、なにものかが胸の奥に囁くまま、拍動する何かを感じるまま、平原の奥へと更に進むこと十数分。
 ざわざわと闇がざわめき、茂みや鉱石のごとくに凝ったあちこちのわだかまりから、あの『なにものでもない』姿をしたナイトメアが数十、唐突に湧いて出た。赤い目ばかりがぎらぎらと光るそれは、不吉で不気味で、何故かどことなく物哀しかった。
 何故物哀しいと感じたのか、誰もその理由に説明をつけることが出来なかったが。
 途端に緊迫感が増し、皆が臨戦態勢を取る中、ナイトメアたちは、しかし彼らには目もくれず、ぞろりぞろりと気味の悪い音を立てながら、平原の向こう側へと一心不乱に向かっていった。
 ナイトメアたちは、四人と一匹を一瞥することすらなかった。
 むしろ、見えていなかったのかもしれない。
 その様子を見て、銀二が顎に指を添えた。
「……これは、もしかして」
「ん? どうした、銀二さん?」
「向こうの方で、囮をやってくれているのかもしれないぞ、あのふたり」
「ああ……確かに。しかも、相当派手な」
「そうだな、それに、端末は他にもあったから、別の助っ人が来ているのかもしれない。ならば、こちらとしても、進みやすくなる」
「ああ……行こう、皆」
 そして、奥へ進むこと更に数十分。
 時間の感覚はひどく曖昧で、感覚が正しいのかどうかも判らなかったが、何故か皆、自分たちがヌシに近づいていることだけを理解していた。

 ぶわり。

 唐突に、一際闇が深く、重くなった。
 脳髄が痺れるような感覚があって、皆が思わず呻いた。
 気づくと、また、別の場所にいる。
 ごつごつとした岩と、不気味で巨大な、亡霊のような姿をした樹木と、四方を取り囲む闇色の山々と。
 四方から迫ってくる山々の映像は、逃れられない、と思わず錯覚するほどの圧迫感だった。
「あれは……!?」
 驚愕の含まれた白亜の声。
 白い指先が指し示す黒々とした岩肌に、

(どうして僕には、温かい家族がいないんだろう。どうして僕は、愛してもらえなかったんだろう)
 親に捨てられ、他者を信じられなくなった青年の苦悩が、
(お母さん。大好きだったお母さん。どうして死んだの。どうして、私の前で)
 目の前で母親に自殺された少女の慟哭が、
(ぼくの何がいけなかったんだろう。どうしてみんな、ぼくを嫌うんだろう。ぼくはみんなを、嫌いたくなんかないのに)
 陰湿ないじめに遭い、心を病んだ少年の哀しみが、
(一緒に行きたかった。一緒に、生きたかった)
 病魔に冒され、痩せ細って死んで行った友への悲痛な思いが、
(私がもっとしっかりしていれば、あんなことには。どうしてあの時、私は)
 あと一歩のところで大切な存在を守りきれず、死なせてしまった青年の悲鳴が、
(何故だ……何故、俺を置いて逝ったんだ。何故、俺だけを)
 事故で愛する家族を失い、自分だけが生き残ってしまった父親の苦しみが、
(愛していた、大好きだった、誰より大切だった。大好きだったのに……どうして)
 恋人に裏切られ、自殺を図ったものの死に切れなかった女の絶叫が、
(信じていた……信じていたんだ。友達だと、誰よりも近い友人だと思っていたのに、どうして)
 親友だと思っていた人間の卑劣な罠により職場を追われ、社会的地位さえ抹消された男の懊悩が、

 まるでシルクスクリーンに映し出される映像のように、――見世物のように、途切れることなくゆらゆらと踊っていた。多分に血の色を含んだ色鮮やかなそれは、狂おしく禍々しかった。
「ふざけたことを」
 銀二の声は静かだったが、そこには隠し切れない怒りが滲んでいる。
 白亜は一瞬瞑目したあと、
「どこだ……」
 周囲を見渡し、滅すべき存在を捜し求めた。
「趣味の悪い奴だぜ」
 理月は吐き捨てると同時に『白竜王』を引き抜いた。
 ひとつ溜め息をついた唯瑞貴が、オルトロスの頭を撫でる。

 ごぼごぼごぼっ!

 黒々とした山が泡立ち、津波のように立ち上がるのを、もしかしたら、誰もが予測していたのかもしれなかった。
 誘われたのか、求められたのか。
 そのために彼らはここに来たのかもしれなかった。

 あはは  はは ははは はははは  ひひ あは ははははっ
  ははは あはは  あは はははは  あははははは
 はは  は    はは あはは はははっ ははははははは
   は ははは はは  はははははははは
 あはははははははははは  はは ひ はははははは
  ひ は  は はは  はは     は    ははははははっ

 響き渡る哄笑。
 狂おしく、嘲笑的で、――それなのにどこか、悲痛な。

 立ち上がった暗黒が、雪崩落ちてくる。
 それはまるで、死へと誘う漆黒の腕(かいな)のようでもあった。

 ――無論、逃げ場など、どこにも、なかった。



 3.絶望、かくも重く

 白亜は立ち尽くしていた。
 声も上げられず、泣き出すことも出来ずに、ただ喘ぐような呼吸を必死で紡ぐばかりだった。
 目の前に、血を吐いて倒れ、更に首を落とされた両親の骸がある。
「邪悪な鬼どもめ……成敗されるがいい!」
 その骸の傍らで、勝ち誇った笑みを浮かべるのは、初め、異形である彼ら家族を、笑顔で受け入れてくれた村人だった。
 白亜たち鬼の一族は、角があるから、人間ではないからと、方々で追われ、忌み嫌われて来た。
 角があろうとも、人間ではなくとも、他者を思う心があり、迫害を哀しむ心があるのだと、血を吐くほどに叫んでも誰にも理解されないのだと、重苦しい諦観に苛まれていた時のことだった。
 そんな中、善良そうな、優しい笑顔の村人夫婦が、酒と、温かい食事とを振舞ってくれた。
 白亜は兄とともにそれを喜び、久しぶりの温もりに幸せを感じ、――そして、裏切られた。
 初めから謀られていたらしく、毒の入った酒を飲んだ両親が喉をかきむしると同時に、武士(もののふ)の集団が飛び出してきた。まだ息のあった両親が、彼らの無慈悲な白刃に斬首される様を見届けてしまった後、兄に抱きかかえられて裏口から逃げた。
 白亜は震えるばかりで何も出来ず、ただ兄のたくましい胸にすがりつき、強靭な腕に守られてどうにか逃げ延びた。
 ――そこから、また、艱難辛苦の道が始まった。
 大江山に居を構え、異形ゆえに忌み嫌われ、追われた人々とともに人間に反旗を翻して生きた。
 兄の参謀として人々に恐れられながらも、白亜はずっと、人々に恐れられるよりも強く、激しく、人間に恐怖を抱き続けている。
 普通の、何の変哲もない、善良そうな人々に。
「どうして……」
 呟くと、視界が晴れた。
 周囲を、いつの間にか、どこにでもいそうな『普通の』人々に取り囲まれていることに気づき、白亜は息を呑む。
 平凡で粗末な着物を身にまとった人間たちは、穏やかな、善良そうな笑みを浮かべて白亜に手を差し伸べている。しかしそれらの笑みは、無理やり貼り付けられた仮面のようにぎこちなく、不気味で、滑稽だった。
 ぞわりと、背筋を冷たいものが奔った。
「お困りのようだ」
「どれ、我々がひとつ、手伝って差し上げよう」
「そうとも……困ったときは、お互い様だ」
「ほれ、そう硬くならずに」
「心配など何も要らない」
「こちらへおいで、すべて我々に任せなさい」
「さあ、早く」
 口々に優しげな言葉が向けられる。
 大きな手、小さな手、太い手、細い手、皺だらけの手、瑞々しい手。
 無数の手が差し伸べられ、――白亜を掴み取ろうとする。
 心臓が止まりそうな恐怖を感じた。
 一歩退こうとすると、それを待っていたかのように、後ろから髪を、肩を、腕を、首筋を、たくさんの手に掴まれ、絡め取られる。
「っひ……ッ!?」
 漏れた呼気には、隠しようのない恐怖が含まれていた。
 同時に、怒涛のように押し寄せた無数の手が、前からも横からも、――足元からさえ伸ばされて、硬直する白亜の全身を捕らえ、絡め、動きを封じる。
 なにごとかを叫びそうになった口に指が押し込まれ、おぞましさのあまり吐きそうになる。
「ああ……可哀想に、こんなに震えて」
「大丈夫だ、心配しなくてもいい」
「大丈夫、怖がらないでいい」
「何も怖いことなどないのだよ」
「すぐに、解決する」
「そうとも、すぐにすべてよい方向に向かう」
「――すぐに、楽にして差し上げようよ」
 白亜を絡め取る人々の、優しく穏やかな声と、――空洞のように虚ろな目。
 まるで、底を知らない無間地獄のような。
 白亜は声にならない悲鳴を上げた。
 自分は、あの時両親が死んだように、彼らに殺されるのだ、と思った。
 あの、幼き日の絶望そのままに。



 銀二は浅い呼吸を繰り返しながら、冷たい雨の中、路地裏の隅に転がっていた。
 きっかけは、ごくごく些細な、つまらないことだった。
 血気盛んな連中に肩がぶつかったのなんだのと因縁をつけられ、同じく血気盛んだった銀二は愚かにもそれに応じ、結果、こうして身動きも出来ないほど痛めつけられてここに横たわっている。
 まさに多勢に無勢、チンピラ同士のつまらない諍いと思われて加勢してくれるものもなかった。
 傷の痛みと雨の冷たさに震える銀二の胸を満たすのは、どうしようもない孤独だった。痛みよりも寒さよりも、今この場にたったひとりでいることが、怖くて寂しくてたまらなかった。
 このまま誰にも看取られずに死ぬのかと、重苦しい哀しみに胸を塞がれそうになる。
「なんだ……行き倒れか?」
 だから、上からかかった、低くて渋い声が、銀二にはまるで救いのように思えた。
「誰、だ……?」
 ともすれば霞みがちになる目を必死で開き、声の主を見上げる。
 銀二を見下ろしていたのは、背の高い、がっしりした身体つきの男だった。
 短く刈り込んだ髪には多少白いものが混じり始めているが、趣味のいいスーツを着こなしたその身体はどこまでも頑強で、揺るぎなく大きく、右頬と左のこめかみに刀傷のあるいかつい顔は、一睨みされれば震え上がるような迫力を持っていた。
 だが、何故か銀二は、初対面のはずのその男の登場に、泣き出しそうな安堵を覚えたのだ。
 彼が来てくれた、と、心底ホッとしたのだ。
「誰、ってほどのもんでもないが」
 しかし。
 男としての油の乗った、三十代半ばと思しき男は、途切れそうになる呼吸をつなぎながら自分を見上げる銀二を、奇妙に空虚な眼差しで見つめ、ややあってふっと息を吐いた。
 そこに紛れもない侮蔑を感じ取り、銀二は身をすくませる。
「……つまらねぇもん、見ちまったな」
 嘲笑めいた、断罪めいたその言葉は、傷つき疲弊した銀二を打ち据え、切り裂いた。肉体だけではなく、孤独に震える精神が、悲鳴を上げてひび割れるのが判る。
 そのまま踵を返そうとする男に、銀二は必死で手を伸ばす。
「待……ッ、て、くれ……ッ」
 その時銀二の脳裏を占めていたのは、こんなはずじゃない、という思考だけだった。こんな風に始まったわけでも、終わったわけでもなかったと、精神の奥深くで、誰かが絶叫する声を聞いたような気がしていた。そして、それが真実なのだと、そのはずなのだと、そうでなければおかしいのだと、今の銀二もまた何故か思っていた。
 しかし男は、冷ややかな目で銀二を見下ろすと、ごつい革靴の底で、伸ばされたその手を蹴りつけ、また踏みにじった。
 銀二は、鈍い痛みに呻く。
 その痛みが、肉体に対するものだったのか、それとも心に対するものだったのか、朦朧とした意識の中ではすでに曖昧だった。
「屑が……汚れるだろうが」
 厳しい、冷たい、断絶の言葉に、絶望が込み上げる。
「お前ェはそうやって、薄汚ぇ地べたを這いずってるのが似合いだよ」
 吐き捨てて、再度踵を返す男を、銀二は呆然と見上げていた。
 ――自分には、彼を呼び止める価値すらないのだと。



 理月は声が涸れるほどに叫んだ。
 叫んだのに、届かなかった。
「駄目だ……行くなッ、逝かないでくれ……ッ!」
 逃げることも降伏することも出来ない、絶望的な戦場だった。
 雇い主は己が都合によって傭兵団『白凌(ハクリョウ)』の切り捨てを決め、あまつさえ、責任の所在を隠すために彼らの殲滅さえ決めた。結果、傭兵たちは理不尽に追い詰められ、鏖殺(おうさつ)されてゆく。
 無数の矢を受けて、つい昨日まで一緒に洗濯当番をこなしていた男が地面に磔(はりつけ)にされた。
 美味い飯を作ると評判だった男は十人以上の兵士に囲まれて串刺しにされ、いつも冗談を言って皆を笑わせていた男は大きな鎚に頭蓋を砕かれ、女性の身でありながら団内でも十指に入るほどの勇猛で鳴らした女傭兵は、五十近い骸を築き上げたあと、疲労で動けなくなったところを剣の露にされた。
 腕を一本失ったあとも、鬼気迫る剣技で兵士を薙ぎ倒していた男は、殺到した兵士によってもう一本の腕を切断され、そのまま槍で串刺しにされた。
 ゆっくりと倒れてゆく『家族』の姿に、激しい悲嘆と嘔吐感が込み上げて、巧く呼吸が出来ない。
「アシェ、ロエン、ヴュラ、オリエ、シエラ……ッ」
 理月は喘ぐように息を紡ぎながら、死んでゆく『家族』の名を必死で呼んだ。届かないと知りながらも。
 数十を越える兵士に取り囲まれても怯まず、猛獣のごとき咆哮とともにおびただしい数の骸を作り上げながら、結局、最後には全身を血に染めて事切れたのは、団長だ。
 大切な大切な『家族』たちが、次々に失われてゆく。
 『白凌』の壊滅、傭兵たちの死は、すぐそこに迫っていた。
「なんで……ッ」
 しかし、理月だけが、そこに行けず、歯噛みしている。
 腕は『白竜王』を握ることも出来ず、脚は駆け出すことも出来ず、心は絶望に折れ砕けて萎え、何ひとつとして有益な思考を結びはしなかった。
「何で、俺は……!」
 血に染められた地面にくずおれ、虚しく土を掴みながら、理月は慟哭する。
 涙と、震えと、恐怖感が止まらない。
 泣いている場合ではないと、震えている場合ではないと、恐怖している場合ではないと、剣を取って戦えと心の奥底が叫ぶのに、その絶叫に応えることも出来ないのだ。
「心配しなくていい」
 突然響いたのは、『家族』のひとりの、
「……クロ、カ、……?」
 あまりにも優しすぎる声だった。
 クロカと呼ばれた男は、全身を血に染めながら穏やかに笑った。
「お前はひとりで生きるんだ」
 優しい、静かな口調の端々に、嘲笑的な冷たさを感じるのは、気の所為だっただろうか。
「クロカ、待っ……」
「たったひとりで、最後まで」
 満面の笑みとともに告げられるそれは、紛れもない断罪の言葉。
「無念と、苦悩と、悲嘆を抱いて、世界の果てまで行くといい」
 男の口から、ごぼり、と血があふれた。
「……ッ!」
 否、それは、沈鬱な色合いをした暗闇だった。
「……は、は……はは」
 理月は息を詰め、そして、乾いた笑いを漏らした。
 ――お前にはそれが似合いだと、そう突きつけられた気がした。
 自分には、ともに逝く資格すらないのだと。



 闇色の腕に抱かれ、絡め取られて、無理やりに掻き立てられ、いびつに引き上げられ、突きつけられた絶望と悲嘆に、誰もが喘ぎ悶え苦しみながら、蹂躙される魂に絶叫し続けていた。
 それはまるで、魂を陵辱されるかのような、おぞましく重苦しい痛み。
 ――不自然に増幅されたその恐怖、哀しみ、苦しみの中にあって、彼らは気づけなかった。そんな余裕すらなかった。
(アア、食事ダ)
 嬉しげに……しかしどこか苦しげに、かすれしわがれた声で、 
(アア、ナント強イ魂ノ力)
 暗闇の奥にいる強大な――年経た、歪んだなにものかが、
(アア、ナントマブシイ生命エネルギー)
 枯れて萎れた木の枝のような腕を伸ばし、
(ソウダ……食ベナケレバ)
 自分に言い聞かせるような必死さで、
(食ベテ、生キナケレバ)
 そんな呟きをこぼしていたことに。



 4.鍵、差し込む光

 痛みに、どれだけの時間のた打ち回っただろうか。
 それは瞬きの間のようでもあったし、永遠のようでもあった。
 そこに時間の介在する余地はなかった。
 自分と、疵と。
 そのふたつだけが、彼らをかたちづくるすべてだった。



 どうしようもない恐怖と取り返しのつかない絶望に、身も心も粉々に打ち砕かれそうな思いをしながらも、それでも白亜が、おかしい、何かが違う、と、そう思えたのは、きっと彼が、銀幕市という不思議な町で、幾つもの日々を過ごしていたからだった。
 ふと脳裏に浮かんだ記憶の欠片、他愛ない日常のひとつひとつが、白亜に、今の自分を思い出させてくれた。
「そうだ……私は」
 呟くと、千々に乱れていた心にすっと風が吹き込んだ。
「私は今、異郷にいるのではなかったか」
 確かに彼の故郷に絶望は多く、人々に安らぎは少ない。
 生き物の本能、生存への欲求によって人々は傷つけあい殺し合って、無益な血を流し続けている。白亜にせよ彼の敬愛する兄にせよ、その本能の欲求に衝き動かされ、また異形である己らの身を守るために、あんな生き方をするしかなかったのだ。
「だが……ここは、違ったはず」
 そう、ここは銀幕市だ。
 夢が現となり、束の間ではあれ平等に平和と幸いが赦された町。
 ――白亜の恐怖をやわらげてくれた町だ。
 彼が初めて町の人々と触れ合ったのは、あの、陽気な男が主催したバーベキュー大会とかいう催しの中で、だった。
 無論、人間、ヒトという生き物が一枚岩ではいられない以上、すべての人々が正直で善良な、心に一片の曇りもない神仏のごとき存在であるはずもなかったが、少なくとも、銀幕市の人々は、鬼である白亜を他と区別して指差し恐れはしなかったし、不浄な異形だと嘲笑いもしなかった。
 彼はただ、他のムービースターたちがそうだったように、白亜という一個の存在として、それ以上でもそれ以下でもない親しき隣人として、この銀幕市に溶け込むことを赦されたのだった。
 その中庸を、信じられると、白亜は思ったのだ。
 あの時の喜び、あの時の安堵を、白亜は今でもよく覚えている。
 ――どうしてそれを真っ先に思い出せなかったのか、不思議なほどだ。
「ならば……これは、まやかし」
 言って眼差しを厳しくした白亜の額に、純白の美しい角が現れる。すらりとしたそれは、先刻まで、宝石状になって額を彩っていたものだ。
「恐れる必要は、ない……か」
 つぶやき、呼吸を整えた白亜は、自分を絡め取る人々を――否、それはいつの間にか、あの沈鬱な闇に姿を変えている――冷静に見つめると、無言のまま力を込めて腕を一振りした。
 ぶちぶちぶちっ、という、何かが引き裂かれる生々しい音がする。
 外見こそ華奢に見えるが、彼が鬼という力ある異形であることに変わりはなく、白亜のその一振りは、彼を取り囲み絡め取っていた重苦しい闇を引き千切り、あっという間にその全身を自由にした。
 闇が……意志あるなにものかが、啜り泣くような弱々しい悲鳴を上げながら逃げてゆくのが判った。
「……迷っても、仕方がない。例えこれが、ひとときばかりの儚い安寧だとしても」
 自由を、感覚を、熱を取り戻した身体ですっくと立ち、徐々に晴れてゆく視界の彼方を見つめながら、白亜は静かに独語する。
「今の私は、確かに、この町と、町の人々を信じているのだから」
 そしてそう思える自分は、得難く幸運だったと思うのだ。
 この儚い逢瀬の中に、かけがえのない喜びを見出すことができたから。



 絶望に蹂躙されながらも、何かがおかしいことに銀二は気づいていた。
 魂の奥底で、これは違うと叫ぶ激烈な声がある。
「じゃあな」
 踵を返した男の背中が、かすんだ視界の中に入った。
 すすけたような、いじけたような、前方へ傾いたちっぽけな背中だった。
 ――そのどこにも、あの偉大な男の面影はなかった。
「そうだ……」
 両頬を張り倒されたような衝撃が、銀二の意識を鮮明にした。
「俺は、何を惚けているんだ」
 ゆらり。
 あの男の――あの『漢』の、広く熱く深い背中になど及びもつかぬ、矮小な背が陽炎のように揺れる。
 あんな背中のなどが、誰よりも銀二が信じ、愛した、あの男であるはずがなかった。
 ぶつり、と、肚の底で何かが切れた音がした。
「くくくっ……そうか、偽者か」
 ゆっくりと身を起こす。
 すでに、雨は止んでいた。
 身を切るような寒さも、孤独も、絶望すらも、今の銀二には遠い。
「なるほど……なるほど、な……」
 血が滴るほどに、拳を握り締める。
 彼の顔を彩るのは、怒りを通り超した静かな笑みだ。
「あの人を、あの漢を、親っさんを、たかが悪夢ごときで縛り歪ませた挙句あんな背中を見せる!」
 そして、響き渡る、咆哮。

「俺の憧憬、俺の道標、俺の到達点に対して、これほどの侮辱があるかぁあああッ!!」

 全身全霊をこめた銀二の叫びに、熱い、強い風が渦巻いた。
 闇が怯み、後ずさったのが判る。
 ざわざわと闇がざわめき、伸ばしかけていた手を引っ込めたのが感じられる。
「う、お、おおおおおおッ!!」
 天を仰いで再度咆哮したあと、銀二は、路地の壁に、ひびが入る勢いで頭突きをした。
 ガツン、という鈍い音とともに、とても幻とは思えない衝撃が来たが、しかし、その痛みは、銀二に自分がなにものであるかを思い出させた。自分のなすべきこと、自分の立つべき位置、自分の果たすべき責務を。
 何故自分がここにいるのかを。
「目が覚めた」
 熱い息を吐くと、ゆらり、一歩踏み出す。
 背中に、あの偉大な男の姿をした光が輝いている気がした。
 背後で、あの偉大な男が、そういうことさ、と笑ったような気がした。
 自分が熱く燃えているのが、判る。
 それは冀望。
 銀二を銀二たらしめ、凛と立たせ、拳に力をくれる冀望だ。
「――去れ、貴様のまやかしには飽きた」
 厳しく断じ、幻を振り払う。
 暗闇が怯み、啜り泣くような弱々しい声を上げて逃げてゆく。
 そこには、もう、あの、薄汚れた路地裏など影もかたちもなかった。
「この道程すら、俺が親っさんに近づくための一歩なのかもしれん」
 銀二は逃げてゆくなにものかを追うことなく、自由を、感覚を、熱を取り戻した身体ですっくと立ち、徐々に晴れてゆく視界の彼方を見つめながら静かに独語する。
「少なくとも……もう、二度と、迷わん」
 目指すべき背中を、辿り着くべき高みを、間違い、疑うような真似は、二度と。
 ――あの漢が、今でも銀二にそう願っているように。



 あの時死にたかった、と、心底思った。
 たったひとりで、孤独に震えながら、永遠のような夜辺を歩かされるくらいなら、皆がいる場所に、一緒に逝きたかった。
 ――今でも、そう、思っている。
 けれど。
 唐突に、馬鹿じゃねぇのか、と、誰かに罵られたような気がした。

(いい加減、判れよ。皆がお前を愛してたってことを。今でも、愛されてるんだってことを)

 声には呆れが含まれていた。
「誰、……」
 つぶやきかけ、気づく。
 胸の奥底に、魂の傍らに、何か、温かいものが寄り添っていることに。
 その温かいものを思うとき、自分に笑顔を向けてくれるたくさんの人々の、名前と眼差しのひとつひとつが脳裏に閃くことに。

(目ぇ醒ませ、馬鹿)

 悪態とともに、誰かに頭を撫でられた気がした。
 誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
 向けられるあたたかな微笑、やさしい思い、溢れ出すような善意、まっすぐな赦し。
 親しく言葉を交わす人々の、色とりどりで鮮やかな眼差しが脳裏をよぎり、今の自分が、銀幕市という不思議な町で、たくさんの思いに囲まれて生きていることを、理月は唐突に思い出した。
「【雪霞(セッカ)】……」
 締め付けられるような感覚は、きっと、守られていることへの安堵だ。
 銀幕市に実体化して、たくさんの人々と触れ合った。それを許された。
 抱いた悲嘆は消えずとも、誰もが、身の内に癒えない疵、苦悩や悼みを持って生きていることを知った。誰もがその痛みと向き合いながら、痛みとともに歩いているのだと。
「……生きろと、言っているのか」
 失ったことが苦しい。
 二度と戻らぬ温かいものを思うことが苦しい。
 ――死を望む気持ちはどうしても消えない。
 それはすでに理月そのものだ。
 悲嘆に歪み、黒ずんだ魂を否定することは出来ない。
 しかし。
「許されていることを、認めてしまっても、いいんだろうか」
 それは死んでいった『家族』を裏切ることにはならないのだろうかと、本気でそう思い、それから微苦笑する。
「――こんなこと言ったら、ぶん殴られるかな、あの人たちに」
 まっすぐな笑顔が理月に光をくれる。
 贈られた守り刀が理月に熱を与え、生きる意志を鮮明にする。
 そうだ。
 理月は脚に力を入れて立ち上がった。
 手の平には、いつの間にか、【雪霞】と呼ばれる美しい守り刀の姿がある。
「絶望の闇は甘美だが――……」
 刃に意識を集中させて、暗闇の中を一閃させる。
 確かな手応えがあって、暗闇が悲鳴をあげた。
 怯み、たわんだ幻を振り払う。
 暗闇が、啜り泣くような弱々しい声を上げて逃げてゆく。
「やるべきことが、まだ、残ってる」
 理月は、逃げてゆくなにものかを追うことなく、自由を、感覚を、熱を取り戻した身体ですっくと立ち、徐々に晴れてゆく視界の彼方を見つめながら静かに独語する。
「まだ、死ねねぇ」
 この身を蝕む虚無は消えずとも。
 理月に生きろという人がいる。
 理月がここで斃れれば、更に苦しむことになる人々がいる。
 ――それはきっと、理月に与えられた責務だ。
 なすべきことをなさずに、絶望に埋没するわけには行かない。
 それを、強く思った。



 意識を取り戻したのは――自分がなにもので、何をするべきで、どこにいるのかをはっきりと思い出したのは――三人同時だった。
 互いに顔を見合わせ、どこか照れ臭そうに笑いあってから、言葉を交わす。
 それはどこか確認の様相を呈していた。
「……戻って来られたみてぇだな」
「そのようだ」
「皆、無事で、よかった」
「そうだな、苦しい思いはしたけど、でも、」
「でも、どうした、理月君?」
「ん? いや……なんか、色々、判ったこともあるなぁってさ」
「ああ……そうだな。あれは結局、己の心と向き合うためのプロセスだったのかもしれん。白亜君、君もか?」
「……はい」
「得難い経験ではあった、な。――さて、次はどうしようか?」
 言った理月の鋭い眼差しが、ふと、『壁』とは少し違う位置へと流れる。
「――……唯瑞貴?」
 彼の言葉に、銀二と白亜の視線もそちらへ向く。
 理月の不思議そうな言葉通り、根底に何か虚ろなものを持つらしい青年剣士は、黒々とした岩場にもたれかかるように――崩れ落ちるようにうずくまっていた。その傍で、オルトロスが心配そうな鳴き声を上げて、彼の手を一生懸命舐めている。
 時折肩が上下するのを見るに、生きてはいるようだが、どうにも様子がおかしかった。
「唯瑞貴君。おい、大丈夫か」
 銀二が両肩を掴んで揺さぶると――驚くほど冷たい肩だった――、唯瑞貴はようやく顔を上げた。
 どこか茫洋と銀二を見上げ、口を開く。
「――……私は」
 声に揺らぎはなかった。
「一体、何なのだろう」
 感情らしい感情も含まれていなかった。
 だが、その不思議な赤瞳を真っ向から覗き込んだ銀二は思わず絶句した。
 並大抵のことでは動じない銀二が、思わず絶句したのだ。
「唯瑞貴君」
 再度、気遣うように――確かめるように銀二が呼ぶが、唯瑞貴の表情は動かず、彼が立ち上がることもなかった。まるで、魂の奥底から凍り付いてしまったかのようだった。
 揺らぎひとつなく銀二を見上げる唯瑞貴の不思議な赤瞳からは、人間らしい感情、情動の類いがすべて削ぎ落とされていた。
 虚ろに、ただぽっかりと開いた洞窟のような、どこまでも深く透き通った双眸は、空虚であるがゆえに美しく、同時に寒々しかった。
 これならば、まだ、精緻に作られたビスクドールの方が表情豊かで、人間らしいと断言できる。
「――……食われた、のか?」
 唯瑞貴を覗き込んで瞠目し、理月がつぶやく。
 銀二は首を横に振った。
 ナイトメアに心を食われたものは完全に自我や意志を喪い、意識があるのかどうかも定かではない抜け殻のようになってしまうと聞いた。生きようという意志、肉体を保とうという意識すらないため身体を起こしておくことも出来ず、結果、寝たきりの植物人間状態になるのだ。
 だが、唯瑞貴は自ら顔を上げ、自ら口を利いた。
 それは意思によってなされたことだ、食われたと断じるのはまだ早い。
「俺たちと同じように何かを見せられたんじゃないか、彼も」
「では……その衝撃で?」
「ああ、可能性はあるな。魔王さんの言うことにゃ、何かあるらしいから、こいつ」
 複雑かつ深刻な欠落と、重苦しい過去を抱えるという唯瑞貴だ。
 それらが絡まって、身動きも出来ぬような――感情が停止するような衝撃を受けたとしても、おかしくはない。
 銀二は溜め息をひとつついた。
「――唯瑞貴君。君が一体何を見て、何故こうして『停まって』しまったのかは俺には判らんが」
 静かに言った後、おもむろに唯瑞貴の胸倉を掴み、力ずくで立ち上がらせると、吼える。
「目を醒ませッ! こんなクソ悪夢に呑まれるようで、どうする!」
 唯瑞貴がわずかに身じろぎをした。
「笑えッ! この街で俺らと一緒に笑ってた自分を思い出せ! 不幸なんぞ笑い飛ばせる……ここは、銀幕市だッ!!」
 轟音のような咆哮が辺りを震わせ――そして、しばしの沈黙。
 オルトロスが不安げに鳴いた。
 ふわふわとした双頭の片方を、青年剣士の手が撫でたのは、そのしばらくあとだった。
 少し薄い唇が、ゆっくりと笑みをかたちづくる。
 脚が、自らの意志で地面を踏みしめた。
「……すまない、惚けていたようだ」
 はっきりとした言葉に銀二が安堵の息を吐き、白亜が微笑し、理月が肩をすくめる。オルトロスは千切れるほどに蛇の尻尾を振り、唯瑞貴の手や顔をぺろぺろと舐めまわした。
「そうだな……今、この町で、虚ろだ欠落だと言っていても、仕方がない。ありがとう、私を呼んでくれて」
 銀二は笑って唯瑞貴の肩を叩いた。
「気にするな、君のことは魔王陛下からも頼まれているしな」
「人が苦しんでいるときに手を差し伸べるのはごくごく普通のことかと」
「ま、人間、持ちつ持たれつってことさ」
 銀二の、白亜の、理月の言葉に、
「……それでも、なお、皆の善意に感謝する」
 淡々と――しかし万感の思いとともに告げて、唯瑞貴が静かに頭を下げた、 そのときのことだった。

 おお、ぉ、おおおぉおおうっ!

 空が鳴き、風が鳴いた。

 常夜の沼の中心にあって、心を蝕むヌシの魔手から逃れ出た人々の耳を、何か圧倒的なエネルギーを含んだ、絶対的にして壮絶な『音』が打ったのは、次の瞬間だった。
 音は――謳(ウタ)は、滔々と、蕩々と、寒々しい平原を清浄な風のごとくに吹き渡り、彼らのいる中心地に凛冽な空気を吹き込んだ。
 ――誰もが、クリアになる己を思った。



 5.咆哮、打ち砕くごとくに

 殷々と響く『音』、その謳の主には覚えがあった。
 聞き覚えのある声だった。
 冷厳にして壮麗、優美にして鮮烈、勇壮かと思えば脆く、儚いかと思えば強靭なその声は、この広々とした平原すべてに届いているのではないかと思われるほどの規模で――しかし決してやかましくはなかった――平原のすべてを埋め尽くすほどに響き渡っていた。
 それほどの『謳』を紡げる人間を、彼らは、ひとりしか、知らない。
「――……なるほど、向こうにも力強い助っ人がいると見える」
 銀二がにやりと笑うと、三人もかすかに笑った。
 先刻まであの残酷な、凄惨にして悲痛な映像が再生され続けていた黒い岩場は、今、黒々とした大きな壁となり、彼らを拒むかのように聳え立ち――それとも、彼らに恐怖するかのように立ちすくみ――、その向こう側に何かがいるという事実を如実に物語っていた。
「なら……行こうぜ、皆。ヌシとやらを、ぶちのめしに」
 『白竜王』を抜き放ち、理月が言うと、
「そうだな、ならば……まずは、俺の出番、か?」
 ぼきり、と拳を鳴らした銀二が一歩前に出る。
 ――あの黒々とした『壁』の前に。
 銀二が大きく息を吸い込んだ。
 理月と白亜、そして唯瑞貴がめいめいに身構える。
 『壁』が、おののくように揺らめいた――ような、気がした。
 ヌシが自分を守ろうとしているのだろう、『壁』の周囲から、ナイトメアが十数体、ぞわりと湧いて出たが、
「もう、効くものか」
 静かに――しかし、強い意志を漆黒の双眸に載せて言った白亜が、華奢な腕に似合わぬ怪力で持ってナイトメアを引き裂き、
「てめぇらごときに食われてやる義理はねぇな」
 断じた理月は、冷ややかに鋭い白銀の眼差しでナイトメアを睨みすえると同時に、白く輝く『白竜王』を奔るように舞わせ、あっという間に数体の闇を斬り伏せた。ぞろりと宙に溶けて消えてゆくナイトメアの、その残滓を目を細めて見送る。
「この抵抗……核は、近いということか」
 不思議な赤瞳で『壁』を見据えた唯瑞貴が長剣を揮って何体かを滅ぼせば、 轟々と吼え猛ったオルトロスが、二つの顎(あぎと)で食いちぎる。
 今更、ナイトメアの襲撃など恐れる必要もなかった。
 彼らの頼もしい様子に、銀二の唇を精悍な笑みがかすめる。
「さぁて……散々ふざけたことをしてくれたんだ、もちろん、覚悟は出来てるんだろうな……!?」
 地の底から響くかのような声には、紛れもない怒りが含まれていた。
 更に一歩踏み出し、
「こんな臆病で脆弱なもの、壁とは言わん!」
 咆哮とともに脚を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろす。
「夢と現の壁、ブチ破るぞ! クソ悪夢ッ!」

 ――轟音、震動。

 それは、これまでに様々な『壁』を蹴り破ってきた、銀二必殺のヤクザ蹴り。
 無論今回の『壁』も例外ではなく、それは、びきり、という硬い音を立てて白くひび割れた。ひびはあっという間に『壁』全体に広がり、すぐに、『壁』の崩落が始まる。
 少しずつ、陰鬱な黒い闇が剥がれ落ち、崩れてゆく。

(アア、ア、アアア……!!)

 誰かが悲鳴を上げた。
 崩れ落ちてゆく『壁』の向こう側で、大きな、人間に近いかたちをした黒いなにものかが、ゆらりぐらりと揺らめいた。
 それは、いくつもの『何か』が寄り集まって出来た『影』、実体を持った暗黒の顕現だった。その、黒いなにものかを見つめていると、枯れて萎びたか弱い影が無数に折り重なり、ひとつになって、踊るように揺らめいているのが判るのだ。
 否――それは、身悶えているのかもしれなかった。

(生キタカッタ、生キナクテハナラナカッタ、――モットモット生キテイテホシカッタ!)

 そんな、悲痛な叫びが皆の脳裏を打つ。
 それがヌシの声だと気づくのに時間はかからなかった。
「では……あの、『影』が……?」
 影は、いくつものシーンを映してたゆたっていた。

(タトエ、他者ノ血ヲ啜リ、魂ヲ食ミ、嘆キヲ呑ンデデモ)

 血を吐くような努力の結果の栄冠を目前にして凶弾に斃れた男の無念が、約束を果たせぬまま力尽きた男の後悔が、二十年離れ離れになった家族と再会できる前日に他者の過失で死んだ女の哀しみが、友との再会を数日後に控えていながら病に倒れた男の悲嘆が、果たすべき責務を抱えていながら凶刃に命を断たれた男の無力感が、守るべき家族を遺して死に臨んだ父親の悲痛な慟哭が、たったひとりの息子を無慈悲な暴力によって奪われた母親の癒されぬ哀しみが、結婚を約束しながら勝ち目のない戦いに望まざるを得なかった青年の心残りが、――彼を思う娘の絶望が。
 すべての哀しみが、狂おしい現実感を伴って、四人の眼前に繰り広げられる。
 じっと目を凝らして見れば、二度と戻れぬ場所への――二度と戻らぬものへの無念と後悔と哀しみに、無数の人々が流した無数の涙が黒々と寄り集まり、不気味に蠢く無数の影を作り出しているのだった。
 ヌシは悲嘆に揺らめき、溜め息のような啜り泣きを漏らした。
「――こんな」
 この場に至った誰もが絶句し瞠目し、唐突に理解した。
 生への渇望、生きたいという願いと生きていてほしかったという悲痛な切望が、ひとつひとつ集まって結びつき、凝(こご)って、常夜の沼――ヌシと呼ばれる、疵を食う何かになったのだ。
 それらひとつひとつは、決して、邪悪な代物ではなかった。
 善や悪という観念で、一元的にくくり、表現できるものでもなかった。
 それらはただ、人を思う心が、信念が、矜持が、愛がさせた、悲壮で美しい思いの結晶だった。
 けれど、その執着があまりにも強く、その絶望があまりにも深かったがゆえに、それら重苦しいものの集合体であったがゆえに、常夜の沼のヌシとして仮初めの生を得た『何か』は、他者を犠牲にしてでも生きようという、黒々とした暗闇の道を往くしかなかった。

(闇ニ堕チ、邪マナル存在トナッテデモ)

 それはなんと苦しい在り方だっただろうか。

(ワタシハ生キタカッタ。ワタシハ生キネバナラナカッタ。ワタシハ、アノ人ニ生キテイテホシカッタ!)

 自分が疵を食うことで、また、ヌシとなる前の自分と同じように、哀しみ苦しむ人間が生まれると、『何か』は理解していたのだろうか。食うものも食われるものも、同等にもがき苦しむのだと。
 ――理解していても、かく在るしかなかったのだろうか。
 まるでそれが、運命だとでもいうように。
「――……楽に、」
 ぽつり、と、理月がつぶやいた。
「してやりてぇ」
 彼の手の中で、『白竜王』が清浄に輝いている。
「ここまで来といて何だが、今更何が悪くて間違ってたとか言う気はねぇ。俺には言えねぇ。囚われかけたことも、食われそうになったことも、もういい。――俺にはあいつらの気持ちが判る。苦しいほど判る」
 おうおうと哭(な)く影に、理月の銀眼を痛みの色がかすめた。
 心を抉られた恨みつらみをぶつけるには、ヌシの慟哭はあまりにも悲痛だった。
 その無念、その悲嘆が、理月には判りすぎた。
 憎悪も怒りも、今は遠い。
「――助けてやりてぇ」
 ヌシのためではなく、自分のために。
 今日、自分がここに来たのは、すべてそのためだったのではないか、とすら、思う。
「……」
 理月の言葉に白亜は一瞬瞑目し、そして頷いた。
「赦しと、救いと、開放を、彼らに」
 絶望を突きつけられ、心を無遠慮に掻き回され、背筋が凍るような恐怖を味わわされた、そのことへの憤りならば確かにある。
 しかしヌシ慟哭は、紛れもなく、白亜自身の苦悩にも重なっていた。
 自分もまた、一歩道を誤れば、嘆きと渇望の黒い雫となって、あの暗渠へと滴り落ちていったのかも知れないと。
 それを思えば、今この町にあって救い――魂の平安を得た自分が、わずかなりと手を差し伸べることは、絶対的に必要不可欠な儀式なのではないか、とすら思う。
「そうだな」
 銀二はわずかに目を伏せ、頷いた。
「罪を糾弾することは容易い。だが、苦悩に涙する罪人が救われていけないという法は、ないな」
 誰よりも敬愛する漢を辱められたという憤りならば、今もまだ銀二の胸の奥でくすぶっている。
 しかし銀二は、影となった人々の苦しみ哀しみ、行き場のない絶望を理解できないほど狭量な人間ではなかった。彼もまた、耐え難い苦しみをもがきながら乗り越え、傷だらけで歩いてきたのだ。
 人が人を思う気持ちが判る。
 誰かを愛するがゆえに流された涙の結晶が罪を犯したとして、罰せられるべきは誰なのだろうか、と。
 そして、哀しみの連鎖をここで断ち切ることが出来るなら、もう誰も苦しまずに済むのなら、その方法を模索しようとも思うのだ。

 ――ヌシの無念を、渇望を、絶望を、苦悩を理解できる。
 それは、一歩間違えば、彼らの誰もが辿っていただろう道だった。

 だからこそ、この連鎖を、ここで、終わりに。

 それが、今、彼らを満たす共通した思いだった。
 一歩踏み出した理月の手の中で、『白竜王』が清浄に――白々と輝く。
 それに気づいたのだろうか、ヌシはその大きな身体をくねらせるように身悶え、

(オマエタチヲ喰ラッテワタシハ生キル!)

 一斉にその全身から触手めいた細長い『腕』を伸ばし、恐るべき速さで彼らに掴みかかった。それはどこか、雪の重みに耐え切れなくなった枯れ枝が地面へしなだれかかる様にも似ていた。
 だが、もう、誰も驚きはしなかったし、慌てもしなかった。
 巡らせた頭(こうべ)が、幾つもの視線を交錯させる。
 誰もが、合図ひとつなしに、互いに計ることもなく、ほとんど同時に走り出した。彼らの周囲を渦巻く風もまた、同じ音をしていた。
 白亜が指先で宙を切ると、ヒトの姿をしたいくつもの幻影が現れ、『腕』の動きを撹乱した。
 銀二は『腕』のか弱い攻撃をたくましい腕で振り払いながらヌシの懐へ入り込んだ。
 唯瑞貴が鋭い気合とともに剣を揮い、幾つもの『腕』を切り落とした。
 ヌシはもがき、身悶え、大気が震えるほどの大きさで叫んだ。
 ――それは、怒りだったのか悲嘆だったのか。
「さあ……終(しま)いにしようか!」
 揺るぎなく強い意志を感じさせる言葉とともに、銀二の放った二度目のヤクザ蹴りが、ヌシの大きな身体をぐらりとよろめかせた。
 よろめいたヌシの身体を駆け上がっていったのは、理月だ。
 まるで、野生の豹のようにしなやかな、一切の無駄のない動きだった。
「もう……苦しまなくていい」
 その声は、眼差しは、驚くほど静かだった。
 ――そして、白刃が、闇夜の中で、光の軌跡を描く。
 ヌシの頭部が身体から離れ、肩をずり落ちていった。
 更に大きくかしいだ身体を飛び降りながら、理月が再度『白竜王』を一閃させると、今度は腰の部分を半ばまで立たれたヌシは、上半身と下半身を別々に傾かせ、ゆっくりと……スローモーションを髣髴とさせる緩慢さで、黒々とした大地へ倒れこんでいった。

 どおぉ、お、おおぉ……ん。

 耳をつんざく轟音。
 幻を収めた白亜が、体勢を立て直した銀二が、『白竜王』を鞘に戻した理月が、オルトロスの頭を撫でた唯瑞貴が、沈黙とともに見守る中、ヌシの身体は、液体が乾いた砂にしみこむような唐突さで、空気に溶けて消えた。
 あとには、人々の無念が生んだ影だけが薄く残った。
 奇妙な沈黙……そして、次の瞬間、唐突に。
 ざあっ、と、清涼な風が吹いた。
 風は彼らの髪を薙ぎ倒さんばかり勢いで吹き散らかしたが、それはひどく芳しく、晴れやかで、清浄だった。
 影はしばらくの間辺りをたゆたっていたが、それもやがて、徐々に大気に薄れて消えてく。
 誰もが黙って、その残滓を見送った。
 ――そう、その悲嘆を癒すことが出来ないのならば、見届けることでせめてはなむけにとでも言うように。

(アア、コレデ――……)

 周囲から、声が聞こえてきた。
 そこには、紛れもない安堵が含まれていた。
 それは、行き場のない暗黒から開放され、自由になれることを喜ぶ声でもあった。
 自分の都合でヒトを苦しめておきながら身勝手な、と、吐き捨てることは簡単だったが、

(楽ニ、ナレル)

 誰も、それをしなかった。

(ヨウヤク、眠レル……)

 出来なかった、の、かもしれない。
 誰もが、自分もまた、身勝手な思いと渇望を抱いて生きているのだと、言葉なしに理解しているからだ。

 ざああっ。

 また、一陣の薫風。
「――……ああ」
 白亜が声を上げ、空を見上げた。
 あの禍々しい、寒々しい平原の景色がゆっくりと消えてゆく。
 ふわり、と、真珠のような光沢を持った小さな光が空を舞い、静かに宙に溶けて消えた。
 まぶしい月と星の輝くいつも通りの夜空が、徐々に戻ってきていた。
 空気からはすでに、日常の匂いがした。
 すべて消え去ったあと、最後に、ぽつりと残されていたのは、いつも通りの無機質なプレミアフィルム。
「やれやれ……終わった、ようだな」
 そのプレミアフィルムを拾い上げ、銀二がつぶやいた。
「ああ」
「皆、無事でよかった」
「……そうだな」
「まぁ、ちょっとばかし疲れたけどな」
「しかし……総じて言えば、得難き一時だったかと」
「おう、それは俺も否定しねぇよ」
「まったくだ。お疲れさん。――……さて」
 白亜と理月と唯瑞貴の肩を順番に叩いてから、銀二が大きな欠伸をした。
 精悍な強面に、晴れやかな笑みが浮かぶ。
 その頃にはもう、周囲の景色はいつもの町並に戻っている。
 解放された人々が、何が起きたか判らずあちこちでしきりと問いを繰り返す声が聞こえた。
「帰るとするか、皆の衆」
 銀二の言葉に、白亜が穏やかに微笑し、理月は屈託なく笑い、唯瑞貴は目元を和ませて頷いた。オルトロスがわんと鳴き、千切れるほどに尾を振った。
 再度顔を見合わせ、笑顔を交わしてから、四人と一匹は歩き出した。

 ――ゆっくりと静けさを取り戻しつつある町を、月が静かに照らし出していた。



 6.夜の歩みを月のみが観る

 月の綺麗な夜だった。
 静かな、しかしまぶしい月光が、遍く世界を照らす夜だった。
 彼らの歩みはゆっくりだったが、足取りは軽かった。
 確かに彼らは疲労を感じていたが、心は清浄に晴れ渡っていた。
「――正直」
「どうした、理月君?」
「いや……なんつーか。今日、この事件に関われて、本当によかったなぁって。何か……そう、思った」
「――ああ」
「私も、同じことを」
「白亜君も、得難いものを、見たのか?」
「見た……とは、少し、違うのですが。今の私がここにいる意味の一端を、知ることが出来たような、気が」
「そうか……そうだな」
 銀二は穏やかに笑い、隣を歩く白亜の肩を叩いた。
「俺も、君らと一緒に、己の中の闇を乗り越えることが出来て、よかったと思う」
 銀二のどこか気恥ずかしげな言葉に、嬉しそうに白亜が微笑する。
 理月は唯瑞貴と顔を見合わせて笑った。
「――……はい」
 やがて、十字路が近づいてくる。
「私は、こちらへ」
 白亜が指し示したのは東へ行く道。
「俺は……こっちだな」
 銀二が指し示したのは西へ行く道。
「俺はこっちだ」
 理月が指し示したのは南へ行く道。
「私はこっち、か」
 唯瑞貴が指し示し、オルトロスが同意したのは北へ行く道。
「なんだ……皆、ばらばらだな」
 おかしげに理月が笑った。
 それにつられるように、屈託のない笑い声を立てて笑った後、彼らは銘々に手を振り、それぞれの道へ進んだ。
「――……それじゃあ」
 別れの挨拶は簡単なものだったが、そこには何か、言葉を越えた万感の思いが込められていた。
 それは深い感慨であり、安堵であり、静かな喜びでもあっただろう。
 それは、疵を超えてほんの少し強く、そしてやわらかくなった自分への喜びだっただろう。

 誰もが、微笑と軽くなった心とを湛えたまま、慈雨のごとき光を垂れる月に見守られながら、別々の道を歩く。
 朝はまだ遠かったけれど、誰も、それを嘆きはしなかった。



クリエイターコメントこんにちは、大変遅くなりましたが、ノベルのお届けに上がりました。

皆様のご活躍のお陰で、常夜の沼は消滅し、町には静かな夜が戻って参りました。
そのことを、銀幕市を愛する一員として喜ぶのと同時に、執着と渇望のゆえにあのような在り方を続けるしかなかったヌシを開放してくださったことにもまた、お礼を申し上げます。

ヌシの在り方の善悪、正しかった間違っていたと言う判断は、ここでは語りません。皆様おひとりおひとりのお心にお任せしようと思います。

この件を通して、参加者の方々が、ご自分の心と向き合い、痛みのいくつかと折り合いをつけることが出来たなら幸いです。

そして出来ることならばSIDE-Bをもご覧になり、囮役を買って出てくださった方々がどのような活躍をなさったか、確かめていただければと思います。

なお、体調不良などの私事でノベルのお届けが大幅に遅れましたことをお詫びすると同時に、お気遣いくださった方々には伏して御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

それではまた、次なるシナリオでお会いいたしましょう。
公開日時2007-07-08(日) 18:20
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