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<ノベル>
スチルショットを肩に乗せ、懸命に目を眇めて照準を合わせる。かちかちと震えるのは定まらぬ銃口か、それとも根の合わさらぬ歯か。
練習ならした。やれる。迷うな、躊躇うな。
だが――トリガーを引く前に、体の下に奇妙な浮遊感が入り込む。
ジープごとひっくり返され、絶望色に染まる海へと投げ出された――筈が、体は唐突にアスファルトに叩きつけられた。
痛みに呻く暇もない。周囲を覆うのは綺羅星学園の情景。暴徒と化した学生たちが学園の中を渦巻いている。泣こうが喚こうが叫ぼうが、バッキーを持っているだけのアオイに彼らを止められるはずがない。
アタシ ハ 無力 ダ
津波のように殺到するエキストラたちが一人の少年を呑み込んでいく。
黒山の暴徒の向こうにちらと覗いたのは――赤い瞳。
(もと――)
名を呼ぶことすら許されず、意識は再び絶望の海へと放り込まれる。
体が重い。沈んでいく、息ができない。かすかに視界に映り込むのは吐き気がするようなくすんだ色彩。子供が無秩序に絵の具を混ぜ合わせて作ったかのような空と海の色。
成す術なく沈んでいく無力なアオイの脇で、白くふやけたものがたゆたう。
それは腕。足。指。
(……あ)
白く華奢で滑らかなそれには黒髪がぞろりとまとわりついていて……
(ああ……ああ、あ――)
長く艶やかな髪の毛は、まるで親友の少女の残骸のようで……
「――――――っ!」
悲鳴は言葉にすらならなかった。否、もはや悲鳴ですらなかったのかも知れない。ただの、音だった。
己が肩と腕を掻き抱き、真っ先に存在を確認する。大丈夫、生きてる。今のアオイが居るのはレヴィアタンの住処でも暴動が起こった綺羅星学園でもない、自宅の、自室のベッドの上。だからあれは夢。すべて、夢。懸命にそう言い聞かせる首筋には嫌な汗が滲んでいた。
夢?
そう――あくまで夢だ。そうにきまっている。
レヴィアタン戦、そして綺羅星学園包囲戦で自分の無力さを痛感したのは事実だけれど。
(分かってるのに。なんで……こんな)
汗で額に張り付いた前髪をくしゃりと掻き上げ、唇を噛む。
アオイはムービーファンだ。たまたまバッキーを与えられただけの女子高生だ。ムービースターのような圧倒的で絶対的な力などありはしない。
分かっている。分かっているのに。
恐怖にも似た焦燥に衝き上げられて、胸がこんなにも苦しい。
カーディガンを羽織ってのろのろと起き上がる。少しでも明るい場所に出たくて、光が欲しくて、殊更に勢い良くカーテンを開けた。
そして眼をぱちくりさせた。
――長い黒髪を後ろで縛った男が、庭の片隅で膝を抱えてうずくまっている。
その男が知り合いの海賊であることを見てとったアオイは、素早く着替えて庭に飛び出していた。
(何コレ、超ディスティニーじゃん!)
どんなに苦悩していても、解決の糸口が目の前に現れればそれを掴み取ろうと体が動く。アオイはそういう少女なのかも知れない。
ギャリック海賊団の航海士であるルークレイル・ブラックは筋金入りかつ永久保証付きの方向音痴だ。
であるからして、象の餌を調達しに陸(おか)に上がったはいいものの、帰り道が分からなくなってたまたま迷い込んだ新倉家の庭の隅で行き倒れた――もとい、夜を明かす羽目になったのも無理からぬことであった。もちろんルークレイル自身はここが新倉家の敷地であることを知らず、家の中から突然飛び出して来たアオイによってようやく自分の現在地を認識することになったのだが。
「ねえっ、ねえ! ルークさんでしょ! ルークさんルークさん、ルークさんってば!」
キンキン喚くといった比喩がぴったりくるような声量で名を連呼されれば否が応でも眼が醒める。がくがくと肩を揺さぶられてずり落ちそうになる眼鏡をどうにか鼻の上に押し込むと、団が経営している海賊喫茶でアルバイトをしている赤毛の少女の姿があった。
「……やかましい。そんなに何度も呼ばなくても聞こえている」
「どうせまた海賊船に帰れなくなったんでしょ?」
詫びることも案じることもせず、いっそ気持ちいいくらいの勢いで投げつけられた直球にルークレイルは軽い眩暈を覚えた。
「もっと他に言うべきことがあるだろう」
「え? どんな?」
「大丈夫ですか、とか、どうしたんですか、とか」
「だから、道に迷って帰れなくなったんでしょ?」
「……なぜ決めつける」
「え、だってルークさんだし?」
あったり前じゃん、と首を傾げるアオイにルークレイルは軽く嘆息した。
否定できないのがつらい。
「ね、ね、ルークさん」
だがそんなルークレイルの心情などお構いなしだ。引き締まった二の腕を両手で掴み、アオイは畳み掛けるように言葉を継ぐ。
「あたしが海賊船に連れてってあげるよ。どうせ一人じゃ帰れないでしょ?」
「最後の一言は余計だ」
「えー? だってルークさんだし」
「だからその一言で片付けるな!」
「いーじゃん別に! それよか、案内してあげる代わりにあたしのお願いひとつ聞いてよ。ね?」
嫌な予感を覚え、ルークレイルは反射的に身構えた。女が交換条件を持ち出す時、特に“お願い”という単語を使う場合はろくなことがないと相場が決まっている。
だが、活発な女子高生の口から飛び出した“お願い”は意外なものであった。
「あたしに銃の撃ち方教えてくんない?」
「何?」
青い眼をぱちぱちとさせるルークレイルの前で、アオイはぱんっと勢いよく両手を合わせて頼み込んだ。
「どーしても銃の撃ち方覚えたいの。ルークさん射撃超うまいじゃん? ねえお願い、イケメンでクールで頭イイパーフェクトガイなルークさん!」
頼み方はともかくとして、アオイの思いは真剣だった。ルークレイルのほうもそれをきちんと読み取ったからこそ同意したのだ。断じてアオイの世辞に気を良くしたわけではない。
アオイが撃ちたいのは本物の銃ではなくスチルショットだろうとルークレイルは推測した。だが、他者に向かって銃口を向けて引き金を引くという意味では実弾と大差ない覚悟が必要だろう。
だからルークレイルは愛用の二挺拳銃のうちの片割れをアオイの手に持たせて練習させることにした。
「これ、マジでほん、もの?」
銀幕市内のとある場所、海賊団のメンバーが使うことも多い屋外射撃場。冬らしくからりと晴れ渡った空の下、両手の中の銃を見ながら、アオイの声はやや裏返っている。
それほどインチはない。だが、初めて銃に触れる者にとってはやはり脅威であり、恐怖である筈だ。
「怖いか?」
長身のルークレイルは標準的な少女の身長しか持たぬアオイより頭ひとつ分以上大きい。自然とアオイを見下ろすような格好になる。どこか冷淡な印象すら与える青い瞳の下で、燃えるような赤い髪の少女はきゅっと唇を噛み締めた。
「……ううん、平気」
呟くように押し出された答えに、航海士は「ほう?」と語尾を持ち上げる。
「平気。大丈夫」
武骨な銃身を小さな手で握り締め、アオイは気丈に胸を張った。「早く教えて。頑張って覚えるからさ、ヨロシク」
答えずに、ルークレイルは眼鏡の奥の瞳をすいと眇めただけだった。
ルークレイルは黙っていれば男前だとアオイは思う。いつも偉そうに振る舞うくせに意外に子供っぽい一面があったり、頻繁に道に迷ったり、他の団員たちと漫才じみたやり取りを繰り広げたり……。せっかくの知的なルックスが台無しだと、有り体に言えば“とても残念な人物”という印象を抱いているのだった。
だが、これまで遠目に見て来たルークレイルの戦いぶりは素晴らしい。生意気なようだがそこだけは一目置いているし、信頼もしている。だからこそ彼にレクチャーを頼み込んだのだ。
「素人は両手で構えろ。おまえの腕力では射出の反動に耐えられんだろうからな」
「え、でも両手塞がったら不便じゃん?」
「そういうことは慣れてから考えればいい。まずは確実に扱えるようになることに集中しろ。銃口と目線と体の向きを常に一致させて……そう、脇はしっかり締めろ」
言われた通りに両手で銃を握り締め、腕を伸ばす。引けそうになる腰をどうにか叱咤して背を伸ばすと、ルークレイルの手が伸びて来てアオイの肘を支えた。
「腕が曲がっている。これではうまく狙いをつけられん」
「あ、うん。ごめん」
慌てて腕を伸ばす。腰が引けないようにと意識するあまり、腕への注意が散漫になっていた。
(駄目じゃん、こんなの。ひとつ気を付けると他が全部お留守になる……早く覚えなきゃいけないのに)
ルークレイルに言われてトリガーに指をかけてみるものの、ひんやりとした硬質な感触にぎくりとして、思わず手を放しそうになる。
かちかちと、何かが震えている気がする。
縋るように両手で握り締めた銃か、それとも根の合わさらぬ歯か。
懸命に狙いを定めようとするアオイを黙って見守っていたルークレイルであったが、小さな肩がわずかに震えていることに気付いてふと眉尻を持ち上げた。
(何だ。こいつは何を焦っている? それとも……)
――怯えているのか。
「ん……んんっ」
それでもアオイは奥歯を噛み締め、どうにか照準を定めようと銃口の高さを維持している。
こうやって狙いを合わせて、精確に撃ち抜かなければならないのだ。
何を? ――あたしの大切なものを害する存在を。
何のために? ――あたしの大切なものを守るために決まってんじゃん。
どうして?
誰かのためっていうタイギメイブンを振りかざせば、他の命を奪ってもいいってワケ?
ずん、と腕が、手が、重くなったような気がした。まるでアオイを包む空気だけが急に重みを増したかのように。
ネガティヴゾーン探索隊に志願したアオイは、ディレクターズカッターを操り、襲い来る絶望の使者たちを次々と屠った。
命を絶つ剣の重さをこの手で、この身で、この目で思い知った。その意味では銃の重さも変わりはしないだろう。
(でも……だけど、でも)
揺れる銃口を必死で睨みながら少女の自問自答は続く。
(迷ったら駄目。分かってる、分かってるけど……)
誰かのために奪った命を、あたしはちゃんと背負って行けるの?
あたしにそんな強さがあるの? 資格があるの?
――それは、
「……おい」
ルークレイルの無表情な声が張り詰めたアオイの思考をぷつんと途切れさせた。
「え、あ、何? まだ悪いトコあった?」
振り返ったアオイがどこか安堵の色を浮かべていたのは、いったん銃を下ろす口実ができたからなのだろうか。
「さっき俺が銃を渡した時……怖くはない、平気だと言っていたな?」
無機質なレンズの向こうで、涼やかな色の双眸がじっとアオイを見下ろしている。
「本当に怖くないのか?」
その問いに、少女の瞳が決定的にこわばった。
沈黙が落ちる。ぎくりとするほど冷たい風がさらさらと吹いて、アオイの赤い髪を、ルークレイルの黒髪を、順番にさらっていく。
鋭利なまでに透き通った空っ風の中、唇を噛み締めたアオイはきっとルークレイルを見上げた。
「……怖く、ないよ。さっきも言ったじゃん」
強気な言葉とともに、どこか血の気を失った面(おもて)を無理矢理笑顔に作り変えようとする。だが、真っ正直で真っ直ぐなアオイにナチュラルな作り笑いなどできるはずがなく、結局不自然に引きつった表情が出来上がっただけであった。
「分かりやすい奴だ。射撃テクニック以前の問題だな。まずは銃を手に取るところから、というわけか」
「な、何よ、どういう意味! あたしは怖くなんか――」
額に手を当てて嘆息したルークレイルに食ってかかるが、一回り年上の航海士は涼しい顔だ。つんと澄ました、どこか高慢ですらある態度が勝ち気なアオイに油を注ぐ。
「だったらルークさんがやって見せてよ! 偉そうなこと言うなら手本見せてよね!」
「ほう?」
アオイに銃を押しつけられ、ルークレイルは不敵な笑みを閃かせた。
「いいだろう。その眼を見開いてよく見ておくんだな」
銃にサイレンサーはつけないし、アオイには防音用のヘッドフォンも装着させない。銃という物が持つ重みと恐怖を五感すべてで感じてほしいからだ。
ガガッ、というレールをこするような音とともに標的がスライドしながら現れる。起き上がりこぼしのようにぐいんと立ち上がった黒い標的はまるで胸像のような形をしており、胸から顔面に向かって白い同心円が無機質に広がっている。
両手で銃を構えたルークレイルの表情に動きはない。真っ直ぐに伸ばされた腕と、鈍く光る銃口が狙い澄ます方向をアオイは息を呑んで見守っていた。
「あの的、動くの?」
最初に現れたターゲットが左側に滑り、別の方向から新たな標的が現れた。
「動かない的を撃っても練習にはならんさ」
かちり、と音がしてルークレイルの手の中の撃鉄が持ち上がる。「戦場で敵がじっとしていてくれるわけがないからな。そうだろう?」
「……ん」
アオイはふるりと身を震わせ、まるで寒気を感じたかのように自分の二の腕をぎゅうと握り締めた。
ガコン、ガコン、ガガン。
二つ、三つ、四つ。人影のようなターゲットが次々と起き上がり、ルークレイルの前でランダムに移動を始める。
銃口は動かない。ルークレイルも動かない。
眼鏡の下の青い瞳は的を追うでもなく、ただ一点のみを見据えている。
ガコン、ガガッ。
標的がかしぎながらスライドする。
逃すまじと右手の銃が火を噴いた。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
「――――――」
冬晴れの下で轟く銃声はあまりに暴力的で、アオイは反射的に耳を塞いだ。喉の奥で上げた悲鳴はCz75 SP-01の咆哮に容赦なく掻き消されてしまう。内臓を揺さぶるような衝撃音に華奢な膝が震え、全身の皮膚がちりちりと焦げるかのような錯覚が襲い掛かる。
これが――銃。誰かの命を奪うための火薬と弾丸。
「耳を塞ぐな」
ダンッ、ダンッ、ダダンッ!
跳ね上げた右腕の下に左手をくぐらせ、サイドへ回り込んだターゲットを追撃する。淡々としたルークレイルの声は銃声に圧せられることもなく、はっきりとアオイの耳に届くのだ。
カラン、カララン、カラン。
鈍い色の空薬莢が乾いた音を立てて躍る。
花火にも似た硝煙のにおいがアオイの意識を、視界を、圧倒的な力をもってぐらぐらとかき混ぜる。
「眼を逸らすな。聞いて、見て、震えろ」
胸に風穴を開けた標的は呆気なく後退し、後方から新たなターゲットが現れる。ルークレイルは素早く眼を走らせ、体幹をしっかりと固定したまま最低限の動きだけで標的の前に先回りする。
「おまえはこれを撃ちたいんだろう。ならば目を見開いて向き合え、全身で感じるんだ」
ダンッ、ダダンッ!
ひときわ高い二発の発砲音とともに静寂が訪れる。
するするとルークレイルの前に並んだターゲットはどれも一か所のみに穴を穿たれていた。一発しか当たらなかったのではなく、数発の弾丸をすべて同じポイントにヒットさせたのだとアオイは悟る。
「――撃つかどうか、決めるのはおまえだ」
たちこめる硝煙の中、ルークレイルはゆっくりとアオイを振り返った。
「だが、これが銃だ。これを手に取る覚悟がおまえにあるか?」
ルークレイルは幼少の頃より幾多の修羅場を潜り抜けてきた。この手で殺した人間の数は数え切れぬ。
そんな海賊の前で、十六歳の少女はほんの少し苦しそうに顔を歪めるのが精一杯だった。
父の仕事で転校を繰り返してきたアオイは、銀幕市に引っ越して来て初めて大切な相手やかけがえのない友達と巡り会うことができた。大事な人たちを守りたい。だが自分は無力だ、だから銃の扱い方を覚えたい――。アオイの思いは明快でまっとうで、真剣だった。
それなのに気持ちが追い付かない。頭で分かっていても、銃というものが持つ圧倒的な力をひとたび目の当たりにしてしまえば、感情がどうしてもついて来ない。
射撃場の片隅で膝を抱えたアオイの脇で、ルークレイルもまた無言でいる。射撃のスペシャリストとしての意見やアドバイスなどいくらでもあるだろうに、ただアオイが口を開くのを待っている。
銃を手にしたアオイが迷いを抱えていることは傍から見ていても分かる。躊躇うこと自体は悪くないし、必要なことだ。
だがアオイはその躊躇いを無理に抑え込もうとしている。だから気持ちも銃口も定まらない。そんな半端な感情のまま戦いに身を投じれば自分が死ぬことになるだろう。
それでもルークレイルは何も言わない。自分の考えをアオイに押しつけようとは思わない。アオイ自身が悩み抜いて手にした答えでなければ意味がないからだ。
「……さっきさ」
長い沈黙の末、小さな呟きがぽつりと落とされた。
ルークレイルから借り受けた銃を握り締めながら、アオイはむき出しの膝小僧をぼんやりと見つめている。
「銃を撃つ覚悟があるのか、ってルークさん言ったじゃん」
「ああ」
「銃を撃つ覚悟って何? 誰かを撃つ覚悟って、何?」
それは根源的な問いであっただろう。だが、銃を扱う人間のうち、果たしてどれだけがその問いに答えられるだろうか。
「ごめん、初歩的な質問で。だけど分かんない……どうしても分かんないの」
くしゃりと髪をかき混ぜたアオイの声はアンプのボリュームを絞るように消え入った。
「銃を撃ちたいと思ったのはなぜだ?」
「大事な友達や大切な人たちを守りたいから。さっき言った通りだよ」
「ならば、もし俺がムービーキラーに堕ちたとして」
淡々と紡がれるルークレイルの言葉にアオイはぎょっとして顔を上げる。
「俺が、この街やおまえの大切な人たちに危害を加える存在になったとしたら」
しかしルークレイルは構わずにアオイの手と銃を取り、自分の左胸に銃口を押し当てた。
「――おまえは、俺を撃つことができるか?」
どこまでも冷静な青い瞳の前で、アオイの表情が泣き顔に歪んだ。
仮定の話だというのは分かる。だけど、だけど。
目の前のルークレイル・ブラックが“ムービースター”という括りにカテゴライズされる存在である以上、可能性の上では全く有り得ない話ではない。静かに落とされた問いは嫌な現実感をもってアオイに迫り、心の上にさざなみを広げていく。
銃を握った手の上からかぶせられたルークレイルの掌は温かい。無機質な銃口を通して、彼の心臓の鼓動までもがかすかに感じられるかのようだ。
親友の少女や悪態ばかりつき合っている武将の少年の顔が脳裏に次々と浮かんでは消える。ルークレイルと彼ら、どちらが大事か、天秤にかけて決めろとでもいうのか。
そもそも、彼ら彼女らが、アオイにルークレイルを撃たせてまで自分が生き延びたいと思うだろうか?
「……ずるいよ、そんなの」
答えられるわけないじゃん、と呟いてアオイは銃を下ろそうとする。
しかしルークレイルはそれを許さない。小さな手と拳銃を一緒に握り締めるかのように、大きな掌に静かに力を込める。
「今の心境をよく覚えておけ」
え、とアオイは顔を上げた。
「他人に銃を向けることはそいつの命を奪うことだ。躊躇って当たり前。躊躇わないほうがおかしいし、危険だろう」
躊躇いなく銃を撃てるようになったら、それは『守る』という意味合いを超えてしまう。その先に待つのはただの殺戮だ。かつてのルークレイルが躊躇することなく銃で人を殺していたように。
「躊躇い自体を捨てる必要はない。だが、躊躇うべき場所は覚えておけ」
常に迷い、苦しみ、自分に問いかけながら銃を手にしてほしいと続けたルークレイルの前で、アオイは難解な数学の問題にでもぶち当たったかのように眉を顰めた。
「躊躇うべき場所、って?」
「すぐに人に頼るな。少しは自分で考えたらどうだ」
む、とアオイはわずかに頬を膨らませた。まるで意地の悪い教師に突き放された生徒といった表情だ。
そんな幼い顔が面白かったのか、不遜な航海士は「くく」とほんの少し愉快そうに喉を鳴らす。
「いいだろう。この俺様が特別に教えてやる、感謝しろ」
あくまで俺の考え方だが、と一言前置きしてからルークレイルは言葉を継いだ。
平素に輪をかけて高慢な物言いだが、アオイはおとなしく口を閉ざして聞き入っている。
「いいか。まずは銃を手にする前に徹底的に悩め」
「でも、悩んだら撃てな――」
「人の話は最後まで聞け。俺が言っているのは銃を手にする“前”であって、銃を手にした“後”のことではない」
ん、とアオイは顎を引いて姿勢を正した。
「銃を手にするかどうか。誰に向けるのか、向けるべきなのか否か。本当に必要なのかどうか。銃に手を伸ばす前に悩んで悩んで悩み抜け。そして悩んだ末に必要と決断した時だけ銃を手に取れ。但し……ひとたび銃を手にして引き金に手をかけたなら、そこから先は絶対に悩むな」
薄い雲の間から太陽がちらりと顔を覗かせたようだ。冬の陽光は控えめで、優しい。
それでも、太陽の光を受けた銃身はまばゆいまでにきらりと輝く。
「悩むのは銃に触れるまでだ。悩み抜いた末に必要だと手に取った引き金を躊躇えば大切なものは守れない。俺はいつもそうやって銃を手にしている」
その言葉をもって結び、ルークレイルは拳銃をアオイの手から手を離した。
小さな手がすとんと滑り落ちる。ルークレイルの支えを失った拳銃がアオイの手の中で無表情に跳ねた。
「……ありがと。悩みを無理に捨てなくてもいいっていうのはよく分かった」
「ああ」
「だけど」
と顔を上げたアオイの表情はまだ晴れない。
「誰かを……命に対して引き金を引く覚悟は? 誰かを守るために誰かの命を奪うって、どういうこと?」
ルークレイルの眉がひょいと持ち上がった。
「ルークさんもあるでしょ? 仲間を守るために誰かを殺したこと。その時どうだった? どう思った? 仲間を守るためなら仕方ないってカンタンに割り切れたりしたの?」
泣きそうな表情で咳込むように重ねられる問いにルークレイルは「ふん」と鼻を鳴らした。
「割り切れるわけがないだろう」
あっさりともたらされた言葉にアオイの瞳が見開かれる。
「仲間を守るために誰かを撃つなんて、俺のエゴだからな」
いつものくせで煙草をくわえたルークレイルだったが、ここが射撃場であることに気付いて取り出しかけたライターをポケットに突っ込んだ。
「エゴ、って」
「では訊くが、おまえがおまえの大切な相手を守りたいと思うのはどうしてだ?」
「それは……あいつらが、あたしの大事な友達だから」
「おまえがその人たちを守りたいだけなのだろう? 相手のためではなく自分のために守りたい、そのために誰かを傷つけようというのだろう? 要は自分のために誰かを撃つわけだ。何かを守るというのは相反する他の何かを傷つけるということだ。エゴ以外の何ものでもないさ、そんなものは。たとえどんな美辞麗句で飾った大義名分を掲げたとしてもな」
ひとつ肩を揺すり、どこか自嘲じみた笑みを浮かべるルークレイルの前でアオイは反論する術を見失う。
何かを守るためには往々にして他の何かを傷つけなければならない。傷つけられた側からすれば、それは傷つけた側の独善でしかないだろう。誰かを守りたいという感情自体がエゴなのだと容赦なく突きつけられたようで、多感な少女の意識は泥の底へと沈澱しそうになる。
やはり、誰かを守るために誰かの命を絶つという理屈は独善と自己欺瞞に満ちたものでしかないのだろうか。
思考の迷宮に入りかけたアオイの意識を、ルークレイルの「だが」という一言が引き戻す。
「エゴだからどうした。エゴと笑いたい奴は笑えばいい、自己満足だと嘲りたい奴は好きなだけ嘲ればいいさ。俺は謗りも非難もいくらでも受ける。その程度で揺らぐほど安い絆ではない、俺にとっての――」
ルークレイルはそこで言葉を切った。こほんとひとつ咳払いをし、涼しげな双眸を二、三度左右に往復させる。
「“俺にとっての”、何?」
きょとんとしたアオイが尋ねると、不器用な航海士は唇を軽くへの字に曲げてぼそりと言い直した。
「……俺にとっての……“家族”、は」
やけに言いにくそうに、どこか照れさえ含んだ物言いにアオイは眼をぱちぱちと瞬かせた。
ギャリック海賊団はルークレイルにとって絶対的な存在だ。彼らのためならルークレイルはどんなことでもするだろう。エゴイストと後ろ指を差されようと自己満足だと罵られようと構いはしない。
「奪った命を背負えというなら喜んで背負う。罪悪感にまみれて苦しめというならいくらでも苦しむ。俺の罪悪感やプライドなどちっぽけな問題さ。そんなものよりも大切で優先すべきものが俺にはある」
いつしかアオイは息を詰め、淡々としたルークレイルの言葉を一片も聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
相槌を打つことすら忘れていた。静かに語られる熱い信念に圧倒されていた。
だが、彼の言葉のひとつひとつはすとんと胸に落ちて来て、ぽっかり空いた空白にぴったりとはめ込まれた。
エゴだと言われればその通りなのだろう。そもそも人間などエゴの塊であるのかも知れぬ。だが、それを恥じ入り、恐れるようなら銃など手にするべきではない。
きっと、誰かを守りたいなどという台詞は軽々しく口にして良いものではない。ましてや美しい覚悟などでもない。エゴと苦悩と罪悪感にまみれた、ひどく苦い味の感情なのだ。
そして――その苦さを飲み下すだけの確固たる思いがなければ、大切な人を守ることなどできやしない。
「エゴか。そっか、そうだよね」
アオイはようやく愁眉を解いて立ち上がった。
(誰かのためなんかじゃない。あたしが守りたいから……あたしがあいつらを失いたくないから、誰にどんなイチャモンつけられても守る。それだけなんだ)
華奢な手の中で、武骨な銃身が、その身に受けた穏やかな陽光を確かなきらめきへと変えていく。
真っ直ぐに背筋を伸ばして銃を構えたアオイの隣にルークレイルが立つ。照準の合わせ方、安全装置の外し方、射出の反動を少しでも抑えるための姿勢を丁寧にレクチャーし、ぽんと背中を叩いた。
「さあ、これでいい。後は引き金を引けば弾が出る」
「OK。ありがと、ルークさん」
「充分悩んだか? きちんと迷って答えを出したんだろうな?」
「もち、決まってんじゃん」
に、と広がる笑みは快活で、冬晴れの空のように凛と清々しい。
躊躇いは捨てないし、常にまとわりつくこの苦悩を消すこともできやしない。
それでも引き金を引く時は迷わない。綺麗事も口当たりのいい屁理屈もいらない。誰かの命を犠牲にするという逃れ得ぬ罪を真正面から見据え、すべて呑み込み、それでも彼ら彼女らと居たいと願うから。
それをエゴと呼びたければ呼べば良い。きっとアオイはあっけらかんと、笑顔さえ浮かべて「そうだよ」と答えるだろう。
轟く銃声が蒼穹を揺るがし、真っ直ぐな軌跡をえがいて弾丸が駆け抜ける。
射出の反動でわずかによろめいたアオイであったが、浮かべた笑顔はどこまでも明るく、クリアで、晴れ渡っていた。
(了)
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クリエイターコメント | ご指名ありがとうございました。ルークレイル様には初めまして、宮本ぽちです。 非常に難しいテーマで、いっそ辞退するべきかと悩みましたが、気持ちの上ではとっても受託したかったので結局受けさせていただきました。すみませんです(?)。
色々言ってしまいましたけれども。 何かを傷つけることを恐れるのなら、そして傷つけた罪悪感に苛まれる覚悟がないのなら、“守りたい”などと簡単に言ってはいけないんじゃないかな、と。その程度の意味に捉えていただければ幸いです。
所でルークレイル様の射撃シーンは予定外でした。 クールな面以外の部分ばかりが強調されてしまった感があるので急遽捏造したシーンなのですが…。かっこ良くキマっているでしょう、か。 |
公開日時 | 2009-01-11(日) 22:10 |
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