★ 風に散る ★
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
管理番号96-6330 オファー日2009-01-14(水) 06:38
オファーPC 香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
<ノベル>

雨ふると藤のうら葉に袖ふれて花にしほるる我が身と思はむ
                          ( 散木奇歌集 源俊頼 )


 浦賀沖にアメリカ海軍東インド艦隊が来航してから数年。数年前までは江戸と冠せられていた場所は、今は新しく東京という名を得て賑わっている。戦争を経て新たに成立された政府は新たな法を次々と発布、現在では鉄道まで敷設されるに至っている。
 瓦斯燈(ガス灯)が夜の闇を明るく照らす時世が訪れても、しかし、闇に潜む魍魎たちには何ら支え(つかえ)もない。港町横浜においてもそれは些かも変わらない。闇の眷属たちは息衝き、目を光らせている、今もなお。――否、変動を迎えた今であるからこそ、彼らはひとの心に穴が穿ちやすくなっているのを心得ているのだ。目を凝らせば、そこかしこに闇がこちらを窺っているのが知れることだろう。
 カグヤが船を降り“日本”という国に足を踏み入れたのは数日前のことだった。日本に向かう前に立ち寄った上海では、日本は野蛮な田舎国だと聞いていた。確かにこれまで放浪してきた諸国に比べれば、未だ文明の発展も追いつけていない、未発達な国だというイメージは拭えない。それはこれまで頑なに外交を拒み続けてきたが故のものであるのかもしれない。現に、艦隊が来航してから数年、旧幕府軍と新政府軍とに分かたれて戦争も生じたという。それは旧きを護ろうとした側と、新しい風を取り入れようとした側の、双方の強固な意志に因るものだろう。
 この国は今、混沌の中にある。
 新しい文化を取り入れようとしていながら、それでもこれまで続いてきた長い歴史の余波は確実に色を落としてもいる。人びとは困惑している。動乱の渦は戦争の終幕で幕をおろしたわけではないのだ。むしろそれは始まりに過ぎなかったといっても過言ではないだろう。
 そうして。
 瓦斯燈が落とす仄かな光を仰ぎ見ながら、カグヤは小さくため息を漏らす。
 瓦斯燈の光も、大きな通りをわずかに外れてしまえば追いつけない。そこには闇が広々と両翼を広げて、行き交う人びとの恐怖を甘美なものとして舐めあげている。闇に潜み己が暗い衝動をどうにかしようとしている者など、そういった場所には数多く在る。男を手招き夜伽の相手をしてわずかばかりの金銭を得ている女。戦争で覚えた“人を殺める”感触を忘れられず、闇に紛れ罪過のない人間を手にかけ続けている男。人の心の闇を喰らい跋扈する闇の権化たち。そういった場所を歩いていれば、酒に酔った男たちが悪戯にカグヤの傍に寄って来たりもする。髪の色も瞳の色もこの国の人間たちのそれと何ら変わらないものであるはずだが、カグヤの外貌の美は男たちの欲を呼び起こすらしい。――否。魍魎共が彼らの心に滑り込み、その欲望を煽るのだ。けれどもカグヤはそうした男たちの下卑た言葉や視線を意に留めることすらせず、今はただ裏路地を進み、街の中心を外れ裏寂れた一郭を目指し進んでいる。
 激動を終え、ひとまずの静寂を得た街――人の集う場所であれば大抵どこにでも沸きあがるのが“祟り”や“怪談”といったものに纏わる噂話だ。
 とある飯屋でその噂を耳にしたカグヤは、それに心惹かれ、噂が立つ場所へと足を寄せてみることにしたのだった。曰く、未だ開発の手の及ばぬ街道の裏の裏に潜む小川沿いの路地に、夜な夜な女の霊が出るのだという。手拭いで顔を覆い隠し、己が顔を巧みに隠し、通りかかる男を誘ってはこう言うのだ。「お前ではない」。そうして翌朝、寒空の下、肌着一つ身につけずにいる男の屍が見つかるのだという。凍死ではない。どうも窒息死らしいのだが――それはどうにも定かでないらしい。
 噂というものは実に無責任なものだ。女の霊に遭った者が須らく(すべからく)死しているというのなら、果たして誰が女の霊が口にした科白(せりふ)を耳にしたというのだろう。けれどもその周辺で男の死体が見つかっているのは確からしいのだ。ゆえにここしばらくではそこに向かう人影など途絶えたに等しい。あえてそこに向かおうとするカグヤは、周りの人間たちにはさぞかし好奇な目で映されていることだろう。
 なるほど、通りを三つも曲がった頃から、周辺には男を誘う女の姿ですら見えなくなった。小川が流れる水音とカグヤが踏みしめる砂利の音、小川沿いに並ぶ柳やらの木立が風に揺らぐ音、そういった夜の声ばかりがやけに大きく響く。夏であれば蛙の鳴き声ぐらいはあるのだろうか。辺りは真実、静謐に包まれた場所だった。
 先ほどから長く続いているのは崩れた白壁だ。おそらく武家屋敷か何かでもあったのかもしれない。移りゆく時代の中で消えてしまったのか、壁の向こうには屋敷の影も、人の気配すらも窺い知ることは出来なそうだが。
 ふと、その壁が絶えたのに気がついて、カグヤは足を止めた。
 屋敷跡と思しき場所の端に、大きな――これは藤棚だ。花を結ぶには未だ季節も遠く、今は蕾すらつけてはいない古木ではあるが。しかし、古木は未だ息吹き続けていた。生命を宿し、初夏ともなればそれは見事な花を揺らすのだろう。その風景の美しさをも容易に連想させるほどに。
 その古木の見事さに感嘆して歩みを止めたカグヤの視界の端に、その時ふいに白い着物を身につけた女の姿が映りこんだ。女は小川の傍に蹲る(うずくまる)格好で俯き加減に顔を隠していたが、カグヤが女に気がつくのと同じくして、ゆうらりと両腕を前に起こし、四つん這いになって顔を持ち上げた。
 焼けて爛れた顔、所々が抜けて落ちた長い黒髪。唇が引き攣れているのは火傷によるものなのか、それとも嗤っているのだろうか。ともかくもまっすぐにカグヤを見上げ、首を左右にガクガクと振りながらカサカサカサと蜘蛛のように蠢いている。
 否。女が人間の霊と呼ぶものとかけ離れた存在になってしまっている事は、容易に知れた。蜘蛛のように蠢いているのではない。女は蜘蛛と身を交えたのか、その四肢は蟲のそれへと変じてしまっていた。爛れた傷からは小さな蜘蛛の子がぱらぱらと落ち、無数の糸を張っている。
 こうして糸を張り、得たものを喰らっているのだろう。
 思ったカグヤは藤棚の木の見事なのに感嘆していたのを邪魔された不粋に気を悪くし、女を滅してやろうとして召喚の言を口にしかけた。
 が、その時。
「もう亥の刻でありんすえ。大門も閉じる用意をする頃でありんしょう」
 鈴をふるような声がして、カグヤはふと詠唱を止めた。女の姿をした異形もまた動きを止め、辺りには刹那、再び静謐の時が訪れる。
 声のした方を振り向くと、そこにはいつからそこに居たのか、花魁の姿をした女がひとり立っていた。花魁は悠然とした微笑を唇に乗せ、カグヤに向けて小さな会釈をひとつ。
「堪忍しておくれなんし。その女も、姐さんに怨みがあるわけではありやしません」
 言いながらつと歩み、異形に近付き、そっと片手を伸べた。
 異形は花魁の前では酷く大人しく、まるで仔犬か何かのように、尖らせていた気配を丸く柔らかなものへと変えていった。
「このお屋敷の奥様に仕えていた女中なのでありんす。御屋敷に賊が入った折、引き入れたのはお前であろうと、覚えのない罪科を問われましてなぁ。辱められ、挙句生きたまま土中に埋められてしまったのでありんす」
 花魁は憐憫をこめた面持ちを浮かべ、異形の頭を穏やかに撫でてやりながらそう続けた。
「……あなたは?」
 カグヤが静かに口を開くと、花魁はゆっくりカグヤを振り向き、微笑んだ。
「わっちは姐さんが目に止めてくだすった木に住むものでありんすえ」
「……木?」
 返し、そうしてカグヤははたりと思い出した。
「藤」
 言って、視線を先ほどの藤棚へと寄せる。花の咲く予兆すらも未だ見当たらず、冬の眠りの中にまどろんでいるような古木。
 再び花魁に目を向けなおすと、彼女は細く白い小首をかしげ、つと頬を緩めた。異形は女の手の下で、今しがたまで浮かべていた黒々とした空気を一筋すらも残さずに消して、安堵した子供のような表情を浮かべている。
「さ、まだ目を覚ますときではありませぬえ」
 女がささやくと、異形はするりと目を瞬かせ、そのまま土中に沈み込むようにして消えていった。ほどなくして辺りには再び静寂が戻り、小川を流れる水の音と木々を揺らす風の音とばかりが残された。
 カグヤはしばし口を閉ざしたまま女と向き合っていた。女もまたカグヤと向き合い、微笑んだままだった。けれど、言葉なく向き合っていた時間はほどなくして終わった。――夜空を覆い隠していた雲が晴れ、隠されていた月が姿を現したのだ。
 初めに口を開いたのは女のほうだった。
「見事な三日月。明日は良いお天気になりますでしょうなあ」
「あなたはここに住んで、もう、長いの?」
 訊ねる。すると女は月を仰ぎ見ていた目をカグヤへと落とし、すうと目を細めてうなずいた。
「そうですなあ。先ほどのあの娘がこの御屋敷に奉公で連れてこられるよりもずぅっと前からおりますえ」
「そう。……お名前は? あなたを何て呼べばいいのかしら」
「わっちの名、でありんすか?」
 言って、女はさも意外なことを訊かれたとでも言いたげな顔をして首をかしげる。
「そのようなもの、つけられたことはありませんえ」
「誰にも?」
「そも、わっちの姿を見ることの出来る御方というのも、滅多におりませぬしなぁ」
「……」
 それもそうかもしれない。
 眼前にいる女が霊魂という存在でないことは知れる。藤の樹に宿った精霊なのだ。精霊を宿す樹があればその土地一帯はある意味特殊な場となる。善悪問わずあらゆるモノを引き寄せもするだろう。逆を言えば、あらゆるモノが寄りやすい場所であれば、人間がその土地に長く住まうことは不可能になるだろう。屋敷を構えていたという武家がどれほどの勢力や歴史を誇っていたのかは定かではないが、衰退してしまったのは、少なからずその影響のゆえでもあるに違いない。
 空にはいくぶん膨らみをもった三日月が張り付いている。風に吹かれはたはたと光を揺らすその輝きが、静けさに支配された夜をぼうやりと照らしていた。

 その夜から、カグヤは毎夜のように女がいる場所を訪れるようになった。初めの内こそ下卑た言葉をかけてくる男たちもいたが、それも連日――しかも“祟る”とさえ噂されている場所に足を運ぶカグヤに慄きを覚えるようになったのか、その内にぷつりと絶えた。
 女の周囲には、やはり、色々なモノがいた。初めに遭った異形の他、悪霊と分類されるであろうモノも数体いたし、むろん、害のないモノも多くいた。そのどれもが女の庇護の下にあり、女の言葉には絶対だった。精霊の抑止のもと、一帯は静けさを護られていたのだ。
「あの男どもは、確かにこの辺りで死んでおりますえ」
 噂では悪しきモノに殺されたのだといわれている死体に関しても、女は認めた。
「人間たちは皆、あなたたちが殺したのだと噂しているわ」
 言ったカグヤにも、女は肯定も否定も口にせず、ただ静かに微笑むばかり。
「常人ならばこの一帯に漂う“気(け)”に中てられて(あてられて)正気を失いますでしょうなぁ」
 ただそう応え、時おりひどく懐かしそうに目を細めて月が照らす夜空を仰ぐのだ。
 女は確かにずいぶんと古くからこの一帯に居続けてきたらしい。長い歴史を歩む中で、ほんの数人、女の姿を目にすることのできる者もいたという。そういった者の中には書を好む少年もいて、女にも色々な物語を語って聴かせてくれたらしい。
 カグヤが自分の名を女に教えたとき、女は目を丸くして驚き、次いで華やかな笑みを満面に浮かべてみせた。
「月に還った姫とおんなじ名前でありんすなぁ」
「月にかえった姫? なんのこと?」
「この国に伝わる昔話でしてなぁ。今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろずのことに使いけり、と申しますえ」
 そう言って、女はその物語の概要を話し始めた。竹の中から女児を見つけ、これを育てた老夫婦。やがて美しく育った姫は五人の男たちから求婚されるようになる。婚姻を渋る姫は五人の男たちに無理難題を出し、遠まわしにこれを断る。姫の美しさはやがて帝の耳にまで届くが、姫は自分が常なる人間ではないことを帝に知らせ、帝の心をも遠ざけた。そうしてやがて八月。姫は自らは月から来た者であることを老夫婦に知らせ、満月の夜には月へ還らねばならないことを告げる。帝は月からの使者を退けるための軍勢を送り込むが、使者の前に彼らの戦力はまるで使いものにならず、ついに姫は月へと戻ってゆく。
「その姫の名が赫夜姫。香具屋姫とも籠姫とも迦具夜比売命とも言われているようでありんす」
「かぐやひめ」
 その名が自分の名前と同じであるのに驚いたカグヤに、女は言葉を続けた。
「姐さんも、もしもこの先この国に留まってみる心積もりでありんしたら、御名前に字面をあててみるのも楽しいかもしれませんえ」
 言ってふわりと目を細めた精霊に、カグヤは肯きかけて、けれども逡巡し、「そうね」とだけ応える。
 これまで長い歳月、カグヤは様々な土地を渡り歩いて来た。エルーカとしての本質が、カグヤの足をあらゆる土地へと導いてもいたのかもしれない。エルーカはあらゆる精霊に触れ、契約を結び続けていかなくてはならないのだ。精霊たちはそれぞれがそれぞれの心理を内包している。彼らと触れ合い契約を結ぶことで、エルーカはその真理を自らの内に内包していくことができるのだ。――否。そうし続けていかないと、エルーカはその全てを精霊たちに喰らわれてしまう。”真理“の探究を止めることは、すなわち、自らの死を意味するのだ。
 けれども、カグヤが様々な土地を歩き渡り、様々な精霊たちと触れ合おうとしているのは、肉体と魂を喰われて“無”になる脅威から逃れようとしているからではない。
 初めこそ、困窮した生活から逃れる手段としての力を欲していた。だからエルーカとなる道を選択した。強大な力を得ることは、イコール、莫大な財を得ることに通じているはずだと思っていたのだ。あながちそれはウソではなかった。エルーカという存在にのみならず、特異な能力を行使し金銭を得ている者の中には莫大な金を所有している者も少なからず存在していた。むろん、大半は異端者として狩られ、筆舌し難いあらゆる拷問の末に命を落としていった。
 長い歳月の中、カグヤは、精霊たちと触れ合うこと以上に、様々な人間たちとの接触を得てきたのだ。
 人間の心は雪の結晶よりも弱く、脆い。少しの風にも揺らぐほど危うい。
 けれども、人間の想いは強い。それはあらゆる名前をもつものでもある。愛、怨み、嫉み、憧憬。人間の持つ“想い”は時に強力な力を保有し、時に現実の有り様を歪めてしまうほどだ。
 世界はなぜ、人間を、人の心をそのように定めたのか。
 いつしか、その答えを知りたくて、世界をめぐるようになった。あるいはそれも真理への探求なのかもしれないけれども。
「あなたも、ここで、長い間ずっといろんな人間や魍魎たちを見続けてきたのよね」
 眼前にいる藤の精霊に問う。
 精霊は黙したまま、ただにこりと微笑むばかりだ。
「ねえ。さっき話してくれたお話だけど」
「月の姫(ひい)さんのお話でありんすか?」
「そう。そのお姫様は、育ててくれたおじいさんやおばあさん、それに心を寄せてくれた帝たちの心を知っていて、それでも結局はそれを捨てて帰ってしまったっていうことよね」
「この世界は“汚らしい”場所であるようですからなあ」
「……人と異なる存在って、どんなに親しく人との交わりをもってみたところで、結局、相容れることはできないものなのかな。結局は、その場所の理を外れた場所から見守ることしかできないものなのかしら」
 異端であること。
 月の姫は、自分が養父母や帝たちが置かれている理にとっては異端であることを知っていたに違いない。交わってはならない異質な存在であることを知っていたはずなのだ。だからこそ男たちからの求愛をはねつけ、最後にはそぞろ泣く彼らを振り向きもせずに月へ――自分のあるべき理の世界へと戻っていった。
 自分が異質であるのと自覚しながら、ただひとり、異邦の中に身を置き続けなければならなかった。それはきっととても孤独なものであったに違いない。
「姐さんは、孤独でありんすか?」
 カグヤの言葉には応えず、精霊はふと静かな声でそう問いてきた。
 カグヤは精霊の顔に目をやって、一瞬だけ口を開きかけ、そうして再び噤んだ。
 ――理解らない。自分は、精霊たちとの交わりを得られている。巡り歩いてきた土地土地では幸運不運様々あったにしろ、人間たちとの触れ合いも持ち得てきた。おそらく決して“孤独”ではなかった。けれども――。
 精霊は、口を閉ざしたカグヤに、それ以上の言葉をかけてはこなかった。ただ静かに夜空を仰ぎ、「綺麗な月夜でありんすねぇ」と呟いて、吹く風に髪をなびかせ、心地良さげに目を閉じていた。

 それから数日後、カグヤは横浜を離れた北の土地で禍事が生じているという噂を耳にし、その地を目指すことにした。精霊はいつもと同じく穏やかな笑みを浮かべ、旅立つカグヤを静かに見送るだけだった。
 北の土地での事件を片付けると、カグヤの腕を見込んだ人間が別の土地での仕事を依頼して来た。一度船で大陸に渡らなくてはならない内容だった。その調子で数件の依頼をこなし、再び横浜の地を踏むことが出来たのは、精霊のもとを離れてからじつに数ヶ月の時を経た後のこととなっていた。
 着工を始めたばかりの鉄道工事はずいぶんと進んでおり、街並みもより美しく整備されていた。行き交う人びとも洒落た風体をしていて、瓦斯燈の数も増えていた。試しに路地をいくつか折れてみたが、旅立つ前に広がっていた下卑た空気はもうすっかりと片付けられてしまっていた。女たちも男たちも、おそらくはもっとさらなる裏側へと潜りこんでしまったのだろう。そんなことを思いながら、カグヤは精霊がいるはずの場所へと足を進めることにした。
 
 武家屋敷跡はすっかりと片付けられ、更地になっていた。新しく大きな街道を造るのだという。確かに、線路が走る場所からここまで歩いても十数分。港までもさほど遠くなく、開拓するにはうってつけの場所だ。
「……そんな……」
 カグヤは呟き、更地になった土地を何度も何度も見返してみた。
 藤の古木がなくなっている。――当然だ、土地を均したのと同時に伐採してしまったのだろう。開拓されるのだから、それはむしろどうしようもない結果だったと言えよう。
 けれど、
「ねえ! ねえ!? いるのよね!? いるわよね!?」
 精霊の気配はまだ残されている。とても微弱で、今しも消えてしまいそうなほどに弱いけれども。
 精霊の名前を呼ぼうとして、そういえば名前を聞いていなかったと思い出す。いや、精霊は、これまで名前などつけられた例(ためし)はなかったと笑っていた。――なら、自分がつけてやるべきだったのだ!
「ねえ!!」
 精霊を探しながら、藤の古木があった場所に足を向け、膝をつける。均された土の下、古木の根がわずかに残されているのが解った。
 空には月が架かっていた。欠けのない、万全たる望月だ。
 ひらひらと夜風が吹いて、カグヤの前髪を大きく揺らす。そうして、
「……姐さん、お帰りでありんすか」
 消え入りそうな声がカグヤの耳に触れて、カグヤは思わず後ろを振り向いた。そこには毅然とした面持ちを浮かべた女がいて、きっちりと膝をおって座り、カグヤの視線を受けると静かに頭を下げながら続けた。「ご無事のお帰り、何よりでありんす」
「……!」 
 口を開こうとして、しかし、何から告げればいいのかを思い悩んでしまい、カグヤは言葉を上手く形にまとめることが出来ずにいた。
 精霊はカグヤの心を知ってか、いつもと変わらぬ笑みを頬に浮かべて首をかしげ、
「姐さんのお帰りを待つことが出来て良うありんした。……わっちも、どうやらここまでの運命(さだめ)と定められていたようでありんす」
 その微笑みは、消えゆくものが浮かべるものにしてはあまりにも毅然としていて、ゆえにとても美しくあった。
「私と……!」
 弾かれたように口をついて出た言葉は、何よりカグヤの本音だった。それはエルーカとしてのものではなく、カグヤとしての希望だったのだ。
「私と契約して……! そうすればこれからもずっと消えずにいられるわ!」
 しかし、精霊は間をおかずにかぶりを振る。
「姐さんならきっとそう仰るだろうと思うていました。ふふ、期待通りでありんすなぁ」
「じゃあ、」
「でも、わっちはこの地に殉じたいのでありんす。――ご覧くださいまし。この土地はこれからまるで別の場所へと転成するのでありんすえ。もはやわっちの出る幕ではありんせん」
「……でも!」
 なんとしてでも引き留めようと試みみるカグヤに、精霊は微笑み、言葉を継げた。
「わっちの役目はここまででありんす。……でも、カグヤ姐さん。主さんの御役目はまだまだこの先も長く続いていくものでありんしょう?」
「そうだけど……!」
 言って目を伏せるカグヤに、精霊はそっと細い指を伸ばしてよこす。不思議と、仄かな温もりをもった指先がカグヤの頬を撫ぜた。
「この辻には、墓標を持たぬ死者や罪科を犯し埋められた者たちが多く埋められておりんす。長の間、ここを行き交う人間たちによって踏み固められ、彼らは自然と上に迷い出るのを防がれていたのでありんすえ。でも、此度の変動。これが死者を上に呼び起こすことに通じたのでありんす」
「それをあなたが治めていた」
「そんな大層なことをしてきたつもりもござんせんが」
 カグヤの言葉に、女はころころと笑う。
「――わっちは、カグヤにお伝えしたいことがありんして、ここまで堪え残ってきたのでありんすよ」
「……私に伝えたいこと?」
 伏せていた目を持ち上げて女をみやる。女はまっすぐにカグヤの顔を覗きこみ、大切な友人を見るような眼差しで、カグヤの髪を優しく撫ぜた。その指先の動きに合わせるように、カグヤの黒髪が月の輝きにも似た銀色へと変じていく。
「いつか、わっちが月の姫さんの話を聴かせた折、姐さんはひどく歎いておりんした。それはたぶん、御自分の身を姫さんの境遇とを重ね見たがゆえでありんしょう?」
「……私はこれまでたくさんの人たちと触れ合ってきたわ。……でも、彼らと同じ時の中に身を置いているのに、私は決して彼らと同じ道を歩むことはないの」
 それは孤独だ。年老い死して往く彼らと、エルーカであり続ける限り、おそらくは死を迎えることはないであろう自分。そこに生じる絶対的な差異。――寂しい、と。そう思ったことがないわけがない。
 憂えるカグヤの心を知ってか、精霊はゆっくりと、言い聞かせるような口調で言葉を編んだ。
「確かに、月の姫さんは人とは交わらぬ道を歩んでいたかもしれんせん。でも、それでも人の心から消えることもなく、今もこうして伝えられているのでありんすえ。それは姐さんも同じはず。例え同じ道を歩めずとも、触れ合ってきた人びとの心にはカグヤ、主さんが強く刻まれているはずなのでありんす。カグヤが人びとを見つめ続ければ、人びともカグヤを見つめ返してくれるはずでありんす」
 言って、精霊はにこりと微笑む。
 風が流れ、精霊の姿がかすかに揺らいだ。
「わっちも、ここで姿こそ消えるかもしれんせんが、心はいつまでも主さんと共にありんすえ。――カグヤ、主さんは決して、片時も孤独ではありんせん」
「……孤独じゃ、ない……?」
 返し、精霊の指に触れようとした矢先。
 一陣の強い風が吹き流れ、空に輝く月が雲に覆い隠された。と、同時、精霊の姿もまた掻き消されるようにして眼前から消えたのだ。
「――いかないで!」
 ずっと、ここに。共に、あり続けてほしい。
 強く願うカグヤの声に、精霊はもう応えてはくれなかった。
 辺りには無音の闇が広がり、精霊の声に代わって現れだしたのは無数の異形たち――これまで精霊の力によって抑えられてきたのであろう魍魎たちが次々と姿を見せ始めたのだ。
 魍魎たちの咆哮が闇を裂く。
 カグヤは、今しがたまで精霊の指が触れていた頬に自らの指を這わせた後、静かに、ゆっくりと、言葉を詠唱した。
 眠らせるのだ、彼らも。精霊はこの地と共に殉じると言っていた。
「……これで、いいのよね?」
 誰にともなく呟き、燃え盛る浄化の焔を見る。
 焔は藤の古木の根ごと、辺り一面の大地を灼いている。焔が生み出す風がカグヤの銀色の髪を巻き上げ、上空にかかる雲をも薙ぎ払い、月が姿を見せていた。
 浄化されていく魍魎たちの叫びが轟き、しかしやがてそれも絶えていく。
 
 カグヤ。主さんは決して、片時も孤独ではありんせん。

 精霊の声が耳に触れたように思えて、カグヤは咄嗟に後ろを振り向いた。
 何もない闇の中、藤の花弁が幾つか、風に吹かれ舞っているような気がした。
  

クリエイターコメントお届けが大変遅れましたこと、心からお詫びいたします。お待たせしてしまい、申し訳ありません。

いただいたオファー文、明治初期というキーワードに心ときめかせていただきました。明治〜大正という時代背景は、個人的にもとても好みなものであったりします。こっそりとそんな空気が出せればと思い、小物を挟み入れてみたりしました。

無音の闇をうまく描写できていればいいなと思います。
また、カメラは今回、一台だけ、場所も固定して設置した感じで描写してみましたが、いかがでしたでしょうか。

お気に召していただければ幸いです。
公開日時2009-02-15(日) 13:00
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