哀しげな眼をした女だった。今にも泣き崩れてしまいそうな表情を浮かべていた。助けて、と。呟く声が、今にも聴こえてきそうなほどの静寂がそこにあった。
街を包む一連の惨状は、銀幕市という街が今のように栄えるよりもずっと以前から住み続けてきていた人間たちの足をも遠ざけ始めていた。市外へと引越していった者たちが残した家々はそこかしこに見受けられ、そういった空き家に無断で住み着く者が出てくるといった流れも、最近ではけして珍しい現象でもなくなりつつある。
リョウ・セレスタイトは空き家が並び続く一郭を歩いていた。タバコの煙が頼りなく宙に浮かび消えていく。街灯は風が吹くたびにジリジリと小さな音をたてて揺らめき、けして広くはない道は、今しも闇が落ちて広がりそうだ。
夜歩きをしていただけだった。仕事が非番だったということもあり、バーに足を運び酒をいくらか煽ってみたはいいが、妙に気が冴えて眠れそうにもなく、気の向くままふらふらと見知らぬ細い路地を歩き進めていたのだ。
吸い終えたタバコを携帯してきた灰皿の中に押し込め、小さく息を吐く。見るとはなしに時計に目を落とす。針はとっくに日付をまたいでいた。
がらんとした空き家には当然のことながら灯はなく、人気もまるで感じられない。新月の晩だったのか、仰ぐ空には星の小さなひらめきこそ見受けられるものの、月の姿はない。
「……戻るか」
呟き、きびすを返しかけた、その時だった。
リョウの耳が、人気のない空き家の一軒の中から小さな物音がしたのを拾い聞いたのだ。
歩みかけた足を止めて音がした家に視線を向ける。
ガタ、ガタ
音は確かに聴こえる。風のせいかもしれない。最近では空き家となった家に無断で住み着く浮浪者も少なくない。だが、それと同じくらい、空き巣を狙った者の侵入もまた頻発しているのだ。
確かめてみる必要はあるだろう。リョウは戻りかけていた歩みを、その家に向けなおした。
無人の家の中には家具などはひとつも残されておらず、玄関も施錠されたままになっていた。適度な広さをもった庭に回ってみる。雨戸は開かれたままになっていて、ガラスは割られていた。食物か何かが腐敗したような臭いが中から漏れ出てきている。――やはり浮浪者が住み着いているのだろうか。思い、リョウは静かにガラス戸に手をかけ、静かに引き開けた。そうして、家の中にある臭気の原因が腐敗した食物が放つそれのせいばかりでないのを知ったのだ。
幾度となく感じたことのある臭気。リョウは咄嗟にコートの袖で鼻口を覆い、表情を曇らせた。――人間の屍が放つ血液や臓物、そういったものが放つ臭い。畳には古くはない血液が染みていて、ともすれば踏み出す足下は滑り取られてしまいそうだ。
居間らしい部屋を通り、襖で仕切られた隣の部屋へ。
一息に開いた襖の向こうには女の姿があった。襤褸(ぼろ)を身につけた、哀れなほどに痩せ細った女。女はリョウが襖を開けるのと同時に弾かれたように振り向き、リョウの顔を見た。リョウもまた女の顔を見据え、そうして知らず息を飲んだ。
二十代の前半、といった年頃だろうか。あるいは十代かもしれない。闇の中では今ひとつ判然としないが、振り向いたその顔には明らかに怯えが滲んでいた。
非番ということもあり、リョウは丸腰だ。しかし引くには及ばない。一歩を踏み込み、リョウは改めて女の手にあるものを検めた。
「それは――」
問いかけて言葉を飲む。
女が手にしているのは人間の腕だった。女のすぐ傍には手足をもぎ取られた中年の男が転がっている。何かを言いたげにぽっかりと口を開けたその男は、確かめるまでもなく絶命していた。
「……ひ」
女が突然引き攣れたような声をあげて立ち上がる。口元には血肉がこびりついていた。
「人を……喰ってたのか」
リョウが訊ねた、次の瞬間。
女は思い出したように目を見開き、手にしていた腕に目を落として悲鳴をあげた。
「たすけ、……助けてっ……!!」
言って、女は逃げ出した。ぼろぼろと涙をこぼし、悲鳴にも似た泣き声をあげながら。
リョウは女を追い家の裏手へと走り出たが、女の姿も気配もすでに遠くなっていた。いや、それよりも。――なぜか、女を追おうとする意思よりも、女が見せた表情の方がリョウの心を捕らえて離さなかった。
人を喰らっていた。その猟奇性に反し、女が浮かべていた表情には心の底からの絶望が満ち広がっていた。恐怖と絶望と、そうして哀しみと。そして、この世のものとは思えないほどに整った、美しい顔。
リョウは小さな舌打ちをひとつ吐くと、ポケットにしまいこんでいた携帯電話を手にとった。ひとまずはこの惨事を報せなくてはならない。女は逃してしまったが、顔は確かに記憶している。報告後に追えばいい。痕跡は必ず残されているはずなのだから。
対策課が動き始めたのは、その事件があった日から数日後のことだった。リョウが目撃した女が起こしているものと思われる同種の事件が頻発しているのだ。いずれも定住所を持たぬ者たちばかりで、空き家に無断で住み着いていた者だった。年の幅は様々だが、男ばかりが犠牲となっている。何か、そう、例えば獣やそういったものに喰い散らかされたような屍が残された、無残な事件だ。数人ほど、女に襲われかけたというムービースターも対策課に転がり込んできて、諸々で忙殺されている対策課も腰を持ち上げたというところだ。
リョウが席を置くDP(Division Psychic 刑事部能力捜査課)にも依頼の声はあったが、リョウはその依頼とは別に、独自の判断で動くことにした。あの時女を逃したのはリョウ自身の失態なのだし、自分は一連の事件の犯人だろうと思われる女の顔を知っている唯一の存在だ。……いや、何より。
忘れられないのだ。――あの夜に見た女が浮かべていたあの哀切に満ちた表情を。助けてと泣き叫んだあの悲痛を。
独自に捜査を始めてから二日ほどが過ぎた。初めに女と遭遇した家がある地区とは別の地区を捜査していたリョウは、その地域を根城にしている浮浪者たちから情報を仕入れるのに成功していた。報酬代わりにと差し出したウィスキーの瓶を受け取りながら、彼らは口々に言い出したのだ。
橋の下にある襤褸屋に若い女が住み着いている。身につけている衣服は現代のものではなく、おそらくはムービースターだろうと思われる。女は日中ほとんどその襤褸屋に潜んでいるか、あるいは他のどこかにいるのかもしれない。いずれにせよ滅多に女の姿を目にすることはできない。
が、女にちょっかいを出そうとして近付いた男たちは皆ことごとくに消えている。その後変わり果てた姿として発見されているのだという。――女は男たちを殺して喰っているのだ。浮浪者たちはそう言って身を震わせた。
教えられた橋に赴き、件(くだん)の襤褸屋を見つけた。人が住むにはおよそ不向きな造りの、物置のような建物だった。その中には誰の姿もなかった。が、確かに誰かが住んでいるであろう痕跡は見受けられた。もっとも、住んでいるというよりは潜んでいるといった方がしっくりとくるようなものであったが。
翌夜、空に薄い月が白々と浮かび始めた頃。
川岸に転がる小さな石を踏みながら何者かが歩き近付いてくるのが聴こえた。リョウは吸っていたタバコを灰皿に押しやって火を消し、音のする方に視線を寄せて目を細ませる。
あの女だった。
この寒空の下、見ているこちらまで肌寒くなってしまいそうなほどの薄い襤褸をまとい、長く伸びた黒髪を後ろでひとつに結いまとめている。月光のような白い肌は闇の中にあっても目につき、その顔の美しさもまた際立って美しいものと知れた。
すうと伸びた切れ長の目、赤い花のような唇。折れそうなほどに細い体躯、すらりと伸びる四肢。何よりも目を引くのは、女の目に落とされているもの。――それは虚無だ。見る者を引きこみ飲み込んでしまいそうなほどの虚無を、女は全身から匂い立たせている。
男たちが吸い寄せられてしまうのも理解できてしまいそうなほどの。それは絶望的なまでの美貌だった。
「……ようやく会えたな」
襤褸屋の中に身を潜めようとした女に向けて声をかけ、リョウは数歩を歩み進めた。女は咄嗟にリョウを振り向いて目を見開き、一瞬、何かを言おうとして口を開きかける。しかし次のときには再びきびすを返し、弾かれたように走り出そうとした。が、
「“おまえはその場から動けない”」
女が走り出すよりも先に、リョウの言葉は紡がれていた。女の足は石に張り付いたようになり、そこからはもうひとつも動けずにいた。
リョウは新しいタバコに火を点けて煙を吐き出し、女の目をまっすぐに見据えたままでゆっくりと歩みを進める。―-ヒュプノシス(催眠)。言葉によって対象を縛る、リョウに備わっている能力を用いたのだ。言霊という考え方が日本には在るというが、まったくそれに通じているものかもしれない。
「悪いね。“おまえはもう俺から逃げられない”」
言いながら煙を吐く。女は、初めこそ気丈な目でリョウを睨みつけていたが、ほどなくしてリョウの言葉が事実であるのを知ったのか、大きく肩を落とし、その場に座り込み目を伏せた。
「……いいわ。逃げ続けるのももう疲れたし」
「なあ、訊いていいか。おまえ、なんで人間を喰う?」
訊ねたリョウに、女は目を伏せたままで応える。
「なぜ? ……じゃああなたはどうして食事を摂るの? 水を飲むの? 睡眠をとるの?」
「それは……生きるためだろう」
返し、リョウはふと口をつぐむ。
女は伏せていた目を持ち上げてまっすぐにリョウを仰ぎ見ている。絶望ばかりが深く彩った、それ以外には何をも映していない眼光だ。
「私もそう。生きるため。――生きるためには人間を喰わなくてはならない」
殺さなくてはならない。そう小さく続け、女は深い闇に落ちた眼差しをすうと細め、首をかしげた。
「あなたは言葉を使うことができるのね」
「……ああ」
「私を殺しに来てくれたの?」
「……いや」
そうだとも、違うとも言えない。リョウは再び口をつぐむ。
川の水を撫でて吹く風はコートを身につけていても肌寒く感じられる。まして、女は薄着だ。これでは身体を壊してしまいかねない。ふとそう考えついていた自分に、リョウは思わず目を細めた。
「とりあえず、これ着とけよ」
言って、リョウは羽織っていたコートを脱ぎ、女の身体にかけた。女は驚いたような顔をしてリョウを見上げ、次いで静かに表情を曇らせた。
「……ねぇ。私、私、……もう、人を殺したくない。……食べたくない。……でも、……死ぬのは怖い」
女は声を震わせて俯き、リョウが羽織らせてくれたコートを握りしめた。
それから女はリョウの問いかけに応じて静かに答えた。自分は人を攫い喰らう鬼と呼ばれる母の子として生まれついたこと。母は自分が幼いころに山狩りに遭い、命を落としたこと。それを機に『人を喰う』という行為は人間社会においては、けしてしてはならない非道であったことを知り、己が恐ろしく思えたのだということ。
「でも、自分で自分を抑えられなくなってしまうのよ。……何度も何度も、自分で自分の命を絶とうともしたわ。でも、それも怖ろしかった……」
絶望的な嘆息を落とし、女は両手で顔を覆う。
「終わりにしたい……ああ……」
呟いた女に、リョウはくゆらせていたタバコの火を消し、深い海の底の色にも似た青い双眸を揺らして伏せた。
女は自らの終わりを望んでいる。
確かに、一般的な人間社会においては人間を喰うという行為はけして赦されるものではない。人道に反した、汚らわしい行為だとも言える。しかし、眼前にいる女は人を喰わねば生き長らえていくことのできない種族の生き残りだ。彼女たちにしてみれば、ただ食事を摂っていただけのこと。人間が存えるために獣を捕り食っているのと、おそらくは何ら変わらない。それは果たして罪科と呼べるものなのだろうか。
――しかし
「死にたい、のか」
リョウは静かに訊ねた。
女は泣き腫らした目でリョウを仰ぎ、少しの間逡巡して、小さく、――見落としてしまいそうなほどに小さく、首を縦に動かした。
「これ以上、罪のない人を殺めたくはないわ。……お願い」
哀切に満ちた女の顔がリョウの瞳を覗きこむ。
リョウは小さなため息をひとつ漏らした後、静かに目を閉じた。心にある迷いを……女の命を終わらせてやることが、果たして正しい結末であるのかどうか、未だ浮かぶ迷いを打ち払うように。
「分かった」
肯き、リョウは伏せていた眼差しをゆっくりと持ち上げる。
女は縋るような目でリョウを見上げ、そうして初めて、小さく微笑んだ。
風が吹いている。
リョウは再び目を閉じた。
どこかに梅の木があるのだろうか。仄かに漂い流れてくるその気配に、リョウはゆったりと息を整える。
「風やしるいづくにさける梅ならんただ香ばかりの春のよの闇」
詠んだそれは草根集という書で目にした詩だ。時節的にも、女を送るものとして相応しいだろうかと思えたのだ。
女はリョウの声に耳を寄せ、経文を聞き入るかのように、両手を胸の前で合わせる。
「梅の匂い……」
懐かしい、と。女はそう呟いた。
「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそみえね香やはかくるる」
リョウは続けてそう詠みながら、静かに女の傍へと歩み寄る。
女は、悲愴な表情を離れ、今はひどく穏やかな、安堵に満ちた表情を浮かべていた。しきりに母を口にしている。――母と共に過ごしていたという山を懐かしく思い浮かべているのだろうか。
ジャケットから短いナイフを取り出したリョウは、それをかざしながら、恋人を抱きしめるときのように優しく、両腕で女を抱き寄せる。女は何ら抵抗するでもなく、ただ落ちる花弁のようにふわりと、リョウの腕の中に身をあずけてきた。
枯れ枝のように細く、心もとない身体だ。食事はおそらく、必要量よりもかなり少なく押さえていたのかもしれない。
「……ありがとう」
腕の中、女がふいにそう告げた。やわらかな笑顔のままだった。
「……礼を言われる筋合いでもないがな」
返し、リョウはナイフを女の首に突き立てた。女は一瞬だけびくんと身体を震わせ、小さく息を吐く。
「これで……終われる」
風が吹く。先ほどまで薄く感じられていた梅の気配は、今はわずかほどにも窺えなくなっていた。
ナイフをしまい、立ち上がる。と、リョウの腕から一巻きのフィルムがかさりと音を立てて石の上に落ちた。それを拾い上げながら、リョウは空を仰ぎ見た。
白々と光る細い月。
小さなため息をひとつ吐いた後、リョウはタバコを口に運び火を点けた。