★ 狭間に立ち居て ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-4934 オファー日2008-10-12(日) 15:00
オファーPC 京秋(cuyy7330) ムービースター 男 38歳 探偵、影狩り
<ノベル>

■Prologue■ in the Evening

 「やあ、ごきげんよう。良い黄昏だね」
 その男は夕暮れの薄闇から溶け出すように佇んでいた。
 袋小路の路地裏にいつの間に、と誰もが思うだろう。しかし静かに微笑む謎めいた双眸がそんな野暮な質問を許さない。
 まるで深い深い湖のようで。静謐なのに、澄んでいるのに、全く底が見えない。気付かぬままにすうっと吸い込まれてしまいそうな……。そんな薄ら寒い錯覚にさえ捉われるかのようだ。
 三方をビルに包囲された路地裏は薄暗く、湿っている。賑やかな大通りから一本逸れただけのこの場所を支配するのは緩慢な赤い光と濃く深い影、そして無機質な寂寞だけ。物静かで優雅な彼にはひどく不似合いな空間だ。
 「ああ――ここは、似ているね」
 彼は軽く肩をすくめて黒い瞳を眇めた。いや、よくよく見ると完全な黒ではないようだ。モノクルに覆われた右目は深い漆黒だが、左目は光の当たり方によって黒から紫へと微妙に色合いを変える。
 不思議な色だ。初めて会ったはずなのに、その艶やかな色彩には奇妙な既視感を覚える。
 「そう。ロケーションエリア、というのだったかな?」
 誰に同意を求めるでもなく、彼は顎に手を当ててミステリアスな微笑を浮かべる。なぜだろう。そんな何気ないしぐさにすら気品が満ちていて、はっと目を引かれるほど美しいのだ。
 「この場所は私のロケーションエリアに似ているね。しかしこんな場所は街のどこにでもある。人間が息づく限り、光の当たる場所と当たらない場所には自ずと線引きがなされるものだ。望むと望まざるとにかかわらず……そうだね、もはや運命という範疇を超越した、自然の摂理と呼ぶべき現象なのかも知れない」
 そして、と言葉を切って彼は微笑む。
 冗長な語り口も、わざとそうしているのではないかと思うような婉曲的な物言いも、深い声と緩やかな抑揚のおかげで不快には感じない。教会の神父のような柔らかなバリトンは人に話を聞かせるために持って生まれたものなのだろうか。
 「人間の心もまた然り。そうだろう?」
 だが、と形の良い唇にもう一度微笑が乗る。
 「だからこそ私は人間が好きなのだよ」
 ざあと風が起こり、静寂が乱れた。
 風に驚いたのだろうか。電線にずらりと並んだ鴉の群れがギャアギャアと声を上げて飛び立っていく。
 「ほら、見たまえ。闇が闇へと帰って行くよ。彼らは彼らの居るべき場所をきちんとわきまえている。賢明なことじゃないか。光は光の当たる場所に、闇は真っ暗な闇の中に。互いの領域を侵すこともたがえることもなく……それが一番の幸せだとは思わないかね?」
 黒い群れは急き立てられるように編隊を組み、とろけそうな赤い太陽の中でどんどん小さくなっていく。
 「もっとも」
 ふと視線を戻した彼は自嘲気味に微笑んだ。「光でも闇でもないものにはこの黄昏がお似合いだけれども」
 太陽はじわじわと沈んでいく。夜の訪れは遠くない。じきにすべてが闇に覆われるだろう。
 「ああ……思い出すね、あの時のことを。きっとあの日もこんな黄昏だったのだろう」
 黒と紫の中間で、特徴的な左目がふと追憶に細められる。
 緩やかに濃くなっていく薄闇の中、アスファルトの上に伸びた彼の影がざわりと動いたような気がした。
 ほんの刹那形をなしたそれは翼のようで――黒くうごめく風切羽は、まるで鴉のようで。
 「これも何かの縁だ。聞いてくれるかい? なに、他愛のない思い出話だよ。私がこの街に“実体化”する前のね」
 ああ、そうだ。
 黒から紫へと色合いを変える彼の左目は、つやつやとした鴉の羽に似ていなくもない。



 さて、何から話そうか。
 発端は奇怪な連続殺人だった。それも若くて美しい女性ばかりが狙われたものだから、世間は犯人を男だと推測したようだ。
 どこが奇怪かって?
 ――手口が特徴的で、ひどく凄惨だったのだよ。
 髪の毛をね。むしるのだよ。生きたままむしり取るのだよ、ぶちぶちと。
 ああ……言い忘れていたが、被害者たちにはもうひとつ共通点があってね。彼女たちは皆、長く美しい黒髪の持ち主だったんだ。
 被害者に後ろからのしかかり、あるいは馬乗りになって髪の毛をむしる。髪をむしり尽くした後で紐状のもので首を絞めて殺す。そんな手口だった。財布等の持ち物は手つかずのまま残され、抵抗した際に少し殴られたようだが性的暴行の形跡はない。愉快犯か異常者の犯行ではないかという見方が大半だった。美しい髪の毛を蒐集したいがための凶行ではないかと言われてね。
 どうして私がその事件に関わることになったかって?
 そうそう、自己紹介が遅れたね。私は探偵なのだよ。被害者の遺族から依頼を受けて調査に乗り出すことになったというわけさ。



■scene 1■ They are mysterious

 からからからから、かぽかぽかぽかぽ。
 石畳が敷き詰められた道を華美な馬車が通り過ぎる。レースで縁取られたカーテンの隙間から悪戯っぽく顔をのぞかせるのは、羽飾りのついた帽子をかぶり、ふんわりとした夜会服に身を包んだ貴婦人だ。
 京秋が戯れに手を振ってやると、頬を染めた彼女はさっとカーテンの陰に隠れてしまう。
 時刻は既に日暮れ時。これから洋館の舞踏会にでも出かけるのだろう。顔を派手に塗りたくって髪の毛を縛り上げ、毒々しい色の紅を唇に乗せた彼女のいでたちはひどく背伸びしていて、滑稽ですらある。
 (もちろん、それが悪いということではないけれども)
 単に嗜好の問題だ。優劣や良し悪しの話ではない。外つ国の文明が怒涛のごとく押し寄せているこの昨今、もはやああいった装いは一般的になっている。
 「まあ、華やかな場所に立つ人間には華やかさが必要ということかな」
 私には縁のない話だが。
 そう独りごちて靴の踵を鳴らし、豪奢な馬車が走り去ったのとは逆の方角へと足を向けた。きらびやかな洋館が待つ方向ではなく、緩慢な薄闇に染まる街の中へと。
 眩い太陽が支配する昼は苦手だ。月のない闇夜も好かぬ。光と闇の狭間で、どちらにも染まり切れぬ男は今日も静かにたゆたう。



 その依頼人が京秋の元を訪れたのは二日ほど前のことだった。
 歳の頃は二十代前半といったところであろうか。室内で帽子も取ろうとしない彼女の服装は奇妙といえば奇妙ではあった。
 「その連続殺人事件のことは聞き及んでおりますが――」
 こじんまりとした、しかし小綺麗な探偵事務所で京秋は緩やかに首をかしげる。
 「警察が全力で捜査しているとのこと。なぜ私のような探偵などに?」
 「捜査はほとんど進捗していないというお話じゃありませんか。もう七人も殺されているというのに」
 色の対比のせいもあってか、柔らかなベージュの応接セットの中で、依頼人はどこか浮き上がって見えた。
 まず目を引くのが漆黒の帽子だ。つばの大きな帽子を目深にかぶっているため、顔立ちすら判然としない。髪の毛は短いか一つにまとめて帽子の中に押し込むかしてあるようで、白い頬と顎だけが黒いつばの下に浮かんでいる。しかし鋭利なまでに細く尖った顎が彼女の風貌を特徴づけていた。
 帽子のつばの縁からは貴人の顔を隠すようなレースの覆いが下がっていた。膝の上で組まれた華奢な手を覆うのも繊細で丁寧に編み込まれた黒いレースの手袋だ。首元から足首までをすっぽりと覆う黒いワンピースはレトロな型だが、上品な光沢のあるこの生地はベルベットだろうか。
 そう――全身が黒なのである。まるで葬式にでも参列するかのように。
 「最初の被害者はわたくしの妹なんです」
 という彼女の声があまりにもさりげなく抑揚がなかったものだから、京秋は思わずひょいと眉を持ち上げた。
 こちらを、と依頼人が差し出したのは一枚の写真だった。半ばセピア色に褪せたモノクロの写真の中で一人の女性が微笑んでいる。
 「ほう。綺麗な女性ですね」
 思わず素直な感想が漏れた。二十歳そこそこといったところだろう。滑らかな頬と長く艶やかな黒髪は写真の中でさえも匂い立つように美しい。整った顔立ちはどこか貴族的なのに朗らかな口許と目許は人なつっこく、その好ましい落差が一層彼女を魅力的に見せている。
 「そう。妹はとても美しかった。それがあんな姿に――」
 依頼人の表情は相変わらず帽子とレースに阻まれ、読み取れない。しかし細く尖った顎と薄い唇がかすかに震えるのが見てとれた。
 「変わり果てた妹を見て父は泣き崩れ、母は卒倒してしまいました」
 長く美しかった黒髪を容赦なくむしり取られ、頭部に赤黒く凝った血とほんの少しの髪の毛をこびりつかせて死んでいた被害者はまるで落ち武者のようだったという。その上紐状の凶器で執拗に絞め上げられた頸部はスズメバチの胴のようにくびれ、整った顔は紫色に醜く腫れ上がり、苦悶の表情をこれでもかというほど凄絶に留めていたそうだ。
 「犯人は男で、髪の毛を蒐集しているんじゃないかと世間では言われていますわね。今頃妹の髪の毛を見て悦に入っているのかと思うと……虫酸が走る」
 一刻も早く犯人を特定して欲しい。謎めいた探偵は謎めいた女からの依頼を快く引き受けた。
 被害者の姉だからと殊更に同情したわけではない。どんな仕事も等しく仕事。同様に、どんな人間も等しく人間である。人間という愛おしい存在が自分に助けを求めるのならそれを拒む理由など存在しない。京秋を動かすのはそんな真摯で、素朴ですらある思いだ。
 (もっとも、犯人も人間……か)
 犯人はたくさんの人間を傷つけた。被害者を、彼女たちに連なる多くの人間を傷つけた。
 しかし犯人もまた人間だ。救えるものなら救ってやれないだろうか。
 (やれやれ)
 一瞬そんなことまで考えてしまった己を自嘲し、軽くかぶりを振る。
 (これが“甘さ”というものなのだろうかね)
 しかし、そんな感慨はすぐに吹き飛ぶことになったのだ。



 豪奢な馬車を見送って間もなく、日は沈んだ。代わりに昇ったのは十三夜月。真ん丸に見えてもほんの少し欠けている月だ。
 満月のようで満月でない、決して満月になることはできない月。自分にはお似合いではないか。平凡な月にすらんな皮肉な感慨が込み上げる。
 依頼を受けた探偵がまず試みたのはオーソドックスな方法だった。即ち、今まで起こった事件の現場の踏査である。
 女性たちが殺されたのは決まって夜だ。現場は田園地帯の畦道だったり街灯のない細い通りだったりとまちまちだが、いずれも周囲に建物がなく、人通りが極端に少ない場所であるという点だけは共通している。
 もっとも、犯罪者が人目につかない場所を犯行現場に選ぶのはごくごく当然であり、注目すべきことではないだろう。それでも実際に現場を訪れてみれば何か得るものがあるかも知れない。
 (地道な作業を厭うようではプロフェッショナルとは言えないからね)
 中途半端な月光を浴び、熟練した探偵は影から影へと滑らかに渡り歩く。泳ぐように、あるいはワルツのステップを踏むかのように、優雅に、流麗に。彼に音もなく付き従う影がちらちらと揺れ、硬質な嘴や大きな翼のような形を取ったように見えたのはきっと錯覚だ。

 やがて犯行現場のひとつである小路に足を踏み入れた時だった。
 その鋭い刃が、風を切るような唸りを上げて襲いかかって来たのは。

 油断などであるはずがない。あえて言うなら相手が悪かった。意地悪に気配を断って待ち伏せていた相手を察知できなかったとしても、それをもって京秋が未熟だと断じるのはあまりに不条理であろう。
 「誰だ」
 現に、京秋は鋭く誰何する余裕まで見せながら第一撃をかわしたのだ。しかし襲撃者はすぐに態勢を立て直し、研ぎ澄まされた刃をふるう。黒い髪の毛が数本切れて闇に舞った。頭上で閃く軌跡を冷静に目で追い、京秋はそれが刃ではなく長い爪であることを知る。
 暗闇の中、襲撃者の眼がちかりと緑色に瞬く。
 そのいたずらっぽい瞳の主に瞬時に思い当たり、沈着な探偵の面(おもて)にかすかに苦い色が差した。

 タタン、タン、タン。
 タン、タン、タタ、タン。
 月も朧な無音の小路で、ふたつの影がダンスを踊る。

 京秋は華麗な体さばきで鮮やかに攻撃をかわしていく。右に左に、時には後ろに、靴の踵をリズミカルに打ち鳴らしつつ反撃の機をうかがう。一方、襲撃者はどこか楽しげだ。左に右に、時には前に。しなやかな身のこなしで踊るように爪を繰り出す。素早いがやや大ぶりなその攻撃は京秋の腕前を確かめるかのようで――あるいは、わざと京秋に逃げ道を与えているかのようにすら見えて。
 
 「いい加減にしたまえ」
 タタンタ、タン――タンッ。
 軽快なステップが止まり、再び静寂が落ちる。
 長い爪は京秋の眉間に。漆黒の刃は襲撃者の喉元に。
 互いの得物を互いの急所に突きつけ、両者はぴたりと動きを止めた。
 「あいにくだが戯れに付き合ってやる気も暇もない。私は忙しいのだよ、奔放で野蛮な君とは違ってね」
 巨大な羽を模した愛剣・響(ユラ)を握る手を緩めず、モノクルの奥の右目を軽く眇める。
 だが、相手は臆するでも怯えるでもなく、くすりと悪戯っぽく含み笑いを返すのだ。
 「なぁにもう、そんなしかめっ面して」
 月が気まぐれを起こしたのだろうか。光もろくに差さなかった小路に、冴え冴えとした月光がさあと音を立てて降り注ぐ。
 「久し振りの再会だっていうのに。相変わらずつれないんだから、秋ったら」
 透き通った月明かりが照らし出したのは長身の女性だった。緑色の瞳は大粒で、闇の中でも油断なく輝いている。均整の取れた体つきとしなやかな動作、綺麗な逆三角形のラインをえがく小さな顎はまるで猫のようだ。
 「どうやら私は存外に正直者らしい。好き嫌いがはっきり顔に出てしまうようだ」
 「そうね。好きな女にわざと意地悪するのが男のコだものね?」
 小首をかしげ、亜麻色の髪をふわりと揺らして微笑む様などは並の男なら簡単に惑わされてしまうだろう。しかし京秋は橙香(とうか)というこの女がどうしても苦手だ。先天的、本能的とでもいうべき拒絶、嫌悪感がどうしても抜けない。できるだけ接触しないように努めているつもりなのだが、探偵業の傍らで続ける仕事の同業者として顔を合わせる機会がなぜか多い。
 「用があるのならさっさとしてくれないか。先程も言った通り、私は忙しいのだよ」
 それでも京秋は穏やかな物腰を決して崩さない。もっとも、静かな微笑の中ににほんの少し不快と苛立ちの色を張りつかせてはいたが。
 「了解。じゃあ、お互いに物騒な物はしまいましょ? これじゃあ落ち着いて話もできないもの」
 京秋は肯いて剣を鞘におさめ、橙香は鈍く輝く爪を文字通り“引っ込めた”。彼女の最大の武器であるそれは彼女自身の生爪に他ならない。彼女の意志ひとつで自在に伸縮することが可能だ。
 「どうしてこんな時間にこんな場所に……と、尋ねるまでもないかしらね」
 「ということは、君も例の連続殺人を?」
 「ご名答。気になったものだから」
 しなやかな指先が瞬く。次の瞬間、白い手の中にひらりと現れ出たのは数枚の写真であった。一連の事件の被害者たちの写真のようだ。
 「ねえ秋。あなた、どう思う?」
 彼女の物言いは良く言えばいつも単刀直入、悪く言えば常に言葉足らずだ。しかしそれを注意したところでこの気まぐれな女は意にも介すまい。
 「それを今調べている」
 だから京秋も最低限の答えしか返さない。
 「誰の仕業だと思う?」
 「犯人が分からないから調査しているところなのだがね」
 「んん、もう」
 そういうことじゃなくて、と橙香はじれったそうに唇を尖らせる。「これが本当に“人間の”仕業だと思うかって訊いてるのよ」
 京秋は返答の代わりにぴくりと片眉を持ち上げてみせた。
 「これ、被害者の頭部を拡大した写真なんだけど。ああ、もちろん入手経路は秘密よ。ついでにこれは記者連中にも発表されてない極秘事項だから、あたしと秋だけの秘密にしてね」
 艶っぽく片目をつぶってみせる橙香の顔には目もくれず、京秋は写真を受け取った。
 「……成程ね」
 そしてすぐに彼女の言わんとすることを察した。
 奇妙に青々とした頭部に赤黒い出血や青黒い内出血痕がくっきりと貼りつき、その隙間にぽつぽつと髪の毛が残っている様はひどく凄惨だ。しかしその残忍さに動じることなく観察すれば分かるだろう。――残された髪の毛が、どれも不自然に爛れていることに。
 「どうやったらこうなると思う?」
 緑色の瞳がじっと京秋を見つめている。
 「少なくとも、人間がただ手でむしったのではこんなふうにはならないだろうね」
 「警察もそう思って調べたみたい。薬品とは違うみたいだけど、成分がはっきり分からないって。ただ……強いて言うなら消化酵素に似ているらしいの、たとえば唾液みたいな。被害者の頭皮や着衣からも同様のものが検出されたそうよ」
 「ふむ。しかし、成分が分からないということは少なくとも人間の体液や分泌物ではないわけだ」
 橙香に背を向け、薄い月明かりの中に写真をかざした。仮に唾液であるとするなら、犯人は被害者の髪の毛を手でむしり取ったのではなく口で噛みちぎったということになる。
 (だとすれば尋常ではないな)
 よほどの恨みがあるのか。被害者に怨恨を抱くような人間がいたという話は耳にしていないが。
 「ひどいじゃない?」
 己が肩と腕をきつく抱き、橙香は声を震わせる。「生きたまま髪の毛をむしり取られた挙句、わけの分からないモノで汚されて……屈辱よ。最大級の屈辱だわ」
 「屈辱」
 静かに首をかしげ、京秋は緩やかに橙香を振り返った。「なぜそこまで? 確かに、髪の毛をむしるという行為は残忍だけれども」
 「髪は女の命なの。顔と同じくらい大事なの、男には分からないでしょうけど。髪の毛を無理矢理むしられるなんて、辱めを受けるのと同じことよ。ましてや首を絞められてあんな醜い顔を晒して死んでいくなんて、耐えられないわ」
 ほう、と京秋は軽く引いた顎に手を添えた。
 (どうやら、些か先入観に捉われていたようだ)
 「秋。気を付けて」
 黙考に沈む京秋の背に橙香がそっと、しかし些か艶めかしいしぐさで唇を押し当てる。
 「きっと『影』が関わってる。女の勘よ」
 『影』の存在は周知されていないが、人間と同じくらい、時にはそれ以上の数が存在していると言われている。妖魔、付喪神のように長い時を経た動物や器物が変化した物や、人間の強い想いが力を得た物など、その在りようは様々だ。時には強く醜い憎悪や猜疑を持つ人間が突如影へと変貌する事もある。
 「気を付ける? なぜだい?」
 振り返った京秋の唇はどこか不敵に持ち上がっていた。「『影』が相手なら遠慮する必要はない。思う存分狩れば良い、そうだろう?」
 人間を傷つけた凶悪な犯人を憎む一方で、犯人もまた人間であるというわずかな迷いが消えなかった。しかし『影』が相手なら躊躇う必要も理由もない。京秋は人間を害する『影』を決して許しはしない。
 人間に害悪を及ぼす『影』のみを狙う『影狩り』。謎多き探偵が持つもうひとつの顔だ。
 「やれやれ。犯人を救えないかと悩んでいた自分が恥ずかしいよ」
 「犯人を救う?」
 「いや、こちらの話だ。それより君には感謝することにしよう。女の勘というものはえてして飛躍的で非論理的に過ぎるが、時には的を射ることもあるようだからね」
 それから、とほんのわずかに微笑をこわばらせながら付け加える。「私には指一本触れるなと口を酸っぱくして言っている筈だが」
 「触ってなんかいないわ。服の上から軽く口づけただけよ、それも背中にね」
 「同じことだ。とにかく金輪際私に触れないでくれたまえ、絶対にだ。寧ろ私に近付くな、いや、二度と私の前に現れないでほしいものだね」



■scene 2■ Encountered

 するり、するり。さらり、さらり。
 (ああ……)
 集めた髪の毛たちが心地良く指の間を滑り落ちていく。絹のような滑らかな感触は陶酔すら呼び起こし、闇の中で恍惚に酔いしれる。
 (もっと。もっと)
 ふわり、ふわり。はらり、はらり。
 両手にすくって宙に放った黒髪たちは天使の羽のように優しく舞い降り、そっと体を包んでくれる。
 ひどく懐かしい手触り。そして、全身を焦がすようなこの激情をどうしてくれよう。
 (もっと。もっと、もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと)
 呪詛のような渇望がねっとりと闇をかき混ぜる。
 そして――今宵も、獲物を求めて外に這い出るのだ。
 毒牙の餌食はほどなくして見つかった。事件があれだけ世間で騒がれているというのに、とっぷりと日が暮れたこの刻限に、往来のほとんど絶えたこの小道を通る愚かな女がいたとは。
 それでも多少は怖がっているようだ。背を丸めるようにして家路を急いでいる様子が見てとれる。
 さりげなく後をつける。気付いた女が立ち止まり、振り返る。それに合わせてこちらも立ち止まる。女が早足になる。こちらも早足になり、つかず離れずの距離を保つ。
 やがて駆け出したのはどちらであったか。
 「ぎゃあ」
 たやすく追いつき、後ろから髪の毛を掴んで引き倒すと女は不格好な悲鳴を上げた。
 ぶぢぢ、ぶぢ。
 艶やかな黒髪に噛みつき、渾身の力で食いちぎる。
 「ぎゃああああ」
 女の悲鳴は潰れたヒキガエルのように醜い。可笑しくなる。顔立ちがこれだけ美しいというのに、上げる悲鳴はこんなにも醜いのか。
 この悲鳴が聞きたいから殺さない。存分に断末魔を叫ばせたいから、生かしたまま髪を奪うのだ。
 ぶぢぶぢぶぢぢぢぶぢぢぶぶぢぢぶぢぶぢぶぢぶぢぶぢぢぢぶぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢ。
 がっちりと噛みつき、ぐるんと顔を回し、ぶちぶちと食いちぎる。美しい髪の毛が無様にちぎれていく感触が歯と舌に伝わる度、甘い快楽が脊髄を貫き、全身をぞくぞくと痺れされる。
 (ああ――)
 狂ってしまいそうだ。骨の髄までとろけてしまいそうだ。阿片を吸うとこんな心持ちになるのだろうかと、そんなことすら考える。
 異常に伸びた犬歯の間から、艶やかな髪の毛が、唾液が、恍惚とともにねっとりと滴り落ちる。
 ああ、見るがいい。あれだけ美しかった女が、今は落ち武者のようではないか。
 もはや悲鳴を上げる気力も失われた女をごろんと仰向けにし、改めて馬乗りになる。懐から取り出したのはあらかじめ用意しておいた細い縄。
 首に巻きつけるとさすがに抵抗に遭ったが、頬を数発張り飛ばしてやるとそれもすぐにやんだ。
 絞め上げる。絞め上げる。
 見る間に醜く膨れ上がっていく女の顔を満足げに見下ろしながら、ただひたすらに絞め上げる……。
 


 その朝、郵便受けには朝刊と一緒に新聞の号外が突っ込まれていた。
 (また、か)
 毎朝の日課である事務所掃除の合間に号外の記事に目を落とし、京秋は思わず嘆息する。
 粗く刷られた紙面は八人目の被害者が出たことを無慈悲に報じていた。夜、人通りのない小路で、またしても若く美しい娘が髪をむしられ首を絞められて殺された。見出しの脇に添えられた顔写真は被害者が黒く長い髪の毛の持ち主であることを告げている。
 (そういえば昨夜は月が出ていなかった……)
 調査は淡々と進んでいた。依頼を受けてからの数日で手がかりは少しずつ積み重なっている。
 事件が起こったのは決まって闇夜だった。月齢こそまちまちであるものの、新月だったり曇天だったり、月のない真っ暗な夜を選んで凶行が繰り返されている。
 有力な目撃証言でも得られれば話は早いのだが、そうは問屋がおろさなかった。深夜、それも人通りの少ない場所ばかりで事件が起こっているのだから無理もない。おまけに被害者七人には外見以外の共通点はなく、その上全員が“普通の女性”だという。怨恨や痴情のもつれという線は薄そうだった。
 (やれやれ。早く良い報告をしたいものだ)
 憔悴しきった依頼人の顔を思い出す度、胸がぐっと苦しくなるような錯覚に捉われる。
 依頼人が次の約束を待たずに事務所を訪れたのは昨日のことだ。相変わらず黒のワンピースに黒い手袋、黒い帽子を身に着けていたが、帽子の下の頬がこけて張りツヤを失っている様子は容易に見てとれた。犯人はまだ捕まらないのかと、彼女は震える声でその質問だけを繰り返した。調査が遅いと責めたりなじったりするようなことこそなかったものの、ひび割れた唇から渇いた溜息がこぼれる様子はどんな罵詈雑言よりもはるかに深く京秋の胸を抉った。
 念入りな掃除を終え、塵一つ落ちていないのを確かめた後で舐めるように号外の記事を読んでいると、来客を告げるベルがからんころんと音を立てた。
 「申し訳ありませんが――」
 受付時間はまだ先であることを告げようとして口をつぐむ。
 入って来たのは、顔と髪の毛を大きな帽子で隠し、喪の色に身を包んだあの依頼人だったのだ。
 「新聞で読みました」
 ベージュ色の応接ソファに腰掛け、帽子の縁から下がる黒いレースの下で彼女の唇が震える。「また事件が起こったそうですね」
 掠れ、半ばしわがれた声に京秋は答える術を持たない。
 「いつまで……いつまで、続くんですか」
 しかし依頼人も明確な返答を期待してはいなかったようで、咳込むように性急に言葉を継ぐ。帽子の下に浮かぶ頬と尖った顎がぴくぴくと痙攣し、黒いハンカチを握り締めた手ががたがたと震えていた。
 「どうして。ああ、どうして、こんな」
 「全力で調査中です」
 低く押し出した言葉は儀礼的な決まり文句だったが、それでも幾分か彼女を落ち着かせる効果はあったらしい。おこりがついたように震えていた手が少しずつ平静を取り戻していく。
 「警察が引き上げるのを見計らって現場を見に行くつもりです。犯人の特定には至っておりませんが、手がかりは少しずつ集まりつつあります。近いうちに、必ず――」
 「早く。早くしてください」
 ぷっ、と音を立てて彼女の唇が切れた。
 乾き、色褪せた唇が割れて、真っ赤な血が顎へと伝い落ちて行く。
 「早く何とかして。でないと、また……また次が」
 「もちろんです。一刻も早く犯人を見つけ出し、凶行を止められるよう全力を尽くします。まずは報告をお待ちください」
 「ああ……そうですね、そうですわね」
 ごめんなさい、と消え入るように呟いて依頼人はハンカチを口許に当てた。「わたくしったら。動揺して……」
 「ご家族が被害に遭われたのです。冷静でなどいられませんよ」
 静かにかぶりを振る京秋の前で、彼女は肩を震わせるだけだった。
 黒いベルベットに身を包んだ依頼人が辞去した後で、京秋は外套に腕を通して外出の支度を整えた。時間がもったいない。すぐにでも調査に向かいたかった。幸い空は曇っている。日の光が強い昼は苦手だが、このままいけばそれほど太陽に晒されずに済むだろう。
 玄関の扉に手をかけ、忘れ物はないか、戸締まりは完璧かともう一度事務所の中を振り返る。
 (おや)
 視界にふと異物が映り込み、整えられた眉がひょいと持ち上がった。
 ベージュの応接ソファの上にゴミが落ちているではないか。赤茶けた色の、一本の繊維だ。繊維というより何かの毛だろうか。手触りは髪の毛と似ているが、それにしてはやけに縮れている。
 (事件の記事に気を取られたとはいえ、掃除の手を抜いたつもりはないのだが)
 探偵業も客商売だ。依頼人という名の顧客に少しでもいい印象を与えるために事務所の掃除や整理整頓は欠かせない。だからこそ京秋は毎日きちんと自分の手で事務所を磨き上げる。
 (いけないね、お客が座る場所にゴミが残っていては。明日からもっと気を付けることにしよう)
 つまみ上げた毛を塵箱に落とし、几帳面な探偵は外套の裾を翻して颯爽と表に出た。



 「号外で見たよ。もう八人だって? ひどい話じゃないか」
 「目撃者? さあ、周りに建物なんかもない場所だったっていうし、難しいんじゃないかしら」
 「犯人はきっと男さ、間違いないね。女性の美しい髪の毛に妄執している異常者だよ」
 一通りの聞き込みを済ませ、被害女性の関係者を説き伏せてどうにか話を聞き出し、八つ目の現場であの薄い焦げ跡を確認した頃には日が暮れてしまっていた。
 「素行に問題なんて、まさか」
 被害者の友人であるという女性二人はそう言って顔を見合わせた。「普通の子でしたよ。明るくて、元気で。男関係? さあ……そんな話は聞きませんでしたけど」
 今までの被害者たちと同じだった。八人目の被害者も人柄や普段の生活態度に特筆すべき点はなく、また、これまでの被害者とも接点はない。共通しているのは若く美しい外見を持ち、長い黒髪が素敵だったということくらいだ。
 つまり、これといって収穫はなかったのだ。外套の襟を立て、どこか早足で夜道を辿る京秋の背にわずかな焦燥が滲んでいるように見えるのは気のせいだろうか。

 ――きっと『影』が関わってる。 

 橙香の声が耳の裏にやけに鮮明に甦る。
 女の勘云々は別として、京秋も彼女と同意見だった。少なくとも橙香の説に対する反証は今のところ見当たらぬ。
 なれど――動機は。動機の理由は。
 世間が言うように、若く美しい女の黒髪に異常な執着を持つ男、あるいはオスという性による凶行なのか?
 機械的に足を運びつつ、黙考に沈む探偵の脳は目まぐるしい速度で回転を続ける。
 いつしか京秋は古びた橋に差しかかっていた。冷えた夜気と闇が川面を渡り、ひたひたと足許から這い上がってくる。吹く風は重く、水を含んでいるようだ。ふと顔を上げると頭上には墨色の低い夜空が広がっている。
 (そうか。今夜は曇りか)
 鏡のように滑らかな川面は重い夜空を映し出していた。捜査に没頭するあまり大して気にも留めなかったが、そういえば今日は朝からずっと曇っていた。日が暮れても天気は変わらないらしい。分厚い雲が脆弱な月を押し隠してしまっている。
 月のない夜は好かぬ。早く帰るに越したことはない。
 (しかし――)
 思慮深い探偵はひたと足を止める。
 ……事件が起こっているのも決まって月のない闇夜ではなかったか。

 ざざざ、と風が吹き、外套の裾がばたばたと翻る。さらさらと凪いでいたはずの川が乱れ、荒々しいさざなみが広がっていく。
 橋の欄干からやや身を乗り出し、湿った闇の向こうを見透かそうとするかのように目を眇めた京秋は『それ』を感じた。
 風鳴りとも高笑いともつかぬ不気味な音が耳に届いたのは、京秋の体が闇の中に音もなく沈んだ直後だ。


 
 そもそも京秋は、闇に身を溶かし込んで移動するこの能力をあまり行使しない。あるいは、あまり使いたがらないというのが本音であるのか。
 一時的にせよ己が身を闇と同化させることに嫌悪があるのかも知れない。人間を深く愛する彼は、人間として、人間と共に生きることを望んでいるからだ。
 だが人ならぬ彼は決して人間にはなり得ない。姿形は人間でも所詮『あちら側』の存在。この能力こそが彼を妖魔たらしめる証。
 それでも、人間のためなら能力を使うことも厭わぬ。彼はそういう男だ。
 だから――迷うことなく闇を伝い、橋の真下の草地へと瞬きのうちに辿り着いた。
 状況は一瞬で見て取れた。仰向けに組み敷かれた女性。散乱する髪の毛と奇妙に青白く浮かび上がる頭部。彼女の上に馬乗りになり、紐か縄のようなもので首を絞め上げる黒衣の人物。
 否、人であるのか。
 唐突に降って湧いた京秋に動転して振り向けたその顔は――

 びょうと風が吹き、ごうと草が鳴り、川面がざあと逆巻いた。

 ヒュ、ウァッ!
 二条の漆黒が闇を切り裂く。黒い刃の片手剣を両手に携え、探偵の顔を持つ影狩りは鋭利なステップを踏む。
 犯人は機敏に飛びのいた。風を孕んだ黒衣が翻る。解放された女性は身じろぎすらしない。既に意識を失っているのか。
 ここで犯人を捕えずとも良い。最も優先すべきは被害者の救出。だが、彼女を護らんと踏み込んだ京秋の視界を闇よりも濃い色彩が覆う。
 「ケケ――クキャキャ、クケケカカカカカキャキャけキャッ!」
 狂気じみた哄笑が耳をつんざき、長い爪が繰り出される。橙香ほどの鋭さと長さはないにしろ、橙香を凌駕する敏捷性は京秋の腰を一瞬だけ引かせるには充分であった。
 「チッ――」
 舌打ちしてわずかに後退した、その刹那。
 
 再びごうと風が吹き、気まぐれな雲がおっとりと逃げていく。雲が晴れたちょうどその場所に控え目な月が鎮座していたのは何の偶然であるのか。
 とにもかくにも――京秋が態勢を立て直したまさにその瞬間、恥ずかしがり屋の月の女神が、ようやくそっと光を落としてくれたのだ。

 それでも移り気な雲はすぐに戻って来てしまったようで、透き通った月光がさざなみのおさまらぬ川面に乱反射したのはほんの一瞬であった。
 だが、熟練した影狩りにとってはその一瞬で充分だった。
 闇の合間にほんの刹那照らし出されたのは、『影』と呼ぶにふさわしい異形の者だった。
 もじゃもじゃの髪の毛を貫く二本の角。鋭利なまでに細く尖った顎。血走った眼。大きく裂けた薄い唇から覗く長い犬歯に、ねっとりと滴る唾液。
 その形相はまるで般若。まさしく鬼女。
 風に膨らむ漆黒の衣は滑らかな闇のようで――喩えるならば、上等なベルベット。

 顔を見られたと悟ったのだろう。鬼女はばさりと身を翻し、闇の奥へと遁走する。だが初めから追跡する気などない。京秋はぴくりとも動かぬまま倒れている女性に駆け寄り、抱き起こす。
 しかし、温かい首筋と手首に触れた後で軽く唇を噛んだ。
 駆けつけるのがほんの少し遅かったようだ。もはや京秋に出来るのは然るべき機関に通報して姿を消すことだけだ。第一発見者として事情聴取を受ければ少々面倒な事になる。
 (しかし――あれは)
 起こった事象と自らの記憶を丹念に照合しながらひとつひとつピースを当てはめ、慎重な探偵はパズルの完成を試みる。
 (いや……ピースが少し足りないようだ)
 動機の見当はつかぬでもない。だが動機の動機となった理由は。
 (それに目撃者は私だけ。私がこの目で見たと言ったところで、暗闇ゆえの見間違いだととぼけられれば水掛け論になるのが関の山だ。間違いなくこの場に居たという決定的な物的証拠を突きつけることができれば話は別だが――)
 川の上を撫でる冷たい風が、鈍い月明かりが、頭をクリアにしてくれる。
 喪服に身を包み、憔悴した依頼人。橙香の言葉。髪の毛をむしられ、首を絞められて、醜い姿で殺されたうら若き美女たち……。今まで見たものが次々と脳裏に現れ、焼きつき、消えていく。
 そして――組み上げたパズルの一角、ひとつだけ残っていた空隙に“それ”がかちりとはまったのは一分もせぬうちのことだった。
 (……ならば、ひとつこちらから仕掛けてみるとしよう)
 


 九人目の犠牲者が出た翌日は晴天だった。
 それでも今や太陽は中天を過ぎ、だいぶ勢いが衰え始めている。小高い丘の上に立つこの洋館を押し包むのは木々の葉擦れと静寂だけだ。
 かつてはこの家で両親と妹と一緒に暮らしていた。だが今はどうだ。妹は死に、心労が高じた母は心身の調子を崩して入院、父も不安定な母の付き添いで毎日のように病院通い。今や残されたのは自分と、中年の使用人のみ。
 彼女は自宅でも決して帽子を取らない。帽子を取るのは入浴の時くらいだ。だから今日も相変わらず帽子をかぶったまま、細密な彫刻が施された木の写真立てを手に取る。
 背の高い父。優しく微笑む母。その二人の間で、肩を寄せ合って寄り添い、笑い合う黒髪の幼い姉妹。
 ぱっちりと開いた瞳にすっと通った鼻筋、整った顔の描線。そちらが妹。
 腫れぼったい目と低い鼻、カマキリのように尖った顎。こちらが自分。
 それでも、長く艶やかな黒髪だけは妹に劣らず美しい。
 震える指が、かつての己を、唯一の誇りだった黒髪を、愛おしげに撫でていく。
 (このわたくしは、もういない)
 黒い服ばかりを身に着けるようになったのもあの事件の後だ。これは自分への葬送だと彼女は思う。自分はあの時に死んだのだから。
 (だけど……だけど)
 いつからであったか。身の内に“それ”の存在を感じるようになったのは。
 体の中を醜悪な虫が這いずるかのような――あるいは、鈍い牙に内側から齧られ、爛れていくかのような。そんな感覚に悩まされるようになったのはいつからであったのか。
 (どうして、ああ、わたくしは、何を――)
 手が震える。自分の意志を離れて激しくわななく手の中で、写真立てがみしみしと軋む。
 その時、不意に控え目なノックの音が響き、はっと身をこわばらせた。
 「お嬢様。お客様がお越しでございます」
 ドアの向こうから聞こえてきたのは使用人の女性の声だ。「吉野京秋さまとおっしゃる方ですが……」
 彼は自分が探偵であることを明かさずに取次ぎを請うたのだろう、「お嬢様のお耳に入れたいことがあるとおっしゃっていますが」と続けた使用人の声は些か胡散臭そうであった。
 

 
 依頼人は相変わらず喪に服しているかのような格好をしていた。黒いベルベットのロングワンピースにすっぽりと身を包んでいるのも、つばの大きな帽子で顔と髪の毛を隠しているのも変わらない。
 彼女は応接室に茶を運んできた使用人に「今日はもう帰っていいわよ」と声をかけた。使用人が頭を下げて退室した後で京秋は静かに口火を切る。
 「突然申し訳ありません。本日は調査の報告に参りました」
 ソファに腰かけて向かい合った二人の間にはガラスのテーブルが鎮座している。磨き上げられたガラスは鏡のようで、依頼人の尖った顎を真下の角度から忠実に映し出していた。その上で湯気を立てているのは淹れたての紅茶だ。
 「昨夜九人目の被害者が出たとか……犯人が分かったのですか?」
 温かいティーカップに口をつける気配もなく、依頼人は身じろぎもせずに座っている。相変わらず声はかすれ、頬はこけていた。
 「こちら、お先にいただいても?」
 京秋は彼女の緊張をほぐすように微笑みかけ、自分の前に置かれたカップを手で示す。彼女が「どうぞ」と答えるのを待ってから華奢なティーカップをソーサーと一緒に持ち上げた。
 「ああ……アッサムはやはり濃い目に出すのがいいですね。香りの鮮やかさが違う」
 色も綺麗だ、とまんざら世辞でもなく言って目を細める。「ベッドサイドに置いて眠る前に飲むのも良さそうです」
 「それで、犯人は?」
 少しずつ唇を濡らすように紅茶を愉しむ京秋を、依頼人はやや性急な口調で急き立てた。
 「その前に、いくつか質問をさせていただきたいのですがね」
 「質問?」
 「ええ、すべて正直に答えていただきたい。まずひとつ目」
 京秋は静かにカップを置き、依頼人の答えを待たずに人差し指を立ててみせる。
 「昨夜、あなたはどちらにいらっしゃいましたか?」
 「この家にいました」
 淀みない返答に、一見どちらも黒に見える京秋の両目がかすかに冷えた。
 「ご家族と一緒に、ですか?」
 「いいえ。母は入院中で、父も母の付き添いで病院に泊まり込んでおりましたので。使用人は夕方には帰りますし」
 「つまり、あなたが昨夜この家にいらしたことを証明できる方は存在しない……と」
 帽子と帽子の縁から下りるレースの覆いに隠され、依頼人の表情はやはり判然としない。
 それでも、尖った顎がぴくりと震え、乾いて褪せた唇はかすかに歪んだようだった。
 「二つ目」
 人差し指の隣に中指も立て、京秋はあくまで物腰柔らかく追及を続ける。
 「なぜ室内でも帽子を被っているのでしょう?」
 その瞬間、ぱきりと音を立てて空気がひずんだ。しかし飄々とした探偵はそんなことには気付かぬ顔をして質問を重ねるのだ。
 「マナーとしてよろしくないのではありませんか? あなたのようにきちんとした身なりをして、こんな立派な洋館に住む階級のお方がそんな初歩的な礼儀すら知らないとはとても思えないのですがね」
 「答えなければいけませんか? 事件と何の関係があるのか、素人のわたくしには分かりかねますが」
 ほんのわずかだったが、依頼人の声に初めて険悪な色が差した。
 「大いに関係があるからお尋ねしているのですよ」
 京秋は微笑を絶やさずにさらりと切り返す。しかしその眼は決して笑わず、油断なく依頼人の様子を観察していた。
 沈黙が降りる。重苦しい静寂だ。丘の上に立っているせいか、街の喧騒もこの館には届かない。重厚な柱時計が時を刻む音だけがやけに大きく反響し、長く尾を引きながら消えていく。
 「……お答えすることはできません」
 京秋は「ほう?」と語尾を持ち上げ、軽く眼を眇めた。
 「お答えすることはできません」
 きっぱりと言い直し、拒絶の意志を明確に打ち出した依頼人は唇を噛む。「誰にでも人に知られたくないことのひとつやふたつはありますもの」
 「道理ですね。では三つ目」
 立てた二本の指の隣に薬指も添え、京秋はもう片方の手で恭しくハンカチを取り出した。
 「ああ。重要なのはこのハンカチではないのです」
 訝しげにハンカチを見つめる依頼人の視線に気付き、小さく苦笑する。
 「実は、とある場所でこんなものを見つけましてね」
 もったいぶって開いたハンカチの上には、赤茶け、醜く縮れた一本の毛が乗っていた。
 「これは、あなたの髪の毛ですね?」



■scene 3■ a Hunt was so silent

 温かなカップからはゆっくりと湯気が立ち上っている。絹糸で編んだ霧のような湯気は緩慢にたゆたい、絡まり合い、ほどけながら消えていく。
 「――何を根拠に?」
 「その前に、四つ目の質問」
 三本の指の脇に小指を並べ、矛先をはぐらかすかのように言葉を紡ぐ。
 「あなたが私と会うのは何度目ですか?」
 「は? 確か、最初に依頼に伺った時と、その次と……」
 帽子の下の視線が一瞬泳ぐ。「……八つ目の事件の記事が新聞に載った昨日の朝と……それから、今も含めれば四度目でしょうか?」
 「それはおかしい。私は五度目と記憶しておりますが。昨晩もとある河原で――八人目の犠牲者が出た現場でお会いした、そうですね?」
 「どういう意味ですの? 昨夜はずっと家にいたと申し上げたはずです」
 「では、なぜこの髪の毛があの河原に落ちていたのでしょう?」

 息継ぎすらせずに一気に畳み掛ける。
 依頼人がはっと息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。

 「髪の毛というのは案外簡単に落ちるものです、それも本人の気付かぬ間に。ああそうそう、三つ目の質問に対するお答えがまだでしたね」
 今更答えを聞くまでもない。彼女の反応がすべてを雄弁に物語っている。
 だが冷徹な探偵は追及の手を緩めない。あくまで依頼人自身に認めさせようと、縮れた髪の毛をハンカチに乗せて容赦なく彼女の眼前に差し出すのだ。
 「さあ。これは君の髪の毛だね? 見えなければよく見るといい、何なら手に取って検分したまえ」
 そして、犯人を目の前にした探偵の口調はもはや“依頼人”に対するものではなくなっていた。
 「この髪の毛こそが君が昨晩あの場にいたという何よりの証拠。シラを切るのならばそれでも構わない、これを証拠として警察に差し出せば良いだけの話だからね。それでもまだとぼけるというのなら――」
 それでもあくまで静かに、穏やかに。真綿で首を締めるように、目の前の犯人を緩慢に、残酷に追い詰めていく。
 「――今この場で、私がその帽子を剥いで差し上げても良いのだがね?」
 上等なベルベットに包まれた華奢な肩が、まるで高圧電流にでも触れたかのように激しく痙攣した。



 格子つきの窓は丁寧に磨き上げられている。濃密な琥珀色が輝くガラスを斜めに透過し、沈黙が凝る室内に深い陰影を落とし込んでいた。
 黄昏は近い。板張りの床の上に落ちてとろとろと蕩ける夕陽に好意的な流し目を送りつつ、京秋は緩やかに手と脚を組む。
 「髪の毛というのは案外簡単に落ちるものだ。恐らく今までの現場にも同じ髪の毛が残されていたのだろう。ただ、捜査当局にはそれを最初の被害者の姉である君の毛髪と照合する頭はなかったようだが」
 「……どうして」
 依頼人の喉からこわばった声が漏れた。「どうして、私の髪の毛のことを」
 「なに。ごくごく簡単なことだよ」
 ゆったりと組んだ手をそのままに、柔らかく深い声を持つ探偵は静々と謎解きを始める。
 「昨日、君が帰った後のソファにこれと同じ髪の毛が落ちていた。ああ、もちろん私のものでは有り得ないよ、私の髪は見ての通り黒だからね」
 「そんな物、他の依頼人の髪の毛かも知れないじゃありませんか」
 「私は毎朝事務所の掃除を欠かさない。客商売だからね、そういう部分には神経を使っているのだよ。事実、あの朝もきちんと掃除をした。そしてその後に君が訪れ、君が帰った後にこの髪の毛が落ちていた……それもよりによって来客用のソファの上に、だ」
 どういうことか分かるかい、と微笑みかけても依頼人は困惑気味にかぶりを振るだけだ。
 「来客用のソファとテーブルは特に念入りに掃除をするべき場所だ。客が座る席にゴミが落ちていてはいけないだろう? 現にあの日も塵一つ落ちていないことを確認した。ましてやあのソファの色はベージュだ、ベージュ色の上に茶色の毛が落ちていれば見落とすはずがない。ということは、あの髪の毛は掃除を終えた後に事務所を訪れた人間のものでしか有り得ないのだよ。そう――即ち、君だ」
 反応を探るように言葉を切る。しかしわざわざ確かめるまでもなく、彼女の尖った顎は小刻みに震えていた。
 「本当を言うと、事務所に落ちていた髪の毛が君のものではないかと思い当ったのは昨夜の現場に遭遇した後なのだけれども」
 整った唇に静かな苦笑いを乗せ、小さく肩をすくめる。「あの髪の毛が君のものであると仮定すればすべてに得心がいったよ。君が帽子を取らないのも髪の毛を隠したいからだと、ようやく見当がついた。髪は女性の命とまで言われるそうだね? 長く艶やかな黒髪が美しいとされる当世、この赤茶けた髪は――」
 「好きでこうなったわけじゃありません」 
 上ずった声が朗々とした弁舌を遮った。
 「昔は……わたくしの髪も綺麗な黒でした。髪の毛は本当に綺麗だったのです」
 帽子の下に浮かんだ唇がきつくきつく噛み締められる。「小さい頃から妹と比べられ続けてきました。妹は綺麗だ綺麗だと皆に褒めそやされ、わたくしは見向きもされず……だけど髪の毛だけは妹にも負けなかった。いいえ、髪の毛だけは妹よりも美しかった」
 それなのに――と、彼女の声がわななく。
 「十年ほど前のことです。わたくしたち姉妹は同じ女学校に通っていました。奔放で何にでも興味を示す妹は、理科の実験の際に使った薬品で他の実験がしたいと言って理科実験室に忍び込んで……わたくしは後を追い、黙って薬品を触ってはいけないと注意しました。しかし妹は聞かずに喧嘩になり、突き飛ばされたわたくしは薬品の保管棚に背中からぶつかって――」
 棚のガラスが割れ、中の薬品が髪の毛に降り注いだ。それほど強い薬液ではなかったようで、顔に痕が残ることこそなかったが――美しかった黒髪は赤茶け、縮れ、滅茶苦茶になった。頭皮に浸透した薬品が毛根まで変えてしまったのか、艶やかで風になびくような黒髪は二度と戻らなかった。
 「唯一……唯一、妹に優っていたのに。髪の毛だけがわたくしのよりどころだったのに。それを、それを、い、いいも、妹のせいで、あ、あ、あああああああああ!」

 悲鳴であるのか。あるいは激昂であったのだろうか。
 とにもかくにも、ガラスに爪を立てるかのように神経に触る絶叫を上げながら依頼人はソファから転げ落ちたのだ。
 
 がん、という鈍い音。転げた拍子にガラスのテーブルの縁に額を打ち付けたらしい。鈍い色の血が緩慢に頬へと伝い落ちる。それでも彼女は帽子をしっかりと両手で押さえる。これだけは決して放すまいと、無我夢中で押さえつけている。
 ああ、それでも。
 帽子を押さえる爪が醜く伸び上がる。そして角が生えてきたではないか。後生大事に両手で抱えていた帽子を無慈悲に貫き、二本の角が彼女の頭から生えてきたではないか。
 緩く湾曲したそれはまるで鬼の角。老婆の歯のように黄ばんだそれは、『影』へと堕ちた者の烙印。
 「ああ、嫌、いや、イヤ――」
 帽子の下で髪が爆ぜた。蜜色の黄昏の光の中に現れ出た髪の毛は薬で焼けたかのように赤茶け、縮れている。
 京秋は黙っている。手と脚を緩やかに組んだまま、彼女の変貌を静かに、冷たく見届ける。
 喪服に身を包んだ淑女はやがて般若へと姿を変えた。長く伸びた爪。額から流れる血が頬を伝って、血走った両の眼が血の涙を流しているかのように見える。大きく裂けた口の端には白い泡が溜まり、剥き出しになった犬歯からはねっとりと糸を引くような涎が滴り落ちていた。
 「そうか。それが君の闇か」
 ゆらり――と京秋は立ち上がった。剣を使う必要もない。愛剣の刃がこんなものの血で汚されるなど、反吐が出る。
 「髪は女の命、それをむしられるのは辱めを受けるのと同じことだと知り合いが言っていてね」
 ひゅ、と鬼女がかいなを振り下ろす。京秋は優雅にバックステップを踏んで鋭い爪をかわした。ガラスのテーブルが、白いティーカップが粉々に砕け散る。濃厚な夕陽の中で微細な破片がきらきらと光を放ちながら鮮やかに舞い落ちる。その合間でぬらりと暗く光るのは彼女の血であろうか。
 「それを聞いた時、少し疑問に感じたのだよ。犯人は男で、美しい女性の美しい髪に執着しているのだと世間では言われていたが……果たして本当にそうなのだろうかと」
 鬼女の攻撃は敏捷だ。血まみれの腕が、爪が、華麗に舞う京秋を精確に追撃する。
 きらり、きらり。般若の腕に突き刺さったガラス片が、夕陽を受けて美しくきらめく。
 ひらり、ひらり。黒いベルベットが、舞踏会で踊る貴婦人のように優雅に翻る。
 「もしかすると、目的は彼女たちを辱め、醜い姿へと貶めることではないだろうかと私は考えた。ではなぜそんなことをするのか? ストレートに考えれば嫉妬だ。美しさと美しい黒髪への嫉妬。君は美しい外見と美しい髪の毛を持つ妹を妬み、妹と同じような外見の若い女性たちを次々に手をかけた。違うかい?」
 ざわり。
 音を立ててざわめいたのは鬼女の髪の毛であったか、それとも京秋の影であったのか。
 「クくく」
 ぶおんと音を立てて般若の腕が空を切る。京秋はするりと体を開いて距離を取った。醜い鬼女の体が虚ろにかしぎ、角の生えた頭ががくりと揺れる。
 「ククク、カカ――ケキャキャキャキャキャキャキャキャ!」
 その声はもはや彼女のものではなくなっていた。彼女の自我は彼女の手を離れ、今や完全に『影』へと転落していた。
 「嫉妬ってェのは怖いよねェ、えェ?」
 がくりと振り上げられた顔にかつての面影はない。黒いワンピースと縮れて爆ぜた髪の毛だけが、この鬼が彼女であったことを物語っている。
 「昔ッから妹に劣等感と嫉妬ばーっか抱き続けててさァ。髪の毛が変わっちまったことが追い打ちになったんだけどねェ――ついに嫉妬に狂って妹を殺してやったのさァ。十年物の嫉妬だからねェ、最ッ高だったよォ、美人の妹を思いっきりブッサイクな姿にできてさァ! あたしがこの姿になったのも妹を殺してからだよォ!」
 楽しかったねェ、妹に似た女どもの髪むしってさァ、首絞めてブサイクな顔にしてやるのはさァ。
 京秋は黙っている。軽やかにサイドステップを踏みながら、恍惚に酔いしれたような高笑いを繰り返す『影』の攻撃をかわす。
 「妹を殺して『影』へと堕ちたか」
 ざわり、と黒い色彩が蠢いた。
 「昨日私の所へ来て“早く止めて”と言ったのは……あれは、自分を止めてほしいという意味だったんじゃないのかい?」

 静かだ。あまりに静かだ。
 上等なブランデーのような色をした美しい斜光が整ったマスクに濃い陰影を刻み込む。深々とした影の中で凍てつくような光を放ったのはモノクルか、その奥の瞳か。

 「そうだとしても同情はしない。元はと言えば実の妹を手にかけたのは君自身の意思。“堕ちた”のも他ならぬ君自身の意思なのだから」

 ざわ、ざわざわざわざわ。
 夜の闇より濃い影が京秋の下で胎動する。
 ぞわぞわと這いずるそれはまるで鳥。漆黒の翼を広げたその姿は、まさに鴉。

 「人の心は弱いものだ。あまりに弱く、移ろいやすい。だからこそ私は人間が好きなのだけれども……」
 黒々とした影の中で、謎めいた左目が黒から深い紫へとわずかに色彩を変えていく。
 そして。
 「君は愚かだね」
 この上なく無慈悲で、冷酷な宣告。
 「自ら人間である権利を切り捨てるとは、愚かだね。愚かで、愛しくて――妬ましいよ」

 その刹那、静かな双眸の奥で熾火のような色がちろりと揺れた気がした。
 氷のような微笑を湛えた影狩りの背で、滑らかな黒が蠱惑的にたゆたう。
 やがて翼のような形を取ったそれは烈しく膨張し――狩るべき『影』目がけて殺到する!

 「君のその衣装、妹の喪に服しているのかと思っていたが」
 よけるどころか、悲鳴を上げる暇すら与えなかった。一対の黒があぎとを開き、黒衣の鬼女を獰猛に、あっという間に絡め取る。
 「この場には最もおあつらえ向きじゃないか、君はこれから死にゆくのだから。さしずめ自分への葬送といったところだろうかね」
 圧倒的な漆黒に動きを封じられ、般若の姿をした『影』は懸命にもがく。だが腕のような形をした二枚の翼は抗えば抗うほど体に食い込み、蜘蛛の糸のように自由を奪っていく。
 「ゆっくりと絞め殺してあげよう。目一杯苦しみながら醜く逝きたまえ、君が殺した女性たちと同じように」
 絞め上げていく。絞め上げていく。口角から泡を飛ばして身をよじる贄に冷たい微笑を捧げながら、緩慢に、確実に絞め上げていく。
 「貴様ァ……その、姿は、同族……かァ」
 背中から二枚の翼を生やした京秋の姿に般若が歯ぎしりする。
 「残念ながらそのようだ。もっとも、永い時を生きすぎたせいで元の姿は喪ってしまったが」
 「影の住人、が、影を、狩る、のかァ! 裏切、り、者、おォ!」
 「ああ、鴉は裏切る生き物だからね」
 あくまで静かに、穏やかに。柔らかな笑みに氷の刃を乗せて、威圧的に、射すくめるように。
 「声を潰され、羽を汚され――それでもまだ、償いには足りないようだ」
 ごきり、ぐちゃりと音を立てて何かが軋んだ。骨か、肉か、内臓か。びちびちと痙攣する般若の体を、顔を、首を、すべてを呑み込んでしまうかのごとく深い漆黒が覆い尽くしていく。

 「さあ、還るがいい」
 深く静かなバリトンは、絞首台に上った罪人の傍らに立つ神父のようで。

 「――君の居るべき場所は、此処ではない」

 くぐもった断末魔の悲鳴が聞こえたが、それも一瞬だった。
 ビクンビクンと波打っていた翼もすぐに動きを止め、再び深い静寂が訪れた。



 洋館を後にし、街へと続く緩やかな坂道をゆっくりと下る。その横顔には先程の『狩り』の名残はない。凪いだ湖面のような面(おもて)には何事もなかったかのように穏やかな表情が差していた。
 (やれやれ。美味しい紅茶を台無しにしてしまった)
 真っ先にこぼれたそんな感慨に自分でも思わず苦笑する。
 (もっとも……彼女は紅茶の味などとうの昔に分からなくなってしまっていたのだろうね)
 醜い『影』の姿を脳裏にえがくと、胸の奥で何かがちりっと音を立てた。
 ――人間でありたいと切望する『影』がいる一方で、人間である権利を自ら捨てて『影』に堕ちる者がいる。
 皮肉なことだ。愚かなことだ。そして何より、ひどく妬ましいことではないか。
 (おっと、いけない。嫉妬の恐ろしさを目の当たりにしたばかりだというのに)
 苦笑を含んで振り返れば、無音を取り戻した洋館を夕暮れの光が染め上げている。
 日没は近い。あの洋館も黄昏に染まる街も、もうじき等しく闇に沈むだろう。
 それでも今はまだ夜ではない。昼でも夜でもない、中途半端で曖昧な時間帯だ。
 (光にも闇にもなりきれぬ私にはお似合い、か)
 軽い自嘲の笑みを浮かべ、黄昏に染まった男は溶けるように街へと下りて行った。



■Epilogue■ and,the Night has come

 「ああ……済まない。思い出話がついつい長くなってしまった」
 気付いた時には太陽はビルの向こうの地平線の中に溶け入ってしまっていた。路地裏にわずかに差し込む夕焼けの残滓は脆弱で、精彩を欠いている。
 しんとした薄闇の上に濃い闇が忍び寄りつつある。冷え始めた空気を足許に侍らせながら、彼は相変わらず穏やかに微笑むのだ。
 「おや、どうしたのかな。何か聞きたそうな顔だね?」
 ゆっくりと手を持ち上げ、顎に手を当てて首をかしげる。「ああ。もしかして依頼人の髪の毛のことかい? どうしてあの真っ暗な犯行現場で一本の髪の毛を見つけることができたかって?」
 優雅に折り曲げた指のすぐ上で、整った唇がまたしても謎めいた笑みの形に持ち上がった。
 「そうだね、ここまで話を聞いてくれた君には感謝している。だから特別に種明かしをしてあげよう。あれは――」
 もったいぶるかのように軽く言葉を切り、「ふふ」と小さく喉を鳴らす。
 「現場で拾ったものではない。八つ目の事件の翌朝、依頼人が事務所を訪れた時に落としていった髪の毛さ。いったん捨ててしまったのだが、ゴミ箱から拾ってあの屋敷に持参したのだよ。君も注意したほうがいい、結んでも帽子をかぶっても髪の毛というのは案外簡単に落ちるものだ。ただ座っているだけなのにいつの間にか服の肩に髪の毛が付いていた、などということはよくあるからね」
 ミステリアスな微笑がますます濃くなる。「はったり? そんな言い方は心外だね、計算し尽くされた駆け引きと呼んでくれたまえ。あの髪の毛が依頼人のものであるという確信がなければできないことだったからね。犯人の動揺を誘って自白を促すのも探偵として必要な技術であるというわけだ」
 飄々とうそぶきながらくすりと歯を見せた彼の表情はほんの少し悪戯っぽい色を帯びていた。
 「見たまえ。夜の帳が下りる」
 く、と顎を持ち上げ、林立するビルの隙間からかすかに覗く空を示した。夕焼けの残り火のような藤色は徐々に色褪せ、濃い藍色が天球を覆いつつあった。
 「もうじきすべてが闇に染まる。どんなに華やかにネオンを灯したところで、じきに圧倒的かつ絶対的な闇に覆われるのだよ。――皮肉だとは思わないか。人間も、人間も住まう街も、こうも容易く闇に侵食され得るものだとは」
 移ろいやすいものだ。人間も、街の景色も。いったん黄昏が差せば、坂道を転がり落ちるようにして闇へと引きずり込まれていく――。そんな意味深な台詞を口にして、彼は軽く肩をすくめてみせるのだ。
 「もっとも、そんなところさえも愛しいと思うのだけれども」
 そしてすっと一歩後ろに退いた。周囲の闇に溶け込んでしまいそうな影が無言で彼に付き従う。彼の背後には行き止まりの壁があるだけだ。
 「些か長話が過ぎたようだ。今日はこの辺りで失礼させていただくとしよう」
 右腕を体の前で恭しく折り曲げる所作は、まるで貴人に一礼する優雅な紳士のようで。
 「黄昏が差し込む時、またどこかで会うこともあるかも知れないね。ああ、心配はいらない。どこにでも、どんな場所にでも黄昏は訪れるものなのだから」

 そう遠くない未来に再会の舞台が用意されているだろう。探偵の勘というよりは、私の希望だがね。

 掴みどころのない微笑に気を取られた一瞬。
 気が付けば彼の姿は煙のように消え失せていた。まるで薄い闇の中に溶け入ってしまったかのように、あの謎めいた微笑みの気配だけを残して。
 だから――鴉のような黒い羽がひらりと舞い落ちたように見えたのは、きっと悪戯な薄闇が目の錯覚を誘ったせいだ。



 (了)

クリエイターコメントオファーありがとうございました。そしてお初にお目にかかります、宮本ぽちと申します。
字数多め・捏造多めでノベルをお届けいたします。

とにかく優雅にクールに渋カッコ良く、を心掛けました、が。
少しでもミステリの風味が出るよう、緊迫した演出と展開を試みた、つもり、です、が。
果たしてそんな雰囲気が出ておりますでしょう、か。
イメージが膨らみ過ぎて些かやり過ぎた感もありますが、楽しんでいただけることを祈りつつ。

尚、事後報告になりますが、狩りのシーンのラストの台詞はBSのタイトルから引用させていただきました。
この上なくぴったりだと感じましたので…。
公開日時2008-10-23(木) 19:50
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