★ Dance with Cats ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-5575 オファー日2008-12-03(水) 23:22
オファーPC 京秋(cuyy7330) ムービースター 男 38歳 探偵、影狩り
<ノベル>

■Prologue■ with a cat

 「やあ、ごきげんよう。良い黄昏だね」
 その男は、またしても夕暮れの薄闇から溶け出すように佇んでいた。
 袋小路の路地裏にいつの間に、と誰もが思うだろう。しかし静かに微笑む謎めいた双眸がそんな野暮な質問を許さない。
 まるで深い深い湖のようで。静謐なのに、澄んでいるのに、全く底が見えない。もっとも、その深い瞳にすうっと吸い込まれてしまいそうな錯覚に捉われるのは初めてではないが。
 「おや、どうしたんだい? そんな顔をして」
 三方をビルに包囲された路地裏は薄暗く、湿っている。賑やかな大通りから一本逸れただけのこの場所を支配するのは緩慢な赤い光と濃く深い影、そして無機質な寂寞だけ。そんな場所で、流れるような所作で顎に手を当てた彼は相変わらず謎めいた微笑を湛えるのだ。
 「もしかして驚いているのかい? だが、そう呆気に取られることはないのではないかね」
 くすりと笑みが差す目の色はやはり特徴的だ。ごく普通の黒かと思いきや、決してそうではない。モノクルに覆われた右目は底なしの漆黒。左は左で、黒と紫の間で控え目に色合いを変えていく。
 「以前会った時、そう遠くない未来に再会が用意されているだろうと予告した筈だよ。もっとも、探偵の勘というよりは私の希望であったわけだがね。もしもこれが神の思し召しなら、居るとも居ないとも知れぬ神とやらに今日だけは感謝しても――」
 その時、ニャーオ、と長く尾を引くような猫の声が心地良いバリトンに無遠慮に割り込んだ。
 彼の表情が一瞬こわばったように見えたのは気のせいだったのだろうか。
 「ああ――いけない」
 音もなく塀の上に降り立った黒猫を見やり、物静かな彼はほんの少し唇の端を歪ませる。
 「猫はいけないね。何せ彼女たちは奔放で野蛮に過ぎる、そうは思わないかい?」
 猫は何もメスばかりではないのに、どうして“彼女たち”などと呼ぶのだろう。
 「おや……失礼。少々口が過ぎたようだ」
 だけれども、と付け加えて彼は自嘲めいた苦笑を落とした。
 「苦手意識とでもいうのだろうか、嫌いなものは嫌いなのだよ。もちろんそれなりの理由はあるのだが……」
 「フニャア」
 聞いてやる、話してみろとでも言わんばかりに猫は行儀良くその場に座り込む。居座ることを決めたらしい猫からさりげなく離れ、ミステリアスな探偵は眉間に手を当てて深々と嘆息した。
 「やれやれ。これだから猫は嫌いなのだよ」
 彼の足許にわだかまる影が一瞬鴉の形を取ったように見えた。濃い闇の色をした影は、どこか居心地が悪そうに身じろぎしたようだった。
 「黄昏と黒猫か。痛快な取り合わせだ、何とも皮肉なことじゃないか。――聞いてくれるかね? 先日と同じように」
 蠢く影を、猫の金眼がじっと見つめている。
 しなやかな肢体はブランデー色の夕日にしっとりと濡れ、漆黒の毛並が艶めかしいツヤを放っていた。


 皮肉なことだが、元々は猫とは深い付き合いがあったのだよ。ああ、そんな顔をしないでくれたまえ、誰にでも現在からは考えもつかぬ過去というものはあるだろう? その類の話に過ぎない。
 ふむ。猫とどういう付き合いだったのだ、と? そんな野暮な質問をするようでは君の品性が疑われる。これからの話の中で察してくれるとありがたいのだがね。
 とにもかくにも、私はかつて猫に酷い目に遭わされた。それこそ死ぬほど手酷く痛めつけられたのだよ。
 それがすべての始まりだ――。


■scene 1■ a Blindman

 猫は嫌いだ。闇夜も嫌いだ。
 だが、記憶は猫と闇に支配されている。
 漆黒の闇に体を闇に溶け込ませた彼女が音もなく忍び寄る。静かながらも隙のないその動きは獲物を狙う狩猟者そのもの。
 (秋――)
 触れる指先は不自然なほどに白く、艶めかしい。名を呼ぶ声はどうしてこんなに蠱惑的で、心地良く脊髄を痺れさせるのだろう。
 (あたしが、見える?)
 くすくすくす。
 すべての光を吸い込んでしまうかのごとく深い闇の中、金色の瞳が悪戯っぽくぱちりと瞬いた。
 (ねえ、秋。こっちに来て頂戴)
 口の中で飴玉を溶かすように名を転がし、闇の中で彼女は己が姿を露わにする。
 病的なまでに美しい顔と肢体。雪のように白い肌は、それこそ雪と同じように触れれば儚く溶けてしまいそうだ。白い顔の中、形の良い唇は目が醒めるように赤く、妖しく濡れている。
 (秋。呼んで、あたしを、呼んで)
 呼吸ができない。胸が詰まって苦しい。されるがままになる鴉に、彼女は静かに微笑みながら長い爪の生えた指を伸ばす。
 艶やかな黒髪が肩から流れ落ち、線の細い顔にかかって、ぞくりとするような色気が香った。
 頬を優しく愛撫する指先はひどく甘く、脳がとろりと流れ出てしまうかのよう。
 「――――――」
 熱い舌と唇でどうにか彼女の名を紡ぐと、彼女はひどくくすぐったそうに、子供のように笑み崩れて。
 健気で穏やかな彼女が浮かべる無垢で無防備な笑みを見ていると、心に爪を立てられるかのような錯覚に捉われる。
 (ねえ、秋。秋……)
 熱っぽく囁く唇が耳まで裂けるかのごとく持ち上がり――鴉の視界は、深紅に染まる。


 「………………!」
 それはかつて味わった光景。黒い靄の向こうで今も尚濃密に凝る激情と激痛。狂おしいまでの記憶に意識を引きずり上げられ、京秋はかすかな狼狽とともに目を開く。
 (夢……か)
 見慣れた事務所兼自宅の寝室。のろのろと持ち上げる手には五本の指。褥に横たわる体はじっとりと汗をかき、不快だ。
 かつての姿を失って数十年になるというのに。今ではこうして再び形を得られるようになったというのに。深々と刻みつけられた傷は消えず、今も京秋を苛み続ける。あたかも長い爪で抉られでもしたかのような疼痛が心身の奥底で執拗にとぐろを巻いている。
 それでも夜は明けていた。頑なに闇を拒んで閉ざした窓から差し込む光が控え目に朝の訪れを告げている。昨晩は月が出ていなかった。強い日の光は嫌いだが、生まれたばかりの太陽の光に今はほんの少しだけ安堵を覚える。
 闇夜は嫌いだ。猫も嫌いだ。
 だから、暗闇と同じ色をした猫はもっと嫌いだ。


 人間の形をしているが人間にはなり得ない京秋は、ひどく中途半端で曖昧な存在だ。
 今では探偵事務所を経営する傍らで『影狩り』を続けている。影という存在のすべてが人間に害を及ぼすわけではないが、京秋の元へ舞い込む依頼には人間に仇成す影が関係していることも間々ある。
 『影』の住人でありながら影を狩る京秋は裏切り者と呼ばれることもある。同時に、そんな京秋を慕う『同業者』もいる。
 その一人が橙香という女だった。
 元々は良好な関係を築いていたのだが、ある一件以来京秋は彼女を避けるようになった。彼女は京秋の急激な態度の変化を訝しみ、不満に思っているらしかったが、心境の変化を懇切丁寧に説明してやる気にはなれなかった。
 そもそも、理由など説明するまでもなく察して然るべきであるのに。自分勝手で気まぐれな彼女は京秋の心情になど思い至らぬのか、気付いているのに知らぬふりをしているのか。
 どちらにしろ、これだから猫は嫌なのだ。
 猫を嫌う京秋は橙香のことが嫌いだ。だから顔を会わせないように努めた。だが猫というのはいつも悪戯で、こちらの知らぬ間に背後に忍び寄っては様子をうかがっているものである。


 橙香が身辺をうろついているらしいことは薄々察していた。京秋が再び姿形を得られたことをどこから聞きつけたのか、仕事先や立ち回り先に偶然を装って姿を見せることが幾度か続いた。
 それでも京秋は知らぬふりをした。嫌いな相手とは顔も合わせたくない。
 その日も最後まで無視するつもりだった。
 探偵として依頼を受けた調査を淡々と行う間じゅう付かず離れずの距離を保って尾けて来る彼女に気付かぬわけがなかったが、無視に徹した。こちらが気にすれば相手は面白がり、増長するだろう。それが猫という生き物だ。
 辺りは既に黄昏に近い。光とも闇ともとれぬ曖昧な色に染まりながら、薄く長く伸びた影から影へと滑らかに渡り歩く。ワルツを踏むようなそのステップには精彩がない。翳りを負った探偵はモノクルの下に感情を押し隠し、ぼんやりした影の中をたゆたうように進む。
 相手が距離を詰める気配はない。といって離れるつもりもないようだ。
 それが猫という生き物だ。猫はこうして獲物を追い詰め――喰らう。
 知らず、京秋の足が速まる。

 タッ、タッ、タッ、タッ。
 タタ、タ、タタ、タタ。
 タタタタタタタタタ!

 アンダンテからアレグレットへ、アレグレットからアレグロへ。二組の足音は急速にテンポを上げ、周囲の建物に乱反射し、めちゃくちゃにもつれ合いながら追いかけっこを始める。
 心臓は乱れ、プレストの速度を刻む。沈着な探偵には珍しいことだった。怒りとも焦燥とも取れぬ烈しい感情に衝き上げられて、見えない何かから逃げるように黄昏の街を駆け抜ける。
 じきに夜の帳が下りる。そうすればすべてが等しく闇に覆い尽くされ、押し潰されるだろう。
 そう思ったら、薄い寒気がそわそわと背筋を這い上がった。

 眩暈がしそうだ。思考が記憶の深海へと沈んでいく。緩慢な螺旋をえがいて鎌首をもたげるそれは無秩序に繋がる感情の数珠。
 天井も底も見えぬ闇が四方から音もなく迫る。
 形を保てなくなった鴉を呑み込まんと。一片の光すら差さぬ暗黒の中に塗り込めんと、じわじわと包囲を狭める。
 鴉の羽は夜と同じ色。闇黒と同化してしまいそうな色。
 ――あの猫の体も、闇夜に溶け込んでしまいそうな、美しく、深い漆黒。

 自我を塗り潰す圧倒的な黒の中、金色の瞳がちかりと瞬いたような気がした。

 「いい加減にしたまえ」
 昏い記憶に侵食されそうになって思わず声を出す。やや苛立ちを含んで発せられた言葉は誰に、何に対するものだったのか。
 そうと意図したわけでもないのに、いつしか人気のない小路に出てしまっていた。赤煉瓦の建物に挟まれた細い路地で京秋はぴたりと足を止める。のっぺりとしたのっぽの建物たちは今にもぐらりと傾いてきそうだ。暗い緑の蔦に侵された煉瓦は色褪せ、所々にひびが入っている。
 「何のつもりだね。私が気付かないとでも思っているのか」
 振り返ることはしない。顔も見たくない。背を向けたまま冷えた声音を突きつけて、京秋は彼女の返答を待つ。
 密やかに忍び寄るのは薄闇か――それとも。

 蔦が這いずる煉瓦の壁で二つの影が躍り出す。それはまるで捕食者と被捕食者。薄墨を更に薄く伸ばしたかのような色の影は猫と鴉に見えなくもない。
 得物を繰り出したのはほぼ同時。きぃんという甲高い金属音が黄昏を打つ。たんっと軽快な音を立てて地面を蹴ったしなやかな体が苛立つ探偵の頭上で翻る。
 視界を掠めるのは柔らかな亜麻色。黒とは似ても似つかぬふんわりした色彩。分かっている。分かっている、けれど。
 顔を振って髪を跳ね上げ、女は再び地を蹴る。白い手に光るのは長い爪。獲物を狩るべく研ぎ澄まされた爪をひと舐めした唇が艶めかしい笑みの形を刻む。
 吐気がする。悪戯っぽいところはこんなにも似ている。
 だが、奔放で挑発的な笑みは、健気で穏やかなあの微笑とは違うのに。
 「悪ふざけのつもりか」
 それでも、静かで深い筈のバリトンは熾火のような怒りを孕む。
 女は答えない。京秋の苛立ちに気付いていながら、それすら楽しむように――からかうように、小悪魔の笑みを湛え続ける。
 曖昧な薄闇の中で瞬くのは緑色であるのに、平静さを失った京秋の目にはそれが確かに金色に見えていたのだ。
 急速に肥大した感情がついに堰を切り、甲高く弾けた。
 「いい加減にしろと言っている!」
 珍しく声を荒げて一気に踏み込む。相手がひゅっと息を喉に詰まらせる気配が伝わった。

 体勢を立て直す暇すら与えなかった。
 過剰なまでに鋭利な漆黒は情けも容赦もなく迫り――亜麻色の房が、静寂の中にはらりと落ちた。

 「……と。ひどいじゃない」
 途中から無残に断ち落とされた髪の毛を指先で弄び、橙香という名の女は拗ねた顔を作る。綺麗な逆三角形のラインを描く小さな顔はまるで猫のよう。小首をかしげた上目遣いと艶っぽく尖らせた唇に不快な既視感を覚え、京秋は漆黒の愛剣を握る手に力を込める。
 「もう、やーねそんな怖い顔して。久々の再会だっていうのに」
 京秋の眉間に刻まれた皺の険悪さに気付いたのだろう。橙香はひょいと肩をすくめ、敵意はないといでもいうように爪をしまって軽く両手を広げてみせた。
 「冗談だってば、じょ、う、だ、ん。さっきのはほんのお遊びよ。秋、最近様子がおかしいから――」
 おしゃべりで気まぐれな女はそこで口をつぐまざるを得なかった。
 巨大な羽を模した漆黒の片手剣・響(ユラ)が、華奢な喉元に真っ直ぐに突きつけられていたのだ。


■scene 2■ She is a cat,but NOT black

 「……何の冗談?」
 整えられた眉が訝しげに中央に寄る。「まさか、さっきのお返しとでも言うつもりじゃないでしょうね?」
 「立ち去りたまえ」
 「何ですって?」
 「立ち去れ。今すぐにだ」
 柳眉を跳ね上げた橙香に投げつけるのは有無を言わせぬ命令と拒絶。
 長い睫毛に縁取られた大粒の緑眼がぱちぱちと瞬かれ、揺れる。ああ、そんなしぐさまでもがあの猫にそっくりだ。
 しぐさだけではない。やや吊り上がった眼の形も、長く反り返った睫毛も、何もかもがあの黒猫と同じではないか。
 「どうしたの? あたしはただ心配して様子を見に来ただけよ。さっきのはほんのお遊びって言ったじゃない、子供がじゃれ合うのと同じようなものだわ」
 「そんなことを言いたいわけではない」
 「じゃあどうして? 本当にどうしたのよ、おかしいわ。ねえ秋――」
 「その声で私の名を呼ぶな!」
 黒猫に似た声で名を呼ばれる度、京秋の中に居座る錆びた刃がぞりりと蠢動する。この女はどうしてこうまでも彼女に似ているのだろう。姉妹だから、彼女の妹だからという理由だけでこうも似るものなのだろうか。
 かつて愛した女の面影を持つ女は、物静かで穏やかな京秋らしからぬ語気にただただ唖然としているだけだ。

 ――秋。ねえ、秋……

 彼女は頻繁に京秋の名を呼んだ。まるで名を呼ぶという行為自体に意味があるとでもいうかのように。
 どうしてそんなに名を呼ぶのかと問えば、名を呼ばれて振り返った時の京秋の顔が好きなのだと彼女は答えた。名を呼ばれて、自分の名を呼び返してくれる京秋の声がたまらなく好きなのだと言って微笑んでいた。
 酔ったように、まどろんでいるかのように。とろけそうな声で幾度も名を呼び、彼女は幾度も京秋の声をねだった。
 京秋も何度でも呼んでやった。求められるまま、幾度も幾度も彼女の名を呼んでやった。
 「……気に障ったのなら謝るわ。だけど納得はできない。どうして急にそんなことを言われなきゃいけないの?」
 かすかに眉根を寄せたまま京秋を見つめる瞳は緑色であるのに。上等な洋酒のような色をした光を受けて甘くきらめく髪の毛は亜麻色であるのに。
 今の京秋の目に映るのは橙香ではない。橙香によく似た――橙香の姉である、黒髪に金の瞳を持つあの女。
 傾いた夕陽を背に受けた京秋の影は橙香に向かって長く伸びている。橙香を激しく威嚇するかのように、曖昧な鴉の姿を取った影がざわざわとさざめく。
 「猫はいつもそうだ」
 「何ですって?」
 「だから猫は嫌いなのだよ」
 唾棄するように吐き捨て、剣を握る手にぎちりと力を込める。
 「猫はいつだって気まぐれで身勝手だ。相手の気持ちなど分からない、理解しようともしない。相手の感情になど無頓着なのだろう君たちは? 自由気ままでわがままなのが猫という獣なのだからね」
 「待って……待って。ちゃんと説明して。どういうことなの?」
 「だから猫は嫌いだと言っている」
 峻烈だ。あまりに峻烈だ。京秋は過剰なまでに厳しい糾弾の手を決して緩めない。橙香が苦しげな表情でくしゃりと髪を掻いたことにすら気付かぬまま、猫に対する怒りを――あの黒猫に対する憎悪を目の前の橙香にぶつける。
 「相手のことなど一切意に介さない。目新しいものには目の色を変えて迫るくせに、振り回すだけ振り回して興味が失せれば襤褸雑巾のように引き裂いて捨てる。まるでおもちゃを取り替えるように――ネズミや虫を玩具代わりに爪で弄ぶのと同じように」
 深紅に染まる記憶がぞわりと全身を貫く。
 まず翼をむしられ、地べたに叩きつけれらて体の自由を奪われた。次に喉笛を噛みちぎられて悲鳴を上げることすらかなわなくなった。それから腹を食い破られた。にゅるりと引きずり出されたはらわたをぐちゃりと潰され、喰らわれ、血を啜られた。
 鴉と猫は同じ色をしていた。夜の色をした鴉は自身の血に染まり、夜の色をした猫も鴉の血を浴びて、同じ色に塗りたくられた。
 そして鴉は激烈な朱から底なしの黒へと突き落とされる。愛する女に喰らい尽くされた京秋はかたちを保つことすらできず、闇に同化して生きるしかなかった。茫洋とした闇黒に身をやつした鴉を染めるのは激痛と怒りと絶望だった。
 「猫は野蛮だ。いつだって野蛮で残酷で、気まぐれに人を裏切る」
 どうして。どうして。どうして彼女に喰らわれねばならなかった。
 愛していた。愛されていた。そう思っていた。
 それなのに、なぜ。
 「君も私を喰らいに来たのだろう? 彼女と同じように私を引き裂き、喰らい尽くし、消し去ろうとしているのだろう?」
 唐突で盲目的な誤解に橙香の眉が険しく跳ね上がった。
 「ちょっと待ってよ、何言ってるの? そんなわけ……」
 「いいや、そうに決まっている。君も猫だ、同じ猫だ、絢(あや)と同じに決まっている!」
 思わずその名が唇からこぼれ落ちた。もう二度と呼ぶものかと思っていた、かつて愛した女の名が。
 じきに訪れる夜を待たずに思考と意識が暗闇に染まる。
 漆黒は黒猫の色。彼女の色。黒髪に覆われた細面が、亜麻色の髪を揺らす橙香の顔に重なる。
 似ているが、違う。確かに違うが、あまりに似ている。ぐるぐると回る思考は堂々巡りを繰り返すだけ。
 今の京秋は黒猫への憎悪に焦がされ、似て非なる茶猫に黒猫への激情をぶつけている。


 両脇を挟む建物の煉瓦をしんしんと染め上げる夕陽は弱々しい。夜に喰らい尽くされんとされる黄昏が辛うじて放つ光の残滓はまるで断末魔のよう。もはや虫の息の太陽を背に受け、京秋の顔は深く濃い影に染まる。無音で凝る闇の中、右目のモノクルが凍てつくような光を放った。
 姉の名を呼ばれ、姉と同じだと断じられ、橙香という名の茶猫の妖魔は苦しげに顔を歪めた。しかし鴉に茶猫の感情は届かない。京秋の目に橙香の姿は映らない。剣を突き付けた鴉が糾弾するのは茶猫ではなく黒猫だ。
 「……ひとつだけ教えて」
 漆黒の切っ先を突き付けられてなお亜麻色の猫は微動だにしない。凍てつくような切っ先に甘んじたまま、姉のかつての恋人に問う。
 「姉のことをどう思っているの?」
 「どう、とは?」
 「愛していないの? 姉への愛情はもうないの?」

 静々と沈んでいく太陽に急き立てられ、仕事帰りの勤め人たちは足早に行き交う。しかし奥まったこの路地には表通りの喧騒は届かない。活気に満ちた雑踏は緩慢に間延びし、黄昏と一緒に静かに差し込むだけだ。
 濃密な夕陽を受けて、響の刀身が黒曜石のように鋭く光る。足許でもがくように蠢く影は朧で混沌とした鴉の形。

 「愛情など、ない」
 黒い切っ先は微塵も揺らがぬ。整ったマスクを影に染めたまま放たれる言葉は断固たる意思と、訣別。
 「当然のことだ、問うまでもないと思うがね。この身を喰らわれて尚愛せると……許せるとでも思っているのか?」
 「ならどうするの」
 じっと京秋を見つめる瞳は緑色だ。それでも、睫毛の反り具合も瞳の形もあの黒猫に瓜二つで。
 「姉が憎い? 猫が憎い? 姉にそっくりなあたしが憎いのね、そうでしょう?」
 鴉の色をした剣が白い柔肌をぷつりと喰い破る。
 背筋を伸ばして進み出た橙香の首に響が食い込んでいた。
 「だったらあたしを殺せばいいわ。姉に似たあたしに仕返しをすればいい。この剣でずたずたに切り裂いてしまいたいんでしょう? 姉があなたにしたのと同じように――」
 京秋は答えない。
 白い首から流れる血は細い糸となり、艶めかしい丸みを帯びた胸元へと伝っていく。
 「どうしたの? 殺したいんでしょう? 殺せばいい。遠慮なく殺せばいいわ、それで気が晴れるのなら構わない!」
 毅然と言い放った橙香の声は硬質な建物の壁に凛と跳ね返り、尾を引いて、消えた。

 沈黙。白い面(おもて)にはらりとかかる亜麻色の髪の音までもが聞こえてきそうな静寂。互いの息遣いだけがかすかに漏れる。
 顎を引いた橙香は真っ向から京秋を見据える。瞳の中で燃えるのは激しい感情。まるでそれは全身の毛を逆立てた猫のようで――
 正面から夕陽を受けて燃え立つ緑色に、京秋は初めて目を揺らした。

 目の前の瞳は緑色。決して金色ではない。薄い夕陽を受けて輝く髪は、黒ではなく亜麻色。
 ああ、それに、あの黒猫はこんな物言いなどしないではないか。
 京秋が愛した黒髪の彼女は、これほどまでに気性の激しい猫では――ない。

 焼け石のように全身を焦がしていたものがすうと音を立てて冷えていく。
 ゆるゆると腕を下ろすと、自分を殺せと迫った女は怪訝そうに眉根を寄せた。
 「……いや」
 足許でざわめいていた影が静かになる。逆巻いていた波がゆっくりと引いて、深い双眸は平素の静謐さを取り戻しつつあった。
 「済まなかった。これではまるで八つ当たりだ」
 京秋の面には先程までの烈しさはない。苦い虚脱感と疲労を滲ませ、小さく詫びる。橙香は首筋から流れる血を拭うことも忘れ、気が抜けたように小さく息を吐いた。
 ふわりと揺れる髪の毛は亜麻色。だが、亜麻色の髪に覆われた白い顔はあまりに似ていて、凪ぎつつある京秋の面に再びかすかなさざなみが立つ。

 茶猫は黒猫ではないが、黒猫によく似ている。
 それでも茶猫は黒猫とは違う。
 だが――黒猫と同じ、猫だ。

 京秋は綺麗に折りたたまれたハンケチを胸ポケットから取り出して橙香に差し出した。橙香は怪訝そうに顔を上げてハンケチと京秋とを見比べる。
 「拭くといい」
 とんとんと自分の首を人差し指で示して告げた。「これは君にあげよう。返してもらう必要はない」
 「じゃあ新しいのを買って返すわ。とびきり洒落てて上等なのを贈るわよ」
 「必要ないと言っている。君とは出来るだけ顔を合わせたくないからね」
 軽口をにべもなく受け流し、胸の奥でちりりと焦げる炭を抑えつけて踵を返す。眉尻を下げて唇を噛んだ橙香の表情は京秋の視界には入らない。
 「今日のことは済まないと思っている。だが、もう以前のようにはいかないようだ」
 背を向けたまま突きつける宣告は一方的な拒絶で、訣別。
 「もう君とは――猫とは、仲良く出来そうにもない」
 振り向くことなく言い捨てて、薄暮に染まった鴉の妖魔は足早に立ち去る。
 暗い路地に独り残された茶猫がどんな表情で見送っていたかなど知る由もないし、知りたいとも思わなかった。

 (秋。ねえ、秋)

 漠とした薄闇の中、甘くとろけるような声が耳にまとわりついた気がした。
 
 (呼んで。あたしの名前を呼んで。その声で、絢、って呼んで)
 
 たった二文字のその名を紡いでやる度、彼女はひどく幸せそうに笑み崩れた。平素の健気さからは思いもよらぬほど無防備なあの微笑が好きだった。
 触れれば溶けてなくなってしまいそうな脆弱な微笑を思い出して――思わず名前を呼びそうになって、唇をきつく内側に巻き込む。
 二度と呼ばぬ。呼んでたまるものか。記憶から消してしまいたいくらいの名前なのだ。
 もっとも――忘れることなどできないだろうと心のどこかがざわめいてはいたけれど。
 (そうとも。忘れられるはずがない、あんな仕打ちを受けたのだから)
 内なる己をそんな言葉で納得させ、外套の襟を立てて足を速める。

 錆びたガス灯の上でギャアと鳥が鳴き、ふと顔を上げる。
 迫る暗闇に急き立てられるようにして一羽のカラスが飛び立って行った。
 夜の色をした鳥を見送る目尻に、やけに苦い色が滲んだようだった。 


■Epilogue■ the cat is pitch-black

 「ああ……済まない。大した話ではないのだが、少し長くなってしまったようだ」
 気付いた時には太陽はビルの向こうの地平線の中に溶け入ってしまっていた。路地裏にわずかに差し込む夕焼けの残滓は脆弱で、精彩を欠いている。
 しんとした薄闇の上に濃い闇が忍び寄りつつある。冷え始めた空気を足許に侍らせながら、彼は相変わらず穏やかに微笑むのだ。
 「おや、どうしたのかな。何か聞きたそうな顔をしているが――」
 ゆっくりと持ち上げた手を顎に当て、彼は浅く苦い笑みを唇に刷いた。「ああ、言わなくてもいい。茶猫の彼女とはその後どうなったのか、と訊きたいのだろう?」
 塀の上で香箱を作った黒猫がぴくりと髭をうごめかせる。それに気付いているのか気付かぬようにしているのか、彼は眉の端をほんの少し持ち上げてから口を開いた。
 「あの気まぐれな猫はしばらくはおとなしくしていたが……そのうちまた私の立ち回り先に出没するようになってね。いくら突き放しても叱りつけても聞かないのだよ。どうして猫という生き物はああも自分勝手で我が強くて図々しいのだろうか。彼女たちには本当に困ったものだ」
 もっとも、と小さく肩を揺らした彼は諦観とも自嘲とも取れぬ微苦笑を落とす。
 「かつてはそんな茶猫とも仲良くできるほどに黒猫を愛していたのだけれども」
 その言葉が通じたというわけではあるまい。しかし塀の上から様子をうかがっていた猫がかすかに喉を鳴らし、餌でもねだるかのような甘えた声でひと鳴きしてみせたことは確かだった。
 「おっと、いけない。猫の鳴き声にはやはり鳥肌が立ってしまう」
 足許にすたんと降り立った猫を避けるように、あくまで優雅な風情を崩すことなくするりと後ずさる。
 「見たまえ、もうじき夜の帳が下りる。猫という獣は夜行性だそうだね? 夜の色をした猫は夜に身を溶かして目を光らせるというわけだ。猫が大嫌いな私はそろそろおいとまするとしよう」
 そして、貴人に一礼でもするかのように右腕を体の前で折り曲げてみせる。だが、恭しく別れを告げる彼の背後には行き止まりの壁が待っているだけだ。
 悪戯っぽく「ふふ」と笑う彼の足許で、付き従う影がちろりと揺らめいたように見えた。
 「おや、名残を惜しんでくれるのかな? だが心配はいらないよ。先日も述べた通り……黄昏が差し込む時、またどこかで会うことがあるかも知れないのだから」

 もっとも、その時は猫の相席はごめんこうむりたいものだ。奔放で野蛮な生き物は二度と私の前に現れないでほしいものだね。

 苦笑めいた一言に気を取られた一瞬。
 気が付けば彼の姿は煙のように消え失せていた。あの時と同じように――まるで薄い闇の中に溶け入ってしまったかのように、あの謎めいた微笑みの気配だけを残して。

 フニャーオ。

 所在なげに鳴く猫の声が、日の暮れた路地裏に長く間延びして取り残された。


 (了)

クリエイターコメント二度目のご指名ありがとうございます。京秋様の声で名前を呼ばれてみたい宮本ぽちです。

(勝手に)前作の流れに倣い、シリーズ物の雰囲気に仕立ててみました。
他の設定に関しては前作で描写させていただきましたので、今回は姉妹との関係のみに的を絞って書かせていただきました…が、前作よりだいぶあっさりめになったでしょうか。
短いながらも詰め込む所は詰め込んだつもりですが…。

一部感情的すぎる描写があり、京秋様には似つかわしくないかも知れないと感じたのですが…
経緯が経緯ですので感情的になることも有り得ると思い、このまま提出してみました。滅多に見せない一面かな、と。
今回も素敵なオファーをありがとうございました。

尚、『ハンケチ』は誤字ではなく、時代的に『ハンケチ』のほうがそれっぽいからでした。
公開日時2008-12-19(金) 22:40
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