★ 桜下に待ち居て ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-7367 オファー日2009-04-06(月) 00:21
オファーPC 藤(cdpt1470) ムービースター 男 30歳 影狩り、付喪神
ゲストPC1 京秋(cuyy7330) ムービースター 男 38歳 探偵、影狩り
<ノベル>

■Prologue■ under the Cherry blossoms

 「よう。いい日和だねえ」
 唐突に声をかけてきたのは般若であった。
 昼下がりの空の下を白っぽいものがちらちらと舞っている。紙吹雪のように白っぽく、しかし紙吹雪よりも頼りないそれは桜の花びらであった。
 何の変哲もない街角、平凡な満開の桜の下。そんなありふれた場所に和服を着崩した般若が佇んでいる。粋という言葉がよく似合う人物だ。無造作に肩に引っかけた振袖、手にした煙管、さらさらとなびく灰色の髪の毛。この風景のためにあつらえられたかのようなその姿は、絶え間なく踊る花弁の中にごくごく自然に溶け込んでいる。
 精緻な日本画のような光景に思わず息を呑むと、男の声を持つ般若は「くくく」と愉快そうに喉を鳴らした。
 「びっくりしたかい?」
 くいと持ち上げられた般若面の下から端正な、しかし悪戯っぽい青年の顔がのぞく。
 「はは、そんな顔しなさんなって。驚かすつもりじゃなかったんだ」
 その割には随分楽しそうにしている。持ち上げた面を斜めに引っかけ、青年は形の良い唇を煙管の吸い口に寄せた。
 確か般若面とは憎悪や嫉妬に狂った女の情念をあらわしたものではなかったか。男の彼がなぜそんなものを纏っているのだろう。だが、飄々としながらも洒脱な風情を崩さぬ彼の前ではそんな質問は野暮というものだ。
 「あんたも桜見物か? ま、珍しくもねえよな、桜なんざ。だけど、桜の下にいるとどうも妙な心持ちになる。感情がざわざわするんだ。……不思議なもんだぜ」
 緩やかに吐き出された紫煙は輪の形をしていた。しかしそれもすぐにほどけ、形を失い、桜吹雪の中に蕩けるようにして消える。
 さあと風が吹き、ざわざわと桜を揺らし、般若面の下の髪がさらさらと流れた。
 「こんな所で何をしてるのか、って?」
 やがて斜めに顎を引いた青年のおもてには、春の夕暮れのようにけだるく物憂い色が差していた。
 「待ってるのさ。陽が暮れるのを。陽が暮れたら会おうって約束した……わけじゃねえけどな」
 俺が一方的に待ってるだけだとひとりごち、もう一度煙を吐き出した。煙は輪ではなく、絹糸をより合わせたような形をしていた。
 煙が先程と同じように消えるのをぼんやりと眺めた後で、紫の双眸がすいと向けられる。
 「あんた、行かねえのか? もしかして暇なのか」
 からかうような声音とは裏腹に、涼しげな目許はかすかに緩んだようだった。
 「だったら暇潰しにどうだい? 与太話のひとつでも」
 大した話じゃねえが、と前置きした青年は前身頃に腕を差し込んで木の幹にもたれかかった。
 見上げれば、桜。人の心に入り込むような色と香りが視界を圧倒的に、しかし穏やかに埋めている。


 ハザード、ってえのか? 映画の中の空間や領域がこの世界に現れることがあるらしいな。
 俺がそのハザードを見つけたのはたまたまさ。どんなからくりか知らねえが、俺たちが元居た場所がそのまんまこっちの世界に出て来たらしいって噂を聞いて行ってみたってわけだ。
 なに、ハザードっていっても、なんてことのねえ場所だ。黄昏から宵闇を何度も繰り返してるだけの人気の無い街よ。物珍しいことなんかひとつもありゃしねえ。
 だけど、つい懐かしくてな。特に用はねえんだが、毎日行っちゃぶらついてたんだ。
 ……いや、違うな。まったく目的がなかったわけじゃねえ。
 もしかしたら、って思ったのかもな。あそこなら――あいつが来てくれるかも知れねえってさ。


■scene 1■ Nightmare

 花が舞う。闇を裂くように桜が散る。
 はらはらと。ひらひらと。圧倒的な花吹雪は屏風のように視界を遮る。
 踊る、踊る。狂ったように花は踊る。圧倒的な漆黒の中を舞う桜は雪のように白く、脆い。
 いっそ雪であれば良かった。雪であればすべてを均しく覆い隠し、雪(そそ)いでくれただろう。だが、これは桜。意地悪な風に呆気なく散る、あまりにも脆弱な花。
 はらはらと。ひらひらと。一心不乱に踊り続ける花弁は妖しいまでに甘い香りを運ぶ。
 ならば、花吹雪の向こうにちらと映ったそれは桜の魔力が見せた幻であったのだろうか。花屏風の向こうで無表情にきらめいたそれは刀などではなく、単なる見間違いであったのであろうか。
 ちらちらと。きらきらと。舞い散る桜の隙間から、確かに“それ”が顔を出す。
 淡い色の吹雪の中に不意に激烈な色彩が混ざり込んだ。
 それは、赤。雪のごとき桜が、瞬く間に朱に染まる。
 赤は彼の髪の毛の色。彼の眼の色。そして――噴き上がる血潮と、同じ色。


 藤はのろのろと目を開いた。
 辺りを包むのは夜の帳。さざめく風に舞う花吹雪。鼻腔をくすぐる花の香りは楚々として、しかしこんなにも甘い。立ち上がる気にもなれずに満開の桜の樹下に座り込んだままでいると、けだるげなあくびがひとつこぼれた。
 (ついうとうとしちまったらいしな。……にしても、桜吹雪の中で桜の夢を見たってか。洒落てるねえ)
 悪夢と呼ぶには足りぬ。だが、醒めた後に余韻に浸れる類のものでもない。
 それに、夢と呼ぶなら今のこの時間こそ夢なのかも知れない。映画という夢が『実体化』するこの銀幕市。自分も、故郷と同じこの場所も、夢の神子の魔法に翻弄されて顕現したうたかたのようなものなのだ。
 かつていた世界そのままのこのハザードを見つけたのは何月何日のことであったか。映画の中とは似て非なる場所と知りつつ、黄昏と宵闇を無言で繰り返すだけのこの街を訪れる日々が続いている。
 誰に会うでも何をするでもなく、寂寞と静寂が横たわる無人の街をただそぞろ歩く。そして、夕暮れが夜の帳に取って代わる頃になると小高い丘の上にあるこの桜の下に足を運び、暁の刻を迎えるまでただぼんやりと過ごす……。何かの儀式であるかのように静々と繰り返される営みの理由を知る者はない。
 はらはらと。ひらひらと。
 桜の下で時間だけが流れる。静かだ。あまりに静かだ。深更の闇を渡る風と舞い散る桜の音さえ聞こえてきそうなほどに。丘の下に広がる街並みも人の息吹は感じさせず、夜の帳の下でただ押し黙っている。
 やがて天球は濃い藍からコバルトへと変わり、東の果てから朝が訪れる。
 「……さて。ぼちぼち帰るか」
 朝焼けの太陽が白く変わり始める前に桜の下を離れ、前身頃に手を差し込んだ藤は急ぐでもなく歩き出した。
 「――ん」
 かすかな気配を感じて頭の上の般若面に触れると、面の目の辺りにひとひらの桜が舞い降りていた。
 小さな花弁をつまみ上げ、そのしっとりした感触に口許をかすかに緩める。
 「花の命は短くて……ってか」
 謡うように呟いてふっと息を吹きかけると、儚さの象徴である花びらは藤の手を離れていずこかへと漂い去った。
 はらはらと。ひらひらと。
 振袖を引っかけた背中を舞い散る桜だけが見送っている。だが、藤が待っていたのが払暁であったのかどうか、ともに夜を明かしたこの桜ですら知りはせぬ。
 

 風景の変化よりも先に覚えのある空気に気付き、京秋はふと足を止めた。
 ブランデー色にとろける斜光。赤煉瓦の建物の間をゆるゆると渡る風は埃っぽくも懐かしい温もりに満ちている。そして、目の前に広がる街並はひどく心地良く京秋の記憶を揺すった。
 「ふむ。――良い黄昏だ」
 かすかに頬を緩める京秋の足許で、夜の闇の色をした影がさわさわとさざめいた。
 果たしてどこが境界であったのだろう。銀幕市内を散策していた筈の京秋はいつの間にか映画『トレイサー』の世界に迷い込んでいた。
 (ハザード……ということなのだろうか? 実害はないようだが)
 足の下はいつの間にか石畳に変わっている。上等な革靴が石を踏む感触さえ懐かしい。アンダンテの速度で響く靴音を楽しみながらゆっくりと街並を辿る。
 一定の間隔で街頭に佇むガス灯がともるにはまだ早い刻限だ。とろとろと地平線に溶けていく太陽に染め上げられる街は閑散として、人の気配らしきものは感じられぬ。そのせいなのだろうか、かつて暮らしていた筈の場所なのに、奇妙な違和感と錯覚に捉われてしまいそうになる。
 (不思議なものだ。まるで――)
 「“映画”の“セット”ってぇのはこんな感じなのかも知れねえなあ」
 京秋の心中を読んだかのような、しかしどこかのんびりとした声が聞こえて来てふと足を止めた。
 石畳の上にすらりと伸びた影。影を辿るように目を上げれば、着崩した和服姿で腕を組み、般若面を頭に引っかけた男が塀に背中をもたせかけていた。
 「おや。君は」
 「ごきげんよう、京秋君。良い黄昏だね」
 和装の男は軽く顎を引いて京秋の声音と口調を真似てみせた。「――なーんてな」
 「……戯れはよしたまえ」
 人懐っこく、しかしからかうように笑う男に京秋は軽く眉根を寄せる。男は愉快そうに肩を揺すってひらひらと手を振った。
 「よ、秋。変わらねえなぁ」
 「君のほうこそ。――藤貴君」
 京秋が一字ずつ噛み締めるように名を呼ぶと、周囲に“藤”と呼ばれている彼はひょいと眉を持ち上げた。
 「フジタカ、ねえ」
 その後で、煙管の吸い口に寄せた唇にどこか懐かしそうな微苦笑を滲ませる。「久し振りだな、その名前で呼ばれるの」
 「そうだろうね。本名を明かすことは自分の素性を相手に教えることにも繋がる、誰にでも明かして良いものではない。それに、古くは相手の名を知るという行為には特別な意味があったそうだよ」
 「ああ、いい、いい。小難しい話聞いてると眠くならぁ」
 小指で耳の穴をほじりながら藤は大袈裟にあくびをしてみせた。些かだらしないしぐさに京秋は浅く苦笑いする。
 「眠くなるとは失敬ではないかね?」
 「褒め言葉だぜ? 古典音楽を聴いてると眠くなるのは心地いいからだって言うだろ。それと同じさ」
 「……ふむ。一応額面通りに受け取っておこうか」
 「相変わらず素直じゃねえなぁ」
 「あいにく、探偵は疑うのが仕事でね」
 黄昏色の寂寞の中、再会したふたつの『影』は静かに笑い合う。人のいない街に二人の影法師だけが濃く長く伸びている。


 「どうやらここは私が暮らしていた街のようだ。正確には、“私の映画から実体化した場所”……といったところだろうかね」
 「みたいだな。この先に俺の映画から実体化した場所もあったぜ」
 「ほう」
 「丘の上に桜が立ってるだけの場所さ。しばらくここでぶらついて、夜になったらそこに行くことにしてる」
 「……桜、か」
 空を染めるのは茜色と藤色が中途半端に入り混じった複雑な色合いだ。昼でも夜でもない曖昧な薄闇のヴェールに覆われた無人の街並を二人はゆっくりと辿っている。
 ぽつぽつと互いの近況報告から始まり、いつしか話題は昔のことへと移って行く。話の中心は映画の主人公であり、藤と兄弟同然に育った万屋の青年のことだ。赤い髪に赤い眼という非常に目立つ外見を持っている彼はとにかく口が悪い。しかしその反面、お人好しで無鉄砲な好青年でもあり、元々面倒見の良い藤は本当の弟のように彼に接していた。
 「話は変わるが、この先の路地で殺人事件が起こったことがあってね」
 「髪の毛を抜く女の話だろ。むごい事件だったよな。そういやあの別嬪さん、なんて言ったっけ? 茶色い髪に緑の目の、猫みたいな女」
 「………………」
 「お? どうした、探偵さん」
 「まったく、野暮なことだ。察しと奥ゆかしさがこの国の伝統だというのに」
 「あ?」
 「君もこの国で暮らしているのならば伝統的な心根を身に着けたまえ。郷に入れば郷に従えと言うだろう」
 京秋の物言いは良く言えば婉曲的で、悪く言えば回りくどい。藤は「野暮はどっちだ」と呆れ顔だ。
 「奔放で野蛮な生き物の話はどうでも良い。それよりも、藤貴君」
 「何だよ」
 「話を戻すようで悪いが……君の弟は未だ実体化していないようだね」
 モノクルの下からちらりと藤の横顔を窺うが、煙管をくわえた藤の表情は動かない。ただ「そうみたいだな」という短い答えが返ってくるだけだ。
 藤の瞳の色は彼の呼び名の通り藤の花の色をしていると京秋は思う。刻が黄昏から宵闇へと変わる寸前の空に現れる、美しくもひどく脆弱なあの色に似ているとも。
 太陽が沈み、夕焼けが消えて、暗闇がやってくるまでのほんの刹那の空隙。その瞬きほどの時間の間に空は燃えるような朱色から淡い藤色へと変化する。だが、その色は夕焼けの後ではあまりに目立たず、圧倒的な闇にすぐに駆逐される運命にある。そんな色彩を気にかける人間が果たしてどれだけいるだろう。
 夜の帳が密やかに降り始めた。ガス灯がぽつりぽつりとともり、ひとけのない道の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。だが、整備された道路の両脇に立ち並ぶ建物に灯が入ることはない。無機質な静けさだけが無表情に街を押し包む。
 ひんやりとした夜気が足許に這い寄ってくる。それでも春の夜はどこかぼんやりと暖かい。踵を返すそぶりも見せず、二人はゆったりと歩を進めていく。
 「そろそろかな」
 春の空気を煙と一緒に吸い込み、藤は軽く眼を細めた。「どうだ。行ってみねえか」
 どこから漂って来たのだろうか、すいと持ち上げられた指の先では雪のようなものがちらちらと舞っている。雪のように脆弱で、しかし雪よりはほのかに暖かい色を纏っているそれは桜の花弁であった。
 「春宵一刻値千金、夜桜求めてそぞろ歩き……ってのも粋だろ?」
 詩でも吟ずるかのように朗々と謡い上げ、ぷかりと煙の輪を吐き出してみせる藤の横顔は穏やかだ。京秋は沈黙をもって肯定の答えとなし、それを汲み取った藤も浅い微笑を返しただけで爪先の向きを変えた。どこからともなく漂ってくる花びらにいざなわれるようにして。
 さわさわと。ちらちらと。
 潤んだ風が穏やかに吹き渡る。風に翻弄される花びらはいつしか数を増して、降りしきる粉雪のように間断なく踊り続ける。


■scene 2■ waiting for…

 やがて建物の列は途切れ、石畳の道は湿った土に変わり、満開の桜が待つ小高い丘の上へと辿り着いた。
 「……ほう。見事なものだ」
 京秋が感嘆の声を漏らしたのも無理からぬことだっただろう。
 春特有の暖かな湿気のせいだろうか。夜空は紗のような雲に覆われ、その向こうで満月がかすかに滲んでいる。しかし風流な望月すらこの桜の前では脇役にすぎぬ。視界を覆う花は圧倒的だが、ひどく静謐だ。花の重みが枝を艶めかしくしならせ、かすかな風にさえさらさらと囁きながら揺れている。それに、この甘い香りはどうしたことだろう。決して自己主張の強い香りではないのに見る者の心に入り込み、感情を妖しくざわめかせるのだ。
 藤は何をするでもなく桜の幹にもたれかかって煙管をふかしている。京秋は上等な洋酒の芳香を味わうように春の夜気を吸い込み、ゆったりと樹皮に背を預けて腕を組んだ。
 静かに、緩やかに時間が流れる。時折吹く風。まるでそれだけが責務であるかのように一心不乱に舞い続ける花弁の中、ふたつの『影』は何を思う。
 「――なあ」
 やがて口を開いたのは藤であった。軽く顎を引いて瞑目していた京秋はゆっくりと目を開く。
 「どういうからくりになってるんだと思う? 俺だけ実体化して、あいつはこっちには来ねえなんてさ」
 「それは誰にも分からないことだ。人智が及ばないからこそ魔法は魔法と呼ばれているのだろう。神の魔法となれば尚のこと……我々が用いる“運命”や“必然”などという概念は通用しないし、無意味だと考えたほうがいい」
 「分かってらぁ」
 深いバリトンで静かに紡がれる言葉を藤はひらひらと手を振ってかわした。「ちょっと言ってみたかっただけだ。答えがあるなんて最初から思っちゃいねえさ」
 「ああ。……分かっているよ」
 藤は目をぱちくりさせたが、すぐにじんわりと微笑んだ。
 「だから、待ってるんだ。あいつが俺を殺しに来てくれるのを。この場所で」
 そして――緩やかな笑みを崩さぬまま、まるで世間話でもするかのような口調でそう言ったのだった。
 「恐らくそうだろうと思っていた。桜の咲く丘と聞いた瞬間から」
 京秋の表情と声音も藤と同じように静かで、穏やかだ。「ここは君と“彼”にとって特別な場所。そうだろう?」
 映画の中で、主人公と藤の一騎打ちが行われたのがこの桜の下だった。
 「はは、参ったね。すべてお見通しか」
 「これでも探偵の端くれなのでね。洞察力くらいは持ち合わせているつもりだ」
 「……だから何も訊かなかったのか。俺が毎晩ここに来てるって言った時も」
 京秋は答える代わりに軽く眼を細めてみせただけだった。話したくなければ話す必要はないとモノクルの奥の瞳が静かに告げている。
 「馬鹿馬鹿しいと思うだろ?」
 藤は乾いた笑いを浮かべて肩を揺すってみせた。自嘲を含んだ言い方に京秋がかすかに眉を持ち上げる気配が伝わったが、構いはしない。
 「あいつが実体化するかどうかなんて分からねえのに……もし実体化したとしても、ここに来てくれるかどうか分からねえってのに」
 映画の主人公であるあの青年は藤にとって弟同然の存在だ。だからこそ藤は彼に対する罪悪感を拭い去ることができない。
 弟は藤の復讐のために人を殺した。最愛の弟を藤が犯罪者にしてしまった。心身をきりきりと絞め上げるこの痛みはその報いで、証。課せられているのではなく、藤は自ら望んでこの痛みを背負っている。
 「桜吹雪ってなぁうまい言い方だよな。夜桜ってぇのはなんでこんなに白っぽいんだか……本当に雪みてえだ」
 緩やかに煙を吐き出し、藤はかすかに笑んでみせた。「どうせなら雪みてえに綺麗に雪(そそ)いでくれりゃいいのにな」
 「雪いでほしいとは、何をだい?」
 「さてね。少なくとも、俺の罪悪感を……ってわけじゃねえことは確かだが」
 「君も知っているだろう。銀幕市はやり直しができる場所だ」
 藤は答えずにぷかりと煙を吐き出しただけだった。
 藤の望みはただひとつ。映画の筋書き通りに断罪されることだけ。できるなら――弟の手によって。
 「だが、藤貴君」
 ざあと風が吹き、花びらが舞って、刹那藤と京秋の間を遮った。「共に待とう」
 視界を気まぐれに塞ぐ花びらに藤は軽く眼を眇める。月明かりを受けたのだろうか、桜色の屏風の向こうで京秋のモノクルがかすかに光ったようだった。
 「――私は君のことを少しは知っているつもりだ」
 ちらちらと。ひらひらと。花吹雪の向こうから、いつもと変わらぬ物静かな探偵のおもてがゆっくりと現れる。
 「かつて“狩り”の対象として追われた君を私が匿ったことがあっただろう? その折に君の意志の強さを見せてもらった。誰かにどうこう言われて翻意するような男ではないと感じたものだ」
 「悪かったな、頑固者で」
 「悪いことではない。頑固や頑迷というよりは一途というべきだろうからね。嫌いではないよ、君のそういうところは。……彼への愛情の深さも含めてね」
 かすかに笑みを浮かべた京秋に藤は瞳をぱちぱちと瞬かせた。
 「だから、他人に君の意志を変えることなどできまい。いや……変えてはいけない。他ならぬ君自身が決めたことなのだから」
 「……秋」
 「私はただ見届けよう。君の望むままに、君の辿る道を見守ろう。できるなら共に、この場所で」
 風がはたりとやんだ。
 はらり、はらり。ひらり……ひらり。
 中空で翻弄されていた花びらが緩やかに地面に落ちて行く。香(こう)を焚きしめたかのように満ち満ちていた甘い香りがゆっくりと薄らいでいく。夜の闇が、中天に差し掛かった月が、瞬く星屑が。現実離れするほどに美しい花に閉ざされていた木の下に、ありふれた宵闇の光景が静かに戻ってくる。
 桜の美しさに気後れしているのだろうか。満ちた月が地表へと投げかける明かりは驚くほど控え目で、弱々しい。あるいは、望月の光すらもこの桜の前では霞んでしまうということなのかも知れない。とにもかくにも――密やかな月光の下で、藤はゆるゆると微笑んだのだった。
 「……ありがとな」
 京秋は平素通りの静かな微笑をもっていらえとなしただけだった。
 ざざ、ざ、ざああああ。
 気まぐれな夜風が戻って来て桜色の絨毯を波打たせる。
 舞う花びらの音さえ聞こえてきそうな静寂の中、来ることのない相手を待つ二人の姿を、桜吹雪だけが見守っていた。


 やがていつものように月は沈み、東の底から太陽が生まれる。
 「じゃあ……そろそろ行くか」
 「そうするとしよう」
 藤が欠伸混じりに告げると京秋も静かに応じ、二人は何事もなかったかのように静かに丘を下った。
 「じゃあ俺、こっちだから」
 「私はこちらだ。ごきげんよう」
 「ああ」
 朝焼けに燃える街を抜けて銀幕市の領域に戻り、藤はひらひらと手を振って京秋と別れた。
 振り返りはしなかった。京秋もまた振り返らなかっただろう。
 次の黄昏が来たらまた同じ場所でまみえるだろうと、お互いに言葉にするまでもなく確信していた。
 

■Epilogue■ and,he goes to under the Cherry blossoms

 太陽は少しずつ傾き始めたようだ。満開の桜は相変わらず花びらを散らしているし、桜の幹にもたれかかった般若面の青年もやはり煙管をくわえたままである。
 「――結局、何もなかったよ。なーんにも起こりゃしなかった」
 ふうと吐き出される煙は薄い黄昏色の空にゆっくりと溶け込んでいく。「分かってたけどな。でも、待ちてえんだ。待ってりゃそのうちもしかして……なんてな」
 その瞬間、端正な顔立ちがほんの少し曇ったように見えたのは気のせいだったのだろうか。
 「ああ。それにしても綺麗だ」
 頭上では桜吹雪が静かに続いている。ちらちらと舞う花弁の隙間から見える空の色は淡い茜に染まり、夕暮れが近いことを告げていた。
 「場所は変われど咲く花は同じ、ってか。この桜もあの桜と同じくらい綺麗だ。悲しいくらい綺麗だ。綺麗過ぎて切なくならぁな」
 やりきれない心がつい覗いてしまったのだろうか、ほんの少し切なげに眉尻を下げた青年は困ったように微笑んでみせた。
 「悪い悪い、つい長くなっちまった。そろそろおいとまするわ、ぼちぼち黄昏時だからな。……あ? 決まってんだろ、いつも通りにいつもの場所に行くのさ。暇ならあんたも来てみるといい」

 春宵一刻値千金。夜桜求めてそぞろ歩き、ってのも粋だろ?

 詩でも吟ずるかのように朗々と謡い上げ、くすりと笑みを落として背を向ける。
 ひらひらと手を振って遠ざかる背中を、浅い夕暮れに舞う静かな桜だけが見送っていた。
 

 (了)

クリエイターコメントご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。
タイトルも形式もどこかで見たことのあるノベルをお届けいたします。
…同じシリーズの映画のキャラクター様なので雰囲気を揃えてみようかな、と思いまして。

やや淡々としすぎたでしょうか。
春の夜と桜の静かな雰囲気やお二人の間に流れる穏やかな時間を描き出せるようにと心掛けたのです、が。
交わす言葉は少ないけれど、相手の心底はきちんと汲み取っているというお二人の関係を端的に表せていれば良いなと思います。

楽しんでいただければ幸いです。
ゲリラ窓を捕まえてくださり、ありがとうございました。
公開日時2009-04-19(日) 20:30
感想メールはこちらから