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<ノベル>
強引に喩えるなら、レヴィアタンは魚、ベヘモットはムカデだった。
ならば今、銀幕市という箱庭を睥睨するマスティマは何に喩えられるべきなのだろう。虫一匹逃すまいと目を光らせるこの奇怪で冷酷な獄卒は。
だが、あれが人の心の集まりであるというのなら、そもそも形あるものになぞらえようとすること自体が無意味であるのかも知れない。
頭上に顕現した巨大な絶望に多くの市民が息を潜める中、DP警官の詰め所兼生活スペースでは淡々とした時間が流れていた。デスク代わりに使用している食卓テーブルの上には書類の山と、誰かの飲みかけとおぼしきコーヒーカップ。仲間の何人かは買い出しに出かけているらしい。
彼ら彼女らは警官だ。非常事態には慣れている。どんな状況の中にあっても市民を守るために責務を全うするだけだと、誰もが言葉にするまでもなく肝に銘じている。
(両親に会いたいとあの少女は望んだ……)
開け放した窓からゆるゆると入り込む風は生ぬるく、奇妙に湿っている。春という季節ゆえなのか、あるいは上空に留まるマスティマの息吹であるのか、今のエドガー・ウォレスには分からない。
(それなのに、ヒュプノスの剣で彼女を永遠の眠りに就かせるのか。彼女の将来を永久に閉ざしてしまうのか?)
見上げる空はどうとも喩えられぬ色に染まっている。そのカラーにあえて名を付けるとするなら、さしずめ“不穏”の色彩といったところだろうか。
そして、頬杖をついて空を仰ぐエドガーの面(おもて)にも確かな翳りが落ちていた。
「エドガーさん。どうぞ」
「ん? ……ああ、ありがとう」
それでも、温かい飲み物を持って来てくれた同僚の女性に辛うじて笑みを返すことはできた。スティックシュガー二本の封を切り、受け取った飲み物に投入する。糖分を摂取すれば少しは頭の回転が良くなるかも知れないと期待したからだ。もちろん気休めだが、今はその気休めにすら縋りたい心持ちであった。
飲み物を持って来てくれた女性が何か言いたそうに口を開きかけたが、それにすら気付かない。砂糖を入れた飲み物を機械的にかき混ぜながら、意識だけがどんどん思考の沼へと潜って行く。
(……ヒュプノスの剣は使いたくない。ならば残る選択肢は二つ)
夢の神子を殺してこの魔法を無に帰すか。あるいは、どちらの剣も用いずにマスティマと戦うか。
飲み物に口をつけることも忘れて嘆息するエドガーの視界の端では、寡黙な同僚が平素と変わらぬ事務的な手つきで書類をめくっている。相変わらず糊のきいたスーツを着込んだ彼は既に意見表明を済ませたという。早いことが常に至上とは限らないが、今のエドガーには同僚の決断の素早さが羨ましかった。
「……いけない。とにかく、少し落ち着こう」
そう声に出して呟いたのは自らに言い聞かせるためでもあったのだろう。だが、ようやく飲み物を口に運んだエドガーの顔はすぐに歪むこととなった。
「あの……」
飲み物を運んで来た同僚の女性はエドガーの前で申し訳なさそうに縮こまっている。
「それ、日本茶です。市民の方からのもらい物で……。考え込んでいらっしゃるようだったので言い出せなくて。すみません」
「ああ、いや、君が謝らなきゃいけない理由なんかどこにもないさ」
「………………」
フレームレスの眼鏡をかけた同僚は加糖の緑茶を持て余して苦笑いするエドガーをちらと一瞥し――本当にほんの一瞬だった――、何事もなかったかのように再び書類に目を落とした。
「気分転換に外の空気でも吸ってくるよ」
甘い緑茶を律儀に飲み干した後でエドガーは屋外に出た。明確な目的があったわけではない。詰所の中で煩悶し続けるよりはましだろうと考えたに過ぎなかった。
喧噪を求めて市街地に足を向けても人通りはなかった。大通り沿いにはシャッターの降りた店舗が並び、ファッションビルも照明が落とされている。精神の弱い者が見れば発狂してしまいそうなほど不気味なあの化け物の足許で食事やショッピングを楽しみたいと誰が思うだろう。
ゴーストタウン。そんな言葉が不意に脳裏をよぎり、わずかに息を詰める。
(この街を正常な形に戻すには――)
息を潜めた繁華街をぐるりと見渡し、生真面目な警官の思考は結局そこへと行き着くのだった。ムービースターである己が消えてしまうことに対する恐怖や嫌悪はない。ただただこの街と市民たちのことが頭を占めている。
(タナトスの剣を用いるのが理にかなった選択ではあるだろう。だが……)
夢の神子を剣で刺し貫けば彼女の罰は成就され、街は本来の姿を取り戻す。しかし本当に方法はそれだけなのか。確かにあの幼い夢神は大きな過ちを犯した。それでもこの帰結はベストではない筈だ。もっと良い選択肢があればそちらに票を投じたい。
(ならばあのマスティマとやらと戦うのか。……いや)
エドガーは力なくかぶりを振って己で己の考えを打ち消した。
レヴィアタンやベヘモットを討った時とはわけが違う。今回の絶望はあまりに強大かつ圧倒的だ。それに、魔法と縁のない大勢の市民も街に閉じ込められている。この街にはもはや安全な場所などなくなった。どこにいてもマスティマの力が及ぶだろう。どれだけ力を尽くしたところで一人の犠牲者もなく事態を収拾することは不可能だ。警察官たるエドガー・ウォレスが、戦う術を持たぬ市民を巻き添えにすることに肯けるわけがなかった。
(やはりタナトスの剣を……いや、しかし)
ああ、思考は堂々巡り。もしこの場に母がいたら一喝されていたかも知れない。上空に浮かぶ巨大な絶望の下でじっと息を殺す街の中にエドガーの靴音だけが響いている。
(……どうすれば)
あてもなく街をさまよい、歩き疲れて辿り着いたのはショッピング街中央のロータリーだった。クレープやアイスクリームを片手にした若者で賑わう筈のその場所には今や猫の子一匹見当たらない。大きな街路樹の下のベンチにどさりと座り込んだエドガーはうなだれ、神に祈るかのように両手を組み合わせた。
右手の薬指と小指が無意識のうちに左手の婚約指輪を撫でる。
静かだ。あまりに静かだ。耳鳴りがしそうなほどに。
中途半端に温かい風が空虚な街を通り抜ける。頭上でさわさわと鳴るのは街路樹だろう。葉擦れの音だと気付いてようやく、今が新緑の季節であることを思い出した。
見上げれば、不吉な色の空の下にあって尚爽やかな緑色が頭上を覆っている。
それは平凡な葉桜であった。
(桜……)
少し前まで美しい季節の象徴である花をつけていた木は青々とした葉に覆われている。桜はエドガーにとっても思い出の花だ。しかし今この瞬間に脳裏に浮かんだのは、婚約者ではなく夢神の子の顔であった。
誰かを好きになると間違いやすくなるのだと。だから皆は間違わないでほしいのだと……。知り合いが、先日の花見の際に神子がそんなふうに話していたと言っていたことを今になって思い出す。
さらさらと。不穏な静寂の中、頭上の葉桜だけが場違いなほど清々しい音を奏でている。
瑞々しい葉の向こうに、幼い夢神が纏うふんわりした色彩がちらと覗いた気がした。
「君は」
ぐるぐると終わりのないマーブル模様を描いていた思考がほんの少しクリアになって、知らず、ここにはいない相手に問うていた。
「知って……いたのかい?」
こうなることを。だから「間違わないで」と……自分を好きになることで間違った選択をしないでほしいと言ったのだろうか?
剣を携えた神々によって『選択』が突きつけられた折、青銅の名を冠する将の足許で、夢の神子は寂しそうに微笑んでいたという。
(ああ)
きっと彼女もエドガーと同じなのだ。この街を、この街の人々を愛している。だからこそ、あの少女神は自ら過酷な道を選んだ。
――静寂の緞帳が下りる。
人と活気が消え失せた街の中央にたった一人座り込んだエドガーは黙りこくったままだ。組み合わせた両手を幾度も組み替え、何かのまじないであるかのように、あるいは何かのよすがであるかのように左手の指輪を撫で、包み、また撫でて――やがて、顔を上げた。
そこには既に翳りはない。引き締まった面(おもて)に硬質な決意だけを漲らせて立ち上がる。目指すは市役所。選択を待つタナトス3将軍が佇む場所。
目的の場所に辿り着いたエドガーは真っすぐに背筋を伸ばし、偉人に対面するかのように右手を胸に当て、青銅の名を持つ神の前へと進み出た。
だが、エドガーの敬意は巌のような将軍ではなく、彼の者の足許に立つ夢神の少女へと捧げられる。
「小さな夢の礎に敬意を表し、俺はタナトスの剣を望む」
そして、この街と市民を愛する神子に続かんと、静かに、しかし凛とした声でそう告げた。
天空に君臨する絶望の王は未だ沈黙を保っている。彼の者を形作る数多の顔が叫んでいるのは憎悪にも殺意にも、断末魔や怨嗟のようにも見えた。
それでも今はこんなにも静かだ。この静けさの後に一体どんな嵐が訪れるのか、未だ誰も知りはしない。
残酷な猶予にじりじりと心身を焦がされ、ある者は煩悶し、ある者は覚悟を定め、ある者は滂沱し……それぞれに審判の刻を待つ。
(了)
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クリエイターコメント | ※このノベルは、『オファー時点での』PC様の思いを描写したものです。
ご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。 【選択の時】をテーマにした企画プラノベをお届けいたします。
オファー文にあった「敬意」をそのままテーマにし、タイトルもそれに合わせました。 ご職業が警察官ということで、市民を巻き添えにすることには抵抗があるのかな…と感じましたので、その辺りも少し。 緑茶に砂糖を入れるのは天然だからではなく、苦悩のあまり注意力が一時低下していたからです、よ。
素敵なオファーをありがとうございました。 掲示板には書き込みきれない思いを紡ぐお手伝いが出来ていれば嬉しいです。 |
公開日時 | 2009-05-02(土) 20:10 |
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