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<ノベル>
磨き上げられたオークのカウンター。
隣の客が嗜む煙草の香り。
控えめに流れるモダンジャズ。
このバーを見つけたのはいつだっただろうか。
忘れてしまうほど昔のことでは無かったはずなのに、思い出そうとすればそれはひどくおぼろげで、遠い思い出のように頭をやわらかく撫でるだけ。
だが、それでいいと思っている。
酒や酒場にまつわる記憶などは、明晰でない方が美しい。
酔いとともに薄れ、曖昧になり、それでもどこか頭の片隅に極彩色の欠片として一つか二つ。そんなくらいで丁度いい。
「マスター、ハーパーをロックで」
「かしこまりました」
最低限のやり取りが心地よい。
信頼の証とは大袈裟かもしれないが、あながち間違ってもいない。存在を意識していてはくれるが、こちらの空気をはかってたまに視界から消えてくれる距離感。お互いがカウンターを隔てた他者と他者で「在る」ことを示しているかのようだ。決して馴れ馴れしくならず、それでいて心遣いがある。そういったバーを知っている、それはひそかに誇らしいことの一つだった。
「今日は随分と外が騒がしいようですね」
「……ああ……うん?」
いつもの席、いつもの酒、いつもの心地よい静寂……とはいかなかったらしい。
注文と会計、それから丁寧な返事と挨拶以外に口を開かないマスターが珍しく声をかけてきた。そんな事態など頭の片隅でさえも想定していなかった所為か、生返事の後で尋ね返すように声が漏れる。らしくないなと胸のうちで苦く笑い、二の句を継ぐ気にはなれずハーパーを少し煽った。
「あァ、いえね。実際に騒がしいのとは違うんでしょうが……何となくそんな気がするというやつでして」
「……虫の報せというやつかな?」
「そんなものかもしれません」
一瞬だけカウンターに淀んだ微妙な空気。それをさらりと流してくれるのが有難い。
「そう思うだけで何かが起こった事なんかありませんが、今日は少し違う気がしないでもない……例えて言うなら、そう。酒が怯えているような、ね」
「マスター、君は詩人か何かかい」
さてどうでしょうかと、冗談はさらり流され、また静寂が訪れる。血腥い現場の喧騒とは程遠い、安寧の時間。隣の客がマッチを擦る音と、氷が解けてグラスに凭れ掛かる音が、時折、交互に響くだけ。
酒で全てを忘れようとは思わない。けれど、ひととき目を逸らすことくらいは赦されてもいいだろう。日々の重責、昏い記憶、哀しい思い出。全てを引き受けて、心に仕舞いこんで生きてゆかねばならないと知っている。だからどうか、また向き合ったその時、それらが自らの中で色褪せておらぬよう。祈るように目を細め、露のおりはじめたグラスへ手を伸ばした。
刹那。
「……!?」
ドォン……と地上で何かがぶつかり弾ける音が響く。
最初は交通事故か何かだと思った。
だが、現実はどこまでも無慈悲で。
「……な……ッ!?」
何が起きた、と声に出す前に。
入り口のドアがけたたましく開き、硝子の破片混じりの爆風が雪崩れ込む。見る間に天井が崩落しだし、現場に無理やり引きずってこられたような既視感を覚えた。
暗転。
爆風。
硝子の割れる音。
火薬の匂い。
地上の何処かで爆弾テロが起こったことは容易に想像がついた。しかし何故、こんな人通りの少ない場所で。
考えても答えは出ないし、その仮定や結論がこの状況を覆すとも思えない。
爆発の影響か、供給されていた電気は切れて灯りはほぼ消えている。非常用と思われる間接照明のような裸電球がちかちかと足元を頼りなげに照らすだけだ。
慣れない目を凝らし、どうにか周囲の状況を掴もうと手を伸ばした。
「……これは……」
手に何かが触れる前に、酷い匂いが鼻を突く。硝子の割れる音はどうやら酒瓶の所為らしい。様々な種類の酒やリキュール、炭酸水などが床にぶちまけられているのが見えずとも分かった。息を吸うだけで悪酔いしそうだ。
「お客様、大丈夫……ですか……!」
「マスター!? 生きているのか!」
「私は、私は無事です!」
予想していなかった他者の声が、一気に自分の気を引き締めた。同時に漸く目が慣れてきて、一つ絶望に近い事実を知る。
「……!」
さっきまでの静寂と安寧を齎していてくれた筈のカウンターが真っ二つに割れ、そこに。
「たす……け……て……」
隣で煙草を嗜んでいた、善良そうな男がそれの下敷きになっていた。慌てて腕を引き助け出そうとするも、床に広がった水分に足を取られて巧く力を込められない。
「……ああッ……!」
不意に、酒の匂いと混じって鉄の匂いを鼻先に感じる。これは……血の匂いだ。
早く手を打たないとこの客は命を失ってしまう。辛うじて無事だった自分とマスターも、このまま手を拱いていれば酸欠か天井の崩落でどうにかなってしまうだろう。
……一体どうすればいいんだ。怪我人を抱えて出入り口を切り開くなど、非番で刀を持たない自分に出来るのだろうか……?
困り果てて頭を掻き毟る。
___随分お困りのようじゃないか
「!!!」
刹那、響いた声は。あの、忌まわしい。
頭を強く振る。影に構っている暇など無い。
瓦礫に手を伸ばし、崩れ続ける壁に天井に構わず、押し潰された客の無事を祈った。
___つれないな。俺は彼らを救う力を持っているのに……君と違ってね
黙れ。
黙るんだ。
戯言だ。聞いてはいけない。影ごときが救うだなんて言葉を発している、それだけで臓腑が煮えくり返る。けれど。
___力を貸してあげるよ?頼りない君の代わりに
真実は時に、耳に痛い。
罠と知りつつも、自分ではこの状況をどうにも出来ないのが口惜しくてならない。
からん……ぱしん……。
「……」
天井から、裸電球が一つ落ちて足元で綺麗に弾けた。今自分を取り巻く何もかもは、残酷で無慈悲だ。躊躇う時間も理由も無い。分かっていて踏み止まらせるのは、理性だろうか。それとも弱い心だろうか。
フィラメントが剥き出しになった電球を拾う。ついさっきまでは暖かな光を与えてくれたそれは、今や痛いだけの熱を持って何かを主張しているように感じられた。
「……どうしろと……」
思わず声に出た呟きは、壁が崩れる音に掻き消される。答えなど、既に出ているから辛いのだ。
(好きには……させない。俺の矜持の為に力を貸すんだ)
___君らしいな、その言い訳。いいよ、面白いものが聞けた御礼に手伝ってあげよう
す、と深く深く息を吸う。丹田に力を込めて、己が己であるよう強く戒めた。ぐらりと頭が揺れるような感覚に襲われ、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ視界が暗転した。
「……」
此処は何処だろう。
とても暗い。
あのバーではない。
それならば、嗚呼。
それならば、あの小さな窓の外に見える光景は一体何だろう。
あれは、あの混沌の中で力を振るっているのは、誰だ。
オークのカウンターを睨み、下敷きになった男……葉巻の甘い香りを漂わせていた、時々すれ違うあの客を引きずり出しているのは誰だ。
誰だ。
誰だ?
誰だ。
嗚呼……。
そうだ、あれは自分だ。
あの混沌から、客と、マスターを救い出したいがために、影の甘言に乗ったどうしようもない自分の姿だ。
手を伸ばせ。あのまま、自分の願う結末がやって来る訳が無い。
思うままにさせてはならない。
影が、割れた硝子を浮かせて……客の首筋に突き立てるその前に!!!
(そんなことを頼んだ覚えは無い……!そこを退け!!!!)
___……おおっと、勘がいいね
視界が。
小さな窓から此処を見ていたような、極端に狭い視界が一気に開ける。
無意識のうちに止めようとしたのだろうか、強く強く握られた硝子片を取り落とし、右の掌に鋭い痛みが走った。だがそれすらも尊いことのように感じられる。
この痛みは、自分が自分たる証明だ。拳をぐっと握り、流れる血に構わず証明を噛み締めた。
さあ。
すべきことを、しなくては。
「……マスター、早くこの人を!一緒に引っ張ってくれないか!」
「分かりました!」
狭い視界の中で感じたことを落胆している暇は無い。
影ではない声。自分を必要としてくれている響き。
この声の為に。血の通った命の為に。使えるものは使わねばならないのだ。
マスターとどうにか力を合わせ、カウンターを退かして下敷きになっていた客を引っ張り出す。
「しっかりするんだ!もうすぐ外に出られる!」
「……は……い……」
引きずり出した客に出来る限り声をかける。こういう時は意識が何処かへ行かぬよう励ますのだと教わった。
___気休めばっかり言って、涙ぐましいねえ
(気休めではなくするのが俺の使命だ……黙って力だけを貸せばいい!!)
___強がっちゃって、可愛らしいこと
気休めに過ぎないことなど分かっている。それでも、出来ることすらしなくなったら、負けてしまう。
居るならば、神よ。どうか。
どうかこの無力な手で、二人分の命をもう一度陽の下へ送り届けさせてはもらえまいか。
何としてでも二人を救わねばならない、二人の為に。
___二人の為に?何を言うかと思えば……君は本当にお馬鹿さんだね
「!!!!!?」
ズズ……と鈍く低い音が頭上から響く。そしてぱらりぱらりと、雨のように霰のように落ちるモルタルの欠片。
これは。
いけない。
___君では俺を抑えられないよ?
天井を崩した張本人の影は、高らかに笑う。まるで全てを見透かしたように。
怯むな。
全て引き受けて生きるのではなかったか。
がら……ん……。
切り開いていたはずの道が、呆気無くまた閉ざされた。
舞い上がる埃と、爆風が運ぶ熱。影はどこまでも嘲笑う。
残らず流れ出た酒の匂いに鼻の奥が痛む。一つ息を吸うだけでくらくらと頭が締め付けられるようだ。合わせるように響く陰の声は、真実で、嘘つきで、痛い。
___分かっているんだろう?二人の為なんかじゃないと
(違う)
___認めてしまえばいいのに、二人を捨て置けなかったのは……
(黙れ!)
___黙らないよ?だって俺達は同じじゃないか、何をするにも自分の為ってところがね!
(……!!!)
___ほら、君も言ってみるといい。二人を救うのは自分の為!二人を見殺しにする自分が可哀想で格好悪いだけ!って!
「違う!!!!!!!」
……。
……。
……。
……はっ、と。我に返り目を開く。マスターが目を見開いて自分を覗き込んでいた。何時の間にか、肉声として空気を震わせていたのだ。心からの声が。
ゆるく首を振り、何でもない素振りを見せようと努めるが……その声が、自分の願いであると確かめられたような気がして、何故か涙が零れた。
「大丈夫……大丈夫だ……絶対に……!」
振り返らなくていい。マスターはきっと小さく頷いたに違いない。肩を担いだ隣の客も、きっと無事だ。
何もかもが希望的観測に過ぎないけれど、願わなければ前に進めない。絶望してはいけない。驕りや見栄と罵られようとも、今二人を救えるのは自分しか居ないのだ。
瓦礫を持ち上げ、扉への道を切り開こうと只管に足掻いた。掌が深く裂け、爪が剥がれるが構っていられなかった。血は乾くことなく瓦礫を染めて、さっきまでの静寂を彩っていたモノたちを汚してゆく。
それでいい。
モノはいずれ土に還る。命の器もそうと言える、けれど。守れるものを見過ごすことだけは、どうしても出来ない。
どうか。
嗚呼、どうか。
(これ以上後悔はしたく、ない……!)
崩れる天井。雪崩のように圧し掛かる瓦礫。人は、自分は、余りにも無力だ。
けれど嘆いては立ち止まるのと同じだ。抗うように只管腕を動かし、道を遮る全てをただ押し退けた。
そして。
がらん……がら、ざざ……。
「光が……」
そう呟いたのはマスターだろうか、後ろに背負った客だろうか。それとも、自分だろうか。
それが太陽の光でないことは分かりきっている時間なのに、まるで初めて朝を知ったような眩しさが目を覆う。街灯の光なのか月の光なのかは分からなかったが、あの昏い小さな、檻のような空間__恐らくは己の心の中なのだろうが__よりはずっと、明るかった。
それよりも、もっと。
背中に感じる重みに、温かさを覚えて。
見れば、マスターがこの上ない安堵の表情を自分に向けている。二つの命が自分に福音をくれた。
助かった。
助けることが出来た。
それは何ものにも代え難い事実で、真実。
___何だ、潰れなかったのか。残念だよ……次はもっと酷い目に合わせてあげないといけないね
薄れゆく意識の中、影が愉しそうに呟く声も、今の自分には意味を成さない記号の羅列でしかなかった。
影よ。
忌むべき片割れよ。
俺はこの記憶を忘れない。全てを引き受けて生きる俺の、確かな証として。
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クリエイターコメント | お待たせいたしました、本当にお待たせいたしました…! 【Bacchanalia】納品でございます。
オファー文にはお店の方について描写が無かった為、書いていて若干不自然に感じましたので急遽マスターにご出演いただきました。ご想像と違うようでしたら申し訳ありません。
【Bacchanalia】とは、ギリシャ神話に出てくる酒の神、バッカスの英語表記だそうです。 エドガーさんはアメリカのご出身ということで英語表記にしてみました。ちゃっかりお酒もアメリカのお酒、バーボンで格好つけていただきましたが如何だったでしょうか。
影部分の会話も瀬島の趣味全開で突っ走らせていただきました大変ごちそうさまです。 今回も楽しく書かせていただきましたこと、心より御礼申し上げます。 ご指名まことにありがとうございました!
なお、初めてのプラノベということもあり……いつものシナリオと違い、瀬島の本来のスタイルに近い改行たっぷりの文章にしてみました。読みにくかったら申し訳ありません。 |
公開日時 | 2009-01-15(木) 19:00 |
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