★ Sweet Distress 〜なつかしいいたみ〜 ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-3252 オファー日2008-05-29(木) 23:16
オファーPC バロア・リィム(cbep6513) ムービースター 男 16歳 闇魔導師
ゲストPC1 タスク・トウェン(cxnm6058) ムービースター 男 24歳 パン屋の店番
<ノベル>

 1.深遠なるダークラピスラズリ

 磐送球は、地上、銀幕市市役所からわずかに十数分で、彼らを目的地へと送り届けた。
「へえ、ここが」
 磐送球の重々しい入り口をくぐり、無機質な大地に降り立ったあと、バロア・リィムは物珍しげに頭(こうべ)を巡らせて、どこまで続くのかも判らないような鉄色の世界を見渡した。
 緑と神秘に囲まれて生きてきたバロアには、何もかもが異質と映るのに、しかし同時に、この場所、この世界が、今、確かに平安を取り戻し、人々の営みという息吹で満たされていることも、何故か判る。
 根本の成り立ちが違うだけで、この世界もまた、人々の思いとたくさんの命とを乗せて、日々という一瞬一瞬を巡り続けているのだ。
 バロアには、何故かそれが感じ取れた。
「すごいだろう?」
 隣のタスク・トウェンは妙に誇らしげで、自慢げだ。
 バロアはかすかに笑って肩をすくめた。
「何でキミがそんなに嬉しそうなのかは判らないけど、ここが『生きて』るんだってことは、よく判るよ」
 遠くの方、真っ白な建材で出来た建物が密集した集落から、地上ではあまり見かけない姿かたちをした人々が顔を覗かせ、めいめいに手を振っているのが見えた。
 ――恐らく、手を振られているのは、隣で馬鹿みたいに腕を振り回しているタスクなのだろう。
 彼が今、全身から発散しているオーラ、幸せで仕方がないと言うそれが、バロアの推測を真実だと証明している。
「行こう、バロア。紹介したい人たちがいるんだ。皆、本当にいい人たちだから、バロアもきっと、すぐにここが好きになると思う」
 疑うことを知らない満面の笑顔がバロアを誘(いざな)う。
 バロアは苦笑して頷き、弾むような足取りで集落へと向かうタスクの隣に並んだ。
「ちょ、速いよキミ。どんだけ楽しそうなのさ」
「あ、悪い」
 16歳という肉体年齢よりもかなり幼く見えるバロアと、すらりと背の高いタスクでは、残念ながらコンパスの長さが違うので、タスクの少し速めの徒歩は、バロアにとっては小走り程度の速度になる。
 とはいえタスクに気遣われるのも癪なので、バロアは本気を出して歩いた。
 今なら競歩選手権でイイ線行けるんじゃないかというくらい歩いた。
「やるじゃないか、バロア」
「……褒められても、あんまり嬉しくないね」
 バロアの溜め息に、タスクがくすくすと笑う。
 まったく暢気な男なんだから、と呆れつつも歩くと、集落が近づくにつれ、甘く香ばしいパンの匂いが周囲に立ち込め始めた。
「……おや」
 バロアは目を細めて、白い建物の窓から立ち上る、白い煙を見つめる。
 それは、日々、命、営みそのものの香りだった。
「いい匂いだろ?」
「そうだね。これ、キミが教えたのかい?」
「ん? 教えたというか、俺のロケーションエリアが縁でこうなったというか。ちょっと面映い話だよな」
「へえ、光栄なことじゃないか。一個の人間が自分以外の誰かに与えられる影響なんて、高が知れてるもんだ。それが、世界をひとつ覆うなんてこと、滅多に経験できるもんじゃないよ」
「ああ、確かにそうだ。……バロアはやっぱりすごいな、いいことを言う」
「……キミに褒められたくて言ったわけじゃないけどね」
 と、言いつつ、純粋な賛辞を向けられれば悪い気はしない。
 やさしい、甘い、あたたかい香りが鼻をくすぐって、バロアはかすかに笑った。
 ――ふと、昔のことを思い出したのだ。
 正確に言えば、映画の中……故郷でのことを。
 隣をチラリと見遣れば、タスクも同じような表情を浮かべていた。
 目が合う。
「……あの時のキミは」
「……あの時のバロアは」
 声まで揃った。
「ホントに、変なヤツだったね」
「本当に、可愛いヤツだったよな」
 内容は少し違ったが。
「……誰が可愛いって? 僕より年下のくせに」
「ん? いや、真理だと思うんだけどなぁ」
 バロアは呆れ、タスクは首を傾げる。
 その頃にはもう、集落は目前に迫っていて、
「久しぶりだな、タスク」
 廃鬼師のひとり、十守(とおかみ)がふたりを出迎えてくれた。
 バロアは、彼らとは直接の面識はないが、タスクにジャーナルを押し付けられて熟読を強いられたため、事件に直接関わったわけでもないのに、この都市のことはタスクの次くらいに熟知している。
 鉄塊都市の成り立ちしかり、廃鬼師の名前しかり、現在の都市の状況しかり。
「ああ、久しぶりだ、十守。元気かい?」
 と、晴れやかな笑みを浮かべたタスクが十守と始めた世間話を聴くともなしに聞きながら、バロアは、記憶の中に湧き起こった懐かしい映像を、胸のうちに見つめていた。

 ――あれは、そう、バロアが、あの手酷い痛みを受けてから、幾らかの時間が経った頃だった。



 2.追憶−深い森

「……侵入者、か……?」
 魔法で発生させた水鏡を見遣り、バロアは目を眇めた。
 と、胸の奥から、肺を塞ぐような嫌な咳が込み上げて、しばし身を折る。
「……ッ」
 あの大聖堂で呪いを受けてから、すでに三年が経っていた。
 実質的には、バロアは、二十六歳になる。
 そのはずだった。
 咳き込みながら水鏡を消し去ると、視線の向こう側に本物の鏡が見える。
 そこに映る『バロア・リィム』は、どこからどう見ても、十代半ばとしか思えない容姿をしていた。
 あの悲嘆の日から、すでに三年。
 バロアの身体は、若返ると同時に、成長を止めてしまっていた。
 そして、三年も経つのに、彼の身体はひどく病み、たくさんの不具合と苦しみとを、未だ癒えぬ心の傷に喘ぐバロアに突きつける。
 今のバロアは、大きな魔法をひとつ使うたびに三日寝込むような身体で、三年前の、孤独ではあれ充実し、大いなる真理に向かって突き進んでいた頃の自分とはかけ離れた、ままならぬ自分を持て余しながら生きていた。
 否、それは、生きているとは言えないのかもしれなかった。
 愛した師、友はすでに喪われ、帰る場所はすでになく、バロアは今、真実の意味でたったひとりだった。道こそ違えども目指すものは同じだと信じていた三年前が、まるで百年も二百年も昔のことのように思える。
 ――誰の所為だとも、何が悪いのだとも言えず、責める相手を見出せないことが、なおさらもどかしい。
 鏡を見つめるバロアの、青い目が、激情を孕む。
 鏡の中では、本来の自分ではない自分が、歪んだ表情を浮かべている。
「……くそっ」
 苛立たしげに吐き捨てると、バロアは、手近な場所にあった小さな瓶を掴み、鏡に投げつける。
 憤りを込めて投擲した瓶は鋭く空を切り、鏡を粉々に砕いてしまった。
「一体、どこの……馬鹿だ。わざわざ、この呪われた森に、呪われた俺の懐に、入り込もうなどと思っている奴は……?」
 ようやく咳が収まったバロアは、荒い息を吐きながらも、森一帯に張り巡らせた『目』を稼働させ、意識を澄ませる。
 ――この森は、彼が『闇』とは何であるのかを探求するための庵であると同時に、今の自分の何もかもを厭い、それゆえにその何もかもから目をそらしたいバロアを、自分以外のすべてから覆い隠すための隠れ処だ。
 逃避、避難場所と言ってもいい。
 バロアにとっての世界は、三年前のあの日から、ずっと止まったままなのだ。
 そして、バロアは、停滞した自分を、誰の目にも晒したくはないのだ。
「ふん……」
 『目』が、青い髪に銀の目をした青年の姿を伝えてくる。
 腰に剣を佩いた青年は、例え好奇心であれ、なんぴとたりとも近づかぬようにとバロアが施した、『森に入ろうとする意志』を削ぐ魔法などものともせず、鋭く引き締まった眼差しを周囲に向けながら、木々の合間を抜けて真っ直ぐに進んでいる。
「……ただの人間では、ない、か?」
 青年は不思議な気配をまとっていた。
 清浄できりりとした、どこか神秘的なオーラだ。
 ただ、それが何であるのかは、バロアには判らなかった。
 バロアの専門領域ではないのだ。
「だが、どちらにせよ、ここまでは、来させない」
 誰ひとりとして、受け入れるつもりはなかった。
 誰ひとりとして、今の自分を見せるつもりはなかった。
 バロアは再度水鏡を展開し、青年の様子を観察しながら、森のあちこちに設置した『罠』を発動させて行く。
 それは、モンスターが襲いかかる幻であったり、落ちた人間を森の外へ放り出す落とし穴であったり、ツタが絡みつき、身動きを取れなくする牢獄であったり、大きな砂袋が幾つも飛んできて打ち据えられたり、視界の一切を封じられてしまう特殊空間であったりした。
 そのどれもが、バロアが少しずつ力を蓄えては設置した、魔法エネルギーを動力に作動するものだ。
 それらはひどく正確で、容赦がない。
 ――しかし、そこで、死という名の決定的なダメージを与える『罠』が存在しないのが、バロアの、非情になりきれない、自分をヒトの側から切り離せない部分なのかもしれなかった。
 とはいえその威力を疑う余地はない。
 今まで、好奇心に駆られた血気盛んな若者や、邪悪な魔法使いが何か企んでいると勘違いした連中、果てはお節介な聖職者まで、そのすべての人々を、この『罠』は撃退し、追い返しているのだから。
 だから、『罠』の発動後、『目』との接続を切ったバロアが、結果を見る前に自分の作業に戻ったのは当然のことだったが、
「これなら、……何だって?」
 そんな中、バロアが思わず目を瞠ったのは、水鏡の中の青年が、バロアの設置した『罠』をことごとくかわし、または乗り越えて、バロアが編んだ、小さな庵の前に立ったからだった。
「……」
 バロアは思わず唇を噛む。
 青年は、本来のバロアよりも三つ四つ年下に見えた。
 よく鍛えられた身体と、端正な顔立ちの、仕草や表情のひとつひとつから、彼が誠実な、誰を欺くことも、自分を偽ることもない人間であることが伝わってくるような、真っ直ぐな印象の青年だった。
 バロアは、彼がここに来た理由も判らないのに、何故か、何の根拠もなく、この青年が自分を傷つけることはないと確信していた。
 だが、だからと言って、彼の来訪を喜ぶことは出来ない。
 笑顔で彼を招き入れ、お茶の一杯でも……などと誘うことも出来ない。
 外の人間と馴れ合うことは出来ないのだ。
 『罠』が役に立たないのならば、力ずくで追い返そうと、バロアは研究室から出る。雑多な室内を通って正面入り口へ向かうまでの短い距離が、今のバロアにはとても長く、また重々しく感じられた。
 そこから一分も経たぬ内に、バロアがドアを開け、庵から一歩踏み出すと、
「……貴方が、バロア・リィム?」
 青年は眩しいほどの笑顔を見せ、タスク・トウェンと名乗った。
 バロアは凍えた眼差しのままで小さく頷いたあと、
「そのタスク・トウェンが何の用だ」
 冷ややかに問う。
 雰囲気だけで切れてしまうのではないかというほどの冷たさだったが、タスクは怯まず、
「貴方をここから連れ出しに来たんだ」
 そう言って、バロアに向かって手を差し伸べた。
「……は?」
 バロアの眉根が寄る。
 タスクはひどく真摯な眼差しで、バロアの庵を含む『隠れ処』をぐるりと見渡し、
「ここは、危ない」
 端的に告げる。
「……何だって?」
「昏(くら)いエネルギーが集まりすぎて、危険だ」
 眩しい、清冽な、純粋な白銀の目が、バロアを射抜く。
「じきに、貴方も呑まれてしまう」
 バロアは差し伸べられた手を睨み据えた。
「――昏闇(クラヤミ)が、やってくる」
 青年の、タスクの言うことは、何となく判る気がした。
 今の自分の状況が、自分の心のありようが、歪んだものであることを自覚しているからだ。
 しかし、
「……だから、どうした」
 バロアは、タスクの手を跳ね除ける。
 そして、わずかに身構えた。
「俺は、俺のやりたいようにやる。お前の指図は、受けない」
「……バロア」
「馴れ馴れしく名など呼ぶな」
 吐き捨てるバロアの指先に、光が収束してゆく。
 彼の全身から滲み出る敵意、殺意に気づいたのだろう、タスクが哀しげな表情をした。
 その顔が、何故か、まだ本当に少年だった頃のバロア、秘された学び舎の中で同胞とともに暮らしていた彼が、仲間や教師である神官たちに悪戯や意地悪をしたとき、敬愛する大神官が見せた困り顔と重なって見えて、ほんの一瞬、瞠目する。
 しかしその幻想を振り切るように頭を振って、バロアは告げるのだ。
「命が惜しくば、今すぐにこの場を立ち去れ。俺は異物を排除するためならば、いかなる犠牲も厭わない」
 タスクが唇を噛んだ。
 ――それから、腰の剣を、引き抜く。
 バロアは眉を跳ね上げた。
「なら……俺も、力ずくで」
 決意すら伺える言葉に、縁もゆかりもないタスクが何故、自分のためにそんなにむきになるのかと、少しおかしくなるが、
「いいだろう……来い」
 結局のところ、待つのは、戦いなのだった。



 3.追憶−拒絶

 閃光の憂、漆黒の煩。
 雷鳴は地に満ち、喰み蜘蛛の巣となりて、災禍なる花を咲かせん。

 不思議な音韻のある言葉が、流暢に紡がれてゆく。
 小柄な闇魔導師の全身に、力が集っていくのが判る。
 バロア・リィムの青い目が、冷ややかに……憤りを含んでタスクを睨み据えている。
「……せめて、後悔して、逝くといい」
 次の瞬間、解き放たれるのは、漆黒の稲妻だ。
 ばしばしばしっ、と、ものすごい破裂音がして、鞭のようにしなって空を裂いたそれが、タスクに肉薄し、彼の身体のあちこちを焦がしていく。
 痛みと言うより、それは、頭の真ん中に白い棒を差し込まれるような激しい熱さで、肉を墨にされるような感覚に、タスクは唇を引き結んだ。無様な悲鳴など上げて、バロアにこれ以上の不信を抱かせては困るのだ。
「話を聞いてくれ、バロア・リィム!」
 済んでのところでかわし、致命傷は免れつつ、タスクは声を上げる。
 バロアの目に浮かぶのは……冷たい怒りだ。
「お前に呼ばれる名前など、ない」
 斬りつけるように鋭い断絶と、拒絶。
 漆黒の稲妻によって構成される鞭が、幾重にも連なってタスクを襲う。
 轟音を立てる鞭に耳元をかすめられ、右耳が痺れたような感覚とともに聴こえなくなった。
「聞いてくれ、バロア! このままここにいたら、貴方は貴方ではなくなってしまう! 昏闇がそこまで迫っているんだ!」
 それでもまったく怯まず、タスクは手にした剣で稲妻を打ち払いながら大声を上げた。彼に憑依したマイネが……古(いにしえ)の英雄が、タスクに、無茶はするなと声なき声で忠告する。ひどく心配そうだ。
 タスクは苦笑しながらも、行動を――声を止める気はなかった。
 稲妻の鞭を避けながら、バロアへと近づき、懸命に手を伸ばす。
「バロア、一緒に行こう」
 だが、返るのは、
「俺の知ったことか」
 冷たい、凍りつくような眼差しと、頑なな拒絶だけだ。
 バロアはタスクを信用してはいない。
 当然だろうとも思う。
「頼む、バロア……ほんの一瞬でいい、俺に信頼をくれ! それが偽りだったなら、命を差し出してもいい。ほんの一瞬だけ、俺を信じてくれ!」
 懸命な言葉に、バロアの白い顔が歪んだ。
 その目が、憤りや憎悪に燃え、また冷たく凍てつきながらも、青く澄んでいることが判るからこそ、タスクはバロアをここからどうしても連れ出したいのだ。――連れ出さなくてはならないのだ。
「お前に……何が判る」
 激情を押し殺すようなバロアの独白、どこか朦朧としたそれとともに、彼の足元がぼこぼこと盛り上がり、腐った肉と骨によって成り立つ、地獄の亡者たちが姿を現した。
 タスクは息を呑む。
 ――それは、バロアの魔法が産んだものでは、なかった。
 昏闇が迫って来ている。
 背筋が粟立つ。
「バロア!」
 亡者たちを打ち倒しながらタスクは叫ぶ。

 ざわざわ、ざわざわ。

 彼を育てた偉大なる存在は言った。
 常に、自分の中心に、輝く芯を持つようにと。
 輝く芯とは、自分の生き方そのものだ。
 しゃんと背を伸ばし前を見る、悔いのない在り方そのものだ。
 育ての親であり、師でもあった存在は、タスクにその芯を見出せと、そしてその芯を決して失わぬようにと常に教えた。
 その言葉が、タスクを、今のタスクたらしめる。
「バロア! 俺は、貴方を、救いたい!」
 本当は、救うだなどという偉そうな言葉が使えるような身ではないけれど。
 誰かに手を差し伸べることで、自分もまた救われるのだと、タスクはそう思うから。
 しかし、タスクの呼びかけに、バロアは反応しなかった。
 虚ろさを増した青い目が、宙を見据えている。
「失せ『居心地ノヨイ闇』ろ……俺『心地ノヨイ絶望』の邪魔を『ココヲワタシノ巣ニシヨウ』するのなら」
 ――バロアの言葉に、別の声が混じった。
 マイネが警告を発する。

 ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。

 昏闇がざわめく。
 ――昏闇とは、悲嘆や絶望や苦悩が呼び寄せる魔の空間だ。
 それは、ヒトの弱さ、ヒトの哀しみをエサにして、その人間の中に入り込み、その人間を包み込み、容易く根を張って、時に世界を揺るがすほど大きく育ってしまう。
 亡者たちが活気付き、タスクに襲いかかる。
 生温かい、血腥(なまぐさ)い風が吹き、バロアの赤い髪を揺らした。
「何もか『オ前ノ願イヲ叶エテシンゼヨウ』も壊してしまえ『ワタシトトモニ生キルノナラバ』ばいい。思うままにな『オ前ノ望ムスベテヲ、オ前ノ手ニ』らないのなら」
 虚ろな眼差しで、バロアがつぶやく。
 それは本心だったのか、苦悩だったのか、それとも慟哭だったのか。
 過去のバロアに何があったのかを知らないタスクには、答えようがない。
 ただ、放っておけないことだけが、判る。
 ぶわり、と空間がたわんだ。
 そう思った次の瞬間には、バロアの頭上に、黒紅の衣を纏った有翼の女が顕れていた。
 翼の色は血を思わせる深紅。
 白い肌に黒い髪、金色の目と赤い唇をした女はとても美しかったが、その表情は冷ややかで傲岸だった。
 慈悲めいた微笑みは、昏闇に堕ち、または昏闇を呼んでしまうほど暗い思いを育て上げた者への憐れみゆえで、光や希望といったものへの賛辞、喜びは、『彼女』からは遠い。
 タスクはほんの一瞬瞑目し、唇を引き結ぶ。
「昏闇より来(きた)ったか、“血染めの聖者”――ロッソ=ファタリタ」
 そして、
「……バロアを、その人を返してもらうぞ」
 剣を構え直し、赤翼の女を睨み据える。
 女は妖艶に笑って、バロアの首に腕を回し、彼の身体にしなだれかかる。
 バロアの空虚な眼差しが、妙に哀しかった。



 4.追憶−血衣の天使

 ミレーユ・ミッシュという町で、タスクは運命の出会いをした。
 パンと言う、日常の断片に、そこまで惚れ込むとは思ってもみなかったタスクだったが、その運命はタスクをたくさん幸せにした。たくさんの笑顔と、たくさんの友達を、パンと言う食物を介して与えられた。
 ミレーユ・ミッシュから少し離れた深く暗い森に住む、呪われた少年の噂を聞いたのも、この町でだ。
 ひどく厭世的で、自らのテリトリーに入るものを廃除する、世界に背を向けるかのような彼の在り方に危険を感じ、また嫌な予感がしたのもあって、タスクは森へ足を向けた。
 幾つもの精緻な罠を掻い潜り、簡素な庵に辿り着いて、バロアと出会った。
 バロアの目、喪われたものへの哀惜と、ままならぬ運命への苛立ちと憤りに翳りながらも、決して澄んだ輝きを喪っていない青々としたそれに、タスクは、何が何でも彼を日の当たる場所に連れ出そうと思った。
 もちろん、初め、憐れみを感じていたのではないかと問われれば、タスクは頷くだろう。
 たったひとりで、可哀想に。
 満たされた人間の優越感なのではないかと問われれば、否定は出来ない。
 だが、同時に、自らを投げ打ってでも救いたいと、バロアを『こちら側』に連れ戻したいという強い思いもまた、事実だ。
「ロッソ=ファタリタ。貴方が呼ばれてくるということは……その人は、相当高位の魔導師なんだな」
 表情をなくして人形のように佇むバロアを抱き締め、その耳朶に口づけていた女が、タスクの言葉に艶然と微笑んだ。
 ――ミレーユ・ミッシュに辿り着くまでの間、タスクは長い長い距離を旅してきた。
 その中で、様々な事件に遭遇し、様々な人々と交流し、時には剣を交え、そして様々なヒトならぬ存在と出会って来たのだ。
 昏闇に住まう魔のものたちは、ヒトの心を媒介に、どこにでも顕れる。
 タスクはもうすでに何度も『彼ら』と相対し、『彼ら』を昏闇へと追い返していた。
 ロッソ=ファタリタは、強い絶望と強い魔力に惹かれて顕れる、昏闇に属する魔の中でも高位の存在だ。血で染まったような衣装と、不吉な深紅の翼から、血衣の天使とも呼ばれている。
 ひどく気紛れなので滅多に『こちら側』には出て来ないが、下手をすれば、ミレーユ・ミッシュにまで被害が及びかねない存在だった。
「貴方には、一刻も早く向こうへ還ってもらう」
 ならば尚更このままには出来ない、という強い思いを込めてタスクが言うと、やってみろと言わんばかりの表情でロッソ=ファタリタが嗤った。赤い唇がゆっくりと開かれる。

 キ・ィイイイイィアァアアアアアァァァ……!!

 『彼女』の唇からほとばしるのは、普通の人間たちには聞き取ることすらできない、魔呪の高速詠唱だ。『彼女』を中心に発生した強烈な風によって、亡者たちが吹き飛ばされ、土に還ってゆく。
 ――来る。
 そう思った瞬間、純白の光線が『彼女』から放たれた。

 じゃっ。

 恐るべきスピードのそれを、咄嗟に身を捻ってかわす。
 庵の周囲を一巡した光線は、森の木々を薙ぎ倒し、周囲の視界を驚くほど開けさせて消えた。
「さすがは……血界第三位の実力者」
 呟き、タスクは走り出した。
 じっとしていたところで、危険が増すだけだ。
 そして、ことロッソ=ファタリタに関しては、勝負は一瞬で決めるに限る。
 『彼女』は、この世に顕現している時間が長ければ長いほど、周囲から負のエネルギーを取り込んで強大になり、血界第三位の存在でありながら、時に血界第一位、すなわち魔王などと呼ばれるモノに近くなってしまうのだ。
 とはいえ『彼女』は、依り代となった人間との『接続』が切れると興味を失うらしく、さっさと昏闇へ還って行くことが判っている。
 そのために、タスクは、走る。
 幸い――と言うべきか、不幸にも、と言うべきか――タスクは『彼女』とはこれまでに二度遭遇したことがあるため、『接続』の切り方は知っている。
 危険な行為だが、タスクは自分が優れた運動神経を持っていることを理解しているし、何より、ここで我が身を惜しんでは、何の意味もない。
「バロア、一緒に、行こう」
 静かに呼びかけて、タスクは、一直線に走る。
 バロアは虚ろな表情のまま、身動きもしない。
 ただ、ロッソ=ファタリタが、楽しげにタスクを見遣り、白い閃光を幾筋も撃ち放っただけだ。
「……ッ」
 タスクはそれらを、身体の一部を焦がされつつも神がかった反射神経で避け、更に一歩踏み込んで、バロアの背後へと回り込んだ。
 『接続』から大した時間が経っていない所為か、ロッソ=ファタリタはまだバロアを巧く『使えない』らしく、バロアはなすすべもなくタスクに背後を取らせ、また、距離を取ることもしなかった。
 それが、巧く作用した。
 ――ロッソ=ファタリタと人間との『接続』を切る方法。
 それは、
「ごめん、バロア」
 依り代となった人間の意識を、失わせることなのだ。
 タスクの手刀が、バロアの首筋に吸い込まれるように極まる。
 バロアの目が見開かれた。
 その目に、拭い去ることの出来ない哀しみがたゆたっているのをタスクは見た。
「……ごめん、バロア」
 二度目のそれは、バロアに痛みを与えたことに対して、ではなかった。
 ぐらり、と、バロアの身体が傾ぐ。
 ロッソ=ファタリタがくすくすと笑い、バロアから手を放した。
「……大神『オヤ……残念』官様、みんな。俺は、一体、何を『サスガハ、黄泉ノ王ノ愛シ児』見つめて生きればいい? 俺は、何を目『デハ、ワタシハ還ルトシヨウ』指して生きればい『オ前タチトハ、マタマミエタキモノヨナ、可愛イ子ラ』いんだろう……?」
 バロアの唇が、彼の懊悩を紡ぎ出す。
 そんなバロアの頬を指先で撫でたあと、赤い風が、ぶわりと空へ舞い上がる。
 タスクは力を失って倒れ掛かるバロアを抱きとめながらそれを見上げ、苦笑した。
「俺は出来れば会いたくないよ、残念ながら」
 タスクの言葉に、約束は出来ないとばかりにくすくす笑い、ロッソ=ファタリタは宙を一回転して消えた。
 あとには、血の匂いのする空気が、わずかに残るばかり。
「……やれやれ」
 大事にならなくてよかった、オーロ=ノッテやネーロ=フィーネよりはマシだった、などと安堵の息を吐き、タスクはバロアを支えた。ずいぶん見晴らしのよくなってしまった森を一望し、別荘にするには悪くないかな、などとのんきなことを思う。
「う……」
 バロアが呻き、頭を振りながら顔を上げる。
 青く澄んだ目が、自分を支えるタスクに行き着くや、奇妙に歪んだ。
 タスクはそれを、真摯な微笑とともに見ていた。



 5.緩やかな氷解、瑕(きず)は消えずとも

「まぁ、色々あったよね」
 バロアがしみじみ言うと、うんうんと頷いたタスクが、
「まぁ、色々あったよな」
 しみじみと同意する。
 あれからバロアは変わった。
 お節介な青年に連れられて、ミレーユ・ミッシュという町を何度か訪れ、彼気に入りのパン屋で、山のようにパンを食べさせられた。
 それは確かに美味しくて、バロアに生きている意味を思い出させたが、同時に、素直に美味しいと口にしたら、タスクが毎日、びっくりするほど明るくなってしまった森を越えて、バロアの庵に、山のようなパンを届けに来るようになったのには閉口した。
 閉口したが、実は、嫌ではなかった。
 タスクに、『可愛いし、親しまれやすいだろうから』などと、ネコミミフードのローブを押し付けられ――しかもタスクの手製だった――、断り切れなくて着たら、街の人々の自分を見る目が変わって拍子抜けした。
 口調を意識的に変えて、過去の自分と今の自分を切り離し、客観的に過去を見つめるように努力することも始めた。
 そうしたら、少し、気が楽になったのは、事実だ。
 そのお陰で、バロアは外に――町に、ひとりででも出るようになった。
 お目当ては新鮮な食材を取り扱う市場や、質のいい本が揃った古書店で、パンだけじゃ栄養が偏るし、本に罪はないからな、というのが彼の弁だったが、照れ隠しのいい訳めいたそれにも、タスクは嬉しそうに笑うだけだった。
 タスクはタスクで、最初に出会ったときと変わらず、何かにつけてバロアを助け、手を差し伸べた。
 毎日顔を出すタスクのお陰で、色々な事件や騒動に巻き込まれることにもなった。
 一度昏闇に囚われると『近く』なってしまうのか、それとも自分から近づくようになってしまうのか、様々な事件の中で、ロッソ=ファタリタとは再会したし、オーロ=ノッテやネーロ=フィーネとも対峙する羽目になった。
 あの時のことを思い出すと、今でも心臓が縮む思いがするほどだ。
 あまりにも昏闇の発生率が高くなった時期には、タスクとふたり、ギャアギャア喚きながら――とはいえ喚いていたのはバロアばかりで、タスクは楽しそうだったが――『昏闇の門』のひとつを決死の覚悟で閉めに行った……というよりも、タスクに巻き込まれて閉めに行かされたこともあった。
 バロアのタスクに対する感情は、今も複雑だ。
 宿敵だと思う。
 好敵手だとも思う。
 疫病神だと思うこともある。
 どう頑張っても敵わないような気がしている。
 ――大事にされていることも判る。
 感謝も、実は、している。
「ホントに、変なヤツだよね、キミ」
「そうかな? 俺は、この上もなく当然のことをしているだけなんだが」
「その当然がよく判んないよ」
 バロアが溜め息をつくと、タスクは晴れやかに笑ってバロアの肩を叩いた。
 本人には何の気なしの親愛表現でも、肉体的には貧弱なバロアには結構堪える。
「ちょ、何ヒトの肩を砕こうとしてるのさ!? 僕のか弱い骨が粉々になったらどーしてくれんの!?」
「あ、ごめん、つい」
「つい、じゃないよ、まったく!」
 バロアが憤慨していると、きゃっきゃっという弾けるように楽しげな笑い声がして、タスクが顔を輝かせた。
「和奏(わかな)!」
 鉄塊都市のために我が身を犠牲にしたふたりの女の再来と言う、ふくふくとした笑顔の赤ん坊を抱いて、廃鬼師の零覇(れいは)が姿を見せていた。
「元気にしているのか……そうか」
 零覇に赤ん坊を抱かせてもらいつつ、タスクが目尻を下げる。
 和奏はきゃわきゃわと笑って小さな手を振り回した。
 バロアは赤ん坊の顔を覗き込む。
「へえ……ちっちゃいね。赤ん坊って、こんなにちっちゃいのに、一生懸命生きてるんだな」
 バロアは決して子ども好きと言うわけではないし、自分が子どもを持つことはないだろうとも思っているが、様々な奇跡を経てここに至った、この赤ん坊の命がひどく貴く思え、ちょっと笑って彼女の頬をつついた。
 ふんわりとした感触に、また笑みが漏れる。
 と、きゃあきゃあと喜びの声を発した赤ん坊が、バロアのネコミミを掴む。
 それも、相当な力で。
「え、あれ、ちょ、な……痛たたたたッ!?」
 バロアのネコミミは、ちょっとしたハプニングで生えてしまった本物だ。
 当然、感覚もあるし、引っ張られると痛い。
「お、それに目をつけるとは、なかなかやるな、和奏」
 タスクが暢気極まりないことを言って笑う。
 褒められたことが判るのか、嬉しそうに笑った赤ん坊が、またネコミミを引っ張る。しかも、到底赤ん坊とは思えない力だった。
「ちょ、痛い痛い、本気で千切れるから、それ……!?」
 興味を持ったものを弄繰り回す赤ん坊の常で、和奏はバロアのネコミミを掴んだきり放そうとはしない。それどころか思い切り引っ張って口に入れようとまでしている。
「食べられない、食べられないからね!?」
 じたばたと足掻きつつ、救いを求めるように十守と零覇を見遣るが――こういうときのタスクがまったくアテに出来ないことは何年かの付き合いで理解した――、廃鬼師たちは微笑ましげにそれを見ているだけで、助けてはくれないようだった。
「何でそんなに力が強いんだよ、赤ん坊だろ……!?」
「恐らく都市構成物質で肉体が出来ているからだろうな。正直、彼女の握力は、今の段階で、地上の規格で言うところの80ほどあるようだ」
「ちょっとそこの十守とか言う人!? だったら説明してないでまず僕を助けようよ!?」
 必死なバロアに、タスクが明るい笑い声を立てる。
 周囲に、漣のように笑顔が広がった。
 赤ん坊は、きゃわきゃわと笑いながらネコミミを引っ張っている。
「ちょ、も……ここに僕の味方はいないのか……!?」
 生命の息吹を取り戻した世界に、バロアの叫びが響き渡る――そんな日常。
 悲鳴を上げながらも、文句をこぼしながらも。
 実を言うとバロアは、その日々を愛しているのだった。
 愛していることを、気づかされずにはいられないのだった。

 そう――ここが銀幕市であれ、故郷の世界であれ。
 完全ではない魂と、決して癒されない傷とを抱いて、それでもバロアは生きるのだ。
 傷は時に彼を苦しめるが、同時に彼を強くする。
 あの森から外へ出て、バロアはそれを知った。
 タスクが気づかせてくれたもの、顔を上げて前を見ることが出来た自分、その結果生まれた約束を果たすため、そして、この銀幕市で出会った大切なものを自分自身の力で守るために、バロアは日々を進む。

 なつかしくいとしい、あのいたみとともに。

クリエイターコメントオファー、どうもありがとうございました!
素敵な依頼で、大変楽しく書かせていただきました。

バロアさんの繊細さと傷、闇の中でもがいている苦しみ、タスクさんの懐の深さと強さ、そしておふたりの間に通う微妙な感情や、切っても切れない絆を、巧く描けていればいいのですが。

なお、お言葉に甘えて思う存分捏造させていただきましたので、何か不都合な点、不具合などありましたらご一報くださいませ。可能な限り訂正させていただきます。

楽しんでいただければ幸いです。


それでは、また、次なるお話でお会い出来ることを祈って。
公開日時2008-06-29(日) 19:50
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