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<ノベル>
ACT.1★庭にラベンダー、赤煉瓦につるばら
シダで覆われた獣道だと思っていたものが、古い時代に施工された歩道なのだと気づくころ、鬱蒼とした森はとぎれ蝉の声は止み、視界が開けた。
雲という雲がぬぐい去られた快晴である。群青色の夏空の下、目前に広がる色彩の鮮やかさに、バロア・リィムは手をかざし、青い瞳を細める。
雪のような白、みずみずしいピンク、淡い紫、夜明け前の空に似た青。
精緻な絨毯さながらに庭を埋め尽くし、色とりどりに咲き乱れているその花は全てラベンダーだった。甘くすがすがしい芳香が満ちている。
ラベンダーの庭はその中央に、朽ちかけた赤煉瓦の建物を抱いていた。
敷石が並ぶ歩道は、古い洋館とおぼしきその建物へと続く。ところどころひび割れた壁を繕って支えるかのように、つややかな緑のツタと、薄紅の愛らしい花房をつけたつるばらが幾重にも絡まる。
つるばらは建物の周囲をぐるりと覆い、歩道の幅だけを残して波打ち、ラベンダーの庭へと溶け込む。それは、真昼の幻想に似た光景だった。
――鐘が、鳴る。
洋館に見えたこの建物には、鐘楼があるらしい。
見上げたバロアの目は、鐘の音源であるところの塔をとらえた。次いで、銅板葺き屋根の尖塔部分に掲げられた十字架を見やる。
(ここは、教会だったのか……)
言いようのない懐かしさを感じ、つるばらに導かれるようにバロアは歩を進めた。
ずいぶんと遠くまで来てしまった。ほんの腹ごなしの――そう、食後の散歩だったのに。
今日の昼食は、この街の隠れた名店であるところのラーメン屋で取った。住民流出にともない、出前先と来客の減少に悩むその店は、ふらりと訪れたバロアに抱きつかんばかりの勢いで下へも置かぬランチタイムサービスを繰り広げてくれた。おかげでバロアは、「ご、ごめん。もう食べられない、ごちそうさま」状態で、ふらふらになって店を後にしたのである。
そして腹ごなしのために、ダウンタウンからアップタウンへと歩き、綺羅星ビバリーヒルズを流れる小川に沿って広陵地帯を突っ切り、住宅街を後にして森を抜けてみた。すでに杵間連山はほど近く、教会の背後にそびえている。
つまり、バロアは意図してこの場所に赴いたわけではなかった。
同様に、もうひとり――
「バロアくん? 散歩の途中かな? 偶然だね」
やわらかな声に振り向けば、どこかで見たことのある青年が、照れ混じりの笑顔で片手を挙げている。
「うん偶然……て、えっ? えええー? 悟じゃん。いつ魔導師に転職したんだよ?」
声も顔も見覚えはあるのに、目の前の青年を小日向悟と認識するまでに10秒ほどかかった。
何となれば、一般的大学生であるはずの悟の本日の服装は、銀鎖と月光石の留め金をつけたゆったりと長いマントに、水牛の革で編まれたサッシュとブーツ、茶色のくせっ毛に絡まっているのは矢車草色のサファイアで象眼された銀の輪という、ファンタジックなものだったからである。
「あはは、アルバイト中なんだ。文字通りエキストラのね。設定は王立魔導研究所の教官候補生」
大学が長い休みに入っていることもあり、悟はこのところ、必殺お助けバイト人生に拍車がかかっている。
主な召還先は、夏の特選ランチフェアのオプションスイーツバイキングが大好評すぎて総料理長が日々悲鳴を上げている銀幕ベイサイドホテルなのだが、今日はたまたま、冒険ファンタジー映画を撮影中の某監督から、急遽エキストラがひとり足りなくなったからと泣きつかれての応援であった。
「撮影って、ここで?」
「ううん、ずっと向こうの広陵地帯で。主人公が草原で魔法演習を行うシーンを撮ってたんだ。でも今、空が青すぎてイメージに合わなくて、天候が変わるまで撮影中止だって」
「雲待ちかぁ。今日は晴れっぱなしな気がするけどなぁ。それっぽいロケエリ使えるスター、スタッフにいないの?」
「いないこともないけど、30分以内に撮り終えることが出来なくてね。時間切れ」
衣装をつけたまま待機していたところ、監督からそこらへんを散歩してきていいという許可が下りたのだそうだ。
近くに教会があるということは、監督に聞いた。以前、庭と外観部分をロケに使用したことがあるそうで、ちょうど、庭の花が綺麗な季節だから見学してくればいいと言われたのだった。
「でも、かえってラッキーだったかな。ラベンダーもつるばらも満開で壮観だね」
悟はにこにこと、花にあふれた教会を見回す。肩の上のバッキー、ファントムも、お揃いの銀の輪を頭に乗せ、ご機嫌な様子できょろきょろしている。
ふたたび、鐘が鳴る。
「中に入ってみたいけど、たぶん無理だよな。この世界の教会って、魔導師お断りのところが多いって聞いたことあるし」
鐘楼を見上げ、バロアは残念そうにため息をつく。
「魔導師じゃなくても、今日は難しいんじゃないかな」
鐘の音に聞き惚れながら、悟が言った。
「この鳴らしかた――今から礼拝堂で結婚式が始まるんだと思うよ」
「……そっか」
こういうところで結婚式って、なんか、いいね。
そう呟いて、もうしばらく庭を観賞しようと、悟とともに歩き出したときだった。
教会の重厚な扉が、ゆっくりと開いた。
現れたのは、青紫のラベンダーをその瞳に宿したような、美貌の神父である。式典用の白い正装が長身に映えている。
「ようこそ、聖ユダ教会へ」
「わ。邪魔しちゃったらすみません。俺、通りすがりの魔導師ですけど、庭と外観見てただけなんで」
焦って一人称が「俺」になってるバロアの隣で、悟も微笑む。
「オレも通りすがりの魔導師です。庭の花を鑑賞させていただいてました。ラベンダー、綺麗ですね」
「そう仰っていただけると、庭仕事のしがいがあります」
優しい物腰で神父は頭を下げる。流暢な日本語だ。
艶やかな黒髪を持っているが、瞳のいろといい肌の白さといい、生粋の日本人ではないだろう。
悟は、今の風情とはまったくかけ離れた彼のすがたを、かつてスクリーンの向こうに見たことがある気がしたが、あえてそれは問わないことにした。
「この教会の聖ユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダではなくて、新約聖書の『ユダによる手紙』のユダですね。十二使徒のひとりの」
「よくご存じで嬉しいです。混同なさるかたが多いので、この名前はなかなかに苦難を伴っているのですよ」
扉を大きく押し開き、神父はごく自然な調子で、ふたりの魔導師を驚かせる申し入れをした。
「おふたりとも、お急ぎでなければ結婚式に立ち会っていただけませんか?」
ACT.2★ラベンダーの花言葉
――あなたを、待っています。
ACT.3★死が二人を分かつまで
薔薇窓からこぼれる光だけが照明の礼拝堂で、新郎新婦は静かに並び、式の開始を待っていた。
神父に招き入れられたバロアと悟をみとめ、「よろしくお願いします」と笑顔を見せる。
聞けば、いささかわけありのため、身内や友人はいっさい出席せず、ふたりきりの式になったということらしい。
新郎は、ある劇団所属の中堅俳優であったが、某カリスマ監督による大作ファンタジーアニメ映画『フィンネスブルグの末裔(すえ)』に登場する騎士フォルクマール役の声優に抜擢されたのがきっかけで大ブレイクした。しかし劇団内部に発生した資金調達関係や人間関係のいざこざに巻き込まれ、声優の仕事にも支障が生じるようになり、劇団オーナーの娘だった婚約者とも別れるに至った。
失意の新郎をさりげなく気遣い支えてくれたのが、劇団事務員の新婦だった。ずっと目立たぬ裏方で、誰に対しても真摯な態度で接する彼女に心を打たれたのだそうである。
バロアが新郎側の友人席に、悟が新婦側の友人席に立ったところで、祝別式は始められた。
もとより、聖歌隊がいるわけでもなく、骨董的価値がありそうな年代物のパイプオルガンの前には弾き手は座っていない。音楽のない簡素な進行である。
いきなり伴奏無しの賛美歌斉唱という高いハードルが、バロアと悟の前に現れたが、楽譜と歌詞が渡されたのでこれは何とかクリアできた。
追って、聖書朗読を行う神父の、砂漠に降る慈雨のような声が、おごそかに響き渡る。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」
新約聖書の「コリント人への第一の手紙」である。目を伏せて聞いていた悟は、ふと――
いや……。
いやよ。
やめて。
わたしは認めない。
誰かの泣き声が聞こえた気がして、顔を上げる。
若い女性のようだ。おそらくは新婦と同じくらいの。
しかし、ウエディングドレスに包まれた新婦の後ろ姿はこの上なく幸福そうで、彼女の心の声だとは思えない。
(聞こえた? バロアくん)
(うん……。誰だろ。新郎の元婚約者かな?)
(生身の人間じゃないような感じがする)
(そうだね。新郎か新婦に未練がある人がいるんなら、扉をばーんと開いてさ、「その結婚ちょーっと待ったあぁぁ!」って堂々と乱入するのが筋だよね)
友人席の魔導師たちが目線で会話を交わしている間にも、式は進んでいく。
聖書朗読後の神父による式辞は、婚姻が成立してからの生活をより良いものにしていくための人生訓が語られ――そして誓約の議に移る。
神父はまず、新郎に問うた。
「あなたは、この結婚を神の導きによるものと受け取り、その教えに従って夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつまで、命の日の続く限り、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓いますか?」
新郎が「誓います」と答えた、そのとき。
式の進行と比例するようにこの空間に生じ、じわじわと広がっていた異変が、とうとう牙を剥いた。
やめて。
やめてよ。
わたしはここにいるのに。
ひどい。
ひどいひどいひどい。
わたしはずっと待ってたのに。
身体はとうに滅び、白いヴェールは朽ち果てても、
あなたを待ってたのに。
他の女と誓いを交わすなんて。
許 さ な い。
激しい勢いで、鐘が鳴った。
いや――泣いた。
つむじ風のような突風が、礼拝堂を席巻する。
ずしりと重いはずの聖書が、木の葉のように空を舞う。
燭台がいくつも、音を立てて倒れた。
おのれ、フォルクマール。
呪われたる騎士よ。
よくも。
よくも、我が愛しき娘を、
クレメンティアを裏切って。
異形のすがたで、
異境のむすめと、
異境の神の祭壇に立とうとは。
新郎新婦も、神父も、バロアも、悟も、
目に見えぬ巨大な怪物のあぎとにくわえられ、教会の外に放り出され――
気づいたときには皆、ラベンダーの庭に尻餅をついていた。
見上げれば教会はぐにゃりと歪んで形を変え、ひとまわりもふたまわりも大きくなっている。
美しいつるばらはかき消えて、鋼鉄の棘を持つ茨の鎖に取って代わられた。悪魔の鞭のような蔦に絡みつかれて、十字架はどこにも見えない。
突風は変形した扉の前にも激しく渦巻いている。誰もその中に戻らせまいとするかのように。
「まるで、魔王の棲む城のようですね」
はからずも、バロアや悟と同じ感想を、神父が漏らした。
ACT.4★魔導師たちの推理と冒険
「……なあ、悟」
「うん、バロアくん」
「これって、やっぱりあれだよな。対策課お得意の」
「あれだねえ。対策課も好きで得意になったわけじゃないだろうけど」
ムービーハザード、という単語を同時に唱和し、バロアと悟は顔を見交わす。
「んで、聖ユダ教会にムービーハザード発生、結婚式の真っ最中に新郎新婦と神父さんとついでに通りすがりの魔導師ふたりが謎現象に巻き込まれて礼拝堂から追い出され中に戻れない、求む解決! ……ていう依頼が掲示されるんだ。当然、受けるよね?」
「受けるね、速攻で」
――そこに、泣いているひとがいるから。
変貌した教会を、悟はいたましそうに見る。
「この状況と『彼女』の心理状態から見て、裏切られて傷ついているように思うんだ。――神父さん、式が開始されてからずっと、誰かが泣いている声が聞こえてましたが、心当たりはありませんか? たとえば以前、来ない新郎を待ち続けた花嫁がいた、とか」
生真面目な性格であるらしい神父は、頁をばらばらにされて庭のあちこちに散った聖書を拾い集めては、もとの形に揃えていた。
「はい、それは私も気になっておりました。ですが、かつてこの教会で花嫁が待ちぼうけになったという事例はないのです。それにこちらの新郎新婦におかれましても、今日の日を迎えるにあたり事前にご参加いただいた16回の結婚講座の中で、その決意にもお人柄にも何の問題もなく――」
「ちょ、事前講座16回? そんなに受けなきゃなんないもんなの?」
そこに突っ込んでる場合ではないことは十分承知しているのだが、バロアはついつい突っ込んでしまった。
「……少ないでしょうか? もちろんご希望があれば、20回コースでも24回コースでも喜んで」
「…………い、いや。結婚て大変なんだな………」
何となく新郎の肩を叩きたくなりつつ、バロアも事情聴取を開始する。
「すごく聞きにくいんだけど、あの声の女の人が誰かなんてわかんないよね? わかんなきゃいいんだうんうん、聞いてみただけだから」
しかし新郎は、黙って考え込んでいる。その横顔を新婦が、心配そうに覗き込む。
「わかります」
低く、しかし毅然とした声で、新郎は断言した。
「あれはフィンネスブルグの9つの王国と対立する、魔王ギュンターの娘、クレメンティア姫です。私が演じた騎士フォルクマールは、フィンネスブルグの筆頭国を統べる翼竜王に仕えていましたが――」
† † †
フォルクマール。
あなたは誓ってくれたのに。
9つの国、9人の王、9体の守護竜。
全てを敵に回しても、わたしを妻に迎えると。
† † †
「クレメンティア姫と恋に落ちたフォルクマールは、魔王に忠誠を誓う決心をしました。筆頭国の守護竜を味方につけ、フィンネスブルグ全土に反旗を翻したんです。一方では、別の陰謀が進行していて……。フォルクマールの弟、王宮司祭アウグストは離反した兄を激しく憎み、クレメンティア姫を罠に陥れました」
――兄からの言伝があります。ふたりだけで婚礼の儀を執り行いたいと。ついては姫おひとりだけで、花嫁衣装をつけて、おいでいただきたい。くれぐれも、どなたにも気づかれぬように。
そして、純白のヴェール、純白のドレスに身を包んだ魔王の娘は岩窟教会『時の檻』に封印された。
外の世界の数百倍もの早さで時間が流れる檻の中、彼女は何も知らずにフォルクマールを待ち続けた。
「その映画、オレは見てないんですけど、たしか、フォルクマールはクレメンティア姫の受難を知らないまま、国をふたつ制圧したところでエピソード1が終わったって聞いたことあります。エピソード2以降はまだ企画段階だとか」
「そうです。今後のストーリーがどうなるか、私も知りません」
「するとこのハザードは……。クレメンティア姫と魔王ギュンターから同時に派生したのかな……」
悟が考え込み、バロアがぽんと手を打った。
「そうか。つまり魔王様は『花嫁の父』なんだね。娘婿のことを誤解したまま怒ってるのか。複雑なことになってんなぁ」
ぼやいたとたん、事態はもっと複雑なことになった。
巨大化した教会が、またもみしり、と、揺れたのだ。
爬虫類が脱皮するように身じろぎをし、幾度も波打った教会は、すでに建物の体裁すら留めていなかった。
――闇が凝固したような大蛇が、とぐろを巻いている。
おぬしらは、フィンネスブルグの魔導師か?
ならば。
容赦はせぬ。
娘のなげきを、思い知るがいい!
大蛇の口が大きく開く。鋭い牙の間から赤い舌が、きしゃあああ! と、繰り出される。
「お父さん、ちょっと待って、話せばわか……」
……ってもらえそうにもない。
恐ろしい熱と毒を持つその舌は、バロアと悟を横なぎに舐めようとする。
――瞬間。
あたりの空間は、荘厳な教会となった。
バロアがロケーションエリアを展開したのだ。
「しょうがないなあ。――理(ことわり)は反転する。合わせ鏡を走る裏返しの天馬よ、そのいななきを、聞かせよ」
バロアが呼んだ漆黒の天馬は、大蛇に匹敵するほどの闇のいろを持っていた。
いななくたびに、かまいたち状の風が大蛇の鱗を薙いでいく。動きが止まった。
そして――
ロケーションエリアの効果で、そのいでたちにふさわしい魔力を付加された悟の、右手の甲が青白い光を放つ。
「魔を封じし湖より、百の礫(つぶて)、千の氷柱(つらら)を」
大蛇の上に降り注ぐのは、氷のつぶてと、鋭いつらら。しかし大蛇は、熱線のような舌で、氷を溶かしてしまう。
「傷に凍る海の底より、百の棘、千の刃(やいば)を」
同じことだった。氷で作られた槍の雨は、巨大な尻尾を鞭のようにひとふりされ、たたき落とされた。
「……悟。もしかして手加減してる?」
「うん。バロアくんも?」
「まあねー。こういう場合、戦闘系魔法って使いづらいっていうかさ。……そうだ」
何かを思いついたらしきバロアは、新郎の手を引っ張る。
「ごめん奥さん。今だけ新郎借りるね」
何事かを耳打ちするバロアに、新郎は大きく頷いた。
毅然と、語りかける。
騎士フォルクマールの声で。
「クレメンティア姫よ。魔王ギュンターよ。我はあなたがたを裏切ってはおらぬ。王宮司祭アウグストの奸計により姫の魂を封印されてしまったが、いつか必ず、救い出してみせよう」
……奸計と、申すか。
我が娘は、罠に陥れられたのだと?
大蛇のすがたが、ゆらりとかしぐ。
聖ユダ教会のあるべきたたずまいが、二重写しに見え隠れした。
今だ。癒し系魔法の合同詠唱、光+水でいってみよっか!
バロアの掛け声と同時に、悟の右手の甲がひときわ青い輝きを放った。
「白夜の凛、日輪の厳、重ねて浄化の蓮を生まん」
「秘蹟の滝、転生の大河より、幾百の洗礼、幾千の涙を」
「宙(そら)と地を彷徨うものよ」
「在るべき場所へ」
「光の腕(かいな)に」
「赦しの泉へ」
「「還れ」」
† † †
ああ、わたしの騎士よ。
それではわたしは、
待っていても、よろしいのですね……?
ACT.5★絶望者を守護するもの
そして聖ユダ教会は、もとの状態を取り戻した。
「立派でした、あなた。フォルクマールだったら、きっとそう言ったと思うわ」
中断された式を嘆くでもなく新婦は微笑む。
結婚式は再開し、恙なく終了した。
お世話になりました、と、新郎新婦は礼を述べ、肩を並べて帰っていく。
今日から新居で暮らすのだそうだ。
† † †
「それにしても僕、銀幕市にこんな教会があったなんて知らなかったよ。もっと宣伝したらいいのに」
改めて教会内部を見学しながら言うバロアに、神父がため息をつく。
「広報活動は行っているのですが、なにぶんにも、私ひとりしか人手がないもので……。ここで結婚式を挙げて頂きたくとも、オルガン演奏も聖歌隊もないではどうしても敬遠されまして。私なりにパンフレットなども作成してみたのですけれど」
差し出されたパンフレットの表紙には、神父本人が描いたつるばららしきイラストが載っているのだが、怪しい渦巻きにしか見えない。バロアの額に縦線が走る。
「顔に似合わない下手くそ……や、個性的なタッチだねうん」
「ご家族やお友達やお知り合いで、ご結婚予定のかたがいらっしゃいましたら是非ご紹介ください。クリスチャンではないかたも、ご事情により相談に応じます。あとこちら、庭で取れましたラベンダーで作ったアロマキャンドル、ラベンダーポプリのクッション、ハーブティーセット、ラベンダーオイル配合石鹸などお土産にどうぞ」
「こんなに。ありがとうございます」
山のようなラベンダー製品を受け取りながら、悟は神父を見つめる。
「あの、失礼な質問だったら申し訳ありません。あなたは、ハリウッドスターの……」
「そんなこともありましたが、3年前に引退いたしました――ユダとお呼びください。本名がそうなので」
「ご本名も、聖ユダと同じなんですね」
「……聖ユダは、聖シモンや聖ヤコブ同様にイエスの親戚であったといわれています。ですが、ユダという名前のせいでさまざまな冷遇を受けたようで……。転じて絶望者・挫折者・末期患者の守護者となっています」
ユダ神父は薔薇窓を透かすように、アップタウンの方向に視線を飛ばした。
「絶望の病に冒された少女のことを、最近知りましたが――。絶望を知るものは、絶望するものの助け手にもなれると、私は信じています。……ああ、すみません。私はいつも話が回りくどいとお叱りを受けがちでして。何が言いたいかと申しますと」
――バロアさんも悟さんも絶望を知っているのだと、先ほどの魔法詠唱を拝聴して、そう思いました。
† † †
「大丈夫、バロアくん? よかったら三月家まで送ってくよ? 撮影開始は先だろうから時間はあるし」
「うん〜。よろしくぅー」
連続魔法使用の疲れがどっと出て、バロアはぐったり脱力してしまった。彼を背負い、紙袋に入れてもらった大量のお土産を持って悟は歩き出す。
振り返ればユダ神父が、ラベンダーの庭に佇み、こちらを見送っている。
空はまだ、晴れたままだ。
まるで絶望のかけらさえ、寄せ付けまいとするかのように。
――Fin.
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クリエイターコメント | この度は、銀幕市ならではの超素敵設定なご依頼をありがとうございましたー! おふたりの魔法詠唱を捏造できるとは望外のしあわせ。 バロアさまのロケエリの中、悟さまに付加される魔法はどんな属性がふさわしいだろうと考えました結果、あたたかな包容も容赦のない断罪も可能な、水の魔法にさせていただきました。 バロアさまには、闇の魔法と光の魔法の連続使用という無茶をさせてしまいましたが、これで某ラーメン屋さんで摂取しすぎたカロリーは消費できたということで。 |
公開日時 | 2008-08-13(水) 10:10 |
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