★ 影の蠢き、愚者の否定 ★
クリエイター西(wfrd4929)
管理番号172-5510 オファー日2008-11-29(土) 00:33
オファーPC エドガー・ウォレス(crww6933) ムービースター 男 47歳 DP警官
<ノベル>

 エドガーは、夢を見ていた。己自身と相対する、奇妙な夢を。
「やあ。エドガー」
「……お前か。シャドウ」
 ここでエドガーは周囲に目を向け、己が荒野にたたずんでいることを知る。
 夢の中で自分の影と向き合う際、用意される風景は、いつも荒廃していた。そして目の前に広がるのは、大きな穴。見下ろしても底さえ見えぬ大穴が、二人の間にある。
「シャドウ? ……そんな気取った呼び方をしないで欲しいな。俺は、君だよ」
「黙れ、影め。こんな所に呼び出して、何のつもりだ!」
 二人の間の距離は、およそ100mにもなろうか。間に大穴を挟んで、彼らは対峙していた。
 それでも何故か対話にも支障はなく、穴を迂回して、近くにまで寄ろうとは、なぜか……思わなかった。
「対話を」
「……何?」
「話して、みたかったんだよ。君を知りたくなったから、こうした場を設けたのさ。迷惑だったかい?」
 自分と同じ顔の男は、そういった。悪意も憎悪も、表情からは読み取れぬ。まるで、それが本心であるかのように。
「迷惑極まりない。今更話すことなど、何もないはずだ」
 しかしエドガーは、あれが友愛や、平和的解決を望むような男でない事を、知っていた。他の誰でもない、自分だからこそ――己の闇の深さを、よく理解していたのだ。
「お前は、私から主導権を奪いたい。私は、お前を野放しにしたくない。どうしたって、利害は一致しないだろう」
 エドガーは常々、自分の中にある、破壊衝動に悩まされていた。正確に言うなら、悪意だけが詰められている、破綻した人格。それに自分の体が乗っ取られる事態を、彼は幾度か経験していた。
 彼には、それが忌々しくてならない。エドガーはこの人格を、己の中にあるシャドウ。負の感情の表れとして定義している。だから、一生付き合っていかねばならないと、覚悟はしていた。だが、決して和解しようなどとは思わない。それが出来ぬと思い込むほど、エドガーはこの影を嫌っていた。
「だろう、ね。……でも、お互いについて分かり合うことは、とても重要なことじゃないかな? 私たちは、特にね」
「相容れぬ人格同士。分かり合ったところで、何になる? 話し合えば、お前が表に出る事を諦めてくれる、とでもいうのか」
 いわゆる、二重人格とでも言おうか。その問題の相手と、夢の中とはいえ、こうして真正面から見据えているのである。激昂せずに口が聞けているだけでも、自制心の働きを褒めねばなるまい。
「まさか、まさか。俺だって、君のことが大嫌いだ。君もそれは同じだろうし……と、長く戯言を続けすぎたね。この場は、永遠じゃない。エドガーの目が覚めれば消える、曖昧な心象風景に過ぎないのだから、ね。もっと有益な話をしよう」
 ならば、さっさと目覚めたい物だと、エドガーは本気で思った。意識すれば、夢もより早く覚めるのではないかと思い、実行に移す。
「お生憎様、だな。何度でも言ってやるが、俺にそのつもりはない」
「――やれやれ、もう退散、か。次は有意義な議論の場を、設けたいものだね」
 そんな機会は、二度とやらん。そう思って、彼はまどろみの中から抜け出して……。

「う……朝、か」

 ベッドの中にいる、自分を知覚した。ひどい夢を見たと罵っても、もう答える相手はいない。
 それにいささかの安堵を感じつつ、エドガーは一日の準備の為に、まずはベッドから降りるのだった。



 エドガー・ウォレスは、警察官である。それも、特異な。
 出勤してすぐ、彼とその相棒のグレンは、大きな仕事へと取り掛からねばならなかった。
「エドガー、こんな大きな事件は、久しぶりだな。DP警官の手並み、見せてやろうぜ?」
 ……出動である。グレンの言葉に、彼は頷いて返す。
「もちろん。君の方こそ、あまり気負わないように」
 この二人は、世間で言うところの、超能力者だった。DP警官とは、文字通り、DPに所属する警官の事を言う。数は決して多くはないが、社会の認知度は高い。それだけ派手な場面に出くわすことが多く、大きな功績も打ち立てているからである。
 能力者には能力者を。目には目を、を根幹として開設された正式名刑事部能力捜査課。通称DP(Division Psychic)。その歴史は浅く、いまだに生まれたての組織に過ぎない。
 しかし、サイキックテロが頻発する現代社会にとって、もはやなくてはならぬ物となっている。
「グレン。君の力は確かに凄いが、それで何でも出来るわけではない。協力する事を、覚えなくてはいけないよ?」
「わかってるって。先走って失敗するような下手は、何度も打たないさ。……しかし、いちいち忠告してくれるなんて、苦労性だな、あんた」
 DPに属する者として、ある程度の自負心は持つべきであろう。だが、グレンは己を頼みにするところが強く、時にエドガーの制止を振り切って、深追いすることもあった。
 エドガーは、DP警官となって、数ヶ月ほどしか経っていない。それほど長く、彼と共に仕事をしているわけではないのだが……。

――出動するたびに尻拭いをしていては、慣れもする。

 細かなミスの補助や、手の届く範囲でのフォローは、エドガーが務める事になっていた。何も最初から役割分担をしていたのではなく、自然とそうなったのだ。
 エドガーの気性が、そうした行動に向いているという面もあるだろう。だがそれ以上に、グレンの直情な仕事ぶりが、彼を奔走させているである。
「まあ、いいか。……確認の為に聞いておくが、現場はわかっているね?」
「俺らの警察署から、だいたい東に20km。そこのオフィスビルで、篭城事件が発生している。犯人は超能力者。人質を取り、逮捕された仲間の釈放を要求している。――と、これで合ってるよな?」
 先にあった状況説明の会議では、眠そうな顔をしていたが……きちんと、聞くべきところは聞いていたらしい。
「正解。ただ一つ付け加えるなら、DP警官として出向くのは、俺と君の二人だけっていうことかな」
 DP警官は、努力すれば誰もがなれる職種ではない。能力的な資質に優れていなければ、勤まらない役職である。
 それだけに、人数がどうしても少なくなる。今回も、他の刑事が出払っていた為、二人だけで対応しなければならなかったのだ。グレンもエドガーも、DPの中では新参。それなのに、である。
 人材層の薄さを痛感するが、嘆いても応援はこない。彼らはともかく、最善を尽くさねばならぬ立場にいた。
「今回は、人質がいる。より一層、慎重な行動が求められるってことだ。その辺りは、流石に承知してる」
「だろうね。……DPに入って、初めての大事件だ。ここが腕の見せ所ってものだろう」
 今回の犯人は、普通の人間ではない。能力者が一般人を人質に取っている、という状況が、より事態をややこしくしているのだ。
 まず、相手がどんな能力の持ち主か。前科者ならばすぐにわかるのだが、初犯であればそうもいかない。未知の力に対するのは、ひどく危険が大きく、ただの警官では制圧さえままならぬ。超能力に対応できる力を持った、DP警官でなければ、余計な被害を撒き散らすことは必定であった。

 署を出て、車に乗り込む。そして目的へと、彼らは急いだ。
 犯人が指定した時間までは、まだ余裕があるが、移動の手間はなるべく無駄にしたくない。車の中でも、彼らは手順を確認しあい、現場に備えた。
「交渉については、任せたぜ? エドガー」
 エドガーは、犯人との交渉で、完全な失敗を犯したことは、ほとんどない。DP警官になる以前から担当していた部分であり、エドガーの得意分野ともいえた。少なくとも、グレンが信頼する程度の実績は、あげているのである。
「突入のタイミングは任せたよ、グレン。人質をしっかりと、守ってやってほしい」
 そしてグレンもまた、犯人の息を読むことに長け、一瞬の隙に侵入したり、捕縛することに定評があった。彼個人の能力も優秀で、この状況ではもっとも頼りになる人間であると、言い切ってよいだろう。
 彼はテレポーテーションの使い手で、他人にテレポーテーションをかけて脱出させる事も可能である。神出鬼没な移動の上に、人質を保護できる場所まで、安全に運ぶことが出来るのだ。まさにこの仕事において、中核をなす役割であるといえるだろう。
 最終確認を終えたところで、現場に着く。そこには、すでに多くの警官が待機していた。
「仕事が速いね」
 要請をしたのはあちらの方であるから、援軍が着くまでに用意を整えておくのが、誠意というものであろう。エドガーはこの状況を好ましく思った。何より、これから早速行動に移れるのが、一番いい。
 現地の警官に挨拶すると、彼らは快くこちらの意見に賛同し、協力を約束してくれた。DP警官はその異質さから、忌み嫌われることさえあるというのに。この展開は、二人にとって嬉しい誤算であった。
「いいんじゃねぇの? 手間がかからなくて。理解のある上司を持てて、ここの連中は幸運だねぇ?」
「理解のある上司と言う点では、俺たちも負けてはいないだろう。……さて、では行こうか。心の準備は、OKかい?」
「もちろん」
 エドガーも、グレンも。ここに至ってやるべきことは、犯人への対応のみ。
 速やかに配置について、二人は行動する。エドガーは表に、グレンは裏に。犯人達が篭城するビルに向かって、彼らは動いていた。


 犯人の交渉。エドガーはこれを行うとき、常に相手の立場に立って、物を考えることにしている。

――どこを突かれれば、嫌がるのか。何に興味を示して欲しいか。警察に対する恐怖と、自己保身のバランス。それらを正しく見極めれば、相手の感情を利用しやすくなる。

 観察眼とでも、いうべきもの。それを確かに、エドガーは備えていた。
 今回の相手は複数、しかも手口から見るに、犯罪に慣れた凶悪犯である。これを相手取るのは、容易ではない。
「交渉に応じる! そちらも話し合いに来てもらいたい!」
 犯人達に向かって呼びかけると、エドガーはビルへと侵入する。相手も交渉自体には応じる姿勢で、彼をビルに入るまでに、銃撃しようとはしなかった。

――少なくとも、問答無用で殺しにかかってくる危険は、これでなくなったわけだ。

 考えられるのは、交渉が不首尾に終わった際に、激昂して殺害に及んでくるか。エドガーの任務は時間稼ぎであるから、最悪でも自分が撃たれる前に、必要な時間は経過させねばならない。
 死と隣り合わせの現状。この精神的な重圧に耐えながら、彼は犯人達と対面した。事前に身体検査を受け、丸腰であることを確認されて。
 部屋に入ると、そこは悪党の巣窟だった。もとは大きな事務室であったのだろうが、今は荒らされて見る影もない。
 人質の姿はなく、別の場所にまとめて監禁してあるのだろう。ここまでは、エドガーの想定内である。
「身体検査とは、用心深いね。俺一人で、なにができるわけでもないだろうに」
「超能力、というものがあるからな。これでもまだ、不安なくらいだ。……さ、こちらに来い。交渉を始めようじゃないか」
 おそらく首謀者であろう人間。一人だけ椅子に座って、こちらをにらみつけている男がいた。
 エドガーは、静かに前に出ると、用意されていた椅子に座って、相手と対峙する。
「交渉の前に、自己紹介を。……エドガー・ウォレスと申します」
「前置きはいい。交渉に応じてくれるんだろう? ――逃走用の車両と、金だ。いうまでもないが、細工は許さん。わかった時点で、人質を一人殺す」
 男は淡々と述べてから、主張すべき事は全て言ったばかりに、沈黙する。
 エドガーの返答を、待っているようだった。ここはあまり、空白を開けない方が良い。すぐに答えを返す。
「今、運ばせます。しばし、お待ちを――」
「今? 交渉内容は、もっと前から言い続けてきたんだぞ。交渉などといいながら、この態度。とても払う物を払う気になったとは思えんな」
 雲行きが怪しい。何より、話を急ぎすぎている。
 目の前の男は、思ったより冷静ではないらしい。実務や実行は得意でも、人との折衝は苦手な部類か。だとしたら、やりようはいくらでもある。
「なにしろ、対応が決まったのは、ついさっきですから。あなた方とは違い、警察は何事も自由に動けないです。どうぞ、ご理解を」
「……ふん。で、いつごろだ? 一時間も待ってはやれんぞ」
 それだけあれば、警察が周辺地域を完全に包囲しても、あまりある。連中は、流石にそこまで悠長ではないらしい。
「ご安心ください。ものの十分で、到着します。つきましては、人質の解放について。条件を煮詰めたいと思いますが……」
「まだだ。確認してからだ。……それにお前、気付いているのか? 今ではもう、お前も立派な人質なんだぞ?」
 己が優位な状況にあるとは、エドガーも思っていない。最悪の事態への覚悟は、いつでも出来ているつもりである。
 その点、彼は犯人たちより賢かった。警察が交渉に赴くという時点で、罠が張られている。そのことに気付けない彼らの愚鈍さが、なんとも哀れだった。
「理解しています。……了解しました。おとなしく、待ちますよ」
「十分過ぎても、何もなかったら。その時は、貴様を殺して見せしめにする」
「……なん、と」
 エドガーは、これが犯人のハッタリだと見抜いていた。見せしめ、という言葉に正しく反応しなかったら、この交渉自体がブラフだと思われる可能性が出てくる。
 彼は、ここで演技の必要を迫られた。
「――乱暴な。こちらが人質であるとするなら、あなた方はそれを正しく扱う必要が出てくる。使い方を誤れば、君達は皆殺しにされかねない。……警察は、あれで案外、身内意識が強いんだ。戦友の死に、犯人の死を持って慰めようとする手合いは、いくらでもいる。……殺されたくなければ、丁重に接することだな。どこの獄に、つながれることになるか。それにも影響してくることだぞ」
 青ざめた表情でまくし立てて、小物らしさをアピールする。賢しげに説得するよりは、こちらの方がわかりやすく、悪党に安心を与えやすい。
 あくまで、傾向として……であって、確実ではないのだが、この場では功を奏する。連中は殺気を納めると、うって変わって朗らかに、エドガーに応えた。
「悪かった。悪かったよ。少し、脅しすぎたようだ」
 男が、傍の仲間に視線を向ける。
 それに反応して、仲間の男は窓際に張り付いた。彼に、車両の確認をさせるつもりらしい。
「もう一分ばかり、過ぎてしまったな」
「……あなたという人は」
「冗談だよ! そうさなぁ、あともう十分くらいは、待っててやるよ。……ああ、タバコはいるかい?」
「結構。こんなところでは、煙草をやる気にもなれなくてね」
 男の申し出を断ると、エドガーは極めて冷静に、周囲を観察した。
 適度に緊張し、適度にだらけている。篭城も長く続くと、気が緩んでくる物だ。それを確認して、今度は腕時計を見た。

――まだ少し、間があるか。

 予定通りなら、グレンはまだ行動中のはず。ここからでは、どうなっているのかわからないが、へまはしていないのだろう。
 犯人達に、動揺の色はない。気付かれていないことは、明白だった。ならば、ここで心配しても、仕方のないことだ。

――グレンは、いつだって俺の信頼に応えてくれた。今は、信じるしかないね。

 そうして、エドガーは待った。グレンが人質を救出し、一切の遠慮がいらなくなる、その瞬間を。


 グレンは、まったく時間通りに、自分の仕事をこなした。エドガーの、懐に入れた携帯が振るえている。
 一回、二回……それで、切れた。
 三回にまで及ばなかったということは、完全に人質を救出できていないが、大方は確保した、という合図。
 規定の時間に至っても、この程度の成果で切り上げねばならなかった。その事実から読み取れるのは、連中は少数の人質を、念入りに隠している、という現実。
 グレンが失敗を犯したというよりは、犯人たちが想像以上に周到であった、と認めねばなるまい。
「……少し、よろしいですかね?」
「なんだ? まだ時間まで、三分はあるが」
 男は、エドガーの携帯が振るえていたことには気付いていたが、それが意味することまでは把握していない。
 特に注意を強めた様子もないので、さほど大きな不信感を抱いているわけでも、ないのだろう。彼の楽天主義が、ここでは突破口になる。
「人質の釈放について、ですが」
「確認してからだと、言ったはずだが?」
「承知しています。しかし、その前に確認したいので。……本当に全員、無事に確保しているのでしょうね? 一人でも死者がいたのなら、こちらとしても見逃しにくくなります」
 そこまで言われると、男も不安に思ったのだろう。人をやって、確かめることにした。
 このためだけに、戦力を削ぐことは好ましくないと考えたのか、一人だけが部屋を出て、人質の下へと向かう。

――グレン。君なら、この機会を活用してくれるものと、信じるよ。

 彼のテレポーテーション能力を用いれば、単独で動いた犯人を追跡し、人質をうまく解放するだろう。その点に、いささかの不安もない。
 そして、犯人の一人が出て行ってから、さらに二分。ここまで来ると、流石に焦れてくるのか。連中が、徐々に殺気立っていくのを、エドガーは敏感に感じ取っていた。
「そろそろ、だね」
 犯人達にとっては、交渉が成立する瞬間。だが、エドガーにとっては、捕縛へのカウントダウン。
 宣言した時刻より、およそ十秒前。彼は、ようやくここで動いた。


 アンチ・サイ。それが、エドガーの能力である。
 その特性は、相手の能力を使用不能にさせる。ただそれだけであるのだが、対能力者の戦闘において、これほど決定的な力はない。
「――ッ! なん、だ。これは……」
 男が違和感に気付いた時には、もう遅かった。エドガーのアンチ・サイは、部屋にいる犯人達にくまなく伝わり、彼らの能力を封じる。
 超能力は、その多くが準備期間を必要としない。彼のアンチ・サイも例に漏れず、即座に発動させることが可能だった。
「交渉は、決裂したようだ。――残念だよ」
「なにを、いって……」
 エドガーは静かに椅子から立ち上がると、目の前の男を見据えて、不敵にも言った。
「DP警官が出向いた時点で、結果はわかりきっていたんだ。警察は、犯人と交渉する意思などない……と、いうことさ。わかったかな?」
 犯人の一味は、このエドガーの発言で、自分たちが騙されていた事を知る。
 元々期待してはいなかったはずだが、一度は希望を見せたことが、さらに憎悪を煽ったのか。ほぼ全員が激昂して、エドガーに銃をむける。

――さあ、後は生き残るだけだ。警官隊の突入まで、まだ少し時間があるが……。

 人質の救出について、外を取り巻いている警察官に、連絡が行っている頃合だろう。グレンが首尾よく人質を助け出していれば、間もなく応援がこちらに来てくれる。
 それまで生き延びれば、それはすなわち、エドガー達の勝利であった。向けられた銃の引き金が、ついに引き絞られる。鳴る、銃声。
「何ぃ?」
 しかし銃弾は、エドガーを傷つけること叶わず――。
「一人で乗り込んでくる以上、一人で切り抜けられるくらいの力は、持っていないとね」
 エドガーは、己のいた場所から、一足飛びに移動。首謀者らしき男の背に回り、これを捕縛。自らの盾とした。
「き、貴様ッ!」
「おっと、静かにしていただこうか。命が惜しいなら、せめてこのまま、突入までおとなしくする事を進めるよ」
 エドガーは男の首を、後ろから締め上げると、周囲を囲む犯人達を脅した。
 この人物に、人望がなければ、まとめて撃ち抜かれる危険もあったのだが……どうした心情の変化か。あるいは、意外と慕われていたのか。その様子は、まったくなかった。
「クソッタレ。おい! お前ら、絶対に撃つなよ。俺に当たる!」
「ありがたいボスを持ったね、君たち。これで撃てない理由が出来たわけだ。……情状酌量の余地を残したいなら、彼の言うとおりにするんだね」
 この状況でも、超能力さえ使えれば、どうとでもなっただろう。しかし、エドガーのアンチ・サイによって、超能力の発動は禁じられている。
 頼れるのは、己の肉体と、銃器のみ。それでも数を頼んで、エドガーを袋叩きにするくらいのことは、出来たかもしれない。そんな不穏な気配を感じ取ったところで、彼はさらに言葉をつむぐ。
「俺を憎んでくれても構わないが、こちらに時間を割くくらいなら、今からでもビルから逃げ出すことだね。さっきも言ったが、ほどなく警察が介入してくる。ここで時間を潰していては、突入した警官に捕らえられるのが関の山だよ?」
 そのエドガーの忠告が、連中の心理を刺激した。皆は競って部屋から飛び出して、思い思いの方向へと散らばっていく。
 残った者は、エドガーと男を除けば、たったの二人に過ぎなかった。
「おや、まだ残っている人がいるね。……義理堅いのか、馬鹿なのか」
 ともあれ、これで任務はほぼ終了したといってよい。主犯はこうして、自ら取り押さえているし、残った連中も戦意はないらしく、銃を下げている。

――しかし、妙だね。あの組み合わせ。

 残った二人に目を向けると、どうにも場にそぐわないというか、ある種の違和感を感じてしまう。
 一人は目付きが悪いわりに覇気がない男で、無気力に体を壁に傾け、外を眺めている。良く見てみれば、顔立ちは案外幼い。まだ少年といって、良い年齢なのであろう。犯罪組織の人間としては、異例の若さに思えた。
 もう一人の男性は、部屋の隅でしゃがんで、頭を抱えている。体も震えていた。とても、こんな蛮行を行えるような人間には見えない。服装こそ、他の犯人グループと同じであったが、スーツを着て机に座れば、普通のサラリーマンとしか認識できぬであろう。あまりにも普通すぎる人物像に、エドガーは首を傾げたくなった。
「……クソッタレ」
 力なく、主犯の男が呟く。
 今更のように、罵倒でもするのだろうか。エドガーは、特に制止もせず、好きにほざかせるつもりだった。何を言おうが、これから逮捕される人間である。それくらいの権利は、認めてやろう、と。そう思っていた。
「あの時に事故ってなければ、こんな所でくすぶる事もなかった。――クソ! どこまでツイてねぇんだ、俺は!」
 男が、この言葉を、口にするまでは。
「あの、時? ……すまないが、詳しく聞かせてくれないか」
「貴様にそんな義理など――ッ!」
「立場をわきまえてもらいたい。首の骨を折ることだって、出来るんだが」
「うぶ、ああッ。わかった! わかったから、せめて絞めるのはやめてくれ! 落ち着いて話せねぇだろ!」
 言われたとおりに、拘束を緩める。それで首に回した腕は引っ込めるが、完全に自由にはせず、最低限の警戒は怠らない。
「……よし、これで、いいね?」
 ここまでしてようやく、しぶしぶと、男は語り出した。やけにだらしのない口調ではあったが、一言たりとも聞き漏らさず、エドガーは話に聞き入った。
「あれは、俺が適当な店に押し入って、強盗をやらかした、帰り道のことだった」
 十数年前のことである。仕事の後、とろくさい警察から逃走中だった彼は、街外れの道路で、走行中の車と接触。
 酒に酔っていた覚えはないが、相当乱暴な運転をしていたことは、かすかに記憶にあったらしい。相手の車との接触事故の結果、彼の車も故障。ここからは徒歩で逃げて、所属していた犯罪組織に匿って貰ったとの事。
「あれがケチの付け初めだったのかねぇ。へへ、ざまあねェや」
 エドガーは、自分の顔から、表情が消えていく事を、感じていた。それと同じくらいに、心から何かが抜け落ちていく感触を、覚える。
 だが彼は、そんなことよりも、さらに追及したいことが、あった。
「場所は?」
「はぁ?」
「事故を起こした場所は、どこかと聞いている」
「……確か、あそこら辺だったかな」
 記憶を探りながら、男はその場所を答えた。

――間違いない。ミリアムが事故死した同じ時と場所。この男がミリアムを――!

 過去に、婚約者を亡くした事件。密かに追っていた事件の真相をこのとき、彼は知る。
「なんと言う、ことだ……」
 ここで、エドガーは半ば呆然としてしまった。耳から入ってくる情報を、中で消化し切れない。
 思わぬところから、知りたかった事実が掘り起こされたこと。それ自体を僥倖だと思いつつ、憎むべき対象を見出したという、ある種の暗い感情が、エドガーの体を支配しかけていた。
「? ……へッ! なにをボケってしていやがるんだかナァ!」
 そのために、一時的に犯人への拘束が、緩んだ。その隙を見逃さず、男はエドガーから逃れる。
 しまった、と思ったときには、もう遅かった。
「安心しろよ。今更逃げようなんて、考えちゃいねぇ。……けどよ、やられっぱなしってのも、気に入らないんでねェ――!」
 男は銃口を、部屋の隅で固まっていた男に向ける。
 あれは、犯人の一味であったはず。仲間に銃を向けることの意味を、エドガーは理解しかねたが……その説明は、他ならぬ男本人が、してくれた。
「あいつはな、人質なのよ。……万一の時の為の、な。内に取り込んでおけば、いざと言う時に使えるだろ? こんな風にナァ?」
 ひぃ! と情けない悲鳴が、隅でうずくまっている男から聞こえた。
 本当に、間違いないらしい。――こうなれば、いかなるリスクも、エドガーは冒せない。即座に取り押さえようと思ったが、先手を打たれては、どうしようもなかった。
「あれを利用して、逃げると思うかい? ……違うねェ、意趣返しだよ。言ったろ? やられっぱなしは、気に入らないって――」
 男の銃は、以前人質に向けられたまま。そして、ゆっくりと、引き金を引きしぼり……。
「やめろッ!」
 反射的に、エドガーは飛び出した。警察官としての使命が、人としての道徳心が。無辜の市民を見殺しにすることを、許さなかったのだ。
「う、ぐ」
 上手く、庇えたらしい。熱い痛みが、右肩を焼いている。銃弾に打ち抜かれたところから、血液が流れ出すのを、エドガーは実感として理解していた。
 とっさに人質の方に目を向けるが、怪我はない。使命は、果たせたのだ。そう思うと、気が抜けて……。
「あ……まず、い」
 意識が、落ちていく。
 いけない、と思った。こんなところで、気を失っては……。

――やあ、エドガー。交代の、時間だね。

 シャドウが、心の影から這い出してくる。その感覚を確認しながらも、彼は逆らえなかった。
 やがて、エドガーの意識は、落ちるように消えてゆき……ついに、深い闇の中へと閉じ込められる。
「……ふう」
 エドガーだったものは、立ち上がると、まず体に付いたホコリを払った。鈍い痛みは、相変わらず肩から感じていたが、別に致命傷でもない。あとで、止血すればいいだろうと思い、彼は主賓へと目を向ける。
「やあ、はじめまして。エドガーです。短い間ですが、どうぞ、よろしく……」
 犯人の男が眼にしたのは、先ほどまでとは、微妙に印象の違うエドガーであった。
 彼には当然、エドガーの心の闘争など、知りはしない。だが、この事態に異様さを感じなかったわけでも、ないらしく……。
「なんだ、お前は。……薬でも切れやがったのか?」
「まずは、お礼を言わないとね。ありがとう。君のおかげだ」
 男の発言は無視して、もう一人のエドガーは、にこやかに言った。
「本当に、ありがとう。君があの女を殺してくれたお陰で、随分と動きやすくなったよ。お礼をしなければならないね」
「何を言って――」
 言い切る前に、男は口を聞けなくなった。それも、物理的に。
「……ッ! ……ッ!」
「ごめんよ。もっと簡単に、楽にしてあげるべきなんだろうけど。久々だから、力の加減を試したいんだ」
 男の下顎が、骨ごと吹き飛ばされていた。
 歯も、舌も、顔から剥がされた。その痛み、恐怖は、とても言葉では表せるものではなく、またその必要もなかった。
「ふぅん……。サイコキネシスの方は、勘は鈍っていないね。刀はどうかな?」
 瞬く間に、エドガーは自宅から刀を呼び寄せる。まさしくこれこそ、超能力のわかりやすい現われ方であったろう。彼の自宅は、ここからかなり離れた場所にある。
「公務に用いる刀も、悪くはないのだけれど。やっぱり、手になじむ物が、一番だと思うんだ」
 これを一瞬のうちに短縮するのは、生半な能力者には不可能。エドガーの影は、その闇の深さを証明するかのように、能力までも底が知れない。
 彼の手にある刀は、エドガーが家で鍛錬に用いるもので、刃渡りはおよそ80cm。主人格の方は、これを実戦に用いる事を好むまいが、この影は違う。
「そら」
 試しに、一薙ぎ。男の両手は、これで胴体から別れを告げた。
「もう一度」
 逃げようとした男を、後ろから斬りつける。背骨を裂いて、肉体を両断するように、滑らかに刃が入り……。
「うん、いい感じだね。重ね重ね、礼を言わせてもらうよ。いい練習台だった」
 男が倒れると、そのまま斜めに体が別れ、二つに分割。ここに、惨殺死体が完成した。
「さて……」
 男が死体になったところで、興味を失った彼は、別の標的を探した。
 人質は、気絶して、動かない。エドガーは、出来るなら、意識のある人間を殺してみたかった。だからこれは無視して、この場にいたはずの、もう一人の男を捜す。
「いない、か。まあいい」
 いつの間にやら、部屋から逃げ出していたらしい。雰囲気といい、行動といい、何やら不審な物を感じるが……。

――犯罪組織のことは、わからないからね。きっと、監視でもしていたんだろう。

 思考を早めに切り上げて、部屋を出る。……この場には、エドガーの相棒がいるのだ。それを相手に、立ち回りを演じるのも一興だろう。
 そういえば、警察隊の突入はまだなのだろうか? 妙に遅いような気がするが……構わないか、とも思う。邪魔になるなら、まとめて潰してしまえばいいだけだ。
 いや、返ってその方が、スリリングでいいかもしれない。ものは、考えようだった。
「ああ、楽しみだね」
 ――と、一人で恍惚としているところに、人の気配が寄る。誰かと思って、目を向けると……。
「……何を言ってるんだ? エドガー」
「ああ、グレンか」
 彼の後ろには、死屍累々といった光景が広がっていた。
 犯人の一味を、逃げる端から狩っていったのだろう。まあ彼のことだから、殺してはいないと思うが。
「ちょっとね。それはそうと――」
「いや待て。……お前は、誰だ?」
 近づく彼を押し留めるかのように、グレンは叫んだ。

――気付いたのかな? エドガーは何も言っていないはずだけど。

 怪訝に思った様が伝わったのか、グレンはここで、警戒を強める。そして、確認するように、彼はもう一度言った。
「あんたは……誰だ。エドガーはどうした!?」
「どうして、わかるのか。興味深いね。――けれど」
 もとより、外面以外は似ても似つかぬ、影と主人格である。
 エドガーは言葉ではなく、刀で持って、グレンに答えた。
「……避けるか。やるね」
「どうなってるんだ? おい。エドガー、お前は今どこにいるんだよ」
 本人はそれに答えられない。だから、影の方が、代わりに答えるのだ。
「ここ、だよ。そのうち帰ってくると思うけど、まずは俺が充分に楽しんでから、だね」
 自身の胸を指し示して、彼はエドガーの所在を伝える。それだけでグレンも理解したのか、顔を嫌にしかめた。
「……二重人格ってやつか。あいつ、そんなこと、何も言わないで」
 ゆっくりと感慨に浸る暇さえ、グレンには与えられなかった。
 エドガーの影は、完全に体を掌握している。刀の次はサイコキネシスを用いて、グレンに襲い掛かった。
「ええい! まったく、面倒すぎるぜ!」
 グレンとエドガーが、奇妙にも争うことになった、その時期。丁度警官隊が、ビルへと侵入を開始しようとしていた。
 もし、グレンがこの戦いを長引かせれば、それだけで、エドガーの社会的信用は失墜する。相棒のためを思うなら、この戦いは、時間との勝負でもあった。


 エドガーの影は、率直にグレンを狙ったりは、しなかった。この理由の正確なところは、後になってもグレンには理解できない。
 ともかく、彼はグレンに対しては形ばかりの攻撃を仕掛けて足止めし、気絶していた犯人グループを、一人一人始末していった。
「可愛い声で苦しむのだね。もっと声を聞かせてくれるかい?」
 エドガーの影は、ここで手間を惜しむことは、しなかった。グレンがテレポーテーションの使い手であることは、知っている。
 あれは制御が難しく、短時間では大まかにしか移動できない。サイコキネシスの回避には、これを用いるしか有効な手立てがないのだが、そうするとエドガーから大きく離れてしまうのだ。
「ああ、勿体無い。血の色はこんなに鮮やかなのにすぐに黒ずんでしまう」
 グレンが一旦退いた、その合間に。エドガーの影は、遠慮なく享楽に身を浸していた。
 気絶している犯人達を、一人一人斬りつけて、意識を覚醒させる。そうした上で、悲鳴と、おびえる感情を肴に、殺戮を楽しんでいた。
 グレンはこれを阻止しようとあがくが、エドガーの影はグレンが近づけばこれを優先して打ち払い、まったく隙を見せない。せめて張り付いて、こちらに集中させようとしたが、超能力の熟練度では、あちらに分があるのか。たびたび、死ぬような思いをして、退かねばならぬ状況を体験させられる。
「これで最後、か。あっけないものだね」
 そしてついに、エドガーの手は、全ての犯人の殺害に至る。
 途中で気が付いて、逃げ出そうとする者も多くいたが、背後から斬り捨てられるか、サイコキネシスで潰されるか。ともかく、無事に生き延びた者は、一人もいなかった。
 グレンの制止の声も空しく、エドガーの影は、充分に殺戮を楽しんだのである。
「さあ、後は君だけだよ」
 そうして、彼はグレンに攻撃を集中。短時間の攻防の後、見事に体を捕らえることに成功した。
「エドガーの体で、人を殺すな!」
「命乞いをするにしても、もっとマシな言い方があるだろうに」
 何の気まぐれか、エドガーの影は、ここで即座にグレンを手にかけることはしなかった。
 それよりも問答を楽しむように、彼は続けて発言する。
「エドガー・ウォレスの体で人を殺すなと? 随分と面白い事を言うのだね、君は。奴だけが『エドガー・ウォレス』ではないのだよ。そんなに止めたければ止めてごらん、その銃で」
 グレンは、銃を抜いてはいなかった。同僚に向けられるものではないから、あえて使っていなかったのだが、影にはそれが不満であるらしい。
「出来るわけ、ないだろうが。お前がエドガーだって言うんなら、俺はお前を殺せない」
「しかし、俺は君を殺せる。……残念だったね」
 グレンの答えは、影の気に触ったようで、ついに止めを刺そうとする。サイコキネシスの波動が、グレンの体を引き裂こうと――。
「む……グッ! いい所で……! 邪魔を、するな!」
 突然、恐ろしい形相で、エドガーは呻いた。何が起こったのかと、グレンは凝視する。
「お、お。オオオッ――!」
 エドガーが、吼える。そして体を引き裂こうとしていた、超能力の気配が、薄れて消えた。
「ハアッ、ハァッ、ハァッ――」 
 荒い息。そして、改めて、エドガーはグレンに目をやる。ここで彼は、相棒が正気を取り戻した事を、知るのである。
「……いつもの、エドガー・ウォレスだよな?」
「……ああ、君が知る、相棒のエドガー・ウォレスだ」
「馬鹿野郎。弱みはあらかじめ教えとくもんだ。死ぬかと思っただろうが」
「すま、ない」
 だが、この現状。とても、あやまって済む出来事ではなかった。
「あ、ああ……」
 己の影が成した惨状を、エドガーは目の当たりにする。犯人達は、一人残らず、惨殺されていた。生々しい殺しの感触も、まだ手に残っているようで……。
「うッ……」
「おい、大丈夫か?」
「げ」
 絶句したエドガーは、嫌悪感により、体調にも悪影響が現われる。
 襲い来る吐き気。そして、嘔吐。血と臓物の臭いに塗れて、胃液の臭気が、辺りに漂う。グレンは必死に介抱したが、エドガーを慰めることは出来ても、根本的な解決には、ならない。
 やがて突入してきた警察隊が現われて、彼らもこの惨状に言葉をなくしたのだが……もう、彼らにとって、警察隊の存在は、なんの力にもならなかった。
「俺の中には殺人鬼が潜んでいて、常に表に出る隙を伺っている。彼らは俺が殺したも同然だ、あいつを……止められなかったから」
 事件後に警察から事情を聞かれた後、どんな罰でも受ける、とエドガーは言う。これにはグレンも加わって、自分も同罪だから、同じく罰を受けると言い出した。そしてエドガーの弁護まで、行ってくれたのである。

――ありがたい。そうは思うけれど、出来れば巻き込みたくは、ないんだ。

 そうしてエドガーは、自宅謹慎と減給の処罰を受ける。その後はオフィス内での仕事がメインとなり、現場に赴く事はあまりなくなった。どうしても能力が必要とされる場合は、特例として引き連れて行ったのだが、以前ほどの頻度ではなくなる。
 グレンもお咎めなしとなり、事件後も最前線で活躍しているらしい。エドガーの能力は優れているが、影という不確定要素がある以上、あまり頻繁には用いることができない。
 それに比べて、グレンのテレポーテーション能力は、汎用性の点から言っても、文句なく強力だった。腐らせるには惜しすぎる力だと思うので、この処置には感謝したい。本当に、持つべきものは、理解ある上司である。


 そして、何事も無く、エドガーは日々を過ごした。だが、ある日……またしても、彼は己の影と、対峙する夢を見た。
「やあ」
「今度は、なんだ。お前と話すことなどない、そう言ったはずだろう」
「前に、言ったろう? 今度は有益な話がしたいって」
 エドガーはまたも、同じ荒野にいた。夢の中とはっきりとわかるほどに、鮮明でもあった。
 荒廃した風景。そして大きな穴が、やはり目の前にある。底なしの、深い穴。二人の間にあるそれは、対話の邪魔にこそならないが、エドガーをひるませる。
 何が、そこまで恐ろしいのか。まるでわからないが、元より夢は理不尽な物。ましてや相手が、己の影であれば、なおさらだった。
「ああ、そうそう。前みたいに逃げようと思っても無駄だよ。俺が出す気にならなければ、抜けられないようにしてあるから
「何?」
「そのために、しばらく大人しくしていたようなものだからね。ちゃんと、付き合ってくれないかい。そうでないと、次の出動にでも割り込んできてしまうよ?」
 これにはエドガーも、屈するほか無かった。相手が嘘をついているようには見えなかったし、万が一でもそんなことがあれば、今度こそエドガーは破滅しかねない。
 影にとっては、己の破滅さえ享楽の種になるのだろうが、少なくともエドガー本人に、被虐趣味はない。
「簡単だよ。質問に、答えてくれればいい」
「本当に、それだけか」
「くどいね。あらかた聞き終えたら、今回は満足してあげるよ。ちゃんと無事に目が覚めるようにしてあげるし、現場にもしばらくは顔を出さないから」
 二度と出てきて欲しくないくらいだったが、ここで口答えするのも賢くない。
 エドガーはとりあえず同意すると、影の質問に答えていった。
「君は、人を傷つけたことはあるかい? ああ、これはあくまでも君自身に限ることだ。俺が手を下したものは除くよ?」
「……そうだな。お前に比べれば、かわいいものだろうが、少しはあると思う。気付かぬうちに人を傷付けたりは、したのかもしれない」
 エドガーは、そう答えた。目の前の男に言われると、どうにも気分が悪くなる問いだった。何様のつもりか、とも思う。
「嘘をついたことはある?」
「ない。まず確実に、そのつもりで偽りを口にしたことはない。結果的に期待を裏切ることは、あったかもしれないが……」
「じゃあ、人を殺したいと思ったことは?」
「それはないな。俺はそんな事を思ったことは、一度もない。人を嫌ったことはあっても、殺意を抱くなど……俺は、お前ではないのだからな」
 しかし、影はエドガー自身の感想を無視して、次々と質問を投げかけた。これにはエドガーも、不審を抱きたくなるほどに。
「婚約者を君は、本当に愛していたのかい?」
「何を馬鹿な事を。……あたりまえだろう。そうでなくては、どうして結婚を前提に付き合えるものか」
「わかった。なら最後の質問。君の婚約者への愛情は、同情や憐憫と、どう違う? ……わからないんだよね、これが俺には」
「愛情は愛情だ。他に例えられる物ではないだろう。――これで、質問は終わりだな? ならさっさと俺を起こしてくれ」
 唐突に、目の前の影は、笑い出した。
 笑って、笑って、笑い転げて。まるで滑稽な道化を見るような視線で、影はエドガーを見た。
「なに、それ。く、くくく……ああ、おかしい! なに、君は、人をまともに傷付けたことはなくて、嘘もつかなくて。それで、戯れにも人を殺したいと思ったことさえ、ないんだ……。しかも、愛情は愛情だから、表現できないって? ――どこの聖人君子だよ、君は」
「お前は、影だからな。何事も捻くれているから、そんな風に写るのだろう。俺には、普通のことだとしか思えないが」
「そうかい? まあ、君は自分の価値観を、他人にまで強要しようとは思っていない。その点だけは、評価してあげてもいいのだけれど……ああ、笑えるね」
 ひとしきり愉快に笑った後、影は満足したようで、エドガーに告げる。
「約束だ。帰してあげるよ。……君の世界に、戻るんだね」
「言われずとも」
 エドガーは、あいかわらず、唾棄すべきものを見るような視線で、影を見つめていた。そして、意識が覚醒していくのを、確かに感じる。

――覚えておくんだね。影は、君自身でもある。君が自覚する以上に、闇は深いものだ。出来れば、あまり否定しないでおくことだよ。目をそらせばそらすほどに、俺は君へと食い込んでいくことに、なるのだから……。

 現実世界へと目覚める、その間際。影からの声が、頭の中に響いた。
 己の影の真意。その意味に、エドガーはまだ気付かない。それについて、深い考察が及ぶまで。しばしの時間が、必要だったのである――。

クリエイターコメント 積んでいた、ユング心理学の本を崩して、執筆しました。前に興味を持って、四冊ばかり購入していたのですが……これを機に、知識で文章を彩る、と言う行為も試したかったからです。
 ……とはいっても、さほど活かせたとも思えません。かじった程度の知識では限られますし、なにより私自身の文才が、それを表現しきれなかったことが、大きいでしょう。
 文中の夢の表現については、自分の経験がかなり混じっています。ご不快に思われるようでしたら、申し訳ありません。

 文章や、設定などに関して、何か問題があるようでしたら、お気軽にご相談ください。
公開日時2008-12-15(月) 00:30
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