★ エルーカたること ★
クリエイター西(wfrd4929)
管理番号172-6062 オファー日2008-12-23(火) 22:05
オファーPC 香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
<ノベル>

 カグヤは、エルーカである。
 エルーカとは、精霊と契約し、知を得る者。そして得た知識を契約した精霊と共有し、この世の真理を解き明かすことを、誓った者である。
「……これで、また一つ」
 カグヤは淡々とした口調で、精霊との契約を終えた。
 彼女はもう、一人の精霊しか知らない、初心なエルーカではない。彼女にとっては、二体目の精霊。レギオンとの契約を境に、彼女は大きくその才能を伸ばし、順調に探求者としての使命を果たし続けている。
(また一歩、真理に近づいたか。……流石、我が契約主。こうも次々と契約をこなすなど、凡庸なエルーカに真似できぬ芸当よ)
 カグヤにエルーカという運命を投げ与えた、最初の精霊。セラフが、そういってカグヤを賞賛する。
 精霊は、総じて我が強く、容易に心を開かない。人間の存在自体を軽蔑する物もあれば、契約行為に危機感を抱く物もいた。だが一番多いのは、試練として力のぶつかり合いを望む場合である。弱者には従いたくない、という自負が、そうさせるのだろう。
 これを捻じ伏せるのがエルーカの役割であり、契約した精霊の総意でもあった。とにかく契約さえ済ませてしまえば、エルーカと彼らは一蓮托生。そのまま知識を追い続けて、この世の理を身に宿す欲求に、抗え切れなくなるのだ。
「別に、難しいことじゃないわ。――だって、セラフ。貴方以上の精霊なんて、どこにもいなかったじゃない」
(それは、単なる事実の羅列に過ぎぬ。我が力を使いこなせているというだけでも、貴様の非凡さは証明されたようなものだ)
 カグヤはもう、セラフの全てを扱える、といってよい。
 体にかかる負担の量は変わらないが、明確なイメージによって、力の調節ができるようになっている。また、使い続けるうちに精霊との距離が縮まったのか、力の行使に躊躇いを感じなくなった。
 過ちによって、精霊自体を嫌悪したのも、一時のこと。カグヤは過去を過ぎ去ったこととして認識し、探求の戦いに身をゆだねている。罪悪感で矛先が鈍るようなことは、もはや万が一にもありえない。これもまた、セラフらの教育の成果である。
(ほぉぉう、言うではないか、セラフ殿よ。我輩などとは物が違う、と? しかもそれが事実の羅列に過ぎぬ……とはいやはや。自信家ぶりも、そこまでくれば一種の芸ではないかぁ?

 レギオンが、ここで口を挟む。彼は醜悪な姿をした憎悪の精霊であり、カグヤにとっては二番目に契約した存在。ある意味ではセラフ以上に特別な相手であるのだが……。
 やはり、出自が悪ければ、性格も歪むのか。彼との付き合いも、カグヤにとっては悪い影響を与えていた。
 無意識に呼びかけているのか、レギオンと契約してからは、ひどく柄の悪い連中に絡まれることが多くなった。そして、これに暴力をもって制圧することも、また増えていった。
 人を害せば、心はすさむ。傷付けることに慣れれば、さらに容易く、他者を殺せる。繰り返していけば、殺意を伴った行動を忌避しなくなり、彼女の精神に聖域はなくなる。これこそが、レギオンの望む、人の心の形であった。

――精神を犯さば、人は壊れるのみ。しかし破壊をつかさどるものと、憎悪を知り尽くすもの。これらが合わされば、絶妙な調整によって、必要な機能を残すことができる。

 あるとき。カグヤは街の住人に追い立てられたことがある。大人から、子供まで。皆が彼女に迫害の意図を持ち、襲ってきたのだ。
 これは、カグヤが悪行を積み重ねた結果で、いわば自業自得というほかないのだが……この事態を二体の精霊は、巧みに利用したのである。
(仕方があるまい。反撃せよ。ほんの少し、力を入れるだけでよい。あとは、こちらで調整する)
「そんなの、できるわけないでしょう? あなたに任せたら、被害がどれだけ増えると――」
 カグヤが拒否の意向を伝えるが、それにもかまわず、レギオンが介入する。
(許さぬぅぅ……とな? 我輩と契約したときを、忘れたかぁ)
 それは決して忘れることのできぬ、最悪の記憶。掘り返すことさえ己に禁じた、いやな出来事。
 弱みを付かれたことで、カグヤの精神に、一瞬の空白が生まれた。これを逃さず、セラフがするりと彼女の心に忍び込む。
(まさに。同じことを、繰り返すだけだ。なにを恐れる。……貴様はもう、自分のために幾人もの塵芥を灰にしているあろうが。今更、ここで躊躇したとて、なにが変わろうか)
「なにがって、それは……?」
(現実として、我らの力を借りずして、どうやって切り抜ける? 精霊を用いぬエルーカなど、常人と変わらぬぞ? ……そのひ弱な女子の肉体で、屈強な男を捻じ伏せられるのか?)
 自分が今、命の危険に晒されている。その事実を突きつけられると、これといって他に手段がないことを、気付かされた。逃げるにしても、街全体が敵に回っている。自己の能力だけでは、十に一つも逃れきれまい。
 そして、最後の一押し。

(醜い遺骸を晒したいのか? やれ。でなくば、死だ)

 最終的にセラフとレギオンは、カグヤに街一つを焼き払わせることに成功する。その手口は実に巧みで、唆す者の狡猾さが見て取れた。
 そうして、彼らは人を陥れさせ、負の感情を集め取り込もうとする。これに限らず、悪意の情動に突き動かされて、人を害した回数は両の手では足りぬほど。
 嫌気がさして、自殺も考えはしたものの……死を見すぎた為、自ら死へ繋がる選択肢を選べない。何より、エルーカの使命を途上で破棄すれば、己に起こるのは魂の消滅。それは簡単な死よりも苦しく、救いようが無いものに思える。
「いや……いや……!」
 それだけは、絶対にいやだった。だから否応なしに契約を行い続けるのだが、この思考こそが、セラフとレギオンに操作された結果であると……当人だけは気付けない。
 毎回彼女は、精霊達に負の感情に偏った契約を要求されるが、エルーカに対する知識がないので『偏っている』という事実すら、自覚できない。巧妙な情報操作によって、必要最低限のことしか、知らされていないからだ。これもまた、彼らの欲求を満たす為に、必要な処置である。

――良い傾向だ。これで、我好みの形で、真理の追究を続けられる。エルーカの絶望も、人々の悪意も。今となっては心地よい音色となって、我が元に届いてくれるわ。

 セラフは破壊による結果と作用、それに付随する人間の悪感情にもっとも強い興味を示し、これを欲する。

――憎しみか、怒りか、哀れみか……。なんでも、かまわぬ。大元が負の感情であれば、行き着く先は変わらぬ。全ての色を、憎悪に染める。この過程の、なんと甘美であることよぉぉ。

 レギオンは憎悪を求め、人から正気を奪いたがり、純粋な憎しみを発露させたがる。
 彼らがカグヤを支配下に置いている現状では、これらの要求に抗えるはずもない。ゆえに、彼女は精霊と接するたびに、暗い感情を纏わせることになるのだ。この行為で真に利益を得られるのは、セラフとレギオンであって、カグヤではない。
 契約者が、誓約によって縛られるはずの相手に、目的を決められている。本来はエルーカに従うべき存在が、逆にエルーカを従えている。彼らとカグヤの関係は、その様な物であったといえる。
 狡猾といえば、これ以上狡猾なことはない。セラフとレギオンは必要とあらば、別の精霊とも手を組めるだけの柔軟性も備えていたのだ。
 しかし、この両者。いつもは決して、仲がよいというわけではなく……。
(セラフ殿は、己が実力に、大層な自信があられるようだがぁぁ……それでも、この世で敵う者はなし、という訳ではない。実力を誇るのは良いが、他者を見下す癖は、早々に改められよ。でなくば、いずれ足元をすくわれようぞ)
(忠告のつもりか? ……たわけたことを。実際、貴様と比べれば、我の方が圧倒的に強い。心配される謂れはないな)
(単純な、物理的な力ではなぁ? だが、自惚れるでないぞぉぉぉう。……どんなに強かろうが、人間が存在する限り、憎悪は消せぬ。闇では闇を食い殺せぬ。我輩と、貴様。質に違いはあれど、方向は同じ。優劣を語る方が可笑しいわ)
 このように、セラフとレギオンは、折り合いが悪い。たいてい、セラフが自分の強さ、存在としての高尚さを口にするたび、レギオンが余計な一言を付け加え――争いに発展する。この、繰り返しだった。
(ふん。なんとほざこうが、エルーカへの主導権は、こちらが握っている。憎悪の精霊如きが大口を叩くなど、そちらの方がよほど滑稽ではないか)
(さてさてぇぇ……。その、主導権、とやらも。いつまで貴様の手の内にあるか、怪しい物だがなぁぁ? 自信過剰で、隙だらけの貴様のこと。いつ、横から掻っ攫われることか……のう?)
(嫉妬は、人間特有の、下劣な感情であるぞ? ……よくもまあ、そこまで真似られたものだ)
(ならば事実を指摘されて怒り狂うのは、人間と精霊、共通の感情――というべきかぁ? ふふ、セラフよぉ……貴様、心なしか口調が荒くなってはおらんか?)
(見た目の醜さに反して……よく喋る。力づくで、黙らせてやっても良いのだぞ)
 時には会話での争いで収まらず、実力行使でやりあうことも、多々あった。そして、そんなときに一番割を食うのは、使役しているエルーカ本人である。
「もう、やめて。……お願い、だから」
 破壊の意思と、憎悪の感情が、カグヤの中で混ざり合い、影響しあって、精神をかき乱す。その結果、彼女の心に計り知れぬ負担を与えてしまうのだ。
(ほれ、エルーカ殿が苦しんでおわす。セラフよ、少しは自重してはどうかなぁ?)
(……忌々しい。このような形で、引き下がらねばならぬとは、何たる屈辱!)
「あた、まが。痛い……」
 比喩ではなく、本当に痛むようだった。胸も、なんだか動悸が激しい。
 カグヤは、エルーカの資質に溢れた少女であったが、精神はさほど強靭にできているわけでもない。セラフに、レギオン。この強大な精霊同士の衝突が、心理的に及ぼす影響は極めて大きく、彼女はそれに翻弄されるばかりであった。
 憎悪が勝れば、誰も彼もが憎く見え、破壊が勝れば、どれもこれも壊したくなって仕方がない。また、彼らが呼び、嗅ぎ付ける精霊との契約は、負の感情にまつわる物であり――結果として、カグヤの心は蝕まれるばかり。
 周辺では風評でも流れているのか。カグヤは悪党とか、盗賊などのような扱いではなく、まるで『魔物』そのもののように、恐れられるようになった。エルーカの力量を鑑みれば、この扱いはむしろ至当ともいえようが、本人にとってはたまった物ではない。人間ではなく、化物、異種族を見るような目を向けられるのは、年頃の少女にはひどく堪えるのだ。
 連鎖反応的に、それで再度憎悪や破壊の願望が噴出しやすくなって、さらに被害が拡大する。カグヤを取り巻く環境は悪化して、また精神が不安定になり――という悪循環。今ではそれにさえ、少しずつ慣れていっているのだから、もうカグヤに改善しようと思う気力はない。
「世界って、案外……汚物と下手物と奇形が占める割合が、多いのね。今更、どうでもいいけれど」
 厭世的かつ、退廃的な思考が彼女に染み付いたのは、間違いなく彼らが元凶であった。もう、カグヤはエルーカであることに、優越感など抱いてはいないし、自信も持ち合わせていない。それどころか、契約の為に生きている……と言う現状に疲れ、精霊の求めるまま、彼らが導くままに知識を収拾していく。この行為だけを繰り返す、一種の機械と化していた。
 ただ、今の彼女を突き動かすものがあるとすれば、それは唯一つ。

――死にたく、ない。

 他に希望はなく、理由も無い。現世から消えてしまうことに対する恐怖感。魂を食われる、という未知の拷問に対する嫌悪感。それらがカグヤを生に繋ぎとめ、探求の使命を強要していたのである。
(なに、主導権を奪うにしても、相応の場というものがある。今は、大人しくしてやろぉぉぅうぞ。……意味のない対立で、エルーカを失っては、元も子も、なかろうからなぁぁぁ?)
(わかっているなら、静かにしていることだ。――なにせこの後には、新たに発見した精霊との契約が、待っているのだからな)
 こうして、彼女は自己の完成度を高めていく。過去のエルーカと比べても、まず中堅といってよいところにまで、カグヤは達していた。セラフとレギオンも、ここまで彼女が『出来上がった』ことに、密かな満足を覚えてもいた。
 だが、ここで彼らと彼女は大きな壁にぶつかることになる。それは、他のエルーカとの対立。光と闇のぶつかり合いと、いうべきものであった――。



 カグヤの悪名は、そこかしこに流れていた。それをたまたま聞いた別のエルーカが、彼女の在り様を良しとせず、討伐に向かう――と。単純に言ってしまえば、それまでの話であった。
 セラフにしろ、レギオンにしろ、悪行を苦とも思わぬ連中である。悪評が流れたとて、それがどうした、とばかりに、欲望を満たそうとする。
 節度があり、そこそこ世間に対し、友好的な関係を維持しているエルーカにとっては、はた迷惑なこと極まりない。精霊が皆、凶暴であるというわけでもなし、温厚な精霊からも、セラフとレギオンは危険視されている。

――黙っては、おれぬ。

 と思い、カグヤらを打ち滅ぼすべく乗り出したのも、当然であったといえる。探求者としては、あまりに過激で、派手すぎる行い。これを咎めても止まらぬと、傍目にもすぐわかる行状。ならば、荒事には荒事で。真っ向から対立し、潰しにかかることだけが、唯一の解決策であった。
「行くぞ、水龍」
(はい、老師)
 立ったのは、すでに老境の域に達したエルーカ。名をヂャン・ユンフェイという。
 名の響きからもわかろうが、生まれは西欧ではなく、大陸になる。貧しい寒村に生まれたが、侠の精神を持ち、若い頃から悪漢を懲らしめ、弱者を助けることに情熱を傾けていた。
 彼が精霊と契約したのは、その過程の中。まったく偶然の出会いからであったが、元よりユンフェイは求道者である。己の意思の上に、使命が一つ乗っかったところで、苦にする男ではない。
 ユンフェイは、それから百年以上にわたって、研鑽を続けた。あまたの精霊と契約し、皆に知識を分け与えた。決して贔屓せず、平等に。その上、協力を強制することもしなかった。精霊との闘争においても、己の力と、最初に契約した水龍のみを従えて、これに抗した。
 彼は、相手に無理を言うことが大嫌いだったし、力尽くで命令に従わせることは、死ぬほど嫌だった。苦労したくない怠惰な精霊たちにとって、これほど良き主はなく、彼の元に集った連中は、皆このエルーカを支持したものである。
 水龍も、このお人よしの主が大好きだった。この世の誰よりも、尊敬してさえいた。精霊が人に敬意を抱くなど、滅多にないことだ。契約時にエルーカと信頼関係を結ぶため、『道具を護る』以上の感情を持つ精霊も多いのだが、ここまで深く結びつくことは少ない。
 水龍が、女性的な性格をしていることも、大きな要素であろうか。彼女は明らかに友愛以上の感情を、ユンフェイに抱いている。
(いやですね、本当に。わたくしは、貴方があんな犯罪者と同一視されることに、耐えられません。さっさと潰してしまいましょう)
「無論だ。乱暴者は、早めに始末する。見境なしに知識を求めたところで、誰のためにもならぬのだからな」
 このように、ユンフェイは世俗にも、精霊にも良き関係を築けていた。
 セラフや、レギオンなどとは、見解の相違から対立しても仕方のないほどの、人格者。カグヤが彼らの傀儡であることを知らぬ以上、彼女自身を危険視したのは、致し方のないことであろう。
 彼らは、精霊の探査力にも優れていた。エルーカを続けていれば、精霊を察知する感性も研ぎ澄まされる。長く共にいればいるほど、同じ存在として受け入れやすくなる。
 だから、それに似た感覚。この残滓をたどりながら進めば、ある程度は特定しやすくなるのだ。特にカグヤは『破壊・憎悪』といった、ひどく目立つ概念に囚われている。
(あれです。見てください、下品な感情を垂れ流して、ここにいるぞと吠えていますよ)
「……あの、童が? ……なんと、不憫な。運命は、あの子供に、安らかな眠りさえ許さぬのか――」
 ユンフェイと水龍が、彼女を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
 そして、カグヤの姿を目にしたとき。彼は、時代の無慈悲さを実感せずには、いられなかったのである。



 不意打ちはユンフェイの好みではないので、堂々と正面から挑み、尋常に立ち会った。
 名乗りは不要。ただ殺し合いの気のみを、相手に向ける。
(なんだぁ? この男はぁ)
(エルーカか。しかし、我らにはこの娘がいる。利用価値はない……が、どうやらこやつ、我らを害すつもりであるようだぞ)
 ユンフェイは、カグヤと向き合ってから、殺気を隠そうともしなかった。むしろ威圧するように、強い気迫を叩きつけているのだが。
「……反応なし、か。どうやら、諸悪の根源は、背後の悪党どもらしい」
 虚ろな表情を浮かべたまま、彼女は殺気の只中にいた。常人であれば卒倒し、戦士ならば覚悟を決める、この状況。
 なのに、カグヤは無防備のまま、生気のない顔を彼に向けている。それでいて、死の気配がまったく見えぬのは、本人に死ぬ気がないからだ。
「哀れな。精霊の圧力に屈し、魔の物と成り果てたか」
「ひどいこと、いうのね。……私は、魔物じゃないわ」
 同じことだった。ようやく口を開いた少女に対し、ユンフェイは同情を禁じえない。
 もう彼女は、生き死にの環境に慣れすぎている。感覚がぼやけ、なにが恐ろしいのか、忌むべき物なのか、まったく理解できなくなっている。
 今のカグヤに、真っ当な倫理観はなかろう。相対しただけで、彼はそれを察した。これが、魔物でなくて、何であろう。他に表現すべき言葉を、ユンフェイは知らない。
「……せめて、痛みを感じず、安らかに死ぬがよい」
「なら、貴方は苦しんで死ぬといいわ。――セラフ」
 カグヤの呼びかけと共に、破壊の精霊が顕現する。空間より、ぬるりと出でるは黒い翼。その称号に恥じぬ荘厳さでもって、敵を威嚇する。
(心得た。消えるがいい、老いたエルーカよ)
 対して、水龍はどこまでも冷静だった。大気を震わせながら、静かに現われ出で、清浄なる空気を周囲を散らす。
(はじめまして、破壊の精霊。わたくしは水龍、浄化の概念を身を宿しているものです。……貴方は、セラフ、というのですね)
(名など……これから支配下に入れるものに、聞いたところで意味はなかろう。貴様はただ、我が軍門に下ればよい。知識も、力も、全て我が活用してやろう)
 セラフの言に、呆れたように、水龍は答える。
(少し、品性を身につけたほうがよろしいでしょう。野性味が悪いとはいいませんが、貴方のそれは行き過ぎて、やや暴力的です。せっかく知識を得ても、それで自分を磨けないのなら、宝の持ち腐れというものではありませんか?)
(気が変わった。貴様は、死ね。消滅への恐怖に、身を震わせるが良いわ!)
 水龍は、慇懃な態度を維持しつつ、無礼を口にしてセラフを挑発する。
 すでに、老師は戦闘体勢に入っていた。カグヤもまた、準備は整えている。
「行くわよ」
「来い!」
 二人の呼びかけが、そのまま合図となり――ここに、エルーカ同士の闘争が、始まったのである。


 ユンフェイは、手を抜かなかった。甘く見て勝てる敵ではないと、把握していたから。
 水龍も、彼の意向を尊重し、まったく手加減しなかった。個人的にも、セラフのことが気に食わなかったから。
「そこだ」
「……クッ」
 カグヤも抵抗したのだが、彼女はエルーカと戦った経験がない。
 ゆえに後手に回らねばならず、どうにも上手くいかなかった。セラフの力を振るおうにも、発動の直後に叩き潰されてしまい、その威力の半分も活用できていない。
(左に三歩前、背後、右側面。やや後方から、五歩の距離……ああ、そこですね)
 水龍の能力は、浄化である。セラフやレギオンからすれば、相克に位置する力。いわば、天敵といっても良い。
 破壊の因子を打ち消し、場の穢れを許さない。その力に秀でた水龍だからこそ、セラフの驚異的な破壊を無効化できるのである。これが、レギオンであっても同じことだろう。
 彼は、今までに会ったことのない異能に対し、あまりに無知でありすぎた。打つ手が見出せないのである。
(ええい、忌々しい。きちんと展開することさえできれば、貴様など……)
 セラフも手を焼き、憤怒の形相で二者を睨み付けた。彼は、強すぎるがゆえに、その能力の発動も悟られやすい。的確に出がかりを潰されると、また別の箇所に、一から力を練り直さねばならなくなって――。
「は、はッ、はぁッ……」
 発動を繰り返すたびに、カグヤは消耗していく。セラフの存在を維持するのも、楽ではないのだ。これで長期戦に及べば、こちらに勝ち目はない。
(何故だ、何故、奴は平気でいられる! 消耗の度合いは、奴の方が大きいであろうに!)
 だからこそ、セラフはユンフェイの継戦能力に疑問を抱く。
 こちらの意思を読み取り、事前に食い止め、現実への侵食を妨害する。それは、単純に力を用いることよりも、大きな負担を術者に与えるはずである。
 なのに、ユンフェイは涼しい顔のまま、呼吸一つ乱れてはいない。ただのやせ我慢ではなく、本当に疲れてはいないように、セラフには見えた。
「わしが疲れぬのが、そんなに不思議か?」
 彼を嘲笑うように、老師はいう。
(人と精霊の関わり方というか、連携がなっていませんね。互いの結びつきが弱い証拠です。基礎から学びなおしてはいかが? エルーカの方)
 水龍も、茶化すように、カグヤにいった。
 これには本人よりも、セラフの方が腹立たしく思えたようで、さらにムキになってカグヤをせかした。
(なにをしている! この程度で伏せるなど、貴様らしくない失態ではないか。立ち上がり、敵を打倒せよ!)
「う……」
 カグヤは、立っていられないほどまで、負担が積み重なっていた。
 戦闘開始より、すでに一時間が経過しようとしている。ここまでの長期戦は、経験のないことであったし、何よりユンフェイから感じる重圧が、強く彼女を打ちのめしていた。
「ダメ、もう……」
 この上、セラフにまで精神的に責められると、どうして良いかわからず、途方にくれてしまう。
 ユンフェイに対する攻撃は、なおも継続中だが、全てが不首尾に終わっている。これから無理をして、続けても。おそらく、成果は出ないだろう。
「これまで、か? 力に振り回される者の末路など、大抵そういうものだ。……覚悟を決めよ。今、楽にしてやる」
「嫌……いや!」
 ついに、カグヤはユンフェイの接近を許した。
 彼の手には、大陸風に装飾された、大刀がある。これを打ち下ろせば、即座に彼女は死ぬ。そこまで、カグヤは追い詰められたのだ。
「死ぬのが、怖いか。人を殺していながら、同じ目にあうのは嫌か」
「……仕方ないじゃない。他にやりようがないのだもの。セラフも、レギオンも、そうしろって、いうんだもの!」
 ここで、ユンフェイは、その手を止めた。彼女の言葉が、気にかかったからである。
「私、どうしたら、良かったのよ。……答えてよ! 貴方もエルーカなら。私よりも、長く生きていたなら!」
「……ふむ。と、いうことらしいのだが。事実かね? セラフ殿」
 老師は、もう殺気を収めていた。水龍を傍に控えさせているが、危害を加える意図はないらしい。そうして、本心から彼女の精霊に問う。
 答え次第では、判断を変えねばならない。そう、彼は考えていた。
(……)
「だんまり、か。なるほど、状況が飲み込めてきた気がするな」
 悪辣な精霊の手腕を糾弾すべきか、哀れな少女の弱さに、罪を求めるか。
 ユンフェイの気性からいって、どちらを選ぶかは、あまりに明白。
(甘いですね。このセラフとやらが諸悪の根源でも、彼女の成したことは、どうしたって消えはしない。精神の脆さに変わりはないのだし、ここで見逃しても、また同じ事を繰り返すだけではありませんか?)
「そう、言うな。子供をそそのかして、悪に誘う方が、より罪深い。この子には、正しい指導者こそが、必要なのだ」
 大刀を鞘に収めて、ユンフェイはカグヤと顔を突き合わせた。伏せた彼女の目線に合わせるように、その場へ座り込んで。
「――さて、どうしたら良かったのか? この問いに答えるには、わしも腹を決めねばなるまいよ」
 そうして、彼は彼女と向かい合った。
 これが、カグヤにとっては、人生の分岐点だった。この後、彼女は老師によって、正しくエルーカの道を歩み、大成することになるのだが……。
「……え?」
「いやなに、これは、乗りかかった船のようなものだ。ならば、最後まで面倒を見てやるべきだと、わしは思う。手段が殺人から、教育に変わっただけのこと。驚くにはあたるまい?」
(割り切りの良さは貴方の美点ですが、そう急激に変わられると、相手も戸惑うでしょう。……ああ、ご心配なく。彼のコレは、病気のような物です。とりあえず、貴方を殺すつもりはありませんので、ご安心を)
 水龍のフォローも、もはや何の役にも立たなかった。つまるところ、この老人は変人なのだ。殺意を抱いた相手を不憫に思い、真実を知れば、正道に立ち戻らせてやろう、と思う程度には。
「そういえば、名乗っていなかったな。わしは、ヂャン・ユンフェイ。エルーカとなって……ふむ、もう百何十年か。おぬしよりも、知ることは知っているし、やることはやっている。さて、何から教授したものかな……?」
 そうして、彼は勝手に語り始めた。
 カグヤはただ、この現状を受け入れられずに、呆然とするしかなかったのである――。



 発端こそ、物騒なものであったが……一度ユンフェイの講義を聴き、そして共に生活するようになってからは、カグヤの生活は一変した。
 それも悪い方向にではなく、良いように改善されたのである。気力に消えた瞳には力が宿り、生活力も戻っていた。日々の食事にさえ、気遣いを見せるようにもなったのである。
「エルーカ、というのはな。負の感情を餌にするのではなく、精霊自身と対話し、折り合いをつけ、互いの目的のために努力していく者のことなのだ。決して一方が一方を隷属させ、無理矢理に従えるものでもない。いやならいやだ、と。拒否する権限さえあるのだ。――もっとも、これは使命を投げ出してよい、ということではない。契約にしても、知識を得るにしても、やり方はエルーカ自身が決めてよいし、気が向かないなら後回しにしてもいい、ということだ」
 これは必ずしも、全てのエルーカに当てはまることではないが……少なくとも、ユンフェイはそれを信じていたし、体現していた。
 長年つちかった経験を元にした、ひとつの信念なのだろう。実績と、人格においても、彼自身は信頼が置ける。ならば、それが正しいのだと、カグヤは思えるようになった。この程度には、彼女も老師のことを理解するようになったのである。
「真理を探究する姿勢さえ失わなければ、精霊はエルーカを罰せない。これを覚えておけば、今後は連中に脅迫されても、ある程度は突っぱねることができるだろう」
「じゃあ、私がいままで、していたことは……」
「あまりに精霊側に都合が良すぎた、ひどいやり方であったろうな。カグヤに精霊を統率するだけの技量がなかった……とも言えようが。しかし、おぬしのような子供にそれを期待するのは、間違っている。たちの悪い連中に捕まった不運を、嘆くほかあるまい」
 セラフもレギオンも、この場には現われていない。
 ユンフェイの前には出にくいのか、気配がうっすらとわかるのみだ。彼らにも思うところはあろうが、今は黙って話を聞いている。
「そう。……あいつら、悪党だものね」
「というて、彼らを責めるだけ、というのもな。精霊にも、個体差と言う物がある。付き合うには、相手の気性を知った上で、上手く共存しなくてはならない。どうしたって、連中とは長い付き合いになるのだから。――そもそも、一番初めに彼らを欲したのは、間違いなくおぬしの意思だろう?」
 これを指摘されると、カグヤも辛い。確かに、一方的に責められる立場には、彼女はいないのだ。
「エルーカは『人』というよりも、魔導具に近い存在でな。精霊と契約した時点で『人』としての生を捨て、真実を集める『器』となる。精霊達は各々の持つ真実を『器』に託し、『器』が更なる真実を蓄えることを望むのだ。……まあ、あやつらがここまで細かく説明したとは思えんが、これに類することは言ったのだろう。そしておそらく、おぬしが行っていたことも、一面としては正しい。……受け入れられるかどうかは、別にしてな」
 エルーカは精霊と契約を繰り返すことにより白紙のページを埋め、『真実を宿す魔導書(具)』として完成されていく。
 『召喚師』とは、あくまでも人間が彼らを外側から見た呼称に過ぎない。精霊達がエルーカに召喚されてその力を貸すのは、自らが宿る魔導具を護るため。カグヤは巧妙に、その事実から遠ざけられていたが……これは、精霊が『人間』に力を貸すというシステムではなく、『魔導具』に自らを護る力を与えるというものだ。
 彼らは、カグヤ自身を守ろうとしていたわけではない。自分に都合の良い駒を失いたくないから、手を貸すのだ。そして、その過程が真理に近づくもの、糧になるものであれば、なお良い……と。自ら危険を呼んでいた節さえある。ユンフェイは、そこまで見切っていた。
「エルーカにも、自己を主張する権利があるわけね。はじめて、知った」
 非人間的、とまでは言わないが、人間的な機能より、こうした知の追及の面が大きいことが、話を聞くほどに理解できる。精霊の欲するままに、収拾を続けるというのも、効率的ではあろう。――人間性を犠牲にすることになるが、彼らにとっては些細なことだ。
「ふむ。こういっては何だが、カグヤは随分と完成されてきているな」
 語るだけ語った後、ユンフェイはこう洩らした。当然、カグヤは疑問に思う。
「……負けたのに? 私、老師には勝てる気がしないのだけど」
 彼女は、彼に手痛い敗北を喫している。ならば、自分よりもユンフェイの方が、完成度の高いエルーカであることは明白に思われた。
 だが、ユンフェイはこれをやんわりと否定した。総合的には、その認識は正しい。しかし、エルーカは単純な知識量や鍛錬に費やした時間のみで、完成度を決められるわけではない。
 量より、質が重要になる場合もある。ユンフェイは、この点を外すわけにはいかないと思ったのか、より詳しく話し出した。
「勝ち負けが問題なのではない。エルーカが誇るのは、真理への理解度だ。カグヤは、負の部分に関して言えば、わし以上といってよい。偏った契約ばかりだったのだろうが、それゆえに中身は『深い』のだ。あのまま、もう五十年も同じ深淵を眺めていれば、脅威のエルーカが誕生していたのかも知れぬ」
 あくまで、過程にすぎないのだが、恐ろしい話だった。ユンフェイが言うには、この世の全ての悪徳を身につけ、その概念の体現者になったであろう、ということだ。
 老師の指導によって、カグヤはある程度まで、現実へと引き戻されている。世間的な常識についても、完全に思い出せていた。もともと彼女は、そう冷酷な性格ではない。別に、セラフやレギオンを憎んでいるわけではないが……破壊に、憎悪。そういったものを好んで、近くにはべらせたくはないと、今は思っている。
「それを惜しい、と連中は思っているであろうな。ここまで資質があったからこそ、あやつらはおぬしを急かしたのであろうし」
「なら、私は老師との出会いに、なおさら感謝すべきね」
 カグヤは、本心からそう思う。セラフらに、いいように扱われていた事は、今や彼女の汚点である。
 そこから連れ出してくれた老師には、感謝してもし足りない。……だが、この言葉は思いのほか、ユンフェイには意外だったようで。
「……感謝、か」
「おかしい? 私は真面目にいったんだけど」
「いや、前にこうして、エルーカの理念なり行動なりを教授したことがあるのだが……。あやつらは、カグヤほど殊勝ではなかったのでな。少し、驚いた」
 これはユンフェイ以上に、カグヤの方が驚きだった。
 老師は、自分のほかにも、こうして教育した人がいるのだろうか。あやつら、というからには、それも複数。
「お弟子さんが、いたの?」
「うむ、二人な。……まあ、あまりできのいい弟子ではなかった。とんでもないはねッ返りで、後にわしに牙を剥いたほどで……水龍がいなければ、死んでいたかもしれん。今となっては、昔話だが」
 ユンフェイは、あまり話したくないようだったが、強く望むときちんと話してくれた。
 エルーカが長く生きていると、ろくなことを思い出さない。人が恋しくなって、無駄話もしたくなる……と。そんな風に、言い訳をして。
「弟子達との争いの末、わしは勝った。いや、ほとんど相打ちのような物で、あそこで勝てたのは、天の采配であったのだろう。そう思えるほどに、拮抗した戦いだった」
「弟子の二人は? ……殺したの?」
「いや。……両者とも、封印に留めた。丁度、それに向いた精霊と契約していてな。甘いと思われようが、一度は手心を尽くして、鍛え上げた相手なのだ。奴らも……元は、純粋な探究心で、エルーカを目指した者。いつかは、わかってくれる。そう信じて、眠らせたよ。――あれから、もう数十年か。時の流れは、速いな」
 しみじみと、老師は語った。いずれ、弟子たちを正面から圧倒できる実力を身につけたら、封印を解こう。そうして、また一からやり直させ、更正させてやりたいと、彼は語った。
 ユンフェイの想いは、カグヤにはとても眩しく写った。そこまで人を思いやれるなんて、彼女には新鮮な驚きである。何より、自分と同じ道を選び、成功しながら、高次の人格を有している。その生き方の美しさに、憧れさえ覚えた。
「だから、な? ……おぬしは、わしの敵になっては、くれるなよ? これは、本気で言っているのだ」
 カグヤには、これが嘆願のように聞こえた。時が流れても、老師の心の傷は、癒えていないのか。本当に、寂しそうに言うものだから、彼女は即座に首肯して見せた。
 言うまでもないことだと、それくらいは、信じてくれていいと、ユンフェイに伝える為に。
「頼むぞ。――わしへの見返りは、それだけでいい。他には、なにもいらん。なにも……」
 彼は、それを見て笑うと、カグヤの頭を撫でた。それが老師なりの愛情表現なのだと、彼女にもわかる。だから、余計に応えてやりたいと、思うのだった。

(これは、使える情報だな)
(甘いのぅ……。自ら、弱みをさらけ出すか? これまた随分と、甘く見られたものよのうぅ……)

 この二人のふれあいを、セラフとレギオンは、冷ややかな目で見つめていた。
 前述の通り、彼らは必要とあれば、手を組むことだって出来る。由々しき事態に対抗する為、総力をあげるのは、当然の成り行きであった。



 レギオンは、セラフが老師と水龍に手玉に取られている様を見ても、助けようとはしなかった。
 無意味だと、心得ていたからである。

――ああいう手合いは、真っ向からぶつかっても意味がない。搦め手で落とすのが、上策よぉぉ……。

 セラフの糾弾を無視して、レギオンはいった。セラフもこう言われれば、流石に彼の意図を理解した。
(だまし討ちか、不意打ちだな)
(わかっておるではないかぁぁ……。今、老師とやらに精霊の制御を教わっているようだが、まだ甘い。カグヤの制止を振り切って、奴を始末するのは、充分に可能であろうよぉ……)
 カグヤがユンフェイを師事して、まだ日が浅い。その未熟さを付いて、カグヤを支配下におさめれば、不愉快な現状を破壊できる。そういわれれば、セラフも納得した。
(いつ、やる?)
(早い方が、よい。不意を討つならば、夜がよかろう……。古来より、悪事は暗闇で行われるものと、相場が決まっておるしなぁぁぁ?)
(くだらん。が、方針は良い。……今度は貴様も手伝えよ)
(わかっておる、わかっておる。わかったから、睨むのはやめぇぇぇ――)
 いきなり身もだえするレギオン。突拍子もない行動は、セラフを気疲れさせた。精神だけの存在であっても、相性の問題は別に存在する。
 精霊同士の付き合いでも、どうしようもない部分はある。セラフは、やはりレギオンが好きになれない。その必要もないだろうが、もはや絶対に好意を抱くことは、ありえないだろう。
(ともかく、今夜が勝負だ。覚悟だけはしておけ)
 ……カグヤにとっては、ありがたくないことに。反抗の意思は、ここに固まってしまった。あとは、決行するのみ。
 知らぬは、当人のみであり……実際、そのことが、致命的な事態を引き起こす、元となるのである。



 夜は、カグヤもユンフェイも、早めに就寝するのが慣例となっていた。
 火をつけて、遅くまで鍛錬に励むほどの、差し迫った理由がなかった……というのもあるが。
「うう……」
「もう、疲れたか? 少し、詰め込みすぎたのかもしれん」
 カグヤの消耗が、ユンフェイには気がかりであった。そういえば、深刻に思えるかもしれないが、実際には老師の甘さに過ぎない。
(まだまだ、余裕があるように見受けられるのですが)
「焦ることはあるまい。エルーカには、時間などいくらでもあるのだ。……それに、あまり責めるのも、かわいそうではないか」
(……左様ですか。勝手にしてください、もう)
 いらぬ温情であると、水龍などは思うのだが、女子供に優しいのは彼の美点でもある。
 だから口出しを控え、和やかな修練を見守る程度に留めていたのだ。……そうして、水龍も気を抜いていたからか。異常に気が付くことさえ、その際にはできなかった。
「老師。……起きていますか」
 ある日の夜。カグヤと老師は、屋外で休んでいた。
 寝床は別々に作っていたのだが、その日はいつになく、胸騒ぎがしたのだろう。彼女は、ユンフェイの元へと足を運び、共に寝ることをせがんだ。
「なんだ、今更」
「迷惑、ですか?」
「……ううむ。今日のカグヤは、妙だな。年頃の娘と言う物は、扱いにくくて困る」
 隣で寝るくらいは、構わない。しかし、いくら師と弟子の関係であれ、男女が寝所を共にするのは、倫理的にどうかと思うのだ。
 だから、ユンフェイはこれを固辞したくはあったのだが。

――水龍のやつ、助け舟一つよこさん。最近はカグヤにかかりきりだといって、すねているのかもしれんが……こんなときくらい、援護に来てくれても良かろうに。

 結局、老師は折れた。
 そしてそれが、彼の最後の誤りとなった。
「あれ……?」
「……ふむ。してやられたな」
 カグヤは、自分が刃物を握っていることを、最後まで自覚できなかったし、それを持ち込んだという記憶さえ抜け落ちていた。
 ユンフェイは、彼女の精霊が自分に反感を持っていることは知っていたが、ここまで早く行動に移すとは思っていなかった。何より、カグヤの力量を信じ過ぎていて、もう連中を制御できているのだろう、と。楽観的な見解を抱いてしまっていた。
「え? なんで、なんで……」
 カグヤは、自分が老師の腹に、ナイフを突き入れている事実に。まず、疑問を持った。そして恐れた。次に、なぜこうなったのか、必死に思考。しかしわからぬままに、ただ惑う。
 これに対し、ユンフェイはどこまでも冷静だった。特に取り乱さず、出血と痛みに眉をひそめながらも、分析をやめぬ。
「刃物を持ち込ませたのは、セラフだな。破壊を司り、その為ならばあらゆる制限を、乗り越えてくる奴なのだろう? カグヤが、ユンフェイを『壊す』様を、当人に連想させればよい。……最近、わしを殺すような夢でも、見なかったか?」
「……あ」
「図星、か? こちらは、レギオンだな。あれが憎悪の塊なら、無意識の契約者に忍び寄り、悪意を注入するのも、容易かろう。――なるほど。それで不安になって、わしの元に来たか。存外に、細かい手も使えるやつらであるらしい」
 他にも、連中が施していた策はあるのだろうが、結果はここにある。そう深くまで探る必要は、あるまい。
 ここでようやく、ユンフェイは落ち着いて血を吐くことができた。これがカグヤの意思ではなく、精霊が彼女の制御を振り切って、勝手にやったことなのである。
 本人の意思で、敵対したわけではない。
 それがわかっただけでも、救われる。彼は、これを不幸な出来事だとは思わなかった。あっけない最後でも、受け入れることができた。
「老師……!」
「泣くな。……遅いか、早いかだけの差に過ぎん」
 ナイフを投げ出して、カグヤは老師に泣きつく。助かる傷ではないと、わかっているから。
 だが彼は、これをいつかは訪れることといって、ただ笑った。唇から伝う血が、痛々しくても。幼子を安心させる父親のように、温かな目で彼女を見た。
「本当は、な。百年ぐらいしたら、おぬしにこの命をやろうと、そう思っていたのだ」
「どうして!」
「その、憎悪。今は、自分の精霊たちに、向いておるのかな? ……おぬしは、元は感情豊かな、良き娘だ。修練で抑えられるようにはなるだろうが、いずれは強すぎる感情が、精霊を肥大化させてしまうだろう。そうなれば、エルーカは単なる精霊の走狗となる。これを……抑える、為には。水龍の能力が、不可欠だ」
 こう述べたあと、苦しげに呻き、また血を吐き出した。
 なおも心配するカグヤを手で制し、水龍を呼び出す。
(お呼びですね。……用件は、わかっています)
「そうか。――そう、か。……わかって、いるのか」
(はい。……言わずとも。この子は、わたくしが守ります。破壊だの憎悪だの、その手の後ろ暗い連中の好きにはさせません)
 そうして、現われた水龍はカグヤを見やる。……まるで、豚を見るような目で。
「これ」
(……はい。忌々しいですが、よろしゅうございます。それが、貴方の望みなら)
「最後、だ。少しは、惜しめ」
(それこそ、わかっていらっしゃるでしょうに。……お覚悟は?)
「今更」
(結構)
 カグヤは、彼と彼女がなにを言っているのか、わからなかった。
 正確には、わかりたくなかったのに。けれど、現実として、目をそむけることができなかった。師の最後も見とれない自分に、価値はないと思ったから。
「さらばだ、カグヤ。これが、エルーカの最後と知るが良い。精霊の敗北したエルーカの末路、しかとその目に焼きつけよ! ――忘れるな、おぬしは、こうなってはならぬ!」
 雄雄しく立ち上がり、ユンフェイは水龍の元へと歩み寄った。
 最後に一度、振り返り……倒れる。だがかろうじて体勢を直し、胡坐をかいて両の手を膝の上に。
 そうしてゆっくりと、目を閉じた。それが、彼の最後だった。
「ああ……」
 死体は、一秒とたたずに消えた。水龍が、老師の遺骸を食ったのだ。他の精霊も狙っていたようだが、これを許すことなく、彼女が全てを飲み込んだ。肉片のひとかけらも、残らなかった。
(――エルーカ。契約を)
「なんで、なんで、貴女は食べられるのよ! ……貴女だって、老師のことが」
(契約です。契約! なのです。貴女もエルーカなら、それくらいのことは察してください)
 強い信頼で結ばれた水龍でさえも、躊躇い無く老師を喰らう。これが定められた『システム』なのか。カグヤは呆然と、彼女を眺めた。
(呆けていないで、契約を。でなくては、老師の好意が無になります)
「……うう」
(カグヤ!)
「……わかった! わかったから。お願いだから、少し、待って。……少しで、いいから」
 カグヤは、すでに老師から、その教えを伝授されていた。
 短い間だったが、ユンフェイの教育の成果は、彼女の身に刻まれている。

――老師は、逝かれた。もう、戻っては、こない。二度と。

 消滅への恐怖。目の前の悲劇。それを見据えた上で、彼女は乗り越えねばならない。そうしなければ、老師に申し訳がないから。
 あの人の生に意味があったと、きちんと証明したいから。だからこそ、ここで潰れるわけにはいかない。覚悟を決めて、カグヤは水龍と向かい合った。
「契約します。水龍、私と一緒に来てくれますか?」
(はい、新たなエルーカよ。私は、貴女に従いましょう。あらゆる穢れから貴女を守り、その使命を全うさせてさしあげましょう。そして出来るなら、老師の信念が正しいことを、証明し続けてください)
「もちろん」
(よろしい。……そこらで隠れている、薄汚い連中。あとで覚えておくように)
 セラフとレギオンを指していることは、カグヤにもわかった。
 だが、もう彼女は、彼らを恐れない。正面から相対する気持ちさえ、保てている。
「老師、私は、貴方の道をたどります。……誇りを持って、歩みます。それが唯一の、つぐないと思いますから」
 魂の一片さえも遺さず消え去った、老師の最期とその教えを胸に抱く。こうしてカグヤは、やっと一人前のエルーカとして歩き始めるのだった――。


















 レギオンは、自分がなした事を後悔してはいなかった。
 セラフをそそのかしたことにも、老師の最後にも、常に無感動だった。なぜか? という疑問さえ、意味はない。
(憎いか……? 憎いか? 老師を死に追いやった、我らが憎いか?)
 恨み、憎しみ。あるいは、怒りか。それを発する対象こそ、レギオンは好ましく思う。
 だが、あれほどの非道を働いたというのに、カグヤはそれらの負の感情を抱かない。これは不快に感じるより先に、疑問が先に立った。
 老師が望まなかったとしても、恩人を殺させた相手を憎まないなど、果たしてありえるものだろうか?
(無駄ですよ。わたくしが、ついているのです。そのような下賎な感情を抱かせたり、させるものですか)
(ぬぅぅ……貴様、か)
 水龍が、ここで割り込んできた。
 カグヤでさえ知ることは出来ぬ、この精神の深淵世界で、二者は対峙していた。
(余計な、ことを)
(負の感情が好物? 理解に苦しみますがね、わたくしなどは。……ああ、一応聞いておきましょうか。どうして、そんなに嫌な物ばかり求めるのです? 陰気な物ばかり集めて、自分が嫌になったりはしないんですか? というか、貴方などが知識を求めて、何の意味があるんです。活用しようがないと思うのですけれど?)
 水龍は、率直に疑問を口にした。回答など、期待してはいない。
 ただ、あまりにレギオンが下品なので、皮肉を言ってやりたかっただけなのだ。
(貴様は、我輩が、我輩自身を疎んでいないと思っているのか?)
(……はい?)
(戯けめ。我輩は、憎悪の精霊なるぞ? 憎悪の精霊は、世界の全てを等しく、恨まねばならぬ。差別なく、平等に……。それは我輩自身とて、例外ではないのだ。――おお! なんと醜く、疎ましい。本当に憎むべきは、我輩自身よぉぉぉ……!)
 そういって、レギオンはおぞましい表情をして見せた。この姿さえ、彼にとっては憎むべき対象なのだろう。
(知識を求めるのは、こんな我輩にも、憎めない物がこの世に存在するのかどうか。それを知りたいが為……。決してセラフなどのように、享楽だけを追い求めているわけではないわぁぁぁ!)
 彼の強すぎる憎しみの感情は、自分自身を憎んでも、まだ余りある。あるいは、他人に対する以上に、自分を憎悪しているのかもしれない。
 だが、そんな彼でも、救いを求めたく思っているのか。この心情は、確かに意外な物であった。
(意外ではありますけど、本当に、理解に苦しみますね。わたくしには、わかりません。人を殺したり、憎んだりする連中の感覚など)
(貴様が言うか、それを。……貴様、わざと老師を『殺させたな』。我輩らの気配に、気付かなかったとは言わせぬ。前回の戦いを教訓に、セラフは隠したつもりでいるようだが、貴様ならば感付いたはずだろう。それを、あえて無視したということは)
 水龍は、レギオンの言を、鼻で笑った。おまえになにがわかるのかと、そう言いたげに。
(ふふッ)
(なにが、おかしい。見当違いとでも、言うつもりかぁぁ?)
(はい。無視しましたよ。老師が殺されるであろうことも、わたくしにはわかっておりましたよ。……だから、なんです?)
(なにィ……)
 これには、レギオンの方が、言葉を失った。憎悪の精霊にさえ、想像の出来ぬ次元がある。
(だって、死んでくれないと、食べられないでしょう? 気長に待つつもりでしたけど、早めてくれるなら、それもいい。だから、見逃したんです)
(わけが、わからぬ。貴様は、老師を尊敬していたのではないのかぁ?)
(尊敬していました。でもそれ以上に、わたくしはあの人が好きだった。――ええ、好意などという言葉では表現しきれない。わたくしは、あの人が欲しかった。あの綺麗な人が、心から)
 その次元の名を、『愛』という。
 水龍は、ユンフェイを敬愛するどころではない。本当の意味で愛し、彼を欲していたのだ。まるで、人間の女が、惚れた男を求めるように。
(老師。可愛い人。わたくしの、ユンフェイ。あの綺麗な心、気高い精神。エルーカとして生きながら、まったく穢れることなく、自己を昇華させた希有の人。……だから、わたくしはあの人を、自分だけの物に、したかったの。死に乗じて、その魂をわたくしの中に取り込んでしまえば、あの人はどこにもいかないでしょう? わたくしの期待を裏切ることも、醜い俗世に影響されることも、絶対にないでしょう? あれは、いい機会だったんです)
(……それは、なんという感情なのだ? 我輩には、わからぬ)
(さぁ? 知らなくても、いいことでしょう。人間には、これを定義する言葉があるようですけれど……わたくし、そんなのに興味はありませんし。もうすでに満たされましたから、どうでもいいのです)
 カグヤが聞いていれば、狂っている、と非難しただろう。しかし、彼女は水龍。精霊に対して、俗世の倫理は役立たない。
 カグヤも、それを身をもって理解しているはずである。だから、知られて困る問題ではないと、彼女は思っていた。
(ああ、本当に、良かった。これであの人は、ずっと綺麗でいられる。転生して、来世で魂を穢す事もない。わたくしのなかで、ずっと、美しいままの姿で、変わらずにいてくれる……。なんという、幸せでしょう)
(そっくり、言葉を返してやろう。『理解に苦しむ』)
(結構。貴方に言われても何も感じません。お好きなように)
 そうして、二者の会話は終わる。
 どちらが正気により近く、狂気に満ちているのか。それは傍観していたセラフにすら、答えられぬ問題であった。


クリエイターコメント このたびはリクエストを頂き、ありがとうございます。
 今回もまた、かなり設定に踏み込ませていただきました。
 特に最後のアレは、ひどく際どい部分ではないか……と思います。

 もし問題があるなら、ご連絡を。
 なるべく早く、対応させていただきます。
公開日時2009-01-13(火) 19:00
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