★ 永劫回帰 〜虹溜りの白花〜 ★
クリエイターあさみ六華(wtbv7387)
管理番号574-4097 オファー日2008-08-03(日) 14:52
オファーPC 香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
<ノベル>

●巡り会う季節に
 潮を含んだ柔らかな風は海原を渡り、山の木々を揺らしては駆ける。周囲をぐるりと自然に囲まれた商業都市には、様々な人種で溢れ返っていた。時として、用途も存ぜぬ珍品、逸品が露店に紛れていようと、眺めるには申し分ない。
 訪れ、去り行く旅人達の悲喜交々を受け止めたなら、石造りの街並みは一層活気付く。ならば大通りに轟く怒声とて、なくてはならぬ彩の欠片の筈であった。

「だーかーらぁ、ない物はないんだってば!」
「シラを切るのもいい加減にしろってんだ! 大方、端から無銭飲食が目的だったんだろう?」
「そんなことないわよ。だって、この店に入るまではあったんだから!」
 この際、後に続く「多分」という単語は省略する。
「はん、よくもいけしゃあしゃあと。盗人猛々しいとは、正にこのことよ!」
 悪かったわね、猛々しくて! 心の内で毒突きながら、店外に摘み出された香玖耶・アリシエート (かぐや・―)は、大衆の好奇の目が向けられる屈辱に耐えながらも、眼前の人物を睨め付けた。が、相手は標準的な彼女の背丈を優に越える大男である。衣服から露出する二の腕等、半端に筋肉を付けていたりするものだから、尚更に始末が悪かった。
 傍から見れば、年頃の娘が豪腕の中年男に無謀な喧嘩を吹っ掛けているようにしか見えない。その通り、どうにも今一つカグヤは迫力に欠けるのか、『金の小鹿亭』店主はカグヤを見下し、あまつさえ悪意を十二分に含む笑みを鱈子唇に張り付けた。
「山菜リゾットに茸のグラタン、ムール貝のトマト煮、スモークサーモンのマリネ、白身魚のソテー、ミートパイ、季節の大盛り野菜サラダ、冷製ポタージュスープに生ビールが大ジョッキ5杯程。散々飲み食いしておいて、『財布を落としました。払えません』じゃ、こちとら、商売上がったりなんだよ!」
 わざとらしく声を大にして内訳まで読み上げずとも、飲食した人間が一番分かっている。
 まあ、いくら安価が売りの大衆食堂とはいえ、これだけ平らげればそれ相応の金額にもなろう。此処で踏み倒されてなるものか、これでもかと赤蕪も裸足で逃げ出す程に頬を染め、怒るのも無理はない。ないのだが、先から此方を小馬鹿にしたようなあしらい様に、見え隠れする不快な視線が、カグヤの反省を促すどころか、一層苛立ちを煽るのだ。
「耳揃えてきっちり払えないってんなら……」
 ねちっこい両の目をカグヤのスレンダーな全身に這わせて、
「体で稼いで貰うしかないだろうなぁ」
 予測に反することなきお定まりの台詞は、ボキャブラリーの未熟さ故か。それとも、もしかすると悪役気取りで一度、言ってみたかっただけなのかもしれない。
 どちらにしろ、外見こそ20代半ばのカグヤであるが、実際は卑しい会話に臆する程、花も恥らううら若き乙女ではない。久遠の刻を生きるエルーカ(召喚師)にしてみれば、それこそ彼の店主とて、ひよっこ同然なのであった。
「へえ。そんなに体で稼いで貰いたいの」
 私は一向に構わないけれど、と小さく呟いてから、右手が腰の得物を掴んだ。意味深に色を深める紫の双眸に只ならぬ殺気を感じたのか、大男の肌が粟立ったその時――
「あの……これで足りますか?」
 徐に、カグヤの背後から数枚の硬貨を乗せた白い掌が現れた。目を丸くしていると、掌の主――小柄な緑眼の少女が控え目に進み出る。取り立てて美人というわけではないが、愛嬌のある顔と柔和な物腰に何となく目が離せない。甘い神秘の魅力を兼ね備えた人物であった。
 少女が顔を申し訳なさそうに曇らせ、軽く頭を下げたなら、緩い癖の付いた金茶色の長髪がふわりと揺れる。
「すみません。会話を聞くつもりはなかったんですけれど、困っていらっしゃるようでしたから、つい……」
 そりゃあ、あれだけがなり合っていれば、家の中に閉じ篭り耳を塞いでいたとて、まるっと筒抜けであったことだろう。彼女に否はない。
 それは兎も角として。この世知辛い世の中に損得を省みず、赤の他人へ好意を傾けてくれる者もいるのだと胸の内にて、カグヤは人知れず咽び泣くのだった。
 けれども、この目の前の無慈悲な男だけは微塵も感動を覚えなかったらしい。明らかに嫌悪の眼差しを注いで、
「そんな汚い金は受け取れないね」
「きゃっ!」
 何と、少女の手を乱暴に払い除けたのであった。短い悲鳴は喧騒に掻き消え、道端に硬貨が転がる。あまりの予期せぬ出来事に呆気に取られるも、すぐさま我に返ると、猛反撃に出た。
「ちょっと、何てことするのよ!この娘さんが親切にも食事代を立て替えてあげるっておっしゃって下さってますのよ。それを無下にするなんて!」
 慣れない尊敬語に可笑しな謙譲語までくっ付けて、舌噛みそうになりながらの必死な抗議の声は、しかし届かない。彼は唯、ぷいとそっぽを向いただけだった。『小鹿亭』なんて洒落た看板掲げている割には、可愛げの欠片も持ち合わせていない親父である。いっそ、グーパンチかましてやろうかと歯軋りするカグヤへ、
「いいんです!」
 控えめながらも、少しだけ口調を強めれば、凛とした少女の声音は嫌が応でも響き渡る。一瞬歩を止めた者達の視線が集うと、店主は罰が悪そうな顔で踵を返し、店に引っ込んでしまった。
「利子付きで明日中に支払え! 逃げたらどんな法的手段にも訴える。いいな!」
 という小憎たらしい捨て台詞を残して。
 戸口に散々呪詛を吐いてから、カグヤは硬貨を拾い集める少女に手を貸した。
「ごめんなさいね」
「いいんです。気にしていませんから」
 僅かに笑み、もう一度同じ台詞を紡ぐ。この位、何でもないといった風に毅然と振舞うその痛々しげな様子が、カグヤの胸を一層締め付けた。
 何か励ましの言葉はないものかと口を開き掛けると、重厚な鐘の音が響き渡った。街の中心に据えられた、一際背の高い時計台を仰ぐ少女は、
「嗚呼、大変。もうこんな時間だわ!」
 此方へ軽く会釈すると、急ぎ足というよりも、もう殆ど小走りでその場を後にしようとする。
「待って! 名前……あなたの名前を聞いていないわ!」
 少女の背に慌てて声を掛けたなら、足を止め、弾むような仕草でくるりと向き直った。飾らない歳相応の微笑みを顔中に添えて。
「ルース」
 ――ルース。
 口の中で反復し、美しい響きを心に刻む。
 見送る間もなく、少女の姿は直ぐに雑踏へと紛れた。

●不明確な手掛かり
 明くる日。
 カグヤはメモを片手に、路地裏を歩いていた。といっても、何も無目的にふらふらと彷徨っていたわけではない。
 『紅い月』。そのような名の宿屋だか間の宿だかがこの小路にある筈なのだ。が、夜の盛り場が軒を連ねる一帯である。生憎、尋ねようにもうろついている者といえば、生ゴミを漁る真っ黒い野良猫が1匹。それはカグヤと目が合うと、一声鳴いて、急ぎ足で去っていった。不毛さに輪を掛けるが如く、一陣の風がひゅうと追い越して行く。
 だがしかし、諦めるわけにはいかない。どうしても昨夜の少女、ルースにもう一度会い、お礼を述べたい。律儀にも彼女はそのような思いを抱いていたのである。
 けれども、野望に反比例して、ルースの手掛かりは非常に少ないものであった。勤め先が『紅い月』であること。唯、これのみ。
 それもこれも『金の小鹿亭』店主の情報である。あの陰険な中年男に物を聞くのは癪で仕方なかった。無一文の可哀想な人間を、まるで社会の屑とでも言わんばかりの罵り様だけは、今思い出しても辟易する。が、ルースに対するあの並々ならぬ不躾な態度からして、間違いなく彼は何かを知っていると睨んでもいた。
 勿論、財布を落としてしまったことは自分の責任だし、売り言葉に買い言葉とはいえ、半ば本気で飲食代金を踏み倒そうとしていた(!)のだから、丸っきり此方に非がなかったとは言わない。加えて、流離のエルーカとしては、先立つものがないよりはあった方が良いということで、トラブルバスターとしての簡単な仕事を1つ2つ、さらりとこなせば懐は直ぐに潤った。その足で昨夜の飲食代を1.5倍にして返したら、態度を豹変させたのである。尤も、店主にしてみれば「金の亡者」と罵倒するより「商魂逞しい」と言って欲しかったかもしれないが。
 兎も角、返済序でに、ルースについて何か知っている事項はないかと尋ねたのである。すると、途端に愛想笑いは掻き消え、露骨に苦渋の色を浮かべるではないか。質問について、なかなか口を割らない店主であったが、こういう時は押して駄目なら押し捲れがカグヤ流信条。何、実に軽い仕事であった。サラマンダーを召喚してちょこっと炎芸を披露してやったまでのこと。生まれてこの方、超常現象に出くわしたことすらなかったのだろう。青い顔して震え上がると、早口で捲くし立てた。
「路地裏の『紅い月』って所で働いているよ。後は実際、あんたの目で確認してみるんだな」
 何故だか言葉にするのも汚らわしい、反吐が出るといった調子で唇を意地悪く歪めて見せる。それが、エルーカに対するせめてもの反抗心の表れらしい。邪険な態度を隠しもしない。かくして、カグヤは追い出されるように店を後にしたのであった。
 ああいう人間もいるのだということを、カグヤは遥か昔から嫌という程、思い知っていた。だからこそ、憤慨するよりも、真っ先に溜息が漏れたのである。あれで接客業を営んでいると思うと、本当に嘆かわしい。
「この店、持ってもあと1年ね」
 味と価格と立地条件は申し分ないのに、残念なこと!

●そして、再会
 あの男のことは二度と思い出すまいと心に誓いつつ、何処を如何歩いたものか、気付けば例の『紅い月』へと辿り着いていた。良く言えば隠れ家的、悪く言えば物寂れた佇まいは堅気の人間を寄せ付けない雰囲気が漂っている。否、それ以前に、あのうら若き乙女、ルースには不釣合いな場所であった。此処は宿屋でも間の宿でもなく――
「……娼館、よね?」
 詰まる所、真昼間から、しかもカグヤのような一見、(自称)無防備な娘さんがのこのこと入って行けるような店ではないのだ。はてさて、如何したものか。
 成す術もなく途方に暮れていると、『紅い月』の裏手から出て来る1人の女性とぶつかりそうになった。
「きゃっ!」
「わっ! ご、ごめんなさい」
 咄嗟に謝りながら、頭の片隅では聞き覚えのある悲鳴を冷静に分析していた。この春風が如くたおやかな声音は他ならぬ、
「ルース!?」
 その人であった。
「あら、あなたは昨日の……」
 薄いストールを肩に羽織り直し、ルースは古き友に再会したかのように瞳を細め、温かな笑みを傾けた。
 無意識の内に、カグヤは少女の手を包み込むように握る。一見大袈裟に見える行動も、彼女にしてみれば偏に喜びの表れであった。
「良かったわ。今、正にあなたに会いたいって思っていた所だったの」
 運命の神様も、肝心な時にはなかなか力を振るってくれないものだけれど、今回ばかりは粋な計らいをするものだ等と、感謝の意を捧げていると、
「えーと……?」
 微笑の色を若干曖昧に変えつつあるルースが、可愛らしく小首を傾げて見せる。会いに来た理由も感動に浸る心の内も知らぬのだから、当然だ。カグヤ、困惑する彼女の手を慌てて離すと、こほんと1つ咳払いした。
「あのね、昨日は本当に有り難う。あなたが通り掛らなかったら、きっともっと大変なことになっていたと思うの」
 精霊の1匹や2匹位は件の食堂にぶっ放したのではなかろうか、と。
「それで、もし宜しければ、お礼って程大それたものではないけれど、何か私に出来ることはないかしら?」
「そんなこと……結局、私は何もあなたのお役に立てなかったのだから、気にしなくて良いのに」
 眉の端を下げて、少し困ったように、けれど決して嫌味が混じることのない翡翠色の瞳が、遠慮がちに此方を見上げている。
 カグヤは諦めない。
「結果論はこの際関係ないわ。私はあなたの行為が嬉しかったの。だから、何でも言って。でないと、私の気が済まない!」
 迫力の篭った熱意に圧倒されたのか、想いはルースの心に響いたようだ。
「そうね。それじゃあ……」
 暫く唇に人差し指を当てると、少女は妙案ありきといった様子で、ちょっぴり勿体振りながら切り出した。

「一度、こうして女の子同士でお茶を飲んでみたかったの」
 ティーポットにお湯を注げば、ふうわりとカモミールの香りが鼻を擽る。バスとトイレ、台所は共同という、余計な物のないこじんまりとした一部屋である。その所作のみで、室内はすぐさま芳香に満たされた。
 作りは古めかしくとも、隅々まで掃除の行き届いた『紅い月』裏の宿舎は、ちっとも不快ではない。寧ろ、日溜りの中に身を置いているかのような安心感と居心地の良さだ。
 其処でカグヤの目を惹いたのが、窓際に吊るされた硝子製のサンキャッチャーであった。縁日で子供用に売られているような、然程高価ではないと素人目にも分かる代物であったが、柔らかな陽射しを受けて微風に揺れる度、部屋が無数の虹の粒で煌いた。
「綺麗……」
 幻想的な光景を純粋に述べると、どんな美辞麗句よりも嬉しかったのだろう。ルースは両親からの、最初で最後の贈り物なのだと幸せそうに笑った。眺めては光溢れる故郷を思い出すのだと言う。品に篭められた纏わるものは、紛うことなき掛け替えのない記憶。それ以上、彼女は過去の話を口にはしなかった。カグヤもまた、無理に聞き出すような無粋な真似はしない。
「実を言うとね、あなたとはまた会えるんじゃないかって思っていたのよ」
 カモミールティをゆっくりと口に含んでから、ルースははにかんだ。私もよ、とカグヤが告げたなら、益々歓喜に頬を染める。

 他愛もない話に花が咲いた後は、不意に会話が途切れてしまうもの。僅かな沈黙を噛み締めてから、ルースは遠慮がちに沈黙を破った。
「昨晩はあなたに嫌な思いをさせてしまったわね」
 顔を寄せ囁く彼女へ、カグヤも釣られて声を潜める。
「ええ、確かに物凄く嫌な思いはしたわ。でもそれは、あなたではなくて、あの店主のせいよ」
 思い出すまいと誓った筈なのに、ルースの一言で苦い憤りがまたしても込み上げて来た。腸が煮え繰り返る程のこの感情、如何してくれよう。
 息巻くカグヤを諭すような、宥めるようなルースの口振りは安らかで、
「あの人が特別ってわけじゃない。私を知っているなら、誰もが似たり寄ったりの目で見るもの。でも、それは仕方のないこと」
 一旦言葉を区切って、短い息をつく。髪が、優しい風に揺られ舞った。
「だって私、娼婦なんですもの」
 お早う、と挨拶を交わすような調子でさらりと告白された瞬間、カグヤがカモミールティを盛大に吹き出しそうになって、噎せ返る。涙目を瞬かせていると、ルースが慌てて背中を摩った。
「大丈夫?」
「……何とかね……」
 唇を手の甲で拭いながら、懸命に思考を正す。
 知り合ってまだほんの僅かな時間しか経っていないが、冗談でそういうことを言う娘にはとても思えない。ではやはり、彼女は『紅い月』の――……
 『金の小鹿亭』店主の畜生でも相手にしているような非礼、あれは詰まり、彼女の身の上に対する本心からの侮蔑なのだ。何ということだろう。彼が払い落とした硬貨とて、ルースにしてみればなけなしの金であったに違いないのに。
 嗚呼、それにしても、とカグヤは思う。
 通りを楽しげに行き来する街娘達と何ら変わらぬ少女が、選び取らねばならなかった道とは、如何程の茨が生い茂っていたことか。それは思春期から成人期へ変貌を遂げようとする微妙な時期の心と体にこれ以上ない、そして一生癒えることなき傷を刻んだであろう。到底計り知れぬ艱難辛苦を思えばこそ、カグヤの胸は錘で潰されそうになる。
 何と声を掛けたら良いものか、眉をきつく寄せる。と、余程深刻な表情を浮かべていたらしい。
「嫌ねぇ。そんな顔しないで。貧しいから売られた。唯、それだけのことだわ」
 いやいや、意外性に飛んだ話ではないにしても、良くある話よ、なんて楽観的に語る内容でもないのだが。
 茶の御代わりをカップに注ぐルースへ軽い抗議の瞳を向けると、表情豊かなカグヤを楽しんでいるのか、擽ったそうな微笑を零した。
「私、少ぅし運が悪かったかもしれないけれど、不幸であるとは思っていないの。だってそうでしょう? まだ17なのよ。もしかすると、これからとびっきり素敵なことが待ち受けているかもしれないじゃない。それは明日かもしれないし、1ヵ月後、1年後かもしれないけれど」
 カグヤの意に反して、ルースは頗る朗らかである。空元気等ではない。心からそう信じているのだ。
「だから、今は私が出来る精一杯のことをしたいの。後悔しないように」
 子供のように無垢かと思えば、出し抜けに大人びた一面を覗かせる。彼女が長年培って来た経験に寄るものなのか。
「そうね。その通りだと思うわ」
 顔を綻ばせ、賛同で括りながらも、カグヤの胸には小さな棘が引っ掛かっていた。肩を竦めて視線を逸らすルースの横顔が一瞬、陰ったような気がしたのである。

●白の傷痕
 季節が移ろい、夏の訪れを五感に受けようとも、未だカグヤは街に留まっていた。長期に渡って滞在するのは久しいと、最近は独り、感慨に耽ることもないではなかった。
 この地に彼女を繋ぎ止めている要因は、無論ルースの存在に他ならない。互いの時間が許す限り、カグヤは彼女の宿舎に通った。過ぎ行く時間を1秒でも惜しみつつ、語り、笑い合う。誰かの感情に触れられることが、唯々幸せであった。
 一方で、時の流れの異なる者との交わりが、どのような末路を辿るかも熟知していた。遅かれ早かれ、ある日突然、破滅的な音を立てて崩れ朽ちるのだということを。
 潮時、だろうか。
 過去の暗い影が幾つも頭を過ぎりながらも、今日も今日とて、熱心にルースの元へと向かう。胸に抱くは彼女への手土産。
 ――今朝はまだ陽も上がらぬ内から、仕事の関係で隣街まで出掛けていた。街道を辿り、帰路へとつく刻にはもう、山の端が影絵の如く深い藍色となって、茜に溶け出していた。夜は、もう直ぐ其処まで迫っている。
 そんな時であった。暮れ行く空に少々の焦りを覚えながらも、なだらかな丘に差し掛かったのは。眼下に広がる街並みにほっと胸を撫で下ろしていると、濃く甘い香りが夏の草木の匂いに混じって運ばれて来る。顔を上げ、右手の野を見遣れば、一面カサブランカで埋め尽くされていた。昼間の太陽をその身に受けたならば、純白に凛と輝いて、見る者全てを魅了したことであろう。控えめながらも存在感纏う大輪は、清廉な少女に良く似合うと思った。
 ルースなら、喜んでくれる。確信し、カグヤは摘み取ったカサブランカを手に、駆けていた。此処を下れば、もう目と鼻の先だ。

「皆殺しか。惨いな、そりゃ」
「この店の女主人、かなり悪どいことをしていたって言うじゃないか。風の噂じゃ、非合法の賭博にまで関わっていたとか何とか……」
「自業自得ってもんだよ。それより可哀想なのは、雇われていた女達さ」
「何言ってんだい! 薄汚い娼婦が何人おっ死んじまった所で如何ってこたぁないさね」
「違いねぇ。幸いだったのは、開店前だったってことかね。一晩の懇ろ程度で商売女と犬死になんざ、誰だって嫌だろうよ」
 ある者は同情を、またある者は嘲りを端々に含んで。
 娼館の入り口付近から、井戸端会議染みた会話がカグヤの耳にも流れて来た。何事か。騒ぎ散らかしている野次馬達に、見知った顔を見付ける。例の『小鹿亭』店主だ。
「ねえ、何があったの?」
 目を吊り上げ、殆ど掴み掛かるようにして問うた。悪い予感は杞憂の儘であって欲しいと願いながら。
「ひゃっ!? あ、あんたか。いや、俺も良くは分からないんだが、何でも『紅い月』に賊が押し入ったんだと。娘達は全員、刃物で一突きさ」
 手で喉を掻っ切る動作をして見せると、隣の男が御節介にも強引に口を挟む。
「いやいや、俺が聞いたのは、物取りというより怨恨の線が強いだろうって話だ。女主人の骸に至っては、滅多刺しよ。そりゃもう目も当てられたものじゃなかったとか」
 白花が、足元に落ちた。
 男達の会話を皆まで聞かず、カグヤは走っていた。張り巡らされた立ち入り禁止のロープを潜り、静止する役人を押し退け、『紅い月』へと踏み入った。
 何処だ。
 何処だ何処だ何処だ。
 片っ端から扉を開け、室内を改めた。其処にまだあどけない娼婦の死に顔を目の当たりにした途端、別人であったことへの背徳的な安堵に、我ながらぞっとする。同時に、激しい鼓動が胸を打った。名を呼ぶ毎に、血を吐くような激痛が咽頭を込み上げる。息苦しい。
 と、不意に僅かな、本当に僅かな衣擦れの音を聞き取り、カグヤは足を止めた。躊躇うよりも先に、其方側の扉に手を掛ける。
「っ――……!?」
 目にしたのは、床や壁に散らばった夥しい紅の飛沫。
 殴り込まれた凄惨な有様に、絶叫が木霊した。
 血に塗れたルースが戸口へと這うように腕を伸ばし、倒れている。駆け寄り、身を起こしてやると、息も絶え絶えに声を漏らした。
「カグ、ヤ……?」
「大丈夫、大丈夫よ。私は此処にいるわ」
 鮮血がルースの胸から溢れ、カグヤの腕を伝い穢し、滴る。小さな体から、命が流れて行く。
 それでも諦めるものかと癒しの儀式を行おうとすれば、少女がゆるゆると首を横に振って静止を促した。明確な身の上話等、一度とて話して聞かせはしなかったのに、ルースはカグヤの人ならぬ雰囲気に気付いていたのだ。多分、初めて会ったあの時から。今まで敢えて触れなかったのもまた、彼女の優しさであった。
 ルースは全てを理解し、受け入れている。どのような力を持ってしても、最早助からないことすらも。
 駄目だ、嗚呼駄目だと涙を強く堪えると、血の気の引いた手が弱々しく頬を包んだ。こんな時ですら、傍らに添うカグヤを心配して。
「あなたには、いつだって笑っていて欲しい……。だって私、あなたの笑顔が大好きなんですもの……」
 それは、少女の最期の願い。
 親友の望みだった。
 引き攣った唇の端を微かに動かした所で、強張った表情が緩むことはないのだが、それでもルースは満足気に頷いた。
「これは……百合の花ね。私の故郷にも、咲いていた。とても、見事な……」
 血の臭いに混じって、カグヤの服に染み付いた残り香を嗅ぎ取ったのか、潤んだ瞳を伏せた。目蓋に焼き付く遥かなる地を回顧して。
「有り難う、カグヤ……」
 囁きよりも細い感謝の意を紡ぐと、少女は長く深い吐息を漏らした。

「運が悪かったかもしれないけれど、不幸であるとは思っていないの」
 そう言って、人懐っこく笑ったルース。けれども、本当に幸せだったのだろうか。貧しさ故に売られ、鳥篭のような娼館で最期の時を過ごした彼女は。暗き境遇に圧し折れることなく、前向きな希望を抱いていたのに、それなのに17年の生涯は、あまりにも短過ぎる。
 血が滲み出るまでに、きつく唇を噛み嗚咽を飲み込む。
 酷く長い間、カグヤは友の亡骸を抱いていた。

●輝きの乙女
 元々、貧しさから脱するために力を手に入れたいという短絡的な理由で、強大な召喚の力のみを得ようとエルーカになったカグヤである。精霊を支配し掌握し、あるいは契りを交わすことで、幸せになれると疑るべくもなかった。
 だが、実際はどうだ。誰も救えない力の、何と無意味で虚しいことか。
 掛け替えのない者の死に直面する度、カグヤは己が身を呪った。悩み苦しみ、激しい自己嫌悪から絶望に捕らわれ、精霊に喰われそうになることも少なくなかった。それは、エルーカとしての終わり、輪廻の虚無なる終焉を意味する。
 けれども、友は悲しみに暮れるなと逝った。ならばせめて心を殺すことで、自我を保った。
 胸元のロザリオに触れ、鮮やかなる夏の空を仰ぎ見て彼女は呟く。
「私は、また過ちを繰り返してしまったのかしら?」
 復讐の黒きけだものと墜ち、同等以上の痛みを憎むべき相手の血肉へ刻み付けてやることが叶ったなら、あるいはこの行き場のない満身の憎悪を吐くことが出来たら、何か変わっていただろうか。ルースが渇望するかは兎も角、如何様に転じても、結果、突き付けられる事柄に救われることは決してなかっただろう。
 女達の命を奪った残虐者の自害という形で、あの痛ましい事件は呆気なく幕を閉じた。街外れの空き家で独り、喉を突き、二度と語られることのない真実と共に果てたのだという。
 大都市に平穏が再生され行く様は早く、あと一週間もすれば人々は記憶の片隅へと押し遣ってしまう。白百合の丘を訪れ、そこから眼下を一望しようとも、日々の名残はもう何処にも見つからない。
 街から上る細い煙を生彩のない目で追った。引き取り手のない遺体へ、一斉に弔いの火が掛けられたのだ。
 と、不意に上着のポケットから硬い感触を感じ取る。弄り、取り出せば、それはルースの部屋をいつも光で満たしていた硝子細工であった。いつ紛れ込んだのか、物理的な不可思議を訝しがることも、今のカグヤには面倒だ。有りの儘の事象に表情すら変わらない。
 虹の影を落とすオーナメントを掌で転がしてみると、きらきらと惜し気もなく光を撒き散らした。見詰めていると、美しい思い出ばかりが去来し、くず折れそうになる。
 ちょっとした四方山話を好み、まるで冒険譚でも聞くように目を輝かせた少女。
 一目でも良い、会いたい……。
「――……!!」
 途端、カグヤの願いに呼応するように、大気が震えた。
 散らばった硝子の光が、頭上より少し上で集う。瞳を凝らせば、虹の結晶は人の形と認識出来なくもない。それとも、退くことなき思慕の念がそうさせたのか。
「……ルース!?」
 懐かしさに掠れた声音は、歓喜とも一驚ともつかなかった。
 朧の体を通し、向こうの景色が透けて見える少女は、あまりにも不確かな存在だ。時として人の遺した想いは品物に宿り、精霊と変ずることがある。ならば、今のルースが、正にそれなのだろう。
 無色の世界が再び色付き溢れ、動き出した瞬間、星の数程伝えたかった想いと、告げられなかった言葉を抱いているのは、寧ろ私の筈なのにね、と幼子のように顔が歪む。
「それでも、私を気遣ってくれるの?」
 ならば、悲哀の今日を明日の糧とし、笑顔に変じよう。あなたのように。
 自棄の甘えをを恥じてから、カグヤはルースに手を伸ばしていた。
 娼館に縛られ、外に出られなかった少女に、希望溢れる世界を見せたい。そして、これから自らが歩む道を、絶えず光で照らして欲しい。
 有りっ丈の願いを篭めて。
「共に行きましょう」
 カグヤの切なる申し出に、光の乙女はふっと目を細めて笑みを深めた。もうとっくに答えは決まっているわ、とでも言いたげに。
『いつ如何なる時も、あなたと』
 唇を動かさず、思念だけでカグヤの意識に働き掛けると、少女は儚げに揺らめき、再び光の粒となって天に舞った。繊細なそれが音もなくカグヤの元へと注がれる。掌で夏の雪を掬うようにそっと受け止めたなら、仄かな熱がじんわりと滲んだ。ルースの温もりなのだと頭で理解するより早く、無理矢理押さえ付けていた感情が堰を切って零れる。

 伝う涙を、人々を、街を、野山や海原を染め上げて。
 聖女の慈しみが、世界を淡く優しく包んだ。


 花が、揺れている。
 曇りなき蒼穹に純白の花弁は陽光よりも眩しく、優美であった。
「まるで私達、姉妹みたいね」
「人も羨むような仲の良い姉妹?」
「もしかすると、そうだったかもしれないわよ、前世では」
「それって、とっても素敵だわ!」
 白百合の群生に潜むは、乙女達の秘密の笑声。
 いつまでも、いつまでも――。


End.

クリエイターコメント この度はオファーいただき、誠に有り難うございます。

 PC様の素晴らしい背景設定に重きを置きつつ、『離別』がテーマの悲しいけれど美しく、また救い様のある雰囲気が滲み出るよう意識し、執筆させていただきました。彼女等の確固たる友情が、どうか不変のものでありますよう。

 また、蛇足ながら、花は『白百合』を選び、採用させていただいております。
 PL様の抱く彼女の印象を、きっとPC様ご当人ならば、自らを映し出したような、近しい存在のお嬢さんへ同じイメージを重ねるのではなかろうかと思いました。その辺りも作中にて楽しんでいただけたなら、と。

 ともあれ、PC様もPL様も、少しでもお気に召していただけますと、幸いです。

 最後になりましたが、ここまでお読みいただいた全ての方へ感謝を込めて。
 あさみ六華でした。
公開日時2008-08-24(日) 11:30
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