★ 【ピラミッドアタック】それは蛇の観た夢 ★
<オープニング>

 銀幕市の片隅に出現した巨大なピラミッド。
 それは、銀幕市民たちの好奇心と冒険心に応え、スリルに充ちた冒険の場を与えてくれた。ピラミッドの探検に参加したものたちの中には、いくばくかの財宝を手にしたものもいたという。
 だが……
 探検隊の冒険譚は、この騒動の序章でしかなかったのである。

  愚かにも禁忌を冒せしものどもよ
  王の怒りが命ずるまま、死の翼にふれるべし――

 どくん、と、ピラミッドがふるえたかのような、錯覚があった。
 そして、人々は、ピラミッドより解き放たれたさまざまな脅威が、街を脅かしていることを知ったのである。



 * * * * *



 ――どうして、わたしは、こうなのか。
 どうして、みなは、ああなのか。
 どうしてわたしは、みなのようにはなれないのか。

 わたしはわたしでしか、いられないのだろうか。
 どんなにのぞんでも、みなのようには、なれないのだろうか。

 ――かなしい。
 わたしは、かなしい。

 けれど、わたしがかなしんでいても、だれもわかってはくれない。
 わたしは、かなしい。
 だれともふれあえぬわたしが、かなしい。

 なぜならわたしは、はじめのながれからうまれたひとつのもの。
 ふたつあることはできぬもの。

 けれどわたしは、ひとつであることがかなしい。
 どうすれば、わたしも、みなのようになれるのだろう。
 みなのように、なりたい。

 ――そうだ。
 ならば、わたしはわたしをつくりかえてみよう。
 もう、わたしをわたしではないものにかえてしまおう。
 そうすれば、きっと。
 わたしもきっと、みなのように、なれるにちがいない。

 わたしでなくなったわたしならば、みな、ほほえんでくれるにちがいない。
 ああ、それは、どんなによろこばしいことだろうか。



 ――ピラミッドが鳴動したその日、その時、悲痛にして哀切なる『声』を聞くことが出来たものは、多くはなかった。


 * * * * *


 『それ』が顕れたとき、偶然にも――周囲の人々にとっては幸運にも、かもしれない――、唯瑞貴(ゆずき)と真禮(シンラ)はその場に居合わせた。そして、『それ』の顕現を目の当たりにしたのだ。
 場所は、ムービーハザードたるピラミッドや砂漠が現れた地域から、わずかに数百メートル離れただけの、小さな、しかし綺麗で雰囲気のいい緑化公園だった。
 ふたりはちょうど、お互い仕事が休みだったので、今回実体化したピラミッドと、それを含むエジプトの文化、神話などについて語り合っていた。唯瑞貴にせよ真禮にせよ、彼らの出身映画や世界観は、この世界の神話や寓話をもとにして創られてはいるが、エジプト文化とはほとんど無縁なのだ。
 興味を駆られた唯瑞貴が衝動買いしてきた、エジプトの神々に関する大きな本をベンチに広げ、いい年をした男ふたり、昼日中に、エジプト神話について静かに盛り上がってると、唐突に世界が――まちが震えた。
 唯瑞貴の近くで寝転がっていたオルトロスが、ふたつある首をもたげ、空気の匂いを嗅いで、低く唸る。
 唯瑞貴と真禮は、神名を表すヒエログリフから視線を上げ、周囲を見渡して、鮮やかな色の目を互いに細めた。
「……今、何かが、『始まった』な」
「ああ。臓腑の奥底が冷えるようなこの感覚……神威の一種か。タイミングから考えて、ピラミッドの方で何かあったと考えるのが妥当かな」
「大気に潜む怒りを感じるぞ。ファラオの墓に不用意に踏み込んだものには王の呪いが降りかかったとも聞く。――おおごとにならねばよいが」
 様々な奇跡が起きるこの銀幕市では、それと同じくらいの事件が起き、同じくらいの危険が渦巻いている。
 無論、それらの危険を軽く吹き飛ばす程度には、個性的に規格外な人々がひしめいているのも事実なのだが。
「……真禮」
 ピラミッドのある方角を見やったあと、視線を戻した唯瑞貴は、公園の一角に、何か不可解なものがたたずんでいる、もしくはわだかまっていることに気づいて真禮を呼んだ。
「どうした、ユズ」
 唯瑞貴と同じくピラミッドの方角を見つめていた真禮は、唯瑞貴の声に首を巡らせ、そして、それに気づいた。
「あれは……なんだ?」
 位置的に言えば、公園の中央に近い。
 公園はこの辺りの憩いの場であるらしく、ここには十数人の人間たち、親子連れや恋人同士らしき人々の姿があったが、世界が震えたような先刻の感覚のあと、不安げに――不思議そうに、周囲を見渡していた彼ら彼女らもまた、公園の真ん中に顕れた『それ』に首をかしげていた。
 ――そこには、ヒトらしきものの姿があった。
 しかし『それ』は、決して、ヒトではありえぬ姿をしていた。
 それがヒトであるとしたら、恐ろしく狂った造作と言うしかなかった。
「エジプトの、神々、か……?」
 かたちとしては、ヒトとそれほど違いはない。
 頭があり、首があり、肩や腕があり、胸や背中があり、腕や脚がある。
 それだけを重要視するのなら、『それ』は確かにヒトだ。
 だが、『それ』は、肩に、腕に、胸や腹に、背中に、脚に、様々な顔立ちをし、色鮮やかな装身具をつけた人頭を埋め込まれていた。
 否、埋め込まれているのか、張り付いているのかは、よく判らない。
 ただその頭、首よりも上のそれらは、確かに『生きて』いるようで、めいめいに、己が存在を誇示するがごとくに、よく判らない言葉を口々に唱えている。それらは難解だったが、何よりも、美しく静かなその口調が、かえって寒々しさを助長しているのだった。
 息を呑んだ人々が、我が子や恋人を庇うように腕を回し、そして一歩下がる。
 唯瑞貴と真禮は、反対に一歩踏み出した。
 オルトロスが低く唸りながら唯瑞貴の隣に立つ。

《われは、ブバスティスの女主人。われは、アトゥムの娘、ラーのウジャトの目》

 腹の中央に埋まった、首こそ人間のものだが、虎斑の雌猫の頭に白い鬘(かつら)を装った顔が、およそ感情というものの感じ取れない声で言う。
 『彼女』がそう言うと同時に、『それ』の周囲で激しい風が渦巻き、『それ』の一番近くにいた人間の青年を、彼に悲鳴を上げる暇すら与えずに、『それ』の中へ吸い込んでしまった。
「きゃああああぁあぁ――っっ!!」
 彼の恋人であるらしい娘が、甲高い悲鳴を上げる。
 それを皮切りに、公園にいた人々が悲鳴を上げ、我先にと逃げ出そうとしたが、

《われは、水の主人。われは、ふたつの国に、生命を与える澄んだ水をもたらすもの。われは、神々と人間の父母にして、国の乳母》
 本来の位置にある頭部、鬘の上に『北ナイル』と『南ナイル』を区別する紋章植物で出来た被り物を被った男性の顔が言い、
《われは、ヌンから出現する大きなロータス。われは、セフメトの息子、敵を貪り食うライオン。われは、魂を裁くもの》
 右肩から生えた首、二本の羽毛が聳(そび)え立ち、メナトと呼ばれる飾りが垂れ下がるロータスの被り物を被った男性の顔が言い、
《われは、光線。われは、天空の四つの風の主人。われは、その息で天空を上げるもの》
 背中に張り付いた首、横向きの駝鳥(だちょう)の羽毛を鬘に挿した男性の顔が言い、
《われは、洪水を引き起こすもの。われは、瀑流の女主人。われは、ヌビアの女主人》
 胸の中央に張り付いた首、二本の羚羊(レイヨウ)の角がついた白い冠を被った女性の顔が言い、
《われは、静寂を愛するもの。われは、西方の貴婦人》
 右腕から生えた首、『ウラエウスの蛇』たちが帯状に装飾された円形の被り物を被った女性の顔が言い、
《われは、白きもの、南の冠。われは、上エジプトの宮殿の女主人。われは、砂漠の谷の女主人》
 左腕から生えた首、禿鷹の頭に上エジプトの冠を被った女性の顔が言い、
《われは、肥沃な土地の女主人。われは、ふたつの国を養うもの。われは、運命の腕》
 右大腿の真ん中から生えた首、太陽円盤と羽毛とを頭部に戴く蛇の姿をした女性の顔が言い、
《われは、文書を司るもの。われは、図面の女主人。われは、紙の書物の家を司る》
 左大腿の真ん中から生えた首、七弁の星状の花びらと、半月形に置かれた一対の角によって成り立つ不思議な頭飾りをつけた女性の顔が言うと、

 びゅう、お、おおおおおおっ!

 またしても激しい風が巻き起こり、一切の抵抗を許さずに、公園にいた人々を何人も何人も『それ』の中へと吸い込んでしまった。その場から逃れようとして逃れられたものはなかった。
「……これは、一体……」
 しんと静まり返った公園の一角で、眉をひそめ、唯瑞貴がつぶやくと、
「オレに判るはずがなかろう」
 不可解かつ不気味な『それ』から視線をはずすことなく、真禮が肩をすくめる。
「食った、わけでは、なさそうだが」
 真禮がそう言うのは、吸い込まれた人々の気配を、生きたものとして捉えることが出来るからだ。彼ら彼女らは、まだ、あのよく判らない存在の中で、彼ら彼女らとして存在している。
 だが、それもいつまで続くのかは判らない。もしかしたら、次の瞬間には、跡形もなく消化されてしまうのかもしれない。
 油断も、予断も許さぬ状況であることは確かだった。
 どうする、と、唯瑞貴が言うよりも早く、轟と吼えたオルトロスが『それ』に向かって突進した。危険なものと認識したのかもしれない。
 岩石をも砕くオルトロスの牙と顎にかかっては、ヒトの頭などスナック菓子も同然だ。
「オルトロス! 無闇に仕掛けては、お前も、中の人間たちも危険、」
 だ、と、唯瑞貴が言い終わるよりも早く、『それ』に激突しかけたオルトロスが、激しい力で弾かれ、キャイン、という仔犬のような悲鳴とともに地面に墜落した。すぐに跳ね起き、『それ』から距離を取ったものの、相当な衝撃だったようで、血のような色をした四つの目には、明らかな警戒が揺れている。
「……ふん?」
 つぶやいた真禮が、無造作に両手を打ち合わせると、彼の周囲に数十本のナイフが浮かび上がった。
 妖幻大王真禮は、鉄と鋼と炎を司る半妖半神なのだ。
 周囲から鉄分を集めて、自らの身の内で刃と変えることなど容易い。
「行け――打ち砕け」
 長い指が、『それ』を指し示すと、ナイフは射放たれた矢のような速度で不気味な生きたる神像へと襲いかかったが、それらはやはり、
「ふむ。物理攻撃は、効かぬ、か……?」
 『それ』の身に届くほんの少し手前で、火花すら散らして弾かれ、虚しく地面を転がって、やがて跡形もなく消えていった。
「では、やはりこれは、あのピラミッドから顕れた神々、ということなのか。だが、何故こんな、いくつもの神が融合してしまっているんだ?」
「オレに訊かれても答えられんぞ。オレはそなたよりもこの手の話には疎いのだ」
「……あの、腹の真ん中に張りついた女神は、多分バステトだ。さっき見た限りでは、これに書いてあった。ブバスティス地方で信仰された、人身猫頭もしくは人身獅頭の女神で、王家の守護神だ」
 大きな、エジプト神話解説本を指差して唯瑞貴が何気なくそう言ったときのことだった。

 ああ、にげてしまう!

 誰かの、何かの、哀しげな声が聞こえたような気がして、ふたりは周囲を見渡したが、自分たち以外の誰かを認めることは出来なかった。
 ――しかし、変化は起きた。
 唯瑞貴の言った女神、王家の守護神として崇められたバステトが、『それ』の身体からするりと抜け落ち、完全な人身猫頭の神として地に立った後、ふたりににっこりと笑いかけて……消えた。
 同時に、女神の抜け落ちた腹の穴から、『それ』の中に吸い込まれていたひとりが、転がるように……吐き出されるように飛び出してくる。
 最初に吸い込まれた青年は、何があったのか判らない、という表情をしていた。
「……神というよりは、神の概念か。神の概念を何らかの方法で『力』のみの存在にし、凝らせて、かたちにしているのか。それが、神名を呼ばれたことによって目覚め、開放された、と?」
 あまり自信はないようだったが、答えらしきものを唯瑞貴が導き出すと、真禮は『それ』を睨み据えたままで言った。
「しかし、それはつまり、『核』となる存在がいるということになるな。――ならユズ、そなたはその神名とやらを探り出せ。すべて判れば、吸い込まれた人間たちも解放されよう。そのあとに、何が出てくるかは判らぬが」
「待ってくれ、エジプトに何体の神々がいると思っているんだ。私の知識など付け焼刃もいいところなのに、残り八体の神々を、余すところなく探し出せるはずがない」
 言いつつ、唯瑞貴の手は、事典のページを繰り、文字を追っているが、なにぶん数百ページに及ぶ分厚い解説書である。なかなか思わしい成果は上がらない様子だった。
 と、なれば、ふたりが思いつくのはひとつしかない。
「……また誰かに協力を要請するか」
「それしかないであろうな。そなたが行け、オレはヤツを抑えている」
 観れば、いびつな神は動き出そうとしていた。

 もっと、もっと、たくさんひつようだ!

 誰かが、何かを望む声がした、ような気がする。
「済まぬが……行かせてやるわけには、ゆかぬ」
 その周囲で、金の光が散る、瑠璃色の炎が渦巻き、『それ』を押し留めた。
 『それ』は動けぬ様子だった。
「やはり……魔法による干渉は、可能か」
「なら、魔法が使えるものが望ましいかな」
「いや、必要ならオレの言霊を貸してやる。まずは、神名を解明できるものを優先的に呼んだ方がいい。オレは彼奴を止めることはできても、開放することは出来ぬからな」
「判った。……では、少し待っていてくれ、すぐに戻る。オルトロス、お前は真禮の身を守れ」
 言うや否や、唯瑞貴は身を翻して走り出した。
 真禮を案ずる気持ちがないわけではなかったが、彼が、自分などに案じられねばならぬほど無力な存在ではないことも理解しているし、抑えると言った以上、彼が己が責務を全うするだろうと信頼していた。
 ならば、唯瑞貴は、一刻も早く助っ人を連れて戻るだけでいい。
 幸いにも、このまちには、たくさんの知識と力と技術を持った人々がいる。
 きっと、すぐに何とかなるだろう。

 もっともっとひつようだ、わたしをつくりかえるために。

 飛ぶように奔る唯瑞貴は、脳裏のどこかで、そんな声を聞いたような気がしたが、それが何のことなのかは判らなかった。
 そして、いびつな神の奥底で、切ない願いを秘めたなにものかが蠢いていたことも。

種別名シナリオ 管理番号114
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さんこんにちは、イベントに乗っかって新しいシナリオのお誘いに参りました。

今回のシナリオでは、なにものかによって取り込まれたエジプトの神々の名を探り当てていただき、神々を開放していただきたいと思います。

神名に心当たりがない、ファンタジー世界出身でこの世界の神話は知らない、などの方は、真禮とともに『神』の足止めを行ってくださっても構いません。魔法が使えない方には真禮が『言霊』をお貸ししますのでご心配なく。

なお、プレイングを出していただくに当たって書いていただきたいことは最大三つです。
1.(お判りの方は)捕らわれた神の名前。一体だけ、判るだけでも構いません。
2.『神』の足止めをなさる方は、お好きな呪文、お好きな魔法をチョイスしていただければと思います。もちろん、犬井に捏造をお任せくださっても構いません。
3.そして、余力がおありでしたら、『神』の『核』となっている何者かについても言及していただければと思います。『それ』と対峙したとき、どうなさるかも。


それでは、皆さまのご参加をお待ちしております。

参加者
ルカ・へウィト(cvah8297) ムービースター 女 18歳 エクソシスト
バロア・リィム(cbep6513) ムービースター 男 16歳 闇魔導師
片山 瑠意(cfzb9537) ムービーファン 男 26歳 歌手/俳優
ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
斑目 漆(cxcb8636) ムービースター 男 17歳 陰陽寮直属御庭番衆
<ノベル>

 1.偉大ないびつ

 彼らが公園に辿り着いたとき、空はどろりと濁った沈鬱な雲に覆われ、おうおうと不気味な唸り声を上げていた。
 風はぬるりと生暖かく、まとわりつくような薄気味悪さで、しかし何故か鈍い哀しみを空気中に含んでおり、ざわざわと不安げにざわめく周囲の植物からも、奇妙に色褪せたような印象を受ける。
 不可解な空間がそこには出来上がっていた。
 だが、わずかに視線をずらせば、そう遠くない位置に、いつもと変わりのない、鮮やかで明るい青空を見ることが出来る。
 あまりにも不自然で、狂おしいほど胸に痛いコントラストだった。
「……あの神さまの力、ってことなのかな?」
 昨年の冬に地獄で手に入れた意志ある魔剣・天狼剣を片手に、深い紫色の双眸を細めて不気味な『神』と、それを押し留めるべく、高濃度の神威を含んだ瑠璃炎を展開している真禮を交互に見やり、片山瑠意が言うと、
「それ以外には考えられないよね。大気にスピリチュアルな力が満ちているのが判るもの。でも、一体、何が目的で顕れたんだろう……?」
 猫耳フードに包まれた首をかしげてバロア・リィムが応えた。
 その隣で、妖幻大王真禮の瑠璃炎によって動きを阻まれている『神』を見つめたブラックウッドが、黄金の理知的な眼差しにわずかばかりの疑念を載せてつぶやく。
「もしくは、『神』の内部にいる何者かの力なのかも知れないね、これは」
「『核』ですか。神々の力をひとつにまとめている、っていう」
「うん……確かに。僕にも、『中』に何かいるのは判るよ。この世界の神話はさっぱりだ、って以前に、表の神さまたちの気配にかき消されて、はっきりと感じることは出来ないけど」
「私もだよ、バロア君。まずは、表に出ている神々を開放することが先決ということかな」
「うん、そうだね。僕は異世界ファンタジー出身でそういうのさっぱりだから、真禮さんと一緒に足止めをするよ。ってことで、ブラックウッドさん、瑠意さん、あとよろしくー」
 あっけらかんと言うや、ひらひらと手を振ったバロアが、真禮の硬質的な背中へと歩み寄って行くのを苦笑交じりに見送って、瑠意とブラックウッドは顔を見合わせた。
 真禮を守るように寄り添っていたオルトロスが、近づいてくるバロアに太い蛇の尻尾をパタパタと動かしていた。
 同時刻に依頼を受けた彼ら三人は、少し前、共に、心の疵を抉る悪夢と戦い、自身をかたちづくる『疵』と、わずかなりと決着をつけた間柄だ。同じ場所で、同じ時に、同じように『疵』と向き合ったという奇妙な親近感は、今、確かに信頼関係となって彼らに根ざしている。
 バロアが『神』の足止めをしてくれるというのなら、ふたりは、心置きなく神々について考えることができるだろう。
「……いくつかは、予想がついているんですが」
「私もだよ、瑠意君。私はそもそも、師匠がエジプト出身の方だったからね。エジプトの神名に関しては一日の長がある、と自負しているよ」
「ブラックウッドさんって、今、おいくつでしたっけ?」
「……さて。確か、千歳は超えたと思うのだけれども」
「あー……あれ、こないだどこかで二千歳とか聞いたような気も……?」
「おや、そうだったかな。年を取ると物覚えが悪くなってねぇ。しかし、それがどうかしたかね?」
「いや、二千歳超えてるブラックウッドさんのお師匠なら、明らかにB.C.のお生まれですよね。だったら、リアルでエジプト文明の隆盛と衰退を見てこられたのかなぁと思って」
「よく知っているね、その通りだ」
「当たったのは嬉しいけど、想像がつかないなぁ……」
 瑠意は小さく溜め息をついて、天狼剣をベンチに立てかけ、唯瑞貴が置いていったらしい大きな本をぱらぱらとめくった。何千年という時間は、自称ではあるが平凡な一般銀幕市民の瑠意には途方もなさ過ぎる。
 ブラックウッドはそうだねぇ、などと穏やかに微笑していたが、ややあって、公園の一角に涼を与えてくれる、瑞々しい木々へと金眼を向けた。
 この不可解に沈鬱な空気によって、樹齢三十年から五十年ほどのそれらは、項垂れているかのような錯覚すら覚える。新緑の美しい季節なのに、淡い黄金をまとったやわらかな若葉たちは、どことなく灰色めいて感じた。
 その、木の陰へ向かい、ブラックウッドは微笑とともに声をかける。
「そこの君も、我らと同じ目的でここに来たのだろう。取って食べたりはしないから、隠れていないでここへ出て来ないかね」
「え、誰かいるんですか? 俺には何も感じられなかったけど」
「ああ、わずかに翳の匂いがした。あの匂い、あの感覚は、日の当たる場所に生きる者には判らないだろうね」
「……すみません」
「謝ることではないよ。それはとても喜ばしいことだと思う。君の魂が、『疵』にも関わらず、常に光と前を見つめている証明だから」
 瑠意が訝しげに見つめる中、魅惑のベルベット・ヴォイスと時に称されもするブラックウッドの声は大きくもないのによく響き、それを聞いてのことなのだろう、木陰の向こうで、誰かが苦笑する気配がした。
「極限まで存在抑えてたつもりなんやけど……気取られるとは、まだまだ俺も修行が足りんてことかな。それとも、旦那さんがただものやないてことなんやろか。――申し訳ないんやけど、俺、芯から草の者なんですわ。恥ずかしがり屋さんなもんやさかい、そちらへは行けませんが、怒らんといたってくださいな」
 やんわりと、飄々と響いた声は少年のものだ。
 木陰の向こう側に、ほんの一瞬、狐面を被った忍装束の少年の姿が現れ、すぐにまた影の中へ掻き消える。同じ目的のためにここへ来たのだとしても、馴れ合うつもりはないらしい。
 少年の様子に、ブラックウッドと瑠意は微苦笑した。
「ならばせめて、名だけでも聞かせてもらえないかね。私はブラックウッド、ムービースターだ。あそこにいるのはムービースターのバロア・リィム君と真禮君。そしてこちらは片山瑠意君、ムービーファンだが、町の者たちは皆、それを疑っているようだね」
「一片の疑いもなくムービーファンですよ、ブラックウッドさん」
 溜め息をついた瑠意が訂正すると、少年はかすかに笑ったようだった。
「存じ上げてます、旦那さん方。皆さん、銀幕ジャーナルでご活躍の方ばっかりやさかい。俺は漆、斑目漆言います。陰陽寮直属御庭番衆筆頭……言うても、お判りにはならんかな」
「ん、おや、そうか。君は先のチョコレートキング騒動の際、かの少尉殿の元で陽動作戦に携わってくれたひとりか。私はかのいびつなる王城へ潜入したひとりなのだけれど、君たちの働きのお陰でずいぶん楽をさせてもらったよ」
「ああ、そうでしたか。その節はどうもお疲れさんでした、お役に立てれば何よりです。――それはそうと、旦那さん方もあの『声』を聞いてここへおいでになったんですか」
「『声』?」
「いや……我々は、唯瑞貴君から依頼を受けてここに来たのだけれども。その、『声』とは一体?」
「……いえ、違うんならええんです、忘れてください」
 それきり、漆は黙った。
 ふたりも追求は諦め、『神』へと視線を戻す。
 『神』は口々に何事かを呻きながら、なおも前進しようとぎくしゃく動いていた。昆虫めいた、寒気がするような不自然な動きだった。
 周囲を包む空気がぞろりと重くなる。
 そこには、ひどい悲嘆、ひどい苦悩が含まれているように感じられた。
「なんだろう……身体が重くなった気がする」
 瑠意がぽつりとつぶやいた。
 そこへ、
「ちょっと待った! 皆っ、僕もまぜてよ!」
 場違いなほどに明るく元気な声が響き、
「ほら唯瑞貴さん、早く早く!」
「判ったから、ひとまず腕を放してくれ、ルカ。あまり強く引っ張られると転びそうだ」
 少年のような闊達な雰囲気を持った少女と、この事件の依頼主である唯瑞貴とが公園へと入ってくる。少女はどこか楽しげに、唯瑞貴の腕に自分の腕を絡ませるようにして彼を引っ張っていた。
 ブラックウッドが破顔する。
「……遅かったね、唯瑞貴君」
「ああ、すまない。もう少し人員がいた方がいいのではと思って追加メンバーを募っていたんだ」
「僕、ルカ・ヘウィトだよ。唯瑞貴さんのお願いじゃあ断るわけにはいかないから、頑張るよっ。ってことでよろしくね、皆!」
「そうか……それは重畳」
 ゆったりとうなずき、ブラックウッドは瑠意と確認の視線を交わす。
 瑠意が小さくうなずいた。
「では、始めようか。被害がこれ以上大きくならぬうちに」
 静かに、しかし重々しく告げるブラックウッドの手には、いつの間にか、美しく輝くエメラルドの板がある。昨年末、地獄で行われた忘年会にて、魔王陛下が土産にと開放した宝物庫で手に入れた、錬金術の奥義書である。
 【三度素晴らしきもの】ヘルメス・トリスメギストスが著したとされるこのエメラルド・タブレットに、“こは偽りなき真実にして、確実にして極めて真正なり”、そんな文言が刻まれていることを、ブラックウッド以外に知る者はいただろうか。
「……まずは、自分に出来ることを」
 瑠意がつぶやくと、うっすらと輝く美しい緑を黄金の双眸に映しつつ、ブラックウッドは艶然と微笑み、うなずく。
 それは、彼にしてみれば、本領発揮、とでも言うべき場面だったのかもしれない。



 2.【門】を開き、心を嘆く

 バロア・リィムが近づくと、妖幻大王真禮は、右手を中空にかざしたまま、『神』を見据えたままで、
「……光と闇、双方の匂いがするな」
 そうつぶやくと、頭(こうべ)を巡らせてバロアを見つめた。
 そして、瞳孔が縦に切れた瑠璃色の目を細める。
「おや……バロナか。久しいな、息災か?」
「久しぶり、元気だよ……って言いたいとこだけど、バロアだからね、バ・ロ・ア。そこんとこ気をつけてくれるとありがたいな」
「ふむ、そなたがそう言うのなら気をつけよう」
 しばらく前に巻き込まれた事件の、とてつもなく嫌な記憶を引きずり出されそうになって、秒殺の勢いでバロアは訂正する。
 真禮に悪気がない分、更にタチが悪い。
「……まぁいいや、それで、どんな感じ? 僕も手伝いたいんだけど、出来ればその言霊っての、貸してほしいんだよね」
「そうだな、恐らく神々同士の調整がつき切っておらぬのだろう、まだ本格的に、全力で動き出してはいないようだ。何せ、半妖半神ごときオレにこうして足止めされているのだからな」
「ごときって、半分神さまってだけでもすごいと思うよ?」
「そうか、ありがとう……と言いたいところだが、それも時と場合によるな。あれが完全に調整を終えて、本気で動き出しでもすれば、オレごときにはもう止められぬ。あれはそれだけの神威を含んだ存在なのだ」
「確かに、厄介そうな奴だってことは僕にも判るよ。中に巨大な神威が渦巻いていることもね。封印系の魔法とか、弱体化の魔法とか、あれに効くかな。効くんなら使ってみるけど」
「効くだろうな。特に、存在そのものを揺り動かすような類いのものならば。言霊を貸すのか? オレは別に構わぬが、しかしそなた、話によると闇魔導師ではないのか?」
「や、そうなんだけど、使うと嬉しくない反動が来るんだよ。真禮さんに言霊借りられたら、そのエネルギー横流しして魔力に変えられるからね。楽して魔法使えるんなら、それに越したことないじゃん」
 あっけらかんとバロアが言うと、真禮はかすかに声を立て、愉快そうに笑った。それから、長い指先で、ほんの少し、バロアの額に触れる。

「――原初の霊郷より来たれ、深遠なるコトノハよ」

 牙の覗く唇が、静かに言葉を紡ぐと同時に、バロアは、自分の身体の中に、強いエネルギーが宿ったことを理解した。
「へえ」
 両手の甲に、光る文字が浮かび上がっているのを確認しながらバロアはつぶやく。まったく異なる世界の学術文字か何かだからだろう、読めはしなかったが、それが神聖な、力ある言葉であることはバロアにも判る。
「いいね、この高揚感。高密度のエネルギーが満ちてる。これなら……反動を心配せずに魔法を使えそうだ」
 バロアの独白に苦笑し、
「なら、早速で済まぬが、変わってもらえるか。さすがに、神炎結界を長時間に渡って維持し続けるのは、少々堪える」
 言った真禮の、青い角の突き出た額に、玉のような汗がにじんでいることに、バロアは今更気づいた。
 声の調子がまったく変わらないものだから、気づけなかったのだ。
 しかし、考えてみれば、『神』が発生してから、恐らく三時間ほどが経過している。その間、ずっと『神』を押し留めるべくあのレベルの結界を展開し続けていたのだとしたら、消耗していたとしても不思議はない。
 全知全能に近い地獄の魔王や、ムービーハザード一歩手前と称するのが相応しい『楽園』のレーギーナとは違い、妖幻大王真禮は、どちらかといえばヒトに近い神属の存在だ。エネルギーは無尽蔵ではなく、身体はアストラルよりも肉の器に縛られている。
 バロアは肩をすくめてうなずいた。
「お疲れ様、じゃあしばらく交替するから、僕がダウンするまで体力回復させといてよ。多分、もうちょっと頑張ったら、あっちの皆が何とかしてくれると思うけどね。オルトロス、悪いんだけど真禮さんのガードよろしく。多分そっちにまで気を回せないから」
 蛇の尻尾をパタパタ振ったオルトロスが、わんと応えてから真禮に寄り添う。額の汗を拭いながら、真禮が微笑するのを確認して、バロアは『神』のたたずむ方向へ一歩踏み出した。
 真禮の瑠璃炎から開放された『神』は、ゆらゆらと不気味に揺れていたが、ややあって、また、何事かを口々につぶやきながら、前へと踏み出そうとした。やはり、どこかへ行くつもりでいる。
「悪いけど。銀幕市に、町の人間に害を与える無粋な神さまは要らないんだ」
 公園を包む、重苦しい、悲嘆をはらんだ空気を、バロアもまた感じていた。そしてそれが、恐らく、目の前で蠢く『神』の漏らすものなのだろうということも理解していた。
 『神』は何かを嘆き、何かを望んでここにいる。
 それでも、バロアは、このいびつな『神』を、近しい人々がいる銀幕市に解き放つわけには行かない。

『抑制の六、禁域の八、封神の十。可神領域にて奮えよ、琥珀花と九色虹の勇み子よ。そは静寂の担い手、禁樹の七枝、紫雲海の不変神悧なり』

 両手を前に突き出し、空気をかき混ぜるかのようなゆったりとした手つきで印を切りながら、バロアは強い魔法を紡ぐ。
 しかしそれはバロアが長年研究してきた闇魔法ではない。
 幼い頃から慣れ親しんできた光魔法の中でも、特に組み立てが難解な、【門】の魔法と呼ばれる、対大魔、対神属用の封じ魔法で、かの懐かしき学び舎では、これを使い得たのはバロアと大神官くらいのものだった。

『宇珀の漣に停止せよ、聖白銀の小枝に、瑠璃鳥が休める翼のごとくに』

 光文字の浮き出た手で、バロアが『神』を指し示すと、彼の身体から白銀の、波か翼を髣髴とさせるエネルギーが、間欠泉のごとくに吹き上がる。
 幻想的に美しい、不可触の波は、ざああ、というかすかな音を立てて流れ、『神』を包み込んで、今まさに動き出そうとしていた『神』の足を完全に止め、沈黙させた。
「……ひとまず成功、かな……?」
 早鐘のように打つ心臓をなだめながらバロアはつぶやく。
 真禮の言霊を借りたお陰で、バロア自身に呪いめいた反動が来ることはなかったが、真禮の言霊があってもなお、【門】の魔法は、バロアの身体に疲労という不具合を強いていた。
「まぁ、前に一度使ったときは、冗談じゃないくらい肺が血を噴いたからな。マシな方だろう」
 わずかばかり過去の口調に戻ってつぶやいた後、額の汗を拭い、バロアは『神』に向き直った。【門】の魔法が展開されているからといって安心してはいられない。
「……あの規模の魔法を喰らってもう動く、か。徐々に調整が済みつつあるようだな。そして、力の使い方を理解しつつある」
 真禮が言うとおり、『神』が完全に停止していたのはわずかに数分のことだった。
 バロアの魔法によってエネルギーを抑えられた『神』は、確かに弱体化し、いびつにがくがくと震えながらも、不可触の封印を少しずつ振りほどき、自由になろうとしていた。
 その『腕』の強靭さは、やはり人間やヒトに属する存在の追随を許さない。

 ――じゃまをしないでくれ!

 悲痛な、必死な、そんな声が聞こえたような気がした。
 そして、それと同時に、『神』の周囲に黒い何かが複数現れ、低い唸り声を上げた。
 はっきりしたかたちを持たない、ぐにゃぐにゃと薄気味悪いそれらは、しかし、強大な存在しか封じられない【門】の魔法を通り越して、確かに地面に地をつけて立っていた。
 その敵意が自分たちに向いていることに、もちろんバロアは気づいていた。
「これは、表面に出ている神さまたちの力じゃないな。……あれの中に、一体何がいるんだろう?」
 何にせよ、敵意とともに襲い来るものがいるのなら、バロアは受けて立つだけだ。我が身の安全を顧みると同時に、何も知らずに平穏な暮らしを続けている、親しき隣人たちのために。
「……さて、なら、次はどの手で行こうかな……」
 つぶやき、有効な魔法を思案するバロアの耳に、
「手伝うよ、バロア!」
 場違いなほど明るく、威勢のいい声が響いた。
 次に、バロアの視界に飛び込んできたのは、花見の折に知り合った少女、ルカ・ヘウィトだ。やたらとテンションの高い、元気一杯の少女だが、出身映画では随一の腕利きエクソシストであったというから、ありがたい助っ人というところだろう。
「ありがと、ルカ。頼りにするよ」
「うん、任せて! ちょっと、いいカッコする必要があるからね」
「いい格好って?」
「ん? えへへ、なんでもない」
「ふうん?」
「……オレも、何とか行けそうだ」
 更に、バロアの隣に、ようやく汗の引いた真禮が並ぶ。
 ぶよぶよした黒いわだかまりは、少しずつ、『神』の周囲を取り囲みつつあった。
「あれは闇? それとも混沌? ――ひどい哀しみを感じる」
 ルカがポツリとつぶやいた。

 ――かなしい、かなしい、かなしい。

 誰かの声が聞こえたような気がした。
「……今のは、誰……?」
 無論、ルカの問いに答えられる者がいようはずもない。

 ――さびしい

 小さな小さな、消え入りそうな声。
 誰もがハッとなるような、胸をぎゅっと掴まれるような、悲痛な声だった。
 その声とともに、また、『神』を取り囲む黒いぶよぶよが増えてゆく。
 敵意は今や、殺意へと変わりつつあった。
「でも」
 つぶやいたルカの手には、美しい、大きなアメジストが握られている。
「どんなに哀しいのだとしても。孤独がどんな苦しみをもたらしているのだとしても。――『彼』に独りを寂しがる心があるのだとしても」
 ルカの、手の中の宝石と同じ、鮮やかな紫色をした美しい双眸には、強い悼みと、同等の決意とが輝いていた。
「それが誰かを傷つけるのならば、許すわけには行かない」
 ぎしし、と唸った黒闇が、ひとつ、こちらへと突進してくる。
 牙も爪もない、ただのぶよぶよとした塊であるはずなのに、本能の奥底が、壮絶なる危険を叫ぶ。異様なその存在が、確かに死を撒く存在であるのだと、魂の奥底が理解している。
 ルカはほんの少し瞑目し、そして、
「遊んでおいで、シア!」
 手にした紫水晶を、空高く放り投げた。
 その瞬間、鳥のように空を舞った紫水晶から、黄金光をまとった稲妻がほとばしり、光る鞭となって、こちらへ突進してくる黒闇と、『神』の周囲にわだかまる黒闇、その双方に襲いかかる。しゃりしゃりと、水晶のかけらを擦り合わせるような、涼しげな音が周囲に響いた。
 不可思議な、しかし美しい魔の業(わざ)だった。
 稲妻に打たれた黒い闇は、悲鳴も断末魔の絶叫もなく、地面に叩きつけられた氷が砕けるような容易さで粉々になり、じわりと溶けて消えていった。
 後には、重い哀しみだけがたゆたっていた。
「君が、心を持っていることが、嬉しい。だけど、それが、哀しい」
 誰にともなくつぶやくルカの目に、戦いの場にあるまじき苦悩の色を見出して、バロアは苦笑する。
 高い戦闘能力とは裏腹に、優しい、弱さとでも言うべき思いやり深い心を持った少女なのだと、それだけで判る。
「言葉が届きますように。心が通じますように。――もう誰も、無意味に殺さなくて済みますように」
 軽やかに空を舞う紫水晶の下で、黄金の稲妻をまとわりつかせ、祈りに満ちた声が言う。それはどこか、哀歌にも似て切なげだった。
 それでも、眼差しは、意志を失わない。
 紫水晶を制御する指先には、強い力が満ちている。
「頼むから、誰かを、傷つけるな……ッ!」
 優しい少女の、たったひとつの願いを、『神』とその中にいる者は聞いただろうか。
 判断するすべはどこにもない。
 『神』は何も答えず、語らず、ただ、少し震えて、

 ――かなしい、さびしい

 あの、魂に響くような声を漏らすと同時に、また、ぶよぶよとした黒い闇を生み出しただけだった。
 ルカが溜め息をつく横で、バロアは呪文を組み上げる。
 判り合えぬのならば、戦うしかないのだ。

「――……ああ。泣いてはるわ……」
 木陰で戦いと成り行きを見守る少年忍者の、哀しみの含まれたそのつぶやきを、聴き得た者は、いただろうか。

 空気が、一段と、重苦しい哀しみを増した。



 3.知恵の泉より、来たれ

 片山瑠意は、『神』を取り囲む黒闇と、親しき隣人たちとの戦いを、ハラハラしながら見守っていた。
 見守りながらも、ブラックウッドとともに、正しい神名を探す。
 唯瑞貴は、気休めだろうが、などと言いつつ、紅蓮公ゲートルードから拝借してきたという呪具を使い、『神』が公園の外へ出られなくなる結界を張っていた。
 無論それも、本格的に『神』が動き出せば、紙屑のように散らされてしまう程度のものらしいのだが。
 唯瑞貴の呼びかけに応えて、頼もしい助っ人たちが集まったのは事実だったが、事態は何も好転しておらず、むしろ、『神』の調整が済みつつあるという、好ましくない状況へと進みつつあった。
 しかし、だからといって我を忘れて心配するほどこの場に集った人々を信じられないわけでもなく、ブラックウッドの豊富にして潤沢な知識に導かれるように、瑠意は、分厚い神話図鑑を巧みに操って、『答え』を次々に見つけていった。
 まるで湧き出すかのように知識は現れ、次々と言葉になった。
 何かに導かれるかのようだった。
「まず、頭部の神だ。――水の主人とは、すなわち、ナイルの流れを司る者。しかもそれが『澄んだ水』であるのなら、増水期のナイルに相違ないだろう」
「はい。エジプトに生命をもたらす存在であるがゆえに、他の神々もその恵みなしには生きられない。ならば『彼』は、永劫回帰のシンボルたる神」
「肩の神はヌンから出現するロータスか、これは容易いね。『完全に美しくよきもの』、比類なきものだ。花の上の神、植物や香油を司る魔法使いでもある」
「腹の女神が、瀑流、ヌビアの女主人であると名乗るならば、それはナイルの第一瀑流を起源とし、エレファンティンやヌビアで信仰されていた『エレファンティンから来る新鮮な水をもたらすもの』、『エジプトの南の国境を守るもの』でしょう」
「ああ、そうだ。ウジャト、ウアジェトなどと呼ばれる女神と同一視されていたこともある女神だね」
「腰の部分にいたのが、バステト。腕に二柱……静寂を愛するものと名乗るなら、『死者と墓の守護者』で間違いないと思うのですが」
「そうだね、救いの手を差し伸べる調停者、ネクロポリスの住人だ。もう片方の腕におわすのは、『ネヘンの白きもの』、王名の守護者、王冠の後見人たる貴婦人だ」
「背中の神は光線、天空と言っていましたよね。ならば『彼』は、アトゥムの息子であり、テフヌトの夫であり、ゲブとヌトの父親でもある宇宙神」
「ああ、エンネアドの一員であり、大気、命の息吹、生命の根源を司る神だ。魔術的にも、大きな意味を持つ存在だね」
「あとは、脚……『肥沃な土地の女主人』と言うからには実りや収穫や繁栄を司り、またもたらす存在であるはずですよね。だったら、該当する女神は限られてくる」
「そこに運命の腕、という言葉を当てはめれば、疑いようはなくなるだろうね。『すべてのよきものを豊富に与える』ものにして、誕生を司り、人生を定める『運命の腕』だ」
「ああ、なるほど。最後の一柱……文書を司るもの? この女神は、俺には馴染みがないんだけど……」
「そうだね、それほど華々しい神話に描かれた女神ではないから、この国ではあまり知られていないのかもしれない。だが、あの、頭飾りのかたちから、彼女が何者であるかは明白だ。知恵の神トートの陪神、もしくは姉妹、もしくは娘と呼ばれる女神で、数学や天文学の担い手でもある」
「ああ……そうか、これですね。判りました。――何だか、すごいな」
「何がだね、瑠意君?」
「いや、詳細な図鑑があるとはいっても、こんな風にすらすらと神名や言葉が出てくるとは思わなかったから、ちょっと驚いちゃって。何かが俺の口を借りてしゃべってるんじゃないか、なんて思ったりもします」
「そうだね……もしかしたら、それはあるかもしれないよ。今のこの場には、高濃度の神聖なるエネルギーが満ちているからね」
 瑠意の言葉にくすりと笑ったブラックウッドが、深く美しく輝くエメラルド・タブレットを手に、
「さて……では、『鍵』を開くとしようかな。神々が開放されれば、また、新たな局面が見えてくるだろうから」
 『神』へと向き直った、そのときだった。

 ――わたしのねがいを、じゃましないでくれ!

 悲痛な、泣き叫ぶかのような声が響き、

 ――ねがうことすら、わたしにはゆるされぬというのか!

 どこか憤りと苛立ちを含んだ声とともに、鈍い破裂音がして、前方で『神』を押し留めていた、バロアとルカ、真禮とオルトロスが勢いよく後方へ吹っ飛んだ。
「うわあっ!」
 悲鳴が誰のものだったのかは判らない。
 しかし、三人と一匹が、地面にすさまじい勢いで叩きつけられたのは事実だった。
 誰かが息を詰める、鋭い呼気が聞こえてきた。
 オルトロスだけは瞬時に飛び起き、『神』に向かって鋭い唸り声を上げていたが、相当な衝撃だったらしく、ヒトに属する三人は、身動きも出来ずに呻いている。
 空を舞っていた紫水晶が、ルカの手の中へ戻るのが見えた。
 ――『神』は自由を取り戻していた。
 周囲を、目には見えない強大な力が渦巻いていることが、平凡な人間である瑠意にすら判った。
「皆!」
 瑠意は迷わず天狼剣を手に取った。
 唯瑞貴が一足速く、倒れた三人のもとへ駆け寄ったのが見える。
 ちらりとブラックウッドを振り返ると、力強いうなずきと、いつも通りの微笑とが返る。
 それだけで無性に安心して、瑠意は、躊躇わず『神』の前へ――仲間たちのもとへと奔った。銀幕市のために戦って傷ついた友人たちを、放っておくことはできない。
「天狼……メガ・ゲネイオン。大いなる顎(あぎと)よ。俺に、力を貸してくれ」
 つぶやき、鞘を払うと、柄を通じて、天狼剣の力強い答えが返ってくる。
 瑠意は笑って剣を構えた。
 『神』は、黒いぶよぶよを周囲にまとわりつかせたまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。倒れたままの友人たちが、それに巻き込まれたら、と想像するだけでも恐ろしい。

『風は白銀、刃の十全。白は静寂、黒の沈黙。影なき王の名において、詩(うた)は破邪の星になれ。千の鎖が連なって、むせぶ獣を縛するように』

 深みのあるハスキー・ヴォイスが、滔々と、朗々と、不思議な言葉を紡ぎだすと、瑠意の周囲を、白銀の光とともに、強く清冽な風が渦巻いた。
 言葉はどこか、歌に似ていた。
 ――もちろん、片山瑠意はただの人間だ。
 不思議な力に満ちた映画から実体化したわけでもなく、彼は魔法や魔術などという奇跡の力からは遠い。
 だが、彼には今や、天狼剣という相棒がいる。
 その天狼剣がささやくのだ、瑠意の意識に。
 天狼剣の持つ魔力を媒介に、不思議を行使するための、『力ある言葉』を。

『悪神、邪神、迷い神。須(すべか)らく眠れ、天より垂れたる銀牢に』

 瑠意が言葉を紡ぎ終えると同時に、彼の周囲から銀光とともに吹き上がった白い風が、鎖のように連なって、ゆっくりと進む『神』に絡みついた。風は轟々ととどろきながら、『神』の足取りを鈍くする。
 しかし『神』はなおも進もうとし、『神』が身体に力を入れるたび、瑠意の全身が重くなる。『神』が魔法に抵抗することで負荷がかかり、結果、瑠意の身体に負担が現れているのだ。
 額から汗が噴き出す。
「さすがは、神さま……!」
 瑠意は唇を噛み締め、ぐっと足を踏ん張ると、天狼剣の中で言霊が踊り、巡って力となり、呪縛の魔法がより堅固なものになるよう、横向きに構えた天狼剣に意識を集中させた。
 天狼剣が、瑠意の『声』に応えようと発奮しているのが伝わってくる。
 天狼剣が発奮すると、事実、『神』の足取りは鈍った。
 その間に、唯瑞貴が、倒れた三人を引っ張り起こす。
 相当な衝撃でありダメージだったのだろう、三人とも顔をゆがめてはいたが、幸いにも命や身体に別状はないようだった。
「さあ……次は、どうしようか……?」
 天狼剣を構えたまま、誰かに語りかけるように瑠意はつぶやいた。
 『神』はぎくしゃくと身体をこわばらせ、動きを鈍らせてはいたが、やはり、完全に封じ込めるには至っていないのだ。この魔法の効果が切れれば、すぐに動き出し、同じようにあの闇を撒くだろう。
 一体何をどうするのが一番正しいのか、と、瑠意が脳裏で思案していたそのとき、重苦しい空気に満たされた公園を、清冽な、芳醇な風が吹いた。
 脳裏を駆け抜けたイメージは、緑だ。
 そして、それと同時に、
「我は胃に18の霊を宿す者にして、一劫を経てなおも光を希う者なり。神聖にして大いなるIAOの名に於いて、言の葉は鎖と化してここに顕現すべし」
 ブラックウッドのベルベット・ヴォイスが、朗々と響いた。
 その言葉が響き渡ると、ゆるり、ふわりと蝶のように舞った無数の光文字が『神』に絡みつき、完全に『神』の動きを止めた。
 瑠意は深い息を吐いて天狼剣を下ろし、額の汗を拭う。
 振り返れば、ブラックウッドは、渦巻く光文字に全身を照らされながら、エメラルド・タブレットを鮮やかに輝かせている。光文字のひとつひとつから、強大にして神聖なるエネルギーを感じ取ることが出来た。
 光に照らされたブラックウッドは、神々しく美しかった。
 ――『神』は動くことが出来ずにいる。



 4.開錠、蛇の嘆き

 ブラックウッドの指先が、神聖な文字の刻まれたエメラルド板の上をなぞる。 そのたびに、エメラルド・タブレットは淡く美しく輝き、光る文字をブラックウッドの周囲に舞い躍らせた。
 時が止まったかのように静まり返った公園に、壮麗なるベルベット・ヴォイスが染み渡る。
「汝はハピ、ナイルの恵みを与えるもの。汝はネフェルトゥム、絶対的にして、宇宙的なる完璧。汝はシュウ、天空の主人、生命の守護者。汝はサテト、奇跡の水を呼び起こすもの。汝はメルセゲル、喜びと苦しみの審判者。汝はネフベト、九つの弓の民を束ねるもの。汝はレネヌネト、実りと繁栄を与える養い手。汝はセシャト、神の古文書保管者、王の執事」
 滔々と、よどみもせずに湧き出す言葉は、ブラックウッドがこれまでに学び、得て来た知識の集大成たちだ。
 大いなる力を秘めたエメラルド・タブレットによって増幅された言霊は、陰鬱な空気を包み込むような清冽さで、周囲に色彩を思い出させる。

 ――ああ、ああ、ああ!

 悲鳴じみた叫びが聞こえた。
 その瞬間、いびつに融合した『神』から、膨れた腹と垂れた乳房とを持つ両性具有の男性神が、完全なるアントロポモルフ(人身)の男性神が、ロータスの被り物を被った男性神が、矢を手にした女神が、とぐろを巻いた蛇の身体を持つ女神が、禿鷹の頭部に女性の身体を持つ女神が、蛇の頭部に女性の身体、手にはヘカテの松明を持った女神が、書記のパレットと葦の筆を手にした古風な服装の女神が、あふれるように――零れ落ちるように、まるで抑えつけていたものが何もなくなったかのように、するりと、ごくごく滑らかに分離した。
 あっけない、しかし劇的な変化だった。
 そして、神秘的に美しいそれぞれの顔に、感謝とも喜びとも取れぬ表情を浮かべた後、大気に溶けて消える。
 かぐわしい、水と花の香りだけが後には残った。
 ちらちらと、神威の残滓が光を帯びて輝くのが見える。
「かくて我は諸力の根源へ鎖を引き戻し、大いなる者へと至る道筋を閉じん。再び喚ばれし時は、速やかに扉が開かれんことを」
 ブラックウッドが、囚われていた神々が再度囚われることのないようにと、丁寧に神威を『扉』の向こう側へ送り返すと同時に、『神』に飲み込まれていたという人々、先刻まで公園で憩っていた人間たちが、忽然と姿を現した。
 意識を失って、円形に並ぶようにして倒れる彼ら彼女らが、毛一筋分も損なわれていないことを感じ取り、ブラックウッドは安堵したが、それとともに、彼らの中心にぼんやりとした闇がわだかまっていることに気づいてかたちのいい眉をひそめた。

 ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。

 闇はざわめいていた。
 ざわめきには嘆息が含まれていた。

 ――ああ。
 ――わたしをつくりかえるためのざいりょうが、なくなってしまった。
 ――ああ、わたしはけっきょく、わたしでしかいられぬのだ。
 ――けっきょく、わたしは。

 ざわざわとざわめく闇が、わずかな憤りによって攻撃性を帯びたことに気づき、瑠意が表情を厳しくして天狼剣を構えた。バロアと真禮は素早く印を切り、ルカはまたアメジストを握り締める。
 ――だが、誰もが、戸惑っていた。
 黒々とわだかまるそれが、何かをひどく嘆いていることが判るからだろう。
「どうして哀しいの。どうして、そんなに哀しんでいるんだ。どうしてそんなに、自分を作り変えてしまいたかったの」
 朴訥なルカの問いに、黒いそれが答えることはなかった。
 ただひたすらに、重苦しい、絶望や諦観すらはらんだ哀しみだけが伝わってくる。

 ――けっきょくわたしは、ひとにあだなすそんざいでしかないのか。
 ――そうとして、ほろぼされるしか、ないのか。
 ――それをまっとうするいがい、わたしがわたしであることはできぬのか。

 声が陰々とした苦悩をはらむ。
 ざわり、と、敵意を含んで闇がざわめいた。
 しかし、その敵意ですらも、拭い難い哀しみを含んで揺れていた。
「……あれは滅ぼすべきものなのか。滅ぼすしか、ないものなのか」
 周囲に瑠璃炎をちらつかせながら真禮がつぶやき、ルカは答えを探すように紫水晶を握り締めた。
「だけど」
 迷いながらも、折れぬ意志を覗かせて瑠意が言う。
「銀幕市に危険をもたらすものなら、俺は、あれを討つよ」
 彼が構えた剣の周囲を、鋭く凛冽な風が吹いていた。
 すらりとしなやかな長躯を、揺るぎない闘志が満たしている。
 バロアがそうだね、とうなずき、ルカは何かを悼むように瞑目し、真禮と唯瑞貴が黒いわだかまりに静かな視線を向ける。
 ――ブラックウッドには、嘆いているのがなにものなのか、もう、判りかけていた。
 魔術の道を行くものにとって、『彼』は偉大なる存在だ。
 『彼』の嘆きならば、それはすなわちブラックウッドたちの嘆きでもある。
 だからブラックウッドは、他に手がないかと、滅ぼす以外に『彼』を救う手立てはないかと、懸命に思案していた。
 銀幕市に仇なす存在ならば生かしてはおけない。その通りだ。
 だが、どうしても、このまま見捨てたくはなかった。
 何か出来ることを見つけたかったのだ。
 ――そのとき。
「あかんて、旦那さん方!」
 不意に響いた声は、先刻まで成り行きを見守っていた斑目漆のものだった。
 ブラックウッドの視界に、赤いマフラーが翻る。
 いつの間にか、闇と彼らの間に立ちふさがるように、――むしろ、あの闇を庇うかのように、斑目漆が立っていた。顔を覆っていた狐面が横にずらされて、漆の、鮮やかな青い目と、まだ少し幼さを残した、しかし凛と鋭い顔とが覗いている。
「あの旦那は、何にも傷つけたいなんて思ってへんのや。苦しいて苦しいて堪らんだけなんや」
 漆の言葉に、その場に集った人々が、眉根を寄せて口を閉ざした。
 ――彼らもまた判っているのだ。
 このまま、『彼』を滅ぼしてしまうことが、本当の意味で十全ではないことを。
「君は、『彼』がなにものか判っているのだね、漆君」
 ブラックウッドが言うと、漆はうなずいた。
「『声』を聞きましたさかい。『彼』は、初めの流れより顕れたひとつのもの、と自分を表現していた。原初の水アビュッソスより、秩序立った世界の創造以前の存在として顕れたもんやったら、“巨大なもの”アポピス以外にはあり得へん」
 淡々と、辞典を諳(そら)んじるかのように漆がその名前を口にし、ブラックウッドが深くうなずいたそのとき、変化は訪れた。

 ――ああ!

 闇が悲鳴を上げた。
 否、闇は徐々に晴れつつあった。
 その中央に、巨大な何かがとぐろを巻いている。

 ――どうかそのなをよばないでくれ!

 それは禍々しくも神々しい文様に彩られた、黒と黄色を基調とした巨大な蛇だった。
 鱗は一枚残らず煌々と輝き、その両眼は黄金だ。
 目には知性の光が感じられた。
 その、全長五メートルを超えるだろう巨大な蛇は、深く項垂れ、黄金の両眼から闇を滴らせていた。闇は後から後から零れ落ち、周囲を黒く染め上げようとしていた。
 それは、アポピスの業たる混沌の闇だった。
 触れれば、何もかもが、原初の混沌へと帰結してしまうのだ。
 昏倒したままの人々を、五人と一匹が、慌てて安全圏まで移動させる。
 それが『彼』の涙なのだと気づくのに時間はかからなかった。
 あの、先ほどのぶよぶよとした黒闇も、叶わぬ願いに流された、アポピスの涙が転じたものだったのだろう。

 ――わたしはもう、アポピスなどではいたくないのだ!
 ――わたしはもう、みなにおそれられ、にくまれるものではいたくないのだ。
 ――もっとよろこばしきものとして、ほほえみとともになをよばれたいのだ。

 黒々と周囲を染めながら、アポピスが言葉をこぼす。
 声は、『彼』を取り巻く人々が思わず胸を押さえたほどに、切々と苦しげだった。
「……アポピス、だったのか……」
 瑠意が小さくつぶやいた。
 それは、信仰される土地を持たず、パレードルすなわち陪神を持たず、聖域において象徴的に殺され続ける原初の神の名だ。
 光と対立する闇のシンボルであるアポピスは、太陽の象徴であるアトゥムの敵対者だ。混沌より生まれ出でた『彼』は、光と秩序の敵と称され、エジプトのすべての人々から恐れられ、憎まれた。
「生まれついての性質が、たまたまこうやったというだけで、絶対悪の、闇の象徴の烙印を押されてしまった『彼』は、ほんまに悪いもんなんですか。それは蛇の旦那の責任なんですか。――俺は、それを決め付けてしまいたないんです」
 アポピスの涙は止まらない。
 闇は、黒々と周囲にわだかまり、公園に沈鬱な彩りをもたらしてゆく。
 ルカがぽつりとつぶやいた。
「……だからこそ、自分を創り変えたかったんだね、君は。たくさんの神さまの力で?」
「アポピスが再創造のために選んだ神々は、皆、戦いや争いよりも、人々の身近な場所で、人々の喜びや日々の営みとともにある神ばかりだった。――その力で、光のある場所へ行きたいと願ったのだろう」
「人間を取り込んだのは?」
「判らない。だが、私には、『彼』が、より人間に近づきたくて、やむを得ずやったことのように思えて仕方がないのだよ」

 ――だが、それは、かなわなかった!

 アポピスの声は、泣き叫ぶかのようだった。
 呼応するように、漆が俯く。
「人間を取り込もうとしたことは、確かに非難されるべきや。それは正しいとはよぉ言わん。けど、俺には、蛇の旦那の気持ちが判るから、声を荒らげて責め立てることも出来ん」
 沈黙が落ちる。
 疵を抱えたものならば、誰もが口を閉ざさずにはいられないだろう。
 かたちこそ違えど、皆、様々な哀しみの道を歩いてきたのだから。
 ブラックウッドは、なおも涙をこぼし続けるアポピスに、痛ましげな眼を向けた。
「我ら、魔術の道を歩むものにとって、アポピスとは偉大なる指標にして道程。それが真の意味での悪ではないことを、私たちは理解している。だが、『彼』は、もっともっと普遍的な、根本的な位置で、光と交わり、光とともに生きたいと望んでいるのだね。私がこうして、あなたを奉じる者がここにいると叫ぶだけでは、『彼』は満たされないのだね。――私は、それが、もどかしい」
 しかし、幸い、ここには様々な奇跡の力を宿したものたちが集っている。
 何か出来るはずだと自分を叱咤して、ブラックウッドは知識を探る。
 アポピスが、そんなブラックウッドを見つめていた。
 涙は止まらぬままに。

 ――ああ。

 漏れたそれは、溜め息だったのか。
 それとも、諦めの微笑だったのか。
「厳しいことを言うようだが、このままではどうしようもないぞ。混沌の闇はアポピスがここにある限り溢れ続けるだろう。あれを押し留めることは、オレには出来ぬ。恐らく、誰にも出来ぬ。世界のすべてが、そもそもは混沌であったがゆえに、始まりの闇を拒絶することは不可能なのだ」
 静かな、しかし拒絶を許さぬ声は真禮のものだ。
 ルカが、瑠意が、バロアが瞑目し、唯瑞貴は小さな息を吐く。
 混沌の闇は、アポピスの周囲をひたひたと満たし、公園の一部を、すでに存在なきものへと還そうとしていた。このまま放置すれば、あの闇は、この公園をあふれ出て、銀幕市を飲み込んでゆくだろう。
「……ごめん。ごめんね。君を助けられない僕を許して」
 ルカが小さくつぶやき、紫水晶を握り締めた。
「ごめんな、アポピス。――でも、俺たちは、選ぶしかないんだ。何を守りたいのか、何を残すのか」
 瑠意が、天狼剣を構える。
「ごめんね。怨んでもいいよ、君が間違ってたわけじゃないんだから。でも、僕はまだ、ここにいたいんだ。この町に失われて欲しくない」
 バロアは光文字の輝く両手を掲げてきっぱりと言い切った。
「――許せ、根源を同じくする遠き隣人よ。オレは、この町を、この世界を、愛しているのだ。そなたのために憐れみを割けぬオレを、許してくれ」
 静かに告げる真禮の周囲を神秘的な瑠璃炎が揺らめき、
「叶うならば、ともに笑い合いたかった。だが、叶わぬのなら、せめてこの手で。せめて、記憶に、刻もう」
 唯瑞貴は、額に禍々しい第三眼を輝かせて断じた。
 誰もが、身勝手な自分を理解していただろう。
 選択せざるを得ない自分を、その狡さ醜さを、それでも失い得ない存在のために、甘受していただろう。そして、許されるつもりもないと、そう、思っていただろう。
 ――しかし、アポピスは、微笑んだのだ。
 尽きせぬ涙に身体を染め上げながら、確かにそのとき、笑った。
 誰もが息を呑み、言葉をなくした。

 ――ああ、ならば、やはりわたしはきえたほうがいい。
 ――もう、なくなってしまったほうがいいのだ。
 ――せめて、まだ、いたんでくれるものがいるあいだに。

 ごぼり、と、闇が蠢く。
 闇は、もう、あふれそうになっていた。
 自ら消えてしまえば、アポピスはもう、二度と、神としての己に立ち返ることは出来なくなるだろう。
 それは、完全なる消滅だ。
 どこかで再び出会うことは、決してない。
 ブラックウッドは胸中に歯噛みする。
 こんなとき、敬愛する神の力になれなくて何が智恵かと思う。

 ――わたしは、きえよう。

 声は、自分に言い聞かせるようだった。
 皆が、目を伏せる。
「あかんて、そんなん、絶対あかん!」
 叫んだのは、漆だった。
 そして、叫ぶと同時に、漆は飛び込んでいった。
 ――あの、混沌が渦巻く闇の中へ。



 5.影は腕(かいな)に掻き抱く

「泣かんといて……なぁ、泣かんといてや」
 ずぶずぶと闇に沈みながら、沈んでゆく自分になど頓着もせず、漆は、闇色の涙をこぼす巨蛇の頭を掻き抱いた。
「なあ、お願いや。後生やから、泣かんといて。俺に出来ることやったら何でもするさかい」
 おどろおどろしい、しかしどこか神々しい模様を持った蛇は、従順なほどおとなしく漆の腕の中に納まり、さびしいさびしいと言葉をこぼしながら、金色の双眸から闇色の涙を落とし続けた。
 落ちた涙が降りかかるたび、漆の身体は闇に染められてゆく。
 このままでは自分が自分ではなくなることを、これまでに自分が潜んできた闇そのものになってしまうことを、漆は何の説明もなくとも、本能的に理解している。
 それでも、漆は、アポピスから離れようとはしなかった。
 アポピスを抱きしめ、泣くなと繰り返すばかりだった。
 ――それしか、出来なかった。
「いけない、漆君! 君までが暗闇に堕ちてしまう!」
 生身の、真実の意味での人間であるがゆえに、わだかまる闇に近づくことができぬまま、片山瑠意が漆を呼ぶ。
「俺だって、彼を助けてやりたいとは思うけど、でも……!」
 このままでは漆が危ないと、ただ彼を案ずる表情で、瑠意が漆に手を差し伸べる。闇に触れれば、身体中に術式結界の刺青を施している漆の比ではなく、あっという間に暗闇に飲まれてしまうと判っているだろうに、その闇に怯みはしていなかった。
 ――その真っ直ぐな、闊達な強さを貴いと思う。
 しかし漆は首を横に振った。
 アポピスは、すべてを混沌へ帰す闇を、両の眼からこぼし続けている。
 しかしそれは、世界を無に帰そうなどという邪悪な理由でではなく、ただ、どうにもならない自分の業を哀しみ、苦しんでのことなのだ。
 流れる涙は、漆たちと同じ、哀しみのゆえなのだった。

 ――いかにしてもわたしはぜんにうちころされねばならぬ。
 ――なぜならわたしはおそろしきもの、つみぶかきもの、ばっせられねばならぬもの。
 ――ひかりとたいりつするやみのしょうちょうであるがゆえに、わたしはひかりとまじわれぬ。

 漆は魂の根っこから闇に、影に棲むものだ。
 そのように生まれ、そのように育ち、そのようにして生きてきた。
 彼は闇と影の申し子だった。
 明るい光は、皆に平等に射すのに、自分にだけは届かない。その、気の狂いそうになる哀しみを、漆は理解することが出来る。手の届かぬものを望んで涙する理由も判る。
「声、聞こえてたで。全部、聞いた。なあ……泣かんといて。蛇の旦那が泣くと、俺も泣きたくなってまう。旦那が哀しいと、俺も哀しい」
 けれど、漆には射し込む光があった。光を与えてくれる存在があった。
 あの人がいたから、漆は、闇である自分を恐れず、厭わずに生きて来られた。
 ――アポピスには、それがない。
 彼は唯一にして絶対の闇だ。
 すべての光に非難され、謗(そし)られ、追われて、最後には打ち殺されるしかない存在だ。ヌン以前の混沌、アビュッソスより生まれ、原初より生まれたがゆえに、たったひとり、闇を背負って生きる業を背負わされた。

 ――セトはわたしをあわれんだ。あわれんだがゆえに、やみにおとされた。
 ――わたしはけっきょく、なにもかもをくろにそめることしかできぬ。
 ――わたしののぞみは、やはり、ゆるされぬねがいなのだ。

 アポピスの哀しみに呼応するかのように、公園上空の沈鬱な雲が渦巻き、おうおうと哭(な)く。
「判るよ……君の気持ちが判る! ――だけど!」
 『君』がどちらのことだったのか、漆には判らない。
「誰かを犠牲にして成り立つ光なんて、間違ってるよ……!」
 ルカの叫びもまた、悲鳴のようだった。
 漆は微笑み、アポピスを抱きしめる。
 蛇の身体は、ひんやりと滑らかで、どこか優しい手触りだった。
 ――こうするくらいしか、あの悲痛な声を慰める方法を思いつかなかった。
「俺も闇に棲んで溶けるモノやさかい、蛇の旦那の渇望は痛いほど判る。俺にとっての光はお館サマやったけど、蛇の旦那にはそれがまだあらへん」
 そして、漆がアポピスを救い得る方法として思いついたのは、我が身を糧に、依り代にすることだった。
「――なら、旦那。俺の身体ン中に入って生きへんか? 俺の身体には術式が施されてるさかい、」
 漆の言葉に、アポピスが身じろぎをした。
「なあ、そやろ。俺では、旦那の光にはなれんかもしれんけど、茶飲み友達くらいにはなれるやろし……それに、旦那の望む物を見つけられるまで、ずっと付き合ったる。なあ、せやから、一緒にいこ?」
 静かに、訥々と、漆は語りかける。
 希望があるのなら、何でもしようと、漆は思う。
 しかし、アポピスは目を伏せ、漆の腕から抜け出すと、小さく、否定の、拒絶の息を吐いた。

 ――おまえのぜんいがうれしい。わたしはとてもうれしい。
 ――だが、わたしはおおきすぎる。
 ――わたしはきっと、おまえをこわしてしまう。
 ――なぜならわたしはきょだいなるもの。おおいなるへび。
 ――おまえのなかには、はいりきらぬ。

「そんなん、やってみんと判らんやろ。俺は蛇の旦那をどうしても助けたいんや。どうしても、こんな哀しいまんまで消えさせたくないんや」
 それは、彼が今、ひとりだからこそ示せた善意だった。
 お館様と奉じる絶対の光が、守らねばならぬ同胞がともに実体化していれば、彼はきっと、アポピスを討つ側にまわっていただろう。同属の匂いに心を痛めながらも、守るべきもののために、最後には非情に徹しただろう。
 しかし、今の彼に絶対はない。
 絶対を持たぬがゆえに、漆は、アポピスの悲嘆に呼応できる。
 どちらがよかったなどと、比べるつもりはないが、少なくとも今、漆は、自分の心に沿っていた。
 それは偽りのない漆の友愛だった。
 ――ごぼり、と、混沌の闇が漆を包む。
 確かに、これだけの神威をすべて受け入れられるかと問われて、漆に首を縦に振る自信はない。これほど強大な存在を、我が身に受け入れたことは、いまだかつてなかった。
 受け入れ切れなければ、漆は、粉々に砕けて死ぬのだろう。
「ええよ、気にせんでええ。――全部受け止めたる、せやから、一緒に行こ?」
 まるでどこかへ散歩にでも行くかのような気安さで、にこりと笑い、術式結界を開放すると、漆はアポピスに向かって両手を広げた。
 どちらにせよ、今更、死を厭うつもりもなかった。
 命を惜しみ、我が身を惜しんで生きてきたわけではなかった。
 ごぼり。
 また、あの、存在を無に帰す混沌が、蠢く。
 標的を、漆に定めて。
「駄目だ、漆君……!」
 瑠意の悲痛な声が、響いた。
 毒蛇のごとくに鎌首をもたげた混沌の闇が、漆がアポピスを受け入れるよりも先に、彼を飲み込もうとした、そのとき。
 奇跡のように、その声は響いた。



 6.かくて蛇は夢の内に

「――待ってくれ。そうだ……判った、影だ。ようやく、判った」
 静かな、しかしどこか熱っぽいベルベット・ヴォイスに、混沌の闇が動きを止める。
 アポピスが、漆が、ブラックウッドを見ていた。
 ルカは、漆が闇に飲み込まれずに済んだことに心底ホッとしていた。彼がもし、アポピスの闇によって失われてしまったら、ルカはきっと、アポピスを討つべく戦わねばならなかっただろう。
 漆がそれを望んでいなかったとしても。
 ブラックウッドは、エメラルド・タブレットを片手に口を開いた。
「『彼』が、この世に顕現する限り、その業によって闇を撒き散らしてしまうのだとしたら、漆君の言うとおり、この世ならざる『中』に留め置けばいい。そうすれば、『彼』の神威は闇に転じない」
「でも、僕たちの『中』に留めるには、アポピスは大きすぎるんじゃないの? だからこそ、漆の術式結界の中に入りきらないんでしょ?」
「そうとも、バロア君。だが、幸いにも、ここには奇跡の担い手たちがそろっている」
「――どういうこと?」
「私たちの影を概念的につなげて、その内側に、神威を分散させながら留め置くことが出来るのではないかと思うのだよ。そしてそれは、『彼』の、ヒトと光の傍で生きるという望みを、間接的にではあれ叶えるのではないかと」
「なるほど、ひとりでは無理でも、僕たち全員の影と魂を貸せば、神さまのひとりやふたりなんとでもなる、ってことかな」
「いかにも」
 ブラックウッドが断じると、バロアはにこっと笑った。
 どこか、ホッとしたような表情だった。
「いいね、それ。僕、そういう魔法、持ってるよ。ひとりで使うのはきついから、皆に増幅をお願いしなきゃならないけど。――どう?」
 バロアが一同を見渡す。
 ルカは力強くうなずき、アレキサンドライトを手の平に載せた。
 彼女が呼びかけ、解き放つことで、この宝石は、他者の魔力を増幅させる大きな力になる。
「じゃあ、俺も天狼剣に頼んでそんな魔法を紡いでもらうよ。――なんか、すごく、ホッとしてるんだ、今」
「……オレもだ。強化の言霊を使おう、アポピスの願いが現(うつつ)のものとなるように」
「ならば私もバロアの魔力増幅と回復を。誰もが平等に存在を許されるのが銀幕市だとしたら、こんなに喜ばしいことはないだろうから」
 人々が、めいめいに肯定の言葉を紡ぐ。
 オルトロスはわんと鳴き、自分の影くらい好きに使ってくれればいいよ、とばかりに、前足で自分の足元を引っかいていた。
 アポピスに寄り添う漆が、『彼』の身体をそっと撫でる。
 もう、闇は、彼らを取り囲んではいなかった。

 ――わたしは。

 おずおずと、アポピスが首をもたげた。
 隣で、漆が、微笑んでいる。
 アポピスの涙は、止まっていた。
 それは、闇が消え、混沌の増幅が止まったということではなかったが、ルカは、わけもなくその事実に安堵していた。
 なにものであれ、誰かが泣くのは、哀しい。

 ――ゆるされる、のだろうか。

 ルカはにっこり笑って手を差し伸べた。
 誰もが傷つかずに済む希望が生まれたのなら、ルカは協力を惜しまない。
 誰もが失われずに済むのなら、ルカが、我が身をほんの少し差し出す程度の協力を厭う理由がない。
「――行こうよ、アポピス。僕も、君と話がしたい。君と一緒に笑いたいんだ」
 ルカの言葉にうなずいた漆が、アポピスを促すように、その長い身体をそっと押す。
 瑠意が、バロアが、ブラックウッドが、唯瑞貴が、真禮が、銘々に微笑んで手を差し伸べた。オルトロスは、千切れんばかりに尻尾を振って、アポピスを肯定するようにわんと鳴いた。
 アポピスが、ゆっくりと近づいてくる。
 闇は、心なしか、薄れ始めていた。

 ――ああ。

 漏れた声には、隠し切れない喜色がにじんでいた。

 ――ゆめでは、あるまいか。

 笑ったバロアが光文字の躍る手を掲げて呪文を唱え始める。
 天狼剣を掲げた瑠意が、瑠璃炎を揺らめかせた真禮が、額の金眼を輝かせた唯瑞貴が、時を同じくして唱和に入った。
 ルカはアレキサンドライトを開放した後、増幅の魔法を紡ぐ唯瑞貴のもとへと歩み寄った。
 そして、彼の服の裾をそっと掴む。
「……どうした、ルカ?」
 不思議そうに、背の高い青年が見下ろしてくるのへ、ルカはなんでもないよと首を横に振った。
「ねえ、唯瑞貴さん」
「うん?」
「いいよねぇ、銀幕市って」
「――……ああ」
「僕ね、こんなに銀幕市が好きでどうしよう、って時々思うんだよ」
「そうだな……私もだ」
「うん、僕たち、おんなじだね」
 そう言って、ルカは、唯瑞貴と顔を見合わせて笑った。

『幻は成就せり、夢は窓辺にて輝けり。扉は幾重にも掲げられよ、彼の者の訪れを、鈴と薔薇を持ち迎えよ』

 バロアの魔法が、不思議な旋律とともに開放される。
 夕焼けのようなやわらかな赤光が、頭を垂れたアポピスと、宿主となった七人と一匹を包み込む。
 ほんのわずかな、眩暈にも似た浮遊感の後、

 ――かんしゃする。

 その言葉を最後に、アポピスの姿は消えていた。
 闇も、同時に解けて消える。
 しかしルカは理解していた。
 自分の『中』に、自分の一部に、大きな存在が宿ったことを。
 そしてそれが、人の世に留まることのできる歓喜に、闇色ではない涙を流していたことを。
「――よかった」
 ルカは、それを喜ぶ。
 自分の甘さ、弱さを自覚しつつも。
「殺さずに済んで、よかった。一緒に生きられて、本当によかった」
 ルカのつぶやきに、隣の唯瑞貴が小さく微笑む。
 ルカはそれに微笑み返し、どさくさに紛れて、唯瑞貴の手を握った。
 唯瑞貴は、何も言わずにその手を握り返してくれた。
 ルカは無邪気に、屈託なく笑う。
「皆が幸せになればいい。誰もが泣かずに済めばいい」
 つぶやきに含まれた万感の思いを、この場にいた誰もが理解していただろう。
 同じく、成就した夢に、安堵していただろう。



 そしてこれ以降、宿主となった七人と一匹の影の内を、禍々しくも神々しい、色鮮やかな鱗を持った長大ななにものかが、時折、するりと楽しげに――悠々と、横切るようになったという。
 鱗の主は、人々が賑やかに、日々の営みを楽しむ場を好み、喜んで、踊るように身体をくねらせたという。
 真実事情を知る七人は、銘々にそれを感じるたびに、蛇の願った夢が現(うつつ)のものとなったことを喜び、蛇の観るこの夢が、長く長く続くようにと祈るのだ。
 銀幕市ならば、きっと叶うだろうと確信しつつも。

クリエイターコメントこんばんは、またしてもギリギリで大変申し訳ありませんが、シナリオのお届けに参りました。

今回はバトルよりも謎解き、心理描写が多くなったお話でしたが、皆さまの真摯な、真っ直ぐなプレイングのお陰で、『蛇』は夢を叶えることができました。
すべてのプレイングを採用することが出来なかったことを伏してお詫びすると同時に、皆さまの優しさ、強さ、誠実に御礼申し上げます。

『蛇』はご参加くださった方々の影と魂の狭間で、人の世と光を楽しんでいます。もしかしたら、また、皆さまの前に姿を現すかもしれませんし、皆さまの危機に際しては、大いなる力となるかもしれません。

その時にはどうぞ、微笑を持って迎えてやってくださいませ。


それでは、また、次なるシナリオにてお会いいたしましょう。
公開日時2007-05-21(月) 00:40
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