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<ノベル>
とんとん、とんとんとん、たたた、とんとん。
邪魔者のいない三月家。
お節介なパン好き青年も聖なる兎もおらず、朝の三月家は、いつもと打って変わって静かで、穏やかだ。
「そうそう、これだよ、これ……朝は、やっぱり、こうでないと……」
もごもごと寝言のように呟きつつ、今日は好きなだけ寝ていられる、と、太陽のにおいのする布団にくるまって惰眠を貪っていたバロア・リィムの耳に、聞き慣れた、軽快な、心の温まる音が届く。
たたん、とん、たんたん、とん。
ふわり、と、食欲をそそるいい匂いが鼻をくすぐった。
「……今日は、味噌汁か。昨日はかきたま汁だったよね……」
一昨日はトマトスープで、その前はコンソメスープ、そのまた前はとろろのすまし汁だった。
「ってことは、今日は、塩鮭か、めざしか、それとも……?」
布団にもぐり、目を閉じたまま、脳裏にメニューを転がす。
昨日は玄米ごはんに鰈の干物と小松菜の煮浸し、一昨日はバターロールにチーズオムレツと野菜スティック、その前は食パンにウィンナーのソテーとポテトサラダ、そのまた前は麦ごはんに豆腐とオクラ納豆だった。
牛乳とヨーグルトと、手作りの無花果ジャムとメープルシロップ、手作りの葉唐辛子の佃煮と手作りのゆかりと、味付け海苔、時々温泉卵、時々固ゆで卵、時々スクランブルエッグ。
付け合せは、その日によってまちまちだ。
どれも美味しい、ということを除けば。
バロアは、食パンはパンの前面に焦げ目がつくくらいしっかり焼くのが好きだ。
熱々のうちにバターを塗って、とろとろに溶けたバターの上からメープルシロップを塗るのが一番おいしい食パンの食べ方だと信じている。
薺は、食パンは熱くなった程度でトースターから出して、バターを薄く塗ったところへウィンナーやスクランブルエッグを載せ、半分に折り曲げて、ホットサンドウィッチとして食べるやり方が最近気に入っているらしい。
「……もっと寝てられる日だけど」
ぼそり、と言って起き上がる。
すでに目はすっかり醒めていた。
鼻孔を、白米の炊ける瑞々しい匂いがくすぐる。
「そういや……どこかから、新米を分けてもらったって、言ってたっけ……」
ごはんというのは、水分量を守ってきちんと炊けば、古い米であってもちゃんと美味しい。
美味しいおかずや佃煮、漬物があれば――それが薺の作ったものであればなお、なんてことは、バロアは口が裂けても言わないが――、ごはんなんてものは隼のような勢いで胃袋へすっ飛んでいく。
それが、採れ立ての新米となると、その速度は二倍以上だ。
あの、しっとり、もっちりとした舌触り、穏やかな香りと甘味、どんなものとでも合う味は、食欲の秋に相応しい食べ物だろうとバロアは思う。
「あー、駄目だ、お腹減った。二度寝は無理だな、うん」
呟き、布団からもぞもぞと這い出て、着替えに取り掛かる。
バロアの夜着は、お節介なパン好き青年が作ってくれた猫耳ローブをリメイクしたものだ。
本物の猫耳と猫尻尾が生えてしまっている現在、そのことをひた隠しにするために、バロアはこの、普段から身につけていて違和感のないローブと似た型の寝巻きを愛用している。
……一度、カフェ『楽園』とかいうところの、リーリウムとか言う人物から、『バロナちゃんの夜の部屋着に』とベビーピンクのネグリジェが届いたことがあったが、バロアはそれを研究室代わりに使っている書斎の奥の大きな箱の中に突っ込んで厳重に封印した。
ちなみに、そんな恐ろしいものを何故焼き捨ててしまわなかったのかというと、マッチで火を点けようがガスコンロにかけようが魔法で炎を生み出してその中に放り込もうが、糸くず一本燃やすことが出来なかったからだ。ついでに言うと何度かゴミの日に出してみたのだが、外から帰ってきたら机の上にそっと置かれているという状況が繰り返され、断念した。
あれのことを真剣に考えると恐怖で眠れなくなりそうなので(そして下手をするといつの間にか着ているような気がするので)、なるべく意識の外側に追いやるようにしている。
「さて、今日は……何をしようかな……?」
手早く着替え、いつも通りの猫耳フードを被って、脳内で今日の予定をぱっと組み立てる。
「……うん、天気もいいことだし、散歩にでも行くかな。市立図書館に、本を仮に行くのも、悪くないけど」
バロアが、独り言をこぼしながら着替えを完全に終えたところで、ぱたぱたという足音がして、部屋のドアがノックされる。
「バロア君、起きてる? 朝ごはん、できたよ」
いつも通りの呼びかけ、いつも通りの薺の声。
きっと薺は、ドアの向こうで、いつも通りの笑みを浮かべていることだろう。
バロアはかすかに笑って、薺からは見えないと知りつつ頷く。
「起きてるよ、すぐに行く」
「うん、判った。もうじきお魚焼けるから、早く来てね」
笑い声とともにそう言って、薺がダイニングキッチンへ戻っていく。
それと同時に、魚の焼ける香ばしい匂いがバロアの鼻を直撃して、彼のおなかがぐうと鳴った。
身体って正直だよね、と苦笑しながら部屋のドアを開け、外へ出る。
ひやりとした空気が鼻の頭を冷やす。
窓の外を見遣ると、空がひどく高く澄んで感じられ、そしてその空を、真っ赤に色づいたトンボが、忙しなく行き来しているのだった。
「……そうか、もう、秋なんだな」
ついこの間まで、夏だ夏だと言っていたような気がするのに、もう銀幕市は実りの季節へと傾き、少しずつ冬へと近づいてゆくのだ。
「時間って……経つのが早いな」
どんなにこのままであって欲しいと渇望したとしても、押し留めることもできず、あっという間に、なすすべもなくただ過ぎ去って行くものを季節と言い、時間、日々と呼ぶのかもしれない。
などと考えて、バロアは苦笑する。
「感傷的になるのも……秋だから、かな?」
バロアは、決して平坦な、恵まれているばかりの穏やかな道を歩んできたわけではない。幾つもの影と痛みと罪を持ち、今も完全にそれらと決別できたわけでもない。
生きることは即ち、罪を垂れ流すことだと、本気で思っていた時期もあった。
それほど遠くもない記憶が脳裏をよぎり、バロアをほんの一瞬、昔の顔にさせるが、それも、ダイニングキッチンから漂ってくる、食欲をこれでもかというほどに刺激する匂いの前には、無力だ。
食べ物の匂いは生きている匂いだと、バロアは思う。
「おはよう薺、今日もいい天気だね」
中へ踏み込み、声をかけると、こんがりと焼けた塩鮭を皿に盛り付けていた薺が振り向き、無邪気な、嬉しそうな笑顔を見せた。
「おはようバロア君、うん、空がとっても綺麗。もう秋だね」
「同じだね、僕も思ったよ、それ。トンボが飛んでてさ、いつの間に夏って終わったんだろうって思った」
「ああ、赤トンボ、綺麗だったね。どうしてあんなに赤くなるんだろう? 歌では、秋の空の色に染まったから、って言われてるけど」
朝の挨拶を交わし、他愛のない話をしながら席に着く。
テーブルの上には、いい具合に皮が焼けた塩鮭と、なめこの入った大根おろし、ホウレン草のおひたし、だし巻卵、焼き海苔、漬物と梅干の小皿が並んでいる。
どれもこれもが、視覚的にも、嗅覚的にも食欲を刺激する。
薺が味噌汁と白米をよそって入れてくれる。
「あ、ありがとう。ふうん、今日の味噌汁は茄子と揚げ?」
「うん、色んな野菜、お裾分けでもらったから。水茄子の漬物も美味しく出来たよ、食べてみて」
薺が席に着くのを見計らって、バロアは手を合わせる。
いただきます、の合図はふたり一緒だ。
箸を手に取り、まずは味噌汁を一口。
「……うん、美味しい」
「本当? よかった」
丁寧に頭とわたの部分を取った煮干を使った出汁は、あっさりとしていながら味わい深い。
自家製の味噌と出汁、味噌と茄子の相性も抜群だ。
茶碗を取り、ごはんを一口。
一緒に、水茄子の大きな一切れを口に放り込み、租借する。
水茄子独特の甘味と、良質な糠の香り、ごはんの甘味とが一体になり、この上もなく幸せな気分になる。
「水茄子ってなんでこんなに瑞々しくて美味しいんだろうね?」
「うん、普通の茄子とは違うよね、水分の割合が。大阪の泉州の特産品だっけ……初めて食べたときはあまりにもジューシィでちょっと感動したもん、私。あ、バロア君、少しお醤油垂らすともっと美味しいよ」
「あ、うん、ありがとう」
薺に醤油差しを手渡してもらい、礼を言う。
次に取り掛かった塩鮭は、身の部分は絶妙の焼き加減、塩加減で、しっとりとやわらかく、脂気もどこかまろやかだ。
「あー、やばい、朝から三杯くらいお代わり出来ちゃうよ、これ……」
身を口に放り込み、そのあとにごはんをかき込んで租借すると、鮭の脂と塩気とごはんの淡白な旨味とが渾然一体となり、幸せ以外のなにものでもない空間が口の中に展開される。
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
味噌汁に口をつけてから、出し巻卵を口へ運び、薺が嬉しそうに、少し照れたように笑う。
「うん、薺の作るごはんはホント美味しいと思うよ。毎日よくやるよなぁって思うしさ」
鮭の身を食べ尽くした後、今度は残った皮を白米の上に載せ、大量のごはんとともに一気に頬張る。
ぱりっとした歯応えの、香ばしく、脂の旨味が凝縮された皮と、しっとりした熱々の白米との取り合わせは、これは犯罪ではないかと思うほど美味い。
「熱ッ、でも美味ッ」
舌を火傷しそうになりながら味噌汁を啜り、ごはんを味付け海苔でくるんで口に放り込み、出し巻卵の上品な味わいを堪能する。
大根おろしにポン酢を垂らして啜り込み、鰹節を振りかけ、醤油を少し垂らしたホウレン草のおひたしをがばっと口に運び、出し巻卵を大きな口で頬張って、また炊き立ての白米をかき込む。
「食欲の秋、って本当だなぁ……あれ、薺? どうしたのさ?」
一通り味わったあと、満足げに顔を上げると、薺がにこにこ笑いながらバロアを見つめていた。
バロアが首を傾げると、薺は笑って首を横に振る。
「ううん、何でもない。ただ、バロア君が美味しそうに食べてくれて嬉しいなって」
「……そうか」
「バロア君だけじゃないんだけど、皆が、美味しいって言いながら、楽しく食べてくれたら、私は幸せなの」
だから、毎日、飽きもせず、楽しく、何度でも食事の支度が出来るのだ、と言って笑う薺の、幸せ、という言葉に、バロアはごはん茶碗を持ったままで押し黙った。
「幸せ、か……」
「そう、幸せ。――……バロア君は?」
「うん?」
「こうやって、一緒にごはん食べるのって、幸せじゃない?」
「……ん」
心の篭もった温かいごはん。
誰かと一緒に食べる、穏やかな時間。
――この町に来て、バロアはそれをたくさん、許された。
では、今の自分もまた、幸せなのだろう、と、思う。
今のような時間を、幸せと言うのだろう、と、思う。
「美味しいごはんがあって、気のおけない人間が一緒にいて、それで自分は不幸だって言うような、ひねくれた人間ではいたくないな、僕は」
肩をすくめて言い、バロアは茶碗を差し出す。
「おかわり。大盛りで頼むよ」
「……うん」
薺が笑い、ほかほかの白米をよそってくれる。
ありがとうとそれを受け取って、バロアはまた無心に、舌で食材と語らう。
秋だからか、食が進む。
舌が喜ぶと、心が、細胞が躍る。
「……夕飯は、秋刀魚の塩焼きと、栗ごはんと、きのこのすまし汁がいいな」
呟いて、バロアは、白米の上に梅干を載せた。
――今日も、元気よく、力いっぱい活動できそうだ。
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クリエイターコメント | オファー、どうもありがとうございました。 おいしいごはんプラノベ第一弾をお届けいたします。
ごはんを美味しく食べるって幸せなことだよね、がコンセプトのお話になりましたが、いかがでしたでしょうか。シンプルな会話の中に込められたたくさんの感情をも、一緒に楽しんでいただければ幸いです。
ほのぼのとした素敵なオファー、どうもありがとうございました!
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公開日時 | 2008-10-13(月) 09:10 |
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