★ 〈行き止まり〉にて ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-6342 オファー日2009-01-16(金) 00:17
オファーPC 仲村 トオル(cdmc7442) ムービースター 男 25歳 詐欺師探偵
ゲストPC1 霧生 村雨(cytf4921) ムービースター 男 18歳 始末屋
<ノベル>

 今日は全国的に晴れ間が広がります――。
 テレビの中で、お天気キャスターは明るい表情でそう言っていた。晴れているのは空だけではなかった、彼女の顔も快晴だった。
 そんな朝の天気予報と、明るい笑顔を、仲村トオルは夢と現の中で見聞きしたのだ。朝の8時ごろに目を覚まし、そのまま二度寝してしまって、本格的に起き出したのは昼時になってからだった。
 目をしばたきながら、白い窓を見つめる。目はひどく疲れていて、光に慣れるまで時間がかかった。トオルは昨晩遅くまで――というよりも、『今日の早朝』までと言ったほうがいいだろう――パソコンに向かっていて、情報収集をしていたのだ。いつ自分がテレビをつけたのか記憶は定かではないが、たぶん朝の4時か5時に、ぼんやりしながらニュースでも見ようとしたのだろう。
 ――ずいぶん探偵らしいことしちゃってたじゃない。
 眠ったにもかかわらずまだ倦怠感が残る身体を引きずって、トオルは顔を洗い、眼鏡をかけた。たったそれだけでも、だいぶ気分は晴れた。身体にも心にも重苦しさが残っているのは、夜更かししてしまったためだけではない。
「さあて、こんな時間だし……朝と昼は兼用だね、うん」
 トオルは明るい声で独り言を漏らし、ずっとつけっぱなしにされたまま孤独だったテレビを消して、簡単に身支度を整えると、自宅を出た。
 向かう先に、あてはなかった。適当にそのあたりで、朝食兼昼食を済ませるのだ。
 そしてそのあとの予定も、特にあてはなかった。


 銀幕広場の上空を、魚が泳いでいる。
 いや、クジラだろうか。
 悠々と空を泳ぐ巨大な影のそばを、ありふれた野鳥が飛んでいく。しかし、あの鳥が果たして本当にただの野鳥なのかどうか、地上から見るだけではわからない。もしかしたら、誰かが変身した姿なのかもしれないし、誰かの使い魔の類のものかもしれない。
 そして、空より低い虚空でも、1匹の不可思議な魚が泳いでいるのだった。
 銀幕市とは、こんなところだ。
 魚のかたちをしたアヤカシや、巨大なクジラが空を泳いでいても、もはや誰も腰を抜かしたりはしない。下手をすると、誰も見向きもしないかもしれない。ぎょっとして足を止めたり注目したりする者がいたとするならば、それは市外から来た人間か、実体化したばかりの、事情を知らないムービースターだ。
 魚のアヤカシは始末屋霧生村雨の相棒だった。悠々と空を泳ぐクジラに比べると、銀色の煙のように、その存在は曖昧だ。けれど、アヤカシが気まぐれに泳ぐ方向を変えるたび、ぴしゃん、とひどくかすかな水音がして、銀色のラメのような空気のしずくが跳ねるのだ。
 銀幕広場はいつも賑わっている。ホットドッグやアイスクリーム、飲み物、ポップコーンといった軽食を売るワゴンがいくつもあり、昼食時から日が沈むまでは特に活気にあふれている。土日などは混雑することもあった。
 村雨はワゴンでチリドッグを買うと、適当な場所に腰かけて、もくもく食べ始めた。
「あれー」
 素っ頓狂だが、聞き覚えのある声。村雨はもくもく咀嚼しながら顔を上げた。
「やっぱりそうだった。久しぶりー」
 そこにあるのは見覚えのある顔。仲村トオルだ。村雨は口の中のものをおおかた飲みこんで、「ああ」とひとまず短い挨拶を返した。全部確実に飲みこんでから、居住まいを正す。
「偶然だな」
「ほんとに。……いいもの食べてるねえ」
 トオルの目は村雨の手にあるチリドッグに釘付けになった。彼の腹の虫がすさまじい咆哮を上げた。そのすさまじさときたら、適度に離れた村雨にもすこし聞こえたほどだ。
「これが美味いんだ。ここ最近、昼はあのワゴンの世話になってる」
「いやぁ、実はボク、昨日の夜から何も食べてないんだよ……コーヒーは飲んだけどねー。よし、昼は決定だ。村雨さん的おすすめは?」
「プレーン、マスタード多め。あとはテリヤキソース」
「空きっ腹に辛口はキツいや。テリヤキだな!」
 トオルはテリヤキソースのホットドッグにコーラと、なぜかべつのワゴンでポップコーンも買ってきて、村雨の隣に腰を下ろした。自分と村雨の間に、ポップコーンのLカップを置いて。
「よかったらこれどーぞ。村雨さんのは何ドッグ?」
「チリ」
「村雨さんは辛いもの好きなんだねえ」
「そうみたいだな」
「そんな、他人事みたいな言い方してー」
 子供のように明るく笑うトオルにつられて、村雨の口の端がすこしほころんだ。
 外見の年齢で言えばトオルのほうが村雨よりも年嵩だが、村雨は実年齢と外見が伴っていないタイプのムービースターだった。彼のような存在も、空を飛ぶ魚同様、銀幕市では珍しくない。
「あっ、こりゃスゴイ!」
 黙々と自分のチリドッグを食べ続ける村雨の隣で、トオルがいきなり歓声を上げた。道行く人の視線が、ちらっと一瞬集まったほどの大声だ。
「こりゃーウマイ! スゴイね、テリヤキソース!」
「だろう?」
 なぜか村雨はそこで勝ち誇った。悪役のようなニヤリ顔だ。
「テリヤキソースもさることながら、こ、この荒挽きウインナーの焼き加減が絶妙! ジューシー! それどころかパンもさりげなくかるーく焼いてあって実に香ばしいッ!」
「ああ、そのとおりだよな」
「2個買えばよかったー……!」
 トオルの空腹は本物だった。村雨は彼より先にチリドッグを食べ始めていたのに、トオルのほうが先に食べ終わっていたのだ。ポップコーンも結局半分以上をトオルが平らげた。
「ふー、ごちそーさま。……村雨さんはこれから仕事?」
「いや、今日は特に用事もないんだ。昼飯でもと思って外に出たんだが……家でゴロゴロするってのも性に合わなくてな。しばらく帰る気がしねぇ」
「へえ、それじゃボクとおんなじだ。対策課には?」
「行ってみた。が、目を引く事件はなかったな。平和なもんだ」
 ふうん、とトオルは長い相槌を打った。
「ちょっと顔出してみる予定だったけど、行く必要なくなっちゃったなあ」
「あんたも予定なしか」
「そういうこと。……よかったら、ちょっと一緒に歩いていってみません? 話しながら」
 トオルはにかっと笑って、どこかを指さした。
 指の先を追ってみても、トオルが何を、どこを示しているのかわからず、村雨は訝り顔で小さく首を傾げる。
「……どこまで行くんだ?」
「行けるところまで」
 トオルが言った言葉の真意を、村雨はわりあいすぐに、受け止めた。


 トオルと村雨は、銀幕市に実体化してから日が浅い。
 そしてふたりは、それぞれが経験した「初めての依頼」で顔を合わせた。それは凄惨な通り魔事件を発端とした痛ましい事件であり、今でもふたりの記憶の中に生傷を残しているのだ。初めての依頼としては、刺激が強すぎたのかもしれない。特に、トオルにとっては。
「もっとほのぼのとした事件に首突っこめばよかったのかなぁ」
「俺は逆に、あれくらいの修羅場が『最初』でよかったと思うがね」
「なんで?」
「そのほうが、これからのためさ」
 血の記憶から、血がにじみ出ている。
 出会いのきっかけを忘れたくはないのだが、出会ったときを思い出そうとすると、暗い事件のことをも思い出すことになってしまうのだ。
 けれど、トオルは考えていることを他人に悟らせない業に長けていたし、村雨にいたっては哲学者もかくやと言うほど落ち着き払っている。傍目から見ると、ふたりは、問題の事件のことなど些細な日常の出来事としか見なしていないようなふしで、言葉を交わしているのだった。
「同じ依頼で駆けずり回ったけど、お互いのことはなんにも話してなかったよねー」
「話すどころの騒ぎじゃなかったからな」
「ま、今日はこうして暇なわけだから!」
「……そう言えば、あの刑事が礼を言っていた。あんたはやけに避けてたというか、やりにくそうにしてたが、どうしてだ?」
「あー」
「そこでお茶を濁すとは――あんた、悪役なのか」
「違うよー! ただの探偵だと思うよ」
「ただの……。……まあ、探偵っていうのは、警察とかかわりあいになることが多いからな……仲がいい場合も悪い場合もある」
「いやぁ、すごいね、そのとおり。村雨さんは鋭いよ。だから思わず村雨『さん』って呼んじゃうんだよね、うんうん」
「探偵なら、俺のことも調べたりしたんだろう。俺が見た目よりずっと年を取ってることぐらい、お見通しなんじゃないか?」
「ぎくっ! とか言ったら、笑う?」
「いや、べつに。それに、年のことはそんなに隠すつもりはないんだ。ここじゃ、気にする必要も隠す必要もないからな。アヤカシ……いや妖怪やら吸血鬼やらが普通に暮らしてるくらいなんだから」
「そこまで言ってくれるなら安心して聞けるなあ」
「……何を?」
「『始末屋』さんっていうお仕事のこと。調べてみてもよくわからなくてねー。出身映画を観てみればイッパツなんだけど、手に入らなくって。レンタル屋さんに行ってもいっつも貸し出し中なんだ」
「そうか。意外だな、俺の映画が人気だなんて」
「登場人物が実体化した映画は人気になるんだってさ」
「本当か?」
「いやぁ、ウラ取ったわけじゃないんだけどね。でも、一理ありそうでしょ?」
「……確かに。……いや、何だかうまく丸めこまれてるような気もするが……まあいいか」
 ゆっくりと、何分も時間をかけて、村雨は始末屋の何たるかを話しだす。
 トオルは軽口めいた相槌を打つけれど、眼差しには熱がこもっていた。
「記憶を『始末』するから始末屋なんだ。もっとも、俺の力だけではできない仕事でな」
「なるほど、だから相方さんとはいつも一緒なんだ」
 アヤカシは何も言わなかったが、ふたりの会話の内容は全部把握している、と言わんばかりに、そこで一度ぐるりと大きく円を描いた。
「こいつはこいつで、俺が生きて始末屋をやっていないと生きていけない。こういう関係……なんて言うんだったか……」
「共存――ちがうな、共生かなあ」
「それだな。たぶん」
 自分をも納得させるように頷いてから、村雨はだしぬけに付け足した。
「相方はもう一匹いるんだ」
「へえ! あ、でもジャーナルで見たことあるかもしれないぞ。大きな事件のときはさ、いつも村雨さんってコンビで行動してなかった?」
「そうだな。今日はどこで何をしているのかわからんが」
「心配してるんじゃないのー?」
「それはなさそうだ。俺が最近買い食いばかりしてるから、すねてやがる」
「なるほど、相方さんは炊事担当、と」
「毎日サンマとメザシばっかりじゃ飽きるんだよ」
「ぼ、ボクに愚痴られても」
「……と、言ってやったら機嫌を損ねたらしいんだ」
「……なんだか30代の夫婦の会話みたいなんですけどー」
「よせよ。あっちも野郎なんだ」
「んー、なんだか男同士で仲むつまじーく暮らしてる例が多いような気がしない? このまち。だから恥ずかしがることないと思うよ!」
「なんだ、そのイイ笑顔は」
「こんな風に村雨さんと一緒に歩いたりなんかしちゃったりして、ボク、その相方さんに嫉妬されちゃったりなんかしちゃったりするかなあ? 怖いなー」
「だから、よせって」
 ふたりは、歩いたり、バスに乗ったり、適当なところで降りてまた歩いたりしながら、銀幕市の中心から端へ端へと動いていった。広場の活気はとうに消え去り、住宅もまばらになって、冬の杵間山が近づいてくる。
 冷えた風が、薔薇の香りを運んできた。銀幕記念公園のアーチがふたりの視界に入る。
 何もない道をただひたすら歩くだけではつまらないと、心のどこかで思ったのかもしれない。〈行き止まり〉を目指す中、ふたりはぶらりと公園内を通り抜けることにした。
 とうに薔薇の時期など過ぎている。それどころか、今の時期が旬の花などそうそうないだろう。しかし、記念公園の中の薔薇は生き生きと咲き誇り、むせ返るくらいに強い香りを放っているのだった。
「ただのバラじゃないんだってね」
「ああ。話は聞いた」
 ふたりは、かつてこの場所で繰り広げられた戦いを知らない。ここにかつて大穴が開いていたことも、誰かにとって大切な誰かが死んでしまったことも、恐ろしい怪物がここに巣くっていたことも、薔薇と公園を見るかぎりでは想像もつかないことだった。
 ただふたりは、何も知らないわけではない。そんな戦いがあったとき、まだそこにいなかっただけ。銀幕ジャーナルや人々が伝える話を通じて、ここに公園ができるまでに至った経緯を把握しているつもりだ。
「穴が開いていたんだってな」
「そこからめっちゃでっかい魚のモンスターが飛び出してきたってね」
「写真を見た。……相手することにならなくて、よかったような気がする」
「……ボクも」
「でも、そいつを倒せたからこんな立派な公園ができてるってことだ」
「サクッと倒せたわけじゃないようだけど。――その事件以来、魚恐怖症になった人もいるんだってさ」
 トオルがへらっと笑って言うと、村雨の頭上で『魚』が跳ねた。
「何だって? そんなのは、初めて聞いたぞ」
「そりゃそうだ。だってお魚と仲良しな人に、こんな話するはずないもの」
「……本当なんだろうか……あんたの話は時々胡散臭くなるからなァ」
 村雨は呆れたように笑った。トオルは相変わらず、つかみどころのない、人を食ったような笑顔のままだ。
 薔薇に囲まれた庭園の中で、ふたりは、身を寄せ合って歩いているカップルを見かけた。若い男女は、トオルと村雨の存在に気づいていないようだ。男女は薔薇の木々のあいだを通り、噴水を望むベンチに腰かける。冬のあいだ、噴水というものは近寄りがたくなるが、この不可思議な公園内には、あまり北風が入ってこないように感じられた。
 恋人同士の時間を邪魔するのも野暮だと、トオルと村雨は薔薇の垣根を通り抜け、記念公園を出た。出る途中で、もうひと組のカップルとすれ違った。
 恋人たちのデートスポットにでもなっているのだろうか。確かにこの薔薇加減は、夢みる乙女タイプの女性が憧れるかもしれない。今の公園の姿に、恐ろしい怪物の面影など微塵もない――。
 ふたりが見上げた杵間山の中へ、細く曲がりくねった道が続いている。


 道は実際、どこまでも続いているのだった。
 銀幕市から、峠をひとつ隔てた隣町へ。その隣町から、さらにべつの町へ。そのうち、高速道路にも入れるだろう。さらに、東京、大阪、駅、空港、港――世界のあらゆる場所へ、その道は続いている。


 ゆるやかな坂道を登っていくと、山の中腹に、木々が切り払われて開けた場所があった。隣町へと至る道の脇だ。銀幕市が一望できるキャンプ場だった。
 キャンプ場の出入り口にはバス停がある。バスは1時間に1本あるかないかの田舎ダイヤだ。けれども、陸路で銀幕市から出られる数少ない公共の交通手段のひとつだった。
 トオルと村雨は、そのバスを待つこともできたのに、なぜか待つ気にはならなかった。いや、バスを待たずとも、この道を一昼夜も歩けば隣町に着くはずだ。
「あるスター曰く、銀幕市を出ようとしたら、見えない壁にぶつかってそれ以上進めなかった。またあるスター曰く、出たつもりだったのに、いつの間にか来た道を逆戻りしていて、銀幕市に戻ってきてしまった。これまたあるスター曰く、出ようとするたびに身の回りで事件が起こって、まちを出る計画がお流れになってしまう……」
 トオルは故事を諳んずるような調子で、仰々しく語った。
「それは本当の話か? 本当に、『本人』から聞いたのか?」
 村雨の問いに、トオルは笑ってかぶりを振った。
「どれもこれも噂話。スターじゃなくて、エキストラって言われてる人が話してた内容もあるんだよ。不思議なんだよねー、実際にまちを出ようとしたムービースターとめぐり合えたためしがなくて。本腰入れて探せば見つかるかもなんだけど」
 ムービースターは銀幕市から出られない――それが本当に『ルール』であるのか、確かめることもできたのに、確かめようという気持ちが起こらない。実際、トオルも村雨もそうだ。トオルは、今自分で言ったように、『本腰を入れて』調査を進めるつもりもない。
「――それが、真理なのかもしれないな」
「ん? 何か言った? 村雨さん」
「いや。あっちに行ってみないか? たぶん、いい景色だろう」
「あぁ、ボクもそう思ってたんだよー」
 ふたりは小さなバス停から離れ、閑散としたキャンプ場に入った。
 夏ならば、きっと賑わっているだろう。緑と褐色が入り混じった冬の芝生の中には、点々とバーベキューやテントの跡が残されている。こんなオフシーズンでも管理が行き届いているのか、まったくゴミが見当たらない。
 市街地を一望して、あらためて、ふたりはその遠さを感じた。街は小さく見えた。パニックシネマも市役所も、どこにあるのかわからない。
「ずいぶん歩いたんだな」
「バスも使ったけどね」
 さすがに疲れを覚えて、ふたりはキャンプ場の端の東屋に入った。ここでもバーベキューや焼肉ができるようだ。木でできたテーブルとベンチは冷たかった。誰かが忘れていった爪楊枝が、木材の隙間に入り込んでいる。
「ここから先には、行けないんだね」
 頬杖をつき、トオルは言った。
「ボクと人間の違いなんて、それくらいだよ」
「違いなら、まだあるさ。――俺たちは死ぬと、フィルムになる」
「何だかピンとこないけどねー。あんまり非現実的すぎて」
 間延びした調子で言いながら、トオルはごそごそとカバンの中を探った。デジカメを探したのだ。なんとなく、ここからの眺めを撮っておきたくなったから。べつに、二度と来られない場所というわけでもないのに。
「あれー」
「どうした?」
「カメラはなくって、こんなものが」
 苦笑いしながら、トオルはカバンからミカンを取り出した。村雨はちょっと眉を跳ね上げて、テーブルの上に置かれたミカンを見つめた。
「いつのミカンだ?」
「忘れた。でもカビてないから大丈夫だよ。はんぶんこしない?」
「……なんだかこっ恥ずかしいな」
 そうは言うものの、村雨は半分に分けられたミカンをありがたく受け取った。
 しばらく黙々とふたりはミカンを食べていた。小さなミカンのたった半分だ。気がつけばすぐになくなっている、そんなわずかな食べ物だった。
「――フィルムになるのは、恐ろしくもなんともない」
 不意に村雨がそうこぼす。
「ただ、あの辻斬りどもには、ぞっとした。どうしてだろうな」
「……昨日……っていうか今日の朝まで、調べてたんだ。ムービーキラーのこと」
 トオルは爪をいじりながら言った。伸びすぎても切りすぎてもいない爪の中に、ミカンの白い筋が詰まってしまっていた。村雨はそんなトオルの横顔に目をやる。
 氷魚が跳ねた。
「ボクらと人間の違いは、まだあったよ。ボクらはときどき、ムービーキラーになる」
「……それは、違いじゃない気もするな」
「え? そう?」
「人間だって、ときどき殺人鬼になるだろう」
「そっか」
「――あんた、朝まで調べてたのか」
「ちょっと潮時を逃しちゃったっていうかねー。ネットも使って調べものしてると、時間が経つのが早い早い」
「まるで探偵みたいじゃねぇか」
 村雨が軽く声を上げて笑った。
「だからボクは探偵だってば」
 トオルもからりと笑い飛ばす。
「ま、もしかしたら、怖くて眠れなくなっちゃったのかもしんない」
 ざざささあ、とふたりの背後の木々が風で揺れた。風が吹き飛ばしたのか、ちぎれた雲がほんの一瞬、だいぶ傾いた太陽を隠す。雲さえ吹き飛ばし、森を揺らした風は、東屋のあいだを吹き抜けた。
 今日はずっと、いい天気だ。トオルが夢とうつつの中で聞いた、天気予報の言うとおり。
「思い出すのも嫌なんだったら、俺が『始末』してやるぜ」
 風に目をすがめ、村雨は言う。
「……」
 トオルはしばらく、何も答えなかった。
 迷っているようで、無言で申し出を断っているような、そんな沈黙。実際トオルも、どう答えていいものか、わからなかった。
「あんただったら、べつに仕事抜きでいいし」
「いやぁ……いいよ。なんだかもったいないような気がするんだよね」
「もったいない?」
「だって、嫌なものでも、思い出は思い出だから。あ、ボクにとっては、だよ。ボクにとっては、経験と記憶がすべてなんだ」
「――そうか。じゃ、いらんお節介だったな」
「そんなことないよー! 村雨さんは親切なんだ。人の親切を無にするボクが、悪者なんじゃないかな。うん、そう思ってよ。そのほうがずっといい」
 太陽は杵間山の向こうに隠れつつある。冬の太陽は、傾いてからが異様に早い。日没も間もなくだ。キャンプ場と山道には街灯がなかった。ここが闇に閉ざされるのも近い。
「冷えてきたな」
「あー、うん。そろそろ帰ろうか」
 トオルはバス停を指さした。
「あと10分くらいで、駅前行きのバスが来るはずだから」
「ほう、あんた、ちゃんと確認してたのか……」
「まぁね」
 誰もいない、冬の風の吹き抜けるキャンプ場を出て、ふたりはバス停に向かう。
 キャンプ場を出て、傾いた小さなバス停のそばでバスを待つ間、1台も車の姿を見なかった。誰も銀幕市を出ようとしないのか、もしくは銀幕市に行こうとしないのか、と思えるくらいに、山道は寂れている。よく言えば落ち着いていたし、悪く言えば寒々しい。しかし、確かに、銀幕市は映画産業で栄えているし、現実離れした市民のおかげでいつも賑やかなはずなのだ。
 ジャンクフードとキャラメルポップコーンの強い香りや、その香りの周りにあった喧騒が、この山中と同じまちにあるとは。
 汚れた時刻表に記された約束の時間から5分ほど遅れて、市外からのバスがやってきた。乗客はひとりしかおらず、そのひとりも、一番後ろの座席で完全に熟睡している。くたびれたサラリーマン風の中年だ。口が半分ぽかんと開いている。
 ――寝過ごしてここまで来た、なんてオチじゃあないだろうな。
 トオルと村雨は、たぶん同じことを考えた。
『はい、発車しまーす』
 運転手の声が、どこかのスピーカーを通して車内に響く。
 終点の駅まで、20分はかかるだろうか。30分かかるかもしれない。
「今日はどうもありがとう、村雨さん。こんなに歩いたり喋ったりするの、久しぶりだったよ。……もしかしたら、初めてなのかも」
「俺もさ。なかなか楽しかった」
「相方さんによろしく伝えてよ」
「何をだよ」
 ふたりは揃って苦笑いした。
「テリヤキドッグの美味しさとか?」
「あァ、買って帰るのもいいか……」
 車窓から、街灯のある通りが見え始める。空を見れば、明るい星が光り始めていた。
 クジラはもう、どこにもいない。かわりに、きらびやかなネオンの光をまたたかせる、奇妙な宇宙船のような飛行船のようなものが、ゆっくりと空を泳いでいた。
「ここから出る気には、ならないな」
「同感」
 浮かぶ光を見つめながら、半ばぼんやりとした調子で、ふたりは言葉を交わした。
 街の外から来たバスは、街の住民を乗せて、街の中心へ――。
 トオルと村雨の、ゆっくりとした午後が、ゆっくり終わっていった。
「それじゃ、またー」
「ああ。それじゃな」
 特に次に会う約束などは取り付けなかった。
 ふたりとも、ずっとこの街にいる。出ることはできないけれど、出ようとも思わない。だから、必ずまた会うことになるだろう。



 魚が跳ねる音を、トオルはすぐ後ろで聞いた気がした。
 ある目覚めの瞬間に。
 また、テレビはつけっぱなし。
 パソコンの電源も入ったまま。
 明け方まで起きていて、昼まで眠ってしまったのだ。
「……これって、探偵みたいな生活?」
 寝不足で軋む身体を起こして、トオルはひとり、苦笑いした。
 目をこすると、魚が跳ねる音……。




〈了〉

クリエイターコメントオファーありがとうございました。……これじゃまるでデヱトです! おふたりとも口調は違えど飄々とした感じをイメージして会話を書かせていただきました。昼食シーンにやけに力入れてます。ああ、ホットドッグ……。
公開日時2009-02-07(土) 19:30
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