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<ノベル>
壱 斑目漆
風が、吹いた。
まだ気温は低いが陽差しはやさしい、それは春を待つ日のことだった。
一陣の風に、洗いたての白いシーツがはためく。
「あ」
突然の強い風が、スコット上等兵の手から干し物を奪い去った。
「っと!」
そこに、影が舞い降りる。
物干し竿のうえに、鳥のように降りた影は、斑目漆だった。
「あ! ウルシさん。ありがとう」
「……反射的に掴んでしもたけど、これはもしかして」
「少尉のパンツだけど」
「なんやへこむなあ」
体操選手のようにくるりと回転して、忍びのものはテラスに着地し、干し物を返した。
「その本人は?」
「表にいなかったかな」
パンツを洗濯バサミで止めると、スコット上等兵は漆をともなって、部屋へ。そのまま通り抜けて、玄関からアパートの廊下へと出る。
木造2階建ての、今どき珍しいほどのボロアパートは、理解ある大家の厚意で、まるごとノーマン小隊の宿舎となっている。
小隊長は、2階の廊下の手すりに体重を預け、表を眺めているようだった。
そこからはアパート脇の空き地で小隊員と思われる若者たちが草野球に興じている様子が見下ろせるのだった。
「今日は休みなんか」
「……誰かと思ったぞ」
ジェフリー・ノーマンはあいかわらずのこわもてで言った。漆が、いつも人前ではそのおもてを狐面で覆っていることが多いのに、今日に限って珍しく面を上げていることを言っているのだ。
「昼間っから飲んでんのかいな」
それには応えず、漆はノーマンの手にあるビールの缶を指す。そう言うノーマンも今日は迷彩の戦闘服ではなしに、何の変哲もないシャツにチノパンといったいでたちだったのだが。
「ふん」
「飲みすけにはちょうどええな。これ、貰いもんやけど」
「何だ。酒か?」
漆が差し出したのは一升瓶だ。純米大吟醸『美中年』とある。
彼が語ったところによると、だれそれのお見合いにつき合ったお礼にもらったとかで、要するにそのお裾分けに、彼はあらわれたのであった。
「少尉ーーー!」
そのときだ。
キン、と高い音が響いて――。
「!」
野球のボールがまっすぐに、ノーマンたちのいるほうへ飛んでくる。
ひらり、と廊下の鉄柵を越えて飛び出した漆が、ボールをキャッチするとそのまま地面へ降り立った。
わっと、小隊員たちから声が上がった。
漆が影にダイブして、ホームランを決めて塁を回っているつもりの走者の傍からあらわれた。あわてて逃げる男。追う漆。
漆を応援する守備チームと、反則だぁとわめく攻撃チーム。
けれど、どちらのチームも、
漆自身も、
それを眺めるノーマンも、
みな、笑っていた。
★ ★ ★
「別に送ってくれんでもええのに」
「煙草を切らしたから買いに行くついでだ」
漆の帰路に、ノーマンが並んで歩く。
「いつも自分で買いに?」
「今日は休日だからな」
漆が思わず訊いてしまったのは、そういや、ようお館様にお遣い行かされとったなぁ、と思いだしたからであった。漆!と胴間声で呼ばれて、任務かと思えば、どこそこの店の団子を買ってこい、などというのはよくあったことだ。
それに対して、今日は休日であるから、部下の兵士たちには何も仕事はさせないのだとノーマンは応えた。職務中は一切、命令に背くことは許されないが、誰にもプライベートはあるというのが、アメリカ人気質というものかもしれなかった。
「なんだかんだ言うて、ええ上司やなあ」
「褒めても何も出んぞ」
「……俺、ずっと気になってたんやけど」
ぽつり、と漆は口を開いた。
「いちばん最初に会ったとき、何人か――」
ノーマン小隊が実体化したおり、かれらはヴィランズとして『対策課』から討伐の依頼が出た。最終的にノーマンたちはこの街に適応する形で決着を見たわけだが、その過程でプレミアフィルムに変わった隊員もいた。
「なんだいきなり」
ノーマンは苦笑めいた表情で漆を見た。
「戦場で戦死があるのはしかたのないことだ。俺たちは軍人だからな」
「今ごろどこにおるんやろ。もし迷子になっとるなら、ついでに迎えに行ったらんとなぁ」
「送り先はステイツだぞ。……死んだらクニに帰れる、みな戦場ではそう思っていた」
「それはちょっと遠い寄り道やなぁ。でもそのあと……俺はどこに行くんやろ」
「キョウトじゃないのか?」
「……どうやろな」
そんな会話ののち、タバコ屋の角で、ふたりは別れた。
「ほな、またな!」
かるく手をあげて、斑目漆は、街の雑踏の中へ――。
それが最後になると、誰も思ってはいなかった。
弐 ジェフリー・ノーマン
「あ、あの……」
「何だ」
おずおずと口を開いたスコットに応えたノーマンの声はおそろしく低く、目は半眼だった。もっとも不機嫌な時の特徴だ。それでも、スコット上等兵は勇気を出して訊ねた。それぞれの持ち場で、シミュレーションゲームの駒のようにじっとしている小隊員全員が、思っていながら飲みこんでいることを、あえて口にしたのである。
「本当に、やるんですか」
すさまじい形相で、ノーマンの顔色が変わった。
銃口を顎に突きつけられて、ひっ、とスコットの喉が鳴る。
「もういっぺん言ってみろ、このシシィボーイ」
「で、でも……少尉」
ふるえる声で、彼は言った。
「あれは、ウルシさんなんですよ!」
なまぬるい風が、とぐろを巻く。
曇天の銀幕市は、住民が死に絶えでもしたかのように、静かであった。
数分前、マルパスからの厳戒令が空から降ってきたばかりだ。
そこは、杵間山裾野へ続く道である。ミッドタウンから、あの『穴』を目指すならば通ると思われる道だった。
そこに築かれたバリケードに、ノーマン小隊は配置している。
むろんそれは……防衛線であった。
広場付近での迎撃に向かった市民がいることはわかっているが、敵が――そう、敵だ――そこを突破すれば、次の戦場はここになろう。
「市役所の緊急掲示を見ただろう。エマージェンシーだ。ムービーキラーを殲滅する。これは必要なことだ」
「そうだけど!」
スコットは、ノーマンの腕を掴んだ。
怒りだすと手がつけられないこの猛獣のような上官の体に触れるなど、隊員にとってはタブーであったから、皆、それぞれの持ち場にいながらも落ちつかなげに視線をさまよわせた。
「ウルシさん、ですよ。マダラメ、ウルシ! ……よくワゴンを手伝ってくれた……クリスマスの夜も、浜辺に店を出したときも、来てくれたじゃないですか。俺が捕まったときも助けにきてくれた。少尉がインストラクターやったときも手伝いにきてくれた。ついこのあいだも、少尉のパンツ拾ってくれて、お酒を持って来てくれて、みんなで野球をやって……それから……それから――」
血を吐くように、彼は叫んだ。
「その彼を、あなたは殺すんですかッ!」
どこかで、低い、嗚咽があがった。
耐えかねて、肩をふるわせはじめた隊員がいる。
静かに――皆が必死で押し殺していた感情を、スコット上等兵は解き放ってしまったようだった。
「殺すとも」
低く、ジェフリー・ノーマンは言った。
「十二、三にしかみえないベトコンの少年兵でも、俺は撃った」
銃をおろし、迷彩服の胸ポケットから煙草を取り出す。
「……戦争はなぜ起こると思う?」
そして訊ねるのだった。
それはスコットにだけ向けられた問いではないようだった。あるいは、誰に言ったというものでもなかったのかもしれない。
ジッポライターの火が閃いた。
「それは主張があるからだ。互いに譲れないものがあるとき、そこに戦いが起こる。その是非はともかくとして、だ。すでに起こってしまった戦争の場では……戦わなければ負ける。そして負けたものの主張が間違っているということになってしまう。俺は……あれがウルシだとして――そいつが今やっていることは間違っていると思う。だから戦う。それだけだ。……しかし、な」
紫煙を吐きだしながら、ノーマンは、ヘイゼルグリーンの瞳を、どこか遠くへ向けた。
「おまえたちの言いたいこともわかる。作戦に参加したくないなら休暇をやろう。武器を置いて今すぐ帰れ」
沈黙が、落ちた。
しかし、誰もその場を去ろうとするものは、スコットも含めて、いなかった。
やがて……はげしい雨が降り始めた。
雷鳴――。
春の嵐だ。
雷雨のなかを、ノーマン小隊は動かない。ずぶ濡れのまま、戦闘に備えてじっと待機する。兵士とはそういうものだ。
ジェフリー・ノーマンも、仁王立ちのまま、雨がおのれを打つにまかせていた。
不精鬚の頬を、ただただ、雨が流れ落ちてゆく。
しばらくして、雨がやみ……、<まだらの蜂>が銀幕広場の戦闘で討伐されたという報せが届いた。
参 蘆屋道満
ポップコーンワゴンには、閑古鳥が鳴く。
「みんな温泉に行ってるんですかねぇ……」
と、スコット。
銀幕広場を行き交う人もまばらであった。
あれから、さほど日は経っておらぬ。しかし、あえて、そのことを口にするものはもういなかった。
『ジェノサイドヒル』は、ただ黙々と、ポップコーンを生産し、売っている。
「……」
急に気候は春めいてきていて、うららかな日であった。
こうしているとまるで――
(よっ。精出してるか?)
そう声をかけてきてくれる誰かが、今にもあらわれそうだと、スコットが思ったそのときだった。
ごう――、と。
風が吹いた、のだ。
「え……?」
影の中から、ぞわり、と這い出して来るなにか。
まさか。
隊員たちのあいだに、目に見えて動揺が走った。
ノーマンだけは、ただ眉をかすかにひそめただけだった。
「あ――」
それは、黒装束に、奇妙な仮面をつけたものたちだった。それが五人ばかり、ポップコーンワゴンを取り囲んでいた。
「驚かせてしもうたかな」
低い、声。
黒装束たちが、さっと道を開けた。
容貌は日本人のようだが、それにしては並はずれた巨躯の壮年の男だった。ベトナム戦争時代のアメリカ人である小隊員たちに、彼がまとう衣裳がどの国の、どの時代のものかなど区別はつかぬ。
「蘆屋道満と申す。……のうまん殿はどなたかな」
「俺だが」
ノーマンが進み出た。白人男性としては標準の部類だが、決して小男とは言えないノーマンに比しても、相手は巨漢だ。
「長らく漆が世話になり申した」
道満と名乗った男は、そう言って深々と頭を下げるのだった。
「……」
ノーマンは無言である。
「そ、それじゃあなたが……ウルシさんの上官の」
スコットは驚いたようだ。
「……会ったか?」
ややあって、ぼそり、とノーマンが発した問いに、道満はかぶりを振る。
「話はすべて。部下の不始末、この我がつけるが筋であったが、行き違って逢えなんだ。だがそれも……叱りとばすのが、ちぃと先延ばしになっただけの事。此処では逢えなんだが、人も物も神も、魂の逝く先はみな同じよ。……それよりも、貴殿のことを聞き、礼を言わねばと参った次第」
「……。……なにか食うか」
「あいにくまだこちらの銭を持っておらぬゆえ」
「構わん」
ノーマンが顎をしゃくると、隊員たちがカップにポップコーンをすくっていく。
道満にひとつ、そして黒装束の仮面たちにもひとつずつ。
仮面が、許可をもとめるように道満を振り返った。彼が頷くと、ぺこぺこ頭を下げて受け取る。あんな仮面で、どうやって食べるのだろう、とスコットは思った。
「すこし、話せるか」
「無論」
ノーマンは歩きだし、道満が続いた。
それを見送って、ほんの一瞬目を離した隙に、いつのまにか仮面の手の中のポップコーンが減っていて、仮面の中からしゃくしゃくと咀嚼音が漏れてきたのに、スコットは目を丸くした。
★ ★ ★
「……ずっと会いたがっていたようだ」
ノーマンは言った。もちろん、漆のことだ。
それを聞いて、道満は、片眉を跳ねあげ、それから大口を開けて笑うのだった。
「あやつめ殊勝な事を。誰に聞いても、そんな話ばかり。おかげで、まるで我が来るのが遅いと言わんばかりであるな」
「仕方のないことだが」
「左様。所詮、浮世はままならぬものよ。それがわからん漆はやはり未熟であった。貴殿にも迷惑をかけておらねばよいが」
「いや……」
「冷たいやつだとお思いか」
ずっしりと重そうな鉄扇で、太い首を叩きながら、道満は頬をゆるめた。
「なんと申したかな――我らのような……」
「ムービースター」
「左様。……夢という物に宿ったツクモ神であろう」
「ツク……?」
「かりそめということよ」
毒気を抜かれたように、ぽかん、とノーマンは、相手を見つめた。
「あんたは不思議な男だな。……ウルシは一心になにかを追っていた。だがあんたは違う」
「妄執は六道の枷であろう。風のように、かるくあらねば……なにかに囚われてしまう」
意味をはかりかねたか、黙り込むノーマン。
道満はポップコーンを口に放り込んだ。
「ほう。妙なものだが、旨い」
しばし、男たちは無言でたたずむ。
「……風、か――」
空を、見上げた。
「なら今は……あいつも解き放たれただろうか」
「せめてそうであらねば、いかに不肖の弟子とはいえ、この蘆屋道満の名に瑕がつくというもの」
ざん、と鉄扇を広げ、仰ぎながら、呵呵大笑と大口を開ける。
やさしい春の風が、ふたりのあいだを吹き過ぎていった。
(了)
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クリエイターコメント | お待たせいたしました。 オファーPCさまにつきましては、これが最後に書かせていただいたノベルとなるのですね。 そう思うと、なかなか言い尽くせぬものがございますが、そこも含めて、表現できていればうれしく思います。 ありがとうございました! |
公開日時 | 2008-04-03(木) 21:30 |
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