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<ノベル>
初めて訪れたその家は、銀幕市の外れに新しく拓けたばかりの住宅地の中にあった。
建売住宅であろうと思しき外装のそれは、簡素ながらも好ましい印象を放つ小さな庭とガレージとを備えた、云わば特記すべき点のない、ごく普通の家だった。
その家の門口にあったチャイムを数度ばかり押した後に、長谷川コジローは昏暮の空を仰ぎ見て肩を上下させる。
先刻に携帯電話を開き確認した折には七時を十五分程過ぎていた。それから数分ばかりの時間しか経ってはいないだろうから、未だ七時半を迎えてはいないはずだ。
家の中には明かりのひとつですらも点けられていない。夜の帳の中に落ち込んでいきそうなばかりの静寂だけが広がっている。
――夕食を摂るためにどこかへ出掛けていったのだろうか。
しかし、ガレージには家主のものであろうセダン車が停められたままになっている。まして、庭には洗濯物が干されたままになっており、――つまりは外出したという痕跡を窺う事の出来ようはずのない状況がそこに見受けられるのだ。
夏服の襟を片手で無造作に広げて暑気を追いやりながら、コジローは再びチャイムを押した。
コジローが所属する、私立綺羅星学園高等部の水泳部。
弱冠十六歳にしてオリンピック選手に選抜され、物怖じする事もなく素晴らしい栄誉を手にした彼が所属する部の活動は、けれど、決して厳格なばかりではない。
部員の全員が親しく肩を並べ、互いに切磋し合いながらそれぞれの目標を遂げてゆく。外から見ればあるいは気恥ずかしい青春を謳歌したものなのかもしれないが、それは主将であるコジローが三年をかけて築き上げた歴史の結果でもあった。
その水泳部の部員が、ひとり、この数日無断欠席を続けている。学校へは来ておらず、むろん、部への参加も確認出来ない。
体調の不良か、あるいは他の理由があるのか。
何れにせよ、コジローはその部員の欠席を重く受け止め、自らその自宅まで出向いて様子を伺いに来てみた次第だったのだが。
「……留守か」
独りごち、コジローは小さなため息を吐き出した。
川尻颯太という名前のその少年は、少なくとも自宅をも不在にしているらしい。
家族総出で留守にしているのならば、あるいは身内に何らかの不幸があっただとか、そういう事情があるのかもしれない。
しかし、そこで、コジローははたりと記憶を掘り起こした。
確か、颯太の弟が病院に入院しているのだという噂があったはずだ。
颯太の弟は、先頃生じた忌まわしく陰惨たる事件に関与していたのだという、暗澹たる噂話が校内においてもまことしやかに囁かれていた。
コジロー自身はその噂の真偽にはさほど関心を持つ事もなかったが、弟が入院しているというのが事実であるならば、颯太は病院にいるのかもしれない。
そうではなくても、その所在を掴むきっかけぐらいにはなるだろう。
そう考え、コジローは踵を返して今来た道を戻り始めた。
昏暮の空は一層闇の色で濃く染めあげられ、そこには真昼の陽光の気配などもう欠片程にも残されてはいなかった。
かつりとカップを置いて窓の向こうに目を向ける。
窓の向こうには低く雨雲を広げた漆黒の夜天、その下に広がる聖林通りの喧騒が伺える。
今しも降り出しそうな雲行きであるのを懸念してか、行き交う人々の足取りはどれも心なしか速いものに感じられた。
十狼は、ともすれば容易く砕けてしまうのであろう、薄い窓ガラス一枚を隔てた外界の景観を検めた後に、弾かれるように席を立って店外に出た。
それを待ち構えていたかのようにはたはたとアスファルトを叩き始めた雨染みに、十狼は僅かに眉根を顰める。
雨、
桜の薄墨が創り上げていた、あれもまた花の雨だった。
鮮血を漂わせていた池に咲く菖蒲の花、あれをはたはたと打っていたのも雨だった。
雨の日には得体の窺えぬ暗澹たる気配がじわりと霞めてゆくような気がして落ち着かない。
その原因たるものが何であるのか、――それは明確だ。
「おや、十狼君」
雨に臆する事もなく歩みを進めようとした十狼を、やんわりとした口調で呼び止めた声は壮年のものだった。
肩越しに振り向き声の主を検める。
「ブラックウッド殿」
ぽつりと落として銀の眼光を細め、十狼は深い息を吐いた。
「出掛けるのかね? こんな時間から、こんな雨の中」
灰色の髪の下、金色の眦を鈍く閃かせながら、壮年の男――ブラックウッドは靴の底でアスファルトをかつりと鳴らしながら半歩を歩む。
「この身には雨天の余波を然程には受けませぬゆえ」
「然り、万物よりの寵愛を受けし身には、如何なる天候も滲みのひとつもつけられぬのだろうね」
言いながら再びゆったりと歩を進める。
身丈の差異をもつ十狼の顔を下側から覗き見て、ブラックウッドはくつりと喉を震わせた。
「君の捜し相手の居場所だがね、おそらく私はそれを知っているだろうと思うよ」
「知っておられるのか」
続けられた言は、十狼の思考を読み取っているかのような、まさに的を射たものだった。
むろん、十狼は己が求める暗澹の主に係わるものを明かした事など一度たりともない。十狼が唯一無二とする存在にすら明かしてはいないのだ。
だが、眼前の紳士はその暗澹を心得ている。確めるまでもなく、それはたぶん紛れも無く確かな事なのだろう。
「先刻、二人連れの子供達とすれ違ったのだけれどもね。君が捜している相手は、あの子供達の影の内に潜んでいるはずだ」
言われた刹那、十狼はブラックウッドに丁寧な礼を残した後に走り出した。
ブラックウッドは通りの一方向を指で示し、面には安穏とした微笑ばかりを乗せている。
それから程なくして十狼の背が夜の内へと吸い込まれていくのを見届けた後、ブラックウッドもまた十狼の後を追うように、ゆったりと足を進めた。
「――さて、我々も行ってみようか、アポピス。あるいは興味深いものを観劇出来るやもしれないからね」
雨脚は刻々と強まる一方。視界に映る景色から人々の姿は残さずに失せてしまった。否、つい今しがた現れた幾つかの影を考慮に含めるのならば、残さずに失せたという表現は的確ではないのかもしれない。
夜の暗色は雨の影響を強く受け、一層陰鬱たるものへと沈んでいる。
ルアは、その暗色にも沈む事のない真白な肌と真白な髪とを夜の景色の中に浮き立たせ、止みそうにない雨を仰ぎ見て目を細ませた。
銀幕市を包む夜の空気が言い知れぬ程の淀みを滲ませ始めたのは、記憶する限り、そう遠くもない過去の事であったはずだ。
混沌とした暗礁。静かに波打ち、人知れずひそりと引いていくそれは、まさに暗澹とした波のようなものだ。多くの人の目には触れぬ月の導きに吸い寄せられて、深い澱みの底からぽっかりと浮かび上がってくるのだ。
言い喩えるのならば、夜の闇の底に潜む深海の化生。それがこのしばらくで銀幕市のそこここに現出し始めているのだろう。
そうして、その深海の化生が今、ルアの視界の中に映りこんでいる。
先を行く稚い少年と、それを庇護するように付き添うのは高校生ほどと思しき見目の少年。そのふたりを追うように小走りに進むのは、あれは確か私立綺羅星学園高等部の制服であっただろうか。ともかく制服姿の少年だ。
既にシャッターの下ろされた店の軒下で雨を逃れているルアの視線は、迷う事なく真っ直ぐに先頭を行く子供に向けて注がれている。
街灯が小刻みに点滅を繰り返していた。
そのぼうやりとした明かりの下、子供と、それを庇護する少年の足元に伸びる影が異質な動きでゆらめいた。
吹く風に紛れ、何者が落としたのかもしれない、押し殺したような笑みが小さく震えた。
◇
「なあ、雨降ってきたし、もう病院に戻ったほうがいいって」
言いながら前を行く兄弟を追い、コジローは深く息を吐いた。
コジローが病院について早々、兄弟は「用事がある」と言って病室を抜け出し、夜に沈む街中へと足を進めて来たのだった。
むろん、そこに医師の許可など下りてはいない。
「川尻、弟の具合もまだ良くねェんだろ? なあ、おまえ、聞いてんのか!? ってか、どこ行くんだよ」
訊ねるコジローに対し、兄弟は病室を後にして以来沈黙を守ったままでいる。時折弟の方がちらりと振り向くのだが、挨拶めいた言葉ひとつ口にするわけでもない。
しかし、それは仕方のない話だ。
川尻颯太の弟は、見たところ、せいぜい小学一、二年といったほどだろう。それが凄惨な事件に巻き込まれてしまったのだ。とても他人と言を交わせるだけの余裕など持ち合わせてはいないだろう。
弟に傘をさして歩く颯太の腕を掴み、コジローはわずかに声を震わせた。と、初めて颯太は足を止めて振り向き、胡乱な眼光でコジローを見上げて首を傾げた。
「……主将」
「おう、やっとこっち見たな。ってか、弟病院に戻さなくていいのか? 風邪ひかせたら可哀相じゃね?」
「……親父とお袋に会いたいって、こいつが」
颯太はぼそぼそと聞き取り辛い声でそう告げて、弟の髪をくしゃくしゃと撫で付けた。
「親父さんとお袋さん? あ、そういや、俺、病院に行く前におまえん家に寄ったんだけどさ、なんか留守みたいだったぜ。仕事でもやってんの?」
「――留守」
応え、それきり兄弟は再び口を閉ざした。
コジローは、次いでいくつかの話をしてみたが、その何れにも反応がないのを知ると、自身もまた口を閉ざして黙々と兄弟を追いかけた。
兄弟は自宅へ向かっている。なら、それを敢えて止める必要もないのだろうから。
◇
辿り着いたその地は開拓途中の新興住宅地、その一郭だった。
ブラックウッドの示したそれと己の直感とを信じて足を進めて来た十狼は、眼前に立つ真新しい一軒家を仰ぎ見ながら鼻先を軽く撫でる。
篠つく雨の中、鼻先を掠めるのは、確かに血の気配だ。それもおそらくは数日前に流されたのだと思しき、腐敗した臓物雑じりの汚臭。
庭先に出されたままの洗濯物が雨ざらしになってはためいている。
光源はひとつですらも見当たらず、家中には、少なくとも生者の息吹はまるで感じられない。
異臭が周辺の人間達に知られずにいたのは、雨続きとなっている天候のためだろうか。あるいは開拓途中の土地であるという事が原因のひとつであるのかもしれない。
闇の中、奇妙に白々と浮かび上がっている真新しい家を仰ぎ見て眉を顰める十狼の耳が、ふと、歩み寄って来るひとり分の足音を聞きとめた。
「ルア殿」
ちらりと視線を横手に向けて、その足音の主を一瞥する。
十狼の視線を受けたルアは少しばかり肩を竦めてから小さな笑みを浮かべ、独り言を落とすように口を開けた。
「死人が出てるね」
「左様」
ルアの言に目を眇め、十狼は不快そうに声を低める。
「おそらくは一……否、二人といったところか。死した後幾日かを数えているのであろうが、瘴気が満ちている……実に不快だ」
「そう?」
十狼の応えに首を傾げ、ルアは跳ねるような足取りで家の庭へと足を踏み入れた。
「そういえば、この家の子がもうすぐここに戻ってくるみたいだけど、あの子達はこの家の中の状態を知っているのかな。どう思う? えっと……確か君、十狼だったよね」
「子供達、だと?」
視線を持ち上げてルアを見据えた十狼の耳に、再び何者かの足音が触れた。
ルアが楽しげに視線を移ろわせる。
薄闇の向こうから姿を見せたのはひとりの子供と二人の少年だった。
子供達の内、ひとりの少年が鍵を取り出して家に向かう。その途中、自分達を見やる十狼と、庭に立ち入り懐こい笑みを浮かべているルアに向けてあからさまに不快を表した。
「アンタ達、ここで何してんスか?」
制服姿の少年――コジローが十狼とルアとを交互に睨みやる。
「べつに」
返し、ルアは庭を後にして十狼の傍らへと寄った。
「ちょっと通りかかっただけだけど?」
続けたルアに、コジローの表情は硬いままだ。
十狼は制服姿の少年が背に隠すように庇う子供と少年とをねめつけながら口を開く。
「……斯様な場所に身を隠していたのか」
言いながらじわりと歩みを進めた十狼から逃れるように半歩を退きながら、コジローは背中に隠す兄弟をさらに強く庇う。
「なんかヤベえよ。……中に入って警察に電話したほうがよくねぇ?」
颯太に耳打ちしながら警戒色を色濃くするコジローに、颯太は、やはり胡乱なまま、機械的にうなずいた。
三人が逃げるように玄関の中に消えてからすぐに、家の中に煌々と明るい光源が点される。それから幾許かの時間を置き、異変を報せる悲鳴が庭から一番近い位置にある部屋の中から轟いた。
閉ざされた玄関扉が再び音高く開かれ、その中から外界へと躍り出たコジローが、未だ家の前にいた十狼とルアのふたりをきつく睨みつける。
「アンタらが殺ったのか!?」
口を開いた第一声、怒気に満ちた声音で罵声を吐く。
ルアが楽しげに目を細めながら数歩を歩み、コジローの顔を仰ぎ見ながら首を傾げた。
「残念だけど、僕らは違うよ。――ねえ、もしかして誰か死んでたの? 良かったら僕らにも見せてくれる?」
「ふざけるな!」
応え、コジローは眼前に立つ、自分よりも年下だろうと思しき見目の少年を突き飛ばす。
ルアは突き飛ばされた衝撃で数歩を後退したが、その面には変わらず笑みが張り付いていた。
「アンタら、じゃあ、なんでこんな時間にこんな場所ウロついてんだよ。なにしてんだよ。ああ、くそ、警察に連絡……!」
言いながら携帯電話をポケットから抜き出したコジローを、十狼の手が制する。
「失礼。――貴殿が共にしていたあの童達は家の中にいるのだろうか?」
「あたりめえだろうが! 警察呼ぶんだよ。アンタら逮捕してもらわねえと!」
「貴殿の友人方に用がある。ここを通していただきたいのだが」
「ンな事出来るかよ! あれ、――蝶々サマ!? なんでこんなときに……!?」
コジローをどかし玄関口に足をかけようとする十狼を必死に留めながら、コジローは突然片手で頭を押さえて虚空に視線を向けた。
十狼は少年が見せた突然の行動に眉根を顰め、視線だけを移してルアの顔を見やる。ルアは相変わらず楽しいものを見るような目で少年を見つめていたが、十狼の視線を受けてちらりと首を竦めただけだった。
少年――コジローはやはり虚空を見定めたまま、時折大きくうなずいたりしてから改めて十狼とルアを睨みあげる。
「……今、蝶々サマから教えてもらった。やっぱりアンタらが颯太達の親を殺したんだな!」
吐き捨てるように告げて、コジローは眼前の壮年を押し遣った。壮年――十狼の躯はコジローの力をしても僅かほどにも身じろぐ事はなかったが、その表情が微かに変化を兆した。
「……そなた」
言いながらコジローの背後に視線を移した十狼に気付き、コジローもまた背に向けて目を動かす。
そこには弟を庇いながら立つ颯太の姿があり、十狼はコジローの言を受けて表情を変えたのではなく、颯太達の姿を目にした事でその表情を一変させたのだと知れた。
「バッ! おまえらは部屋ん中に隠れてろって! それで警察に連絡、」
「ねえ、君。僕の気のせいだったらごめんね。その子達の親が死んでたんだよね」
ひょこりと顔を挟みいれたのはルアだった。
ルアは声を弾ませ、楽しく遊んでいる子供のような面持ちを満面に浮かべてコジローを仰ぐ。
「でも、その子達、あんまり哀しそうでもないね」
「そんなはずっ、」
ルアの言に反論を返そうとして、コジローは再び颯太達の方に振り向いた。
そんなはずはない。たった今、血の海と化した地獄のような和室の中で変わり果てた姿となって見つかった両親を目の当たりにし、恐怖に絶叫したコジローの横で、兄弟もまた同様に絶望を叫んでいたはずなのだから。
考えて、しかし、コジローははたりと思考を止める。
――そうだっただろうか?
兄弟達は確かに絶望を轟かせていただろうか?
ならば、なぜ、今、眼前にあるふたりの顔に、薄い笑みがあるのだろうか。
止めた思考を無理矢理に動かして、コジローは逃げるように玄関を閉ざす。二重に施錠して、外界にある壮年と少年が立ち入る事の出来ないように、ドアを背にして息を整えた。
肩を上下させ、荒い息を整える。そうしながら眼前の兄弟を見据え、そこにある薄暗い笑みを凝視した。
「……おまえらの親を殺したのはあいつらだ」
落とした言は、自分を縛めるためのものであったのかもしれない。
呼気の荒いのは外界にあるあのふたりに向けたもの。あるいは変死していた人間達が放つ死臭に対する恐怖、そういったものであるはずだ。
――断じて、眼前にある哀れな兄弟に向ける怖れなどではあり得ない。
◇
一帯を塗りつぶす暗礁のそれよりも一層に深い混沌色の外套の裾が風を受けて棚引く。
ブラックウッドは暗色の中に見えるふたつの気配を真っ直ぐに見つめて頬を緩ませた。
灰色の髪を軽く撫でつけながら歩みを進め、何に向けたものとも知れぬ息を短くひとつ落とした。
十狼を見送った後、ブラックウッドはしばし紅茶の芳しい香りと共に、ここ数ヶ月程に生じた事件に関与する記録を紐解いてみたのだ。
銀幕市における事件の発症率は、他の市町村に比べれば格段に高い。これは決して銀幕市の治安の悪さを原因としたものではない。むしろ銀幕市のそれは他の土地に比べれば比較的整っている方だと言えよう。
が、それでも大小様々な事件が生じるのは、市が持つ特有の現象だとしか言いようのない事実でもある。
しかし、そういった多様な事件の中、この数ヶ月ほどの間に生じている数件の案件はどこか空気を逸したものともなっていた。
――興味を持った、という言い様は、あるいは人道に反するものになるのかもしれない。が、そういった案件を引き起こしている禍に関心を惹かれたのは確かだ。
暗澹たる気配。その冥晦に心を躍らせて街中に出たブラックウッドの前にその兄弟が現れたのは、偶然のなせるものであったのか、――あるいは業ゆえか。
車道を挟んだ歩道のあちらとこちらですれ違った瞬間に、ブラックウッドは兄弟が持つそれを気取ったのだ。
それが闇色の水底から浮かび上がった暗礁、その漣が形作った化生の持つ禍たる星の一端であるのを。
「見つかったのかね、十狼君」
言いながら歩き進むブラックウッドを見やり、ルアが表情を輝かせる。
「おじいちゃん!」
ぴょこんと飛び跳ねてブラックウッドの腕にしがみついたルアを撫でながら、ブラックウッドは万物を見透かす金色の眼光をゆらりと揺らめかせた。
十狼は視線だけで眼前の家を示し、深い息を吐き出した。
「変な兄ちゃんがいるんだよ。そいつがあいつを庇ってるんだ」
ルアがブラックウッドを仰ぎ見て告げる。
ブラックウッドはルアの言にうなずき、次いで死の気に包囲されている真新しい家を一瞥した。
「十狼君。君が捜していたのはあの影だろう?」
「――左様」
「あの子供達は影に憑かれているのだね」
「恐らくは。……あの影は宿主を繰り、宿主の手を用いて惨劇を繰り返している。それも稚い童ばかりを繰っている様子。……童は頑是無い笑みを浮かべ、それと気付かずに罪科を重ねる」
「やがてそれを気取り、己が意識を崩壊させて自らを殺める」
「然り」
うなずき、十狼はちろりとブラックウッドを見やる。
ブラックウッドは穏やかな笑みを浮かべたまま、じゃれつくルアを愛しげに撫でながら言を続けた。
「先程のあの少年。あれは影に憑かれた子供の友人か何かだろうね」
「そうみたいだけど、でもちょっと変わってて面白い奴なんだよ。いきなり変な方見て、ちょうちょうさま! って叫んだんだ」
「ちょうちょうさま?」
「うん。ちょうちょうさまが言ったんだって。僕らが人殺しだって」
言って、ルアはくすくすと笑う。
「人殺し、ねえ」
応えたブラックウッドもまた小さく喉を鳴らし、ついと視線を十狼に向けた。
「要は、影を子供達から引き離してしまえば良いのだね」
「……恐らく」
「しかし、たぶん、あの子供達はもう既に殺人を犯しているのだろう? 彼らの両親を殺めたのは、紛れもなく子供達自身なのだろうから」
十狼はブラックウッドの言を受け、ゆっくりと首を縦に動かした。
「あるいは、再び精神に異常を来すやもしれぬ」
「そうだね」
うなずき、ブラックウッドは「ふむ」と小さく唸り、思考する。
「このドアを押し入るのは容易だが、影はこれまで幾度も宿主を変えていると見える。……強行して踏み入り、また逃してしまうのも厄介だね」
言って視線をドアに向け、その奥で点る光源を眩しげに見つめた。
◇
「コジロー先輩」
颯太に呼ばれ、コジローはびくりと肩を震わせた。
玄関を閉ざした後、コジローはその場を動く事も出来ずに佇んだままだった。
鼻をつく異臭に吐き気を催しながら、幾度も警察への通報を試みたが、その度に颯太兄弟に押し留められて、結果的にはそれすらもままならないままでいる。
何よりも怖ろしく思えるのは、そんなコジローを薄い笑みを浮かべながらじっと見つめる兄弟の存在だ。
――両親が変死しているのだ。
一度しか見ていないが、それでもその死体が死後数日を経ているものであろう事は知れた。蝿が集り、部分的には既に白骨が覗き見えていたような気さえする。
それを何故通報もせずに放置したままでいるのか。
なぜその死骸を目にしておきながら、平然と笑ったままでいられるのか。
そもそも、――彼らの足元で、時々自我を持った生物のように蠢く影は、果たしてコジローの気のせいによるものなのか。
しかし、コジローを呼ぶ颯太の声は、確かに颯太自身のものに違いないのだ。
「お願いがあるんですけど、……聞いてもらえますか」
その颯太がコジローのすぐ目の前にまで歩みを進め、コジローの顔を覗き見る。
薄い笑みを張り付かせたようなその顔は、まるで能面のそれを彷彿とさせる。
「お願いって……なんだよ。女の子紹介してくれとかそういうのは、オレ、いつも断ってるんだけど」
膝が笑う。
颯太はコジローの返事を聞いて肩を竦め、振り向いて弟の顔を確めた後すぐにまたコジローの顔を仰ぎ見た。
「親父とお袋を埋めんの、手伝ってもらえませんか」
「……!?」
「や、弟はあんなだし、でも俺ひとりで穴掘って埋めんのはしょうじきキツいんで」
颯太はさも当たり前のように告げて笑う。
「何言って……!」
「コジローさん」
颯太の手を払い除けたコジローを、いつの間にかすぐ傍にまで来ていた颯太の弟が見上げていた。稚い見目には不釣合いなほどの薄笑いを浮かべながら。
「コジローさん、ぼくたちのみかたなんだよね?」
「み、味方って」
「ギャンガマンみたいに、ぼくたちをたすけてくれるんでしょ? ……でもギャンガマンってひどいんだよ。くさったボールしかくれないんだもん。あんなのじゃ遊べないよ」
言ってくすくすと笑う。
颯太もまた弟に連動するように笑った。
彼らの足元で、それまでは静かに蠢いていただけであった影が、細い糸のようなものを提げた人型を造りだす。
「ねえ、コジローさん」
頑是無い声音がコジローを呼ぶ。
糸がコジローの四肢に巻きつけられていくのを、コジローはまるで他人事のような感覚をもって見ていた。
恐怖は、糸が巻きつけられていくのと同時に見る間に薄らいでいく。
「ぼくたちをたすけてよ」
稚いその声が何度目かコジローの名を呼んだとき、それまではコジローの制服の中に身を隠していたバッキーのバタ子が身を躍らせて叫んだ。
と、その瞬間。
「ち、……蝶々サマ!?」
コジローは再びあらぬ方を見上げ、彼の神の名を呼んだ。
コジローにしか見えないその神は、申し訳なさげに首を傾げながらため息を落とす。
「間違いだったって、……そんな! そんなんないッスよ!」
言って、コジローは弾かれたようにドアノブに手をかけた。
◇
「あ」
開いたドアから転げ出てきたコジローを見て、ルアが指をさした。
コジローは転げながら後ずさり、外界にいた三人の人影に向かって走り寄る。
「スイマセン! 俺が間違ってました! アンタ達は殺人犯なんかじゃなかったッス!」
「ほう?」
言いながら穏やかに微笑み、ブラックウッドは視線をゆったりと持ち上げた。
コジローを追ってか、兄弟の影が玄関から洩れ出る明かりを背にして立っている。
光源を背にしたふたりから伸びる影はひとつの人型を描き出していた。
「黒子」
十狼が声を落とす。それと同時に両手がそれぞれに刃を握り、闇を薙ぐ体勢を整える。
「颯太達は悪くないんス! あ、あの影が……!」
「知れた事」
目を眇め、十狼が抜刀を試みた刹那、コジローが悲鳴にも似た叫びをのぼらせながら十狼を制した。
「あいつらを攻めるってのはナシで! それはホント、マジでヤバいッス!」
「どけ」
「どかないッス! ってかどけないッス!」
「貴殿ごと斬りおとすやもしれぬぞ」
「いや、それもヤバいけど……!」
「十狼君、」
押し問答を続ける十狼とコジローの間に挟み入り、ブラックウッドが低く笑う。
「少年、君の願いを叶えてやろう。――素晴らしい獲物を誘い出してくれた礼だ。特別に君の事は見逃そう」
言ったブラックウッドの視線は、跳ねるような足取りで兄弟に向かっていったルアの背中を見据えている。
ルアは鼻歌でも唄いだしそうな足取りで雨の中を進み、程なくして影の前で歩みを止めた。
◇
「僕、君のコト、解るよ」
影を前にして、ルアは懐こい笑みと共に言を吐く。
颯太が胡乱な目でルアを見つめ、次いで両腕を伸ばしてルアの細い首を括った。
が、ルアは何事もないかのように微笑み、持ち上げられながら言葉を続けた。
「君、たぶん、スクリーンにへばりついた影だよね。昔の映画は無声映画だったって聞いたコトあるけど、君はたぶん弁師がスクリーンに落とした影なんだ。違う?」
訊ねた刹那、颯太の背に身を隠していた子供が甲高い笑みをのぼらせた。
「左様にございます。成る程、それを見出されるとは、なかなかどうして」
言った子供の声と共に、颯太の手がルアを離す。
ルアは首に咲いた赤い花をさすりながら肩を竦め、蠢く黒い影に視線を寄せて笑みをこぼした。
「不条理だよね。劇中のスターに命を吹き込むのは他ならぬ自分なのに、必要以上に存在を主張すれば邪魔だって言われて怨まれる」
「実に。実に実に実に不条理極まる。されど、わたくしはもはやそれに執着なぞ一抹たりとも持ち合わせてはおりませぬとも」
影が低く高く笑みを落とす。
「そう?」
返し、ルアもまた低い笑みをこぼした。
「ところで、君、それなあに?」
そう続けたルアが指差したそれは、幼い子供の足元に伸びる暗い影、それにまとわりつく異質たる影だった。
◇
「私の影を送り込んでみたのだけれども」
言いながら、ブラックウッドがルアの傍らにまで歩みを進める。
「どうやら巧く捕縛出来たようだね」
冷笑を浮かべ、ブラックウッドは黒子を見据えて口を開けた。
「原初の渾沌に微睡む偉大なる蛇、アポピスよ、われ汝を呼ばわる。かの者は汝がために捧ぐる聖餐の子羊なり」
詠うように紡いだ言を受け、黒子の形を成した影の内に青白く光る文様が波打つ。
それは禍々しくも神聖な、太古の神を召喚するためのもの。
神はブラックウッドの呼び出しに応じ、放たれた蝙蝠型の影の底から頭を垂れて咆哮をあげた。
十狼は蛇神が咆哮をあげたのと同時に地を蹴って兄弟の許へ向かい、抜刀した二振りの刃を兄弟それぞれの喉許に押し当てる。
「他者を打つ者は、己もまた打たれる覚悟を持たねばならぬと心得られよ」
囁くような口ぶりでそう告げて、押し当てた切先を刹那の内に振り上げる。
コジローの叫びが闇を震わせ、それを掻き消すように蛇神が哄笑した。
「君の気持ち、僕、とっても判るんだ。すぐ傍にある光に焦がれて、焦がれながらもそれ以上にそれに憎悪を感じる、みたいなさ」
蛇神が顎門を広げて影を喰らう。
ブラックウッドがそれを見守りながら高々と嗤っていた。
十狼が振り上げた刃が兄弟の首を落とすより前に、コジローが張り上げた声に呼び起こされたのか、胡乱なままだった颯太の眼光が生気を取り戻した。
稚い子供が恐怖に泣き喚く声が闇に響く。
「凶行に走っちゃう気持ちも判るよ。スターが憎いもんね。それを観て楽しむファンやエキストラが疎ましいよね」
ルアは一行からは僅かに離れた場所に立ち、凶行を重ねてきた凶星が、より大きな影の底に飲み下されていくのを笑いながら観ていた。
まるで自分のために誂えられた映画の終幕のようだと思いながら。
「でもさ。そういう風にするのは僕だけで充分なんだよ。君みたいなのが先に遊んじゃったら、僕が遊べなくなるじゃないか」
十狼の腕から解放された颯太達の許へコジローが駆けていく。
コジローは大切な友人を庇うようにしてふたりを抱きかかえ、号泣する兄弟を慰めながら十狼をねめつけた。
蛇神は再び蝙蝠の中へと沈み、蝙蝠は主の足元に戻って再び主の影を模している。
辺りにあるのは雨が地を叩く音。それ以外に何もない、静寂ばかりの世界が広がっていた。
「それにさ、」
懐こい笑みを浮かべたまま、ルアは闇の内に残された一本の黒いフィルムに視線を落とし、それに指を伸ばして微笑む。
「そんなにスターが嫌いならスターの一種である君が最初に死ねばいいんだよ」
言いながら、ボロボロに崩れた黒いフィルムの残骸を指の先で押し潰す。
フィルムらしいものの残骸はルアの指先に押し潰され、雨に洗い流されて、程なくして跡形もなく夜の底へと沈んでいった。
◇
「蝶々サマ、蝶々サマ。――あいつはまたこの学校に戻ってこれるでしょうか」
雨の中休みとなった晴天の下、コジローは部室の中で彼の神に祈りを捧げる。
颯太は両親を殺め、そのためにしかるべき施設へと容れられた。
颯太の弟もまたしかるべき施設に保護されている。――幼い彼が負ったダメージは、とてもではないが量り知る事の出来ないものだ。
蝶々サマはコジローの求めに応じて回答を述べる。
部室を後にしたコジローを迎えたのは、数知れぬコジローのファン達だった。
コジローは整った顔に満開の笑みを浮かべて青天を仰ぐ。
「また一緒に泳ごうな、颯太!」
暑気を逃れるため訪れたカフェの隅、見慣れた顔が座っているのが見えた。
「ブラックウッド殿」
言いながらその席に歩み寄った十狼を見つめ、ブラックウッドは口にしていたカップを静かにテーブルへと戻す。
「どうかね、十狼君。あれからはもう感じられないかな?」
両手を組み、その上に顎を置いて、ブラックウッドは意味ありげな視線で真っ直ぐに十狼を見とめた。
十狼はそれに応じて首を振り、断りをいれてから同席する。
「ここに向かう道中、妙な巷説を耳にしました」
「ほう」
「――人形を操る黒子姿の男が広場に現れると」
「なるほど。――さて、それはヒトであるのか、あるいはスターであるのか」
くつくつと喉を鳴らすブラックウッドに視線を向けて、十狼は短い息を吐く。
「凶星はまことに失せたのであろうか」
「さてね」
応え、ブラックウッドは窓の外に目を向けた。
「我らはこうして現出している。未だ失せる兆候もなく、こうして安穏と暮らせているわけだ。――ならばああいったものもまた同様に、失せる事なく現出し続けていくのかもしれないね」
公園の一郭、ベンチの上に腰かけて、ルアは缶ジュースを持ったまま両足をぶらぶらと動かした。
降り注ぐ陽光の下、眩しげに目を眇める。
先ほどから聴こえてくるのは、人形を繰る見世物に集う群衆の声だ。この暑気の中、人形を繰る者は全身を黒で覆い、顔もろくに知れぬという。
それは見事な人形が二体。まるで自我をもったヒトのごとくに自在に動く。
演目のタイトルは何といっただろうか。――それは定かではないが、たぶん何度か耳にした事のあるものであったような気もする。
飲み干した缶をゴミ箱に放り投げて、ルアはベンチを後にした。
「――この街ってホント面白いな」
呟き、くつくつと嗤いながら。
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クリエイターコメント | このたびは当シナリオにご参加くださいまして、まことにありがとうございました。
全三話に渡り続いてきましたこのシリーズも、今作をもって一応の完結となります。 少しばかり長くなってしまいましたが…いかがでしたでしょう。 少しでもお楽しみいただけていればと思います。
それでは、ご縁があれば、またどこかでお会いできましたら幸いです。
それでは、ごめんくださいませ。 |
公開日時 | 2007-06-17(日) 23:30 |
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