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<ノベル>
■承前
「俺たちは消防団じゃないぞ、ったく。総員、消火にかかれーッ!」
号令にこたえる、オウ、という威勢のよい声。
「た、たいへん、119番しなきゃ!」
「うわっちちち!!」
交錯する怒号と悲鳴。そして、ガラスの割れる音――。
漆は、またたく間に火勢を増しつつある中へ、ためらわず飛び込んでいく。
あふれる煙を外へと吐き出す、割れた窓から飛び出した。
夜の庭園に消えゆく後姿を認めると、後を追う。
逃れられるものか。追跡は忍びの十八番である。漆は俊敏に夜を駆け、黒薔薇館の庭園の裏木戸へと走り去る彼女へ追いすがる。
「待てぇい!」
獲った――。
しかし。
「……!?」
オフィーリアが、二枚のカンバスを持ち出していたことに、彼は気づかなかった。
それが、追い詰められた彼女の切り札だったのだ。
詰め寄った漆の眼前に、突き出された白い画布。
そこに、今、新たな肖像が描かれてゆく。
■魂の牢獄
「……で、漆さんの行方もそれっきりなのかい?」
片山瑠意の問いに、薺は力なく頷く。ううん、と深刻そうな顔で瑠意は腕を組んだ。
「マズイな……」
「とにかく……、オフィーリアさんの居場所を見つけなきゃ」
薺は、自身を鼓舞するように、拳を握りしめて、言った。
「どうやって?」
太助が見上げる。
「ロケ地! 『審判の城』のロケ地は!?」
「外国の映画じゃなかった?」
太助が瑠意に水を向けた。
「植村さんの情報ではイギリス映画だね」
「だから……、近い雰囲気の! 黒薔薇館みたいな建物!」
「可能性はある」
瑠意は頷く。頭の中で、該当しそうな銀幕市の地名がいくつか流れた。同時に、瑠意としての推理をめぐらせる。
「……楽しい場所に、いると思うんだ……」
ぽつり、と太助が呟いた。
「さびしくない場所に」
「人を……友達を、集めようとしてるんだもんね」
「銀幕広場は?」
「彼女のことを、ジャーナルで知っている人もいる。あまり人が多すぎる場所には近づかないかもしれない。……彼女が捕獲する対象を、予測できればいいけれど……」
かちり、と、瑠意の中で何かがひっかかった。
その頃。
来栖香介は読み終えた銀幕ジャーナルを放り投げ、一人、椅子の背に体重を預けて、ぼんやりと天井を眺めていた。
いつのまにか、その指が、椅子のへりをなぞり、見えない鍵盤を叩きはじめる。
つま先が床で刻むリズム。
「永遠――、か……」
ふと口をついて出た言葉は、ジャーナルの誌面に繰り返されていたものだった。
一人の少女が執着し、歪んだ方法で手に入れようとしているもの。そして恐るべき呪いのようにして、彼女に選ばれた犠牲者たちの上にもたらされているものだ。
「……」
しばし、沈黙――。
そして、ふいに、はじかれたように、香介は身を起こした。
デスクにとりつくと、ひきよせたのは五線紙だった。
もう一人、興味深く銀幕ジャーナルを読みふける人物が、いた。
「永遠、ね……」
くくく、と喉の奥で笑う。
「嫌いではありませんね。その……妄執は」
ベルヴァルドだった。
頁を繰りながら、誰にともなく呟く。
「あの頃よりも……いっそう、その妄執は、熟しているのでしょうね。そう、まさに……」
唇の端が吊り上った。
「食べ頃の果実のように」
ノックの音に、SAYURIは顔をあげる。
夕食の後、部屋でくつろぎながら、ファッション誌のページをめくっていたところだった。部屋というのは、銀幕ベイサイドホテル高層階のスイートルームである。
「お届けものです」
「……こんな時間に?」
ドアの向こうからの声に、眉を寄せつつ、大女優はドアスコープを覗きこむ。たしかにホテルのボーイの制服をみとめ、ドアノブを捻った。
彼女が、彼の顔さえ知っていたら……、というのは詮なきことか。
「なにこれ。もしかして、絵……?」
ボーイが持ち込んだ包みは、平たい長方形のものだったので、SAYURIは不思議そうに首を傾げる。誰かの贈り物だろうか。……実際、彼女のものとには毎日のように、世界中の崇拝者たちからプレゼントの類が届く。中には世界屈指の大富豪や国家元首さえ含まれているから、「ホテル住まいでは部屋が味気ないだろう?」と、名画のひとつも送ってくるものがいたとして、それはそれで不思議ではないのだが。
「それは素晴らしい絵なのよ」
ふいに後ろからかけられた声に、SAYURIははじかれたように振り返った。
いつのまにか、ソファーに腰かけている少女がいる。
「あなた誰!?」
「SAYURIさんのことはお友達に聞きました。本当に奇麗な方。わたくしの傍にいて下さるのにふさわしいわ。……ほら、ご覧になって」
「……」
言われるままに向きなおったSAYURIが見たのは、ボーイが掲げる真っ白なカンバスだった。
何も描かれていないその表面に、見る間に影が浮き上がって――。
「……素晴らしいわ」
ソファーから立ち上がると、オフィーリアはうっとりと言いながら、カンバスに歩みよる。
どさり、とその足元に倒れたSAYURIには目もくれず、画面の中の美しい肖像を食い入るように見つめた。
そして、出来栄えに満足する画家のように頷くと、
「さあ、行きましょう。大切に運んでね」
と、傍らのボーイ……斑目漆に命じるのだった。
ラーラララー、と、ハミング。
スキップのような軽やかな足取りで、少女は歩く。
階段を下りる足音が地下の空間に響いた。
照明が灯り、空間の全容があきらかになる。壁に架けられ、あるいは、立てかけられたいくつものカンバス。そのいずれにも、銀幕市に暮らすムービースターの男女の姿が描かれている。
「わたくしの隣にかけて頂戴」
オフィーリアに命じられるまま、漆はSAYURIの姿を収めた絵を運んだ。
「やはりここか」
ぴたり、とふたりの歩みが止まる。
「オフィーリアさん!」
薺が叫んだ。
オフィーリアのおもてに浮かんでいた、夢みるような表情が、一瞬で凍りつく。しかし、その唇にはかすかに笑みが残っていた。冷笑ではあったけれど。
「つけていらしたの?」
「きっとSAYURIさんを欲しがるだろうと思ったから。……それに、たぶんどこかの美術館か画廊だろうとは思ってた。絵を保管しておく必要があるのだから」
瑠意が応えた。
そう、そこは銀幕市の片隅にある、ちいさな美術館の地下であった。
「なんで……なんでこんなことすんだよ」
太助が言った。
広く、天井の高い地下倉庫を埋め尽くす絵の数多さに、太助は身震いを覚える。これはただの絵ではない。オフィーリアによって奪い去られた人の魂そのものだ。ここにある絵の数は、そのまま彼女がなした凶行の数である。
「ねえ、お願い。みんなを元にもどしてあげて。絵になんかしなくても……お友達になれるよ」
薺が言った。
「そうだよ! だって、もう絵の中からも、城からも、映画の中からでって出てこれてるのに!」
太助も加わる。
しかし、オフィーリアはかぶりを振った。
「いいえ。こうしておかないといけないの」
「貴女はそれで幸せなのか」
瑠意が口を開いた。いつになく、言葉に力がこもる。
「時間の止まった世界に閉じこもって。太助や薺ちゃんを悲しませて!」
「……」
「これ以上、誰かに危害を加えるなら、俺は貴女を倒さなければならない。だけどできるならそうしたくない。だって貴女は、俺の友達――太助や薺ちゃんの友達だから」
「そうだよ、オフィーリアさん!」
「おう! なんべんも、黒薔薇館で会ったじゃん。ほかのみんなだって、好きで、館に行ってたんだ。みんな友達だよ。寂しくなったら、いつでも呼べばいいだろ。それでまた――」
「違うの!」
オフィーリアは叫んだ。
薺は息を呑む。その瞬間……、それまでの、美しがつめたい、仮面のような彼女の表情に、ひびが入ったような――そんな気がした。かすかにその声がふるえていたように思ったのは気のせいだろうか。
「こうして絵の中に入れて……大切にしておかないと……きっとわたくしはそれを壊してしまう。……止められないの……自分を」
どくん、と、なにかが脈打つ。
言いようのない不安のようなものを太助は感じた。
ちりちりと、毛が逆立つ。
何だこれ。この感じ……、いつかどこかで……?
「漆!」
なにかを断ち切るように、オフィーリアは叫んだ。
ごう――、と宙を舞う黒装束。赤いマフラーの残像が尾を引く。
「!」
瑠意が、受け止めた。ぎりぎりのところで漆の腕を掴む。彼の手にはクナイが握られていた。
その向こうで、オフィーリアが壁際に立てかけてあったカンバスをとるのが見えた。まだ何も描かれていない、白いカンバスだ。
「だめだ!」
叫んだのは太助だ。
次の瞬間――、視界が緑に覆われた。太助のロケーションエリアだ。たちまち、美術館の地下倉庫が森に変わる。茂みと樹木が、オフィーリアの視線を阻害する。
――と、薺がその森の中を駆けだしていく。
「あ、おい……!?」
あっと思う間もなく、彼女は走った。
「俺は、誰かが悲しむ姿は見たくない!」
漆を背負い投げる、瑠意。
近くの木の幹にしたたかに打ちつけられ、しかし、表情ひとつ変えずに、また起き上がってくる。
人形だ。この漆はもはやただの人形。しかし逆を言えば、もとの忍者の力はほとんど発揮されていない。そうでなくてはここまで尾行することも難しかっただろう。
いつのまにか、瑠意の手の中に、ひとふりの剣が握られている。彼を知るものなら、それが《天狼剣》なる特殊な魔法剣であることを聞いたことがあったかもしれない。
茂みへ踏み込んでいく。
「お、おい……」
不安げに、太助が声をかける。
「大丈夫。まだ……諦めたわけじゃない」
応えながらも、その先を飲み込む。
でも、もしものときは――
(そのときは、俺を恨んでくれても構わないよ。薺ちゃん、太助)
さっと、目の前に飛びだしてきた影。オフィーリアだ。一閃! 太助が息を呑む。しかし瑠意の刃が切り裂いたのは、カンバスだけだ。
オフィーリアが狼狽の表情を浮かべた。
漆が動き出す。が、彼へは太助が飛びかかる。
「大人しくしててくれー。すまんー!」
視界をやわらかい腹に覆われて、漆は顔にへばりついた小動物をひきはがそうとしたが、太助は吸いついたように離れない。
その傍らを、すい、と抜けていくものがいた。
「え?」
「あ――」
いまや森と化している、地下の空間に、その静謐な旋律が流れだした。
「永遠、は、まさに夢だろ」
来栖香介が、そこに立っている。
■君が望む永遠
「あ、あった……」
息を整えながら、薺は見上げる。
太助の森を抜けた先、倉庫のいちばん奥の壁に、それは架けられている。
立派な額縁に入れられた油彩画だ。
黒い天鵞絨のような薔薇に囲まれた、ひとりの少女。オフィーリア自身の絵。
この絵を始末すれば、オフィーリアを倒すこともできる。
だが、もちろん、薺はそのためにこの絵を探したのではない。
ただじっと、絵を見つめる。
なにか、明確に、すべきことがあるのに、どうすればいいかわからない――しかし、きっとなんとかなるはずだと、信じている顔つきだった。
「絵の中に、入りたいのですか?」
低い声は、上から降ってくる。
すっと、舞い降り、音もなく着地する紳士がいた。
「ベルヴァルドさん」
「お久しぶりですね。……これが、彼女の本体というわけですか」
「やっぱり、ここから解放してあげないと……だめなんじゃないか、って」
「面白いことを考えるのですね」
くくく、とベルヴァルドは笑った。
「よいですよ」
「……え?」
「エスコートして差し上げましょう」
ベルヴァルドが、薺の肩に手を置いた。
「俺自身がそうなるのはごめんだが、……自分の存在が永遠に在ればいいとも、思う」
香介は言った。
小型プレーヤーに接続された携帯スピーカーから流れる音は、そう大きなものではなかったけれど、不思議に、ロケーションエリアの森の中に響きわたってゆく。
「来栖さん、それは」
「しばらく、ぐるぐるしててな」
淡々と、香介は語った。
「失敗作かと思ってたが……新しいモチーフを入れたら、格段によくなった。……あんたのことだぜ」
最後の言葉はオフィーリアに向けられたものだ。
「わたくし……?」
香介は紙の束を差し出した。
「やるよ。自信作なんだ。……ちっせぇ映画や、ましてCDに入れるには勿体なさすぎる。だから思ったんだ。永遠を目指すのも悪くない、って」
「…………いい曲だ」
小さく、瑠意が呟く。
「この曲を、わたくしに」
「俺は……、俺も永遠が欲しい。この曲があんたとともに永遠にいられたら……それはあんたも永遠になるってことだ」
「オフィーリアさん」
諭すような声音で、瑠意が促す。
しかし、オフィーリアは理解できないといった顔で、子どものようにかぶりを振り続ける。
「自信作だっつったろ。……あんたと絵の中に置いておいてくれ。そうすりゃあんたが消えない限り、俺の曲も消えない。俺の曲が奏でられるかわり、あんたも消えない」
「詭弁だわ」
絞り出すように、オフィーリアが言うのへ、香介はいくぶんいらだったような顔つきを見せる。
「だって……わたくしだって本当は絵の中になんていたくない。誰も絵の中に閉じ込めておきたくなんてない」
「だったら!」
瑠意が詰め寄る。
「でもだめなの! そうしないと――」
そのときだ!
瑠意は、そして香介は……、深紅の薔薇が咲くのを、見る。
オフィーリアの黒いドレスの胸に、大輪の花が咲いた。
「そうしないと、殺してしまう。……そうでしょう?」
ベルヴァルドの手が背後から、彼女を刺し貫いていた。
「何をするんだぁあああっ!」
ほとんど絶叫に近く、瑠意は叫んだ。
反射的に、ふるわれる天狼剣の刃。悪魔紳士は、もう一方の手でその刃を受け止める。刃は容赦なくその皮膚に食い込み、血をしたたらせたが、ベルヴァルドは顔色ひとつ変えることはなかった。
「落ち付きたまえ。本体である絵を壊さない限り、彼女は死なない」
長身のベルヴァルドが小柄なオフィーリアを突き刺したまま立てば、少女の体は無残な百舌鳥のはやにえのように、宙づりになる。唇のはしを血がひとすじ流れた、ちいさな呻き声が漏れる様は、いかに死なないと言われても、納得できない有様だ。
「もっとも、術の維持はできませんかな?」
悪魔紳士が付け加える。
「……あれ、俺……。って、なんや、このもふもふはー!?」
「やっと正気づいたのかよ、遅いぞアホーー!」
「わ! 太助はん!? いきなりアホ呼ばわり!? なにその御館様にも匹敵する暴言具合!」
漆が気づいた様子だ。
もし、太助のエリアの樹木がとりはらわれていれば、多数のカンバスの中から、次々に、絵が消えていくさまを見れただろう。同時に、ベイサイドホテルではSAYURIが目覚め、中央病院ではカエル男爵が目覚めたはずだ。
「何のつもりだ」
低い声で、香介が言った。
「知れたこと」
ベルヴァルドが手を振って、もののように、オフィーリアを放り出した。手についた血を、べろりと舐める。
「ここは美術館。芸術を鑑賞するところです」
天狼剣の刃が離れたもう一方の手の傷は、たちどころに治癒していく。
「いらっしゃい」
オフィーリアの髪をひっつかんで、ひきずりながら、悪魔はあとのものたちを招いた。
「……彼女は俺の友人の友人です。乱暴な扱いはやめてもらえますか」
瑠意が、その背中に向かって言ったが、彼が意に介した様子はなかった。
やがて、一同は部屋の奥へ。
「!」
四対の目が見開かれる。
そこに架けられた絵画には、オフィーリアの隣に、薺が描かれていた。
「薺さん……」
オフィーリアは、悲しげな表情を浮かべた。
悲しげではあったけれど、それは薺が知る、「黒薔薇館のオフィーリア」だった。
薺の話に瞳を輝かせ、漆の物語に聞き入り、太助のしぐさに微笑みを見せた、あの少女だ。
だから薺は、笑みを返した。
そして、そっと手を差し出したのだ。
「行こう」
周囲には、咲き乱れる黒い薔薇。
そしてエッシャーのだまし絵のような、壁や柱や階段がでたらめに組み合わさった非現実的な光景が広がる。
その中に、オフィーリアはひとり、たたずんでいた。
そして、首を横に振る。
「どうして? 行こうよ。みんな待ってる。銀幕市のみんなは……オフィーリアさんの友達になってくれるよ」
「薺さん」
「ちょっとやり方が強引すぎたから……怒るひともいるだろうけど、わかり合えたなら大丈夫だよ。ポップコーン欲しくて映画館占拠した少尉だって平気だったんだもん。ここは銀幕市! 誰だって、友達になれるの」
「違うの。そうじゃないのよ」
伏し目がちに、オフィーリアは言った。
「……みんながよくても、わたくしが、だめ。……最初は、ただ他のムービースターがうらやましいだけだった。でもそのうち、だんだん、憎らしくなってきた。……いいえ、嫉妬とか、そういうことではないの。今はただ、わけもなく、ムービースターが許せない。自分も含めて……みんなみんな消してしまいたい。……自分を律していないと、きっと、本当にそうしてしまうから……だから、絵の中にとどめておかないといけないの。愛するひとも、自分自身も」
無言で、薺はオフィーリアの手を握る。
少女たちの視線が交錯した。
「大丈夫」
薺は言った。
「きっと、なんとかなるよ」
「……」
今の話を聞いていなかったのか、とでも言わんばかりに、オフィーリアの顔にぽかんとした、表情が浮かんだ。
しばしの、間。
そしてすぐに、そのおもてにはやわらかな笑みと、それを維持しようとして失敗した泣き顔があらわれる。
ぽろぽろと……驚くほど澄んだ涙がこぼれた。
「だから行こう」
薺が、彼女の手を引く。
「銀幕市へ。わたしたちの街へ」
「薺ちゃんに何を!」
「何も。ただ案内して差し上げたまで」
ベルヴァルドは、瑠意を、そして香介を見て、ふふふ、と低く笑った。
「ふたりともいい目をしている。力の弱い小動物でも、強大な肉食獣の慢心をつけば倒せることを知っている目だ。……あいにく、私はそのようなものは持ち合わせていないのですが。ま、それはともかく」
オフィーリアの首を掴んで、彼はその体を軽々と持ち上げる。
「出ていらっしゃい。その殻の中から!」
ずぶり――、と、彼女の身体を絵画へ押しつける。するとどうだろう。まるで水に沈むように、ベルヴァルドの腕ごと、オフィーリアの体は画面にめりこむ。次に、悪魔紳士が腕をひきずりだす。そして、彼女を、放り出した。
「きゃっ!」
その傍らに転がった薺。
咳き込むオフィーリア。
額縁の中の画面の中には、もう誰もいない。絵の中のオフィーリアをひきずりだしたのだ。
「どうするつもりだ。……俺は彼女に曲をたくすつもりで来た。それを邪魔するのなら――」
「これは驚きです! 私を脅すとは!」
「真面目に聞いている」
「真面目ですとも! 私はね……、彼女に与えるために来たのです。彼女が欲しい永遠を……」
ぞわり、と、空気の質感が変わったような、そんな気配があった。
「君は永遠が欲しい、のでしょう。差し上げましょう。……永遠の闇を、君に」
「あ――あ、あ……!」
オフィーリアがその身を折って、声をあげた。
彼女の身から、見えざるなにかが、ベルヴァルドに吸い上げられていくのがわかる。
「オフィーリアさん!」
薺が叫んだ。
「おい!」
語気を荒げて、香介が一歩を踏み出す。
しかし次の瞬間、足もとの地面から漆黒の巨体が姿をあらわした。ぶん、とふるわれた腕を、とっさに飛びのいてかわす。ベルヴァルドの使い魔だ。
「ンだってんだ。なぜこんな」
「なぜ?」
ベルヴァルドは笑った。
「なぜ、ですって? ……『そうしたいから』ですよ。彼女と同じです。彼女だってそうしたいから、多くの人々を絵に閉じ込めてきた。私もただ己が望むことをするまで!」
くわッ、と、口を開いたベルヴァルドの貌(かお)――。
香介をして、思わず、啖(く)われる、と怯ませしむほどのものだった。
「こんなに早く、これを使う機会がくるなんて」
吐き捨てるように言って、瑠意は天狼剣を手に使い魔に挑みかかる。もう一方の手に、天狼剣よりは小ぶりの別の刀剣が、いつのまにか握られていた。使い魔が殴りかかるのを、ふたつの刃を交叉させて受け止めた。その瞬間、瑠意自身の影が、沸騰したように、ぼこり、とうごめく。
その隙に、香介はベルヴァルドに詰め寄っていた。
「彼女を解放するんだ」
「私に命令できると思っているのですか!」
香介に向かって片手を振り上げるが、
「そやかて、この状況はあんまりやで」
その片手を、漆が掴んだ。黒い手甲で覆った左手でだ。
「いや、あんまりよう飲み込んでないけど。せやけど、なんとなくわかる。この嬢ちゃんのしてきたことは感心せん。けど、これもちょっと感心せんで」
「小賢しい」
ベルヴァルドは手を振り払った。
同時に、見えざる衝撃が漆と香介を吹き飛ばす。
「あーーーー!!」
太助が声をあげた。
がしがし、と、頭を掻く。
「どうすりゃいいんだー! 南無金森大明神、金平狸様! 俺に知恵と力を貸してくれー!」
「お願い、やめて!」
薺も叫んだ。
「お願い」
声に、涙がまじる。
■ともだち、だから
「聞きましたか?」
ベルヴァルドは、オフィーリアの細い首を掴んで、立たせる。
そしてその耳に囁きかけるのだ。
「みんな君のことが好きみたいです。君は、そんなかれらをずっと裏切り続けていたというのにね」
「わた……くし、は――」
「君の中には闇がある。私にはわかる。果てのない、負の力の存在。並のヴィランズではない……、存在そのものが、負の方向にひきずられている。実に興味深い。そして……実に、甘美だ」
「やめて! オフィーリアさんを離してー!!」
薺が、ベルヴァルドに飛びかかった。
「気をつけることです、お嬢さん。私は、容赦など持ち合わせてはいませんよ」
悪魔紳士は片手を振り上げた。そこに、バチバチ、と紫電が閃く。
駆け寄ろうとする瑠意だが、使い魔が行く手を阻む。
かわりに、瑠意はそれを放った。
空を割く、鋼色の護り刀――。
「!」
ベルヴァルドはかわしたはずだが、その刃が通り過ぎたあとで、ほほに一筋の傷が走る。
「この――刃は」
香介が、うしろからベルヴァルドの腰に組みつく。
同時に、漆が崩れるオフィーリアを抱きとめる。
ベルヴァルドの眼に――黒眼鏡を通してさえわかる、凶悪な赤い輝きが灯った。
「食事の邪魔を――」
紫電をまとう手が振り下ろされようとして……
「待って」
静かに、しかし、しっかりした口調で言ったのは。
「オフィーリアさん」
「……あなたが」
少女は、漆の腕を抜けて、ベルヴァルドに向きなおる。
「闇を食らうというのなら、どうぞ、すべて差し上げましょう」
「オフィーリアさん!」
「……」
「わたくし自身にも御しきれないこの闇を、それで駆逐できるのなら」
「……闇は君自身だと、言ったはずですが」
「わかっています」
「ふん」
ベルヴァルドは、鼻を鳴らした。
「この期に及んでそんなことを。……しかし、差し出されたものをいただかぬわけにもいきませんのでね」
がっ、と、てのひらでオフィーリアの額を包み込む。
青白い燐光にふちどられた、黒い光が彼女を包み込み、その光はベルヴァルドの中へ消えていく。
「ああ……」
がくり、と、薺は腰から崩れた。
「御馳走様でした」
空気の中に溶け込むようにして、きびすを返す悪魔紳士。
よこたわる少女。
薺の嗚咽。
「ごめん……」
瑠意が、傍らに膝をつく。
「ごめん! ……誰が悲しむのも見たくないからって……もしものときは俺が引き受けるつもりだったのに――、守れなかった……」
薺が、瑠意の肩にしがみついて泣いた。
駆け寄ってくる太助。
倒れた少女の手を握る。
その手を――わずかに、握り返してくる、弱々しい力。
「泣かないで、薺さん」
オフィーリアは、微笑んでいた。
「……」
苦虫をかみつぶしたような顔で、香介は見ている。
見たくもないが、見届けることが義務だと感じている苦行者のようだった。
漆は、どこか、茫然と。
ああ、そんなにまでして、彼女は映画から逃げ出したかった。映画の中の孤独に戻るのではなく、この町で、人とともにいたがった。それが引き起こした歪みだったのかもしれないけれども……、その思いのひたむきさと強さに、彼はうたれた。
「俺、俺さ」
太助が言った。必死に、その手を握りしめながら、言った。
「俺、ばかだから、なんて言っていいのかわかんないけど。でも、でも……っ」
丸い、黒目がちな目に、じわりと涙が浮かぶ。
「……桜餅、うまかったよ」
にこり、と、オフィーリアは、笑みで応えた。
「どうかみなさん、あの方を責めないで差し上げて」
ベルヴァルドのことか。
「わたくしが、いずれこうなることは定めでした。そうならないために、なにもかもを絵の中に封じようとしたけれど、もう手遅れ。……でも気になさらないで。わたくしが、ただ消えていくだけ。それで……銀幕市から、闇が、ひとつ、消えて――」
「そんなことないよぉ!」
薺が、瑠意の肩から顔をあげて、涙でぐしゃぐしゃの顔をあげて、叫んだ。
「オフィーリアさんは友達でしょ。友達がいなくなって、ただそれだけで終わるわけないじゃない。悲しいに決まってるじゃない!」
「そうだよ。俺たち、友達だろ」
太助も、力強く頷く。
もう声にはならない。
しかし、オフィーリアの唇が、かすかに、その言葉をなぞった。
「ともだち」
消える。
消えてしまう。
夢からうまれ、フィルムに焼き付き、そこから魔法の生を得たかたちは、輝きとともに、フィルムへ返った。
そこまでは、銀幕市の法則通りに。だが。
「……」
瑠意は、険しい目で、それを見つめる。
予期していなかったわけではない――が……。
そのフィルムは、蝕まれたような、黒色に染まっていたのだ。
一拍置いて、ぼろぼろと崩れ、風化してゆく。
永遠の孤独より出で、銀幕市においては黒薔薇館のあるじを名乗った少女の、それが最期だった。
*
「なんたることだ! なんたる侮辱!」
銀幕市立中央病院のベッドの上で、等身大のカエルがわめく。
「スイートルームの天蓋付きのベッドで寝たはずが、目覚めると病院だと! しかも大部屋! しかも隣のベッドはむさくるしい軍人! おのれ、我輩をたばかりおったな!!」
“隣のベッドのむさくるしい軍人”は、事情が呑み込めずに、ただ茫然。
「思いだせない。地雷の爆発にでも巻き込まれたか……。っていうか、今日はいつだ!? 俺、洗濯当番じゃなかったか!?」
と、そこへ、どやどやと、病室に入ってくる軍服の男たち。
「目が覚めたのか!」
「どわあああ、少尉ッ! すいません! 今すぐパンツ洗濯しますッ!」
ベッドの上に正座する部下の頭を、ジェフリー・ノーマンは、しかし、乱暴になでただけだった。
「パンツくらい穿かんでも死なん」
「……え、穿いてないんスか」
別の部下のツッコミには裏拳。
「増えた! 軍人増殖! 部屋の男成分が増えたぞ! ええい、ナース! ナースコールだ! 我輩をもっと空気のいい部屋に移してくれぇええええ」
カエル男爵は、わめき続けていた。
一方、銀幕ベイサイドホテルのスイートルームでは、SAYURIが目を覚ましていた。
「夢を……見てたみたい」
誰にともなく、つぶやく。
「……すこし、かなしい……女の子の夢……」
*
「永遠に……なりそこねたかな」
メモリーを放り投げ、空中でキャッチ。
瑠意と連れだって歩きながら、香介は言った。
「なりますよ。発表しましょう、それ。彼女の物語とともに」
瑠意が言ったが、香介はただ唇に笑みを乗せて、
「どうすっかな」
と言っただけだった。
「そういえば」
すこし離れて歩いていた、漆が口を開く。
「黒薔薇館――、取り壊すんやて。そのうち建て直すらしいけど、めどは立ってへんみたい」
「そうですか……」
残念そうに瑠意は息をついた。
「……じゃあ、埋めるか」
「え?」
「建物とっぱらわれたら、……次の基礎工事んときにでも、土台にこっそり、さ」
「埋めるって……その曲を!?」
「ああ」
「傑作なのに?」
香介は笑った。
「傑作だからさ」
★ ★ ★
そしてとうとう、女の子の絵をかざったお城が、崩れ去る日がやってきました。
永遠にそのままのはずだった絵も、今日でおしまいです。
もうなくなってしまうのです。
でも。
絵を見たことのあるひとは、女の子のことを忘れないでしょう。
そして絵の中の女の子も、絵の中から眺めた外の世界のことを、忘れないはずです。
(黒薔薇の君の肖像――FIN)
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クリエイターコメント | リッキー2号です。『黒薔薇の君の肖像』をお届けします。 みなさんのプレイングを検討したすえ、このような結末になりました。 いえ、結末自体は、彼女が黒薔薇館のあるじとして姿をあらわしたときから、運命づけられていたのかもしれませんが……。
彼女の物語はこれにて幕となります。 長らくのおつきあい、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2007-06-21(木) 20:30 |
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