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<ノベル>
グラウンドのほうから聞こえてくる、運動部の生徒たちの声。おそらく吹奏楽部が練習しているとおぼしきメロディが途切れ途切れに。
授業を終えて、下校しはじめるものもいる時間だ。
来栖那智は校門を眺められる場所に立ち、しばし、たたずんでいた。
何を隠そう、彼は綺羅星学園の卒業生である。
古くから教師に名前を問うてみれば、ああ……とあいまいな返事をもらえるはずだ。だが少なくとも成績は優秀な生徒であった。
「……学校に用事かい」
那智は、校門へ向かう二人連れに声を掛けた。
振り向いたひとりは、エドガー・ウォレスである。眼鏡の奥の紫の瞳が、那智を見詰めた。
「学校の方かな」
「いいや。OBという意味ではそうだけど。……蔵木さんだろ」
那智はもうひとりの男――蔵木健人に向けて言った。
「あ。編集長から依頼を?」
「まあ、そんなとこだ。私はこれから母校を訪ねにいくけど、一緒に来るか」
「ではそうさせてもらおうか。俺はエドガー……エドガー・ウォレスだ」
3人は校門をくぐった。
ちょうど、学校のチャイムが、かれらを出迎えるように鳴っている。
「コンサート会場で起きた事件のことをご存じですね」
エドガーが言うと、対応に出た職員は、目に見えて不安げな表情になった。
公にはなっていないが、犯人が綺羅星学園の女生徒であったことは、それを調べられる立場にいるものたちには周知のことだった。むろん、学園の職員なら、把握している。
「あの……ついさっきも、警察から見えられた方が」
職員は応えた。
「女性の方でした」
「こちらも警察だ」
那智がエドガーを指して言った。
「対策課が調査を始めている。事件の重要な証拠である『本』と――」
エドガーは探るように、その単語にアクセントを乗せて言う。
「この学園とのかかわりをほのめかすタレコミがあったもので。これは学生の安全にもつながると思う」
「……それはまあ……私どもとしても……」
歯切れ悪く、職員は応えた。
えてして、学校関係者というものは外部の人間に介入されるのを好まないものだ。そう考えて、那智は息をつく。――と、誰かと目が合った。職員室の椅子にかけた、ひとりの女性教師だった。長い髪に、化粧っけのない顔。那智は知らない顔だ。もっとも歳は那智よりも下に見えるくらいだから、まだ信任だろう。
ふっ――、と彼女は微笑んだ。
唇に笑みを乗せたまま、帰宅するのか、カバンを肩にかけて、那智たちの横を通り過ぎる。
「ごくろうさま」
すれ違いざま、彼女は小さくつぶやいた。
「……では、校内を見回らせてもらいますよ」
「ご案内しましょうか?」
「いえ、結構」
エドガーに申し出た職員を、那智が制した。
言いながら、その目は廊下を遠ざかる女教師の背中を追っていた。
「……本当に、なぜこんなことになってしまったのか……」
校長は沈痛な面持ちだった。
傍らの教頭も、しきりに汗をふいている。
「あのぅ……このことは報道関係にも?」
学校の評判を気にしているらしい。
「私は学園に落ち度があったとは言えないと思います。……まだ事件の全容は掴めないにしても」
二階堂美樹は、若いけれども落ち着いた警察然とした対応を崩さぬまま、その視線だけで油断なく、ふたりの様子をじっと探った。
「ところで、御校には、ムービースターの生徒さんや先生もおられますよね」
「ええ、そうですね」
「そのことでなにか……」
「いえ。うまくやっていると思います。多少……私のような古い人間には面食らう場面もありますが……かれらは大切な生徒や教員の一員だと考えておりますよ」
「そうですか。ともあれ……学内の様子を見させていただきますね」
「あ、はい。誰かに案内させましょう」
「いいえ、それには及びません。教師と一緒に見回ると学生を動揺させますでしょう?」
「それは、まあ」
「私、なにかを調べているような素振りも、生徒さんにはお見せしませんよ。……あ、失礼」
立ち上がった拍子に、美樹の抱えていた書類ファイルから、それがばさりと落ちた。
赤い、本――。
「……」
ふたりの様子に、何の異変もないことを確認し、美樹はそれを拾ってしまいこんだ。出がけに、市販のノートに赤い布を貼っただけの、フェイクである。
丁寧に礼を言って、校長室を辞す。
「さて、と」
廊下を歩む美樹の肩に、いつもはいるはずのバッキーの姿がない。考えがあって、置いてきたのである。
校長・教頭をはじめ、学園の上層部に不審な点はみとめられなかった。
だとすれば。
「ねえ、あなた」
美樹はひとりの女生徒を呼びとめる。
彼女が出てきた部屋に、「生徒会室」という札がかかっているのを見たのだ。
「もしかして生徒会の?」
「そうですけど、何か」
「ちょっとおかしなことを聞くけど、この学校の生徒会にはムービースターやムービーファンの生徒はいる?」
「え? ……いえ……」
「クラブや同好会はどうかしら」
「あのう……」
女生徒の目が、いかにも疑わしい、と言わんばかりになる。この年頃特有の、大人への警戒心のようなものが、その濃度を増したような視線。美樹と彼女は大きな目で見ればさほど離れているというわけではなかったが、高校生にしてみれば、そのわずかな歳の差が、時として海より大きな隔たりになることがある。
「私ね……あるムービースターの事件のことを調べているんだけど、学園の活動にムービースターがかかわるのって、どうかと思っているの」
美樹は言った。
「でもこの学園では、そういう集まりが多いようだから……逆に、ムービースターのいない集まりはないかな、と思って」
「……文芸部なんかは――ムービースターもいないし、バッキーをもってる子もいなかったはずですけど……他はよく知りません。あの……事件って……?」
「ううん、いいの。ありがとう、助かったわ」
美樹は礼を言うと、さっときびすを返すのだった。
(学園――閉鎖された箱庭、か……)
学生食堂の喧騒をBGMに、ベルは思う。
獣の耳に大きな尻尾はともかく、隻腕は、ムービースターの生徒もいる学園であっても目立たないほうが難しかった。
それでも、年恰好は中学部の生徒といっておかしくはなかったし、何より制服を着ている彼にあえて誰何の声を向けるものはいなかった。ただ、あれ、あんなスターの生徒いったけ?と、時折、一瞥が投げられるだけだ。
それに気づいているのかいないのか、ベルは紙パック入りのいちご牛乳にストローを挿し、その中身を啜るのだった。
(ここは今の銀幕市と似てるよね)
ベルのいるテーブルに、相席をもとめる生徒は誰もいなかった。
そうして、もう小一時間ほど、彼はこの場に出入りする生徒たちの姿を見るともなく眺め、かれらの会話に犬の耳をそばだてている。
(外とは違う世界。閉じ込められているともいえるし、守られているともいえる)
学生の中にちらほらとまじる、あきらかな異形の姿。
制服の腕や肩にしがみついているバッキーたち。
サッカーボールを持った男の子たちは、仲間のひとりに青い硬質な肌のムービースターを加え、肩を組んでグラウンドへ出ていったし、女生徒は級友のバッキーをいとしげになでている。
一見して、そこにあるのは、混沌ではあるが、異質なるものがやわらかにまじりあった、新たな秩序の光景に見えた。
しかし、だというのなら、なぜ――
ひそやかな囁き、そして視線。
おずおずと、座る場所を変えた教員らしき男。どん、とベルのかける椅子の背もたれにぶつかって通り過ぎていく生徒。ひとつひとつは偶然にすぎぬ出来事の底に、しかし、ひとつの意志の流れがあるような感覚がぬぐえないでいる。
(学校……。何かを学び、識るところ)
ガッコウってなにか――、そう訊ねたベルに、友人は教えてくれたのだ。
では、そこで与えられる知識の中に、ひとつの意図がまぎれこんだとしたらどうなるだろう。
「……」
ぴくん、とベルの耳が動いた。
「彼女も『本』に導かれたのだと思うわ」
押し殺した声であったが、ベルは聞き逃さなかった。
そして、見たのである。
席を立った女性とたちのカバンからかすかにのぞく、赤い表紙を――。
「もしもあの『本』に」
ベルのつぶやきを聞いたものがいただろうか。
「僕のことが書いてあったら……あの子たち、僕を殺すかな。いつ誰に後ろから刺されるかわからないねー。そんな『本』が出回っているんならさ」
ベルの表情を読むことは難しい。
今も、制服の下には刃を仕込んだ手甲が身につけられている。
ベルはゆっくりと立ち上がると、『本』を持つ女生徒たちの後ろを歩き始めた。
★ ★ ★
「学校は好きだったか?」
那智が教壇に立つと、いかにも教師のようである。いや、実際に、大学で教えているのだから、いかにもも何もないのだが、背景が高校の教室の黒板であると、大学教授もとたんに「理科の先生」に見えてくるから不思議だ。
「そうだな。それなりに楽しい学生時代だったと思う」
エドガーが、生徒の椅子に座って言った。
そのうしろには蔵木。
さすがにこの眺めは奇妙だ。スーツ姿の体格の良い男たちがふたり、学校の椅子に座っている。
「なるほど。ふたりは優等生というわけだ」
「きみは違うのか」
「優等生、とは言えなかったろうな。同級生をそそのかして、先生が宿直する部屋の冷蔵庫の中で細菌の培養をさせていたら、見つかってそいつが大目玉だ」
「なんでまた!?」
「別に。単なる実験さ。興味があるようだからアドバイスしたまで。もっとも、わざわざシャーレに入っていて誰が見ても寒天培地なのを、ゼリーかなにかと思って食った体育教師がうかつで――いや、まあ、あれは不幸な事故だった」
肩をすくめる。那智の学生時代はなかなか波乱万丈だったと見える。
「かように、生徒というものは……大人には思いもよらない世界を見て、ものを考えているものだ」
「そうだな。もっとも多感な時期だ」
エドガーが同意する。
日本の学校の教室は、彼には目新しいものだったろうか。それとも捜査の意味でか、机の上の落書きから、おしらせの掲示物まで、仔細に観察の目を向けていく。
「その多感な生徒の大半はごく普通の人間――対策課でいうところのエキストラだ。……あの『本』が、人を疑心暗鬼に導くことはわかっている。多感なエキストラの生徒は、おそらくもっとも狙われやすい対象なのじゃないか」
「その考えにも同意だな」
エドガーが席を立つ。
「学園のどこかに、『本』があるはずだ。いや、というより……」
エドガーのおもてが、すっと引き締まった。
「あれはここで作られたんじゃないか――。そんな気がする」
「悪くない推理だ。行こう」
那智はふたりを促す。
卒業生であるにしても、彼はずいぶんと、学内に精通していると言えた。
現役の学生であっても、普段、行かない場所なら、案内板に頼ることもあるだろうに、どうやら那智の頭の中には学園の見取り図が完璧に収められているらしい。
まったく迷うことなく、まっすぐに彼らが向かった先に、「印刷室」があった。
教師たちがプリントを刷ったりするのに使っている部屋は、そのとき、無人だった。
簡易印刷機が並び、インクの匂いがただよう部屋には、使いさしの紙束がうずたかく積まれている。
「『赤い本』は商業的に製本されたものじゃない」
エドガーは長身を折って、スーツが汚れるのもいとわずに作業机の下に潜り込む。蔵木が手伝おうと、積み上がっている紙の包みをどかし始めた。
「見てくれ」
果たして、エドガーが部屋の隅から発見したものは。
「切れ端……ですね。赤い――布?」
蔵木が驚いて、目をしばたいた。
エドガーは一冊の『赤い本』を取り出すと、その切れ端と比べてみる。
「これは」
那智はその『本』に興味を引かれたようだった。
「届いたのさ。俺にもね」
「表紙と同じもののようですね」
「やはり『本』はここで作られていたのか」
「だが印刷室を利用するのは誰でもできる。これだけではまだ……」
「もっと情報が必要だ。『本』に関係することはすべてあたってみたい。図書室に行こう。あとは……文芸部のような集まりがあるだろうか」
「あったはずだ。同好会なら――」
那智が、ふいに言葉を切った。
「何か?」
「……文芸部は、図書準備室を部室にしている。司書教諭が顧問になるのが慣例だから」
かれらは頷き合った。
女生徒たちは、最初、見知らぬ大人の女性がいることにぎょっとして立ちすくんだ。
「こちら二階堂美樹さん。警察の方なのですって」
「け、警察」
「でも安心して。美樹さんは……私たちの考えを理解して下さる方だわ」
「そうなんですか」
その一言で、女生徒たちはすっかり安心したような表情になる。
「さあ、かけて。始めましょう」
さほど広くもない部屋に、長机が置かれ、十人に満たない程度の男女学生が集まっていた。
「あらためて、ご挨拶しますね。私が、文芸部の顧問を務めております、川原貴魅子です。学園では高等部の国語を担当しています」
名乗った教師は、長い髪の、おっとりした雰囲気の女性だった。
彼女は穏やかな笑みを浮かべている。
美樹は、その表情が、この場にいる生徒たちに共通のものだと知る。不思議なほど、それは似通った印象の――まるで笑顔の仮面を貼り付けたような表情だったのだ。
「当文芸部では、生徒たちの自由な創作や表現活動を支援しております」
うたうように、川原貴魅子は言った。
生徒たちは、それぞれが一台ずつ、ノートパソコンを取り出し電源を入れる。OSの立ち上がる起動音が、なぜだかひどく不吉なものの到来を告げる響きのように、美樹には感じられた。
「……この部は、エキストラだけと聞きました」
「ええ。ムービースターやムービーファンがいては……不安でしょう?」
こともなげに、貴魅子は言う。
「不安……」
「あなたもそうじゃなくて、美樹さん」
「スターの存在が?」
「ムービースターがいることで、この街は常に騒乱にさらされている。そうは思わないかしら」
濡れた黒目がちな瞳が、美樹をじっと見つめていた。
「……」
美樹は思う。『赤い本』に綴られているのは、決まってムービースターの凶行と、かれらへの不安と恐怖。だが『本』であるなら、誰かそれを書いたものがいるはずなのだ。
「――っ」
小さく、彼女は息を呑む。
川原貴魅子が傍の椅子に置いたショルダーバックから、なにかがもぞもぞと這い出してこようとしている。
美樹の目がそれへ釘づけになった。
同じように、ドアの隙間からそれを見つめる目があることに、まだ誰も気づかない。
むろんそれはベルだ。
その無表情な横顔が、核心をとらえた瞬間、ごくかすかにその鋭さを増した。
★ ★ ★
「ねえ――」
「きみ……それは」
少年は、呼び止めた男に、そっと『本』を差し出す。
血のように赤い表紙が、妖気のような燐光をおびていた。
★ ★ ★
「誰かに『本』を読ませたいなら、きみならどうする」
図書室の書架の間を歩きながら、エドガーは言った。
「てっとりばやいのは直接、渡すことだな」
「そう。俺にも直に届いたからな」
「郵便で? 差出人は調べたのか?」
「判然としない。これは七瀬灯里に届いた『本』も同様だ。なんらかの特殊能力によるものだろうな。……しかし『本』を偶然見つけたというものもいる。市中にバラまかれているようだ。だからあるいは……」
木を隠すなら森の中。
この本の森の中に、赤い木の葉がまじっているかもしれない。
「分類は何だろうな」
ひとつとなりの書架の間に立つ那智が、本の隙間からエドガーに問う。
「さて。ミステリー小説かな」
エドガーの答えはジョークだったのかもしれないが、那智は、
「ならこっちだ」
と言ってエドガーを促す。
「そっちは自然科学系だから違う。人文系の棚だ」
「まさか図書室の本の順番まで覚えているのか?」
「まあな」
「驚きだ。それは愛校心なのか? ……おい、彼はどうした」
ふいに、エドガーは気づいた。
いつのまにか蔵木の姿がないのだ。
「ん。さっきまではいたんだが――」
「ねえ、おじさんたち」
声に振り向くと、そこにいたのは制服姿の隻腕の少年――ベルだった。
「『赤い本』を探してるんだろ」
「きみは学生か」
「いいや。体験闖入で来たんだよ。いや、違った。体験ニュー学割……だっけ? あれ?」
「依頼を受けたんだな」
「ああ、そう。それで……、『本』だったら、隣の部屋で作ってるよ」
エドガーと那智は、顔を見合わせた。
「おじさんたち、ムービースター? ムービーファン? だったらいいけど。エキストラだとやばいんだったよね。……開かなきゃただの本なのに……、人には好奇心があるから開けてしまう。それを……利用したのかな?」
「隣で作っているとは? 誰がいるんだ」
「だから――」
だん、と会話を割り込んで、荒々しく入口が開いた。
戸口に立つ、大柄なシルエット。
「どこに行ってたんだ」
と、那智。入ってきたのが蔵木だと知った。
「……待って」
ベルが、ほとんど本能的に身構えた。しゅん、と軽い音を立てて制服の袖口から刃が姿をのぞかせるのとほぼ同時に――
「っ!」
那智の体が宙を舞っていた。
書架にぶちあたり、そのまま棚を押し倒す。ドミノ倒しの要領で、次々に倒れていく書架。エドガーは、俊敏な動きで倒れてきた書架にはさまれることから逃れた。
「まさか」
蔵木が、ベルに突進していくのを彼は見た。
「やめろ!」
その叫びは、誰に向けたものだったか。
蔵木はマイティハンクの膂力でベルに殴りかかるが、ひらりとかわされてしまう。ベルの剣は、しかし、エドガーの叫びに応えたものか、蔵木に反撃することはなかった。
「おじさんムービースターだろ!?」
蔵木の目には理性の光はともっていなかった。
獣の唸り声をあげて、再び突っ込んでくる巨漢。マタドールのように、ベルはバックステップでその体当たりをよける。勢い余った蔵木は、図書室と図書準備室をつなぐ扉に、頭から突っ込んでしまうのだった。
うす暗い部屋に響くのは、キーをタイプする音だけだ。
生徒たちは一心にモニターを見つめ、その青白い明りが、かれらの顔を照らしている。
川原貴魅子は、自習中の生徒を見守るように、タイピングする生徒たちの後ろを歩いていた。
「そう……ムービースターはいつか必ず、善良な市民を傷つける」
夢みるような口調で囁く。
「ムービースターはいつか必ず、善良な市民を傷つける」
オウム返しに繰り返しながら、男子生徒は文字を打っていた。
「ムービーハザードが起こるかと思うと、怖くて表を歩けない」
「怖くて表を歩けない……」
ふふふ、と忍び笑いが漏れた。
「みんな、そのことを見て見ぬふりをしているの。でもここは学校だから教えてあげないと。識ることで、あなたたちは力を得るでしょう。知識は力。知識は新たな世界を開く扉のカギ……」
美樹の傍に、貴魅子は立った。
彼女を見下ろす瞳は、やさしく微笑っているのに、ぞっとするほど冷たい眼光を放っていた。美樹はその目が、川原貴魅子の肩の上のそれとまったく同じであることに気づく。
すなわち……ベージュ色をした、バッキーに似てはいるが、バッキーではありえない、角と長い尖った尾をもつ生き物と。
「あなたは……まだ識らないのかしら。いえ……識っているのに、その力を感じていないのね」
貴魅子の口調に、棘のある色がまじった。
「そう……。あなた本当は……バッキーを与えられている。忌々しいオリンポスの神々の庇護を受けているのだわ」
「……あなた」
美樹は、彼女をきっとにらみつけた。
もはや間違いない。
この女こそ元凶だ。
「誰なの」
「ふふふふふ」
女は笑った。
「私は知識を統べるもの。……識ることの枷に隷属せぬか――この虫けらめが!」
荒げた声のぬしは、川原貴魅子であってそうではない存在だ。そのことを、美樹ははっきりと悟った。
次の瞬間!
奥の扉をつきやぶって、男が一人、転がりこんでくる。
そして破れた扉の向こうに立つ、犬の耳の少年――。
誰かが悲鳴をあげた。
「ムービースターよ!」
「……あらあら。乱暴なお出まし」
生徒たちに比して、大してうろたえる風でもなく、貴魅子は言った。
「『私たちを殺しにきたのかしら』」
その言葉が発せられるとともに、肩の上のバッキーもどきが、咆哮するかのように、くわっと口を開けた。
「ムービースターが私たちを殺しにきた!」
生徒たちがそう叫んで、立ち上がる。
たちまち図書準備室はパニックになった。
★ ★ ★
綺羅星学園に勤務するひとりの教師が、その日、その時刻、一通のメールを受け取った。
授業も終わったことだし、クラブの担当にもなっていない彼は、帰宅しかけていたのだが、メールの着信音を聞いて、携帯電話の画面を開いてしまったのである。
「……川原先生?」
差出人は、国語教師の川原貴魅子からだった。
彼女といつメールアドレスの交換などしただろう。首を傾げながら、本文を開く。
「……」
読むうちに、彼の顔から血の気が引いていく。
同じメールは、同時刻に、およそ考えられる限りの、生徒や教師のもとに届いていた。
そしてそれを読んだものは……識ってしまったのである。
その恐怖――、その不安を。
不安の種子は急激に発芽し、脆弱な人間の心など、たやすくのっとってしまう。
識ることの枷にとらわれて、人々は奴隷と化した。
★ ★ ★
「大丈夫か」
「ええ……突き飛ばされただけ」
「何なんだ。あの『本』の効果はエキストラにしか及ばないはずでは」
エドガーが美樹を助け起こす。
那智は、ベルと蔵木が戦っている様子を見て言った。
「それで間違いないと思うわ」
「……」
「私は科捜研の二階堂美樹。彼女が生徒たちを操るところにいたけど、私は操られなかったもの。彼女、それは私がムービーファンだからだって言ってた」
「彼女とは?」
エドガーが訊ねた。
「国語教師の川原――といったと思うわ。若い女性の教師。でも……なにかおかしいの。角のあるバッキーを連れてて」
「彼女は逃げたんだな」
「ええ」
「俺は追う。きみたちはここで――」
「私も行きます!」
「……学校の中は私がいちばん詳しい」
「……そうか。では行こう――と言いたいところだが、その前に……!」
エドガーは、暴れる蔵木に後ろから組みつく。
ベルの剣の切っ先が喉元に突きつけられた一瞬のことだった。エドガーが腕で蔵木の首を固めると、数秒ののちに蔵木の体がぐったりとなる。
ばさり、と赤い表紙の『本』が落ちた。
「これ……」
「触れるな」
那智が美樹を制した。
「ムービースターまで影響を受けた。この『本』だけは何かおかしい」
「誰でもおかしくなるんなら」
ずぶり、とベルが『本』を剣で突き刺した。
「誰が敵で味方かわからなくなる。このガッコー……閉鎖された空間の中でそんなことになったらさ……蓋をした戦場だよね、まるで」
「あそこだ!」
ベルが、廊下の窓から下を指した。
渡り廊下を駆けていく後ろ姿。
「……そう、わかった」
美樹が、携帯電話を切ったところだった。
「身元を照会したけど、川原貴魅子の経歴におかしなところはないわ。やっぱりあのバッキーもどきが問題なんだと思う」
「あの廊下の先は?」
「クラブ棟」
エドガーの質問に那智が応えた。
「まずいな。生徒が大勢いる」
その後の判断は、一瞬だった。
階段を降り、同じ道のあとを追っては追いつかないと判断したのか、エドガーはそのまま廊下の突き当りの窓を開け、渡り廊下の屋根の上に飛び降りたのだ。
そして屋根からも飛んで着地する。
「川原貴魅子だな」
「……」
最初は驚いたふうだったが、やがて、値踏みするような目でエドガーを見つめ、頬をゆるめた。
「何が目的だ。そのバッキーのようなものは何だ」
「私は市民に、正しい知識を授けているだけ」
「いたずらに疑心暗鬼を煽っているだろう」
「ムービースターによって街の治安が乱れていることは事実だわ」
「あの『本』によって乱された治安もある」
ふふふ、と貴魅子は笑った。
「識ることによって、力なきものは力を得る……」
校舎側から、残る3人が追い付いてくる。
「ガッコーってさ」
ベルが言った。
「いろいろ教えてくれるところなんだって? それって、どこまでが捏造でどこからが真実かも教えてくれるのかい?」
貴魅子は、軽蔑の表情でそれに応えた。
「いずれ……ここへたどりつくものたちがいるのは予測できていたわ」
肩の上で、ベージュ色の生き物が長い尻尾をうねらせる。
「でも私はムネモシュネやイアペトスとは違う。備えをしているもの」
いつのまにか、彼女の手の中に携帯電話があった。その指が携帯を操作する。
「『言葉』は……、エピスメーテの毒を得て不安の種子になるの。そしてそれは疑心暗鬼の枝を茂らせ、不安の幹の上に恐怖の花を咲かせる。それはやがて混乱という果実をつけるでしょう。この街の秩序を脅かす禁断の果実を。世界の障壁はほころび、われわれの力が地上に満ちるときが再びやってくるのよ」
悲鳴が、聞こえた。
立て続けに……いくつもの悲鳴が。
怒号に――ガラスの割れる音。なにか騒々しい、不穏な空気がただよっている。
「なんだ……?」
校舎と、クラブ棟のそれぞれから、大勢の学生や教師たちがあふれだしてきた。
みな、手に手にバットだと竹刀だのと武器になるものを持ち……別のものたちはわけのわからないことを叫びながら。
「こ、こいつら、まさか」
「いかんな。正気じゃない」
「み、みなさん、落ち着いて下さい。私は警察の――きゃっ」
「大丈夫か!」
「こら! 逃げるな!」
「なんてことだ――」
もはやそれは、生徒だの教師だのと呼べる集団ではない。
暴徒だった。
★ ★ ★
「そ、そうなんですか!? で……、みなさんは無事? はあ、それは幸いでしたが……学校はまだ混乱状態? わ、わかりました……」
植村は電話を置くと、脂汗をぬぐった。
『赤い本』について重要な情報があきらかになったのはいいが、綺羅星学園の生徒や教師たちが暴徒化し、元凶であるとおぼしき国語教師の女が混乱に乗じて逃亡したという。
さて、どうするべきか、と立ち上がった彼の目に、ひとりの男の姿が飛び込んでくる。
対策課のカウンター越しに見えた姿は、ゆったりした布の古代風の衣装で長躯を包んだ若い男である。端正な顔立ちや、鍛えられた体つきは彫像を思わせる。背には、銀色の金属でできた翼めいたものを負っている。
ムービースターだろうが、はて、どこかで見たような……と、思った植村の意識の中で、ひとつの記憶が実を結び、そのことが彼を呼吸が止まらんばかりに驚かせる。
「すまない。私の失策だ。さりげなく誘導して真相に至らせようと思ったが、敵がこのような策を用意しているとは思わなかった。さすがに狡猾……『知識』をつかさどるとされるだけのことはある」
男は言った。
「あ、あ、あなたは……」
「久方ぶりだな、地上の民よ。ミダスはもう来ているそうだな? さて……わが兵を動かせればいいがあいにくそれは禁じられているゆえ、諸君の力を借りたい」
「あ、あなた、タナトス兵団の……!」
「さよう。タナトス兵団3将軍が第2席、白銀のイカロス。新たな命により降臨した。これより、ティターン神族との戦いを開始する。敵は『識ることの枷・テイア』。言葉に呪力を与えて統べる女神だ。尻尾を見せたこの機を逃さず、仕留めなくてはな」
新たな戦いが、銀幕市に幕を開けた、それがその瞬間だった――。
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クリエイターコメント | ご参加ありがとうございました。 『サーチ・フォー・ザ・ブック』をお届けします。
学園に潜む闇のあぶりだしに成功したようです。 みなさんは、物語の新たなターニングポイントに立ち会われたこととなりました。 さあ、今後の激動のゆくえに、どうぞご注目下さい――。
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公開日時 | 2008-11-23(日) 01:00 |
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