<ノベル>
ここにある感情を、例えば詩のように紡いだなら綺麗な言葉になるだろうか。
ここにある感情を、例えば綺麗な言葉で飾り立てたなら笑えるだろうか。
例えばそれは、真昼の蝋燭のようなものだと。
そこにあることはわかりにくく、気付けることは有り難い。
そんな偶然を人は、希望と呼ぶのかも知れない。
◆ ◆ ◆
世間は闇に沈み込んでいる。
それにも関わらず、対策課には四人の姿があった。
「ベラは何してんだ」
苛立たしげに吐き捨てたのは、麗火だ。
「ベラだって【アルキラス】の一員だろう。相手はただの女だぞ、逃げ出せないわけねぇだろうが」
「……わからない」
セイリオスは首を振り、困惑したように植村を見た。それを追って振り向くと、植村は疲れた顔に同じような困惑を浮かべていた。
「喋るのを聞く限り、落ち着いていたと、思います。こちらが驚いてしまっていたので、ゆっくりとはっきりとした声が、いつものベラさんだと思ったのかも知れませんが……」
曖昧な言葉に、麗火は息を吐く。それから、毛布にくるまってソファで寝ているリオネに目を移した。
リオネの夢の内容から、今までの二人と同じく痣に寄生されているだろうことは、容易に想像できた。そして、失踪者の内の何名か、あるいは全員が既に冷たくなっているであろうことも。
だから、口には出してみたものの、すでに推測は出来ていた。赤沼の言葉には、なんらかの強制力、拘束力といったものがあるのではないかと。切り裂き魔の例からして、例えば痣に付与された能力であると考えても不自然ではないのだ。むしろ、そういったものがないのであれば、あの細い女が警察官やベラを拘束できるとは、考え難い。
「なあっ、はやく行こう、遅れたらその分ベラがあぶない! 急がなきゃ!」
太助は今にも飛び出しそうになる衝動を抑え、しかし抑えきることは出来ずに地団駄を踏んだ。
今の銀幕市には、様々な不安が溢れている。赤い本然り、エキストラに余計なものを憑かせたことによって現れたアンチファン然りだ。それに、ムービースターすらもが恐らくは抵抗も出来ずに行方不明になっていることから、スターに言うことを聞かせるディスペアー憑きの可能性すらある。
絶望の使徒レヴィアタンを退け、ようやく安息が訪れたと思っていたのに。
「落ち着け、太助。……人質を取られている以上、冷静に行動しなければ」
ジナイーダ・シェルリングの静かな声に、太助は臍を噛むような思いだった。切れた言葉の後を予見して、今はその声が冷たく聞こえて、やるせなかった。
しかし同時にその通りだと頷く自分の声がある。そういった可能性があるからこそ、迅速に、確実な対策を講じておかなければならないのだ。
ジナイーダは揺らいでいた瞳が僅かに静まる気配を感じ取って、小さく頷いた。この子狸は幼いが、それでいて強い芯があるように感じられる。
それから、初めて佐伯の依頼を受けた時に茶盆を持ってやってきた、赤沼祥子という女を思い出していた。彼女は少なくともジナイーダに不快感を感じさせることはなく、ただ微笑んでいた。今となっては、そのただの微笑みが不気味であった。これほどの殺意をあんな微笑みで覆い隠してしまっていたのだ。嫌いだとはっきりと拒絶しておきながら、ムービースターの前ですらあの微笑みを崩さず尚かつエージェントとして感情の機微に敏感にならざるを得なかった自分に不信感を抱かせなかったのは、限りなくクロでありながら決定的な証拠を掴ませずにいたのは、もはや優秀、見事、天晴れだと言う他にない。
「まだらの蜂に殺された人の身内、か」
ぽつりと呟いたのは、銀の髪を高く結い上げた香玖耶・アリシエートだった。
香玖耶はジャーナルを思い返す。香玖耶が実体化したのは、まだらの蜂が雨の日に朽ちた黒いフィルムとなって溶けて消えた、以後のことだ。だから、当事者としての感覚はない。ジャーナルで読んで、悲惨極まりない事件だったということだけを、重々に承知している。
「ねぇ、植村さん。赤沼さんがいつから手袋をしているのか、覚えてます?」
植村は考えるように視線を泳がせる。
「保健師として来るようになったのは、去年の四月からです。……手袋を付けてくるようになったのは、その、今年の三月に入ってからだと思います」
「……そう……赤沼さんが使っていたものって、何か残ってます?」
「赤沼さん、仕事道具はすべて持ち歩いていましたから……あ、机ならありますよ」
こちらです、と植村が示したのは、この市役所にはありふれた何の変哲もない薄い灰色の仕事机だ。赤沼が仕事道具はすべて持ち歩いているというのは確かに事実で、机の上には何もない。鈍い灰色が電灯を無機質に照り返している。
香玖耶はおもむろにその机へと掌を当て、目を閉じた。さわ、と風もないのに銀の髪が揺れる。
香玖耶は精霊と契約を交わし召喚・使役するエルーカ、召喚師だ。精霊には、二つある。自然物……木や風、水、火などに宿る、世界の根本的な真理。そして、人工物に宿る、持ち主の心やその物の歴史といった、個々の事情に関する記憶という真理。今、香玖耶が読み取ろうとしているのは後者だ。
ふう、と淡い白い光が掌に宿る。それがじわ、と深紅に染まり。
どん。
香玖耶は後方へと吹っ飛んだ。
「香玖耶さんっ!?」
植村の声が遠くに聞こえた。香玖耶は無機質な白い光を投げる天井を見上げたまま、言葉を無くしていた。
全身から汗が噴き出している。奥の歯の根が噛み合わず、小さく音を立てていた。ひどく体が冷えていた。息がうまく吸えない。紫の瞳は瞬きをすることも忘れている。涙が止まらない。それは、哀しくて流れるのではない。切なくて流れるのではない。
それはただ、恐ろしくて流れたのだ。
植村が、佐伯が、その細い体を抱き起こす。手近の椅子を引き寄せて、香玖耶を座らせた。ジナイーダたちが寄り、案じるように肩や手に触れる。その手がとても温かくて、香玖耶はまた涙を流した。
「どうした」
麗火の声。冷たく端的な声。けれど、その麗火の声ですら、今の香玖耶には温かい。
香玖耶は大きく息を吸う。それをゆっくりと吐き出して、真っ直ぐに麗火の目を見た。
「机に残る、赤沼さんの思念を読み取ってみたの。細かいことは何も読み取れなかったけど、一つだけわかったことがあるわ」
それは、深い深い、まるで底なし沼のような黒さ。
ずぶりずぶりと沈んでいく中、首に縄を掛けられて、じわりじわりと絞め殺されるような黒さ。
ただの黒ではない、それはあまりいにどす黒い。
溢れに溢れた鮮血が、乾きに乾いた赤のような。
「随分と抽象的だな」
相変わらず冷ややかな麗火の声に、香玖耶は少し笑う。
「ごめんなさい。でも、<絶望>とか<憎しみ>って言ってみてもいいけど、何か違うのよ」
あまりにしっくり来ない。
ただ深く、ただどす黒く、背筋を凍り付かせ恐怖させるこれを、なんと呼べばいいのかわからなかった。
「植村はいるか! いいや、この際誰でもいい、とにかく調査員を集めろ!」
荒々しく対策課の扉が開かれ、白衣を着た老人が怒鳴り声を上げた。奇妙なゴーグルやら金ぴかに光るグローブやらを装着した、誰あろう東栄三郎である。
瞬間、太助の目がぱっと見開かれた。
「東博士、ゴールデングローブかしてくれ!」
「仕方がない、この際はスターでもなんでもとにかく人員が必要だからな」
今一会話が噛み合っていないことに、太助は僅かな苛立ちを感じた。
「あのな、ベラが危ないんだ、ちゃんと聞いてくれよ」
そこでようやく東は太助に向き直る。麗火たちも太助に視線を向けた。
「だってな、スターがてーこーもでいないで行方不明になってんだ。アンチファンか、ディスペアー憑きなのかなって考えちまうだろ」
三人ははっとした。もしも後者であった場合、ムービースターである自分らは、抵抗する術がない。ならば、アズマ研究所が開発したこのゴールデングローブは、確かに有用なのだ。
「ディスペアー憑きだと? どういうことだ、説明しろ」
東が興味津々に聞いてくるのを、やんわりと植村が止めた。私たちが説明しますからと、それに渋々と納得して五人分のゴールデングローブを借り出した。
ふと太助は震える手を見て、顔を上げた。セイリオス。太助はとと、とその頭によじ登る。
「俺も一緒に行くからな。だから、行こう。ベラも待ってる。な?」
もっふりとしたお腹をその頭に押しつけて、太助はぎゅうとセイリオスにしがみついた。ベラを一番に考えるけど、赤沼のせいでおかしくなってるかもしれない。気絶させなきゃいけないことも、あるかもしれない。その時は、ごめんな。しばらくじっとしていたが、やがて小さく息を吐く気配がする。ぽんぽんと肩を叩かれて顔を覗き込むと、その目に強い意志を煌めかせた深紅の瞳を見る。
それを見て、佐伯は小さく頷いて口を開いた。
「赤沼宅には、ムービーファンの刑事を一人張り付かせている。もしやそろそろ一人で突入しようとしているかもしれない。君たちが行くことを連絡しておくから、合流してくれたまえ」
五人はそれに頷いて、対策課の扉を開いて息を呑んだ。
「……お嬢」
太助が呟く。
そこには、赤い髪を今はショートカットにした青い瞳の少女……サニーデイのバッキーを抱きしめた、リゲイル・ジブリールが立っていた。
「私も連れて行ってください」
青い瞳を真っ直ぐに向けて、リゲイルははっきりとそう言った。
麗火はその瞳を観て、危うげな光を見た。しかし、それでいて強い意志の読み取れる光を放っている。メンバーを見回し、ムービーファンがいるのは悪くないと判断した。
「前回の剣士崩れに憑いていたのは、ムービーキラーだった。スチルショットも効くんじゃないか」
「でも」
太助が心配そうな声を上げる。リゲイルは青い瞳を太助に向け、小さく首を振った。
「一緒に、行きます」
◆ ◆ ◆
目に見える形で現れるそれは、とても解りやすく、しかし同時に理解できない。
夢の街と呼ばれるここで、それこそ夢のように儚く消え、悪夢のように現れた。
ここにある感情を、言葉にしたらとても陳腐で滑稽だった。
敢えてそれをするのは、笑いたかったからかもしれない。
例えばそれは、夜半の鴉のようなものだと。
そこにあることはわかりにくく、気付けることは有り勝ちだ。
そんな蓋然を人は、絶望と呼ぶのかも知れない。
◆ ◆ ◆
夜であることに配慮して、リゲイルを加えた六人は自らの足で住宅街へと駆けていた。
駆けながら、麗火は考えていた。
赤沼を殺すつもりも、殺させるつもりも無い。痣だけは、必ず落とすと決めている。しかし、今赤沼と向かい合って、かける言葉は思い付かなかった。どの立場から話しかければいいのか、選択肢が多すぎて解らない。真摯に語り掛ければ分かり合えると楽観的に進むには、相手が悪過ぎる。
そもそも、麗火は説得や会話には消極的だった。同情は優越の裏返しと取られかねないし、本当の意味での哀しみというものは、誰にも共有されない、自分だけのものだ。ムービースターという幻に、幻でない本物の家族を殺されたという事実は、多分また別の哀しみであろうと思えるし、そうした思いは口から出したらその時点で別物となる。誰かの耳に入ればまた歪む。そしてそれ以上に、何よりも赤沼自身があの場所から這い上がるつもりがないのならば、引き摺り上げることはとても難しいだろう。
住宅街を行くと、ふいに暗い路地から人影が現れた。六人の足が止まる。
「クールブラック!」
「リガ……貴女も来たの。太助くんも」
現れた人影は、漆黒の髪を流した少女だった。ジナイーダ、それに香玖耶と麗火は驚きを隠せない。佐伯が言っていた刑事がこの少女なのか。
「刑事の流鏑馬明日です。よろしく」
その疑問に答えるように、少女は軽く頭を下げた。ヒップバックからはラベンダーのバッキーが顔を覗かせ、くるりとした目を向けている。
「ベラは」
口を開いたのは、セイリオスだった。明日は太助を肩に乗せた少年を見て、背後に佇む一軒の家を見上げた。
「夕方、まだ陽が落ちきる前に、ベラさんはここを通りかかった。その時、赤沼さんにお茶に誘われて、入ったきり出てこないわ。あんまり遅いから心配になって、訪問しようかと思っていたのだけれど」
「一人でか?」
ジナイーダが眉を潜めて言うと、明日は頭を振る。
「ちょうど、佐伯課長から電話が入って。それで、待っていたの」
だから中の様子はわからないわ。そう付け加えて、明日は六人に向き直った。
「俺、スライムになって中を見てくる」
「「それは危険だ(わ)」」
麗火と香玖耶の声が重なって、太助はぱちくりと瞬きをした。二人は数瞬、顔を見合わせて。
「「俺(私)が風精で様子を探らせてくるから」」
再び顔を見合わせたところで、明日が小さく笑った。ジナイーダは必死に堪えている。太助とリゲイルも声を殺して肩を震わせ、セイリオスは小さく肩を竦めた。
「おまえら、いつの間に仲いいのな」
悪くはないけど、その解釈はちょっと何か違う。
心の声もシンクロしたことには、二人は知らない。
明日が勝手口があるようだと言ったので、麗火はそこから、香玖耶は二階から探ることにした。居間と思しき場所の電気が点いているので、赤沼はそこにいるのだろう。
そよ、と二つの風が靡いて僅かな隙間より中へと侵入する。二階は暗い。暗いが、風精を通して香玖耶にははっきりと中の様子が見て取れた。そこは、誰かの寝室らしい。八畳程の部屋は、中央に丸いカーペットが敷いてあるフローリングである。大きめのクローゼットにドレッサーとベッド、そして机に本棚。しかしその本棚には、何も入っていなかった。不審に思って可動式のそれを風精はすらりと動かす。そこには、映画のパンフレットが、放映された年月毎に五十音順で綺麗に所狭しと並べられていた。香玖耶は胸がちくりとした。こんなにも、映画を愛していた人が。動かした棚を元に戻し、机の上を見やる。机の上はこざっぱりとしていて、赤い斑模様の表紙の冊子が一冊、置かれていた。香玖耶は眉をひそめながら、そっとそのページをめくる。そこには、愛らしい字で日記が書かれていた。
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2006年4月 晴れ
今年も綺麗に桜が咲いた。
私の心もまるで桜が咲いたかのようにふわふわとしている。
今日から私も、映画を作る一人となったのだ。
ずっと見るのが好きだった夢の世界を、私も一緒に作れるのだと思うとわくわくする。
就職祝いにとお姉ちゃんが買ってくれたウエストポーチをお供に、出社した。
訓辞を受け、社内見学。そして、自分のデスクを与えられる。
これからが楽しみだ。
:
5月 雨
初めて出たお給料で、お姉ちゃんを誘って食事へ出かけた。
雨だったけど、映画を観てから、だったし。私の大好きな推理モノ。
私は推理しないで見る方が好きなんだけど……お姉ちゃんは、一生懸命観るタイプじゃないくせに、犯人がすぐにわかっちゃうみたい。喋り方とかでわかるって言ってたけど……わ、わからない。
それに、登場人物の考察が面白い。
そういったら、伊達にカウンセラーをやってるわけじゃありませんからね、って笑った。
お姉ちゃんが、患者さんと向き合って話をしているのを何回か聞いたことがある。
本当は、いけないんだけど……。
私は患者さんの気持ちがすごく辛くて、一緒に泣きそうになっちゃうんだけど、お姉ちゃんは黙って聞いてるだけ。横で聞いてるとなんて冷たいんだろう、って思ったこともあった。でも、ただ聞いてあげるっていうのもすごく大変なことなんだろうって最近わかるようになってきた。
患者さんは、自分が何を考えているのか、何を思っているのか、どうしたいのか、わからなくなっている人が多いんだって話してくれたことがある。だから、話を聞くことで、言葉にすることで、少しでも自分の中を整理することができればいいと思う、とも言っていた。
他にも色々言ってたけど、難しくてよくわかんない。でも、お姉ちゃんに話をして帰っていく人の顔が、来た時よりも明るくなっているのを見ると、私はお姉ちゃんを誇らしく思う。
:
7月 曇り
今日は先輩にとても怒られてしまった。
セットに置いておかなきゃいけない小道具を、出し忘れてしまったのだ。
その一つがないが為に、一時間も撮影を滞らせてしまった。
もっともっと、精進しなきゃ。
:
8月 晴れ
今日はとてもびっくりすることが起きた!
映画の中の人物達が実体化するという、不思議な現象が起きたのだ。
あんまり突然の事で、お姉ちゃんもいつもはにこにこ笑ってるだけなのに、目を見開いて驚いていた。ちょっと笑えたのはヒミツ。
色んな人が溢れてて、街も私たちもわからないことだらけだけど、嬉しいのも事実。
誰だって、映画の中の人とお話できたらな、って考えるよね?
……お姉ちゃんには、考えたこともない、って言われちゃったけど……まあ、お姉ちゃんらしいか。
そう、それからもっとびっくりしたことは、バッキーがいたこと!
バクに似た両手に乗るくらいの小さいゴムマリみたいな生き物。
ムービーファンという、「夢見る力を持つ者に与えられる」んだって。
映画に携わる一人としては、とっても嬉しい!
バッキーはとっても可愛くて、早速「ココ」って名前を付けた。ココア色だったからね。
そうしたら、お姉ちゃんに安直って言われてしまった。可愛いからいいんだもん。
それに、ココって呼んだら顔をこっちに向けてくれたんだから、気に入ってくれたんだよね?
:
2007年 1月
ずっと楽しかった「本物の映画の街」になった銀幕市を、チョコレートキングが襲ってきた。
とても可愛い映画だったのに……何が何だかわからなくて、駆け回ってる内にみんなが納めてくれた。
私も、役に立てれば良かった。だって、バッキーをもらったってことは、そういうことでしょう?
チョコレートキングのフィルム、ボロボロになってたって聞いた。
色んな怖い事件を起こすヴィランズのこともあるし、私は少し怖くなってる。
でも、それは私だけじゃない。
ムービースターの中にも、そういう人はいた。友達になった、スター。
お姉ちゃんを紹介したら、最初は怯えていたけれど、話をしている内に楽になったみたい。
お姉ちゃんにごめんねって言ったら、いいのよ、って笑ってた。
確かにスターは恐ろしい能力を持つ人もいるけれど、関わって話を聞いてみたら、普通の人間と変わらないってわかった、って。今までは個人でやっていたカウンセラーだけど、対策課でやろうかな、って言った。
私は、お姉ちゃんはすごい、って思った。
映画が大好きな私が、スターって怖いな、って思っちゃったのに。
でも、お姉ちゃんの言葉を聞いて、目が覚めた。
お姉ちゃんが対策課で頑張るなら、私はココと一緒に頑張っていこう。
だって私には、夢見る力がある、って神様にお墨付きをもらったんだから。
:
:
香玖耶は唇を噛む。
どうして。
ぱたりと日記を閉じた。その部屋を出て、風精は向かいの部屋へと滑り込む。そこはどうやら、赤沼の部屋のようだ。広さは先ほどの部屋と同じくらいで、ただしこちらは和室だった。本棚にはカウンセラー関係の本がぎっしりと詰まっている。特に変わったものも気配も感じられず、階下へと降りていった。降りていくと、そこは明るい電灯の下、茶を啜る女が一人。
――赤沼。
勝手口から入った麗火の風精は、身を滑り込ませるなりびくりと体を震わせた。外にいる時には感じなかった不吉の気配。風も麗火も、この気配を知っている。風は明らかに怯えていた。この台所は所謂ダイニングキッチンというもので、居間の明かりがこちらまで漏れてきている。風は人の目には捉えられないのに、その明かりに身を曝すのが嫌なようだ。赤沼の姿を確認する事はできないかと嘆息して、麗火は這うように留まる風を通して中を見渡した。
中は整頓されている。食器棚にはきちんと、まるで飾られているかのように食器が収められている。埃が蓄まっている様子もないから、赤沼はよく使うのだろう。今も流し台には陶器の急須が乗っている。軽く触れるとまだ熱を持っていて、寒々しい気配とは裏腹にそれはほのかに温かかった。
ふいに異質な空気が風に触れた。生温いその空気はねっとりとした色を纏って沈澱している。麗火は嫌がる風をその空気の元へと進ませる。それはどうやら、床下からくるものだ。蓄まりに蓄まった濁ったものが、漏れ出でているのだ。嫌々と言いながら、風は渋々と中に身を踊らせる。
中は、真っ赤だった。麗火はあまりの光景に思わず口を押さえた。肌があわ立つ。それは嫌悪を通り越し、驚愕を通り越す。
床一面に広がる血、血、血。血溜りの中には沈黙したフィルムが幾つも転がっている。踏み付けられ、砕かれたフィルムもあった。壁一面に並べ立てられているのは、腐乱した頭。切り開かれた胴体は空で、取り出された臓物は分類されて備え付けられた棚に鎮座している。部屋の中央には拘束具の付いた寝台があり、まだ乾き切っていない血が滴り落ちている。
一人の人間が作り出したとはとても思えぬこの光景は、正しく悪鬼の所業。麗火は腹の底が冷えていく思いがした。ここは、地獄と呼ぶに相応しい。
ふと空気が揺れて、風は弾かれたようにそちらを見た。おぞましい赤の片隅に、蹲りまだらに染まった白がある。
――ベラ。
「「戻れ!」」
二人は叫ぶ。おぞましい程の凝りが全身に叩きつけられて、胃の中のものを吐き出した。全身から冷や汗が吹き出す。
「だいじょぶかっ?!」
太助の声。麗火は小さく頷き、香玖耶を見やった。香玖耶もまた小さく頷き、立ち上がる。
「あらあら、寒いでしょうに」
ふいの声に顔を上げる。赤沼がにこやかな笑顔でこちらを見ていた。ゆらと空気が震えて錆臭い臭いが鼻をつく。思わず身構えると、赤沼はさらに笑みを深める。
「立ち話もなんですし、どうぞ」
七人は一瞬目配せをして、すと明日が先に歩み出た。それに続こうとするセイリオスの肩を、麗火が引き留めた。振り返る。
「ベラは、今のところ大丈夫だ。……赤沼からは、離れておけ」
強張った背中から少し力が抜けるのが、手に感じらる。麗火は口端を持ち上げて、肩を叩いた。
玄関を入って、七人は顔をしかめた。この家は、血の臭いに塗れている。
赤沼は平然とソファを勧め、お茶の準備をし出した。急須を濯ぎ、新しく茶葉を入れている。
どうして。
香玖耶は唇を噛んだ。
ジナイーダと麗火は、よくもこの中で平然としていられるものだと関心してしまった。噎せ返る程の血の臭いは、まるで怨嗟のように身をキリキリと引き絞った。
太助は、セイリオスの頭にしがみついている。こんなに酷い臭いを、嗅いだことなど無い。それはリゲイルも同じで、今にも戻してしまいそうになるのを必死に堪えていた。ふと目端に黒い箱が映り込んで、リゲイルはそれを見やる。仏壇だ。その中に、リゲイルとそう年の変わらぬ快活そうな少女が微笑んでいる。明日もそれに気付いたようだ。すとその前に立つと、鈴を鳴らし手を合わせた。リゲイルもそれに習う。
「どうぞ、掛けてください」
赤沼の声で顔を上げた。赤沼は対策課にいる時と変わらず、微笑みを浮かべている。ただ違うのは、その手にあの白い手袋を嵌めていないことだ。麗火はその手の甲を見て目を眇めた。
「さて、何かお聞きしたい事があるようですけれど」
言って、赤沼は黒い瞳をセイリオスへと向ける。ソファに座らず、窓際の壁に寄りかかったセイリオスは苦々しく顔を歪めた。
「……ベラを、返して貰う」
「ええ、どうぞ。私は非力な人間ですから、止めようと思っても無理ですもの。……ただ、鍵はどこにあるでしょうねぇ? 部屋のどこかにありますよ。どうぞ捜してください。尤も、貴方が行ければ、の話ですけれどね?」
くすくすと笑う赤沼。セイリオスは拳を握った。
血だ。
血の臭いが、体を縛り付ける。
それを横目に見て、明日が口を開く。
「赤沼さん、貴方は何故、こんなことを?」
「何故?」
赤沼の赤い唇が楽しげに歪んだ。
「嫌いだからですよ。映画も、ムービースターも、ムービーファンも」
太助は思わず俯いた。
今まで、銀幕市の人々は良くしてくれる人ばかりだった。もちろん、誰からも好かれているとは思わない。けれど、面と向かって嫌いだと言われるのは、やはり辛かった。
沈黙が降りる。
ムービースターとムービーファンは、自分たちが嫌いだと言う女に、どう言葉をかければいいかわからない。言いたいことは、山程ある。思うことも、山程ある。けれど、どれもこれもが届かないような気がして、この薄い笑みの前にただ沈黙してしまった。
「……だからって、あそこまでやることは、なかったんじゃねぇか」
コチコチと時計の秒針が鳴る音だけが響いてしばらく、麗火が口を開いた。こんなところで、問答している暇はない。しかし、聞かなければならないことも、ある。ただ、口から出た言葉は、聞きたいこととはまるで違った。
「ああ、あそこへ入ったのは麗火さんでしたか」
名前を呼ばれて、麗火は微かに顔を歪める。赤沼は事も無げに、ただ薄い笑みを張り付かせて喋った。
「元々は、調べ物をしていたんですよ。その為には、対照が必要だったんです」
「調べ物……?」
ジナイーダが繰り返すと、赤沼は頷いた。
「銀幕市に魔法が掛かってから、市民だけではなくムービースターと話す機会も増えましてね。彼らの精神は、私たち人間と変わらないように感じました。その後、興味を持ったのは肉体的な差違です」
肉体的な、差違。
明日は眉を顰めた。
「これは、魔法が掛かった当初からあった疑問ではあるんです。ただ、それを実行する機会がなかっただけで。偶然そうした機会に恵まれましたので、解体してみただけですよ」
「だけ、だと」
ジナイーダが声を低くする。赤沼はくすりと微笑む。
「死なないように解体するのには、苦労しましたよ。何せ、お腹を割いたらすぐにフィルムになってしまうんですもの」
香玖耶は目を見開いた。怒ることも、忘れた。これほどの衝撃が、今までにあっただろうか。今まで、千年以上の時を生きてきて、これほど人間を憎らしく思ったのは。
声が出ない。舌が喉に張り付いてしまったようで、息をするのも苦しい。血の臭いに酔ったか、太助は目の前が霞んで見えた。赤沼の唇が笑みを作っているのだけが、やけにはっきりとわかる。
精神科医は、患者に魅入られることもある。アンチファンだとして、感染源ではなく一次感染者、すなわち彼女もまた被害者なのかもしれないと、思っていた。
けれど、思っていたすべてはガラガラと音を立てて崩れていく。腕に付けたゴールデングローブが、やけに重く感じる。太助は、人間が好きだ。銀幕市でも、それは変わらなかった。むしろ、良くしてくれた。気の良い老夫婦に家に居候させてもらって、タヌキ姿で歩いていても、猟銃を向けてくる人間はここにはいなかったのだ。そう、今までは。
「私は」
明日が口を開く。微かに、その唇が震えている。
「私は、ムービースターも一人の人、銀幕市民として接しています」
赤沼が続きを促すように、湯呑みを置いた。
「戸惑うことも、あります。一般人が犯罪に慣れきったり、犯罪に手を染めたりしないか……命を、軽く見てしまわないか。……そう、先日の道崎や大川内や、貴方のように、行使してしまう人がいないか、不安に思っています。そして、現実になってしまったことに、とても……」
明日は俯く。
「……誰かが死んでしまったら、哀しい」
昔。海で、友人が死んだ。自分を、助けようとしてくれて。岩で座礁した自分を、助けようとして。伸ばした手は、届かなかったけれど、あの塩辛い、荒々しい海の中で。
「死んでいい人なんか、いません。死なせていい理由だって、ありません」
真っ直ぐに、赤沼を見る。
血に塗れたこの家の中で、それでも笑う女に否定の言葉を投げつける。
「そうね」
沈黙の後、赤沼は言った。
「でも、妹は殺されたわ」
その目に宿る炎の色に、明日はびくりと体を震わせた。
「あなたたちムービースターに、殺されたのよ」
──あんたが殺したのよ。
明日は息を詰まらせた。
赤沼の目が、声が、あの時、明日を詰ったあの子の母親に重なって。
そして、カウンセラーと患者という構図に、どうしても、彼が重なった。中央病院で、あの庭で微笑む、彼が重なって……胸が、苦しい。
「ねぇ、死んでいい人はいないんでしょう。死なせていい人も、いないんでしょう。でも、妹は死んだの。殺されたの。不条理に、幻に、夢に、悪夢に、ムービーキラーに、あの「まだらの蜂」に」
──あんたがメイを殺したのよ。
明日は目の前が暗くなるのを感じた。亡くなった妹さんの為にも、これ以上罪を犯して欲しくないのに。この人を、止めたいのに。
まるで底なしの沼にはまったように、動けない。
「……──それなら、わたしも殺してください」
◆ ◆ ◆
どうしてという疑問にこたえてくれるものは、何もなかった。
ただ真っ暗闇の中で揺蕩うそれに、現実はあまりに残酷だった。
ここにある感情を、言葉にするのは難しい。
けれど、これ以上に相応しい言葉も無いように思えた。
例えばそれは、鮮血の血珠のようなものだと。
そこにあることはわかりにくく、気付けることは有り無しだ。
そんな必然を人は、失望と呼ぶのかも知れない。
◆ ◆ ◆
息を呑む音がする。
赤沼の胡乱な目が、声の主──リゲイル・ジブリールに注がれた。
リゲイルは真っ直ぐに赤沼を見つめる。
「漆くんを止められなかったのは、事実です。その為に、ラウさんも」
だから、二人が犯した罪は、自分も背負う覚悟。
これは、自責の念でも、後悔でもない。贖罪ですら、ない。ただ、彼は自分の家族だ。今でも彼は、父親であり、家族であり、大切な人。家族の罪を背負うのは当たり前のことだ。もう、泣くだけ泣いた。長かった髪も、切った。すべてが吹っ切れたわけでもない。まだ、心の中には虚無感が棲みつき、消えることもない。
けれど。
「漆くんはもういないからこれ以上罪を償うことは出来ませんが、わたしは生きています。だから、」
「代わりに罪を背負う、とでも?」
冷たい、冷たい声が降った。
その目に先とは違う色が滲んで、リゲイルは声を失った。
緊張の沈黙が降りる。
やがて、赤沼はふと微笑んだ。
「打算的ですね。実に温室育ちのお嬢様らしい考えです」
リゲイルはかっと頬が熱くなるのを感じた。膝の上で強く手を握る。
「死にたいと、死んでもいいと本気で思っているわけでもないくせに、口に出すものじゃありませんよ。……ああ、可哀相に。太助さんが泣いてしまったではありませんか」
はっとして振り返る。セイリオスにしがみつく太助の肩が、震えている。
「イエ、ロ」
「バカなこと、いうな! お嬢、おまえ、……っバカなこと、いうな!!」
リゲイルは、なんと言えばいいのかわからなくなった。
二人の。まだらの蜂となった、あの二人の罪を、家族と思うからこそ背負おうと考えたのは事実。そこに、赤沼の妹と年が近いから何事か聞き出せるかも知れないという打算的な考えが入り交じったのも、事実。
だけど。
泣きじゃくる、その背中が。
「ご、め……」
声が震えた。自分だけが、我慢していれば。嫌なことは自分が我慢すれば、通り過ぎていくと。そう、思っていたのに。
それを、キッチンへ続く柱に背を預けながら麗火は黙って見ていた。眇めた目が、リゲイルたちを、赤沼を見やる。
──喪った人が。
そう思って、麗火は小さく頭を振った。それは、銀幕市ならではの、そしてムービースターだからこそできるものだ。そして、まだらの蜂がそうなる確率は限りなく低く、そして【現実】には、到底無理な芸当なのだ。
「ごめん、……ごめんね、イエロー……ごめんなさい……」
震える背中に、震える手で触れた。その背中が、あたたかい。あたたかい。生きていることは、こんなにもあたたかいのに。
「……こんなに、あたたかいのに」
それは、まるで慟哭。
「どうして、どうして殺すの? 妹さんが望んでいるかも判らないことを、どうして続けるの?」
それは、本心。打算もなく、口から溢れ出でた、リゲイル自身の言葉。
赤沼は応える。
「洋子が望んでいるか望んでいないか、それを考えるならきっと望んでいないでしょう。あの子は、スターが大好きだったもの」
香玖耶は、日記を思い出す。あの赤い染みは、きっと亡くなった時のもの。
「だったら、もうやめて。スターを否定することは、スターを愛した妹さんを否定することになる。妹さんが大切にしていた世界を貶め否定することは、他ならぬ妹さん自身を貶め否定することに他ならないわ」
「ムービースター如きが、妹を語らないで!」
「貴方は!」
忘れられる事に対して過剰反応した、道崎と赤沼。だったら、テイアが包囲網戦の最後に残した「あまねく虚無をもたらす忘却」がひっかかる。ティターンが人の心の「忘却」に干渉しているのならば。
「貴方は、ちゃんと妹さんを覚えているじゃない。妹さんは、忘れられてなんかない」
そして香玖耶は、愛しくて愛しくて仕方がない、あの緑の瞳を思い出す。長い年月を生きてきて、唯一愛した最愛の人。彼が死んだ時、村を焼き尽くした。世界すら、叩き壊そうとした。だけれど、それができなかったのは。
「妹さんを大切に思うなら、彼女が愛した世界を壊すのではなく、見守っていって欲しい」
彼が愛した世界を壊すなんて、できなかった。恨んで恨んで恨み尽くしたけれど、緑の優しい瞳が蘇ると、とても出来なかった。だから、慈しみ、見守ろうと、決めた。
「妹さんは、貴方を誇らしいと言ってたじゃない」
ぴくりと赤沼の肩が震える。
「貴方だって、一度はわかってくれたじゃない。そんな貴方が誇らしいって妹さんは」
「あなたの考えを、押しつけないで。あなただって、わかっているくせに」
底冷えた声が降り注いで、香玖耶は思わず口を閉じた。赤沼の瞳が爛々と光っている。
「奪われたものは、二度と戻らないって、知ってるくせに」
善人ぶるつもりですか?
「あなた、死ぬのが怖かっただけでしょう。エルーカは、真理を求めることを止めると、肉体が死ぬと、魂を食らわれて二度と転生できないから。軽い気持ちで、覚悟がなんかないままで踏み込んだ世界だから。死ぬのが怖かったんでしょう」
「私は……」
「恋人が愛していたから、なんてただの言い訳でしょう。彼を理由に、自分が生き延びようとしただけでしょう」
違う。
そうじゃ、ない。
彼と出会えた世界を捨ててしまいたくなかった。
世界が彼の思い出を抱くならば、自分はその世界を抱いて生きていこうと。
彼は、私を、生きて欲しいと、願ってくれた、から。
「……その言葉を、そのままそっくり返そうか」
のし掛かってくる重い空気の中で、ジナイーダの声が響く。
何故、という疑問は既に無意味だということを、ジナイーダは理解していた。例えば正当な理由があるからと言って、許容される領域ではもうない。
「奪われたものはもう戻らないとわかっていて、無辜の人間にまで手を掛けたおまえは、ただの殺人者だ」
赤沼の黒い瞳を見つめながら、ジナイーダはその左手に意識を集中していた。
形は多少違えど、辻斬りの……道崎の左手にもあったものと、同じものだとわかる。赤沼は、道崎や大川内のカウンセラーをしていた。ならば、赤沼からあの二人に伝播したという可能性はないか。もしくは、赤沼でさえ、利用されているに過ぎないかもしれない。麗火が言っていた、あの黒い痣は人の心の箍を外すのだと。ならば、この凶行に至る切っ掛けもまた、あの黒い痣が与えたのではないか。
我ながら突飛な考えではあると思う。しかし、そう考えるならば、この痣は放置するに危険すぎる。ただ落とすだけでも駄目だ。その根源、この痣の発生する元を絶たなければ、意味がない。
くすくすと笑う声がする。
「そうですね、ジナイーダ・シェルリングさんがおっしゃることは、尤もです」
赤沼は微笑んでいる。
「そう、私はただの殺人者。だから、殺しても殺しても、ねぇ、駄目なんですよ」
微笑んでいる、その笑みは。
リゲイルははっとした。
「……もしかして赤沼さんは、スターを殺し続けることで、そしていつか捕まることで、皆が妹さんの死を思い出して、悼んでくれることを願っているんですか?」
悼む? と、赤沼は笑った。
「洋子を知らない人が、洋子の死を悼むのは難しいことです。知らなければ、仕方のない事です」
「だったら」
どうして。
言いかけて、赤沼の目がひどく虚ろな色である事に気付く。麗火はとっさに身構えた。
「いくらスターを殺しても、いくらファンを殺しても、妹は帰ってこない。……そう、その通りですよ。洋子が死んでしまったことが信じられなくて、洋子が死んでしまった事実がただあるだけで、それを思い知らされるばかりで」
でも、自分から止まる事も、止まる気も、ないの。
本棚の空いているスペースは、すべて家族の思い出が詰まったビデオテープ。そんなものからも実体化現象が起きてしまうことを知って、慌てて焼き捨てた。仏壇には、本当は父と母の写真も入っていた。けれど、焼き捨ててしまった。私たち二人を置いて、死んでしまった事が哀しくて。あの時、妹を、洋子を守って自分は生きていくのだと誓った。年の離れた可愛い妹。たった一人の家族。明朗で快活で、まるで太陽みたいだったあの子。洋子がいたから、今まで生きてこられたのに。
ムービースターなんか大嫌いだ。すべてを奪っておいて、のうのうと笑って、そのくせ辛いとか哀しいとか言って頼ってきて。愛していたものに殺された事が、信じていたものに殺された事が、いつか消える夢の存在に殺された事が、どれだけのことかも知らないで。わかるふりをして、慰めたりして。吐き気がする。
囁きかけたのは、悪魔。
それで、妹の無念は晴れるのか?
妹は、ムービースターを恨んでいるのではないか?
そんなムービースターを実体化させた、ムービーファンが憎くはないか……。
「まだるっこしいことは、嫌いです。赤い本? ティターン? オリンポス? 知りませんよ、神なんか」
だって、神は洋子を選んだくせに、神は洋子を守ってはくれなかった。
そんなものに、なぜ頼らなければならない?
「ムービーファンを殺せば、バッキーが残される。バッキーがハングリーモンスターになれば、ムービースターを殺す。ムービースターがムービーキラーになれば、自ら進んでムービースターを殺してくれる。こんなに効率のいいことが、他にありますか?」
お互いに、殺し合えばいい。
今までだって、そうしてきたでしょう。
まだらの蜂だって、貴方たちが殺したんでしょう。
殺して、殺されて、そうして最後に残るのは。
「今までを幸せに生きてきた、私たちエキストラと呼ばれる本来の人間だけです」
息が。
息が、できない。
言葉が、詰まって。
「みんなみんな、しねばいい」
ねぇ、何者かが操ってくれなくても。
『びがく? しんねん? さつじんに?』
ねぇ、何者の心にも生まれてくるの。
『ころしたいからころす、それだけのこと』
ねぇ、知らないなんて言わせない。
太助は、赤沼はスターが嫌いなのに、どうしてそそのかした相手が殺すのは人間なんだろう、と思っていた。けれど、違った。赤沼は、彼らをそそのかしていたのではない。彼らが殺そうとするのを、赤沼は止めていたのだろう。
けれど、止められれば、と麗火は思う。
──大きな禁止はそれを破る欲望を増幅させる。
そう、大川内が言っていた。それは、赤沼にとっては予期せぬことであったのだろう。あの、左手の痣は。
だから麗火は、迷わない。赤沼にあるこのどす黒い感情が彼女自身のものであっても、それが無くても赤沼はそうしたかもしれないけれど。
「告白はお終いか?」
麗火の手から、深紅の炎が放たれる。風が吹き荒れ、窓という窓が音を立てて開いていく。重く澱んだ空気が吹き荒れる風に押し出されていく。
「待て!」
ジナイーダが叫ぶ。殺すな。殺しては、いけない。
「やめて!」
明日が叫ぶ。殺さないで。誰も、死なないで。
「やめろ!」
太助が叫ぶ。嫌だ。誰かが、死ぬのは。
風が逆巻き、動きを制限する。炎が暴れ狂ってその身を焼き焦がす。
『あァぁあアあああアァァアアあぁァぁァアぁァあああアアアアアああァァアあアああァああ!!!!』
狂い猛る炎に焼かれて、狂うように叫ぶ。
耳を劈く絶叫が、胸に突き刺さって痛い。
濁った耳障りな声が、笑い声のように聞こえる。
これが。
麗火は気を鋭くする。
風が、焔が、それに応える。
『キヒィヒヒヒヒ……これでおわお終わりと思ううぅナよぉウウぅぅ』
暴風の中、耳障りな声がはっきりと耳に届く。
『おぉおおお終わりダひひヒヒだだダ誰も彼もなナナ何もカも皆ヒひひヒヒヒヒ殺しみなごろしィひひひヒヒヒひミナゴろシシひひシしし』
麗火は手に力を込める。
『おおォオおまおマまオマえぇェエええラ皆コロろろロさサれェエるううひひィヒヒヒよみガガがえるエェるるエルあノああアのあのお方ァあアヒヒヒィひひヒひおかたガアあああァアあああああアアアあ!!!』
逆巻く風に黒い影が踊る。
翼を広げたそれは黒い闇で覆っていく。
咄嗟に抜き取ったのは銃。MP-443通称グラッチ。
一瞬にして照準を合わせ。
風と小さく呟く。
引き金を引く。
焔と小さく呟く。
爆風が吹き荒れ爆炎が弾かれ爆音が轟く。
世界は急速に音を無くし。
乾いた音を響かせた。
足下まで転がってきたそれを、拾おうとして。
明日の指先でそれはボロボロと崩れた。
足下まで転がってきたそれを、拾い上げて。
セイリオスは、麗火に付いてその扉を開く。
吹き上げる風に顔を背けて。
血溜まりの中へと駆けていった。
赤く斑に染まった白い少女。
虚ろな青い瞳はしかし確かに深紅の瞳の少年を見つめて。
笑った。
「……午後零時三十二分、赤沼祥子を拉致監禁及び殺人容疑で逮捕する」
明日の声が静かに落ちて。
かしゃん。
虚ろに虚空を見つめる黒い瞳。
窓の向こうでは静寂の夜が流れている。
ひょおうと冷たい風が流れ込んで。
耳障りな笑い声と、悲痛な慟哭が掠めていく。
今年も海へ行くって、いっぱい映画も観るって、約束したじゃない。
約束したじゃない。
どうして、いなくなってしまったの。
どうして、あなただったの。
どうして。
どうして。
どうして……──
ヒひひヒヒヒヒ
めざめる彼のお方が
ヒひひヒヒヒヒひひっ
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