★ 【神ナル音ゾ、響キヲリ。】泥海の中から ★
<オープニング>

「……ふう」
 神音の溜め息に、植村直紀は首を傾げた。
「どうなさいました」
「いや……何」
 こちらに留まることを決めて以降、神音は対策課の常連だ。
 特に用事がなくても、茶菓子を持って遊びに来ることもあるのだが、ここ最近、あまり姿を見ていないと思っていたら、今朝、少し難しい顔をしてやってきた。
「直紀、きみはどう思う」
「何がです?」
「己が魂より大切な存在を喪って、ただ我が身の消滅を望む者に、いかなる言葉をかけるべきかを」
「……はい?」
 首を傾げる植村に、神音は静かな眼差しを向け、ぽつりぽつりと事情を語った。
 神の歌姫マリアと、彼女を守る神聖騎士グリゼルダ。
 姉妹のように育ち、長じてのちは一国を支える柱としてともに助け合い、支えあってきたふたりを、戦乱と大国の傲慢が引き裂いた。
 悲劇の紫苑と呼ばれた歌姫は、戦渦の暴虐に散り、神聖騎士は悔恨の涙を流す。
 少しの行き違いからマリアの傍を離れていた、ほんのわずかな時間がふたりを分かち、その狂おしい苦悩、我が身を引き裂かんばかりの悲嘆は、グリゼルダが銀幕市に実体化した今でも続いている。
 神音は、食べることも眠ることも休むことも出来ず憔悴してゆくグリゼルダの姿を見るに見かねてここへ来たのだった。
「マリアが実体化した様子はない。だとすれば、もう何も、グリゼルダをこの世に繋ぎ止めるすべはないのだろうか?」
 歌を愛し、世界を愛したマリア。
 マリアを愛し、マリアの愛する世界を愛したグリゼルダ。
 そこに満ちていた、穏やかでやわらかな感情は、もう二度と戻ることはないのだろうか。
 ――グリゼルダは理解している。
 マリアが、せめて自分には、生きて幸せになって欲しいと願っていることを。
 マリアが今でも、自分を愛していることを。
 それでもなお――否、だからこそ、苦しみは尽きないのだ。
 今ここで自分が無を望めば、マリアの思いを踏みにじることになると知っていて、終焉を求めずにはいられないのだ。
 何故ならば、彼女の幸い、彼女にとっての意義は、己が幸いを祈る乙女が命を落とした時点で、もはやどこからも喪われてしまったのだから。
「とても難しいことだと思う。それは恐らく、歌をすべて奪われた私に、それでもなお生きろと言うのと同じことだろうから」
 生きる意味のないまま生きる、その苦しみと虚無、そして絶望。
 自分をかたちづくる根本を、自分よりも大切だと思える何かをなくして無為に生き続ける、その苦痛は、我が身に置き換えて理解することは出来ずとも、想像は出来るだろう。
 しかし……それでも。
 あの人に生きていてほしい、生きていて欲しかった、もっと、ずっと傍にいたかった、いてほしかったという思い。
 それを分かち合い、言葉にして痛みを語り、痛みの向こう側にある何かを見い出して、生きる糧にすることは、出来ないのだろうか。
 神音はそう語り、静かな眼差しでよく晴れた冬空を見詰め、――植村は苦笑して、依頼文の作成に取り掛かった。

 * * * * *

「……ほどよい絶望の匂いがします、お師匠様」
「ああ、そうだね……芳しい虚無だ」
「あれの中に結晶は芽生えませんか、おっしょーさま?」
「……さあ、どうだろう。場合によっては、素晴らしい結晶が見つかるかもしれないね」
「じゃあ……俺と青とで、獲って来ましょうか」
「僕もそれを思いました。赤と一緒に、獲りに行って来てもいいですか」
「そんなに行きたいかい?」
「はい! 俺、おっしょーさまに褒めてもらいたいです!」
「はい。理由は、赤とは少し違いますけど……僕も、お師匠様の言われる果てが見てみたいですから」
「……そうか。では、行っておいで。くれぐれも気をつけて」
「やった! はい、判ってます、慢心は魂に脂肪をつける、んですよね」
「ああ、そうだ。だから、気をつけて行くのだよ。必要であれば、『器』を連れて行ってもいいけれど」
「いえ、大丈夫です、お師匠様。様子見の部分もありますし、ひとまず我々だけで。では……朗報をお待ちください」



種別名シナリオ 管理番号896
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さん今晩は、新しいシナリオのお誘いに上がりました。
一定の筋道は用意してありますが、基本的には皆さんのご采配にお任せしようと思いますので、自由に、お心のままに行動していただければ幸いです。

今回のご参加に当たっては、
1.グリゼルダの元へ行く
 (1−1:グリゼルダと痛みを共有し、力づけて彼女に生きる気力を取り戻させる
  1−2:グリゼルダの痛みに共感し、憐れみ、彼女を眠らせる道を選ぶ
  1−3:グリゼルダの在り方に苛立ちを感じ、叱咤する
                                 ……など)
2.赤と青なるふたりを警戒する・もしくは遭遇する
 (警戒するに至る理由、遭遇するシチュエーションなどもあれば)
3.その他の行動を取る
 (あまりにも趣旨に反する内容は採用され難い場合があります)
の、どれかをご選択の上でプレイングをお書きください。
※選べと言いつつ、1と2は合わせての選択が可能です。比率をどちらに傾けるかをお書きください。
※2のご選択の場合は、巧く行けば、現在この街に頻発する事件についての情報が得られるかもしれません。
※趣旨にあっていれば、3で効果的な行動を取ることも可能です。

なお、上記の性質上、プレイングによっては後味の悪いノベルになる可能性もありますし、またプレイングの優劣・濃淡によっては登場率に偏りが出ることもあります。
どうぞご納得の上でご参加くださいませ。

そして、このシナリオは、密接なリンクこそありませんが、同時公開のシリーズシナリオ、『【ツァラトゥストラはかく語りき】ハード・サースト・インフラメイション』とほぼ同時期の時系列となっておりますので、同一PCさんでのご参加はご遠慮くださいますようお願い致します。


それでは、皆様のおいでをお待ちしております。

参加者
太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
ラズライト・MSN057(cshm5860) ムービースター 男 25歳 <宵>の代行者
Sora(czws2150) ムービースター 女 17歳 現代の歌姫
マリアベル・エアーキア(cabt2286) ムービースター 女 26歳 夜明けを告げる娘
<ノベル>

 1.零下の拒絶

 対策課で依頼を聞き、コレット・アイロニーが駆けつけたとき、グリゼルダは一際大きな樹にもたれかかって目を閉じていた。
 ここは、黄昏の森と名づけられたムービーハザードだ。
 住宅地の傍を流れる川の向こう側に実体化したそこには、年中葉の落ちない――常緑樹だから、という意味合いでではなく――、背の高い木々と、そして森の中にいる時だけ見える、ファイアオパールの色をした太陽がある。
 ここは、夕暮れ前の、心を穏やかにする色合いの太陽が、赤と朱とオレンジを混ぜ合わせたかのような光を注ぐ、静かな……少し物悲しく、どこか温かく、現実味を置き忘れてきたかのように幻想的な、それでいて牧歌的でもある、不思議な空気をまとった森の一角なのだった。
「グリゼルダさん……」
 ぴくりとも動かないグリゼルダの姿に、彼女が呼吸をしているのかどうかすら判らず、コレットは、思わず息を飲んでスカートを握り締める。
 コレットがグリゼルダの名を呼ぶと、その近くの樹に寄りかかってグリゼルダを見ていた、灰銀の髪の、男とも女ともつかぬ中性的な雰囲気を持った人物が、不思議な光沢のある黒の目で、コレットを見遣った。恐らく、依頼主の神音だろう。
 しかし、やはり、グリゼルダは身動きひとつせず、閉じられた目と、引き結ばれた唇と、明らかな憔悴が伺える顔、そして彼女の全身から漂う絶望と悲嘆に、
「ごめんなさい、グリゼルダさん……」
 コレットは、詫びを口にせずにはいられなかった。
 グリゼルダは、動かない。
「来るのが、遅くなって、ごめんなさい」
 まるで、コレットの言葉など届いていないかのように、大樹に背を預ける神聖騎士グリゼルダは、凜とした美しさの、背の高い女性だった。
 彼女は、サーコートと呼ばれる、いわゆる西洋系ファンタジー映画の武人たちが身につけているような、丈の長い男性用の衣装に身を包み、傍らには秀麗な装飾のなされた長剣を無造作に投げ出している。
 短くカットされた金髪に、朱金の光が当たって、眩しいほどだ。
 表情など何ひとつ浮かんではいないのに、そこに悲壮を感じるのは、コレットの思い違いだっただろうか。
 対策課で、大まかな事情は聞いていたが、映画そのものを観たことはなく、今のコレットが理解しているのは、グリゼルダが最愛の人物を亡くしたことと、ひどく哀しみ、ひどく絶望していることだけだった。
「グリゼルダさんが哀しんでるって、気づくの、遅くなって、ごめんなさい。……グリゼルダさんの哀しい気持ち、代わってあげられなくて、ごめんなさい」
 何の反応も見せないグリゼルダの傍らにしゃがみ込み、コレットは言葉を重ねる。
 いつもいつも謝ってしまうのは、コレットの癖のようなものだ。
 他に何と言っていいのか判らず、謝ってしまう。
「グリゼルダさん」
 何ら反応を見せない神聖騎士の姿に焦燥を募らせながら、なるべくそれを表に出さないよう努力しつつ、コレットは言葉を重ねる。
 このまま放っておけば、グリゼルダは喪われてしまう。
 確信というのも馬鹿馬鹿しいような、切ないような、確信だった。
「私、コレットって言います。よろしくねって言うのも変な話だけど……あのね、私、グリゼルダさんの力になりたくて来たの。対策課で話を聴いて……このままじゃあんまりだって思って来たの」
 鳥が啼きながら森の中を渡っていく。
 悲鳴のようだ、とコレットは思った。
 人の心が上げる、悲痛な悲鳴のようだ、と。
「私が、どれくらいグリゼルダさんのこと心配してるか、元気を出してほしいって思ってるか……心を外に出して、伝えることが、出来たらいいのにな」
 小さく呟くが、グリゼルダからの反応は、やはり、ない。
 自分が生きることへの希望も、命への執着も、この世界への、そしてコレットへの興味も、彼女には何もないのだと、そう思ったら、泣きたい気持ちになった。
 そのくらい、大切な存在をなくしたということなのだ。
 それはつまり、グリゼルダが、魂を喪ってしまったのと同じことなのだ。
 空っぽのままで生きる苦痛、虚しさ、絶望は、コレットには判らない。
 彼女は、今まで、それほど大きな存在を失ったことはないからだ。
 実の親に不要物のように扱われ、捨てられて、哀しい、辛い思いはした。何故自分が生きているのか、判らなくなったこともあったし、今でも時々、どうやって生きることが正しいのか、迷うこともある。
 ただ、コレットは、入所した養護施設の人々やその関係者たちから誠実な愛情を注いでもらうことが出来た。
 銀幕市に魔法がかかって、大切な人がたくさん出来た。
 辛い思いもしたけれど、総じて言えば幸いの中にあるコレットには、グリゼルダの悲嘆を真実理解することは出来ないし、その心を本当に癒すことなど、出来ないのかも知れないとも思う。
 しかし、それでも、コレットは、グリゼルダに生きて欲しかった。
 哀しい気持ちのまま最期を迎えるなどという悲劇を、回避したかったのだ。
 だから、コレットがそれを口にしたのも、必死で考えた結果だった。
 何の悪意があったわけでもなかった。
「じゃあ、こうしましょう。グリゼルダさんが、また、一番に思う人が、出来るまで……私が、グリゼルダさんを守ってあげる。今からグリゼルダさんが、私の一番だよ」
 そう言うと、そこで初めて、グリゼルダが眼を開けた。
 青みがかった、鮮やかな紫の目が、朱金の太陽を映して輝く。
 グリゼルダが反応を見せたことで勢い込み、コレットは懸命に言葉を紡いだ。
 何としてでも彼女を救いたい、助けたいと、ただそれだけを思っていた。
「ね、そうしましょう? だから、もし、グリゼルダさんが、まだ哀しいって言うのなら、私もいっしょに泣くし……それでも生きたくないって言うのなら、私、グリゼルダさんと、いっしょに逝くよ。それじゃあ、駄目かな……?」
 グリゼルダの傍らに座り込み、背の高い女を見上げる。
 しかし、グリゼルダはコレットを見はしなかった。
「……あなたには」
 ぽつり、と、言葉が紡がれる。
 女性にしては低い、静かな声だった。
「え、何、グリゼルダさん」
「あなたには、あなたを大切に思う人はいないのですか」
「え?」
「あなたが大切に思い、あなたを大切に思う人は、いないのですか?」
 唐突な問いに戸惑いつつ、コレットは首を横に振る。
「ううん、いるよ。私のこと、大切にしてくれる素敵な人たちが、たくさんいる」
「あなたは、その人たちのことを、なんと?」
「大好きよ。皆、大好き。私を守ってくれて、笑いかけてくれて、私にたくさんのことを教えてくれて、たくさんのものを与えてくれるの。私という人間は、その人たちのお陰で成り立っているのだと思う」
 不器用で不甲斐ない自分を守ってくれる幾つもの善意。
 それがコレット・アイロニーという人間をかたち作り、生かしている。
 コレットが正直にそう言うと、決して彼女を見ようとはしないまま、グリゼルダはふっと笑みを浮かべた。
「グリゼルダさん、」
「ならば……コレット」
「えっ、何、どうしたの?」
 自分の思いが届いたのだろうかと、どきどきしながら次の言葉を待ったコレットに突きつけられたのは、
「今すぐここから去りなさい、あなたは、ここにいるべきではない」
 冷ややかなまでに明確な、あまりにきっぱりとした拒絶だった。
「グリゼルダさん、でも、」
「私はあなたのことを何も知りません。あなたも、私のことを何も知らないでしょう。その私に、何故あなたが、あなたを案じ気遣う人々を置き去りにしてまで尽くそうとするのかが、私には理解出来ない」
「それは、だから、放っておけなくて」
「その結果、あなたを思う人々を、私に傷つけよ、と? あなたのその言葉は、あなたを思う人々への責任を、すべて放棄したものだと、判っていますか。己をかたち作るものを振り捨ててしまうのと同義なのですよ、それは」
「そんな……」
 冷ややかな、あまりにも厳しい言葉に、コレットは言葉をなくす。
 そんなつもりで言ったのではなかった、と、コレットが弁明を口にするよりも早く、
「……それでも、彼女は、きみを案じ、きみに喪われてほしくないという思いからそれを口にしたのだと私は思うが?」
 先ほどからふたりのやりとりを黙って聴いていた神音が、不思議な光沢のある眼差しをグリゼルダに向け、そう言った。
 コレットは必死で頷く。
 同時に、ぎしり、と音がした。
 グリゼルダの奥歯が噛み締められた音だと、後になって気づいた。
「ならば、何故!」
 唐突に激昂を見せたグリゼルダの、ヴァイオレットの眼差しが、神音を、コレットを睨みつける。
「私を案じていると言いながら、『また一番に思う人が出来るまで』などと、惨い言葉を口にするのですか、彼女は! 私にとっては、永遠に、マリアだけが、たったひとつ、唯一絶対のものなのに!」
「……ッ!」
 それでようやく、コレットは、自分がひどく無神経なことを言ったのだと気づいた。
「ご……」
 冷たい汗が背中を流れる。
「ごめんなさいグリゼルダさん、私、そんなつもりじゃ……」
 それは、未だ喪失の痛みから逃れられぬ彼女に、「新しく大切な人を作って前のことは忘れてしまえばいい」と言ったも同然なのだ。
「ごめんなさい、私、」
「マリアは私のすべてです。今までも、これからも。……この痛みすら、私だけのもの。誰にも、触れてほしくはありません」
 そこでようやく、グリゼルダのヴァイオレットがコレットを見た。
 何の温度もない青紫は、コレットを、そして救いの手を拒絶している。
「……あなたが悪いわけではありません。ですが、私は、あなたの手を取ることも、あなたの言葉に頷くことも、あなたの思いを受け取ることも出来ません。何のゆかりもない私に、心を寄せてくださったことに感謝します。しかし私は、このままでいい」


 薄い笑みのかたちに歪められた唇が、
「お帰りなさい、あなたの日常に、今すぐ」
 コレットを、グリゼルダから遠ざける。
「……!」
 コレットは手を握り締めた。
 伝わってくるのは拒絶ばかりだ。
 氷のように冷たい、温度の感じられない拒絶。
 ――これ以上、自分がここにいたところで、グリゼルダの気持ちを変えられるとは思えなかった。
「でも、だけど、」
 コレットは人間の誠意を見せたかった。
 それだけだった。
 しかし、彼女は、やり方を間違ってしまった。
 つまりは、そういうことなのだった。
「私のことは気にしないで下さい。そういう定めの下に生まれた者もいるのだと、忘れてしまいなさい、あなたを待つ日常の中で」
 立ち上がったコレットはよろりとよろめき、一歩退く。
 いっそこのまま、せめてグリゼルダに吹き付ける冷たい風を防ぐ壁にでもなって、そこに立ち竦んでいたかったが、それすらも今の自分には許されぬ気がして、コレットは唇を噛み締めて俯いた。
 それを見て、神音が、小さな息をひとつ吐く。
「神音、あなたもです。私はもう、自分自身に何の執着も、未練も残してはいません。このまま消えることが、きっと、私にとっては最善なのです」
「……そうなんだろうか? 私には、判らない」
「ええ、そうですよ。そういう風にしか、私の世界は成り立たないのですから。神音、あなたも、コレットと同じです。あなたにはあなたの営みがあるのでしょう? もう、私のことなど忘れて――……」
 グリゼルダが、そのすべてを言い終わるよりも早く。
「ちょーっと待ったあああああああああああ!」
 やたらと元気のいい、闊達な声が響き渡り、それと同時にすっ飛んできた茶色い塊が、事態を掴みきれずに眉をひそめていたグリゼルダの顔面に、もふりと勢いよく張り付いた。
 何が起きたのか判らなかったからだろう、グリゼルダが無言で硬直する。
 茶色い塊から突き出た、大きなしましまの尻尾が、もふもふと揺れている。
「まあまあ、そう決めつけちまうなって、な?」
 もふもふの毛玉は、そう言って、
「ぽよんす、ぐりー。俺は太助(たすけ)って言うんだ、よろしくな!」
 すとんとグリゼルダの膝の上に降り、びしりと手を――前脚、というべきか――掲げて見せた。
 毒気を抜かれたのか、グリゼルダがきょとんとした表情で毛玉を見下ろす。
 それは、小さな、仔狸の姿をしていた。
 仔狸の背後からは、獣の耳と尻尾を持った青い髪に赤い眼の青年が、穏やかな微笑とともに歩み寄って来る。
 彼の手には、何が入っているのだろうか、大きな、籐編みのバスケットがあった。
 コレットは、その様子を、すべてがいい方向に進みますように、と、祈るように思いながら、見ていた。



 2.尻尾とぬくもり

「狸が、喋っ……」
 膝の上の己を見下ろして、グリゼルダが絶句する。
 どうやら、彼女の世界の獣たちは口を利かぬ存在であるらしい。
「ここは、そういう世界だ」
 かすかに笑い、神音が言う。
 太助はうんうんと頷くと、懐から(どこの懐、などと訊いてはいけない)ストロベリー味のキャンディを取り出し、綺麗なセロファンを剥くと、
「とりあえず、ちょっとでも食え」
 グリゼルダの胸元をよじ登り、肩に腰を落ち着けてから、小さな前脚でつまんだ真紅の飴玉を、グリゼルダの口にぐいぐい押し込んだ。
「ちょ、待っ……」
 不測の事態には弱いタイプなのか、グリゼルダが焦りの声を上げたが、太助はお構いなしでキャンディを突っ込む。
 グリゼルダは非常に困惑している様子だったが、肩に陣取った太助を振り払おうとはせず――心身ともに弱っている時に触れる、生き物のぬくもりには、抗い難い心地よさと安堵とが満ちていると太助は思う――、太助が突っ込んだキャンディを吐き出すこともなく、ただ黙ってそれを、口の中で転がしているようだった。
 太助がお世話になっている家の近所にある、手作りの飴屋が精魂込めてこしらえたキャンディである。質のよい水飴に、無農薬有機栽培の苺の果汁、それだけを使った、シンプルだがそれゆえに味が際立つ、甘酸っぱく薫り高くまろやかな、一粒舐めるだけで幸せな気分になれるほどの逸品なのだ。
 心が疲弊している時、甘いものはそれを少し軽やかにしてくれることを太助は知っている。
 だからこそ、強引だとは思ったが、このような手段を取ったのだった。
「ちょっとおちついたか、ぐりー?」
 小首を傾げてグリゼルダを見下ろすと、
「私は、ぐりーなどという名前では……」
 もごもごと否定しようとした彼女の言葉は、太助と目が合うと、何故か尻すぼみになって消えてしまう。
「……俺のこと、こわいか? 狸がしゃべるって、ヘンかな?」
 確かに、言葉をしゃべる動物が存在しない世界で生きていれば、太助などはちょっとした怪物かもしれない。もっとも、仔狸サイズの、人畜無害な和み系の怪物ではあるが。
 そう思って、あまり怖がらせるようなら離れた方がいいかな、などと思いながら問いかけた太助だったが、
「反対だ。グリゼルダは動物が大好きなんだ」
 かすかに笑った神音がそう言ったので、
「……へー、そうなんだ」
 頷きつつ、太助はグリゼルダの首にぎゅうと抱きついた。
「ま、マリアが、大好きでしたから……」
 太助に抱きつかれるまま、先ほど声を荒らげていたのが嘘のように、グリゼルダは、耳の先端をほんのり赤くしていた。ずいぶん可愛いやつだなぁ、というのが、太助の正直な気持ちだった。
 太助は、彼女に抱きつく時も、邪魔をするな、と、振り払われるくらいの覚悟はしていたのだ。
 マリアが動物を好きだっただけではなく、グリゼルダもまた、人間を含む動物を愛していたのだろう、マリアが愛しているからという意味以外でも。だからこそ、今、太助は、グリゼルダの肩に腰を落ち着けているのだろう。
 しかし、マリア、の名を口にしたとき、ヴァイオレットの双眸を過ぎった、耐え難い哀しみの色彩が、太助には判った。予期せぬ、仔狸という来客が、ほんの少しグリゼルダをやわらかくしたのだとしても、まだ、彼女は、癒されてはいないのだ。
 だから、太助は、自分がここに来た意味を全うすべく、グリゼルダの膝にちょこんと乗っかった。
「俺さ、ぐりーの話がききたくてきたんだ」
「……私の? つまらないだけだと、思いますが……」
 太助が言うと、膝の上の仔狸を嫌がるでもなく受け入れながら、グリゼルダが微苦笑する。
「つまらないなどということが、あるはずがありません、グリゼルダ様」
 すると、同時に対策課で話を聴き、太助と一緒にこの場所へやってきた青年、ラズライト・MSN057が、彼女の隣に屈み込み、バスケットを開けた。
「私も、太助様と同じことを欲してこちらに参りました」
 バスケットの中には、白磁のティーセットと、お湯を入れた魔法瓶、そして茶葉の缶とが入っている。
「差し出た真似かとは思いましたが、一時なりと身体を温めていただければ、と、お茶をお持ちしたのです。よろしければ、このささやかなお茶会に、おつきあいいただければ、と」
 穏やかな、やわらかな物腰のラズライトの言葉に、グリゼルダはほんの一瞬躊躇したようだったが、太助が小首を傾げて彼女を見上げると、頬を上気させて小さく頷いた。
 俺ってもしかして魔性の狸じゃね? と思ったことは否定しないが、同時に、グリゼルダの視線が、ラズライトの、獣耳と尻尾に注がれていたこともよく判っている。
 マリアが、そしてグリゼルダが動物好きだったのは、ちょっとした僥倖なのかもしれない。
「……では、お願いしても、よろしいですか」
 グリゼルダの言葉に微笑み、頷いて、ラズライトがお茶の支度に取り掛かる。
 しばらく待つと、周囲には、よい茶葉の持つ、馥郁として心地よい薫りが漂い始めた。
「この茶葉は、知人に分けていただいたのですが……」
 ラズライトが、丁寧な手つきで、五つのカップに紅茶を注いでいく。
「色といい薫りといい、とても素晴らしいもので、特別な日にお出しすることにしているのです」
「特別な日、ですか」
「はい。ここで、こうして、皆様とお会いすることが出来た、特別な日です」
 眼を細めて微笑み、ラズライトが、ソーサーに載せた紅茶を、グリゼルダに、少し離れた場所で様子を見守っている神音に、申し訳なさそうに俯いているコレットに、そして太助に、そっと手渡してくれる。
「んー、いいにおいだな。なんか、甘いものでももってくりゃよかった」
「ああ、そうですね、それを失念しておりました。グリゼルダ様にも、申し訳ないことを致しました」
 太助がラズライトとそんなことを残念がっていると、
「……いえ」
 カップを手の平で包み込むようにして、グリゼルダが小さく首を横に振る。
「充分すぎるほど、あなたの心を、いただいた気がしますから」
 ヴァイオレットの瞳が、小さな波紋に揺れる真紅の水面を見詰めている。
「んじゃあれだな、かんぱいだな」
 突っ込み気質のものがいれば、紅茶は乾杯しない飲み物だったはず、と指摘せずにはいられないようなことを言って、太助は、グリゼルダのカップに、自分のそれをこちんと触れ合わせる。
 それから、
「……俺さ、ぐりーとマリアの話、聞いてみてぇな」
 お茶をふうふうしながら、グリゼルダを見上げた。
「私とマリアの……ですか」
「うん。色んなこと聴きてぇ。ぐりーの一番だいじなひとの話。どこで会ったのかとか、どんなことがあったのかとか、どんな気持ちだったのかとか」
「……」
 それが、グリゼルダに、痛みを強いるものだと、知っている。
 しかし、太助は、あえてその方法を取った。
「マリアと出会ったのは、私が六歳、マリアが十歳の時でした……」
 思い出を並べることで、再度激昂させることにもなるかもしれない。
 しかし、そうすることでしか、整理のつかない気持ちも、あるはずだ。
「私は、騎士見習いとして。マリアは、神の歌姫の、最有力候補者として」
「マリアって、どんなひとなんだ?」
「明るく優しい、やわらかい雰囲気をまとった女性です。幾つになってもお転婆な少女のような気質が抜けなくて、神殿のものたちはいつも振り回されていました……」
 その時のことを思い出したのか、ふっとやわらかな微笑を浮かべたグリゼルダは、次の瞬間には、ひどく硬い表情で目を伏せた。
 ――もう、彼女はいないのだと、出会うことも許されないのだと、目の前に突きつけられたからだろうか。
 それを理解しながら、太助は言葉を重ねた。
 残酷なことだろうかと思いながらも、グリゼルダの、そして彼女を遺して逝ったマリアの気持ちが判るから、躊躇うまいと思う。
「じゃあさ、楽しかったことは? 苦労したことは?」
「……歌姫となったマリアの守護となった瞬間から、楽しくない日などありませんでした。私は、孤児だったので、本当の家族の愛情を知りませんが……マリアが、私の家族になってくれましたから。苦労も、毎日でした。日々が、血を吐くような鍛錬とともにありました。しかし、それも、マリアのためであるのなら、決して辛くはなかった」
「ぐりーにとってマリアは、そんくらい大きな存在なんだな」
「はい。私の命はマリアのものでした。――今でも、マリアのものです」
 過去形を、現在形に訂正し、グリゼルダがぎゅっと手を握り締める。
 太助は、その、白くなるくらいきつく結ばれた手に、もっふもふの尻尾を載せて、温めてやった。
 たったひとりで罪の意識に苦しみ、孤独に泣き、もはや帰らぬ人を思う、その凍えるような寒さに、ほんの少しでも寄り添えればいい、と思う。
「他に、どんなことがあったんだ? マリアは、どんなことを言ってた?」
「神の歌姫としての、マリアの戴冠式は、美しかった。今でも夢に見るほどです。花と、絹のヴェールと、頭の中が空っぽになるような歌声と、皆の笑顔に満ちあふれた、夢のような一時でした」
 そこでまた、かすかな微笑。
 脳裏を行き過ぎるのは、どんな記憶なのだろうか。
「マリアは……世界中が幸せであればいい、と。耐え難い哀しみ苦しみに泣く人々が、ひとりでも減ればいい、と常々口にしていました。神の歌姫は、唯一なる神に歌を捧げ、世界の平安を祈る、貴い存在です。しかし、自分が神の歌姫だから、という理由だけではなく、マリアはいつも、世界中の人々の幸せを願っていました。マリアもまた私と同じ孤児で、私よりも苦労をしてきたと聞いているのに、どうしてあんなにも純粋に、無垢に、他者の幸いのために生きられるのか、私はいつも不思議に思っていたほどです」
 グリゼルダの記憶が語る、マリアという人間の生き様、志。
 それは、強く、美しく、そして潔かった。
 だからこそ、グリゼルダは、こんなにもマリアを愛し、そして囚われているのだろう。
 性急に踏み込むことは得策ではない、と、本能的に察して、太助は他愛ない会話で外堀を埋めていく。
 出かけた場所、出会った人々、季節の折々の行事、出来事、好きな食べ物、動物との思い出、盛大なパーティの話、乱世に疲弊しながらも、決して希望を喪わなかった人々の話。
 色鮮やかな記憶の数々は、太助の脳裏にも、その光景を描いた。
 戦いに乱れた世界であっても、彼女らは、確かに強い絆で結ばれていて、幸せだったのだろう、と、思う。
 しかし、
「あとは……そうだな、」
 言葉を継ごうとしたら、
「……ッ」
 グリゼルダは言葉を詰まらせ、唐突に顔を覆ってしまった。
「どした、ぐりー?」
 太助が声をかけると、
「もう……許してください、太助。これ以上は言葉に出来ない……私には、出来ません……!」
 グリゼルダは太助にしがみつくように彼を抱き締め、低く呻いた。
 肩が震えているのが判る。
 太助は彼女の肩を、ポンポンとたたいてやることしか出来なかったが、ただ、涙は、零れていないようだった。哀しみが強過ぎて、涙を流すことも出来ないのかもしれない。
 人間は、そういう生き物だと聞いたことがある。
「私は死ぬべきでした、マリアとともに。歌姫を守れなかった神聖騎士に、生きる意味も価値も、ないのです。私は、消えるべきだった……いいえ、消えるべきなのです……!」
 魂の軋みを表すかのような、悔恨に満ちた独白。
「ほんの一瞬のことでした。マリアは自分のために私が血を流すことが耐えられないと憤りました。私は、それ以外に私の意味などないのだと言いました。マリアはその言葉に怒り――いえ、哀しんだのかもしれません――私から距離を取り、そして、脇から突っ込んできた騎馬隊の槍に、貫かれたのです」
 その時のグリゼルダの無力感と絶望、自分より大切な人間を目の前で喪う気持ちは、いかほどのものだっただろうか。
 太助は、グリゼルダの絶叫を聴いたような気がした。
 悲痛な、魂を引き千切られるような、心が凍りつき、また砕け散るような声を。
 それは今も、きっと、グリゼルダの中で長く尾を引いているのだろう。
 癒されぬままに、血を噴き出しているのだろう。



 3.置き去りの痛み

 太助が、どう声をかけるべきか迷っていると、
「我が身の消滅を思う気持ち……判ります。自分も、同じことを望みましたから」
 そっと言葉を紡いだのは、ラズライトだった。
「私も、心底お慕い申し上げていた方を、喪いました。もう、ずいぶん前のことのように思います」
 グリゼルダのヴァイオレットが、ラズライトを見る。
「実のところ、私自身、未だそれを思う時がある身の上ではありますが……」
 ラズライトは、穏やかに微笑んで言った。
「グリゼルダ様には、希望を持って頂きたく存じます」
 グリゼルダの目が見開かれ、ややあって、弱々しい光とともに伏せられる。
「私には……希望など」
「ええ、判ります。己に希望などおこがましいと、思ったこともありました。ですが、あの方を失って自暴自棄になっていた頃、『命あるものは誰しも、自分を大切に想ってくれた相手のために生き抜く義務がある』とお叱りを受けたのです」
 太助は、ラズライトを叱った誰かを、知っているような気がした。
 そんな、強く厳しい、許しと甘受に満ちた言葉を、聞いたことがある。
 あれは……そう、罪に怯え、罰を怖れるあまり、肉体が朽ちてなお、暗い暗い穴の中に縛り付けられた少年を、皆で見送った時のことではなかっただろうか。
「……しかしながら、こちらへ来た直後は、守るべき世界からも引き離された身に、何の意味も見出せず、戸惑いばかり感じる日々でした」
「そう……なのですか……」
「はい。けれど、銀幕市の皆様と過ごすうち、失った方に代わる存在はなくとも、同じように大切に想える者が増えることは、決して悪いことではないのだと、気付くことが出来ました。己という個のためだけに在ろうとすることは難しくとも、己の存在を望んでくれる他のために在ろうとするのはずっと容易で、有り難いことです」
 ラズライトの言葉は、常に穏やかだ。
 決して苦悩がないわけではないのだろう。
 迷いながら進むしかない過去を、彼もまた抱えているのだろう。
 しかし、彼は、自分と向き合い、受け入れて、前へ進むことを選んだ。
 苦しみは尽きずとも、迷いは晴れずとも、否定しない、拒絶しない。
 それゆえの、ラズライトの言葉だった。
「褪せることのない悔恨も、新たな幸せを得ることで感じる背徳感も、すべては想いの強さゆえに生じるものであるならば、逃げずに向き合うことが故人のためであると信じて……グリゼルダ様も、ご自身やマリア様のために、貴女を繋ぎ止める新たな絆を探されてはいかがでしょうか? その絆が、貴女と、貴女の中のマリア様を生かすのではないかと思いますし、この街でなら、きっと尊い出会いが訪れると思います。……私自身が、そうでしたから」
 そう言ったあと、ラズライトは、長広舌をお許しください、と詫びて、言葉を締め括った。
「……」
 グリゼルダの双眸が揺れている。
 彼女は迷っている。
 ――当然だ。
 生きる意味をなくした世界に、なお永らえることは、苦痛でしかないだろうから。
 しかし、意味など、本当はどこにでもある、とも、太助は思う。
 そしてマリアは、グリゼルダがその意味を見つけてくれるように祈っている。
「……あのさ、ぐりー」
 太助はグリゼルダの肩によじ登った。
「どうしましたか、太助」
「ん……俺さ、映画の――ああ、俺が来たばしょ、ってことな――最後で、死んじまうんだ」
「そうなん……えっ?」
 頷きかけたグリゼルダが眼を見開く。
「この世界がどういうばしょか、ぐりーは知ってるか?」
「ええ……漠然とではありますが。元いた場所とは違うのでしょう」
「うん、それで、俺たちのことを、みんながしってる。自分たちがきた世界のことを、映画って言うんだ。俺はさ、自分がいた映画で、最後に、てっぽうでうちころされて、剥製にされちまうんだ」
「そんな、」
 あっけらかんとした太助の物言いに、グリゼルダが絶句するのが判った。
 それは、映画『タヌキの島へようこそ』のディレクターズカット版DVDにおける隠しED。
 太助は、再会を約束した少年が成長し、再び島を訪れた時には、人間に射殺され、剥製にされて、物言わぬ存在となって彼を出迎えることになっているのだ。
「また会おうなってやくそくしたんだ。もういっかい、あいつに会いたかった。もういっかい、あいつの笑顔が見たかった。だから、やくそくした。元気になって、また会おうぜ、って」
 太助は自分の行く末を知っている。
 銀幕市の魔法が解ければ、死が自分を待っているということを。
 しかし、自分の死よりもなお太助を苛んだのは、自分が彼を哀しませてしまったことだった。
「会えなくなったのは、つらいよ。さいごの瞬間に、いったいだれを思い出して、だれのなまえを呼んだんだろう、って自分でも思う。だけど、それよりも、あいつにつらい思いをさせるのが、もっとつらかった。くるしかったよ」
 マリアも、きっとそうだっただろうと思うのだ。
 誰よりも自分を愛してくれた人を、自分がいなければ世界に意味がないと言い切る人を、たったひとり遺して逝くことが、辛くなかったはずがない。
「俺が感じてるいたみは、ぐりーとは正反対のいたみなんだと思う。俺、おいていくのがつらかった。――マリアも、つらかっただろうと思う」
 グリゼルダの手が、おずおずと太助に伸ばされ、そこにある熱を確かめるように、彼に触れる。太助が腕の中に飛び込んだら、グリゼルダは、彼を、ギュッと抱き締めてくれた。
「俺たち動物は生きるために生きてる。あした喰われるかくごをしながら。だから俺たち、あしたのやくそくは、ふつう、しないんだ。……でも、俺、やくそくしちゃったからさ。あいつのこと、哀しませちゃったんだ」
 もう一度会いたかった。
 それだけの思いで約束をした。
 約束は無残な、惨いかたちで成就され、少年は心に、決して浅くない傷を負ったことだろう。
 彼を哀しませたかったわけではなかった。
 ただただ、もう一度会いたかった。
 自分の死よりも、そのことが、ただ、哀しかった。
「マリアはあんたを、哀しませたくなかったろうな」
 ぽつり、と呟くと、太助を抱き締める腕に力がこもった。
 グリゼルダは理解したのだろう。
 哀しみの種類がひとつだけではないことを。
 耐え難い哀しみに胸を痛めているのが、自分だけではないことを。
「マリアがいないことが、信じられないのです」
「うん」
「もう二度と触れられないことが、信じられない」
「うん」
「それでも……届いているのでしょうか」
「マリアに?」
「ええ。私が、今でも、こんなにも愛しているという思いが」
「……届いてるよ、ぜったい」
 確信を込めて断言すると、グリゼルダの呼吸が、震えた。
 太助は、グリゼルダの熱を確かめるように、彼女の胸に鼻面を摺り寄せて、どうかこの人に、せめてこの街の中でだけでも、穏やかな眠りと許しが訪れますように、と、祈った。



 4.ソラハナ

「あら……先客が」
 マリアベル・エアーキアの言葉に、Soraは傘のように枝を広げた大樹を見遣った。
 枝葉の下には、金髪の少女と、青い髪の青年と、もっふもふの仔狸と、ヴァイオレットの目をした女性と、性別のはっきりしない灰銀髪の人物とがいて、皆が銘々に、やわらかな下草に腰をおろしている。
「貴方が言っていたのは……あの女の人?」
 仔狸を抱いて空を見上げている女を指し示すと、マリアベルは小さく頷いた。
「そうだと思うわ。金髪に紫の眼と聞いているから」
 ふたりに気づいたらしく、その場にいた全員がこちらに眼を向け、紫の眼の女――グリゼルダと言うらしい――の腕に抱かれた小さな狸は、可愛らしく前脚を挙げて、ぽよんす! と挨拶をしていた。
「……きみたちも、対策課から?」
 問うたのが、依頼主の神音だろう。
「あたしは、彼女に……マリアに話を聴いて、それで来たの」
 対策課で依頼を受けたマリアベルが、路上で歌っていたSoraに黄昏の森の位置を尋ねた。
 Soraにとってそこは、よく歌をうたいに行く公園の近くにあるムービーハザードだったので、当然丁寧に教えたのだが、日没前の森が続くだけの場所に何故、と思って反対に理由を尋ねたら、依頼のことを聞かされて、興味を持った。
 成り行きとしては、以上のようになる。
「……マリア?」
 グリゼルダがマリアベルを見遣る。
 マリアベルはにっこりと微笑んで一礼した。
 彼女の腕には、大きなバスケットがある。
「初めまして、グリゼルダさん。私は、マリアベル・エアーキアよ。あなたに伝えたいことがあって、確かめたいことがあって、来たの」
 そう言ってから、マリアベルは、バスケットを地面におろし、中から大きなリング型のケーキを取り出した。
 ふわり、と、オレンジの薫りが立ち昇る。
「辛いとき、哀しいとき、気持ちが沈んだとき、甘い物があれば気持ちが落ち着くのじゃないかと思って。お酒を使って焼いた大人のオレンジケーキを、少しビターなチョコレートでコーティングしたのよ。オレンジとチョコレートの相性は、抜群なの」
 ふんわりとした笑顔を見せたマリアベルの、艶やかな苺色の目が、五人が手にしたティーカップを映した。
「あら、お茶の準備は万端なのね? なら……わたしの、特製のケーキを、お供に加えてもらえるかしら?」
 マリアベルが言うと、グリゼルダの腕の中にぬいぐるみよろしく収まっていた仔狸が、太助と名乗ったあと、
「おいしいお茶にケーキか、そりゃたまんねぇなっ。ありがたくいただくぜ、なっ、ぐりー?」
 もっふもふの尻尾をぱたぱたと揺らして、グリゼルダを見上げた。
 グリゼルダの眼差しは、マリアベルと、マリアベルの翼に向けられていたが、ややあって、彼女は、かすかに微苦笑し、頷いた。
「……ええ」
 Soraは、ケーキを切り分けるマリアベルの手元を見るでもなく見たあと、グリゼルダの傍らに腰を下ろした。
 太助とグリゼルダが、同時にSoraを見る。
「あたしはSora。ここへ来たのは偶然だけど……貴方のマリアのことを聴きたくて」
「あなた……も、ですか……?」
「ええ。あたしは歌うために生きているの。映画でも、きっとここでも。――あなたのマリアも、そうだったのでしょう? 彼女がどんなことを想い、どんな風に生きて、どんな歌をうたったのか、それが気になって」
 Soraは映画の中で『奇跡の歌姫』と呼ばれた少女だった。
 透明で高潔と評されるその歌声は、この銀幕市に実体化してからも変わらない。
 ――そう、例え、歌う理由、意味が、実体化したことで薄っぺらになってしまったような気がしているとしても。彼女の存在の根幹であるすべての歌の作り手がこの銀幕市にいて、Soraが命を燃やして歌ったすべてが、本当はその青年の創ったものなのだとしても。
 歌で存在を証明しようとした彼女の根本が、この街では冒されているのだとしても。
 それでも、歌はSoraにとって自分自身だった。
 歌うことでのみ、Soraの魂は開花するのだった。
「歌うことが、あたしの生きているあかし。歌わないあたしは、生きていないの。――貴方のマリアも、そうだったのかしら? 歌うことは、彼女の魂だったのかしら?」
 Soraが言うと、マリアベルからケーキの載った皿を手渡されていたグリゼルダは、彼女を、眩しいような、切ないような、虚しいような、慈しむような、哀しむような眼で見つめ、小さく頷いた。
「同じことを、マリアも言っていました。神の歌姫がうたうことは、すなわち国を守ることでもありました。歌うことと守ることはマリアにとって同義で、ならばそれは生きることでもあったのでしょう。歌はマリアの魂でした。彼女の歌声の隅々に、魂が満ちていたことを、私は知っています」
 言ったあと、何かを思い出したのか俯いたグリゼルダの口に、チョコレートでコーティングされたオレンジケーキを一口大に千切った太助が、その欠片をぐいぐいと押し込む。
 意志の強そうな、きつそうな印象を受けるグリゼルダだったが、太助のそれに怒るでもなく、むしろ苦笑して口の中のものを咀嚼し、静かに嚥下した。それを見上げて、グリゼルダの膝の上に陣取り、腰に手を当てて仁王立ちした太助が、満足げに大きく頷いている。
「そう……」
 Soraはマリアベルからケーキを、ラズライトと名乗った耳と尻尾を持つ青年からお茶を受け取りながら、グリゼルダの言葉を反芻した。
 マリアの生き方、マリアの想いが、それだけで伝わってきたような気すらして、それらを聞いたSoraが、口にすべき言葉はたったひとつだった。
「なら、簡単に死なんて選ばないで」
 Soraの言葉に、グリゼルダが目を見開く。
 鮮やかな青紫の双眸を、弱い光が掠めた。
「……私は、守るべき存在を守れなかったのです」
「ええ、知っているわ」
「マリアのいない私の命は、何よりも軽い。全なる神とやらも、私が永らえたところで、喜ばれはしないでしょう」
「ええ……そうね、あたしの命も、軽いの。皆いっしょよ」
 真っ直ぐにグリゼルダを見詰めて、Soraは言葉を継ぐ。
「神さまなんて知らないわ、あたしはあたしの命が、どれくらい頼りなくてふわふわしているか知っている。けれど、だからって、死んですぐに誰からも忘れ去られるなんていや。あたしの面影が、どこからも失われるなんて、いやだわ」
 Soraがグリゼルダに死んで欲しくないと思うのは、Sora自身が、自分の命の軽さを知っているからだ。
 あまりにも軽い命だからこそ、自ら喪わせるような真似はしたくない、しないでほしいという、自殺を嫌う心のすべてが、自分本位でわがままな、自分のための願望だと自覚している。Soraは、自分の心のために、グリゼルダに死んで欲しくないと思うのだ。
 けれど、同じく、もし自分にグリゼルダのような人がいたら、死んで世界から消えてほしくない。ずっと生きて自分を忘れないで欲しい。そう思う。
 そんな誰かがいるマリアを、羨ましいとさえ。
「Sora、と……言いましたか。あなたは、身体が……?」
「ええ、小さな頃から、いつ死んでもおかしくないって言われながら生きていたわ。あたしの命はいつ消えるかも判らなかった。――いいえ、今でもそうよ、もしかしたら、明日にはもう動けなくなっているかもしれないの。あたしの身体は、そう言う風になっているのよ」
 Soraの淡々とした物言いに、グリゼルダが痛ましげな表情をする。
 Soraはかすかに首を横に振り、グリゼルダの憐れみを拒んだ。
 長く生きることだけが十全ではない。
 ベッドに縛り付けられたままで、長く生き続けることだけが、彼女の生きる目的であったなら、Soraは、奇跡の歌姫などと呼ばれはしなかっただろう。
「ただ生きているだけなんて、いやだった。死ぬなら自分を誇って、世界にあたしを刻みつけて死にたかった。それがあたしの歌う理由だった。――今でも、そうなのかどうかは、判らないけど。だけど……そうあればいいとも思う。歌があたしの全身を満たす、すべての根本であればいいって」
「世界に、貴方を……刻みつけて」
「ええ。そうしたら、あたしが消えたって、誰かが、あたしの歌をおぼえていてくれるでしょう。そうしたら、あたしは、世界のどこかに残るでしょう。――貴方のマリアも、そうではなかったの。マリアの歌声は、マリアが消えてしまってもなお、世界のどこかで、誰かの心に、旋律を残し続けたのではなかったの」
 Soraの、問いとも確認とも取れぬその言に、グリゼルダはほんのわずか、瞑目し、そして頷いた。
「そう……ですね。残っているはずです。いいえ、私の心には、確かに、まだ彼女の歌声がたゆたっている」
「それは、慰めにはならないかしら? マリアの願いは、そこにこそ、あると思うのだけれど?」
「……判って、います。しかし私は、マリアは、」
 Soraは微笑んだ。
「貴方の歌姫は幸せね、そんなにも惜しんでもらえて」
 白く細い指先でティーカップを持ち上げ、真紅の液体を一口含む。
 花を思わせる爽やかな芳香が鼻腔を抜ける。
 Soraは紅茶葉には詳しくないが、恐らく、とてもよい品なのだろう。
「……でも、少し可哀想ね」
 ティーカップをソーサーに置き、Soraが言うと、グリゼルダが目を伏せ、小さく首を横に振った。
「憐れんでもらおうとは、」
「憐れみ? 違うわ、事実を言っているだけよ。そして、その事実を、少し残念に思うだけよ」
「……事、実……?」
「ええ。今の貴方を貴方の歌姫が誇れると思うの? 貴方の歌姫は、あなたを信じ、愛していたでしょう。自分を守ってくれる騎士を、誇りに思っていたでしょう。その事実を、真実伝えられるのは貴方だけなのに、それすらも放棄して……無意味に世界から消えて、貴方はそれでいいの」
「マリアが……私を? 私が、マリアの真実を……」
「そうよ。別離の苦しみは、どこにでもあるものでしょう。そのどれもがとてつもない悲劇で、悲嘆で、痛みでしょう」
「……はい」
「だけど、喪われた命を再び取り戻すことが出来ないからこそ、あたしたち人間は、せめて、遺された自分たちが、喪われた誰かの思いを、愛しい人たちに生きて欲しいという願いを、伝えていこうと思うのでしょう」
「……」
 声を失うグリゼルダの、傷ついた横顔は、母を――拠りどころをなくした頑是ない少女のようだ。
 Soraはまた、マリアを羨ましいと思った。
 同時に、こうまで思い合えるふたりを、眩しくも思う。
「貴方は、マリアが本当に大好きで、大切だったのね。いいえ、今でも大切で、愛しくて、会いたくて仕方がないのね」
「……ええ」
「もしも、銀幕市の誰かが、貴方からマリアの記憶を消して上げると言ったら、貴方はそれを望むのかしら?」
 Soraの言葉に、グリゼルダは首を横に振った。
 そこには、はっきりとした意志があった。
「出会いの日から、別れの瞬間まで、マリアとのすべてが私の宝物です。この痛みすら、私だけのもの」
「なら……忘れないで。痛みに苛まれても、でも、生きて。貴方は世界中で一番、歌姫を覚えているのでしょう。貴方が一番、マリアを伝えられるのでしょう。なら、……貴方の覚えているマリアを繰り返し刻んで。ずっと彼女を忘れないで。ここで生かして、ここで生きてみせて」
「……」
 唇を噛んで、グリゼルダが俯く。
 矛盾した思いだとSoraも思う。
 最愛の女性の記憶を宝物だと言いながら、その記憶によって胸を塞がれ、生きる気力を削ぎ落とされて、しかし忘れたくないと、ずっと覚えていて、何度でも記憶の中で出会いたいと、そう思うのだ。
 人間の心とは、なんと不可解なのだろうかと、Soraは思う。
 同時に、最愛の誰かを目の前で失ったことのない人間が、何を言ったところで、それは残酷な繰り言に過ぎないと、Sora自身、思っている。自分が、自分の持たない痛みに対して、無責任な――自分本位の願望を並べ立てているのだということを、Sora自身がよく判っている。
「あたしは酷いことを言っているわね。それでも自殺とフィルムなんて見たくないし、その結末を知りたくなんて、ないの。……これがあたしの言葉。あたしが、貴方に伝えたかったこと」
 それでも、生きて欲しい。
 どうしようもなく軽い命というものが、強く深い思いを孕むとき、どれほどの輝きを放つのか、痛みを飲んで凜と咲く命の花が、どれだけ鮮やかに美しいのか、Soraはそれを確かめたいのだ。
 そして、Sora自身もまた、グリゼルダとはまた少し違った位置で、自分の、あまりにも軽い命に、意義と彩りとここで生きる意味とを見い出したいと、見つけたいと思っているのだ。
 Soraが言葉を切ると、沈黙が辺りを包んだ。
 誰もが黙って、マリアベルのケーキを、ラズライトのお茶を口に運んでいる。
「……わたしね」
 口を開いたのは、マリアベルだった。
「不幸自慢なんて、する気はないけど……映画の最後で、死んでしまうのよ」
 にっこりと微笑む彼女からは、悲壮感はない。
 マリアベルの朗らかさは、たとえこの街が夢から醒めればすべてが消えてしまうのだとしても、忘れてしまうから――何も残らないから何も感じない、というものとは違っていた。
「! あなたも、ですか……」
「あら、わたし以外にも?」
「……こちらの、太助が」
「まあ……そうなの」
「ん、おう、そうなんだ。まぁ、俺は、じぶんが死んじまうことより、もっともっとかなしいことがあるんだって、ぐりーには伝えたけどな」
「ええ、そうね。――わたしはね、こちら風に言えば、主人公……になるのかしら、その人を庇って死ぬのよ。その人を生かして、そのことで国を生かす力を遺して、去るんだわ」
「辛いとは……思わないのですか。どうして自分が、と」
 太助を、マリアベルを見つめてグリゼルダが言う。
 マリアベルは太助と顔を見合わせて、ちょっとだけ笑い、そして首を横に振った。
「わたし、あの人に、伝えたいことは全部、伝えたから。あの人も、それに応えてくれたから。何も心配は要らない、って。だから……そうね、自分が死んでしまうことを、恐ろしく思うし、残念だとも思うけれど……何かを責める気には、なれないの。わたしたちの世界を創ったのがここの人たちなのだとしても、わたしたちの世界がつくりものなのだとしても、わたしはわたしの思うままに、悔いなく生きたもの。今も、思うように、生きられているもの」
 実体化という事象を経て、自分という存在が不確かになってしまったムービースターは、決して少なくないだろう、自分の歌が自分のものではなくなってしまったSoraのように。
 映画では絶対悪と称されながら、銀幕市に実体化したことで、その意義をまっとう出来なくなったものも、もしかしたらいるかもしれない。反対に、善と定義づけられながら、銀幕市ではそのカテゴリに含まれなくなってしまったものも、いるかもしれない。
 しかし、だから、自分たちの映画をつくった人々を責める気になれるかと言われたら、Soraも多分、首を横に振る。
 SoraはSoraだ。
 どこにいても、自分が自分であるという意識に変わりはない。
 切ないほどに軽い命を抱いて、レゾンデートルの証明のために足掻き続ける、Soraという一個の魂に変わりはないのだ。
 マリアベルの言葉は、それをすべて言い表していた。
「グリゼルダさん、ひとつ教えて」
「……?」
「わたしは、最後の時に、伝えるべき言葉を伝えて息を引き取るわ。その言葉が、あの人を駆り立て、レスティアという小国を救う力にするの。――マリアさんは、何も言葉を遺さなかった? 日々の中に、あなたのための言葉を、遺してはいなかった?」
「最後、に……」
「ええ」
「……私に」
「そうよ」
「…………幸せだった、と」
 ぽつり、零れた言葉。
「一緒に生きられて、幸せだった、と。私の時間はここで終わるけれど、私の魂は常にあなたの心に寄り添って生き続けるから、どうか哀しまないでほしい、生きて平和を勝ち取って欲しい、と」
「……そう」
「ですが、私にとっては……!」
 同じ言葉を言い募ろうとするグリゼルダに、マリアベルは慈愛めいた微笑を向けた。
 ――Soraは感じている。
 グリゼルダが、少しずつ、『開かれて』来ていることを。しかし、マリアへのあまりに強い思いのゆえに、自分が開かれることへ罪悪感を覚えてしまっていることも。
「わたし、名前が似ているからかしら、マリアさんのこと、凄く親近感があるの。知った口を利くな、って怒らないでね、わたしはあなたの歌姫ではないけれど、私が彼女なら、グリゼルダさんに幸せになってほしいと思うわ。――生きてほしいと思うわ。だって、大好きな人が生きて幸せでいてくれるだけで、わたしの生きる意味もあっただろうって思えるもの」
 瞑目するグリゼルダの頭を、肩によじのぼった太助がぽすぽすと叩いている。
 微笑ましい光景だとSoraは思った。
「……判って、います。本当は、判っています。私が生きることがマリアを生かすことになる。マリアの思いに応えることが、許しにも、贖罪にもなるのですね」
「ええ、Soraさんも言っていたでしょう、マリアさんを『生かせる』のはあなただけだって。わたしは、マリアさんを喪った事実だけを見て、彼女と過ごした大切な時間を忘れないで欲しい。たくさんの温かいものを、ここで終わりにはして欲しくないの」
「……はい。皆が、その善意を私に注いでくれました。私は理解しようとしている。私は、許されるのならば前を向きたいと、思い始めています。――許されるのならば」
 それは、きっと、自分が許せたら、ということなのだ。
 最愛の存在をなすすべもなく喪った自分を、自分で許すことが出来たなら、という。
 マリアベルはにっこり笑って頷いた。
「急がないで。ゆっくり進んで。あなたにとってのマリアさんが、どれだけ大きなものなのか、わからないわけではないのだもの」
 喪失は苦しい。
 喪失を抱えた自分を見つめて歩くこともまた、苦しい。
「……はい。……はい……」
 深く頷くグリゼルダのヴァイオレットが、確かな光を孕んだのを、Soraは見た。
 それは、生きた光だった。
 生きる気力、前へ進もうという意志、痛みを、孤独を、絶望を負ってなお立たんとする猛々しい活力だ。
 コレットが、太助が、ラズライトが、マリアベルが、微笑み、顔を見合わせ、グリゼルダの肩を叩く。
 Soraは、それを見ながら息を吸った。
 脳裏を、音が、言葉が、たゆたっている。
 今この瞬間に紡ぎ出されることを、待ちわびている。
 たとえ誰の創る音楽に似ていたとしても、それは、Soraが、たった今胸の奥から生み出した、Soraの魂、Soraの花だった。

(夜明け前 遠い空
 空の向こうに ねじれる涙雨
 手を伸ばし 溜め息ひとつ
 届かない 星を思う

 思い出は遠く 今も鮮やかで
 記憶は楔 心は茨
 なおもわたしは 立ち尽くす

 幻想のクレイドル どうか心を眠らせて
 黄金の月しずく どうか孤独を休ませて

 永遠のクレイドル どうかあなたを眠らせて
 白銀の星あかり どうかわたしを休ませて

 夜明けがふたりを 照らすまで
 朝日がわたしを 包むまで
 もう一度あなたに 逢えるまで)

 鎮魂だと思ってうたったわけではなかった。
 湧きいずるメロディを、素直に、コトノハとともに紡いだだけだった。
 しかし、グリゼルダは美しいヴァイオレットに光る膜を貼り付け、言葉をなくしていた。
 肩が震えているのは、何を堪えているからなのだろうか。
 その肩を、そっと、マリアベルが撫でる。
「……泣いていいのよ、グリゼルダさん」
 その背中に太助が抱きついた。
「そうそう、いっぱい泣いて、なみだで、きもちをきれいに洗ってやればいいんだ。なんもかんも、ぜーんぶ、ぐりーが抱えこむひつようなんか、どこにもねぇんだからな?」
「気持ちを外に出して、少しずつ見詰めて、――少しずつ、前へ進めばいいと思うの。ゆっくり歩いていきましょう、わたしたち、グリゼルダさんの隣で、一緒に歩くから」
 太助とマリアベルの、穏やかな言葉が落とされた、次の瞬間。
「……ッ」
 グリゼルダの双眸から、粒の大きなしずくが二つ三つと零れ、頬を伝って、きらきらと輝きながら滑り落ちていった。
「ッ、う……ぅ……」
 頑是ない少女のように震え嗚咽するグリゼルダの頭を、太助が、小さな前脚で撫でている。
「涙を、流す……こと、すら……私には、許されない、と……」
「うん」
「わたし、には、その資格すら、ない、と、思って……いました……」
「……うん。つらかったな、哀しかったよな、苦しかったよな。でも、楽になってもいいんだぜ。ぐりーが楽になって、自分の分までしっかり生きてくれることを、マリアものぞんでるんだから」
「はい」
「マリアのこと、いっぱい話そう。俺、ぐりーのだいすきな人のこと、もっと知りてぇ。もっと知って、おぼえておきてぇよ」
「はい……」
 あとはもう、ただただ、涙。
 Soraはそれを、静かに見詰めていた。
 グリゼルダの頬を伝う、浄化の雫を。



 5.招かれざる客と、序曲

 そこから、どれだけの時間が経っただろうか。
「……なるほど」
 唐突に響いた声は、別の場所からした。
 聞き覚えのない声だった。
「それが、あなた方の辿り着いた結晶か。――興味深い」
 声に敵意は感じられなかったが、決して友好的でもなかった。
「赤、どうだ、見えたか」
 声には、静かで落ち着いた少年のものと、
「――見えた。面白いよな、結晶って。なんでこんなに、色んなかたちがあるんだろ」
 前者とまったく同じ音韻でありながら、無邪気さと闊達さ、無垢ゆえの残酷さを孕んだ少年のものの、ふたつあった。
 いつの間にそこにいたのかも判らない。
 まったく同じ顔、同じ声の、違うものといえば髪の色だけ、という少年がふたり、そこにはたたずんでいた。
「あんたたち……だれだ?」
 何かを感じ取ったのか、尻尾を膨らませて太助が問う。
 ――ふたりの肩には、同じ、真っ白なバッキーがしがみついている。
「ムービーファン……?」
 誰かの呟きなど気にも留めていない様子で、赤い少年が、その場に集ったムービースターたちを指差して、楽しそうに名前を呼ぶ。
「『タヌキの島へようこそ』の太助、『Reincarnation 〜黄昏の黙示録〜』のラズライト、『ソラハナ』のSora、『レスティア物語』のマリアベル、それに『紫苑の騎士』のグリゼルダか……錚々たるメンバー、って奴じゃね?」
「……確かに。だが赤、僕たちのやるべきことは、ムービースターたちにサインをもらうことではないぞ」
「判ってるよ。つぅかもう回収したし」
「なら、いい」
「でもさ、青?」
「どうした」
「あいつ……持って帰って、渇望の毒の中に浸けたら、もっと色んな結晶を出さねぇかな。もっと強くてでっかい結晶にならねぇかな、それ」
 赤と呼ばれた、赤い髪の少年が、悪童めいた眼差しでグリゼルダを見る。
 嫌な予感がして、太助が、ラズライトが、マリアベルが、神音が立ち上がり、身構えるのを、赤い髪の少年は笑った。
 獰猛な、愉悦に満ちた笑みだった。
「俺、別に、あいつらをぶっ飛ばして、あいつだけ持って帰るのでも、構わねーけど」
 赤い少年の言葉に、青と呼ばれた青い髪の少年は、ほんの一瞬思案する素振りを見せたが、すぐに首を横に振った。
「……やめておこう、楽しそうな案ではあるが、今は時間がない。彼らも、我々を警戒しているようだし……戦えば、間違いなく長引く。それより、一刻も早く、この結晶を師のもとへお届けして、“かの方”の目覚めの彩りにしなくては」
「あ、やっぱり? まぁ、次のお楽しみ、って奴かな」
「そういうことだ」
 その場に集った人々を置き去りに交わされる会話に、Soraが眉をひそめた。
 太助は、グリゼルダを守るように、彼女の前に立ちはだかっている。
「結晶って、何。貴方たちは、何の話をしているの」
 ふたりの少年から返ったのは、子どもらしい無邪気な笑みだった。
「誰でも持ってるものさ。俺も、あんたたちも。それが見えて、触れるヤツは、そんなにいないけどな」
「人の思いが行き着く果ての、エネルギー。そういうものだ」
「……それを、どうするつもりなの」
 結晶。渇望。
 それは今、銀幕市のあちこちを騒がせているキィワードでもあったはずだ。
 対策課には、今も、その手の依頼が多数、舞い込んでいる。
 Soraの問いに、少年たちは顔を見合わせて笑った。
「もうすぐ判る。もうすぐ。俺たちは、結晶が見たいだけだったけど……」
「今は、師の望みを叶えて差し上げたい。それだけだ」
「待って。もっと、判るような言葉で言って」
 しかし、少年たちはもう、何も答えなかった。
 赤い少年が踵を返す。
「ああ、そうだ」
 彼に倣いかけて、青い少年が、小さく呟いた。
 そう思った次の瞬間、彼は、驚くべき素早さで、神音の懐に入り込んでいた。
「……?」
 神音がわずかな驚きを浮かべて自分より拳ひとつ分小柄な少年を見下ろすと同時に、手が伸ばされ、
「あの“業苦の楽土”の依り代に、何か使えるかもしれない」
 そんな、不可解な呟きとともに、青い少年が神音の髪、三つ編みにされて色鮮やかな絹紐で纏められた一房を掴む。
 ――白い光が閃く。
 ナイフだ、と気づくよりも、神音の髪が切り落とされ、青い少年の手の中に収まる方が、早かった。
 誰かが息を飲む。
「――すぐに判る、すぐに」
「すぐに会うことになるだろうしなっ」
 何がどうなっているのか判らずに、迂闊に踏み込むことも躊躇われて立ち尽くす人々へ邪気のない笑みを向けてから、ふたりの少年が去って行く。
「一体、何が……?」
 Soraの小さな呟きに、答えられるものは、もちろん、なかった。

 ――しかし、神聖騎士グリゼルダは、痛みとともに生きる道を選んだ。
 不可解な幕切れの中、それだけは、確かな事実だった。
 あの時、黄昏の森に集った人々は、ひとまず、そのことを喜び、銀幕市民の仲間入りをしたグリゼルダに、惜しみない友愛を注いだ。
 彼らはすっかりグリゼルダに『懐かれ』て、特に太助とSoraは、甘いものを一緒に食べに行ったり、請われて歌を聞かせたり、しているらしい。

 無論、何もかもが解決したわけでは、なかったが。
 それでも、確かに、歓びは育った。
 たくさんの言葉と、思いの先に。

クリエイターコメント大変お待たせ致しました!
顔面から土下座で突っ込みつつ、ノベルのお届けに上がりました。

重苦しい悲嘆に我が身の消滅ばかりを望んでいた神聖騎士は、自分だけが痛みを感じ、哀しんでいるのではないことを知り、遺された者のなすべきことを理解して、この街で生きることを選びました。

それは、温かな、真摯な言葉を下さったみなさんのおかげです。皆さんの、グリゼルダへのやさしい感情と、生きることへのひたむきな思いに感謝し、敬意を表します。

自分が生きるための意味、アイデンティティという根幹は、それぞれに色彩が、かたちが違い、どれが十全と決められはしませんが、自己と真摯に向き合う限り、そのどれもが貴く美しいのだろうと、執筆しながら思いました。

無論、何もかもが解決し、完結したわけではありませんし、次なる騒動の種は、次々に蒔かれている現状ですが、皆さんのお陰で、ひとつの魂が穏やかさを取り戻したこともまた事実です。

素敵なプレイングを、どうもありがとうございました。
判定の関係で厳しい結果が出た方もおられるかとは思いますが、それもまた、結末に至るまでの味わいのひとつと、ご寛恕いただければ幸いです。

そして、いまだ燻る渇望の火種は、またすぐに顔を覗かせるかと思いますので、その折には、ご助力のほどをお願い致します。

それでは、毎度のことながらお届けが遅れましたことをお詫びしつつ、楽しんでいただけるように祈りつつ、またお目にかかれることを祈って、お暇致します。
公開日時2009-01-30(金) 18:50
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