★ 足元のスパイダー・ウェブ ★
<オープニング>

 
 頭が痛い。
 息が苦しい。
 腕が痛い。足も痛い。
 おまけに、寝ても覚めても、あのニオイがそばにある。
 夢の中にまで、あのニオイが忍びこんでくる。
 焼けるように熱い眼底にこびりついているのは、蠢く暗黒。
(助けてくれ……、助けて……、どうして、自分だけが……)
 頭が痛い、割れそうだ。
(メヲサマセ)



 ムービースター・フランキーの討伐作戦は成功した。フランキーがもたらした被害、討伐部隊〈スティンガー〉が負った手傷は、果たして大きかったのか、小さかったのか。判断は分かれていた。しかし、フランキーという大きな脅威を払拭できたのは確かだ。罪もないムービースターが悪事の片棒を担がされる心配はなくなった。
〈スティンガー〉として作戦に参加した武装テロ集団『ハーメルン』は、リーダーのケイ・シー・ストラも含めた全員が負傷し、仲良く銀幕市立中央病院に入院するハメになった。メンバーによってはベッドをあてがわれる必要もないくらいの軽傷だったが、ストラとブレイフマンの傷は深く、かれらは結局病院で年を越した。ガスマスクたちは頑なにリーダーのそばから離れようとしなかったから。
 テロリストたちは設定上そういうことになっているのか、非常に傷の治りが早く、ブレイフマンを除いた全員が、三箇日を過ぎた頃には退院した。
 そう、ブレイフマンを除いて――。
 ストラは酒を飲みながら新年(かれらにとっての新年は1月7日だった)を祝えるくらい回復したのに、ブレイフマンだけは、傷がふさがらないばかりか、熱が下がらないのだ。
 彼はクリスマスにカゼを引いて倒れているが、恐らくこのカゼをこじらせてしまったのだろうと医者も考えていた。
 退院してからも、ハーメルンは毎日ブレイフマンの見舞いに来ていた。病院関係者は、やがて彼らから差し入れのウオッカを取り上げるのをあきらめた。
 しかし1月の半ばを過ぎても、ブレイフマンの容態は回復の兆しを見せず――
 事件は起こった。


「まただ。この私が、同志ブレイフマンの位置を補足できない。そもそも、ブレイフマンが私に何の報告もなく姿を消すこと自体が、ありえないことだ」
 ストラは真剣な面持ちで植村に話した。
 その日、ブレイフマンは病室から忽然と姿を消したのである。クリスマス・イヴのあのときのように、ストラはブレイフマンの現在地をまったく掴めず、病院関係者もいつ彼がベッドを抜け出したのか知らなかった。もとより彼は前日から40度弱の高熱を出していて、歩くこともままならなかったハズなのだ。
「思えばブレイフマンの挙動には不審な点がいくつもあった。私の命令を聞かずに実弾を撃ったこともある。足は速いハズなのに、昨今の訓練や走りこみでは遅れがちだった。何か身体に異常でもあるのかもしれない……ヤツ自身も気づいていない異常だ」
「異常と言えば……リーダー。あの件も話しておいたほうがよいのでは?」
 後ろに控えていたガスマスクのひとりが進み出る。ストラは振り返り、難しい顔をしたが、やがて頷いた。
「なにか気になることが?」
「……ヤツのベッドがひどく濡れて、汚れていた。病室の床も水浸しだったのだ。ただの水ではなかった……排水かドブのような……澱んだニオイがした。あまりにも不愉快なニオイだった。死臭すら慣れているというのに」
「もしかしたら、手がかりになるかもしれません。病院には申し訳ないですけど、病室の状態はそのままにしておいてもらいましょう。他にはなにか……?」
「あぁ、装備……」
 後ろに控えていたガスマスクのひとりが口を開く。
「ブレイフマンの装備、病室に置いてあったんですよ。ソレもいっしょに消えてるんです。もちろんAKも。パジャマ脱ぎ捨ててあったんで、わざわざ着替えたんじゃないかと。あんな身体の状態でこの格好したら、10メートル歩いただけでブッ倒れますよ」
「……病院にライフルを置きっぱなしにしないでください。ここは日本なので、銃器の管理にはほんと気をつけてほしいんですよ」
 呆れ顔でちょっとズレたツッコミをする植村に、そのガスマスクは詰め寄った。
「あいつAK大好きなんですよ。好きなモノがそばにあったほうが元気出るでしょ!」
「落ち着け、エミール。……病人が銃を持って行方不明なのだ、緊急捜索のいい口実になるのではないだろうか」
「それもまあ、そうですが……」
「頼む。――これ以上、同志を失いたくないというのに……イヤな予感がするのだ」
 ストラはその一言を口にするまで、いつもの無表情で、冷静な口ぶりだった。
 その一言には、苦渋と悲愴が、にじみ出ているようだった。
 そうだ、彼らは、つい最近、仲間をひとり失ったのだ――植村はソレを思い出し、顔を上げて、心中でガスマスクたちの数を数える。
 17人。
 ガスマスクをかぶっているのに、彼らが涙ぐんでいるのが、植村にはなぜかわかった。
「私もまだ身体が本調子ではない。いつもよりカンもにぶっている。荷物になる可能性もあるが、調査には同行したい。わが同志にも、なにか指示があれば従わせよう」
「わかりました。では、対策課から調査依頼を出しますね」
「スパシーバ」
 ストラが無表情で礼を言うと、
「スパシーバ!」
 後ろのガスマスクたちが、キレイに声をそろえた。
 

種別名シナリオ 管理番号922
クリエイター龍司郎(wbxt2243)
クリエイターコメント※ホラー、グロテスク色の強い内容になる予定です。お好きな方はぜひどうぞ。苦手な方はご注意ください。また、募集期間が短めですのでこの点にもご注意ください。

大きな作戦が終わったばかりですが、お騒がせ集団がまた事件を起こしました。サーカス事件でおなじみとなった(?)ブレイフマンが、入院先の銀幕市立中央病院から行方をくらませたのです。
彼の体調を考えると、そう遠くには行けないハズなのですが……。
身内の『ハーメルン』は慌てて対策課に来たため、現場の調査はほとんど行っていません。
調査にはケイ・シー・ストラ含む『ハーメルン』が同行します。なにか指示があればご遠慮なくどうぞ。ただし、ストラはまだ本調子が出ないため、索敵能力がほとんど使えなくなっています。そして肉体的にもムリをさせると傷がパックリ! ご注意ください。
今回は判定などはナシで。ですが、一応『大正解の行動』を設定してあります。また、設定欄やノートでのプレイング補足はお控えください。
ではでは、ヨロシクお願いします。

参加者
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
二階堂 美樹(cuhw6225) ムービーファン 女 24歳 科学捜査官
太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
<ノベル>

「危篤になるってんならまだわかるが、消えるなんて……」
「でもアイツ、おとといはガトーショコラ食うくらいは元気だったんだぜ」
「食ったっていうか、ムリヤリ食わせたんじゃないか。ドラグノフが」
「なんだ、自分のせいだって言うのか。口をこじ開けたのはヘッケラーだぞ」
「でもふた口目からは自分から食ったじゃないか、うまいって」
「だがそのあと吐いたよな」
「本当か!?」
「リーダーに口をこじ開けてでも食わせろって指示されたんだ。仕方ないだろう」
「――同志たちよ。5名の協力者が決まった」
 市役所の小会議室でヒソヒソと会話していたガスマスクたちは、中に入ってきたリーダーの姿を見るなり、一斉に口を閉ざして背筋を伸ばした。
 ケイ・シー・ストラのあとに会議室に入ってきたのは、ブレイフマン捜索に名乗りを上げた5名の市民だ。コレット・アイロニー、ミケランジェロ、二階堂美樹、太助、リゲイル・ジブリール。ミケランジェロ以外は、このテロ集団とはっきりとした面識があった。ミケランジェロももちろん彼らのことをまったく知らないわけではなかった。クリスマスツリーの森では間接的に迷惑をかけられてもいる。
「とりあえず、すぐ現場に戻って調べる……ってのが、俺たちの意見だ。ただ、道すがらでかまわねェから、話してほしいんだよ。そこの人間台風とかタヌキとかと違って、俺はあんまりおまえらのこと知らねェしな」
「ミケさん、私、そんな名前じゃな――」
「ダ・ヤア。質問があるなら答えよう、ペンキ屋」
「……ペンキ屋じゃねェ、掃除屋だよ」
 ストラは唇の片端を吊り上げて、ちょっと笑ったつもりだったのかもしれない。彼は背後の同志に短く指示を出した。5人と18人は、ゾロゾロと市役所をあとにして、銀幕市立中央病院に足を運んだ。
 移動中、美樹はガスマスクたちの数を数えて、戦闘服の肩に刺繍されたネームを確認した。日本人には馴染みの薄い、ロシア名やドイツ名ばかりだ。けれどその中に、「ブレイフマン」という名前がないことは確かだった。
「……まったく……いつも世話焼かせるんだから……!」
 彼を尋問し、その最中にカツ丼を差し入れようとしたことがある。彼を護衛に指名したことも。ティターン神族を追いつめる作戦では、彼を借りて街中を駆け回った。
 けれど、不思議だ。
 ストラになんとなく似ていて、ストラよりひとまわり若いことは覚えているのに、詳しい顔立ちをうまく思い出せない……。
「そのブレイフマンだけが取った行動とか、心当たりねェか? この街に実体化した、とっぱじめの頃から思い出してみてくれ」
 出口のない美樹の物思いが、ミケランジェロの声で破られる。
 ストラとその同志たちは、顔を見合わせてしばらく話しこんでいた。ブレイフマンの体調は少しずつ悪化していったために、いつ頃、なにが原因だったのか、思い当たることを見いだすのは難しいようだ。
 ややあって、ストラが話し始めた。
「ブレイフマンはサーカス襲撃からスタジオでの立て篭もりまでの一連の作戦で、チーム・フレーテに配置していた。フレーテの生き残りはヤツひとりだけだ。貴様らに下水道で拘束された」
「下水道……! やっぱり、下水道がなにか関係あるんじゃない?」
 リゲイルがストラに詰め寄った。ストラは少女のその剣幕を見下ろして、フム、と声を漏らす。
「チーム・フレーテはベイエリアの本部にとどまりつつ、作戦地であるスタジオタウンまでの下水道の状況を定期的に確認していた。ソレが任務のひとつだったのだ。われわれはあの作戦の際、移動には下水道を利用していたからな。どの市街地でも、下水道は網の目のように張り巡らされている……退路としても有効に活用できるが、状況や道筋を正確に把握しておく必要があった」
「じゃあ、ほかのみんなより下水道にいた時間が長かったんだ」
「そういうことになる」
「……やっぱ地下に行かなきゃなんねーっぽいな。でも一応、病室しらべとくか?」
「うん。もしかしたら、ブレイフマンさんが病室から出てないってことも、あると思うの」
「へ?」
 コレットの言い分に、太助は首を傾げた。
「ううん、気にしないで。ただ、そのイヤなニオイのする水も調べたほうがいいわ」
「なにはともあれ、事件はまず現場から始まるんだし、一理あるわ。賛成よ」
 中央病院は目の前だ。美樹はツカツカと足早に正面玄関に向かう。彼女はまさに今日、ブレイフマンの見舞いに行くつもりだった。病室が何番か、すでに知っている。


 しかし5人と18人が到着したとき、病院内はすこし混乱していて、チラホラと警察官の姿まで見受けられた。いつも混雑していて、医療関係者が忙しく駆け回っているような病院ではあるが、さすがに警察が来ると雰囲気が変わる。
「な……なにかあったのかな……?」
 コレットは身体を強張らせて、小さく呟いた。美樹は真顔をさらに険しくして、近場の警官をつかまえる。
「科捜研の二階堂です。事件ですか?」
「夜勤の看護師3名と警備員1名が行方不明なんですよ。明け方になんらかの事件に巻きこまれたようですが……詳しいことはまだなんとも」
 ソレを聞いて、他の4人は顔を見合わせた。
「うーん、無関係じゃない気がするなぁ……」
 太助はクシャクシャと頭をかく。タヌキの姿で病院に入ると注意されることもままあったので、今は年相応の少年に化けていたが、この状況ではタヌキのままでもとやかく言われなさそうだ。みんな余裕がない。
 警察官や病院関係者が駆けずり回る中、5人とハーメルンはブレイフマンが消えた病室に向かった。行方不明者のことはもちろん心配だったが。
 ブレイフマンは始めのうちは大部屋にいたが、他のメンバーが退院してから間もなく個室に移された。というのも、毎日18人が見舞いに来て、ひどいときには酒を飲んでドンチャン騒ぎをしたからだ。彼らはテロリストという設定どおり、世の中にとって迷惑な存在になっていた。
 その話をストラから聞き、コレット以外の全員が呆れ果てる。
「バカかおまえら」
「そりゃよけい具合も悪くなるわよ!」
「しかし祖国では風邪をウオッカで治すのだ」
「確かに身体はあったまるけど……」
「ほんとに風邪だったの?」
 美樹が聞くと、ストラは肩をすくめた。
「免疫力が低下していたのは確かなようだ」
「おまえらに付き合いきれなくなって自分からいなくなったなんてオチじゃねェだろな……」
 ミケランジェロが言うと、ストラがピクリと眉間に力を入れた。と同時に、彼の後ろのガスマスクたちがハーメルン語やら日本語やらで猛抗議を始めた。ストラが不機嫌になると彼らは17倍不機嫌になるようだ。
 ミケランジェロはウンザリ顔で耳をふさいだが、すぐに、鼻もふさぎたくなった。
「ぅぇ」
 太助は露骨に顔をしかめ、鼻をつまむ。
 美樹とコケットとリゲイルも、不快な悪臭をかすかに感じて、眉をひそめた。
 504号室。ブレイフマンが入っていた病室だ。リゲイルがドアを開けると、ハーメルンの中で唯一顔を出していたストラがガスマスクをかぶった。
「うっわー、ひっでぇニオイ。うっわー、くっせー」
 太助は顔の前でパタパタ手をあおぎ、病室の前で立ちすくむ。
 美樹とリゲイルとコレットだけが、個室の中に入った。ストラが言ったとおり、床もベッドもビショ濡れだ。
「やっぱり、ブレイフマンさんは病室の中にいるんじゃないかな……」
 言いながら、コレットはベッドのシーツをめくる。
「この水が、ブレイフマンさんだとか」
「溶けたとか、そういうこと?」
 リゲイルはコレットに尋ねてから、自分のその言葉にゾッとした。
 しゃがみこみ、床に広がる水をこわごわと覗きこむ。コレットもリゲイルの隣にかがみこんで、ベッドの下を覗いた。
「キャーッ!」
 ふたりの少女は揃って悲鳴を上げ、飛び上がった。
 たちまちテロリストたちがザカザカ銃を構えたが、ストラを押しのけるようにして、ミケランジェロがすばやく病室の中に飛びこむ。
 しかしミケランジェロが見たのは、ものすごい怪物でも死体でもなく、ベッドの下から這い出してきたゲジゲジとムカデ数匹だった。かなりの大物だ。コレットとリゲイルは腰を抜かしている。
 多足の虫はミケランジェロのほうに走り寄ってきた。ミケランジェロはモップを振り上げ、ゲジゲジを1匹叩き潰す。床に広がる悪臭の水が飛び散り、生き残った虫は進路を変えた。
「わっ!?」
 今度は、洗面台を調べていた美樹が叫び声を上げた。大物のムカデたちに思わず道を譲る美樹。虫どもはすばやく洗面台と床を繋ぐ排水管をのぼり、洗面台の排水溝の中へと姿を消した。
「なんだ、虫かよ」
 ガスマスクのひとりが呆れたように呟いたが、
「いや、虫じゃねェ」
 ミケランジェロが否定した。
 彼がモップで叩き殺したゲジゲジは、みんなが見る中、シュワシュワと溶けて水になっていく。
 太助は鼻をつまんだまま、ゲジゲジが溶けてできた水を見て、洗面台を見た。
「せんめんだい……ビショビショだな」
「この水を分析したいところなんだけど、時間がかかるのよね」
「なー、でもおまえよくへーきだな、このニオイ」
「うーん、ちょっと気になってたんだけど、太助くんとストラが大げさなんじゃないの? ヤなニオイだけど、鼻なんかつまむほどじゃないわ。ねぇ?」
 美樹はリゲイルとコレットに振った。虫のショックからなんとか立ち直っていたふたりは、コクリと頷く。美樹はミケランジェロにも振ったつもりだったが、彼は鼻をふさいでかぶりを振っていた。
「……ヘンねぇ、女はニオイに強いのかしら」
「ムービースター……」
 リゲイルが全員の顔を見回しながら言う。
「もしかしたら、ムービースターにとっては、すごくイヤなニオイなのかもしれないわ」
「――思い出した。このニオイは、かすかだが……スターヒルズ・ホテルの中にもあった」
 ガスマスクを外して、ストラが言った。
 スターヒルズ・ホテル。そう言えば、あのムービーキラー討伐作戦の折、特にエレベーター・シャフト内は不快なニオイだったという報告もある。
 その屋上で見た絶望の生物のことを思い出して、太助は軽く身震いした。


                    ★  ★  ★


 チョロチョロと、水の流れる音。
 ソレはせせらぎとは似て非なる音。
 鉄のハシゴを降りるうち、その音は大きくなって、川の流れというよりも、滝が落ちる音に近いものになっていく。
 やけに錆びつき、ところどころヌメヌメした液体で汚れたハシゴを、4人はしぶしぶ降りていった。
 4人のうち3人は女性だ。白衣を着た看護師だった。残るひとりは、制服を着たままの警備員。ハシゴを降りきった彼女たちが見たのは、いちめん灰色と黒の下水道だった。
 4人は顔を上げ、ハシゴの先を見た。
『彼』はハシゴを使わずに、ラペリング降下してきた。4人が何分もかけて降りてきたところを、5秒もかけなかった。
「い……一体、どうしろって言うんだ」
 警備員は生唾を飲み、そう尋ねた。数だけで言えば彼らのほうが有利だったが、相手はアサルトライフルを持っていたし、なにより出で立ちに威圧感がある。
 不気味なガスマスクに、黒い迷彩服に、防弾ベストと多数のマガジン。素人が――しかも戦争慣れしていない日本人が立ち向かうには、精神的にもハードルが高すぎる。
 そのうえ『彼』の様相ときたら、異様にして異常なのだった。
 装備の隙間からたえずポタポタと水が滴り落ちていて、時折ムカデやゴキブリが這い出したりもしているのだ。
 警備員と看護師たちは、昨晩から早朝にかけての巡回の際に、この異様な男に拘束されたのだった。しばらくは地下の排水処理施設に監禁されていたが、急に、下水道に降りろと命令されたのである。
 自分たちをどうするつもりなのか――警備員は訊いた。男はじっと黙って警備員の顔を見つめ返しているだけで、なにも言わなかった。ただ一度、ひぐっ、と奇妙なシャックリをしたが。
「どういうつもりなのか知らんが……頼むから……女だけでも見逃してやってくれ」
「ダメだ。若い女は高く売れる」
 ようやくガスマスクの奥から、奇妙なくらいにくぐもった声がした。
「リーダーが喜ぶ。……違う。行くところがある、あの子を喜ばせなければ。友達が必要なんだ。ダメだ、向こうに……向こうに、行、け」
 ゴボッ、とガスマスクの隙間から大量の水が漏れ出した。
 不快なニオイを放つその水は、今、彼らのそばを流れる下水に違いなかった。


                    ★  ★  ★


 次の捜査の場を下水道に移すことで5人の意見は一致した。中央病院の地下には大きな排水処理施設があり、そこから直接下水道に降りられるらしい。簡単な聞きこみでその情報は得られた。許可を取りつけるのも簡単だった。
 地下でも警官や刑事の捜査は行われており、ちょっとした混雑になっている。
 美樹が警察から情報を聞きだしている間、リゲイルと太助はストラと話した。
「ストラさん、できれば、病院で待っててほしいんだけど……無理かな」
「そうだ、体調わるいんだろ。無理すんなよ」
「……、ノル・ニェ。すまないが、ソレは……」
 ストラが難しい顔で拒むと、後ろのガスマスクたちが「そうだそうだ」「なに言い出すんだ」と抗議を始める。どうやら彼らとストラの感情は連動しているらしい。
「貴様らに訊こう。寝食を共にし、同じ思想を掲げてきた仲間が行方をくらませて、その居場所の見当がついたとする。貴様らは家で捜索の結果を待っていられるか? 信頼の置ける者が捜索に当たってくれているとしてもだ」
「う……そう言われると……」
「でも、ストラさんはまだケガが治ってないんでしょ? なにかあったら、後ろのみんなも、ブレイフマンさんも、心配するじゃない」
「フン。ジェーブシュカ、ティ・タカーヤ・ニェージュナヤ」
「……そうかな」
「ちょっとまてよ、いま会話なりたったのが信じらんなかったぞ。――ついて来たいんなら、しかたないな」
 軽くツッコミを入れたあと、太助はストラの説得をあきらめて、背負っていた風呂敷を下ろした。
 中には、今この場にいるムービースターの人数分のゴールデングローブが入っていた。18+2個なので、かさばらないような形状のモノを選んできている。
「みきとふたりでアズ研行ってかりてきたんだ。なんかあったらおそいからさ、つけていこうぜ。ねがてぶぱわーがなかったらただのアクセなんだし」
「ダ・ヤア。この形状ならば動作に影響もないだろう。われわれは従う」
「あ、そうだ。変身しとかねーと」
 太助はストラの顔を5秒くらいじーっと睨んだあと、あざやかにトンボを切った。
 ドロン!
「あ!」
「ぅわ!?」
 ガスマスクたちが声を上げた。ストラの前にもうひとり、ストラがあらわれたからだ。
「なんだよ、前にも一回化けたじゃんか。おー、背ぇたけー。リーチなげー」
 ストラの前で太助(姿はストラ)がシュッシュとシャドーボクシングを始めると、ガスマスクたちが悲痛な叫び声を上げた。彼らは太助(姿はストラ)に踊りかかり、強制的にガスマスクをかぶせる。
「おわー、なにすんだよっ!?」
「リーダーは『リーチなげー』『おわー』などと言わん!」
「イメージが崩れるだろうが!」
「帽子にするぞ貴様!」
「イテテテ、れーだー能力使いたいんだからしかたねーだろ!」
「ちょっと、なに遊んでんの! ――ここについさっきまで行方不明になってる人たちがいた形跡があったそうよ!」
 ドタバタ劇の最中に美樹がやって来て、警察が掴んでいる情報を早口で話しだす。
「ソレに、あちこち水びたし。病室の床の水といっしょかどうかは、分析してみないとわからないけど……アレって1分や2分で結果が出るモノじゃないから」
「めんどくせェから問題のガスマスクもいたってことにしちまおうぜ。ヤバイことになったらすぐココに帰れるようにしとくから、とりあえず下水道に行かねェか?」
 ミケランジェロは言いながら、そばの壁にスプレー缶を向けた。
 その場にいた誰もが、彼がなにをしたのかわからなかった。ただ、ミケランジェロの右腕がかすんだように見えただけ。
 ほとんど一瞬で、無機質なコンクリートの壁に、大理石の透かし彫刻を思わせる絵画があらわれていた。むろん単なる絵画ではなく、それは魔法陣だ。ガスマスクたちが「おお……」「ハラショー」と感嘆の声を上げて、まばらな拍手を送った。
「よーし、準備おーけーだな」
「ハシゴはあっちだって」
「ドキドキするなぁ……」
「うぅ、ちょっと濡れるのイヤかも」
 美樹と太助とコレット、リゲイルが、下水道につづくハシゴに向かう。
 ストラも彼女たちにつづこうとしたが、ミケランジェロが引きとめた。
「なんだ、絵描き」
「掃除屋だ、っつの。――最近、ムービーキラーが増えてきてるんだよ。もしかしたら……ってことも……ある。いや、決めつけてるってワケじゃねェんだ、ただ――」
「その可能性も視野に入れている。むろん、覚悟もしているつもりだ」
「そうか。でも……、……まァいい。まだ決まったワケじゃねェんだ。まだ……」
「他になにか言いたいことがあるようだな」
「いいんだよ。『そのとき』になったら言うさ。『そのとき』が来ないのがいちばんなんだ」
 ミケランジェロはハーメルンに背を向けた。ストラもソレ以上追及はしない。
 そして彼らも、ハシゴを降り始めた。


 ゴウゴウと、まるで滝のような音を立てながら、すぐそばを流れていく下水。
 懐中電灯で照らしても、行く先にある暗闇は光をたやすく飲み込んでしまう。
 幸いハシゴで降りたところには細いコンクリートの歩道があった。下水をかきわけながら進む必要はなさそうだ……今のところ。
 美樹が足元を照らしてみると、歩道にくっきりと濡れた足跡が残っていた。ひとりぶんではない。行方不明になった人々だろうか。
「待て」
 足跡を見たストラの顔つきが険しくなった。
「コレは、われわれが履いているブーツのモノだ」
「ブレイフマンさん、こんなところにいるの……? こんなひどいところに……」
「うーん、近くには誰もいなさそうなかんじだけどな。すとられーだーに反応ナシだ」
「ねぇ、ストラ。ちょっと思いついたことがあるの。コレに命令を吹き込んでくれない?」
 美樹はストラにレコーダーを渡した。ストラは訝しげではあったが、素直に受け取る。
「ブレイフマンに対しての命令か?」
「そう。命令じゃなくても、反応しそうな言葉でいいわ」
「КШom Мне」
 ストラがレコーダーに吹き込んだ短い言葉は、ハーメルン語だったようだ。ロシア語を解するリゲイルにもよくわからなかった。ただ、「こちらへ来い」という言葉に、すこしだけ似ているような気がする。
 美樹はレコーダーと持参してきたスピーカーをつなぐと、暗闇に向けて、ストラの声を再生した。

『КШom Мне!』

 ガスマスクたちがビクッと身構えて、思わずといったふうにストラに目を向ける。美樹が思ったとおり、ストラの声は彼らにとってどうしても無視できないモノらしい。
 暗闇の中を、ストラの声は反射しながら進んでいった。
 そして――。
「あ、な、なんか来る……なんか来るぞ!」
 ストラの索敵能力を得た太助が叫んだ。
「散開! 迎撃体勢!」
 ストラがするどく命令するや否や、ハーメルンは躊躇せずに歩道から下水の中に飛びこんで銃を構えた。水位は深いところでも彼らの膝くらいしかない。
 ミケランジェロがコレットとリゲイルの前に出て、モップの柄をひねった。仕込み刃が、コレットの持つ懐中電灯の光を受けて輝く。
 リゲイルが悲鳴を上げた。
 カビくさい、湿った壁と歩道を、数え切れないくらいの虫が這ってくるのだ。ムカデにゴキブリにゲジゲジに……高い湿度や不浄を好み、醜悪な外見を持ち、たいがいの人間に嫌われる類の虫ばかり。
 銃弾や刀でどうにかするようなモノではない。
 しかしその虫の大群は、先頭に立ったミケランジェロの前から進路を変えて、次々に下水の中に飛びこんでいった。そして――。
「……!」
 ギチギチジュクジュクと気持ちの悪い音を立てながら、虫でできた小山が下水の中から隆起してきて、なにかのカタチを……人間のカタチを……取り始めたのだ。
「……ウソでしょ……?」
 美樹の呟きは、驚きと絶望で震えた。
「リ……リ……リーダー……、ギ……お、お呼びで……ス……か……」
 ボタボタと下水と虫を滴らせながら、ガスマスクをかぶった軍人風の男が、ストラの前にあらわれていた。
 迷彩服の肩と胸に、汚れた刺繍。
 ブレイフマン。
「ゲフ、ゴフッ、ゴボッ……。ゲブッ……、リ、リ、リーダー……、ЭWeem……、あ、あの、子……森……ひとりぼっち……ち……ガハッ! ガハッ、グエッ!」
 ブレイフマンはノドと胸をかきむしるようなしぐさを見せたあと、乱暴にガスマスクを剥ぎ取った。
 その顔は、ストラになんとなく似ていて――けれど、ひどく顔色は悪く――咳きこむたびに、口から下水と虫を吐いているのだった。
「ブレイフマン……!」
「リ……リ……リーダ……お、お、置いて……いかな……い……で……リーダー……身体、痛い……熱、い…………女、捕まえまし……、売ったら……リーダー……よ、よ、喜んで……じ、自分……自分、リーダーの、役、立ててま、す、か。リーダ……、お、お、置いて……か……ない……で……」
 ブレイフマンはストラに向かって手を伸ばした。
 手に持っていたハズのガスマスクはいつの間にか消えている。その青褪めた顔に、ザワザワと虫がたかった。たちまち彼の顔を覆った虫の群れは、黒いガスマスクに姿を変える。
 ストラはなにか言ったが、ハーメルン語だった。彼は構えたガリルARMのサイトをのぞき、引金にかけた指に力をこめる。
『――ア゛ァァアアアアアアァァアアアアアアッッ!!』
 おおよそヒトのモノとは思えない咆哮を上げて、ブレイフマンだったモノがのけぞった。
 バチン、と風船のように彼の身体は弾けて、また、無数の虫の群れに姿を変えた。
「に……逃げるのか!?」
 敵の動きが、今の太助にはわかる。
 虫の群れはストラの銃口から逃れるように『身』をくねらせて、歩道に這い上がり、壁を伝い、暗闇の奥へと消えていく。
「どうする!?」
「追いかけましょう!」
 美樹の声が震えていたことには、誰も気がつく余裕がなかった。それに、彼女は誰よりも早く駆け出していたのだ。
 虫が苦手なリゲイルにとって、今の出来事は刺激が強すぎた。ついていこうとしたが、足がすくんで動かない。
 ミケランジェロが無言でリゲイルを抱え上げ、下水を踏みつけながら走りだす。
「そんな……、そんな……ブレイフマンさんが――」
「オイ、置いていくぞ!」
 コレットもべつのショックを受けて立ちすくんでいたが、ガスマスクのひとりに腕を引っ張られ、おぼつかない足取りで前に進み始めた。
 コレットは、あくまでブレイフマンは病気だと思っていた。その考えは甘かったのだ。彼は病気よりもずっと悪い状態になっていた。
「みんな、平気なの? ねぇ、あんまりこの水にさわっちゃダメよ。この水が原因なのかもしれないんだから」
 バシャバシャと下水の中をひた走るガスマスクたちに、コレットは言う。
 しばらく誰からも返答はなかった。
「――平気か、だって? そんなワケがあるか。われらが同志が……あんな姿になって! チクショウ!」
 コレットの腕を引っ張るガスマスクが、そう吐き捨てた。


 虫の群れは枝道に入り、うねりながら疾走する。
 20メートルは走っただろうか。だが、何度も道を曲がっているので、直線距離で考えると、降りてきたハシゴからはそう離れていない――恐らく、まだ中央病院の周辺か、もしかすると、敷地内かもしれない。
 太助の能力のおかげで、闇の中に群れの姿を見失っても、居場所は捕捉できた。
 しかし、奇妙だ。
 全員が、身体が冷えていくのを感じていた。ほとんど全速力で走り回っているのに、身体はちっとも温まらない。顔や身体に当たる風は、確実に冷たくなっている。
「あれ」
「ん……」
 太助とミケランジェロが、ほとんど同時に気がついた。
 念のために身につけていたゴールデングローブが、ブゥン、と低い唸りを上げて――。


                    ★  ★  ★


「あ、おとうさん! 『Michael-Angelo』みたよ。ちょっとお話むずかしかったけど、すっごくCGとか絵がキレイだったの。ミケランジェロさんもすっごくカッコよくって。おとなになってからみたら、お話わかるかな?」

「ねぇねぇ、昨日パニックシネマで『タヌキの島へようこそ』のイベントやったってほんとう? ――へぇ、いいなぁ! 太助くんやった子も来てたんでしょ? いいなぁ……いいなぁ、わたしも行きたかったなぁ……」

「わたしも行きたかったぁ……」

「わたし……」

(ここから出ることもできないの)

(このカベのむこうがわには、映画のスターがいっぱいいるのに)

(わたしだけ……会いに行けないの)


(どうして……わたしだけ……)


                    ★  ★  ★


 走っていたほぼ全員が、前につんのめった。
 足元の感覚が、急に変わったのだ。水をかき分けていた感覚がなくなって、靴の底は土を蹴っていた。
「え、なに、コレ。どういうこと?」
 リゲイルはミケランジェロに抱えられたまま、呆然とあたりを見回す。
 そこは、下水道ではなかった。
 重たい鼠色に曇る、どんよりとした空。下水に似た悪臭を放つ、カビだらけの更地。そして、その向こうの廃墟。コンクリートの町並みは、まるで腐敗したかのように黒ずみ、崩れかけている。カビだらけの土からは、奇形のキノコやねじくれた植物じみたモノが生えていた。異様なキノコや植物は、ビルや建物にも絡みついているようだ。
「アレ? ぅわっ」
 ストラに化けていた太助が、唐突にバランスを崩してしりもちをついた。しりもちをついたその瞬間から、太助の姿はタヌキに戻ってしまっていた。
「ゴールデングローブが強い反応を示している。数値はわからないが、凄まじいネガティヴパワーが充満しているようだ。この空間は……われわれは資料で見ただけだが……まさか」
「ネガティヴゾーンよ。間違いないわ。この雰囲気……あそこも、こんな感じだった」
 美樹は張り詰めた表情で、ゴクリと固唾を呑む。
 そのときだ。
 かすかに、女性の悲鳴が聞こえてきたのは。
「あっち!」
 コレットが後ろを指さす。
 50メートルほど向こうで、巨大なゼンマイかワラビのような異様な植物が、ユサユサ揺れているのが見えた。目を凝らせば、その植物に身体を絡め取られて、いくつかの人影がもがいているのがわかる。悲鳴はあそこから飛んできたのだろう。
「助けてえ!」
「おーい、こっちだ! おーい、助けてくれー!」
 駆けつけてみると、ソレは看護師と警備員だった。病院で行方をくらませた4人だろう。
「落ち着け、あんまり揺らすな。今助けてやるよ」
 ミケランジェロが声をかけ、モップに仕込んだ刃を植物の茎に打ち込んだ。
 残りの3人も助け出そうと、ハーメルンがショットガンで茎を撃ち始める。
「アレ、クソッ……弾切れだ。いつもならいくらでも出てくるのに」
「ゴールデングローブつけてるせいだよ。体調とかは、大丈夫?」
「問題ない。いつもどおりにいかないってのは、少し調子が狂うが――うお、なんだっ!?」
「キャアッ!」
 リゲイルとガスマスクの会話は、ふたりの悲鳴で途切れた。
 ショットガンでえぐった植物の茎から、根元から、ブワッと黒い煙が上がったのだ。否、ソレは煙ではなかった。異形の蟲の群れだ。ムカデやゲジゲジに似た多足の蟲の群れが、下水道で見たあの現象のように、一瞬で小山を築き上げて、ひとりの男の姿を形成した。
 ガスマスクをかぶった男。
 ブレイフマンという名前だった男。
 彼は目の前のふたりにAKを向けた。
「スミルノフ! 撃て!」
 異常に気づいたストラが叫んだが、間に合わなかった。もとよりリゲイルのとなりのガスマスク――スミルノフのショットガンは弾が切れている。
 銃声が響き、スミルノフが後ろによろめいた。不幸中の幸いか、銃弾は彼の右腕の肉をえぐっただけだった。悲鳴を上げかけたリゲイルを、ブレイフマンだったモノがタックルして突き飛ばす。
「ブレイフマン……!」
「バカか!」
 美樹が彼の前に立ちはだかろうとしたが、ミケランジェロが制止した。
 バランスを崩した彼女に代わって、ストラがブレイフマンの前に立つ。
「止まれ! 命令だ!」
 ブレイフマンは一瞬躊躇したようだったが、一瞬にすぎなかった。彼はもはや人間のモノではない叫び声を上げ、獣のようにストラに飛びかかった。ふたりはカビまみれの土の上に倒れこむ。
 ストラに馬乗りになったブレイフマンの装備の隙間からは、ボタボタと蟲がこぼれ落ちていた。蟲の脚とアゴがこすれ合う、ギチギチキチキチという耳障りな音の中から、しわがれたうめき声が漏れてくる。
『リ……ダ……も……申し訳……申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません申しわ……ァ……ガァアアアアアアア!!』
 ストラの目の前のガスマスクが、S10レスピレーターから異形の黒い仮面に変じた。まるで昆虫、スズメバチやカマキリの顔のように、凶悪なキバを備えたアゴを開いて、下水をヨダレのように滴らせ――
「ブレイフマン……わが、同志……」
 ストラは呆然と呟いて、その異形の顔に両手を差し伸べようとした。

 ザクッ!

 ブレイフマンだったモノのノドから刃の切っ先が飛び出して、ストラのノドもとスレスレで止まった。
 ミケランジェロが、無表情ともいえるような固い顔つきで、『怪物』の後ろに立っていた。突き出した仕込み刀の切っ先をひねりながら、力任せに『怪物』の身体を吊り上げる。
『シィィィッ! ギィイイギギギギ……キッッ!』
 しばらくもがいていた『怪物』は、ミケランジェロが一度強く切っ先をひねった途端、ビクリと大きく痙攣した。
 それきりだった。
 ガスマスクの男はカタチを失い、バチュンと液体のように弾け、黒いモヤになって霧散した。その霧の中から、一巻のフィルムが落ちてきた。
 黒ずみ、ボロボロになったフィルム。
 ソレは地面に落ちた瞬間に崩れ、吹いてもいない風にさらわれて、跡形もなく消えてしまった。
「今が、『そのとき』だった。結局言うヒマなかったな。――もし、探してるヤツがムービーキラーになってたら……俺が殺してやる。そう言いたかったんだよ」
「……助かった。感謝する」
 ストラはミケランジェロ以上に、無表情だった。特にケガはなかったようで、すぐに身体を起こす。
「ブレイフマン……そ、そんな……ウソよ!」
 『彼』のフィルムが落ちていたハズの地面に駆け寄り、美樹はかがみこんで、手をついた。氷のように冷たい、カビた地面があるだけで、黒いフィルムのカケラひとつ、そこには残っていない。
「ウソよ! こんなのイヤ! 絶対に……絶対に助けるって決めてたのよ。ブレイフマン!」
 太助はなにも言えず、ただ、美樹のそばに歩み寄って、なにもない地面を見下ろした。
 ムービーキラーだった。ブレイフマンは、恐らく自分でも気づかないくらいに少しずつ、ゆっくりと、変異していったのだろう。彼はムービーキラーになってしまった。その結果はわかっても、太助は口に出す気になれなかった。
 美樹が泣きながら、太助に抱きついてきた。
「ストラさん! スミルノフさんが!」
 重苦しい沈黙の中、不意にリゲイルの声と、ひとりのガスマスクの男のうめき声が響いた。
 ブレイフマンの銃撃を受けたスミルノフが、撃たれた右腕を押さえてもがき苦しみ始めたのだ。
「ア……ぁ、がア……っ!?」
 メキメキと音を立てて、スミルノフの右腕がねじ曲がり、黒い血を噴いて、べつの生き物のように蠢き出していた。キチキチギチギチと、ついさっき聞いた音が上がる。
 蟲だ。
 スミルノフの右腕が、数十匹の赤黒いムカデに変わっていく。
「あ、銀ちゃん!?」
 リゲイルが抱えていた大柄なバッキーが、倒れたスミルノフの上半身にのしかかった。スミルノフは右腕を押さえようとしているのかバッキーを押しのけようとしているのかわからないが、ひどい苦痛の声を上げながらもがいていた。
 そこへ、美樹とコレットの肩から飛び降りたそれぞれのバッキーが駆け寄る。
「トト……!」
 ピュアスノーとサニーデイのバッキーは、スミルノフの右腕だったモノに噛みついて、ムシャムシャと大急ぎで食べ始めた。スミルノフはものすごい悲鳴を上げた。リゲイルのバッキーは彼にのしかかっているだけで、スミルノフを食べようとはしていない。
 やがて、スミルノフの叫び声がやんだ。
 コレットと美樹のバッキーは、ちょっとだけふくらんだおなかをさすりながらスミルノフから離れた。
「スミルノフ!」
 ストラが駆け寄って彼を抱き起こし、ガスマスクをはぎ取った。スミルノフは汗をビッショリかいて荒い息をついていたが、意識はハッキリしているようだ。
「も、問題、ありません。もう、痛くない……不思議だ」
 スミルノフの右腕は肩口からなくなっていたが、まるではじめから彼には右腕がなかったかのように、傷口はキレイにふさがっていた。出血もなく、恐ろしい蟲の気配もない。
「スミルノフさん、う、腕……」
「命があるだけマシだ。ソレに、自分は左利きだしな。貴様のバッキーに礼を言う」
 コレットを見上げて、スミルノフは微笑した。コレットが抱き上げた自分と美樹のバッキーは、微妙な顔つきでおなかをさすっている。ゴロゴロと具合の悪そうな音が、かれらのおなかの中から聞こえてきていた。スミルノフを侵食しようとしていたネガティヴパワーだけ食べてくれたらしい。
「――ブレイフマンは、残念だった。だが、われわれは……」
 スミルノフを支えながら立ち上がったストラは、そこで言葉を区切った。
 太助も、ピクと耳を動かす。

 ザワザワ……ザワザワザワザワザワ……カサカサカサカサカサ。
 ブブブブブ……ブブブブブブブブブゥウウウウンンン……!

 遠くに見える廃墟から、黒い煙が上がっていた。
 そして無数の足跡によって、かすかに地面が揺れ始めている。
 蟲だ。
 虫の大群が、押し寄せてきている。
「マズイぞ……撤収だ!」
 植物に捕らわれていた人々を急いで助け出し、5人とハーメルンはネガティヴゾーンから撤退することにした。大群を相手にするには、あまりにも装備が貧弱だ。もともと、ブレイフマンを探し出すのが目的だったのだから無理もない。
 ミケランジェロはすばやくスプレーで地面に陣を描いた。
 市立中央病院の地下に転移できる――ハズだったが、ゴールデングローブが発動していたせいか、ちょっとだけ失敗した。


 光に包まれたあと、彼らはザブンと下水の中に落ちていた。
 全身下水まみれになりながらも顔を上げると、降りるのに使ったハシゴがすぐそばにあった。


                    ★  ★  ★


「ブレイフマン……ブレイフマンが……」
 美樹はずっと泣いている。ハーメルンのメンバーも全員ガスマスクを外して涙ぐんでいた。美樹は近場にいた人影が誰かも確かめずに抱きついた。ソレはスミルノフだった――いつもは女に絡まれた仲間を小突いてヘラヘラする彼らも、今はその余裕がない。片腕だけで、スミルノフは美樹を抱きしめ返した。
 ブレイフマンにさらわれていた看護師3人と警備員は、大きなケガはなかったが、一応診察を受けている。5人とストラには礼を言っていた。
 4名の民間人の失踪事件は無事に解決したので、警察は撤収を始め、病院も落ち着きを取り戻し始めていた。
「あれ、すとらは……?」
「ホントだ、いない」
 仲間の死を悼むハーメルンの中に、リーダーの姿がない。太助とリゲイルは病院の外に出た。
 彼は案外近くにいた。太助とリゲイルが見つけたとき、ストラは病院の前にある花壇の縁石に腰かけて、タバコを口に持っていくところだった。
 そして、マッチをすろうとしていた。
 マッチは次々に折れていて、なかなか火がつかないようだ。ずっと下水道にいたから、シケてしまったのか。
「……」
 太助もリゲイルも、かける言葉が見つからない。
 マッチがシケていたのではない、……手が震えているから、うまくマッチをすれないのだ。
 くわえたタバコも、震えていて……。
 とうとう彼は、マッチ箱そのものを取り落とした。
 ミケランジェロが近づき、ライターを差し出す。
 そして彼もストラの隣に腰を下ろして、いっしょにタバコを吸い始めた。
「飲むか?」
 自分とストラの間に、コン、とウオッカのビンを置く。実はソレはブレイフマンの病室からくすねたモノだった。ストラは恐らくソレに気づいているだろうが、なにも言わない。
 タバコをくわえて、震える手でビンを取り、彼はキャップを外した。
「か……、神は、いないのだろうか」
 ストラはかすれた声でそう言った。
「いないワケがねぇ」
 ミケランジェロが即答する。
「このまちにかぎっては、そう言える」


                    ★  ★  ★


 アズマ研究所。
 先日の討伐事件ののち再び観察室に収容されたミランダは、ずっと意識が混濁していた。ほとんど一日中眠っているような状態だったが、新たなネガティヴゾーンが発見され、そこに市民が足を踏み入れた瞬間――大きくその隻眼を見開いていた。
「とうとう、ヤツが、首をもたげた」
 彼女は無機質な天井を見つめたまま、そう呟いた。
 

クリエイターコメント余裕をもって納品することに成功しました。『足元のスパイダー・ウェブ』をお届けします。
……ストラを始め、ハーメルンという存在、そしてブレイフマンというキャラクターを支持してくださる皆様に深く感謝いたします。
正直ここまで人気が出るとは思わなかったのです。そもそもストラは『静寂のスタジオ』で死ぬ予定だったのですが、今ではそれすら信じられない展開のように思えます。
本当にありがとうございます、スパシーバ。
そしてイズヴィニーチェ。
なお、スミルノフですが、もう心配しなくて大丈夫です。彼が今後あんなことやこんなことにはならないとお約束します。バッキーの不思議な力、神の力を信じてあげてください。
……実は、書く必要が出てくるとその都度メンバーの名前を考えているのですが、けっこうコレがたいへんなので、もう残り11人の名前も決めといたほうがいいのかなぁと思い始めています。でも本当にたいへんなんです。なんでロシア的な国の人なんて設定にしちゃったんだろう……。

「大正解の行動」は「ゴールデン・グローブを持ってくる」でした。太助さん、二階堂美樹さん、お見事です。
そのため、ノベルに盛りこむ情報量がたいへん多くなりました。
ゴールデン・グローブがなければ、当然、新たなネガティヴゾーンの入口の発見にはいたらなかったのです。
すぐに次の展開が待っているハズですので、ご興味があればチェックをヨロシクお願いいたします。
公開日時2009-02-07(土) 23:00
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