★ 【眠る病】神のみる夢 ★
<オープニング>

 それは、なにかの不吉な兆しだったのだろうか――。
 銀幕市の医師たちは、運ばれてくる患者に、一様に怪訝な表情を浮かべ、かぶりを振るばかりだった。
 眠ったまま、どうしても目覚めない。
 そんな症状を見せる市民の数が、すでに数十人に上ろうとしていた。
 患者は老若男女さまざまで、共通点は一見して見当たらないが、ムービースターやムービーファンは一人も含まれていないことから、なにか魔法的なものではないかという憶測が飛び交っていた。
 そもそも、医学的に、これといった所見がないのである。
 ただ、眠り続けている。
 しかし放置するわけにもいかない。
 銀幕ジャーナルの読者と、中央病院の医師たちは、この症状にひとりの少女の名を思い出さずにはいられない。
 しかし彼女の難病とは、いささか異なる点もあるようだ。
 そんなおり――
 市役所を訪れたのは、黄金のミダスだった。

「ではこれが、ネガティヴパワーの影響だっていうんですか!?」
 植村直紀の驚いた言葉に、生ける彫像は頷く。
『すべてが詳らかになったとは言えぬが……そうであろうと思う』
 ミダスの手の中で、あの奇妙な、魔法バランスを図る装置がゆっくりと動いていた。
「では、いったいどうすれば」
『夢だ』
 ミダスは言った。
『眠るものたちはすべて夢をみている。そこに手がかりがあろう』
 装置をしまいこみ、かわりにミダスが取り出したのは、一輪の薔薇のドライフラワーだ。
『この<ニュクスの薔薇>を火にくべよ。立ち上る煙は人を眠りに誘い、同じ場で眠るものたちを、夢の世界へ導くだろう。そして人のみる夢は繋がっている』
「つまり、このアイテムを使って、眠ってしまった人たちの夢の中へ入り込んで調べる、と……そういうわけですね」

 ★ ★ ★

「ヒュペリオンが発見されたと聞いたが」
 白銀のイカロスは、対策課経由で連絡を受けてすぐ、銀幕市立中央病院へとやってきた。
「イカロスさんですね? あの、わざわざ有難うございます」
 迎えたのは年若い内科医だった。彼はそのまま、イカロスを内科棟の一室へと案内する。
 第五内科棟、最奥。他の病室からは隔離された広めの個室。
 そこの白いベッドに、神谷公太はいた。
 ある日を境に、全くの別人へと変わってしまった少年。
 綺羅星学園を巻き込んだ包囲網戦の後、行方不明となっていた深紅のダイモーンを連れたアンチファン。
 けれど、今こうして眠っている彼は、なんの力もないごく普通の高校生にしか見えなかった。
「……いったいどこでだ?」
「綺羅星学園高等部校舎の裏手側だそうです。昨夜遅く、そこで倒れていたのを見回り中の警備員によって発見されました」
「ほかの者と同じように、彼も【眠る病】にかかったということか?」
「私はそう診断しました。……でも、確証はありません」
 内科医はいくつかの検査の後、神谷公太に他の収容されている患者たちと同じ診断名を下した。
「ダイモーンはまだ見つかっていないらしいが?」
「はい。それが少々気になる点ではあるのですが……しかし、何らかの罠だったとしても彼をこのままにはしておけませんから」
 眠り続けるだけでは、人は生きられない。
 高カロリーの輸液、あるいはチューブを挿入して直接流動食を流し込むかして体を維持する必要が出てくる。
 そして、このまま目覚めずにいればどうなるか。
 イカロスは改めて、ベッドの中の少年を見やる。
 彼はそこにいる。けれど本来の彼であるかどうかはわからない。ティターン神族が仕掛けた罠である可能性も捨てられない。
 だが、このままではいずれ死に至る。
 眠りによって死に至らしめられるだろう『彼自身』には、いかなる罪もないというのに。
 ――それがダイモーンに魅入られた者たち共通の『悲劇』でもある。
「……結局、夢に降りる者たちを募るしかないということか」
 中央病院の地下に巣食うネガティブゾーンに派遣された調査隊もそろそろ戻ってくる頃だ。
 その前に、不安材料の真偽をはっきりとさせたい。

 彼はいまどんな夢を見ているのだろう。
 そして、どんな夢の中に捕らわれているのだろうか。

 ★ ★ ★

 渦を巻く闇色の空、漆黒の岩場、黒い水が至る所に湧き出ては流れを作るその場所で、少年は天を振り仰ぐ。
 ざわざわとした気配、深い深い夜の色、暗澹たる空気に満ちた、牢獄のようなくらい世界で、少年は立ち尽くす。
 まるで誰かを待っているかのように、あるいは何かを待っているかのように。
 時折、何かが彼の傍をかすめていく。
 フィルムが転がっていく。
 フライヤーが舞う。
 文字を打った白い紙も。
 その陰でちらちらと視界に入り込んでくるのは、幻影だ。
 幼馴染を殺す自分、ムービースターに殺される自分、死にゆく自分の姿がいくつもいくつも視界の端をかすめては消えていく。
 終焉を意味する映像ばかりが、自分を取り巻く。
「……」
 少年はやがて見上げることも待つこともやめて、ゆっくりと歩きだす。
 それは逃亡のようにも、目的を持った行進のようにも、さすらいのようにも、誘いのようにも見える。

 岩場に溜まっていたはずの黒い水が、じわりと蠢き、流れを変えた。

種別名シナリオ 管理番号957
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメント遅ればせながら、イベントシナリオに参戦させていただきました。
時系列的には『ネガティブゾーン調査隊が戻ってくる前』となります。

皆様には、神谷の夢の世界に降り、彼を見つけ、そして捕まえていただきます。
見つけ、捕えるためのアプローチ方法は特に問いません。
ただ、彼がいる世界では、『自身の終焉の幻』が見えるようです。
バトルの可能性はあまり高くありませんが、精神攻撃を受ける可能性はありますのでお気を付けくださいませ。

それでは皆様のお越しを、中央病院内科棟にてお待ちしております。

!注意!
作中時系列の関係で、特別シナリオ『ヨルダンの行き着く先へ』にご参加の方は、参加をご遠慮下さい。

参加者
昇太郎(cate7178) ムービースター 男 29歳 修羅
蔡 笙香(caua6059) エキストラ 男 18歳 ジャグラー
エリク・ヴォルムス(cxdw4723) ムービースター 男 17歳 ヴァンパイア組織幹部
ルーファス・シュミット(csse6727) ムービースター 男 27歳 考古学博士
<ノベル>

 白い病室にはいま、4人の男たちが少年のベッドを囲むようにして立っている。
 昇太郎、蔡笙香、エリク・ヴォルムス、ルーファス・シュミット、神谷公太との関わりの有無以前に、救いを求めているのなら応えたいという想いから名乗りを上げた者たちだ。
 彼らは眠り続ける少年のために集い、連絡を受けた時点ですでに夢に降りることを決めていた。
「他者の夢に降りるというのも、不思議な感じがしますけど」
 エリクは眠る少年を見下ろしている。
「どんな夢に捕らわれているんでしょうね」
「夢に溺れるのはひどく容易い。たとえどれほどの悪夢であっても、現実からの逃避という意味が含まれているのなら、大きな苦痛でもないのかもしれませんが」
 ルーファスもまた少年の眠りを見守りながら、思案するように言葉を落とす。
「だけど、この銀幕市では日々いろいろなことが起きてるんデス。いいことも悪いことも。どうせなら一緒に楽しいことしたいじゃないデスカ」
 笙香は肩をすくめて小さく笑う。綺羅星学園の生徒として、そしてかつて【赤い本】騒動で関わった経緯から、やはり彼を放っておけなくて。
「このまま何もせんわけにはいかんしのぅ」
 傍らに寄り添う『鳥』とともに少年に視線を落としていた昇太郎のつぶやきは、何よりも雄弁に、この依頼に参加した者たちの動機を語っていた。
 昇太郎自身は《神谷公太》についてほとんど何も知らない。あえて調べなかった、と言い換えてもいい。
 彼が何者であり、何をしてきたかではなく、ただひたすら死に瀕しているモノを見捨てられない、救いたいと願った。その純粋な想いだけで動いている。
 たとえそれが、ティターン神族の仕掛けてきた罠だとしても。
 結局のところ、彼らは皆、ダイモーンを連れたヒュペリオンではなく、その寄り代となって苦しんでいるだろう少年のために、何かしたいという思いを抱いて動くのだ。
「あの……よろしくお願いします」
 内科医は少々不安げに4人を見、そして頭を下げた。
「罠には十分気をつけろ。今言えることはそれだけだ」
 イカロスの手によって、ミダスから与えられた<ニュクスの薔薇>が燃える。
 炎の軌跡を描きながら芳香を振りまき病室の床へとゆるやかに落ちていくそれは、人々を眠りの世界へと誘う《道》となる。




 まず視界を占めたのは、息苦しさを感じるほどに淀んだどす黒い空の色だった。
 どこまでもどこまでもひたすらに淀んで暗い闇色の空。
 今にも落ちてきそうなのに、それはぎりぎりの所でとどまっている――
「ひどく荒廃していますね」
 ため息まじりにエリクは空を見上げ、それからゆっくりと辺りを見回した。
「ここが彼の逃避先ですか……あまり長居をしたいという感じは受けませんが」
「いつまでも捕らわれていていたいと思う場所であっても困るやろ」
 連れ戻すためにここにきた。昇太郎は同じように周囲を見ながら、この世界に落ちている少年のことを想う。
「はよぅ、見つけてあげんとな」
 昇太郎は『鳥』の首筋をゆるりと撫でて、
「お前は遠くへ。できる限り果ての果てを目指して、神谷公太を探してきてくれ」
 それは願いだ。
 『鳥』は無言のまま、美しい羽を広げ、ふわりと空に舞い上がった。陰鬱な色彩に沈む世界でその色はひどく鮮やかであでやかだった。
「ネガティブパワーによって作り出された《夢》とはいえ、ここは神谷さんの記憶に基づいているのでしょうから、この光景こそが今の彼の精神状態だと考えても差し支えないわけですね」
 ルーファスは深いまなざしでもって、仔細に辺りを分析していく。
 荒涼とした大地。淀んだ空。そして黒い水溜まり。
 何もないといえば何もなく、何かを孕んでいると言えばまさしくそのようにも感じられる場所。
 視界を遮るものがないからこそ、いつどこから何が出現してもおかしくないようにすら思えてくる。
「そして、心を反映しているというのなら、核となる記憶もまた、夢という形で反映されるものだと思います。そうして、その夢の中にあるものひとつひとつに興味を持って検証し、分析していくことで、その人の《思考》や抱えている問題、見るべきものが見えてくると私は思います」
 そうして、それらを丁重に扱うことが、他者の夢に入り込んだものの礼儀だと、ルーファスは説いた。
「そうデスネ。その中で何かヒントをつかんで、早いとこ彼を本当の意味で目覚めさせてあげないといけまセン。だって……彼はもうずいぶんと長く、自分の日常を奪われているんデスカラネ」
 遥か虚空へと消えていく鳥の姿を目で追いながら、笙香はゆっくりと歩きだし、そして仲間に向けて言葉を紡ぐ。
「あのテイア騒動以来、ずっとワタシは神谷君を調べていたんデス。彼の行方はモチロン、神谷君は本来、どんな人で、どんなことを考えていて、どんな生活をしていたんだろうって、ネ」
 笙香は覚えている。
 忘れていない。
 秋から冬へと移行するあの季節、あの時起こった騒乱の中で、神谷公太は消息を絶ってしまったのだ。
 浦安映人をはじめ、神谷の友人たちはいまも彼の身を案じている。
 しかし、家族も友人も誰ひとり、彼の行方を掴めないままに、時折ジャーナルで『彼』の動きを断片的に知らされながら、ただ時間だけが過ぎていった。
 これは、そんな中で得ていった情報だ。
「神谷君は、穏やかで、物静かで、決して華々しく目立つタイプではなかったけれど、さりげなく相手を支えるような人だったと、そう聞きマシタ」
 つまりは、良くも悪くも地味な存在、なのだ。
 成績も運動もできるのに1位にはなれない、その場にいるだけで人の目を引き付けるようなスターにはなれない存在、とも取れるだろう。
「はっきりとしたことは言えませんが……、こうしたところに、ティターン神族に付け入られるような隙ができてしまったとも考えられマスネ」
「なるほど。その中の“目立たない”という点は、ひとつの抑圧となりそうですね」
 エリクは呟き、そして思案する。
 嫉妬は人を狂わせる。ありもしない妄想を掻きたて、ときには驚くべき凶行へと走らせることだってあるのだ。
「例えばその想いが蓄積され、増幅されて、いま僕たちが立つこの世界を作っていると考えることもできるでしょうね。……まあ、だからといって、唆されたのだとしても、自ら犯した罪の責任は取らねばならないですからね。向きあっていただかなければ」
「……じゃけん、みんながみんな、常に強い心であれるわけでもなし」
 昇太郎は痛ましげにつぶやく。
 荒廃した世界が神谷公太の心象風景なのだとしたら、ひび割れた地面はそのまま彼が抱える傷となりはしないか。
「血が出ないからと言って、傷ついとらん証明にはならん。神谷が見てる夢がこない荒廃しとったら、迂闊に手を出したらあっけなく砕けてしまいそうじゃけぇ」
「ひび割れに足を取られ、僕たちがもろともに奈落の底に落ちる可能性も否定できませんが」
「それこそ、彼の心が抱える闇の深さをあらわしているとも考えられます」
 エリクの言葉に、ルーファスが答えを返した、そのタイミングで、ふわり、ちらり、ひらり……と、彼らの前に白い紙が幾枚も舞い降りてきた。
「はて、なんでショウ、コレ?」
 笙香は手を伸ばし、その一枚を掴む。
 白い紙。
 同じようにルーファスも手を伸ばして、掴んだ紙面に綴られた文字へ視線を走らせると、思案深げに眉を寄せた。
「……ああ、これは……、そう……この形式、この文体、この感触は【赤い本】を思い出させます」
「赤い本……? なんでそないなもんが」
「正確には《本のもとになったモノ》ということですが……ヒュペリオン、そして神谷公太の存在がクローズアップされたのは、この【赤い本】の騒動がキッカケと言ってもいいでしょうし」
 その文字列は、《人の死》をつづる。
 人の死を招く。
 人の心をとらえ、そそのかす囁きで満ちている。
「つまり、これこそが神谷公太にとっての《夢》の始まりであり、捕らわれているモノの一端があの事件にあると考えていいと?」
「ルーファスさんとエリクさんが言うように、副会長を捕えてるのもやっぱりあの事件なのだとしたら、この中に神谷君の心の内が暴かれているとも考えられ……んっ!」
 チクリと刺すような刺激がまぶたに走り、思わず笙香は両目を手で押さえた。
 反射的に閉じた瞼の裏側に、何か不吉なものを見る。
 それは笙香だけではない。
 昇太郎も、エリクも、ルーファスもまた、ちらりと視界の端や、あるいはまぶたの裏に幻のカケラを見た。

 ――そう、カケラだ。

 ゆっくりと、親友の手によって自身の喉を絞められていく。
 鋭利な光で輝くサバイバルナイフを、倒れた兄の胸に突き立てる。
 ……少女は歩く。ひとりぼっちで歩く。その後姿を眺めていた。
 大切な兄の実子を、その心臓を、銀の杭で打ち貫く。
 同好の士でもある心やすい友人の、その額に向けて銃の引き金を引く。
 ……幼馴染が、無邪気な笑顔で階段から自分を突き落とす。
 ――友達に、殺される。
 望まれるままに、深すぎる情ゆえに、美しい女神をその手にかける。
 級友たちの無数の腕が、自分を取り押さえ、異物を排斥するために振り上げられる。
 ……少女が歩く。振り向きもせずに。何かを拒絶するように、たったひとりで歩く。
 この街で得た家族がそろって、銀の銃弾を自分めがけて放つ。
 共に過ごしてきたはずのアフガンハウンドの牙が、自分の喉に食らいつく。
 ……無防備に笑う幼馴染の背中を、そっと窓の向こうへ押し出してみる。
 ――大切な人を、殺した。
 泣いている。
 悲鳴をあげている。
 それは誰だろう。
 あれは、誰だろう。
 だが、それは全てカケラ、断片、幻であり、ここにあるべきものではない《記憶》を持った不吉な悪夢だ。
 殺す、殺される、終わる、永遠に終わったまま、この暗い昏いクライ世界でたったひとり、終焉の幻に責め苛まれる。
 そこにいた、けれど実際にはどこにもない、大切な人の死という現象。大切な人からもたらされる死という事象。
 断片、カケラ、ほんの一瞬の記憶たちが、切り取られた景色で白い紙面にくるくると目まぐるしく映し出されては、こちらを苛む。
「どういうつもりかは分かりませんが……こんなものを見せられるとは、随分な歓迎ですね」
 エリクは冷ややかなまなざしで、まとわりついてくるカケラを払う動作を見せた。
 心を抉るような、そんな痛みは感じていない。
 これらはまだ、エリクの心の琴線に触れるような、内側から揺さぶるような、そんな強さを持っていない。ただのくだらない、実体のない悪趣味な映像にすぎない。
「神谷さんもこれと同じようなものを見てるということでしょうね」
「ずっとこればかり見せつけられてたら、たまらんのぅ」
 風が、踊る。
 無数の文字列で彩られた白い紙片を巻き上げながら、不吉な音をまとって《侵入者》たちを取り込もうと躍起になっている。
「……デモ、なんだかおかしいデスヨ……どうしてワタシ達の記憶まで……これではまるで」
 まるで意図的に神谷自身の心が隠されているかのような、あるいは別の誰かの夢に紛れ込んでしまっていたかのように思えてしまう。
「ひとつ、確認させてください」
 ルーファスはたった今見た《映像》を反芻しながら、彼らを見る。
「今、私たちはおそらく一瞬とはいえ《視覚情報》を共有しました。その中でいくつか、神谷君でも私たちでもないものがあったように思います」
 それは、違和感。
 あるいは、予感だ。
「物事の本質を見極めるとき、我々はその成分に着目すべきでしょう。夢で繰り返し扱われるモチーフがあれば、それがもっとも強く心に根付いたものであり、それを取り出して考証することで、いずれ原因が、そしてその原因物質が追い詰める先が見えてくる」
 歴史を内包する美術品を前にした時、その重ねてきた時間を読み解くには格別な慎重さと観察力と洞察力が必要となる。
 自身へと語りかけてくる声を慎重に聞き分け、判断するのだ。
「我々が見た幻、その基本モチーフは“死”ですね。これは間違いない。では、“死”とは何か。それは、ひとつの解釈として終焉を意味します。それも、死が持つ穏やかさはみじんもなく、淋しさや孤独ばかりが際立つような“終わり”です。端的にいえば、“絶望”の一形態という考え方もできる。神谷さんが捕らわれている夢でありながら、神谷さんだけがいる世界ではない」
 ルーファスは顎に指を添え、遠くを見つめるようにして思案のつぶやきを落としていく。
「ここに、何を連想するでしょう?」
 問いとともに視線が昇太郎、笙香、エリクの順に向けられていき、
「“美原のぞみ”に関係しているのだと、そう言いたいのですか?」
 最後に視線が止まったエリクが、その答えを口にした。
「ええ、そう言って問題ないと思っています」
「彼女に行きつくために恣意的な何かが動いているのだとしたら、そのために本来の《神谷公太》に関するものが何もかも排除されているんデショウカネ?」
 何かのヒントを得たように、笙香もまた言葉を続ける。
「だとしたら、まずワタシたちは、彼女ゆかりの地――中央病院を探すべきなのでしょうかね? ワタシたちをそこへ誘導するための」
「神谷公太を見つける手掛かりもそこで得られるかもしれませんね。まあ、そう簡単にはいかないのかもしれませんが」
「でも、他に方法はなさそうや。鳥はまだ、何も見つけてないようじゃけぇ……何もない、ひたすら何もない景色ばかりが続いてる」
 感覚を共有しているらしい昇太郎は、『鳥』から送られてくる《上空からの情報》を眺め、告げる。
「驚くほど何も誰もおらん。なにもない。どこもかしこも、今ん所は」
「……では、もしかすると、ここはただの表層なのかもしれません。私たちが目指すべき場所は別にあり、そこに至るための入口、本当の意味での神谷公太の深層世界が別に用意されている可能性も……」
 ルーファスは思案気味にそう告げる。
 たとえ悪夢の世界だとしても、あまりに殺風景過ぎると、そしてあまりにも彼にまつわるものが少なすぎるのだと指摘しながら。
 そのとき、足元を這う水の流れが、《表情》を変えた。
 無機質で静かに、どんな音も立てずに地を這っていた黒い水が、不意にひとつの意思を持って《自身の流れ》を変えたのだ。
 獰猛な牙を剥く、それは攻撃の証。
「――っ」
 昇太郎を、笙香を、エリクを、ルーファスを、闇が溶けたかのような漆黒の水が津波となって襲い掛かり、飲み込んだ。
 抗うための手段は持っていたはずだった。
 けれど誰もそれにあえて反撃しない。
 得るものがあるとすれば、この先にあるのだと信じて。
「誘いに乗るのが、一番の近道でしょうからね。誘いに乗るリスクを冒すだけの価値は十分にあります」
 彼らは甘んじて、漆黒の悪夢を孕んだ水をその身に受けた――

 遠くで、鳥の羽ばたきが聞こえた気がした。



 目が醒めるような深い青、気が遠くなりそうなほどに高い空の下に昇太郎はいた。
 やわらかな大地と、あたたかな緑は、空にささげられた供物であるかのようにどこまでも広がっている。
 無数に砕けた天のカケラすべてを拾い集め、自分もまた、天に還ろうとしてるのだと、自分の終わりがくるのだと悟っていた。
「ああ……この日が……この日がとうとう来たんやな」
 指の先から、髪の先から、足の先から、溶けていく。
 それは光の粒子。
 昇太郎を構成するものすべてが、光へ換わる。
「……自分にはもったいない最期じゃのう……」
 綺麗なものだ。とてもとても美しい、存在の消滅を約束する、綺麗な光。
「じぇけんのう、それに身を委ねるわけにはいかんのじゃ」
 神殺しの大罪は永劫の責苦を昇太郎に与えた。
 愛する女の願いをかなえ、愛する女に死を与えた、その重すぎる代償によって、死することを赦されず、転生することを赦されず、爛れゆく身体とともに、修羅の道を歩き続けてきた。
 果てのない時間、果てのない労苦、果てのない罪業、たったひとり輪廻の流れから外れてさすらう咎人の自分。
 命は儚い。
 その命の終わりを少しでも先延ばしにできるなら、自分の命など、この身など、いくらでも差し出せる。いくらでもいくらでも、傷めつけられてもかまわない。
 それで誰かが幸せになれるのなら、それで誰かが救われるのなら、それで誰かが踏みとどまれるのなら、自分など、どうなろうと構わない。
 銀幕市で出会った、あの怠惰で優しい親友が自分を殺したいと願うなら、それもまた受け入れられる。
 しかし、親友が死ぬことには耐えられない。
 終わりはいつかくるだろう。
 だが、自分の存在によって、相手にそれがもたらされるのは耐えられない、気がした。
 そして、同様に、そうだ、自分はまだ、死ぬわけにも、終わるわけにも、この美しい景色の中に還るわけにもいかない。
 手を差し伸べてくれた相手がいるのだ。
 愛おしいと、苦しむ姿を見たくないと言って渇望に飲み込まれかけるような素晴らしい存在が、自分にはいるのだ。
 終わるわけにはいかない。
 終わらせてしまうわけにもいかない。
 手を伸ばし、昇太郎はゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 目を、覚ますために。
「……初めて執着した相手なんや……あいつの泣き顔、見とぉないけんのぅ」



 笙香は、見覚えのある路地裏に立っていた。
 ぞっとするほど冷たい雨が降り注ぎ、遠くで街の光と自動車のライトが乱反射をくりかえしている。
 その中に逆行となって浮かび上がる背中。自分から去っていく、大切な人の背中が見える。
 まるで映画のワンシーンのようだ。
「……お兄ちゃん」
 幼い子供が呼ぶように、自分に向けられた相手の背中に声を投げかける。
「おいて、行かないでください……」
 喉から絞り出すように、ひりつく痛みを感じながら、訴える。
 捨てるのなら、殺してホシイ。
「……お願いデス。どうか……」
 身捨てるのなら、どうか、ワタシを撃ち殺してから去って行ってホシイ。
 ワタシの生は、アナタに拾われた時から始まっているのだから。
 それこそ笙香がずっと抱いてきた、言葉にはならない、言葉にできない、痛切で痛烈な哀切に満ちた願いだった。
 あなたのために銃を覚えた。
 あなたのために日本語を覚えた。
 あなたのためにパソコンを覚えた。
 あなたのために、あなたの役に立つために、あなたの傍にいるためだけに、ずっとずっと努力してきた。
 だから。
「お兄ちゃん。ワタシを捨てるなら、ワタシを殺してから去ってクダサイ」
 ずっと怖かった。
 ずっとずっと恐れていた。
 背を向けていた相手はようやく足を止め、ゆっくりと振り返った。
 逆光で顔は見えないのに、なぜか笑っている気がした。
 銃声は、気の抜けた音だ。簡単に雑踏にまぎれてしまう、サイレンサーだから、きっと誰も、今この瞬間、誰かが発砲しただなんて気づかない。
 誰も、ここで人が一人殺されているだなんて気づかない。
 きっと誰も、自分を見つけない。
「……さすが、ワタシの……」
 冷たい雨が、体の中にまで浸みこんでくる。
 終わる。
 けれど。

 ――ずっと一緒にいてやるって言ってるだろうが。なにを無駄な心配してんだ、おまえ?

 耳によみがえる、それは大切な人の声、大切な人がくれた約束。
 いつも
「兄さんは、絶対なんデスヨ」
 それはいまのところはまだ相手には伝えない、相手を前にしては告げるつもりのない、普段は邪険な扱いや皮肉の影に隠している想い。
 だから、笙香は深呼吸する。
 胸に空いた穴を、埋めるように。
 この、ある種の心地よさを与える終わりから、目覚めるために。



 血のように濡れた禍々しい光の下で、エリクは仰向けに倒れ、その手には銃を握っていた。
 どこかで見た景色だ。いつか見た光景だ。それが、いつ、どこであったのか分からない。
 遠くで、あるいはすぐそばで、木々のざわめきと穏やかな呼吸音が聞こえる。
 確かに傍に、あの人の存在を感じている。
「……兄さん」
 どうして自分はここに来たのだったか。
 自分はここで、何をしようとしているのだろうか。
 兄が自分を殺すなんて、そんなこと、決してありはしないのに、どうして自分はいま、血に塗れて、血の海に横たわっているのだろう。
「……兄、さん……?」
 凍傷を起こしそうなほどに冷たい瞳が、自分を見下ろしている。
 兄の肩越しには、赤い月。
 血に濡れたような、ぞっとするほどに禍々しい光を放つ、不吉なワインレッドの満月が自分と兄を照らす。
 あの日、あの時、兄は同胞を裏切り、教会側についた。
 あの日、あの時、兄は恋人に死をもたらした存在を赦さなかった。
 兄は自分を見ない。兄は自分を選ばない。兄はいつでも、常に、この自分を決して振り返らずにまっすぐ前だけを向けて、己の道を進んでいく。
 その背中を追いかけることはできなかった、許されなかった、自分の立場をわきまえなければあらゆるものが壊れてしまうから、すべてを壊して捨てて追いかけることもできなかった。
 兄さん、大切な大切な兄さん。
 その兄が望んだから、だから自分はいま、死のうとしているのか。
 ならば、受け入れる。
 けれど、本当に?
 本当に、兄は自分の死を望んでいるのか?
 違う。
 それは、違う。
 思い出せる。
「……兄さんが……僕を殺す、はずがない……」
 でなければ、あの日、あの時、父と母を手にかけたあの瞬間、自分も殺しているはずだから。
 罪を赦さない兄が、自分には罪がないと言ってくれた。
 あの日、あの時、兄は、無罪だと言ってくれた。
「ひどい、悪夢ですね……それも、ひどく悪趣味で醜悪な……」
 だとしたら、選ぶべき行動はただひとつだ。
「消えてください。これはお願いではなく、命令です」
 エリクは凍結した瞳で、兄に向けて、銃の引き金を引いた。



 かつて赤かった絨毯、かつて磨きあげられていたフランス窓、かつて書物だったものと美術品だったものたち囲まれたその場所で、ルーファスは壁にもたれて座り込んでいた。
 無数の美術品。
 無数の芸術品。
 無数の書物。
 無数の、それは歴史的価値に彩られたものども。
 だが無数の歴史を刻んでいたモノたちはいま、ひとつ残らず全て灰へと還ろうとしていた。
 燃える、燃える、燃え続ける、地獄の業火と呼ぶにふさわしい巨大な炎が辺りをじっくりと舐め回している。
 喪失、その言葉の重み、その事実の痛みが、ルーファスを取り囲む。
 体が動かない。肌も服も至る所が焦げ、黒ずみ、爛れていた。
 視界がかすみ、意識はひどく朦朧としている。
「呪いというのは本当に……侮れないですね……ねえ?」
 とっくの昔にこと切れた友人の体へむけて、小さくかすれた声で話しかけてみる。
 この屋敷に、友人によって持ち込まれた曰くつきの神像。失われた神であり、災厄と呪詛にまみれた偶像であるのだと知りながらなお、そこに刻まれる歴史を得たいと願い、封印を解いた。
 迂闊だったと認めよう。
 だが、あの誘惑にあらがえる学者はいない。
 ルーファスは自らの愚行を振り返り、ため息をひとつついた。
「……知識の探求、そのために取った行動を後悔するつもりはありませんが、やはり、ここが失われていくというのは耐えがたい……」
 炎はすべてを無に帰す。
 すべてが終わる。
 すべてが消える。
 自分もまた、隣で横たわる友人と、この無数の芸術品たちとともに、この屋敷を墓標として燃えていくのだ。
 何も残らない。
 何も、分からなくなる。
 なにもかも……深い眠りの中に落ちるように終わり、後には何一つ残らない。
「なるほど」
 ふ…、と、閉じかけていたルーファスの瞳に光が灯る。
 研究者然としたまなざしは、映し出された自身の心すらも分析対象とし、その奥に隠れたものを暴き立てる。
「そこがあなたのいる場所ということでしょうか……では、迎えに行かなければなりませんね」
 まだ見ぬ存在と相まみえるために。
 ルーファスは目覚めを選ぶ。



 押しつぶされる。苦しい。痛い。怖い。
 存在することの意義が、分からない。
 存在することの価値が、まるでわからない。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 誰もいない。
 どこにも誰もいない。
 奪わないで。
 いかないで。

 たすけなんか、いらないから……そっとしておいて……

 ……たすけて……ここから、出たい……

 剣を……剣を手に……



 夢を見ていた。あるいは過去の断片を。もしくは願望であり、可能性であり、来たるべき未来であるのかもしれない映像の断片。
 互いが自身の映像とともに、他者の終焉をも垣間見た。
 終わりの共有。
 精神の、痛みと軋みの共有と共鳴。
 それはひどく不可解な感触を与える。
「……みんな、目ぇ醒めたか?」
 初めに声を出したのは昇太郎だった。自分の場所と意識を確認するかのように、全員を見つめ、問いかける。
「醒めマシタヨ。あまり、いい目覚めとはいい難いですケドネ」
 それに、あえて砕けた笑みと皮肉を交えて笙香が答えた。
「まったく、悪趣味極まりないですね。早くこの根源を突き止めなくてはと改めて思いましたよ」
「しかし、ここはどこなのでしょうね?」
 昇太郎、笙香、エリク、ルーファスの4人が目覚めたとき、そこはこれまでとは明らかに質感の違う《世界》だった。
「ここもまた神谷さんの夢ではあると思いますが」
 カケラ、想いのカケラ、終焉のカケラ、夢が見せる神谷公太の心のカケラを求めて視線を巡らせる。
 しかし、それはなぜか無駄なような気がした。
 空間が持つ肌ざわりに、どうしようもない違和感を覚える。
 何人もの市民たちが訪れたあのネガティブゾーンのようなものとも違う、いまだかつて一度として触れたことのない《見知らぬ世界》だ。
 植物はなく、黒い水もなく、生物の気配もなく、見慣れた建築物があるわけでもない。
 暗色に染まった憂鬱な泥沼に自らの魂が沈んで押しつぶされて、未来永劫逃れられなくなるような、足枷を嵌められ放り込まれた牢獄のような、そんな世界。
 圧倒的な孤独の中に、気の狂いそうな静寂を孕んだ場所。
 ほとんど隙間なく天に向けて直立する巨大な石塔の群れは、カッパドキアを彷彿とさせながらも天と地を繋ぐ鉄格子にしか見えず、雄大さよりはむしろ絶望的な救いのなさを象徴しているかのようだった。
 幽閉、あるいは監禁。
 それがこの場所への印象であり、それがこの場所のすべてをあらわしていた。
 では、進むべき道はどこにあるのか。
 神谷公太がいる場所。
 神谷公太が目指しているのだろう場所はどうすれば見えるのか。
『ほう……目指すべき場所も分からぬか? あやつの気配を辿れぬのに、ここをさまようのか?』
 くすりと、冷たい嘲りの笑みが耳を掠めた。
 全員の視線が声の主を求めて振り返る。
 石の塔の影に佇む影。
 見知らぬ女だ。
『オリンポスも、その庇護下にある者どもも、なんと愚かなことか』
 くすくすと楽しげに、彼女は笑みをこぼし、長いドレスの裾を翻して闇の向こうへと消えていった。
 見知らぬ女でありながら、彼らは強い既視感を覚える。
『間に合うと良いがな……我は識っている。そなたたちがどれほどに罪深く、愚かで、そして意味のない存在であるのかを』
 くつくつと冷たく響く笑い声が耳の奥に引っ掛かる。
 彼女の名を、自分たちは知っている。
「テイアを追いかけますよ!」
 最初に声をあげたのはエリクだった。
 その時にはすでに、彼はたった今彼女がいた場所まで駆けだしていた。
 どこから光が来るのか、薄ぼんやりとしたグレースケールの世界で、時折ひどく濃い影にさらされながら、彼女のあとを追いかける。
「寝起きに追いかけっこというのも少々酷デスネ」
 軽口をたたきながら、その実、眼だけは真剣そのもので笙香が後に続く。
「挟み撃ち、は無理やろな」
 昇太郎は一度空を仰ぎ見、次の瞬間には軽やかに地を蹴って、時には石塔の側面までも足場として追いかけていた。
 ルーファスはそんな驚異的身体能力を有する彼らから遅れをとりながら、無言のまま、ついていく。

『ほう、迷い込んできたのか』
『どうやら最後のあがきらしいな』
『自ら行使すべき力を持たぬ輩に何ができるかと思えば』
『貴様とて失敗したであろうが』
『オリンポスの邪魔が入ったせいでな』
『あれはどうした?』
『捕まればそれまでだろうがな』
『で、あやつは剣を求めたのか……』

 彼女の後追いかける間、4人は石の影や、地面、空、もしくはどこでもないどこかから、意味ありげな嘲りの声をいくつもいくつも浴びせられた。
 距離も時間も超越し、自分たちを取り巻き、至る所から注がれるものだ。
 本当にここは夢の中なのか。
 本当にここは神谷公太の心が捕らわれた場所なのか。
 ルーファスの中に疑念が膨れ上がっていく。
 その中で銃声が鳴り響く。
 おそらくエリクだ。
 あるいは、もしかすると笙香だろうか。
 ルーファスはどんどん小さくなっていく仲間の背を必死に追いかけながら、じっと考え続けていた。
 この世界、この場所、この質感に、なぜか既視感を覚えている、その理由を自身の中に探っていた。
 ここは、神谷の夢でありながら、夢ではない。ネガティブゾーンから派生していながら、その実、超えてはならない壁の向こうに存在している場所なのではないだろうか。
 本来、人である身で、踏み込める場所ではないのではないか。
 これまで手に入れてきた文献のどれにもあまり多くを書き記していなかったが、これは、この感触はまさか――
「……っ」
 必死に仲間を追いかけながらも、ついに、ルーファスは体力の限界にいたり、足を止めてしまった。
 普段からほとんど屋敷の外に出ることなく、書物と美術品に囲まれた生活を送る彼には、鍛えた者たちのスピードについていけるだけの身体能力はなかった。
 呼吸が乱れ、心臓が脈打ち、全身の筋肉という筋肉が悲鳴をあげている。
 声も出ない。
 彼らを完全に見失った。
 方向感覚もあやしい。
 とめどなく流れる汗をぬぐいながら、肩で息をする。
 豪奢な上着の重みで今にもその場にへたり込んでしまいそうだ。これからどうすべきか、策を練らなくてはいけないというのに――
 ふと、そんな自分の足もとに鳥の影が落ちた気がした。
 だが、それを認識した時にはすでに、目の前に手が差し出されていた。
「あっちで2人も待っとるから、つかまれ」
「……?」
「置いて行ったりして、すまん。鳥がお前を見つけてくれたから、迎えにこれた」
 声が出ないままに顔をあげ、ルーファスはそこに昇太郎の申し訳なさそうな笑みを見る。
「――あっ!」
「大丈夫、これでも力はかなりのもんじゃけんのぅ」
 捕まれと言われ、差し伸べられた手を取ったとたん、ルーファスの体は昇太郎に担ぎあげられていた。
 細身な体のどこにこれほどの力を宿しているのか、彼は危うげなくひと一人担いで、石と岩と闇で覆われた空間を飛ぶように駆け抜けた。

 もしかすると文字通り、空を飛んでいたのかもしれない。

 一瞬とは言い難い、しかし、驚くべきスピードで、ルーファスは他のメンバーとの合流を果たした。
 他よりはいくぶん低いだろう石塔の、その頂上に昇太郎は軽やかに降り立ってみせた。
「おかえりなさい」
 エリクは小さく微笑み、ふたりを迎えた。
 そして、
「あの女は捕まえられませんでしたが、僕たちはようやく探し人を見つけマシタヨ。まあ、まるで彼女に誘導されたような気はしますケドネ」
 不敵な笑みを浮かべる笙香の言葉を受け、自然、視線はある一点へと向けられる。
 岩と岩の間から見えるのはエアーズロックを思わせる巨大な台形の岩だ。
 その上には、求めていた少年の姿が――
「……神谷さんは一体何を?」
「エクスカリバーでも抜く気かもしれマセンヨ」
「えくす……なんや、それ?」
「別名カリバーンと呼ばれる聖剣デスネ。ゲームやファンタジーの王道と言っていいアイテムですヨ」
 昇太郎の問いに笙香は流暢に応えて見せた。
「その始まりは、アーサー王が自身が王であることの証を立てるために岩から引き抜いた剣を指していたと、そう記憶してマス」
 それを聞きながら、ルーファスは釈然とせずに眉を寄せる。
「でも、あの剣は……」
 岩に突き刺さった剣。選ばれるモノだけが抜ける剣。それは確かに人の心をくすぐる。
 だが、では剣を手にした少年は何を為そうというのか。
「なんや、あれで何をする気なんじゃろう」
「何を為そうとしているのかはわかりませんが、まずは彼を捕まえましょう。僕たちに課せられた任務はその一点なのですから」
 できることなら話し合いで、それが無理なら実力で。
 エリクの主張は至極明快だった。
「手荒な真似だけは控えてくれんか? たとえ夢でも、心が傷つけば根は深ぅなる」
「ええ、それは十分心得ていますよ」
 笑みでもって昇太郎の言葉を受け止める。
 その時。
 少年は岩に突き刺さる剣を己が手中に収め、そして、こちらを見た。
 まっすぐに、数百メートルの距離を間に置きながら、それでも彼はまっすぐにこちらを見つめ。
 突如、身を翻し、鮮やかに岩から飛び降りた。
「!」
 自殺行為だ。普通の少年なら、そんなことをすれば転落死するしかない。運が良くとも全身を強打し、骨折は免れない。
 だが、少年はこともなげに何十メートルも下の地面に着地し、地を蹴り、走り出した。
 夢の中だからこそなし得る、異常なまでの身体能力だ。
「今度は神谷君と追いかけっ子デスネ」
「挑発されているみたいです」
「ほら、あんたは俺が連れていくから心配すんな」
「すみませ……っ」
 エリク、笙香、昇太郎、そして昇太郎に再び担がれる形でルーファス、その4名で追跡が開始された。
 ハンデはわずか、彼との間は500メートルもない。
 追いかけて、追いかけて、追いつけると思っていた。
 なのに、水の中を駆けるように、足が重く、不自然に体が揺らぎ、思い通りに動けない。
 景色が飛ぶ。
 本来遠く離れているはずの地点が、空間で繋がっていると言ってもいいだろうか。
 映画のように、ワンシーンで切り替わる、それは奇怪な感触だった。
 憂鬱な空、林立する石の塔、牢獄のような重圧に満ちた景色が、淀みながらも見慣れた曇り空、コンクリートのビル群、そこに交じる緑の木々といった景色に切り替わっていく。
 黒い水に呑まれ、自分たちはひとつの見知らぬ世界に落ちたはずだった。
 なのに、ここは、見知った場所。
 少年は走り続ける。
 その距離は近づかない、しかし見失うほどには離れることもなく、いつしか誰もが少年の向かう場所に気付いていた。
 その建物の名を、全員が知っている。

 ――銀幕市立中央病院。

 ネガティブゾーンを真下に持ったその病院が、少年のために両手を広げて迎え入れる。
 がらんとして、誰もいない、活気もない、空虚な病院の中を、神谷の足音が響く。
「まさか、彼は美原のぞみを」
 エリクが懸念の声をあげた、その瞬間、理由はわからないが、不意に体にまとわりついていた重力が消えた。
 加速する。
「神谷――っ」
 エリクは神谷に体当たりした。
 神谷は剣を離さなかった。
 だが、踏みとどまれるほどの力があるわけでもなく、彼はエリクもろとも冷たい床に転がり、倒れるしかなかった。
「……ようやく捕まえました」
 エリクはそのまま彼を床に押さえつけ、けれど攻撃を仕掛けるのではなく、声を届けるために静かに言葉をつづる。
「あなたを連れ戻すため、僕たちはここまできました。迎えに来たんです」
「……」
 少年は抑え込まれながら、わずかにあえぎ、身じろぎした。
「終わりにしましょう」
「手荒なまねしてすまんな」
 ここまで抱えてきたルーファスを下ろし、彼とともに昇太郎もふたりのもとへ近づいた。
「もう、こんなことやめようや。な? 誰も傷つけちゃいかん。あんた自身もだ」
 エリクに視線で促し、警戒しながらも神谷から離れたところで、昇太郎は彼をそっと助け起こした。
 神谷は、無言のまま見つめ返す。
 なにひとつ告げる気はないと言いたげにきつく結ばれた唇から、言葉を得ることは難しそうだった。
「そない怖い顔せんでも、取って食おうとは思ってないじゃがのぅ」
「ああ、ようやく追い付けマシタ。あの日から、あの綺羅星学園の騒動の時から、ずっと、ずっと探してたんデスヨ、神谷君」
 遅れながらもようやく合流を果たした笙香は、神谷の間に進み出て、にっこりと人懐こい笑みを浮かべた。
「もう、こんな夢から抜け出しマショウ?」
 少年は歪んだ瞳で彼らを見やる。
 長い沈黙があった。
 寒々しい白い建物の中で、互いの息遣いだけが、しばし空間を埋めた。
 そして、
「……やっぱり、俺じゃ主役になれないんだな」
 少年の唇から溜息のように吐き出されたのは、自嘲とも諦観ともつかない呟きだった。
「え」
「今まで一度だって《主役》になったことがなかった。一度だって、表舞台に立ったことがなかった。誰かの活躍のために、誰かが浴びる脚光のために、ずっとずっと使われてきた」
 さみしげに笑う、苦しげにつぶやく、その痛ましい姿は手負いの獣よりもなお哀しい影を落としていた。
「誰かがいなければ、何もできない。輝く存在のために、その輝きの強度を増すためだけに、使われるんだ……だから、俺の手で、美原のぞみと関わることで、今度こそ俺だけの話を、書こうとしたのに……」
 けっして一番になることのない少年。
 華やかな脚光を浴びることなく、誰かの影にいた少年。
 その痛みが、滲み出る。
「だからと言って、夢の中で何を為そうというのですか? 夢の中に耽溺したところで、何一つ解決にはつながらないと思いますよ?」
 エリクは穏やかに、けれどいくぶん戒めを混ぜて告げる。
「いい加減、逃避はやめた方がいいです」
 責めるわけではないけれど、甘く優しい言葉をかけるつもりもなかった。
「本来のあなたに戻りましょう。ここにはいない、銀幕市の世界で、あなたの目覚めを待っている方がいますよ」
 ルーファスは言葉少なに、それだけを告げた。
「どうした? はよぅ、こっちに来い。いつまでも捕らわれている必要はないけん」
 無垢な笑みを浮かべて、昇太郎も手を差し伸べる。
「誰も怒ったりせんしな。だからな、もう追いかけっこはこれで終わりとしとこうや」
 差し伸べられる、4人の手。
「帰りましょうヨ、副会長?」
 ダメ押しのように、笙香がもう一度笑いかける。
 やさしい時間、楽しい時間、たとえ残りわずかであっても、だからこそ大切にしたいと思える時間が待つ場所へ。
「浦安くんも待ってますヨ。綺羅星学園では、時期外れてしまいましたが学園祭だってしたんデス。浦安くんはいろんな方の協力を得て自主映画を作りマシタ。きっと、アナタにも見てもらいたいはずデス」
 神谷はしばらくじっと彼らを見つめ。
 差し伸べられた4人の手を見つめ。
 そして、自分が握った剣へと視線を落とす。
「……この剣で……やるべきことがあったんだ……やりたいことがあったんだ……初めて、表舞台に立てるって、思ったんだ……」
 呟きは弱弱しく、病院を包む静寂の中で、ひどく悲しげに響いた。
「でも」
 ふ、と、薔薇の香りが鼻先をくすぐる。
 それは、目覚めの予兆。
 夢が醒める予兆だ。

「……でも、十分だ……ありがとう……俺を、迎えに来てくれて……」

 神谷公太は微笑んだ。
 ほっとしたように、とてもうれしそうに、神谷公太は微笑み、彼らの手を取った。
 その笑みに、何かを含みながら――




「戻ってきたか」
 イカロスの声を聞きながら、薔薇の香りがほのかに漂う病室で、彼らは目覚めた。
「神谷は?」
 昇太郎の第一声がそれだった。
「ああ、いっしょに戻れたらしいな」
 視線で促され、彼らはともに体を起こし、少年のベッドへと足を向ける。
「……ただいま……おはようっていう方が、正しいのかもしれないけれど」
 少年はぐったりとベッドに横たわったまま、それでも自分を取り囲むようにして見つめる4人に向けて、ほんとうに小さく小さくかすかに笑った。
 すべてを見守っていたらしい内科医は、努めて平静を保ちながら、患者の表情を見、そして昇太郎や笙香たちへと、申し訳なさそうに告げた。
「処置をしましょう。ええと、みなさんは一度出てもらえますか? よければ面会室がありますので、そちらで少々お待ちいただければ……」
「ええ。かまいませんよ」
 代表してエリクが微笑み、うなずくことで、内科医はほっとした方に微笑んだ。
 神谷の病室の扉が開かれ。
 そして閉ざされる。
 白い廊下に響く、5人の足音。
「……これで終わりだと思いますか?」
 指定された面会室へと向かいながら、エリクは全員を見やった。
「僕はすべてが終わったとは思えないのですが」
「神谷は戻ってこれたやろ?」
「【眠る病】からは確かに戻ってきましたが」
「引っ掛かりますヨネ? だって」
「ダイモーンはまだ見つかっていない、という問題が残っているのでしょう」
 キョトンとする昇太郎に対し、笙香は肩をすくめて苦笑し、ルーファスはため息交じりにイカロスへと言葉を向ける。
「ヒュペリオンは力の増幅をつかさどるのでしたね。ゆえに、彼自身は特定の能力を持たない。しかし……ティターン神族であることに変わりはない」
 瞬間。
 言葉をさえぎるように、あるいはルーファスの懸念を肯定するかのように、ナースコールの電子音が病棟中に響き渡った。
「やっぱり動きマシタネ」
 確信をもって、笙香は仲間たちを見た。


「何もかもを信じて、そうして何を得ようというんだろう? 世界は滅びるためにあるって言うのに」
 罠は仕掛けられていた。
 狡猾な神が仕掛けた、夢の罠。
 病衣をまとったまま、少年は剣を携え、深紅のオオカミに似た大型獣の背に乗って《白亜の塔》内を疾走する。
 内科棟から、特別棟へ。
 独立する5つの塔を繋ぐ廊下も階段もすべて飛び越えて、開いている窓から大きく跳躍し、厳重に閉ざされた扉に向けて手を伸ばす。
 内科医から奪い取ったIDパスでもって、扉は容易に開かれる。
 悲鳴を振り切り、追跡者たちを撒き、制止するべく立ちはだかる者たちを交わし、獣は疾走する。
 一人の少女が眠る、その一室へ。
 扉は開く。
 少年は獣とともに滑り込み、そして獣から降りると、自分が眠っていた場所よりもはるかに広いその部屋に置かれたベッドへ歩み寄る。
 絶望の眠りに落ちたまま、何年も目覚めることのなかった少女。
 蜘蛛の巣のように張り巡らされたチューブによって、かろうじて生命を繋ぎとめている存在。
 美原のぞみ。
 人形のようにきれいな少女。
 この銀幕市が見ている《夢》の元凶となったモノ。
「……もう誰も残っていない。だったら、自分でやるしかないだろう?」
 だから、彼は剣を携えてやってきた。
 その刃を、少女の胸に突き立てるために――
「これで――」
 ――銃声が、響いた。
 同時にふたつ。
 ひとつは剣をはじくため、その刃に。
 もうひとつは、少女が眠るベッドを動かすために。
 そして。
 それらとほぼ同時に、ざリ、と音を立てて空間が歪んだ。
 白を基調とした清潔さと機能美を備えた病院施設が、DVDやたくさんの贈り物で飾られた部屋が、そのすべての囲いを取り払われる。
 少女のベッドはそのままに、あらゆるものが、赤い月の下に曝された。
 木々が生い茂り、深い陰影を作り出す。
 見慣れぬ世界に閉じ込められて、神谷公太はダイモーンとともに、忌々しげに背後を振り返る。
「ようやく現れましたね」
 エリクは凍える視線を向ける。
「ダイモーンを倒さない限り、寄り代となった方は救われないと、そう聞いています。だから、貴方の登場を待っていました。わざと神谷公太から離れてみせたのも、本当の意図を知るためということです」
「嘘をつくのは構いませんヨ。騙される方が悪いんデスカラネ。油断は隙を作りマス。ですが、ね、すべて欺けると思っていたら、大間違いデスヨ」
 にやりと、笙香は口元に笑みを浮かべた。
 彼が剣を携えて戻ってくることを許した、それ自体は失策と言っていい。だが、彼らが完全にヒュペリオンの策略にはまったわけではない。
 少年の笑顔の裏にあるものを見抜いたのだから。
「貴方の夢を我々は訪れた。つまり、私たちは貴方の心を見せてもらったんです。あそこでは“美原のぞみ”がキーワードとして浮かび、貴方は中央病院を目指していた。剣は何よりも象徴的でした。貴方が【眠る病】にかかったのも、夢を通じてあの世界に降りることが目的だったのでしょう? その剣をこの世界に持ち込むために……」
 ルーファスは冷静な声で、一連の行動を言葉によって解き明かす。
「ヒュペリオン、あなたが持つ能力は“増幅”――他神の力を増幅させるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。貴方のその在り方は、神谷さんの心と共鳴したのかもしれませんが……」
「神谷を苦しめるのはもうやめとき。自由にしたれ。誰もかれも、もう、苦しめるのはやめな」
 彼の言葉を引き継ぐように、昇太郎は深紅のダイモーンを見据える。
 記憶に縋る者たちを利用し、毒を振りまいたムネモシュネ。
 規律違反者を弾劾し、粛清を繰り返したイアペトス。
 言葉によって不安の種子を植え付けていったテイア。
 すべてを忘却の果てに追いやろうとしたクレイオス。
 世界の中心となるものを排斥しようと動いたエピメーテウス。
 数多の渇望を暴きたて、煽り続けたクロノス。
 罪苦を糧とし、その身を捧げる贄を求めたアトラース。
 地上の復権を目指して古代の神々が引き起こした事件は、確かな傷となって刻まれている。
 どれほどの痛みがもたらされ、どれほどの願いが踏みにじられ、どれほどの咎無き者たちが罪を犯し、どれほどの涙が流れてきたか。
 これは決して許されるべきことじゃない。
「それになあ、神谷。あんた、元の自分に帰りたいんやろ? 助けてって、あんた言ってた。あの夢の中で、あんたは確かに、俺たちに救いを求めてた。その声、確かに聞いたけんのぅ」
 だから、これで終わりにするのだ。
 確認されているティターン神族最後のひと柱、ヒュペリオン――その力を宿したものが倒されることで、ようやくこの一連の事件は終結するのだ。
「さあ、終わりにしましょう」
 あらざる存在は、本来のあるべき場所へ。
 エリクの放つ銃弾が獣をかすめ、回避すべく跳躍した先に、笙香が回り込み、横腹に蹴りを叩き込む。バランスを崩し、墜落していく、その瞬間に、白刃が閃いた。昇太郎の細見の西洋剣が正確に頸動脈を引き裂いて――
 深紅の獣はすさまじい咆哮をあげた。
 あるいはそれは、断末魔と呼ぶべきだったのかもしれない。
 ――勝負はあっけないほどに一瞬だった。
 深紅のダイモーンは、どさりと重い音を立てて地に倒れ伏す。
 切り裂かれた傷口から流れる血はない。
 代わりにその傷口からシュワシュワと煙になって溶けていく。融けていく。この地上のどこでもない場所へと還るために、その姿は幻となる。
 そして。
 ルーファスに剣ごとその腕をつかまれていた神谷公太もまた、直前までの抵抗が嘘のように不意に糸が切れたようにガクンと力を失い、地面へと崩れ落ちた。
「……っ」
 危うくルーファスまでが彼につられて地面に倒れ込みそうになるほど、急激な意識の消失だ。
 長い長い逃亡劇に打たれた終止符。
 ひっそりとため息をつき、エリクは自身のロケーションエリアを解いた。
 赤い月と深い森が消え、景色は元の《美原のぞみの病室》へと戻る。
「……ん」
 ぴくりと、神谷が身じろぎをする。
「……ここ、どこだ?」
 幾度も瞬きを繰り返しながら、彼はいくつもの疑問符を浮かべながら体を起こした。
「ああ、ようやく本人のお目覚めデスネ」
 屈みこんで見守っていた笙香は、それまで見せていたものとは比べ物にならない、やわらかで穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「……あれ? 見た事ある顔だよな。それに、蔡……? なんで、おまえ……」
 だが、長く《夢》の中にいた神谷にとって不可解な状況であることに何ら変わりはないのだ。
「おはよう、副会長。遅いお目覚めデスネ」
「ここ、どこだよ」
「話すと長くなるんだが……まずはおかえり、じゃな。神谷」
「なんの話か、全然分からないんだけど……ええと、なんだ、俺、一体……いっ、なんか、体痛いぞ……」
 笙香と昇太郎から差し出された手につかまり、顔をしかめて立ち上がりながら、神谷は何度も「いったいどうしたんだ」と繰り返す。
「とりあえず、こちらはレディの寝室です。我々はこの部屋を出ましょう」
 やんわりとしたエリクの提案に従い、神谷を含めた5名は、集まった医療スタッフを入れ替わるようにして美原のぞみの病室を後にした。
 ダイモーンの襲撃、深紅の獣に乗った少年の病室脱走については、大きな騒ぎとなる前に、研究棟のスタッフが何らかの調整を行ってくれたらしい。
 ひと先ず神谷は自分が入院させられていた部屋へと戻り、そこで彼らから大まかな話を聞くことになった。
「話すべきことがたくさんあるんデスヨ、副会長。それはもう、数カ月にわたる大長編ですから心して聞いてクダサイ」
「あ、ああ、わかった」
 思わず居住まいを正して、神谷は笙香に向きあった。
 ことの発端となった【赤い本】の騒動、そして暗躍するティターン神族という存在についての説明から始まり、長い長い物語を、笙香はできるかぎり分かりやすく解説していく。
 合間にはさんだ質問によって、神谷からは、この数カ月の記憶がすっぽりと抜け落ちていることもわかった。
 それでも、彼は帰ってきた。
 最後に長く深い夢に落ちたが、それでも、帰ってきてくれたことを、笙香も、そして昇太郎も純粋に喜んだ。
 その微笑ましい光景の傍らで、ルーファスはじっとヒュペリオンが夢の世界から持ち込んだまま消えずに残った《剣》を眺めていた。
「どうかしましたか?」
「いえ……こちらに少々、見覚えがあったものですから」
 エリクのさりげない問いかけに、ルーファスはどこかぼんやりとした表情で答えを返す。
 見覚えはある。だが、自分の記憶に間違いがなければ、これは本来ティターン神族の世界に存在していたはずはない。
 ただし、たとえ書物やそれ以外の媒体であろうとも、記録というものはそれだけではひどく曖昧で、そしてひどく不完全なものになりやすいのも事実なのだ。記録には常に、記述者の主観が混じるのだから。
「……さて、どうしましょうか……」
 これが自分の記憶の中にあるものと合致するのならば、今はこの病室の外で待機しているイカロスに渡すべきなのかもしれない。
 しかし、それでいいのだろうか。
 漠然とした不安を抱えながら、ルーファスはヒュペリオンが『夢』を伝って降りた世界から持ち込んできた剣を見つめ続けた。
 ティターン神族による、美原のぞみの殺害。
 はたしてそれが正しい認識であるのかすら、分からないままに。




「――ヒュプノスの剣、か」
 イカロスは、今回の事件によってもたらされた《あらざるべき剣》をしばらく見つめていた。
「ティターン神族の完全撤退が確認された。だから、その点ではしばらく問題は起きないと思うが」
『ヒュペリオンが夢の世界から持ち出し、“美原のぞみ”の胸に突き立てようとした、その真意と盲点について考えているのであろう?』
「思わぬ副産物ということだ」
 眠り続けるのぞみ。
 そののぞみの存在が、彼女の眠りが、この街の『今』を作っている。
『神子の魔法によってバランスを崩した現状を維持するためには、“美原のぞみ”の目覚めを阻止する必要がある。だが、この剣によってもたらされる眠りは、《永劫の安定》へ変換されるもの』
 永劫の安定は、幼い神子の魔法の安定にもつながる。
 世界の不均衡によって生まれた歪みも、安定を得てしまえばすべて矯正されてしまうのだから、彼らが広げようとした次元のほころびも修正されてしまうだろう。
 結局のところ、一人残されたヒュペリオンが目論んだ計画は、たとえ行為そのものが成功していたとしても、本来の目的を達成することはできなかったということだ。
 しかし。
「……そろそろ、なんだな……?」
『長くはない』
 ミダスは閉じた目で、手の中にある不可思議な魔法バランス測定装置を眺める。
 壊れていく銀幕市。
 歪み、崩れ、ほころびの中に落ちようとしているこの場所に残された時間はもうあまりない。



END

クリエイターコメントこのたびは【眠る病】にご参加くださり、誠にありがとうございます。
さりげなくイベントに紛れ込んでいましたが、実はこれをもって《ティターン神族》の物語には終止符が打たれます。
お待たせした分も含めて、少しでも楽しんでいただけますように。

>昇太郎様
 大変あたたかく優しい行動指針をありがとうございました。
 ただひたすらに信じて手を伸ばすまっすぐな姿勢と、終焉の幻に対する強い想いに感動いたしました。
 実は所々でさりげなく行動指針にはなかった《力仕事》をお願いしているのですが、笑ってお許しいただければ幸いです。

>蔡笙香様
 綺羅星学園の騒動から関わられたということで、そして神谷公太という人物に対するアプローチを色々いただいたので、こっそりアレコレとネタを詰めてみた次第です。
 神谷に寄り添った視点と、終焉の幻で見せる《本心》が実に印象的でした。
 底の知れなさと不安定さのバランスを少しでも演出できておりますように、と祈るばかりです。

>エリク・ヴォルムス様
 行動指針を窺い、必要に応じて攻撃に転じられるスタンスに立っていただきました。
 そして、以前【未明の夢】にご参加いただいていたこともあり、身内への接し方と仕事上での厳しさのギャップの演出をほのかに意識した次第です。
 やはり終焉の幻に対し、兄へ向けた絶対の想いが印象的でした。

>ルーファス・シュミット様
 三度目のご参加、ありがとうございます。
 夢の世界を歩く際の仔細な思考過程、丁寧な方法の提示、ならびに礼節ある行動に感嘆のため息を洩らしておりました。
 情報提供的にいくつかの考察を述べていただくと共に、終焉の幻について思い切り捏造しておりますことをこそりと告白しておきます。


 それではまた、銀幕市のいずこかで皆様とお会いすることができますように。
 そして、銀幕市がたどる物語の行く末を、わたくしも皆様とともに見届けたいと思います。
公開日時2009-03-30(月) 18:00
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