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<ノベル>
1.「ここは、やりなおしができるまちだっ!」
ちゃぽん。
水音がした、と思ったら、いつの間にか知らない場所にいた。
「……あれ?」
太助(たすけ)は首をかしげてきょろきょろと周囲を見渡し、そこが『何もない場所』であることを確認して小さな前脚を組んだ。
不思議な場所に彼はいた。
湖底、海底から水面を見上げているかのような、ゆらゆらと光がたゆたう空と、真珠のような泡がふわふわと漂う、何もない――そう、風も小鳥の囀りも、差す光も――平坦な空間だ。
明るいのか暗いのかよく判らないのに、周囲を見渡すことは出来る。
周囲に何もないことが判る。
太助は首をかしげた。
「俺……さっきまで、たぬバスになってたはずだよなぁ……?」
太助は、つい先ほどまで、クロノスのダイモーンが転じた赤灰の腐敗竜・青灰の眼球巨人・黄灰の九頭蜈蚣と戦うべく――そして巻き込まれた人々を救い、また守るべく――他の銀幕市民たちとともに、作戦に従事していたはずなのだが。
「なんか……変なふんいきだな。足元がおぼつかねぇ、っていうのかな……」
だが、太助はここが、先ほどの戦いの『続き』だということを何となく理解していた。
「あのにおいだ……きもちをざわざわさせるにおい」
小さな獣の鼻を、渇望の匂いが掠める。
そして、
「これ……くがっちのにおい、か……?」
神音からも仄かに嗅ぎ取れた、神音ではない人間の匂い。
それは、強まったり弱まったり揺らいだりしながら、太助の鼻に、彼がそう遠くない位置にいることを教える。
「くがっちがいる……のか」
神音から話を聞いた。
他の人たちからも話を聞いた。
彼が漏らしていたという言葉をジャーナルで読んだ。
届かないがゆえに求め過ぎた久我の姿は、誰とでも重なるものだろうと思う。
対象が少し違っただけで、太助にもまた、それはあるのだから。
誰もがその深い深い願いに、魂ごと呪縛され操られ、時にはそれゆえに弱くなり、また強くもなるのだろうから。
「よしっ」
ぐっ、と、太助は拳を――彼の場合は前脚だが――握った。
「ここはやり直しができる街だ! だから俺は……取り込まれてよーが、罪の意識に苦しめられてよーが、やり直しを選択させちゃる!」
クロノスは斃さなくてはならない、この街や人々のためにも。
けれど、久我を見捨てること、久我ごと倒すようなことも、断じてしない。
太助は四足で走り出した。
どこへ、というあてがあったわけではないが、太助には確信もあったのだ。
「くがっち、どこだ!」
そう、久我が呼んでいる、という。
――彼が、助けを求めているのが、何となく判る。
「へんじしろ、くがっち! むかえにきたぞ!」
大声で呼んで、周囲を確認すべく立ち止まったら、目の前に黒い何かがいた。
いた、というべきなのか、あった、というべきなのか。
それが何故久我だと思ったのか、太助には判らない。
判らないのに、その俯いた何かが久我だと、太助には判ったのだ。
「……くがっち、それ……」
彼は影に覆われていた。
しかし、彼が影なのではなかった。
何故なら影は、時々、ごそり、と蠢き、久我の身体の上を這い回った。
影が蠢くたび、肌色や艶のある黒髪、スーツの一部分、手が露わになり、また消える。その影は時々、バッキーに似た生き物のかたちになった。
「ダイモーン……!」
変態し怪物となった本体の残滓、クロノスの残りかすだ。
そいつはごそりごそりと蠢き、久我を完全に覆いつくそうとしているようだったが、影が動くたびに久我の一部がどこかで露わになり、クロノスの目論見は未だ果たされていないようだった。
――それはつまり、久我がまだ完全には飲み込まれていないことを、久我がまだ完全にクロノスとひとつにはなっていないことを意味する。
チャンスは、今をおいて他にないだろう。
「くがっち」
太助は影に近寄り、手を伸ばした。
太助が触れると、影がびくりと震え、クロノスの残滓が軋むような音を立てる。
威嚇しているのだろうか。
(俺は誰だったっけ)
不安げな、心許なげな声が聞こえてきた。
(大切なものがあったはずなのに。ほしいものがあったはずなのに。やらなきゃいけないことがあったはずなのに……守りたいものも、約束も、あったはずなのに)
「くがっち……」
慄くような、啜り泣くような、震える久我の声。
彼は、クロノスの残滓に、記憶を奪われているのか。
(あの人についていきたい。あの人と一緒に、巡礼の旅に。……だけど、あの人って、誰だった?)
久我が苦悶する。
そのたび、久我を覆う影が活気付き、彼を完全に飲み込もうと蠢動した。
「このっ……!」
太助はそれを、何とかして払い落とせないかと、久我の身体を前脚でぱたぱたと叩いたが、残念ながら効果はなかった。
ここが精神世界だと言うのなら当然かもしれないが、クロノスへの物理的な攻撃が無理なら――少なくとも、久我に取り付いている間は効果がないようだ――、
「くがっちは久我正登っていうんだ!」
久我を正気づかせ、『居心地を悪くする』ことで、クロノスを弾き出させるしかない。
(久我……正登。俺の……名前?)
不思議そうに、久我が名前を反芻する。
太助は頷き、言葉を継いだ。
「くがっちは音楽がすきなんだ。すぽーつも好きで、でもべんきょうはきらいなんだ」
太助はまず、久氏に『自分』が誰なのかを教え、それから少しずつ久我正登という人間をかたちづくる要素を出していった。
(音楽……ああ、好きだ。うたうのも、演奏するのも……大好きだった。でも……何で、大好きだったんだろう? 何で、過去形なんだろう?)
「何でなんだ? 何でくがっちは、音楽を大好きになって、それなのにとおざかっちまったんだ?」
太助は、もっとも重要な要素である神音という存在をあえて抜きにしたままの状態で、散り散りばらばらになっている記憶を掻き集めようとしていた。最後の1ピースをはめ込むことで、一気に覚醒し浮上出来るように、という目論見だ。
(あの人と……一緒に行けないって、判ったから)
声に、じわりと寂しさが滲んだ。
「何で、一緒に行けなくなっちまったんだ」
(あの人の声は特別製だった。あの人は巡礼のために生まれた人だった。俺には、その声がなかった。だから……ついてはいけなかった)
判っていることより判らないことの方が多い、神音という歌い手の、不思議な背景がぼんやりと浮かび上がる。
だが、太助には、そのことよりも、久我が『あの人』の――神音の面影を追って、記憶を少しずつ取り戻して行く方が大切だった。
「何でついていきたかったんだ。なんでくがっちは、『あの人』と一緒にいきたかったんだ」
素朴な疑問を口にして、過去へ過去へ、渇望の根源、神音との関係の根本へと立ち戻らせていく。
(あの人が……好きだから。あの人の、全部の命に向いた、愚直な優しさに、救われたから)
童子めいた頑是ない声に、憧憬が、友愛があふれる。
(お袋が死んで、親父とぎくしゃくして、俺なんか生きてたって仕方ないって、俺になんか何の意味もないって思ってた。――だけど、あの人と、あの人の歌が、俺に、生きて前を向くだけで命は素晴らしいんだって、教えてくれた)
生きていてもいい、生きることは素晴らしい、という許し。
迷いやすい、多感な時期に神音から向けられた優しさ、善意が、久我の渇望をかたちづくる根本なのだ。
(だから、ついていきたかった。同じ場所で、同じように、歌を捧げて……そしていつか、今度は俺が、あの人を守りたかった)
幼く切ない、しかしそれゆえに深い、久我の根本、その渇望。
それが叶わないと判ってしまった、もしくはそう感じてしまったがゆえに、彼の中であまりに深い渇望は虚(うろ)となり、クロノスの侵入を容易くし、叶わないのならばいっそ神音そのものを自分のものにしてしまえばいい、という歪んだ願いを植えつけられ、増幅されてしまったのだろう。
(俺にはもう、何もない。もう、今更……帰れない、許されない。何も判らないのに、それだけ判る。俺はもう、戻れない)
切々と紡がれる嘆きの言葉。
望む望まざるに関わらず、旧い神の依り代となり、この街に災厄と騒動と不幸の種を巻いたことを、はっきりとではなくとも、久我は理解し認識している。そしてその罪にも苦しんでいる。
しかしそれは、依り代となったのがたまたま久我だったというだけのことで、誰もが辿り得た道だった。
だからこそ、切なくやるせない。
「だけどさ――……くがっち」
しかし太助は、その切なさを堪えて、何でもないように言った。
「それでもなんでも、くがっちは今でもじんねが大好きなんだろ?」
そう言った途端、影に覆われた久我が、雷に撃たれたようにびくりと震えた。
(じん、ね)
「じんねだって、くがっちのこと、すげぇ心配してんだぞ?」
世間話のように、まるで当然のことのように――事実それは、本当に当然のことだったから――、久我の帰りを待つものがいることを告げる。
(神音)
もう一度、今度は明瞭に、意志を込めて名を呼び、久我が顔を上げた。
ざっ。
ほんの一瞬、すべての影が駆逐され――……すぐに、元に戻る。
そして、
(ああ……また、遠ざかる)
ちゃぽん。
間抜けな水音とともに、久我は姿を消していた。
「……そうだ、くがっち」
だが太助は失望しなかった。
わずかな間露わになった久我の顔には、確かな意志の色が見えたから。
「がんばれ」
きっとすぐに、全部思い出して出てくるだろう、すぐにどこかで会うだろうという確信のもと、太助はまた走り出す。
2.「もう迷わん……惑わされもせん。俺がそう決めた」
「……どうなっているんだ? 討伐作戦に参加していたはずなんだが……何やら巻き込まれたようだな」
シャノン・ヴォルムスは『何もない』周囲を見渡し、溜め息をひとつついた。
漂ってくる気配は、久我のものであると同時に、クロノスのものでもあった。
「なるほど……ここは久我の精神世界なのか」
本能的に、感覚的に、自分のいる場所を察して、シャノンは目を細める。
「だとすると……クロノスもここにいるか。……ならば、取るべき行動はただひとつだな」
呟き、懐に銃が収まっていることを確認する。
クロノスの、飽くなき渇望に共感はする。
それは誰もが持ち得るもので、それなしにヒトは生きられないだろうとも思うからだ。
「だが……他者の想いを踏み躙り、それを自らのために利用するなどということは、許されない」
過去のシャノンならば、好きにすればいいと嗤ったかもしれない。
他人などどうでもいいと吐き捨てたかもしれない。
しかし、今のシャノンは、映画の中の、冷酷非道な孤高のヴァンパイアハンターとは違う。彼には愛するものがおり、守るべきものがあって、それゆえに人としての道をそれることは、出来ないのだ。
「もう迷わん……惑わされもせん。俺がそう決めたからな。俺は許され、愛され、求められ、そして信頼されている。その思いに応えるために、自分が信じた道を進むだけだ」
シャノンが自分を鼓舞するようにそう言った時、
ちゃぽん。
間抜けな水音がして、ふと気づくと、目の前に黒い何かが佇んでいた。
人間のかたちをした黒いそれを、何の疑いもなく久我だ、と思った。
彼は真っ黒な影に覆われていたが、時折肌や髪、スーツの一部、手などが見える。彼の表面をダイモーンのかたちをした影がざわざわと這い回り、久我を覆いつくそうとしている。
しかしそれは、まだ、果たされてはいないようだった。
「……まずは、お前を救ってやらねばな」
クロノスに乗っ取られ、彼はたくさんの災厄と苦悩を撒いた。
その重大さを否定する気はない。
しかし、彼はたまたま彼だっただけだ。
クロノスはたまたま、彼の渇望に巣食っただけだ。
深く狂おしい渇望、魂の奥底に凝る重苦しいそれと、クロノスの波長とが合っただけのことなのだ。
そう、誰もが久我になり得た。
誰もが根底にその危うさを孕んでいた。
それゆえに、シャノンは、久我に救済は必要だと思う。
「何もかも判らないまま、救いもないまま深淵に沈むのは……あまりにも、な」
彼を覆う黒い影、クロノスの残滓がざわざわとざわめく。
一体どうすればあの影を駆逐出来るだろうかと、シャノンが一瞬思案した時、
(神音)
ぽつりとした久我の声が聞こえた。
(……誰のことだった? 違う……俺は、誰だった? 俺は、久我正登、なのか……?)
声は戸惑い、まだ苦悩していたが、その声に意志を感じ、
「そうだ……それがお前の渇望の名だ」
シャノンは宝石めいた目を細め、影に覆われた久我を見つめた。
「取り戻せ、自分を。お前がお前であることでしか、その渇望を真実己がものにすることは出来ないのだから」
(あの人の近くにいたかった。せめて隣で、同じものを見ていたかった)
ぽつりぽつりと零れ落ちる久我の言葉。
(叶わないのなら、あの人を手に入れてしまえばいいと、囁かれた。――俺は、その声に応えてしまった。応えてしまったことになるんだろう)
シャノンは、揺らぐ影と久我とを見遣り
「願いがあるのなら見失うな。苦しみもがきながらでも、真に大切なものが呼びかける声を過たず聞け……それがお前を導いてくれる」
静かな眼差しで声をかけた。
「だが、そのすべてを、最後に決めるのはお前自身の意志だ。このまま沈んでいくのか、抗い這い上がるのかは、お前自身が選択するしかない」
(俺は)
久我が苦しんでいるのが判る。
苦悩し、もがいているのが判る。
その苦しみがどんなものなのか、シャノンには判る。
「お前自身が、沈むことを望まず、戻りたいと願うのなら、俺は幾らでも手助けをしよう。――俺自身、そうやって、大切な者たちに救われてきたんだからな」
だからシャノンは手を差し伸べるのだ、この街で自分が与えられた善意に報いるためにも。
ゆらゆらざわざわとクロノスの残滓が蠢いた。
「人間の心が、時に素晴らしい強さを発揮することを、教えてやれ」
言って伸ばした手が、久我に触れる――そう思った一瞬前。
(……行かないと。それがどこなのかも判らないけど、行かないと)
ちゃぽん。
間抜けな水音とともに、久我の姿が消える。
「……忘れるな」
クロスのネックレスに触れ、シャノンは呟いた。
不安げな声の中に、意志の力を感じたと思うのは、シャノンの早とちりではないはずだ。
「お前を救えるのは、お前自身なんだ」
そしてそれと同時に、久我を救うべく奔走している人々がいる。
この空間にいるのが自分と久我だけではないことを、シャノンは感じ取っている。
――だからこそ、実は、それほど不安と思ってもいないのだ。
3.「情けない」
臥龍岡翼姫(ながおか・つばき)は不機嫌だった。
先ほどまで後方支援部隊で炊き出しを行っていたはずが、突然落下してこんなところへ迷い込んだからだ。
「……あの、くそったれな気配がするわ」
渇望の力を操り、翼姫に彼女が目を背けていた『それ』を突きつけた男が、クロノスから借りたのだと言っていた。その、借り物という力から感じた『匂い』が、この閉じた空間を創り上げているのが判る。
これをどうにかし、クロノスを駆逐しなくては、銀幕市に平和など訪れないどころか、更なる危機が襲い掛かるだろうことも判る。
とはいえ、翼姫にこの街への愛着も感慨もなく、
「正直、この街が崩壊しようが、わたしにはどうだっていいけど……」
醒めた瞳で呟く。
「だけど、それであの人の哀しい顔を見るのは、ごめんだわ」
翼姫の絶対、根本であるあの人が、翼姫の生きる意味でもあるあの人が、この街の何かが失われることで哀しみ、辛い思いをすることは避けなくてはならない。
だから、翼姫はやむなく戦っている。
基本的に、翼姫が事件に積極的に関わるのは、すべてがそういう動機なのだ。
(俺は誰だった。思い出せない……大切なものがあったはずなのに)
また、あの声が聞こえて来て、翼姫は舌打ちをした。
この、『何もない場所』に落ちてから、何度も耳にしている声だ。
この空間をかたちづくっている気配、現在の銀幕市の状況から鑑みて、疑いようもなく久我のものだろう。
「――……情けない」
神音のことも久我のことも、翼姫にとってはどうでもいい。
自分には無関係だと思っている。
しかし同時に、久我に対しては苛立ちと腹立たしさを感じてもいる。
「そんなに好きだった相手を思い出せないなんて」
自分なら、きっと、脳味噌を取り外されたって、彼のことを忘れたりしない。舌を切り取られたって、彼の名前を呼び続けることが出来る。彼の名前は――彼のすべては、翼姫の心や記憶だけではなく、魂に刻み付けてあるのだから。
「おまけに、誰かに操られて、利用されて……そこから抜け出せないなんて」
それらも他人事だ。
自分には関係ないが、それでも腹立たしい。
(ほしかった……辿り着けないから。せめて、手に入れたかった。せめて、ずっと傍に)
「……」
翼姫は前を見据えて爪を噛んだ。
イライラする。
この、彼と自分を取り囲むすべての現状に。
いつもなら、久我を、口さがなく罵り、怒鳴りつけるところだ。
そんなどうでもいいことであの人を煩わせてるんじゃないわよ、と。
しかし、瑕莫に自分の渇望を――ずっと否定してきた根本の、あまりにも幼く滑稽で切実な叫びを――見せ付けられ、魂の深淵を覗かれて、渇望をあらわにし突きつける存在に怯えている今、久我をいつものように貶したり怒鳴りつけたりすることは出来そうにもなかった。
そして、そんな自分にもイライラするのだ。
「ちょっとあんた、ホントにしっかりしなさいよ」
きつい口調で言葉を投げかける。
翼姫は、クロノスなどという存在は百害あって一利なしと思っている。
翼姫の大切なあの人や『家族』のためにも、さっさと消えればいいと思っている。
しかし、久我ごと殺す、という観念は、彼女にはなかった。
むしろ、久我の命、魂こそが、事件解決の鍵だと確信していた。
「あんたの心の持ち方ひとつで、そんなやつ斃せるんだから」
だから、励ましというほど優しさに満ちているわけではないが、
「しっかりしなさいよ」
力づける意味を込めて、もう一度叱咤激励する。
と、ちゃぽん、と音がして、
(俺は、どこに行けば……)
不安げな声が聞こえてきた。
それと同時に、彼女の目の前に、黒い影に覆われた人影が立った。
ダイモーンのかたちをした影がごそごそと蠢き覆う、人の姿をしているだけで顔も判らないそれを、何故久我だと確信したのかは判らない。
判らないが、疑いもない。
ごそり、と蠢いたクロノスの残滓が、やれるものならやってみろ、とばかりに奇妙な、軋むような音を立てた。
そこに明らかな嘲りを感じ、翼姫は片眉を跳ね上げる。
やってやろうじゃないの。
クロノスへの怒りがふつふつと湧き上がり、翼姫は久我を見据えた。
ざざあ、と蠢いた影の下で、ほんの一瞬、途方に暮れた表情をした久我の顔が見えた。しかしそれは、随分、人間らしい表情でもあった。
黒い双眸に、意志の光が時折瞬くのも、翼姫には見て取れた。
「何を迷ってんのよ、馬鹿」
久我を睨み据え、呆れた口調で言うと、久我が揺らいだ。
「あんたが探してる人は、あんたを裏切ったりなんか絶対にしないわ。さっさと思い出して、早くあの人のところに行きなさいよ、たったそれだけのことでしょう? そうしたら全部解決するんだから」
何故そう思うのか。
理由は簡単だ。
久我に、自分と似通ったものを感じるからだ。
「早く、あんたの大事な人のところに帰りなさいって言ってるの」
翼姫もまた、ただひとりを愛して求めて止まない。
あの人がいるから生きている。
翼姫にとって、あの人は命そのものだ。
存在の根幹に、彼がいる。
「そんな基本的なことが判らなくてどうするのよ、情けない」
そして翼姫は、彼が絶対に自分を見捨てないと知っている。
――あの人が翼姫に向ける愛は絶対だ。
あの人は、翼姫を――翼姫たちを裏切るくらいなら、自分の死を選ぶだろう。自分の痛みなど恐れもせず、流れる血に怯むこともなく、命をかけて翼姫を守り、翼姫を愛し、信じて、そしてそれらをまるでなんでもないことだとでも言うように、いつもの調子で笑うだろう。
だからこそ翼姫は、彼が心配でたまらず、命をかけて守らなければと思うのだが、彼が与えてくれる絶対の愛情は、翼姫を容易く幸せにし、自分への嫌悪を和らげる。
「自分なんか信じなくてもいいわ」
ほんの少し、目元と声を和らげて翼姫は言った。
翼姫もまた、自分など信じてはいない。
生きたいからではなく単純に死ねなかったからというだけの理由でここまで生きて来て、滑稽で醜悪な生き様をさらしながら、未だに誰かの愛を欲し足掻く、そんな自分が大嫌いだ。
けれどあの人が大切にしてくれる自分と、あの人を大切に思う自分は、信じていいと思っている。――信じなくてはならないと思っている。あの人の愛情を疑うこと、あの人を愛する自分を疑うことは、存在の根幹を冒す罪だとすら思う。
久我の気持ちが判るからこそ、それを、久我にも教えてやりたい。
「だけど、あんたの大事な人くらい信じなさい。絶対に大丈夫だから――……わたしみたいに。さっさと帰って、抱きつけばいいのよ。それで、大好きだって言っちゃえばいいんだから。たったそれだけのことでしょう?」
たくさんの無様をさらして辿り着いた、翼姫の答えがそれだった。
(あの人を……信じる。……信じたい)
久我が小さく頷いたのが見えた。
彼を覆う影が、ほんの少し薄くなったのは、気の所為だろうか?
「そうよ、それでいいのよ。簡単なことじゃない。そんなことも判らないの?」
呆れたように、何でもないように翼姫が言うと、久我がまたゆらりと揺らいだ。
(ああ……そうだ、俺は、行かなくては)
ちゃぽん。
間抜けな水音とともに、久我の姿が消える。
――恐らくまだ終わってはいない。
そんな感覚がある。
しかし、
「簡単なことよ、本当に簡単なこと」
翼姫は、自分の言いたかったこと、教えてやりたかったことが通じたと確信していた。
「……早く帰りなさい、あんたの求める場所に」
だとすれば、事件の終焉も、そう遠くはない。
4.「ああ、君はこんなにも近くにいてくれたのだね」
気付けば、『何もない』空間に沈んでいた。
ブラックウッドは、先ほどまで沈んでいた空間とよく似ている、と思った。
渇望の毒の残滓が身体の芯に残り、思考を焦がす。
ものを考えるのも億劫になって、ブラックウッドはひとつ溜め息をついた。
身体が妙に熱い。
まるで足元から、無数の蝋燭にじりじりと炙られているかのようだ。
「私は――……」
唇に自嘲の笑みが浮かんだ。
長い長い時間を生きてなお、自分は未だ成熟せぬままだ。
そんな風に思う。
生にしがみつく醜悪な魔物の分を、それも自分だと受け入れてここまで来たし、その甘受を否定することはない。ブラックウッドがブラックウッドとして立つためには、それらすべてが必要なのだ。
しかし、時折、ほんの時折、ままならぬ道を歩んで来た人としての彼が目を伏せ、他に道はなかったのだろうか、と、小さく呟くことがある。
それが今だった。
身体を蝕む渇望の毒が、ブラックウッドの、人としての弱い部分をひどく刺激し、揺らめかせる。
たくさんのすり抜けていった者たちを思い出し、ブラックウッドは自分の無力を思った。
と、その時、
「……これは……?」
彼は、我が身を仄かな光が包んでいることに気づいた。
ゆっくりと首を巡らせ、出どころを探る。
――光は、左手中指の一点から。
「ああ、そうか……」
何故、先ほどは気づかなかったのだろう。
呟くと、渇望に追い立てられるまま暴走したあの時、彼を抱き締め、真名を呼んでくれた――我が身を危険に晒してまで彼を止めてくれた、漆黒の傭兵の姿が、そして白銀のやわらかな眼差しが脳裏を過ぎる。
「君は、こんなにも近くにいてくれたのだね」
微笑み、左手中指から零れ落ちる、トパーズ色の光に口づけると、ブラックウッドの精神は、まるで空がさっと晴れるかのように澄み渡った。
――あんたは、そうでなくちゃな。
彼の言葉が聞こえたような気がして、くすり、と笑う。
「そうだね……君の言う通りだ」
そして彼は、両の足で地面ともつかぬ地面を踏みしめて立った。
暗いのか明るいのかも判らないのに、ここに何もないことが何故か判る、不思議な、湖底を思わせる空間に佇んで、意識を研ぎ澄ませる。
「ここは……久我君の精神世界、なのかな。それともクロノスが創り出した牢獄なのか。……何にせよ、久我君が中心であり、鍵であることに変わりはなさそうだけれど」
注意深く周囲に意識を凝らせば、生命の気配と匂いとが漂ってくる。
記憶に新しいこの匂いは、久我のものに相違ない。
匂い、気配の位置、漂ってくる方向が一致しないのは、久我の意識がふわふわと揺らぎ、漂っているからなのだろうか。
「……他にも、誰か、いるようだ」
魔物の鋭敏な嗅覚は、この奇妙な空間の中に、知った気配が幾つか点在していることを嗅ぎ取っていた。恐らく、ブラックウッドと同じように、ここに巻き込まれたものがいるのだ。
皆、きっと、それぞれに、この思惟の湖底を彷徨い、久我を救出するべく――クロノスを斃すべく、様々に意識を凝らしている。そんな確信があった。
「さて、では……私もまた、そのように」
いつも通りの自分を取り戻し、ブラックウッドは穏やかに微笑んだ。
最高級のインペリアル・トパーズめいた黄金の双眸に意志と力が漲り、たゆたう。
「……君が私に、かくあれと望んでくれるのならば」
左手中指の指輪に口付け、囁いて、歩き出そうとした時、
ちゃぽん。
間抜けな水音とともに、ふと気づくと、目の前に黒い何かが佇んでいた。
人間のかたちをした黒いそれを、何の疑いもなく久我だ、と思った。
彼は真っ黒な影に覆われていたが、時折肌や髪、スーツの一部、手などが見える。彼の表面をダイモーンのかたちをした影がざわざわと這い回り、久我を覆いつくそうとしている。
影が蠢くことで時折あらわになる久我の顔は、途方に暮れているようでもあったし、未だ激しい渇望に己を焦がされるもののそれだったし、哀しんでいるようでも、己の罪に慄いているようでもあった。
(俺は……罪人なんだろう)
ぽつり、と呟きが漏れる。
(願ってはならないものを願ってしまった、その罰を受けているんだろう)
ブラックウッドはかすかに笑った。
「それは違うよ」
ブラックウッドが言うと、久我はふらりと揺らめいた。
「君の渇望を否定することは私には出来ない。いや、誰ひとりとして出来ないだろう。それは、誰にでもあるものなのだから」
生きるために渇望は必要だ。
それは常に、すべての原動力たり得る、絶大なエネルギーを孕む。
そして渇望は、昇華されれば前へ進む力になるものだ。
「渇望を失ったものの魂は、推進力を失って老いるものだ。強く願うがゆえに、人はそれを真実にしようと行動するのだろう? それゆえに魂は輝き、鍛えられるのだ。――久我君、君も渇望を力に変えて前へと進んできたはずだよ、神音君とともに」
数々の事件においてその効力を発揮してきた『力ある言葉』で、力強く語りかける。
「君は何故、神音君を欲しいと思うのだね。君はどこへ辿り着きたい、最果ての日に。その結露を見るために、人は日々を歩むのだろう? ――間違えてはいけない、自分の行き着く先を」
欲するばかりでは破滅にしか向かわない渇望を、高みの栄冠に向けて誇らしく掲げよと。
自信と確信に満ちた眼差しで、声で、仕草で、ブラックウッドは呼びかける。
「私たちの誰もが、渇望を前へ進む力に変え、己が誇れる何かを最後に手にするために歩むのだよ。――無論、君も」
その言葉は、同時にブラックウッド自身のためのものでもあった。
魔物の本能とヒトの心を抱いて、夜の月光と朝の陽光の下を行く、ブラックウッド自身のための言葉だ。
――間違うまいと思う。
渇望は始まりでしかないことを。
そこからどう進み、何を思い何をなし何を得るのか、その結末にこそ意味があるのだということを。
(まだ……遅くはないんだろうか)
不安げに、しかし信じたいという希望を滲ませて久我がつぶやく。
ブラックウッドは微笑み、小さく頷いた。
「何故、遅いなどと思うのだね」
ブラックウッドの言葉に、影に覆われた黒いそれが揺らぎ、
ちゃぽん。
また、あの水音を立てて、姿を消す。
「覚えておきたまえ……最後にかの栄冠を手にするのは、君自身なのだということを。君を律し、君の願いを叶える主人は、君しかいないのだということを」
ブラックウッドは特に失望もしなかった。
久我を中心に何かが動き出した、そんな確信があった。
恐らく道は、すべてつながっている。
だから、ブラックウッドは、何でもない風情で歩き出した。
漏れ零れる久我の気配と匂いとを追って。
5.「欲しいものを欲しいと願って、何が悪い」
ヴァールハイトことジークフリート・フォン・アードラースヘルムは、つい先刻まで医療用ヘリを駆使して怪我人の輸送を行っていたはずだった。
それが、怪我人を拠点である市民体育館に送り届け、彼らが病院へと搬送されていくのを確認して、次の救助に赴こうとヘリのドアに手をかけたら、妙な眩暈とともにここへ落下していた。
「……色々なことがある街だ」
ドイツ人の常で、常識的で固い部分を持ち合わせる彼は、非常識の罷り通るこの銀幕市に思わず溜め息をついたが、しかし特に焦ることもなく、状況を把握すべく周囲を見渡した。
『何もない』ことの判るこの空間には、切ない感情がたゆたっている気がする。
残念ながらヴァールハイトはムービースターでもムービーファンでもないただの一般人なので、それは『気がする』程度の曖昧なものでしかないのだが、彼にはそれが外れていないことが判った。
「久我正登、と言ったか……」
クロノスとか言う旧い神が転じた怪物が現れた頃、引きずり込まれるように消えたという久我、それらを鑑みるに、ここは久我が囚われた、または迷い込んでいる場所と考えるのが妥当だろう。
彼がクロノスに乗っ取られたことでたくさんの事件が起きた。
それは事実だ。
久我正登として目覚めた時、彼は、たくさんの事実と向き合わねばならないだろう。
「だが……それは、奴ひとりの責ではなかろう」
ヴァールハイトには、久我の気持ちが判る。
ほしくてほしくて仕方ないのに、どうしても手の届かないものが彼にもある。
久我のそれが神音の音楽であるなら、彼の渇望はたったひとりの人間を向いている。
あまりにも深いその渇望は、あまりにもひとつの方向を向きすぎて、他者からの横槍など一切効果がない。自分のほしいものがなんなのか判り過ぎて、他の何かで誤魔化すことも出来ない。
――あの人と出会ったのは、もう十年も前、彼が十七歳の時だった。
アードラース家の次期当主であるヴァールハイトは、貴族の血に連なるものとして、そしていずれ人の上に立つものとして、戦いの何たるかを知らねばならない、と父親に連れられて戦場を訪れ、そこであの人と出会った。
その時、もう、一目惚れだったのだろうと、今でも思っている。
再会したのは八年前、彼が俳優業に足を踏み入れてからだ。
そこで、映画『ムーンシェイド』の主演と助演として、ひとつの世界を創り上げるために力を尽くした。あの映画が、あの人とあの人の愛した――否、今でも愛している――たくさんの人々のための鎮魂の物語だと知ったのも、その頃だった。
紆余曲折を経て今のような関係になり、手を伸ばせば届くのに手には入らないもどかしさに、渇望は募るばかりだ。
だから、ヴァールハイトは久我の立場を他人事だと思えない。
久我を責められる人間などいないとも思っている。
「俺も、クロノスになっていたかも知れん」
重い過去に苦しみながらも人生を楽しみ、飄々と駆け抜けて行ってしまうあの人を、自分がどれだけ羨ましく、恋しく思っているか、きっと本人は知らないだろう。
あまりに愛しくて欲しくて、苦しくて、時折、捕らえて縛って閉じ込めて、自分だけのものにしたいと、永遠に誰にも渡したくないと狂おしく願うこともある。
だからこそ、ヴァールハイトには、久我の気持ちが判るし、彼だけを責めることは出来ないとも思う。
しかし、同時に、思うのだ。
「だが……欲しいものを欲しいと願って、何が悪い」
それは開き直りというよりも、単純に、事実を事実として認識しているだけのことだ。
「久我、聞こえているか」
聞こえていると確信して言葉を投げかける。
ちゃぽん。
どこかで小さな水音がした。
誰かの溜め息が聞こえたような気がした。
「お前はもっと足掻けばいい」
ことのあらましを聞いて、ヴァールハイトは、久我にそれを伝えたい、教えてやりたいと思った。
「一度や二度や三度や十度や百度、駄目だったからといって、何故そこで引き下がる必要がある?」
渇望の根源のようなクロノスを呼び寄せたのだ、久我の思いは半端なものではなかったのだろう。根深く強い、狂おしい渇望を同じく抱く身として、ヴァールハイトにはそんな確信がある。
それなのに、何故久我は、諦めようとするのだろうか。
諦めて、別の渇望にすり替えてしまおうとしたのだろうか。
「生半なものではないのだと、一生を費やす覚悟があるのだと、必ず手に入れてやるのだと、態度で示せずにどうする」
久我は、もっともっと足掻けばいい、足掻くべきだと思う。
足掻いて、伝えて、何度でも挑戦すればいい。
――自分がそうしているように。
無論それは、今もなかなか実を結ばないが、黙って突っ立って見過ごすより、最後の最後に後悔するより、何倍も何十倍もマシだ。
「戻って来い……そのために。こんなところで迷っていても、何も変わらん」
静かに、きっぱりと告げる。
ちゃぽん。
またどこかで水音がした。
――久我だ、と思った。
彼の姿を見出すことは出来なかったが、何故か、彼の意志を感じ取ることは出来た。
「そうだ……それでいい」
久我が前を向こうとしていることを、ヴァールハイトは感じ取っていた。
何故、“平凡な”エキストラである自分にそれが出来たのかは判らない。ここが、そういう空間だからなのかもしれない。
ヴァールハイトは怜悧な美貌にうっすらと笑みを浮かべる。
「そうでなくては、面白くない」
この『先』に結末が待っている。
そんな確信が根差し、ヴァールハイトは歩き出す。
不安も躊躇も、今の彼にはなかった。
6.「I am what I am, I love How I am」
気づけば、守月志郎(かみつき・しろう)は、何もない空間に、いつもの大きな剣を手にしたまま、立ち尽くしていた。
「……あれ?」
つい先ほどまで、彼は……彼のチームは、青灰の眼球巨人を相手に苦戦していたはずだ。
友人たちが傷つき、血を流すのを、志郎は確かに見た。
自分もまた、巨人が投擲した家屋の破片に当たって傷を負った。怪物たちが現れる少し前、変質した唯瑞貴に剣で貫かれた傷も、もちろんまだ癒えてはいない。
「なんだ……ここは」
装備も傷痕も先ほどのままなのに、ここは先ほどの戦場ではあり得なかった。
それなのに、何故かここが先ほどの戦いの続きだと、志郎は確信している。
そこかしこから、久我の匂いと、彼の意識の片鱗とを感じる。
独特の世界観を持つ映画から実体化したこともあって、志郎は、ここが、久我が囚われた『場』なのだということを本能的に察していた。
「……久我さん、って言ったか……?」
志郎は、それほど久我正登のことを知っているわけではない。
依頼やジャーナルを通して、彼が、彼にとっては家族のようでもある神音という歌手と、その人物の紡ぐ歌に、多大な憧憬と執着を抱いていたことを知っている程度だ。
「自分には自分にしか出来ないことがある、って……口で言うのは、簡単なんだ、けどな」
志郎は、久我があまりに深い渇望を抱くようになったのは、何かの挫折がきっかけではないか、と思っていた。彼が楽器に触れることすらしなくなった、大学生の頃に、何かあったのではないか、と。
「あんたの気持ちが判る、って言ったって……嘘くさいけど」
周囲の気配を探り、誰か他にも同じように巻き込まれた人間がいないかと思いながらあてもなく歩く。
自分の班が、眼球巨人を相手に苦戦していたことを覚えているので、早く戻らなくてはと思いもするが、焦っても仕方がないと本能めいたものが告げるのもまた事実だ。
と、
ちゃぽん。
背後で間抜けな水音がした。
足を止めて振り向くと、そこには、黒く蠢く影に覆われた久我が立っていた。
彼が久我だと判ったのは、ここが久我の囚われた空間だと察していたから、ごそごそと蠢く、ダイモーンのかたちをした影の隙間から、久我の顔が時折覗くから……というだけではなかった。
志郎は何故か、水音がした瞬間、ああ、久我だ……と確信していたのだ。
(敵わない……追いつけない、辿り着けない。だから欲した……だから。だけど)
久我は項垂れていた。
声から、彼の落胆が伝わってくる。
(あの人の歌に救われた。だから俺も、歌で誰かを癒す人間になりたかった。そして、あの人と一緒に行きたかった)
希望が過去形なのは、それらが叶わなかったからだろう。
挫折が彼に渇望を植え付け、神音への執着を強くした。
(届かない……触れられもしない。だったら、俺が歌うことに、一体何の価値があるというんだろう?)
哀しい、寂しい、そんな感情が滲み出た、遠くを見るような言葉。
「……そういうものなのかな」
志郎はぽつりと呟いていた。
「本当に、それだけなんだろうか? あんたが歌うことに、意味なんてないんだろうか?」
そして、大きな剣を引き抜き、久我の前にかざす。
鍛え上げられ、磨き抜かれた剣の腹は滑らかに輝き、まるで鏡のように周囲を映している。
無論、影が蠢く久我の姿も。
(これは、俺か。これが……俺なのか?)
剣に映った自分が見えたのだろう、久我の姿が揺らぎ、影が一瞬駆逐された。
背の高い、利かん気の強そうな男の姿が、暗くも明るくもない空間のもとにあらわになる。
(そうだ、俺は……久我正登だ)
すぐにそれも、
(でも……だから、何なんだ? 俺は、結局、あの人と一緒には行けなかった。そして、毒を撒き散らすものになってしまった)
無念の言葉と罪の意識に取って代わられ、久我の姿はまた、影に飲まれる。
志郎は焦らなかった。
落ち込んだ気持ちが浮上するまでに、人間が時に長い時間を要することを志郎は知っている。焦って急かすよりも大切なことがあるのだと、志郎は理解している。
「なあ……久我さん。俺は……芸術とか何とかとは無縁な人間だから、偉そうなことは言えないが。でも……そこで全部決め付けちまうことはないんじゃないかな」
志郎もまた、才能ある人に敵わない、届かない悔しさ、寂しさとは無縁ではない。
彼は、作中では、いわゆる『最初は格好よく強いけれど後半では噛ませ犬になってくる』タイプのキャラクターだ。
映画は、主人公である人狼の青年の眠っていた力が志郎や仲間の危機に目覚め、彼が敵をひとりで斃す……という部分が見せ場だった。銀幕市に実体化した志郎は、その後日の彼なので、自分が才能のある後輩に、実力的に追い抜かれたことを知っている。
――志郎は、自分に誇りを持っている。
この手で、この剣で、この力で、人々の笑顔や平穏を守る自分に。
しかし、自分が三十数年かけて築き上げてきたものを、若く実力のある同胞に、容易く追い抜かされてゆくことに、一抹の寂しさを感じずにはいられない。
しかし、それでも、なすべきことに変わりはなく、志郎の在りように違いもない。
「『I am what I am, I love How I am……』」
実体化して初めて知った、劇中歌をふと口ずさむ。
それは少し調子外れで、この奇妙な空間には不釣合いだったが、志郎は構わずにさびの部分を繰り返した。
芸術などという分野は、志郎には遥か彼方の代物だ。
だから志郎は、安易に、久我の突きつけられた挫折や苦悩が判るとは思わない。
思わないが、共感は出来る。
共感出来るからこそ、何とか顔を上げて、自分なりの新しい道を、新しい音楽を見つけて欲しいと思うのだ。どんな憧れ、どんな羨望が目の前を塞ごうとも、今志郎が口ずさんでいる歌の通り、自分は自分でしかないのだから。
そしてその、『自分らしい自分』を、一番に愛し認めてやれるのは、自分なのだから。
(歌を……うたう、か……そういえば、忘れてたな……)
どこか懐かしげな声がして、また、久我の姿があらわになる。
志郎は笑って、また、少し調子の外れた鼻歌を繰り返した。
(あの人の歌が好きだ。だからあの人と同じ場所に立ちたかった……叶わなかったけれど。だけど……そういえば、俺は、うたうことも、好きだった。……いや、違う、今でも、うたうことが、好きなんだ)
「じゃあ、歌ってくれないか。俺は……あんたの歌が聴いてみたい」
志郎が言うと、久我はほんの少し驚いた顔をして、それからほんの少し、笑った。
(ああ……いいな、それ。本当に、そう出来たら、どんなにいいだろう。俺には俺の音楽があるって、ついてはいけなくてもここで歌って待ってるって、そう言えたらどんなに素晴らしいだろう)
眼差しに確かな意志を感じさせ、久我が言う。
志郎は大きく頷いた。
久我を覆う、ダイモーンのかたちをした影の面積が、随分少なくなってきていることに、志郎は気づいていた。黒々としていた色合いも、少しずつ、薄くなって来ている。
(……行かないと)
ぽつり、と久我が呟く。
(皆が呼んでくれてる……)
ちゃぽん。
水音がして、久我の姿が消える。
――どこかから音楽が聞こえてきた、ような気がした。
多分、志郎だけではない誰かが、久我のために何かをしているのだ。
その事実に、心を温められる。
「そうだ……諦めないでくれ」
久我は志郎だ。
志郎は久我だ。
人間は誰もが、魂の中に『久我』を持っている。
だからこそ、久我には救われて欲しい。
諦めず、前を見て進んで欲しい。
そのために手伝いが必要なら、何でもしようと思う。
「あと一息……かな」
『何もない』この場所の空気が、少しずつ温んで来ていることに志郎は気づいていた。暗くも明るくもなかったはずの、湖底から見上げた水面のような『空』に、光が差し込み始めていることにも気づいていた。
結末はもう遠くない。
その確信とともに、志郎は歩き出す。
当てはなかったが、すぐに目的の場所に辿り着くだろうとも思っていた。
7.「あんたは還らにゃいけんのじゃ」
ふと気づくと、何もない場所に佇んでいた。
「……なんじゃ、ここは」
昇太郎(しょうたろう)は周囲を見渡し、湖底から見上げた水面を髣髴とさせる空を見上げて首をかしげた。
――ひどく閉ざされた感のある空間だ、と思った。
「閉じ込められた……っちゅう感じじゃな。ここは……久我の、心ん中、か……?」
少し前、昇太郎も同じような経験をしたので、この閉塞感には馴染みがあった。
「あん時は……あいつらが俺を助けてくれた。じゃけぇ、俺も、久我を助けてやらにゃいけん」
救いを見い出し、満たされ、解き放たれている今だからこそ、――そして他者から向けられた純粋で真摯な善意を嬉しく思うからこそ、その善意を自分も返して行かねばと思うのだ。
昇太郎は世俗には疎いが、これらの件に関しては、親友である掃除屋の青年が深く関わっているため、それなりに知っている。
「……久我。あんたが、全部ひとりで抱え込んで苦しむ必要はないんじゃ」
渇望ならば、昇太郎にすらある。
長い時間、たったひとりで彷徨い過ぎて、色々なものを忘れ、なくしてしまった昇太郎にすら、切ないほど強い望みならば、ある。
だからこそ昇太郎は、強い渇望に囚われて、クロノスの苗床となってしまった久我が、他人のようには思えない。
「久我、どこにおるんじゃ……はよう出て来い」
どこで声を上げても届いているだろうという確信のもと、久我を呼ばわる。
「あんたには還る場所がある。こないなとこで迷いよる場合と違うやろ」
再度呼びかけ、反応を待つ傍ら、親友から借りっ放しになっていたミュージック・プレイヤーを目線の高さまで持ち上げ、首をかしげる。
怪物たちとの戦いが始まる前、昇太郎などよりよほど聡い掃除屋の青年、堕ちた芸術の神が、久我のために、と用意していた道具だった。
昇太郎は、あいつに聴かせてやりてェ、と彼が言ったのを覚えている。
「さて……こりゃあ、どうやって使うもんなんじゃ……?」
だから、昇太郎は、親友の言葉を実践すべく、ミュージック・プレイヤーを動かそうとしたのだが、何せ日常生活が送れないほどの不器用さを誇る彼なので、その作業は難航した。
正直、途方に暮れた。
「ここを押して……いや、違うな、ほなこっち……違うか。しもたな、ちゃんと使い方を聞いてくりゃあよかったの」
聞いていたとしてもきちんと扱えたかどうかは微妙なところだが、うんうん唸りつつ、あっちを押したりこっちを回したり、四苦八苦しながらボタンを押した瞬間、唐突にメロディがあふれた。
どこか民族的な、神秘的なメロディに、シンプルな言葉で歌詞が重なる。
独特の手法と、独特の歌い方を用いて創られているというその音楽は、神音の声が様々な高低でハーモニーを紡ぎ、神々しく重厚な音の塊を創り上げ、その中で、世界の真理を、生命の喜びを歌っている。
昇太郎の与り知らぬことではあるのだが、それは、神音の創った数ある歌、数ある音楽の中で、久我がもっとも好きなものだった。
「ああ……ええ歌じゃ。今の俺になら、判る……。生きてる、いうのんは、それだけで素晴らしいことなんじゃな……」
目を細め、聞き惚れながら呟く。
赦しの意味、生きる意味、その理由が、今の昇太郎には判る。
だから、この歌の美しさも、判る。
と、
ちゃぽん。
小さな水音がして、ふと見遣ると、黒い影にまとわりつかれた青年が立っていた。
尋ねるまでもなく、久我だろう。
久我の身体には、ダイモーンのかたちをした黒い影が這い回り、彼を覆いつくそうと躍起になっているようだったが、影の面積は久我の半分にも満たず――自分の他に迷い込んだ人々の言葉が、影を駆逐したのだとは、昇太郎は知らなかったが――、クロノスの残滓の目論見は、果たされそうにもなかった。
久我の目には、すでに、意志の光が戻りつつあった。
(あの人の、音楽だ……あの人の)
懐かしげに久我が目を細める。
昇太郎は邪気なく笑って頷いた。
「そうじゃ、神音の歌じゃ。……ええ曲じゃな」
昇太郎が言うと、久我は、まるで自分が褒められでもしたかのように、嬉しそうに笑った。
(たくさんの人を、救ってきた音楽なんだ……俺も、そのひとりだ)
眼差しに憧憬と友愛が滲む。
昇太郎には、彼は本当に神音が好きでたまらないのだと、それゆえにクロノスを呼び寄せてしまったのだということがよく判った。
「せなや、素晴らしい音楽じゃ。苦しんどる人間を助けたっちゅうのも、よぉ判る気がするわ。――……けど」
昇太郎はミュージック・プレイヤーを久我に差し出し、彼を見つめた。
「なあ、あんたが還ってやらんと、神音は救われんのやぞ。あんたが欠けたまんまじゃったら、神音は、心ん中に苦しいもんを抱えたまんまで歌わにゃいけんのや」
その言葉に、半身を影に覆われた久我が目を見開く。
まるで、想像もしていなかった、とでも言うような表情だった。
(あの人、が、俺を……?)
「当たり前やないか」
昇太郎はちょっと呆れた。
親友なら、昇太郎に呆れられるようじゃ終いだぞ、と言ったかもしれないが、とにかく呆れた。
久我が神音を大切に思うように、神音もまた久我を案じている。
それも、覆しようのない真理だと思う。
例え、久我自身が、自分の渇望に精一杯で、神音が自分をどう思っているか、という部分にまで思いが至らなかったとしても、そこに疑いを差し挟む余地などないのだ。
「久我、神音が呼んどるぞ。あんたは還らにゃいけんのじゃ……あんたのためにも、神音のためにも」
そう言って、高らかに、誇らしげに音楽を紡ぐ、ミュージック・プレイヤーを久我に押し付けた、その時。
久我の身体がびくりと震えた。
久我を覆うクロノスの残滓が、苦しげな声をあげるのを確かに聞いた。
(ああ……そうか)
嘆息なのか、目覚めの欠伸なのか、覚悟の呼気だったのか、様々な意味合いを含んだ息が、久我から吐き出され、
(俺は罰を受けた罪人かもしれない。足掻いても足掻いても高みには辿り着けない挫折者かもしれない。あの人とは生きる世界が違うのかもしれない。俺自身が音楽を好きだという気持ちなんか、何の意味もないのかもしれない)
『何もない場所』の、湖底から見上げた水面のような空に、光が差し始める。
(それでも、俺は、自分の意志で、自分の進む道を決めるしか、ないんだ)
ずるり。
差し込んだ光に灼かれ、黒い影が苦悶するように身を捩る。
「……そうじゃ」
昇太郎は目を細め、手を差し伸べた。
「そないな気味の悪いもんと、ずっと一緒におったかて、何もええことなんぞありゃあせん。外で、生きて、呼吸する方が、よっぽど有意義じゃ」
昇太郎の言葉に、久我が笑い、彼の手を取る――……
瞬間、世界が、くるりと回った。
8.「おかえり」
踏み出した先に、唐突に見知った顔が現れた。
八つの方向から、ほんの少しの時間差で八人が現れ、顔を合わせる。
「あれっ、みんな。ぽよんすー!」
太助はきょとんとしたあと、いつもの挨拶で場を和ませ、
「……わりと、いつも通りの顔ぶれのような気がするな。そういうものか」
周囲を見渡して飄々とシャノンが言い、
「あ」
翼姫は大好きなあの人の恋人の顔を見い出して、不機嫌な顔を更に不機嫌にしてそっぽを向いた。
「ふむ……それぞれ、役目を果たしてきた、ということかな」
ブラックウッドはここに揃った人々の顔が、どこか晴れやかなのを見て取って穏やかに微笑み、
「……」
ヴァールハイトは翼姫の仕草や表情からすべてを察していたが、特に何を言うでもなく、光の差し込む不思議な空を見上げていた。
「あの光は……久我さんの心に差し込んでる光、ってことなのかな」
志郎もまたヴァールハイトと同じく空を見上げて目を細め、
「……これ、止め方が判らんのじゃけど、どないしたらええんじゃろ」
昇太郎は、美しい音楽を鳴り響かせ続けるミュージック・プレイヤーを片手に途方に暮れた表情をしている。
そして、彼らと同じくこの『何もない場所』に巻き込まれていたらしい――否、久我に呼ばれたと言うべきなのかもしれない――最後のひとり、この一連の事件の根幹とでも言うべき神なる歌い手は、不思議なブロンズ光沢を持つ双眸で一点を見つめ、
「……正登」
小さく、名前を呼んだ。
そこに集った人々の視線が、前方に集中する。
(俺、は)
久我の身体にはもう、ほとんど、あのいやらしい黒い影は残っていなかった。
影は彼からじわじわと滲み出て、彼の足元に黒いわだかまりを作っていた。
(俺は……)
それでもまだ、クロノスの残滓の影響下にあるのだろう、苦しげな表情で久我が首を横に振る。
「久我、お前のほしいものなら、ここだ」
動いたのはヴァールハイトだった。
彼は、神音の肩に手をかけ、その姿を久我に見せ付けるようにしながら、
「欲しいのなら、獲りに来い。そこで突っ立っていたところで、何も変わらんぞ」
静かな、しかしどこか挑発的な口調で久我を呼ぶ。
彼が耳元に何かを囁くと、神音はかすかに笑って頷き、久我に向かって手を差し伸べた。
「還ろう、正登。話なら、幾らでも聞いてやるから」
神音の呼びかけに、久我の身体がびくりと震え、
(神音――……)
泣きそうな声で神音を呼んだ。
(俺は、還りたい、還らなくては。自分で選んで、自分で切り開かなくては。安穏とした思惟の湖に漂うよりは、罪に責め苛まれながらでも現実の大地を踏みしめたい)
思惟の湖底に迷い込んだ人々の、様々な励ましと共感の言葉によって、久我が辿り着いた答えが、それだった。
そこに、確かな意志を感じ、安堵する人々の足元で、
――今更逃げられると、今更、逃げ、今、今更、逃げげげげげげ
あの影がぶわりとふくらみ、牙を剥いた。
緊張が走る。
――そうだ、いっそ、貴様らを苗床にして、
しかし、クロノスの残滓は、妙案を思いついたつもりだったかもしれないが、
「……でてきたな」
「ああ……そのようだ。普通の銃弾より、火炎弾の方が有効かな」
実は彼らは、それを待っていたのだった。
「にどとわるさなんてできねぇようにしてやるっ!」
宙返りをした太助が虎に化け、蜥蜴の化け物のようになったクロノスの残滓に噛みつき、食い千切ると、
「貴様こそ、もっとも憐れな存在だったのかもしれないが、な……」
シャノンの放った火炎弾が、黒い影を無慈悲に焼く。
「『狩る者』たちを怖れさせた不死者の執念……身を持って味わってもらうよ。君は、私の大切なものまで、危機に陥らせるところだったのだからね」
インペリアル・トパーズのごとき金眼を冷たく輝かせ、瞬時に影の間合いへと入り込んだブラックウッドが、鋭い鉤爪を閃かせて影を引き裂く。
――ギ、ィ……ッ
影が低く、軋むように啼いた。
「俺は、あんたのことをよくは知らないが……」
志郎は光を受けて凶悪に輝く大剣を、無造作に振り下ろした。
「あんたがしたことを、許すわけには行かないだろうな」
ばづん!
影が真っ二つになる。
片方は、ぐねぐねと蠢いたあと、じわりと滲むように消えていき、もう片方は、
――おのれ、おのれ……人間ごときが、人間の分際で……ッ!
「どんな人間じゃったかて、テメェよりは何万倍もマシじゃ」
この旧い神の思惑と、彼の埋めた毒によって、親友が苦しめられたことを知っているため、普段の彼からはあり得ないような冷淡さを見せた昇太郎の剣が、躊躇も容赦もない勢いで貫いた。
――ギィ、ア、アアアアアアアアアアァアアァ――……
気分が悪くなるような、断末魔の絶叫。
――おのれ、おのれ……無念だ、無念だ、無念だ……!
ちりぢりに噴き散らかされながら、影が身悶える。
――泡沫の夢に酔う愚かな人間どもめ
――私は消える、だが心するがいい
――終末は近い
――その日に際して、絶望せよ
――私はそれを、世界の果てから嗤ってやろう
――貴様らの手に残るものなど何もないのだと
――思い知るがいい
怨嗟の、呪詛のごとき、影の最後の悪足掻きに、
「あんたいい加減うるさいのよ、イライラする!」
「御託は聞き飽きた、さっさと消えろ」
翼姫とヴァールハイトの手にした拳銃が、同時に影を撃ち抜き、
――ィ、ア、アアァ――……
影を完全に消滅させた。
それが、一年数ヶ月に渡って銀幕市を騒がせ、人々を苦しめたティターンの一柱の、あっけない最期だった。
「ったく、鬱陶しいんだから」
吐き捨て、翼姫が拳銃をホルスターに戻す。
その脇を駆け出して行ったのは、太助と志郎だった。
「くがっち!」
意識を失ったのか、ぐらりと揺らいで倒れ掛かった久我を、志郎の逞しい腕が支え、太助は久我の肩を駆け上がる。
「……大丈夫だ、命に別状はない。眠ってるだけだ……」
久我の様子を確認して、志郎が安堵の表情で言うと、
「……そうか」
ゆっくりと近づき、久我の傍らで膝を折った神音が、静かに微笑んだ。
「皆……ありがとう」
神音の言葉に、皆が、銘々に肩をすくめたり、首を横に振ったり、笑顔で頷いたりする。
神音は褐色の手を伸ばして久我の額に触れ、
「……おかえり」
小さくそう言って、指先で久我の頬をなぞった。
神音の表情は、いつもと同じく淡々としていたが、その中に含まれた安堵の呼吸と、万感の思いとは、この場にいてこの瞬間を共有したすべてのメンバーにも伝わっていただろう。
「さて……では、我々もそろそろ行かなくてはね。まだ、戦いは終わっていないようだから」
眠る久我を、慈愛の表情で見つめたあと、ブラックウッドが悪戯っぽく笑う。
「そうだな、残るはあの怪物どもだけ、か。――もう一息だな」
シャノンが頷き、
「よし、んじゃたぬバス再発進だ! もーちょいがんばるぞっ」
太助はぐっと拳を握って気合いを入れる。
「……わたしも炊き出しに戻らないと。あの人もあいつらも、戦いが終わったら、絶対にお腹が空いたって言うもの。っていうか、こんなところ、もう用もないし」
冷淡に言って翼姫が踵を返すのと、
「そうだった、俺たちの部隊、苦戦してたんだ……早く戻らないと」
志郎が剣を担ぎ直すのは同時だった。
「ほんまじゃ……ミゲルの奴、大丈夫じゃろうか」
志郎の隣に昇太郎が並び、
「では、俺も戻るとしよう……まだ、なすべきことは終わっていないようだ」
ヴァールハイトがそう言った、その瞬間。
ゆらゆらと揺らめいていた『空』が、眼も開けていられないような光を放ち、思わず目を瞑った人々は、次に目を開けたところが、喧騒に満ちた、それぞれの戦場であることに気づくのだ。
――怪物たちの上げる、猛々しく寒々しい咆哮が、空を震わせている。
皆、それぞれに表情を引き締め、自分の戦場へと、戻っていく。
決着まで、あと、もう、少しだ。
――もうひとつ、最後の難関を残しながらも。
――ダイモーンから解放された久我正登が、海辺のコンサート会場の、崩れた音響設備の傍らで見つかるのは、翌日のことになる。
彼は、長い間クロノスに乗っ取られていた後遺症からか、かなり衰弱しており、なかなか目を覚まさず、銀幕市立病院に入院することになったが、経過は順調なのだそうだ。
彼のことを口さがなく言うものも、クロノスに苦しめられた人間の中にはもちろんいたが、それでも、彼が入院している病室には、見舞いに来た人々の姿もあったし、何より、穏やかに眠る久我の傍らには、常に神音の姿があったという。
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クリエイターコメント | 大変お待たせいたしました! 毎度代わり映えのしない挨拶で申し訳ありません。
ともあれ、ご参加ありがとうございました! 渇望を軸にした【ツァラトゥストラ】シリーズの第三場’をお届けいたします。
第三場『ブレイクダウン』の補完ということで、(記録者的には)随分さらっとした内容になりましたが、それでも、皆さんの立ち位置や思いのありようを、なるべく丁寧になぞったつもりです。
皆さんの抱いておられるそれぞれに大切なもの、信念、善意のお陰で、アンチファンとしてクロノスに囚われていた久我正登は、現実の世界に戻ってくることが出来ました。
そのことを、神音と久我に代わって、御礼申し上げます。
皆さんが戻って行かれた戦いに関しては、すでに『ブレイクダウン』において決着がついておりますので、特に申し上げることもありませんが、皆さんがこの銀幕市で培って来られた絆や友愛、強さと言ったものを第三場双方で見せていただき、記録者としても感無量の思いです。
【ツァラトゥストラはかく語りき】シリーズも、次回で最終場となります。一年をかけて積み重ねられてきた思いの結末を、皆さんに見届けていただければ、幸いです。
それでは、ご参加と真摯なプレイング、本当にありがとうございました。 また、次なるシナリオでお会い出来ることを祈りつつ。
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公開日時 | 2009-03-30(月) 18:00 |
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