生きているかぎり、希望は持てる。
死んでしまったら、希望など持てない。
美原のぞみは、まだ夢をみている。
『どなたか、聞いていますか? 私はマイク・ランバス。銀幕市にいます。聞いている方は……見ているでしょうか……あの〈マスティマ〉を』
『これから我々銀幕市民は、マスティマと戦います』
『あれは、絶望そのものです。しかし……』
『我々は、絶望しか持っていないわけではないはずです。お願いがあります。どうか、絶望に駆られることのないように……。どうか、希望を持って……』
コ・コ・コ・コ・カ・かかかかくかココココ……。
モニタの中、映像の中、視界の中で、絶望の権化はゆっくりと『こちら』を睨みつけてくる。目などないのに、はっきり「こちら」を睨みつけてくる。
「さ、行こっか。クロちゃん」
バッキーを入れたガードケージをリュックに入れ、夢宮幽は家を出た。
「……負けるもんか」
空を睨みつけ、彼女は駆け出す。小さな足音と息吹が、やけに大きく住宅街に響く。
にぎやかだった銀幕市には、今、とてつもない静寂が広がっていた。まるでマスティマが、すでに滅ぼしてしまったかのような静けさ。それはどこまでもどこまでも、まるで世界中に覆いかぶさろうとしているかのように、底冷えを呼ぶ寒波となって広がっていた。
「誰か、まだ残っている人はいませんかー?」
鹿瀬蔵人の呼びかけが、わんわんと反響する。手持ちの地図は、赤いマーキングで埋めつくされようとしていた。もう、避難すべき者はだいたい避難したらしい。蔵人はほっと息をついて、手から提げているガードケージに目を落とした。彼のバッキーは、今朝からそわそわと落ち着きがない。
「わかってるんだね、ぶんたん。今日は決戦の日だよ……」
マスティマの身体からは、ぴりぴりと振動のような音を立てながら、毒々しい色の稲妻とプロミネンスが放出されている。ときおり、そのオーラじみたものは、音もない小爆発を起こして、空を奇怪な色で照らした。マスティマが出現した当初は見られなかった現象だ。
今、かれは充分な時間をかけて、充分な力を蓄えたのだろう。その身体から放たれる怪奇な光は、日を追うごとに強くなり――今はご覧のとおりだ。夜さえ明るくしてしまうほど強く発光している。
しかし、かれが費やした「充分な時間」は、銀幕市民が戦闘体勢を整え、作戦を立て、非戦闘員を避難させるにも充分な時間であった。どうしても運べなかったものは、――景色と町並みだけ。
経営しているコンビニは閉めた。青柳誠治は、シャッターを下ろそうとして、やめておいた。背中には、アズマ超物理研究所が新たに開発したゴールデンアロー。手から下げたビニール袋には、ぱんぱんにお菓子が詰められていた。
彼はこれから、避難所に行く。お菓子を食べるのは彼ではなく、同じ避難場所にいる子供たちだ。振り向いた青柳は、空を見上げた。
『リオネは今わかったの。あのマスティマを倒したら、悪いことは「終わる」んだってことが』
終わる。
何日の、何時の、何分だっただろうか。
いやな色の空とマスティマが見える、見事な庭。柊邸の庭だ。黄金のミダスが手入れをしたおかげで、荒れ果てていたこの庭は、バラと緑に満ちた美しい庭園になっていた。庭園の中央には、今日も、死の彫像が立ち尽くしている。
……何日の、何時の、何分だっただろう。
黄金のミダスは、懐から不思議なかたちの砂時計を取り出した。
ちょうど、砂の最後の一粒が、落ちるところだった――。
★ ★ ★
「よっしゃあああ、行くゼ、野郎どもォ!」
波さえ止まった静寂を、ギャリックの号令が引き裂いた。
「碇を上げろ! 帆は……一応張っとけ! アルト、ディーファ、頼んだぞッ! ギャリック号――出航だあッ!」
「「「アイ・アイ・サー、キャプテンッ!!」」」
海賊船ギャリック号は、今日も銀幕市の海に浮かんでいた。だが、ギャリックの号令に船員たちが応えた瞬間、船は空に浮かび上がった。ディーファ・クァイエルの力だ。
「空の上で舵取りとはねェ……ま、気張っていくか!」
空を航行していても、ノルン・グラスの手元で、ギャリック号の舵輪はぎしぎしといつもの音を立てていた。
海と、その上空に起きた異変はそれだけでは終わらなかった。空母と化したダイノランドが、唐突に、いくつもいくつも現れたのだ。空に飛び立ったギャリック号も、いつの間にか完全に空母ダイノランドと見分けがつかなくなっていた。光と色彩を操るアルトの力によるものだ。ギャリック号は海賊船のままであり、ダイノランドもひとつしか存在しない。これは、誰もが見ている幻覚だ。
海上から、ダウンタウン上空から、杵間山から、不意に現れたいくつものダイノランド。
マスティマにとっても、それは幻覚だった。
幻にまぎれて、本物のダイノランドも、一気にマスティマとの距離を詰める。
触手をくねらせ、骨を軋ませて、不気味な音と唸り声を上げながら、怪物は目のない顔でダイノランドを見た。
しゅがるるる、と触手が動いた。
おおおおああああ、とその口が吼える。
そして、地の底を這うような、低い低い音が……マスティマの内側からあふれ出してきた。
「ネガティヴパワーの流れが変わってる! なんかやらかす気だぞ!」
前線でネガティヴパワーの計測を行っていたレイが、無線に向かって怒鳴った。白姫が統括する回線を、その一報が駆け抜けた。ダイノランドに控える作戦参加者たちに、避難所に身を寄せるすべての人に、凍えるような緊張が走る。
「バッキー砲の用意は?」
マルパスが東を見る。
「万端だ! 射程内に入っている。初撃で見舞う手筈だったな。カウントダウンを始めるか?」
「その余裕はないようだ」
マルパスの言うとおりだった。マスティマの触手の先端から、びりばりとまばゆい光が現れ始めていた。幻と、ギャリック号と、ダイノランド本体の数よりも、マステイマの触手の本数は多い。どれくらいの威力の、どんな攻撃を放ってくるかはわからないが、マスティマは「すべての」ダイノランドを一度に叩くつもりだ。
「バッキー砲――発射ッ!!」
「ギャリック砲、撃てぇえええ!!」
マスティマと、この戦いを見守る者には、数あるダイノランドの中のふたつが、光線を放ったように見えた。
白にも金にも見える、目もくらむような光だ。
マスティマは、どのダイノランドを攻撃すればいいか、それで判断がついただろう。だがかれは、攻撃する対象を選ぶ必要などなかった。触手という触手から、血の色の光線を放つだけでよいのだから。
――!!!
ギャリック砲はマスティマに命中する前に「破壊」された。バッキー砲はマスティマに「直撃」しなかった。結論から言えばそうなる。だがしかし、その衝突の瞬間は、銀幕市と避難所のすべてが揺らぐほどの衝撃が生まれた。視界も、カメラからの映像も、真っ白に染まった。誰もが目をそむけて、女と子供は悲鳴を上げた。
「やったか、レイ!?」
『やってない!! ネガティヴパワーが、まだ……!』
「カタパルト隊は準備しろ! ダイノランドは後退だ、早く!」
無線に怒鳴って、フェイファーは上空に飛び立った。北條レイラが追って飛んでくるのを見て、彼は彼女の手を握った。マスティマよりも上を陣取るつもりだ。これから、サンク・セーズが山ほど作り上げたカタパルトが、盛大にムービーボムを打ち出すことになる。
真っ白になった視界の中心で、怒りに満ちた咆哮が上がった。
「おッ、まずい……逃げるぞ!」
「え? ――うわ!?」
ベイエリアの倉庫街で魔法陣を描いている途中だったミケランジェロとクラウス・ノイマンは、作業を中断せざるをえなかった。ミケランジェロはクラウスの襟首を掴み、飛び立っていた。
「ちくしょう! 邪魔しやがって」
バッキー砲とギャリック砲の衝撃波で、吹き飛ばされなかったのが不思議なくらいだ。だが、もう、今は、逃げるより他ない。空の上から落ちてくる、巨大な影があるのだ。
そして、地上で、大きな音がした。ベイエリアの街並みと倉庫街が叩き潰されて、もうもうと粉塵を巻き上げる。マスティマの触手が、肉片が、翼の一部が、バッキー砲によって削り取られて落ちていったのだ。
「ちょっ……バッキー砲、当たったんじゃないの!?」
『マスティマはネガティヴパワーをビーム状にして発射。それにより、バッキー砲の攻撃力は相殺され、40%減少。さらに軌道を+10度強制的に変更されました』
浅間縁の疑問に、白姫が冷静な分析結果を出す。
「よ、要するにえーと……」
『かすっただけということです』
「初撃で仕留められるってわかってたら、みんな作戦なんか立ててねェ。ムービーボム食らわせてやらァ!」
「ん、待ちたまえ」
カタパルトに飛びつこうとした神宮時剛政を、ブラックウッドが制止した。
彼は感じ取ったのだ。彼と〈契約〉した者も、その鋭い感覚がはたらいた。
白と灰の粉塵が収まる前に、やつは動いていた。触手がのたうち――禍々しい光によって、瓦礫も、粉塵も、土煙も、吹き飛ばされた。
「みんな、配置についてるわね? ……来るわ。ジズが」
流鏑馬明日の声は、少し、震えていただろうか。いや、そんなことはない。桑島平は小型カタパルトを握りしめた。
「フン、張っといた結界、役に立っちまうか」
狩納京平は、迫り来る脅威を前に、皮肉っぽい笑みを口元に浮かべる。
彼は振り返った。ルースフィアン・スノウィスとレドメネランテ・スノウィスが頷く。ルースフィアンが、この世のものではない言葉を口にした。京平がバッキー砲発射直後に展開した結界に、ルースフィアンの結界が重ねがけされる。レドメネランテの役目は、その結界を強化することだ。
「クッ……、ブラックホーク隊、一時撤退する!」
月下部理晨はすばやく判断を下した。ヘリの操縦には自信があるし、ブラックホークは機動性に富む。だが、やつらは――認めるのは悔しいが――ヘリよりも小回りが効く。今はつついたスズメバチの巣に、両足にギプスをつけて近寄るようなもの。
ジズだ。傷ついたマスティマは、その傷口から、血のかわりのようにジズを噴出したのだ。それはさながら、光と肉のシールドだった。凄まじいマスティマの叫び声に吹き飛ばされているかのような勢いで、無数のジズがダイノランドに向かってくる。無論、もう、かれらはまぼろしに惑わされてはいない。
それでも、ダイノランドには防衛班による結界や障壁が張り巡らされている。目下の問題は、ジズの大群がマスティマを取り巻いているために、容易にマスティマに近づけないことだ。攻撃はジズに当たるばかりで、マスティマに届かない。
「ムービーボムはだめだ! いや、べつに撃ってもいいけど全部はだめだ! こいつはジズじゃなくてマスティマに当てなきゃなんねぇんだからなー!」
「フェイファーさん、いったん下がって。――みんな、私たちが持ってるムービーボムを! マスティマ攻撃班のために血路を開きましょう!」
「了解だ、美しい班長さん。ほら、野郎どもは早く乗った。置いてっちまうぞ」
明日の号令を受けて、ルドルフがパカパカとダイノランドの地をかく。心★閃★組の近藤マンドラゴラが慌ててルドルフのソリに乗りこんだ。山崎ペガサスがひらりとルドルフの背に乗る。
「土方君、何してる!」
「……!」
乗ろうともせずソリのそばでおどおどと挙動不審だった土方を、近藤が無理やり引っ張り込んだ。ルドルフはばふうと激しい鼻息をついて、ダイノランドから空に飛び立つ。
雲霞のごとく押し寄せるジズの群れは、ダイノランドに近づくと、めりめり音を立てながら、忌まわしい変身を遂げる。翼持つ光球であったかれらの身体が、まるで裏返ったかのようだ。腐りかけた内臓と触手と血をしたたらせる、翼の化物となって、ディスペアーたちは襲いかかってきた。
「ぐああ、気持ちわりィーーーッ!! うおお、来んなー、気持ちわりィーーーッ!」
「ちょっと、樋口さん、ちゃんと狙って撃って……」
樋口智一がわめきながらゴールデンアローを乱射する横で、八咫諭苛南は冷静に小型カタパルトにムービーボムを装填する。いざ、発射――というところで、智一が撃ち漏らしたジズが突っこんできた。智一は後ろに転びかけたが、諭苛南は動じなかった。なぜなら――
エマヌエーラ・モディリアーニとダニエル・リッケンバッカーがそばにいるから。
ダニエルに撃たれてジズがひるんだところに、エマヌエーラが、ざん、と傘を突き出した。異形のジズは、肉塊のような身体にも、牙をびっしり生やした口を持っていた。彼女の傘はその口の中を抉り、ジズは諭苛南と智一の前から消えた。
礼を後回しにして、諭苛南がムービーボムを打ち出す。
数匹のジズが一度に吹き飛んで、肉片になった。
ムービーボムの威力は確かなものだ。だが、これほどの威力があるなら、なおさらマスティマに対して使わなくては――。たくさんあるとは言っても、限りがあるのだ。
カタパルトでムービーボムを放った誰もがそう思った。ハンス・ヨーゼフ、二階堂美樹、柊木芳隆。そしてルドルフと心★閃★組。まだ手持ちのボムを使い切ったわけではなかったが、山崎は安易に使うことを躊躇した。だが、
「おーい、こっちこっち! ボムパスボムパス!」
「あ、はーい!」
つい条件反射のように、パスと言われて山崎はボムを投げていた。
「お、おい、どこに投げてる! ダイノランドのほうに投げてどうす――」
近藤は一瞬慌てたが、ボムの行き先には梛織がいた。
梛織があざやかにオーバーヘッドキックを披露した。シュートされたボムは、ネットではなくジズに命中した。
ばらばらと飛び散っては、黒い霧か、黒い灰のようになって消えていくジズ。
マスティマは――ジズの放出をやめていた。だがそのかわり、明らかに力をためている様子が、ジズの群れを通して見て取れる。
「ィやあーーーッッ!!」
果敢にも、刀でジズに立ち向かう者もいる。岡田剣之進とエドガー・ウォレス、旋風の清左だ。激しい気合を発するのはもっぱら剣之進だ。刀で立ち向かうのは無謀と言う者はいない。彼らは刀のほうが性に合っていると思っているし、刀の力を信じている。
「まともに開きそうな『道』はあるかい!?」
柊木がゴールデンアローでジズを撃ちながら、無線に向かって叫んだ。
彼のそばの葛西皐月がスチルショットを撃った。激しく痙攣して空中に止まったジズを、柊木はすかさず撃ち落とす。
「ダイノランドから見て、5時……いや4時の方向! ボムでだいぶ減ってる!」
柊木の質問に答えたのは、ルヴィット・シャナターンだ。しかしその返答を、柊木だけが聞いていたわけではない。無線はほぼすべての戦闘員が携帯している。
「ようし、その辺に味方はおらんな。『道』を広げてやるわい!」
大天狗の風轟は、もとから飛べる設定ムービースターだけあって、空中での身のこなしが軽い。ルヴィットが見いだしたジズの群れの穴に到達すると、羽団扇を振った。一度といわず、二度も三度も。
突風が吹いて、翼持つ異形はきりもみ回転しながら四方八方に飛んでいった。
「おっ、と!」
槌谷悟郎は、もちろん空を飛ぶことなど初めてで、風轟が起こした風に巻きこまれかけた――が、おかげで偶然ジズの体当たりを避けられた。飛ぶのも初めてだし、飛び道具で何かを攻撃するのも、今までほとんど経験したことがない。
誰かが誰かを撃つという光景を、つい最近まで、映画の中でしか観かけていない。
けれどこの瞬間、悟郎は、ゴールデンアローでジズを撃った。
ジズは死ななかった。
悟郎はひやりとしたが、心配は要らなかった。どこからか飛んできたティモネが、大鎌でとどめを刺してくれたから。彼女はにこりと悟郎に微笑み、ジズの群れの向こうにいるマスティマを、視線を射抜いた。
――マスティマ。壊して、殺して、傷つけられる道と……私たちの中で生き続ける道。どちらかを、選びなさい。
「マスティマ攻撃班、行って! ジズの相手はあたしたちの役目よ」
「はッ、やっとあのクソ野郎に一発ブチこめるんだな。礼は言っとくぜ!」
DDは近場にいた翼竜の背に飛び乗った。それはカサンドラ・コールが身に宿していた妖怪のうちの一匹だ。カサンドラ本人も、すでにグリフォン(これも、彼女の「私物」だ)にまたがって飛び立っている。
マスティマへの攻撃に手を上げた者たちも、何もせずにいたわけではない。娘がジズ攻撃班にいる……そのことが頭の中にあったせいか、新倉聡はジズを攻撃していた。そしてクラスメイトPも、友人がジズ攻撃班にいるから、気になって――というわけではない。持って生まれた巻き込まれ体質のおかげで、やけにジズに狙われていた。マスティマに攻撃したいのはやまやまだが、彼は向かってくるジズを倒すのに忙しい。しかしそんなクラスメイトPも、今回はちゃんと役に立っているのだ。囮として。
「行くかァ、十狼――エルガ! しっかりつかまってろよ、ちょいと荒っぽいからな」
「おう」
「おぃっす!」
刀冴は、守役十狼から預かった黒竜の手綱を引いた。ジム・オーランドとトト・エドラグラも一緒に乗っている。
翼竜の20メートルもの図体はさすがに目と注意を引いたようで、飛び立つなり彼らはジズに囲まれかけた。だが、黒竜は〈神炎〉と銘打たれる業火を吐いて、向かってきたジズを事も無げに焼き払った。
ジズの包囲網を抜け、マスティマを討たんとする者たちは見た。
マスティマは、あの、不吉で禍々しい光を、触手の先に溜めている。びしりばしりと、雷雲の中のように、空気さえも痺れて震えている。
そして、バッキー砲が与えた傷が思いのほか深かったのも、見て取れた。しかし同時に、マスティマの再生能力と生命力の高さも知ることになった。白姫は「かすっただけ」とわかりやすく説明したが、かすっただけでもこれほどのダメージを与えていたというのか。ごっそりと身体の左側面を削ぎ落とされているというのに、マスティマはこうしていまだに空に浮かび……傷口をごぼごぼと泡立たせ……新たに生やしたと思われる、まだ短くて細い、無数の触手をうねらせて……憎悪と殺意の力を、向けようとしている。
――見ておるか、漆。
蘆屋道満は、マスティマごと天を仰ぎ見た。
――この蘆屋道満、最期の一仕事。散らせてやろうぞ、見事にな。
殺してやる。殺してやる。
痛い……痛い……からだが、痛……、
殺してやる、殺してやる、殺してやる。
ううぅお悪悪悪おおおおおおおおおおおおぉぉぉ怨ンンンン!!
「撃ってきます!」
マスティマの思考から自分の思考を引き剥がし、古森凛が声を上げた。無線が、マスティマの叫びにかき消されなかったのは幸いだった。
太い触手の10本あまりの先端が、ジズの包囲網の穴から突入した、70名以上の攻撃班に向けられる。
相殺。
作戦で上がったその言葉が、タナトスの加護を受けた者たちの脳裏をかすめた。
相殺するのだ。
道満はブラックウッドの使い魔とともに、まさにムービーボムを叩きつけようとしているところだったが、すんでのところで使う力を切り替えた。
神の力がどれほどのものか、信頼できるデータはないとマルパスも東も言っていた。だが、やるしかない。ここで自分たちが消し飛んでは、本末転倒ではないか。
向けられた触手の先端が、ばじゃッ、と一斉に、花のように、開いた。
死んじまえ。
★ ★ ★
『この動画は、銀幕市から配信しています。わたしは、臥龍岡翼姫。画質……悪いけれど、見えますか?』
『あの絶望が』
『あれを作り出しているのは、わたしたちと、あなたたち……。わたしたちは、今ここで、あれと戦っています』
『わたしたちは、自分自身と戦ってるのね。……』
『どうか忘れないで。戦っている人がいるということを。……わたしたちが、ここにいるということを……わたしたちは、あきらめていないということを……』
★ ★ ★
アネモネから借りた鍵を、ルーチェは首から下げていたが、戦いが始まってから――いや、始まるずっと前から、気にかかって仕方がなかった。呆然としてから、集中してから、ふと我に返ったとき、彼女はその鍵を握りしめているのだ。
アネモネが生み出した扉によって、銀幕市立中央病院と銀幕市各所がつながっている。ルーチェが預かっているのは、その扉の鍵だ。アネモネは病院のどこかに、隠れるようにして引っ込んでしまった。どこも人でいっぱいだから、彼が安心できる場所はないだろうが。
避難所である九神国にも、その扉によって、直接病院から行ける。
病院には、これでもかというほど、有志のムービースターによって防衛策が取られていた。魔法や説明困難な力によって、結界やそれと同様の障壁が張られている。戦いが始まる前から取られていた処置がほとんどだが、桜夜のように、現在も病院のそばにとどまって、結界を維持している者もいた。
幾重にも張り巡らされた結界や障壁によって、病院の窓から外の様子をうかがうのは難しくなっていた。時どき、衝撃や震動が伝わってくる。攻撃によって吹き飛ばされたジズが、市街のあちらこちらに墜落している音、らしい。
運びこまれてくる怪我人の治療に当たる者は、皆忙しく病院中を駆けずり回っていた。それなのに、院内は奇妙な静けさに包まれている。
どうしても避難所に搬送できなかった患者や、手当てが終わった怪我人は、ヒュプノスの加護によって、絶対的な眠りに落ちているのだ。
「オイ、ここに置いといていいか、コレ」
「え、置いとくって……わ!?」
オウガとしか言いようがない風貌のRDが、レイエン・クーリドゥの前に、のびているアズーロレンス・アイルワーンを置いた。
「この人は……」
「街歩いてたら空から落ちてきたんだよ。なんだか鉄くせえから喰う気にもならなくてな。んじゃ、あとはよろしくやってくれ」
「あ――ちょっと」
RDは振り返りもせずにのしのし歩き去っていった。レイエンは深追いせず、アズーロレンスの容態を診る。腕が折れていた。頭も打っているかもしれない。
「すいません! 誰か、手伝ってください!」
レイエンが声を上げると、たちまち、黒龍火や春日井公彦が駆けつけてきてくれた。
遠くから爆発音が聞こえ、ジズが堕ち、かすかに病院が震えるたび、医療スタッフを手伝っている相原圭の顔は強張った。絶対大丈夫。ここは安全だ。いくつもの力で守られている。眠っている人も、眠っているかぎりは傷つかない。
でも、ベイエリアは、大打撃を受けたそうだ。
「お願い、ちょっと手を貸して」
「あ、う、うん」
朝霞須美に声をかけられて、圭は我に返る。須美と、彼女と一緒に行動しているサキは、けっこうな苦労をしているところだった。ベネット・サイズモアが、須美からヒュプノスの加護を受けて眠りに落ちていた。包帯だらけだ。彼は前線にいたが、ヒーリングやシールドの能力を酷使して疲弊したところを狙われたらしい。
ベネットの呼吸は昼寝でもしているかのように落ち着いているが、包帯には血がにじんでいる。サキは心配になって、顔を曇らせた。
「大丈夫よね? この大きい人」
「ええ、搬送が早かったし、それに意識もあったわ。金魚のこと心配してた」
「金魚?」
「飼ってるんだって、金魚」
須美とサキは、くすりと笑い合った。ベネットのことを馬鹿にしたつもりはない。ただ、ちょっと、かわいいチョイスだと思っただけだ。
怪我人の搬送が早いのは、前線と病院がファンタジーの力で連結されているのもあるが、搬送作業に当たる者同士の連携が取れていることが大きかった。
「やめろ、離せー! 俺は転んだだけなんだー!」
「はいはい、ケガ人は黙ってこっちに来るの」
「それさっきイルカにも言われた! だから俺は転んだだけなんだー!」
「この人お願い」
問答無用で前線から連れてこられた白木純一は、天野屋リシュカから四幻カザネに引き渡された。リシュカの前に純一を助け出したイルカというのは、コーディのことだ。純一は本当に、後ろから奇襲してきたジズに驚いて転んで顔と手をすりむいただけだが、前線にいる人々の「誰も死なせない」という気持ちが強かったばかりに、強制離脱させられてしまった。だが、たぶん、これくらい大げさなのが今はちょうどいいのかもしれない。これほど手を尽くしていれば、手遅れになる者はいないはずだ。
「あら、本当にかすり傷なのね」
「だァら言っただろ――」
治療に当たろうとしたカザネがほっと安堵し、純一がツッコもうとしたときだ。廊下の向こうから、少女の泣き声のような叫び声が飛んできて、カザネの顔にさっと緊張が走った。
「ねえ、バカなの!? そういうこと許さないって言ったでしょ? バカ春! なんで、なんでよぉ!」
新倉アオイが片足を引きずるようにして、ガラガラ移動させられている担架にすがりついていた。担架に乗せられているのは結城元春だ。病院で活動していた者たちは、ふたりの身に起こったことを想像するしかない。しかし、その想像は難くなかった。元春がアオイをかばったのだろう――。
カザネは純一のそばから離れて、元春のもとに駆けつけた。どこからかゆきもとんできたが、元春の治療にすでにカザネや山砥範子ら数人が当たっているのを見て、アオイのほうに駆け寄った。
「案ずるな、すぐ回復させる。それにおぬしもけがをしておるではないか。そこに座るのじゃ」
「やだ、絶対やだ! 元春と一緒にいたいの。絶対護るって言ったのに、言ったのに……」
あたしが護られたのよ。
わっ、とアオイは泣きだして、その場に座りこんだ。落ち着いてほしい、というゆきの真の思惑からは外れてしまったけれど、彼女は、座ってくれた。
「脈拍低下! オペ室に搬入してください!」
「そこまで焦ることはない。魔法やらアイテムやらで止血してからヒュプノスの加護だ。まだ戦いは続いている。負傷者は増える一方だろう。手のかかる処置は、状況が完全に終了してからのほうがいい」
冷静な栗栖那智と、範子の目がかち合った。
「私は行く。紀野を待たせているのだ」
彼は搬送作業の折に通りすがったにすぎなかった。それ以上長くは語らず、彼はジープで待つ紀野蓮子のもとに走って行く。座りこむアオイとゆきに、ちらりと一瞥をくれてから。
範子の目は、次に、カザネを見た。カザネは頷く。範子は無表情でごそごそとポケットを探って、ひとつの宝石を取り出し、元春の手に握らせた。エドウィン・ゴールドマンが作り上げた、高い回復作用を持つアイテムだ。
それから、無表情のまま声を張り上げる。
「どなたか、ヒュプノスの加護をお持ちの方!」
「呼んだか?」
わりと呑気な声がそれに応える。セバスチャン・スワンボートだ。彼は奥のほうで作業している須美をちらりと見てから、元春の容態を見た。
血だらけのその様を見て、ふと、気が置けないベルのことが頭に浮かんだ。彼はマスティマと戦いに行った。いつかここに、こんな姿で、運びこまれるかもしれない。
「――ねえ、あたし、そばにいてやってもいい?」
泣きやんだアオイに話しかけられて、セバスチャンは我に返る。元春の傷は、宝石やカザネの治癒能力で、明らかに良くなっていた。血だらけだが、それは服についているだけで、出血は治まっている。
「そりゃあ、いてやったほうがいいさ。座敷童が一緒なら、なおさらだ」
セバスチャンは微笑した。
どん、と病院が揺れた。
さほど大きな揺れではなかったが、それは、「直接的な揺れ」だった。桜夜が今も維持し続ける桜色の結界に、肉塊がぶつかってきたのだ。
ジズ。
何らかの強烈な攻撃でも食らったのか、ここまで吹き飛ばされてきたようだ。
どん。どちゃ。
ずどん。
ずいぶん多くのジズがまとめて飛ばされたらしく、次々に病院の結界や周辺のビルに激突しては、汚らしく潰れて地面に落ちる。
「おい! 見ろ、病院の前に転がったヤツだ――まだ生きてやがる!」
赤城竜の声が無線から聞こえてきて、病院や市街地の防衛に当たっている者たちは一斉に走った。
最初に病院にぶつかってきたジズは、めぢめぢと折れた翼や潰れた触手を動かして、確かに、起き上がろうとしていた。
「こっちに堕ちたヤツも生きて――わっ!」
病院からそう遠く離れてはいない交差点――そこにはイグネイシャスがいて、瓦礫の中でうごめく触手を目撃した。だが、報告した途端だ。半死半生のジズは、突然起きた大爆発で吹き飛んだ。ジズが墜落したのはガソリンスタンドだったのだ。
「まずいな、火事だよ……」
「あらぁ、うまそやないの。なんや鼻つうんとするけど、いただきますわ」
からんころんと、こっぽり下駄の足音が、イグネイシャスの横を通っていった。火喰いの八重菊だ。「あらぁ、かわいらしい」とイグネイシャスに色目を使ってから、彼女は燃え盛るガソリンスタンドの前に立つ。
爆発に巻きこまれたジズは、すでに死んでいた。黒く霧散するかれの残骸は、黒煙の中にまぎれていく。
そして大火はというと、八重菊がぺろりと平らげてしまった。
こちらはもう問題ない。問題なのは病院の前だ。
「ヒェアアアア、来るな来るな来るなあっち行けーーー!!」
不気味なくらいの無表情で、小嶋雄がジズに豆を投げまくる。彼を笑ってはいけない。彼も病院から死にぞこないのジズを遠ざけようと必死なのだ。
ジズにもまた表情はなかった。凶悪なあぎとがあるだけで、目もついていない。小嶋から豆をぶつけられて、耳障りな咆哮を上げた。小嶋はヒヨコのように震え上がった。だが、づるりとジズが動き出そうとしたとき、赤城と市之瀬佳音が放ったスチルショットが命中した。叫び声すら痺れて凍りつくジズに、佳音はすかさず武器をゴールデンアローに持ち替えて、一撃を見舞った。
「また飛んできてる!」
息つく暇もない。香玖耶アリシエートの、上空からの警鐘。
彼女の言うとおり、新たな手負いのジズが飛んできた。香玖耶が使役する風の精霊が、不可視の壁を作り上げた。病院やその周辺の建物に激突する直前に、ジズの身体はふわりとその飛ぶ速度を失った。
しぎ、ァアアア!
ぼたぼたと赤黒い血を地に降らせながら、醜悪な怪物は牙を剥いた。香玖耶が上空からゴールデンアローを撃ちこむと、ジズは大きくバランスを失って、地面に落ちかけた。
轟音。
それは、ジズが墜落した音ではない。
ジープから阿久津刃がスティンガーを撃ったのだ。
「フン、的がデカイってのはいいことだ」
ジープの助手席にはシグルス・グラムナートがいた。彼もゴールデンアローを構えていたが、撃つ必要はなくなっていた。地対空ミサイルでとどめを刺されたらしく、ジズは黒い塵になって、空気に溶けていく。
ジズがいなくなって、視界が開けた。
「――」
香玖耶が飛び去っていくのを、シグルスは声も上げずに見送った。
「お、なん……だ?」
刃が目をすがめて、呟いた。シグルスは急いで、刃が見ている方向に顔を向ける。ベイエリア、そして海のある方角。
光だ。光が生まれた。
白と……さまざまな色が混じり合った、ものすごい光が……。
死んじまえ。
★ ★ ★
非戦闘員が身を寄せる避難所は、『無害な』大型のムービーハザードだ。そのひとつである〈九神国〉の一画では、ほっとする匂いが立ちこめていた。ハンナが中心になって、盛大な炊き出しが行われているのだ。右京と左京の神威夫妻や、メラティアーニ・サニーニャレウルストが、汗だくになりつつも笑顔を絶やさず、大量のスープとおにぎりを作り続けている。
「なんてシケた顔してんだい。せっかく作ったモンに塩っけが増えちまうじゃないか。ほらほら、笑って。みんな頑張ってるんだから何とかなるって!」
暗い顔の子供を見かけるたびに、ハンナはそう言って豪快に笑った。
霧生村雨は避難所の防衛にも当たるつもりだったが、炊き出しにかかりっきりになってしまっていた。御付の玉綾がおにぎり作りに精を出してしまったのがいけなかったのかもしれない。
「おまえ、もうちょっと形揃えろよ」
「え、揃えてるつもりなんすけどねぇ」
玉綾が握ったおにぎりは、形も大きさもてんでばらばらだ。村雨は苦笑いした。
だが、彼の手も、神威夫妻の手も、ハンナの手すら、ラジオから流れてきた声でぴたりと止まる。
『何が起きた!? 光が……』
ざりざり、ばりっ、ざ、ざざざざざ――。
ラジオは、村雨が置いたのだ。誰の声だったのかもさだかではない。
どうん、と九神国も、揺れた気がした。
炊き出しを手伝い、市民をはげましながらスープとおにぎりを配っていた続歌沙音も、さすがに手をとめ、こくりと固唾を呑んだ。
「……なに?」
「病院に行ってくる」
歌沙音と同じ作業をしていたブルース・吉沢は、まだ配っていないおにぎりの山を抱えたまま、病院に続く扉に向かって走りだした。携えていた無線に、雑音しか入らなくなったのだ。
「――大丈夫だ」
歌沙音は呟く。こんな小さな声が、誰に聞こえているというのだろう。自分にしか聞こえないではないか。
「大丈夫だ、だって、リオネも力を貸してくれてる」
少なくとも、絶望したつもりはない。
「ほら、手を動かす! スープの具が沈んじまうよ!」
「あ、は、はいッ」
ハンナの大声が静寂を裂いた。左京が慌てて、寸胴の中のスープをかき回す――。
★ ★ ★
『お願い。どうか祈って。あなたたちの力が、必要……』
★ ★ ★
死ななかった。たぶん、誰も。
マスティマの、その一撃では。
少なくとも40人ぶんの〈タナトスの加護〉は、マスティマのビーム掃射をかき消した。ネガティヴパワーと神の力の衝突は、鼓膜を破らんばかりの轟音と、目が焼きつきそうなほどの光を生み出した。不思議と爆風や衝撃波は大したことはなく、ダイノランドよりも軽いギャリック号が、(帆を張っていたばかりに)あおられたくらいだった。ジズと、マスティマ攻撃班は数メートルばかり飛ばされたが。
「うおお、すげ……!」
ギャリック号水夫のシキ・トーダは、力のかぎり帆のロープを引っ張った。今はディーファが船のバランスを調整してくれているとはわかっていても、つい船乗りの癖が出たのだ。見れば、その癖に突き動かされたのはシキだけではなかった。ヤシャ・ラズワードも、砲撃手のゴーユンとエフィッツィオ・メヴィゴワームも。マストの上で物見を務めていたウィズが、必死の形相でしがみついていたが、シキが見つめる中で飛ばされていた。
「だぁぁぁ――!」
「ああ、ウィズが!」
思わず叫んだシキの声に、船員がマストの上を見る。ウィズは確かに吹き飛んでいた。海賊たちは肝を冷やし、叫び声を上げかけた――が。
「悪い、オレ今飛べるんだった」
キュキュに飛行魔法をかけてもらっていたので、ウィズは難なく甲板に戻ってきた。誰もが胸を撫で下ろし、近場にいたルークレイル・ブラックが、ウィズの頭をぶっ叩いた。
光も風も、収まっていく。
ギャリック号の乗員は、光が生まれた方向に向き直った。
ゴーユンとエフィッツィオは目配せし、大砲のそばで身構える。
風が、煙を振り払っていく。空には不気味な静けさがあった。
マスティマは――どうなった?
「どうせまだ生きてんだろ……」
剛政はくらんだ目をすがめ、カタパルトにムービーボムを装填した。
光の奔流が消え、触手が見えた――マスティマの巨大な触手の先端は、まだ開いていた。
思ったとおりだ。いや、この思惑は外れていたほうがよかったのだが。マスティマはまだ生きている。
「そこか――食らえ!」
剛政がムービーボムを放った。爆発は、ひときわ太い触手を木っ端微塵にした。
それを皮切りに、温存していたムービーボムの一斉投下が始まる。
マスティマの大きさの前では、ゴールデンアローの攻撃は、針の一刺しにすぎないようだ。鈴木菜穂子は、ゴールデンアローからカタパルトに武器を替えた。
「私だけじゃない、みんな勇者なんです! 一発で消し飛ぶ勇者なんて、聞いたことないですよ!」
ごう、と風を切って、マスティマの触手が伸びてきた。菜穂子はよけずにボムを撃ちこむ。菜穂子が狙った触手を、ヴェロニカも撃っていた。2発のムービーボムを食らって、触手は粉々の肉片になった。びしゃばあ、と菜穂子にマスティマの体液と肉片が降りかかる。
「あ、悪い悪い」
「……いえ……」
ヴェロニカは軽く詫びてから飛び去っていった。菜穂子は……ちょっとテンションが下がってしまった。そんな場合ではないとわかっていても。
ヘリの音が、マスティマに近づき始めていた。ジズは全滅したわけではないが、もはや大群とは呼べない。ウィレム・ギュンターと理晨が操縦する2機のブラックホークが飛んでくる。それに続く5機のヘリは、森理が操っているものだ。
「目標は上からの攻撃にはあまり対処できていないようです」
理晨のヘリに乗る唯・クラルヴァインが言う。
津田俊介は瞬間移動を駆使して、イェルク・イグナティは上空に居座って、ムービーボムを投下し続けている。マスティマのむき出しの脊髄から、黒いような茶色のような体液が噴き出していた。時々わずらわしげに身をよじるが、マスティマは基本的に眼前を飛び回る者を触手で狙っているようだ。
「あまり背中のダメージを問題としていないのかもしれませんが」
「あれだけ血ィ噴いてんだ。無駄じゃあないだろうぜ……ッと!」
ジズが奇声を上げて飛びかかってきた。ほとんど間髪入れず、同乗していたイェータ・グラディウスがブローニングを浴びせる。蜂の巣になったジズの姿は、あっと言う間に遠ざかった。
逆に『目標』は近づいてきている。イェータが念のためブローニングについているため、唯とハリス・レドカインがムービーボムの準備を始めた。
「こちらウィレム・ギュンター。触手の先の発射口を狙いたいところですが、生身で戦っている方々を巻きこみかねません。理晨さん、そちらの行動と合わせます」
「森理だ。話は聞いた。上空から爆撃を行う算段だな。こちらもそれに乗ろう」
「ありがとう。迂回して目標地点に向かう」
上昇するヘリに、一見ディスペアーのような巨大な蟲が道を譲った。ウィレムのヘリに同乗していたチェスター・シェフィールドは、ぎょっとして攻撃しかけたが、それはヒュプラディウス レヴィネヴァルドだった。
図体が大きいためか、マスティマの触手によく狙われている。彼は本来なら、もっと大きくなれた。だが、ゴールデングローブをつけているためか、レヴィが思っていたよりもずっと小さかった。もっとも、最大化できたとしても、マスティマの大きさには並べなかったのではないか。そんな気がする。
ばすん、とその巨体が思いきり触手に打ち据えられた。
リゲイル・ジブリールはまさにその瞬間を見た。自分が殴られたかのような悲鳴を上げて、ウェストポーチからエドウィンの宝石を取り出し、レヴィを助けようとした。
その手を引っ張り、制止するものがいた――。
ユージン・ウォン。
レヴィのそばではまだ触手がのたうっている。ウォンはムービーボムを、カタパルトなしで打ち出した。気の力だ。傷ついた触手が引っ込み、そこでようやくウォンはリゲイルの手を離す。
だがリゲイルは、すぐには飛び出さなかった。
「ユージンさん――」
「奴を助けたいのだろう。俺も行く」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない。さ、行くぞ」
レヴィは墜落しかけているところを、麗火に命じられた『風』に救われていた。地面に激突しそうな者は受けとめるように、風は常に動いていたのだ。
片山瑠意は、マスティマの触手を天狼剣で斬りつけながら、思い出すやり取りがあった。
『司令。マスティマがこちら側に攻撃をしてから、次の攻撃を行うまでの時間と規模の予測は可能ですか?』
『不明だ。しかし「ネガティヴパワーのチャージの時間が短くなるなら、威力も弱くなる」という推論には妥当性があるように思う』
マスティマはあの相殺合戦があってから、一度も光線を放っていない。触手を振り回しているだけだ。
触手の先からのビームは、ある程度ネガティヴパワーを溜めなければ発射できないのだろう。今は溜める余裕がないのか、べつのことに力を割いているのか、どちらかだ。
攻撃班のほとんどが、一度限りのタナトスの加護を使ってしまった。
たたみかけるなら、今しかないのではないか?
「みんな、もうすぐブラックホーク隊がマスティマの真上につく! 一斉拘束だ、動きをとめてやろうぜ!」
そう考えていたのは瑠意だけではなかった。フェイファーの指示が出て、全員がヘリのローター音を探し――マスティマを見据えた。
「傷口……あれは、ふさがった……って言えるのかな……」
マスティマの様子をずっと観察していた吾妻宗主は呟いた。たぶん、無線はこの声を拾わなかっただろう。
バッキー砲が削いだマスティマの傷は、すでにふさがっている。マスティマの回復力が高いというのは、すでにわかっていた。傷つけ、触手を飛ばしても、奇怪な色の体液の噴出はすぐに止まる。俊介とイェルクが地道に開けた背中の傷だけが血を流しているが。
マスティマの風貌は、開戦前と比べると、明らかに変化していた。
触手だらけだ。触手の塊と言ってもいい。かれの傷口は、身体の内側から生えてきた黒色の短い触手がふさぐ。新たに生えたこの触手は、ざわざわと不快にうごめいているだけで、一見攻撃力を持っていないようだ。すぐ近くをかすめて飛んでも、伸びて襲ってくることはない。
ムービーボムやゴールデンアローでダメージを受けるたび、マスティマの容姿は変わった。今や、もとから生えていて、先端からビームを放ってきた触手はほんの2、3本しかない。翼に見えるものも両方もがれている。もっとも、かれは羽ばたきで浮かんでいたわけではないようで、翼を失った今でも、揺らぎもせず空に浮いているのだが――。
「撃てェーーーッ!!」
宗主の物思いを、フェイファーの号令が引き裂く。
危ないところだったが、反射的に指がゴールデンアローの引き金を引いていた。格闘家が繰り出すこともあるとまことしやかにささやかれる、無意識の攻撃だろうか。
――来たな、この時が。
シャノン・ヴォルムスとエリク・ヴォルムスの兄弟が、
――これで、終わりにしたい。
シリル・ウェルマンが、
――もう誰も、何も、手放しとうない。
昇太郎が、
――青い空、かえして。
ディレッタが、
引金を引いたのだ。皆が。フェイファーも、ずっと彼の白い背中を護り続けていたレイラも。
全方位から一斉に、マスティマ目がけて、ゴールデンアローとムービーボムが飛んだ。ギャリック号も、合わせて砲撃してくれたようだ。
マスティマは身をよじらせて、残った触手を狂ったように振り回したが、一斉射撃によって残らず吹き飛んだ。ブラックホーク隊がありったけのムービーボムを投下して、すばやく離脱する。
「ここで……追い討ちでも!」
アルの両眼が輝いた。竜巻が起こり、ルイス・キリングと俊介が作ったボムを巻きこんで、マスティマの「顔」に叩きつけた。
痛い!
ちくしょう、
なにするのよ!
おまえら……てめえら……あんたたち……貴様ら!
痛いよ!
みんなみんなだいきらいだ、
死んじまえ! 死んじまえ! 死んじまえ!
殺してやる。
「ィやッホォ! やったぜオイ!」
クライシスが歓声を上げたのも無理はない。
めシいッ、と怖気が走るくらいに嫌な音がして、マスティマの背骨が真っ二つに折れたのだ。そして、あの顔と呼ぶには疑問が残る「顔」が、ちぎれて吹き飛んだ。レヴィアタンのときとは違って、ちぎれた首は地面に落ちる余地もないくらい、ばらばらに爆ぜていた。
だが、凛は安堵できなかった。
聞こえてくるマスティマの〈声〉は、少しも力を失わず――むしろその憎悪と殺意は、激しさを増しているようだったから。
どくり、と心臓の鼓動音が聞こえた。
どくりどくりと、人々の頭の中で、直接響く鼓動の音。
自分の鼓動ではない。心臓を持たないコーディや白姫にも、心臓がとうに動いていないブラックウッドやウォンにも聞こえたから。
マスティマが……。
びしびしぐちぐちと、胸の悪くなるささやきを発し始めた。無数の線形動物と扁形動物が蠢く音だった。
マスティマが……。
殺してやる!!
無数の色が混じり合うと、濁った灰色になってしまうのだ。咆哮と言ったほうがいい産声を上げて、そんな色の巨人が現れた。それが現れる直前、ほぼ黒い肉塊と言って差し支えない姿になっていたマスティマの「表面」に、男とも女ともつかない巨大な顔が浮かび上がったのを、前線にいる者たちは見た。
「ひと」はベイサイドホテルよりも巨大だった。
視力のいい者が目をこらせば、そしてカメラのズーム機能を使えば、「ひと」が70億匹近い「いきもの」の集合体であることがわかったはずだ。「いきもの」は、今にも捕食しようとするクリオネや、背骨をそなえたヒルや、触手と翼のないマスティマに似ていた。
「あれは、マスティマと呼ぶべきか……それとも、〈レギオン〉と呼ぶべきか」
ブラックウッドが低く呟く。
「やめて! やめてええええええ!」
リゲイルが、断末魔じみた悲鳴を上げた。「ひと」が怒号を発し、その腕を振り上げたからだ。ウォンは彼女を抱き寄せた。見せたくなかったからだ。
銀幕ベイサイドホテルが叩き折られるのを。
「ひと」はまた叫んだ。ホテルの残骸を掴み、ギャリック号目がけて投げつけた。
「よけて!」
明日と、
「よけろ!」
京平が、べつべつの場所で、同時に叫んだ。
「おォもかじ、いっぱァァアアアアアアアアいッッ!!」
ノルンとディーファの必死の舵取りで、巨大すぎる瓦礫はギャリック号の左舷をかすめ、彼方に飛んでいき、そしてアップタウンのどこかに衝突した。瓦礫が飛んでいった軌跡では、ベイサイドホテルのタオルやベッドカバーがひらひらと舞っていた。
「左舷をやられ――」
アストヴィールタ・ウェトゥムアーラの叫びが途切れる。
手が。
「ひと」の手が、唸りを上げて、びしゅるびしゅると「いきもの」の音さえ響かせながら、ギャリック号に迫ってきたのだ。「ひと」はバランスを崩したギャリック号の船首を掴んだ。
ぉ、がァアアアアアアアアアアアアア!!
どすん、どすん、どすんどすんどすんどすんどすん!
「あの野郎ッ!!」
京平の口から、いつだってくわえている煙草が落ちた。
「ひと」が、ダイノランドを目指して走ってくる。
地を揺るがし、何もかもを蹴散らし、海に入って、波を踏みながら!
「ダイノランドを、『それ』で殴るってのかァ、てめぇえええあああああ!!」
彼には見えなかった。「ひと」が握りしめ、振り上げているギャリック号の船首で、何が起こっているか。ギャリックが肩にしがみついていたパイロをなかばむしり取り、
「くぉラァァアアア!! 俺たちの船は、角材じゃねェんだァアーーーッッ!!」
傾いた甲板を走り、船首まで走り、サーベルを抜いて、巨大な手首に斬りつけた。
翼も触手もないマスティマの群れが、ざばんと爆ぜる。
「ギャリック! ギャリック!!」
パイロはほとんど半狂乱で叫んだ。そして――「ひと」の腕に、タナトスの加護によるパワーをぶつけた。凍えそうなほど白い光だった。「ひと」の右腕の半ばが消し飛び、船首とバウスプリットを握りしめていた手が、ばちゅんと爆ぜた。
「うぉ、っく……ちく、しょう……!」
「ひと」の手は、ばらばらになっても攻撃をやめない。
ギャリックの腕に、足に、身体に、首筋に、無数の「いきもの」が咬みついた。
「ギャリィーーーック!」
「団長!」
「お、オヤジーーーーーーッッ!!」
血を飛ばしながら、ギャリックが落ちた。
ギャリックは団員の悲鳴と、「ひと」の咆哮を聞いていた。首に咬みつかれたのが効いたのだろうか、意識が急に遠のいていく。下から吹き上げてくる風を感じる。
――ああ、クソ。でもま、あいつらなら大丈夫だろ。ノルンが舵取りゃ、逃げられる。なんたって、「じそく300キロ」出るらしいじゃねェか、ディーファのおかげで、俺たちの船……。ちゃんと逃げろよ。逃げられるよな。
『「グランドクロス」知ってるか?』
『おれさー、あの映画の海賊団好きなんだよ。主人公食ってんだよね。キャラ立ってるんだ、団員ひとりひとりが』
『銀幕市で実体化してるらしいじゃん』
『見に行ってみてぇわ。ギャリックとか、いるんだろ?』
『おれほんと、あの海賊は傑作だと思うんだよな!』
「……!」
ギャリックに、それが聞こえた。
★ ★ ★
「嘘よ、こんなの……」
縁は、息を呑んだ。「ひと」の右手首が、ほんの3秒後にはもとに戻っていた。すんでのところで武器を失った「ひと」は、結局徒手空拳でダイノランドを殴り始めていた。
大勢のクロノが駆けずり回って結界のほころびを修復しても、ゼグノリア・アリラチリフが、ルースフィアンが、結界を張り直しても、張り直しても、張り直しても、「ひと」は殴り壊し、爪を立てて引き裂いた。
「あれが、人類の絶望……あれが……、だとしたら……ああ、でも……」
ゴールデンアローを下げたまま、原貴志が呆然と呟く。もう、自分の声さえ聞こえない。「ひと」の叫び声は大気を埋めつくし、音という音を呑みこんでいた。
柊木さん……! あれと同じだけの希望が、あるんでしょうか!?
叫んだのか叫ばなかったのか、貴志にはわからない。
「結界が! ふぎゃあ、西側の結界に穴が空いたにゃ!」
クロノのこんな悲痛な声を、いまだかつて聞いたことがなかった。
「ひと」が結界の穴を力任せにばりばりとこじ開けた。そして――ダイノランドを、両手で掴み上げた。
ギャリック号は退避している。海賊船は、もう二度と掴まれない。だが「ひと」は、新しい凶器を手に入れた。ダイノランドを抱えて、「ひと」は、銀幕市のほうを……振り向いた。
「チッ……これまでか? おい、尻尾巻いたほうがよさそうだぜ!」
続那戯が、病院へつながるゲートを見る。とりあえず、ダイノランドからは逃げることができる。彼の視界に、おろおろしているぱくとケトの姿が飛び込んだ。那戯はまた舌打ちすると、ぱくとケトに近づき、むんずとその襟首を掴んだ。
「わあっ、な、ななななにすんだよぅ!?」
「こっから消えろ。そのほうが身のためだ」
「み、みんな頑張ってるもん! ぼぼ、ぼく逃げないんだもん!!」
「ガキが死ぬ必要ァ、ねェんだよ」
那戯は扉の向こうに、ケトとぱくを放りこんだ。
「ひと」が、港に到達した。ダイノランドを投擲するつもりなのか、叩きつけるつもりなのか、さだかではなかった。……次の瞬間までは。
死んじまえ。
そこにいるんだろ。
わかってるのよ。
みんな、死ね。
「ひと」は、銀幕市立中央病院を見たのだ。
★ ★ ★
リオネは、柊邸があった場所に立ち尽くしていた。
「ミダス?」
いまはそこに、コンクリートと鉄筋の瓦礫が転がり、積み上がって、灰色の山を築き上げている。それが、放り投げられたベイサイドホテルの瓦礫であると――神であるからか、リオネには、わかったのだ。くちゃくちゃと、瓦礫の隙間で、マスティマに似た「いきもの」が這っている。
ミダスはこの瓦礫の下にいるのだろうか。タロスは、イカロスは。
リオネは中央病院にいたつもりだった。美原のぞみのそばにいたのだ。レオニード・ミハイロフが、きれいな花束を持ってきていて、のぞみにやさしい言葉をかけていた。
「夢みてくれて、ありがとう」
と。
Soraがそのかたわらで、静かに、儚げに、微笑んでいた。
しかしリオネはいつしか、ふらふらと病院の外に出ていたのだ。
市民とマスティマの戦いが、背を向けていても、彼女には見えた。病院での慟哭と、死にも等しい眠りも。避難所で配られているおにぎりも。「ひと」の出現、ギャリックの落下。何もかもが彼女には見えた。
見届けること、それが彼女に課せられた罰であったから。
皆が築いていたものが――目に見えるものも、見えないものも――壊されていくのだ。
SAYURIが愛したベイサイドホテルは消え、柊敏文の邸宅は消えた。
『こんな夢……いや』
リオネの心に、その声が届いた。
ぽろぽろこぼれ落ちる涙の奥から、声が来る。
『こんな夢……いや』
「ごめんなさい」
リオネは振り向く。
「ひと」が、ダイノランドを抱えて、異様な色の空を背負い、街を歩いている。
金色の光が、爆発が、「ひと」の身体にぶつかっている。ゴールデンアローとムービーボムだ。まだ戦っているのだ。誰もが「ひと」をとめようと、必死になって、戦っている。
「ごめんなさい。リオネが……リオネが、しっかりしてなかったから……まだ子供だったのに……よけいなこと、して……」
『こんな夢、いや』
「おねがい、『リオネの魔法』。ねえ、おねがい」
『おねがい』
「とまって。わたしの魔法よ。わたしの言うこと聞いて。おねがい」
『おねがい、こんな夢、はやくおわって』
「おねがい、もうおしまいにして」
『おねがい、もう、おわってくれるでしょ?』
「もうおしまいよ。最後くらい言うこと聞いて。わたしの命令よ、とまって。おねがい。もうおわって。のぞみちゃんも、みんなも、もう、終わってもいいって、言ってるの……!!」
おねがい!!
う、ううう、ぐ。
ミッドタウンに差し掛かっていた「ひと」が、突然、歩みをとめた。
「なんだァ!?」
「わからないわ……でも、こっちまで手をとめる必要はないのよ!」
「お、おう、そうか、そうだな」
山口美智は一瞬呆気に取られたが、夜乃日黄泉のもっともな一言を受けて、すぐさま「ひと」の腕にムービーボムを投げつけた。まるでフリスビーのような投げ方だったが、あざやかに左腕に命中して、爆発を起こした。
「やるじゃない、おじさま!」
「なっはっ、まだ若いもんには負け――」
しかし、日黄泉は同時に二丁のカタパルトからボムを射出し、2発とも左腕に命中させた。「ひと」がうめき声を上げてよろめいた。左腕が、二の腕の半ばからちぎれて……無数の「いきもの」の群れになって、ぼとぼと落ちていく。
ダイノランドがもがいたように、見る者には見えた。「ひと」の腕から離れ、できるかぎりの速さで離脱する。「ひと」はまたよろめいた。
あ、ああああ、ぐ……。
そして「ひと」は、片腕で頭を抱えて、苦悩するかのように悶え始めたのだ。
★ ★ ★
『聞こえますか? あの、銀幕市の……皆さん』
鈴原抹とマイク・ランバスは、顔を見合わせた。市外からの通信が入ったのだ。おずおずといったふうの、女性の声だった。後ろで子供が叫んでいる。
『夫がアマチュア無線をやっていて……。いまどき珍しいですよね。あ、それで、あの……。子供がどうしても、応援したいって』
「……ありがとうございます」
マイクが応じると、
『ぼくね、「タヌキのしまへようこそ」ちょうだいすきなんだよ! ねー、たすけくんいるんでしょ? がんばってたたかってるんだよね!?』
「うん。そりゃあ、もう」
りんはおが思わず微笑みながら、子供にそう返した。
『あとねあとね、「ぎんがけいじケストラー」もだいすきだよ! ぎんまくしだと、だいきょうじゅラーゴとアレグラがみかたってほんと!? ちょうもえるよね! てきだったのがみかたになるって、ちょうもえる!』
大好き――。
おねがい!!
「……!」
ムービースターが――銀幕市にいる、すべてのムービースターが――1秒にも満たない一瞬だけ、硬直した。ある者はそのまま膝をついた。身体中の力が、消えてしまったような気がして。
そして、すべてのムービースターは、聞いたのだ。
声を。
『初めて観た映画のこと、覚えてるのよ。「ディヴィジョン・サイキック」。だからかなあ、SFアクションがいちばん好きなのよね』
『「ワールド・レアムスグド・シリーズ」、DVD全巻制覇した。やっと制覇した。シリーズ多すぎる。でも後悔してない。大好きだから』
『「繋ぎゆくもの」の実写版があんなにデキよくなるとは思ってなかった。香玖耶たん可愛いよ香玖耶たん』
『ときどき急に最初から観たくなるのよ、「星翔国綺譚」。好きなのかなあ。うん、好きなんだろうね』
『買っちゃったよ、ビデオ版。粒子が粗いのがまたいいんだ』
『だって好きだから』
『明日は映画の日だー。1000円だし、なんか観に行こっか』
『ほんと好きだよねえ』
『それ、面白い? 観せてよ、今度』
『じゃあさ、えっと、今度の日曜日、どうだろう。映画でも……観に行かない?』
『だって好きなんだ』
『きみと一緒に映画でも観れたらって』
『ええ、好きよ』
『だーいすきだよ』
『あなたのことが、大好きなの』
『きみのこと愛してるよ。心から』
『パパぁ』
『ママー!』
『ねえ。あなたは、どんな映画が好きですか?』
『みんなだいすきよ』
ぉぉぉおおおおおおおおおんんん!!
ぅおおおおおおおおおおおおああああああ!!
ムービースターの意識の中に、「ひと」の叫び声がもどってくる。
再び目覚めたかれらは、不思議なくらい、身体が軽くなったような気がした。疲れも、痛みも、不安さえも、消えてなくなっていたのだ。
飛んでいた者は、皆地上にいた。一瞬意識をなくしたときに、落ちたのだろうか。だが、身体のどこにも傷はない。
「ドルフ……ドルフ!!」
ランドルフ・トラウトの視界に、目に涙を浮かべた明日の顔があった。ぽろぽろ落ちてくる温かい雫に驚いて、ランドルフは飛び起きる。
「あ、わ、私は一体――」
「ドルフ、気がついた!? き、急に倒れたから、怪我が……怪我がひどかったんだと思って……」
こんなに取り乱した明日を、ランドルフは初めて見た。
確かに彼は捨て身ではと思えるくらい派手に暴れまわっていて、いくらか傷ついたはずだが、もう、どこにも痛みはない。
「声が聞こえたような……」
「え?」
「何でもありません。そ、そうだ。マスティマは!?」
「ひと」はまだ「ひと」の姿をしていて、そこにいた。ぼたぼたべたべたと、「いきもの」の雨を降らせながら、悶えながらも、右腕を振り回していた。足で街を踏み潰していた。
「マスティマ……、還るときなんだ……」
太助が空と「ひと」を仰いだ。子供なのに、大人びた目で、どこか寂しげな面持ちで。
「たぶん俺たちも。そうだろ。……還してあげなくちゃ。みんなに、『俺たち』を。だってみんな――」
「人の心、なのですよ」
鬼灯柘榴が、ゴールデンアローを「ひと」に向けた。
「――足だ! 足をやれ!」
『声』が聞こえなかったから、というわけではないが、神凪華は前に出て、AKを連射した。ゴールデンアローも持っていたのだが、相手が〈多くにしてひとつなるもの〉であったから、こちらのほうが効率がいい気がしたのだ。血しぶきのように、半壊した「いきもの」が飛び散った。どろどろと溶解しているかのように、「ひと」から「いきもの」が流れ落ちていっている。ダメージを与えられているのかどうか、はっきりしない。
「あァくそ! 誰かムービーボム持ってないか!」
マスティマ攻撃班は、ほとんどムービーボムを使い切っていた。
「あるよ!」
華の後ろに、レオ・ガレジスタが運転するジープがタイヤを鳴かせて急停止した。ムービーボムを持っていたのはレオではなく、同乗していた黒孤……でもなく、黒孤が操る木偶だった。黒孤が助手席に乗ったまま両手をひらりと繰れば、後部座席からカタパルトを手にした木偶が飛び降りて、ムービーボムを放った。
「ひと」の右のすねが、大きく爆ぜた。
ぐらり、と体勢を崩した「ひと」は――
怒りに満ちた叫びを上げて、それでも無理やり一歩進んだ。
誰もがぞっとしたけれど、不思議と、危機感はなくなっていた。「ひと」が片腕を振り上げて、病院を殴りつけようとしているのに。まだ、その身体から、憎悪と殺意がにじみ出ているのに。
――何とかなるわ。だってみんなが、ここにいるもの。絶望といっしょに、希望の私たちが。
「ひと」が病院に向かって手を振り下ろしたとき、幽の目から涙がこぼれた。目にいっぱい浮かんでいたものが、衝撃で、落ちたらしい。
「「かああァーーーッッ!!」」
朔月と晦、二柱の稲荷神の気合が炸裂した。病院に張られた結界が、金剛石の色に光ったのが、霊感の類を持たないムービーファンやエキストラにもはっきり見えた。「ひと」の拳は、病院に到達しなかった。形容しがたい音が響き、結界にぶつかった「ひと」の拳が、腕が、砕け散った。
「いい加減にして! もうやめなさいよ! 殺すのも殺されるのももうたくさん!」
のぞみの病室から、「ひと」の無貌がよく見える。Soraはその顔に向かって、怒鳴りつけた。
「ひと」には、もう腕がない。きっともう、ほとんど歩けもしないだろう。それでも「ひと」は、ネガティヴな感情をぶつけてくる。大きくのけぞって、
「やめて!」
頭突きをしてきた。
結界は当たり前のように、その攻撃も阻んだ。
「もう、やめてったら!」
なぜだろう。涙が出てくる。
「やめて……」
は、とSoraは振り返った。それは、彼女が言ったことばではなかったから。
「おねがい……やめ、て……」
「……のぞみちゃん?」
ベッドに駆け寄ったSoraが見たのぞみは、目覚めてはいなかった。
まだ。
けれど、ずっと表情もなく眠り続けていたはずの彼女は、いまははっきりとうなされているのだ。その唇が動いて、かすかなうわ言がこぼれ出てきた。
「おねがい――」
ずどん。
どぢっ。
ごイん。
がづん。
あああああ゛ぁああああああ!!
足元から、空中から、ゴールデンアローやスチルショットの弾幕を浴びながらも、「ひと」はわめき散らし、頭突きを繰り返す。「いきもの」が何百と潰れ、何千と溶け、吹き飛び、弾けて、消えていく。
それでも殺意と悪意は、そこにいて、同じことを繰り返す――。
「虚しいものだねえ」
崩壊をまぬがれたビルの屋上で、ヘンリー・ローズウッドが嘲笑っていた。
「意味がないことを繰り返す。繰り返すことにも意味がないのがわかってるのに、やめられないんだ。はは。まるで誰かさんを見てるようだよ。……いや、誰かさんたち、か」
「おいッ!!」
高みにいるヘンリーにも聞こえるほど、よく通る声が響いた。
「絶望のくせに、あきらめが悪ィじゃねェか! なァ!?」
来栖香介だ。
「ひと」はその言葉にひるんだのか、自らに疑問を持ったのか、腹を立てたのか……わからない。だが、頭突きをやめて、身をよじった。
目鼻のない顔が、自分を向いた気がした。
「――行け!!」
香介はそこで、バッキーのルシフを、「ひと」の顔目がけて投げつけた。
「ちょ!」
ついついツッコミを入れてしまった秋津戒斗の肩から、ぴょいと彼のシトラスカラーのバッキーが飛び降りる。
ルシフはうまく衝撃を吸収したのか、ぺたりと「ひと」の顔面に張り付いた。
「ひと」がもがいて、首を振った。ルシフは1匹の「いきもの」を道連れに、はるか彼方に吹っ飛んでいってしまった。
だが――。
この光景は、かつて見たことがあるはずだ――。
「クロちゃん!」
「黒刃!?」
「ふー坊――?」
「おいおい、スノー!」
「……アオタケ!」
「ぽこ、行っちゃだめ!」
「リエート……!」
「おい、危ねェぞ、黒耀!」
「銀ちゃん、待っ……」
あれは、銀幕市での最初の大きな戦闘だっただろう。街中のバッキーが力を貸してくれた。いまは――あのときよりも圧倒的に数は少ないけれど、かれらはまた市民のために戦ってくれたのだ。避難所やダイノランドにいるバッキーも、落ち着きなくちょろちょろし始めていた。
小さなバッキーが食べられる「害」は、ムービースターひとりぶんだ。
すっかり痩せこけ、両腕をなくしてはいるが、それでも「ひと」は巨大であり、これだけの数のバッキーで食べつくせそうになかった。
しかし、バッキーたちは、「ひと」の壊れかけた右足に集中して、「ひと」を構成する「いきもの」をむしゃむしゃ平らげていった。アブラムシをむさぼるテントウムシさながらだ。
「倒れる……!」
「マスティマー!」
「危ないわよ。乗って!」
「よし。太助、退こう」
「え、や、やだよ! うぁ!」
「ひと」の足元に、トリシャ・ホイットニーが運転するジープがとまった。とまったのはほんの数秒だった。理月がひょいと太助を抱え上げ、ジープに飛び乗る。ぼたぼたと奇怪な「いきもの」の雨がジープに降り注いできたが、同乗していたキュキュが半分パニックに陥りながら触手を振り回して、ぺちぺち「いきもの」を叩き飛ばした。
「マスティマーーー!!」
太助はしっかり理月に押さえつけられて、もがきながら、遠ざかる「ひと」に向かって絶叫した。
「俺はここだぁぁーーー!! 俺もみんなも、ここにいるんだぁああーーー!!」
「はじめから、ずっと、いっしょなんだよぉおおおお!!」
ばちィん!!
「ひと」は地面に倒れなかった。
内側からその身体が弾けて、無数の「いきもの」が飛び散った。翼も触手も持たないマスティマの群れは、すべてが一斉に黒い霧に変わって、紫や橙や赤のきらめきをうねらせながら、拡がっていった。さながら、暗いオーロラのように。
だいきらいよ。
だいすきなんて言葉に、意味はある?
どうせいつかは、裏切るくせに。
わたしたち/おれたちは、死ねば、誰もが、ひとりぼっち。
だいすきなんて言ってても、いっしょに死ぬことは、できないの。
魂は、たったひとりだけのものだろう。
黒い光の帯は、物質を通り抜けた。病院やダイノランドに張り巡らされた結界も、難なく通過した。そしてムービーファンとエキストラの心に、その感情が、棘のように突き刺さる。
この棘は抜けない。
すべての人の心に、もとから刺さっているものだから。
「でも、少なくとも生きているうちは、誰かと一緒に支え合って生きていけるだろう?」
真船恭一は胸を掴んだ。
「僕は、もう目は背けない……。僕も、マスティマと一緒にいるんだ」
その横で、ティモネが大鎌を落とした。
恭一と同じように、胸に手を当てて、そして……しゃがみこむ。
――私たちを、選んだのね。マスティマ。
★ ★ ★
「はー、なんか静かになったけど? ん? おいこら。こんなときに壊れんなってちょっと」
針上小瑠璃が切り盛りする鍵屋『カミワザ』。その前に、扇風機を装備した柏木ミイラが陣取っている。彼がそう呟くだいぶ前から、『カミワザ』の周辺は静かだった。彼はここだけは護りたいと、避難もせずマスティマとも戦わず、ずっと『カミワザ』の前にいた。
戦況を知るために持ってきていたラジオが、突然雑音しか発しなくなった。ミイラは文句を言いながら叩いたが、ラジオはピーガー叫んでいるだけ。
「銀幕市、滅んだ? ――なワケねーよな!」
わけもなく笑いたくなって、からからと声を上げていると――どう見ても死神としか言いようがない人影が、鎌を揺らめかせながら通りを歩いてきた。
「おッ、なんだァお前はー!」
すかさず身構えて扇風機を構えるミイラに、死神ではなく、鎌の柄についた髑髏がしゃべりかけてきた。
「なーにやってんだよ兄ちゃん。戦いはもう終わったぜ」
「エ?」
「ヘッ、つまんねェ。マジでつまんねェェェ。フン、終わっちまったのさ。ま、おめっとーさん! せいぜいこれからもお元気で! ヒ、ヘヘヘヘヘ――!」
死神ダスト本人は、結局一言もしゃべらなかった。
上機嫌なのか不機嫌なのかわからない髑髏の哄笑が、『カミワザ』の前から遠のいて――
「そっか。終わったんだってさ。……で、勝ったのかな?」
ミイラはバッキーの粗塩に、にっと笑みを投げかけた。
★ ★ ★
ぺたん、とその場にへたりこむリオネの視界が、ふっと暗くなる。
顔を上げると、ミダス、イカロス、タロスの三柱が、神子を見下ろしていた。
「ミダス……けがしてなかったんだ。よかった。……おわったんだよね?」
死の神の遣いは、何も言わない。彫像のように黙しているだけ。
「なんでだろ。リオネ、すごく、疲れちゃった……よ……」
くた、と倒れかけたリオネを、すばやくタロスが受け止めて、抱え上げた。ミダスは静かに懐から砂時計を取り出す。
さらさらと、錆びついた金色の砂が、上から下へ落ち続けていた。
イカロスは腕を組み、どこか勝ち誇った顔になった。
「私の言ったとおりだったな」
確かに、そうだ。
銀幕市の空は、すっかり見晴らしがよくなって――
「だが、青空では、ないな」
タロスが突っ込み、口の端にうっすらと笑みを浮かべた。
ミダスが、鼻でちいさく笑ったようだった。
空は、きれいな橙色だ。
『マルパス・ダライェルより、銀幕市民へ。マスティマおよびネガティヴパワーの完全な消滅を確認した。……被害は、小さいとは言えない。だが我々は、希望を持って挑み、絶望を鎮めた。我々の勝利だ。――ご苦労だった。――ありがとう』
マルパス・ダライェルは、久しぶりの「放送」を終えて、振り返った。その視線の先に、柊がいて……SAYURIがいる。
何も言わずに、SAYURIは柊の腕を取った。柊もまた、何も言わなかった。
★ ★ ★
「うー……ん……」
避難所のそこかしこで、ため息と声が上がる。
ヒュプノスの加護によって眠りについていた人々が、目を覚ました。その中に、冬野陽杞と、その母親もいる。陽杞は目をこすって、枕元にいたバッキーのくおを撫でた。
「ママ、ハルくん、すごいゆめみたよぉ」
「うん、ママもだよ」
「ますてま、もういないー?」
「うん、いないんだって。やっつけたんだって」
「ほんと?」
陽杞の顔が輝いて、そして――もっと輝いた。
「まーちゃん! まーちゃんだ!」
かれは歓声を上げて、避難所に現れた冬野真白に抱きついた。真白は彼を抱きとめて、屈みこむ。
「えへへへ、ますてま、もういないんだって!」
「うん。うん」
「あれえ、まーちゃん、ないてる?」
「うん」
「なんで?」
「わからないの。でもどうでもいいよ、こんなの。ハルくん、大好きよ。本当によかった。大好きよ」
「えへへ。ハルくんも、まーちゃんのことだーいすきだよ!」
〈了〉
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