★ Me And Bobby McGee  ★
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
管理番号96-1324 オファー日2007-11-25(日) 22:07
オファーPC レナード・ラウ(cvff6490) ムービースター 男 32歳 黒社会組織の幹部候補
ゲストPC1 ユージン・ウォン(ctzx9881) ムービースター 男 43歳 黒社会組織の幹部
<ノベル>

「羅英傑(レイモンド・ロー)。俺はおまえを信じている」
 レイを呼び出したのはレイの直属の上司であり、レイが絶大な信頼と尊敬とを寄せている敏腕刑事だった。その彼が、今、デスクに深く腰掛けた姿勢のまま、深々とため息を落としている。
 レイはデスクの前で直立したまま、上司が困ったように、それでいてとても静かな声音でぽつりぽつりと落としていく言葉の端々を拾い集めた。
「――おまえも聞いただろう。……例の汚職の話だ」 
 煙草を吹かしながら、いかにも言い辛いことを話しているのだとでも言いたげな顔で、上司はそこで一度言葉を切り、まだ火を点けたばかりの煙草を灰皿で押し消して目をデスク上の書類に落とす。
 レイの黒い目は、どこか逃げ道を捜そうとしているかのようにも見える上司の目をまっすぐに捉えようとする。
 署内は慌しい喧騒で満ちており、耳を澄まさなくては相手の声をうっかりと聞き漏らしてしまいそうなほどだ。にも関わらず、今、レイの耳に入ってくる上司の声は、まるでイヤホン越しに聴かされてでもいるかのように鮮明だ。
 ――とある筋から、おまえが関与しているらしいという情報を
 ――――もちろん、俺はおまえを信じているんだが
 ――上層部が調査を
  ――証拠が揃っているらしい
 表情を歪め視線をレイから外しながらぽつりぽつりと落とす上司の顔は、レイが信頼と尊敬とを寄せていた男のそれではないものとなっていた。端々に「おまえを信じているんだが」と挟む上司の声には、その言葉とは裏腹に、レイを避けようとしているのが弱く滲み出てもいる。
「……何かの間違いです」
 拳をかたく握り締め、レイはそう言って唇を噛む。
 実直な性格で不正を赦すのを嫌う羅英傑という男は、その信念ゆえに刑事職に就き、そして自らの信念をただまっすぐに活かし続けてきたのだ。
 ここ最近、とある犯罪組織と署内の何者かが癒着しているらしいという噂があるのは、レイも随分前から耳にしていた。それは麻薬や人身売買、臓器売買といった類はむろんの事、殺人やそれをほう助するような行為も当然のように行っているような組織だった。
 彼らと癒着している何者かは、押収品である麻薬や銃器を彼らにそのまま流し、その見返りとして、多額の金銭を受け取っているのだという。――むろん、それはあくまでも噂に過ぎない。正義を重んじ、これを信じるレイにとり、よもや志を同じくしているはずの同胞がそのような真似をしているはずがないと、そう強く信じていたのだ。
 が、今、その疑いが自分に向けて寄せられている。他ならぬ、レイ自身に向けて。まして上層部はもう既にレイの身辺を調査し終えて、いくばくかの証拠をも揃えているのだという。
「俺は潔白です、証拠など出てくるはずもない。もう一度調査を……! 俺にはやましい部分などひとつも」
「おまえの性分は署内の誰もが把握している。むろん上の連中もだ。”そんなはずはない”。初めに情報が入れられたとき、誰もがそう思ったさ」
 上司はレイの言葉を遮るようにして口を挟み、今度はまっすぐに、レイの心の奥底までをも見据えるような眼光を投げかけてきた。「調査は数度にわたり行われた。その結果が、これなんだ」
「そんなはずは!」
 上司のデスクを両手で叩き、レイは半ば叫ぶように反論する。が、その言葉はただちに遮断された。
「ともかくもだ、レイ。おまえはしばらく謹慎していろ。……おって連絡する」
 言い捨てて、上司はそのままレイに背を向けて窓に顔を向けた。長年の付き合い上、レイは彼がそういう態度を示すということが何を意味しているのかを知っている。すなわち、上司はもうこの後レイの話に耳を傾けてはくれないのだということを。思索に耽っているのか、それとももっと単純に聞こえないふりをしているだけなのか、ともかくも、上司はもう是とも否とも返してくることはない。
 口を開き、けれど、レイは吐き出しかけた言葉をそのまま無理矢理に飲みこんだ。血が滲むのではないかと思われるほどにかたく拳を握り、重くきびすをかえして自分のデスクへと足を向ける。署内にいる全ての人間たちの目が自分に注がれているような気がした。しかしレイはそれに怯むことなく胸を張り、顔をきちんと前に向けるようにと努めた。何一つとして恥じ入ることはない。果たしてどんな誤りを受けたのかは、上司の言からして察することが出来る。
 つまり、まるで覚えのない罪状が、今、レイの前に突きつけられているのだ。しかも、その罪科が間違いなくレイに向けられたものだと証明するためのものも揃えられているのだという。
 デスクに戻り、私物を簡単にまとめてカバンの中に放り込む。日頃からきちんと整理の届いたレイのデスクは、皮肉にも、こんなときにまでも便利良く、私物をまとめるのにもさほどの時間を要さない。それは瞬く間に済んでしまった。
「休暇か、レイ」
 誰にも悟られぬようにと気をくべながらも、しかしやはり内心ひどく気落ちしていたレイの名を呼びつつ、割って入って来たのはレイが懇意にしている同僚だ。レイは横目に友人の顔を検めてから、腹の底で小さな息を落とす。
「エリック」
 許志偉(エリック・ホイ)はレイの視線を受けて小さく肩を竦めて笑い、「眉間に皺が寄っているぜ、羅英傑」そう言ってレイの腕を軽く叩いた。
「妙な誤解を受けちまったみたいだな。――でもまあ、前向きに考えてみるこった。休暇だぜ、レイ。おまえのこった、謹慎なんて言われれば本当にくそまじめに謹慎するつもりなんだろうが」
「当然だ、エリック。俺はひどい誤解を受けている。これを解消させるために今の俺が出来ることといえば、しかるべき正しい答が出るのを待つことだけなんだからな」
 言って椅子を立ち、デスクを後にしようとしたレイを、エリックは小走り気味に追いかけてきてさらに言葉を続けた。
「おまえの生真面目な性格は皆が知ってるさ。おまえが汚職なんざ出来るはずがねぇ。それはいずれ遠からずちゃんと明らかになるだろうさ。それよりもだ、レイ。この後ヒマならオレと酒でも飲みに行かないか?」
「気分じゃない」
「そうかたいことを言うなよ、レイモンド。むしゃくしゃしてる時にゃ一杯ひっかけて寝ちまうのが一番だ」
 断ろうとするレイに笑って、エリックは上着から財布を取り出し、その中から名刺を一枚抜き取る。そしてそれをレイに差し伸べて、受け取るように催促する。
 レイが渋々ながらそれを受け取ったのを確かめる間も、エリックは常に笑みを浮かべていた。
「住所はそれに書いてる。オレの名前を出せば誰かしら相手してくれるだろうから、誘っといてなんだが、悪いんだが先に行っててくれるか」
 首をすくめそう口にした友人の言に、レイは小さなため息をひとつ吐きながらもうなずいた。
「一杯だけだ」
「分かってるって」
 それじゃあ後で。そう言い残し、エリックは忙しなくどこかへ去って行った。賑わう廊下の向こうへ姿を消した友人の背を見送って、レイはひとり、渡された名刺に書かれてある文字を追った。それは光沢のある黒い、そしてシンプルな名刺だった。そこにはシルバーの文字で店名らしいものと、あとは住所だけが記されている。電話番号も、むろん、URLやメールアドレスなどといったものも書かれてはいなかった。レイは一瞬、ほんのわずか眉をしかめはしたが、しかしそれは友人が紹介してくれた店でもある。それを不審に感じるなど、友人に対しても失礼にあたるというものだろう。
 羽織った外套のポケットに名刺を突っ込んで、レイはそのまま署を後にした。横目に、こちらをちらちらと見ている見知った人間の顔がいくつか見えたが、気にするのをやめた。彼らがなにを囁きあっているのか、――確認するまでもない。
 ポケットに突っ込んだ片手をかたく握り、あらぬ誤解に対する屈辱や悔しさ、そういったものを堪える。
「……いずれ、すぐに解けるさ」
 ひとりごちて、愛車のドアを強くしめた。

 ◇

 名刺に記されていた住所はレイがそれまで私用では向かったことのない場所だった。
 繁華街の中心近く。ビルが寄り合い立ち並ぶ、見目に派手な土地。そのビルのひとつの地下が、記されていた住所が示していた場所だ。
 階下へと続く細い階段を下り、ほどなく現れた重たげな黒いドアを押しやる。ひやりとした温度を放つそれは、とてもではないが”たまたま通りかかっただけの新規の客”を快く迎え入れてくれそうな雰囲気ではない。それはレイに対しても同様で、ドアの向こうに広がった薄暗い空間も、すべてが、初めて訪れる来客を拒絶していた。
 背中でドアが重たげな音と共に閉じたのを耳にとめて、レイは一度足を止めて広がった店の中を一望する。
 ぼんやりと点るオレンジ色の小さな光源。流れているのは古いジャズ音楽だ。それが店の奥のジュークボックスから頼りなさげな音を鳴らしている。フロアは壁やしきりの無い、すとんとした空間だった。全体的に灯りとなるものが少なめになっているせいか、奥の側を窺うには少しばかり気を張らなくてはならない。ビリヤード台がいくつか見受けられる。その内のふたつが使用されていて、そこにはそれぞれ、一見して柄の悪そうな印象のある男と女がいた。彼らの目は一様にレイに注がれており、レイは居心地の悪さを覚え、やはり店を後にしようかと思い立ち、きびすを返しかけた。が、その足はレイの肩を叩いた何者かによって留められ、レイは踏み出しかけた歩みを止めて肩越しにその相手を検める。
「初めての客だね。急いでんのかい? トイレならそっちじゃなく向こうだぜ」
 壮年の、不精ヒゲの男だった。居丈の大きな、見るからに頑強そうな。
 自分よりもいくぶん背の高いその男を見上げ、レイは毅然とした面持ちで口を開ける。
「友人の紹介で来たんだが」
 言いながらエリックから預かった名刺を男に示す。男は「紹介?」片眉を跳ね上げて、改めてレイの顔を見据えた。
「お友達の名前はなんてんだ」
「エリックだ。エリック・ホイ」
「――あぁ」
 うなずくと、男は後ろ手にカウンターを指差し、あごをしゃくってレイを招く。
「何がいい? なんでもあるぜ」
「ビールでいい」
「ビール? ”つまみ”はどうする?」
「……つまみ?」
 男のその口調は妙に含みのあるもので、レイは男の顔をねめつけながら静かにそう問いた。男は笑ってレイの肩に軽く手を置き、口を耳元に寄せてそっと囁く。「エリックの紹介なんだろ? 分かってるぜ」
 間を置かず、奥のビリヤード台を占拠していたグループの中のひとり、白髪頭の初老の男が「兄さん、一緒に呑もうぜ」そう声をかけてきた。入れ違いに、おそらくは店の店員かオーナーか、そのような位置にあるのであろう不精ヒゲの男は静かにカウンターの奥に身を引いた。白髪の男はいかにもそうと知れるような高価なスーツに身を包み、丸氷とウォッカの揺れるグラスを口に運びつつ、鋭利な眼光をやんわりと笑みの形に歪めている。手招きしているわけでもないのだが、その視線から、彼がレイを近くに呼び寄せようと考えているのが窺える。レイは店の外に向かいかけていた足をそのままとって返し、その男の傍へと進めた。
「エリックの連れだって?」
 男はレイを前にするなりそう言って、グラスの中身を一口に干した。そして空になったグラスを間近の女に突き出し、女は黙したままそれに酒を注ぎいれる。ついで、男が「この兄さんにもグラスを」と指示したのに応え、別の女が新しいグラスをひとつレイに差し伸べた。
「……あなたは?」
 グラスを受け取って、その中に注がれるウォッカをちらりと見る。注ぎいれているのはレイよりも年若い女で、メイクのせいなのか、あるいは照明による影響なのか、やけに挑発的な笑みを唇にのせてレイを上目に見ていた。
「わたしはこの店の常連でね。――エリックはまだ来ないのかな?」
 男はそう言いながら視線をレイから外し、薄暗い店の、つい今しがたレイがくぐってきたばかりのドアに向けた。つられてレイもそちらに目を向ける。
 ジュークボックスから流れていた曲が終わり、先ほどの不精ヒゲの男が新たに曲を選択して入れる。ややの間をあけて流れてきたのは女性シンガーによる古いロックだ。どこかで聴いたことのあるような気もするそれを耳に流しながら、レイはその時、おりしも静かに開かれ始めたドアに目を細ませた。
「――噂をすればなんとかとかいう言葉があったかな、たしか」
 白髪頭の男が低い笑みをこぼす。
 どこかおそるおそるといった風にドアを押し開けたのは他ならぬエリックで、かれはドアから顔だけを入れて店の中を見渡し、そこにレイと――おそらくはレイの後ろにいた白髪の男を目にとめたのだろう。瞬間、何事かを言いたげに口をぱくぱくと上下させた。照明のせいか、その顔色はひどく蒼白としているようにも見える。
「許志偉、友を待たせるとはひどい奴だな」
 白髪の男が低く喉を鳴らしているのが背中ごしに伝わった。店の中にはさわさわとした揺れが生じ、誘われたように、エリックがドアから一、二歩、踏み入った。
 ドアが静かに閉じて、場には再び気だるげな薄暗い空気と古いロックだけが残された。
 エリックが歩み寄って来る。ひとつを歩むごとに、その顔はドアを開けたときとはまるで別人のような、どこか酷薄めいたものへと変じていく。
「待たせちまったな、レイ。ここはオレのおごりだ、好きなだけ呑んでくれ」
 言って、エリックはレイのすぐ隣で足をとめた。片手で軽くレイの肩を叩き、横目に薄い笑みを浮かべている。
 レイはエリックの顔と、――そうして、エリックが踏み入ったときから店の中に漂い始めた空気の奇妙さを訝しく思い、グラスをビリヤード台の端に置いた。
「しかし……まさかおまえがヤバいとこと繋がっていたなんて、誰も、想像もしてなかっただろうな、レイ」
「俺は違うと言っているだろう!」
 弾かれたようにそう返し、肩に置かれたままのエリックの手を払いのける。しかし、対するエリックはレイが見せた咄嗟の怒気をどこか楽しむかのように頬を歪め、払いのけたレイの手を逆に掴み取ってレイの顔を覗きこんできた。
「いいや、おまえだ。おまえが”犯罪組織癒着していた”んだ、レイモンド・ロー」
 言って哂うエリックの顔は、署内で見る彼の顔ではなくなっていた。
「エリック」
 友の名を呟いて目を見張る。「……おまえ、まさか」「おまえは犯罪組織と癒着していた。それが署に発覚するのを恐れ、――ああ、そこからさらに後ろにあるものを守るため、でもいいか。……組織の連中と接触していた現場の人間を皆殺しにするんだ」
 言いかけたレイの言葉を遮って、エリックは大きく顔を歪めた。同時に上着の中から銃を抜き出し、それを後ろ手に構えて一発、次いで間を開けずに一発。薬莢がふたつ床に転がる音と、のぼったのは女の甲高い悲鳴だった。
 エリックの肩越し、後ろのビリヤード台の傍で、若い女と若い男とが物も言わずに卒倒する。ふたりとも眉間を貫かれ、おそらくは即死だっただろう。レイは彼らの一瞬にして変わり果てた姿を検めて、その視線を急ぎエリックの顔へと向けなおした。が、エリックは既に続けて三発を撃ち終えた後で、無精ヒゲの男、レイに酒を注いだ女が転がり、それに白髪頭のあの男が腕を押さえて表情を歪めエリックをねめつけていた。
「……どういうつもりだ、エリック」
 男が低く唸る。エリックが撃ったのは男の利き腕だったのだろう。おそらくは腱が傷つき、銃を構えることも困難になったのだろうと見えた。「貴様……まさか裏切るのか」
 苦痛に表情を歪めながら言った男に、エリックは酷薄な笑みを湛えてわずかに首を傾げた。
「悪いな、阿哥。オレは初めからあんたたちの仲間になっちゃいないんだ。いろいろありがとうよ」
 言い捨てて、エリックは再び銃を構える。白髪頭の男の眉間を狙い、ゆっくりと引鉄に指をかけた。
「エリック!!」
 気がつくと、レイは、弾かれたように飛び出して白髪頭のその男の前に立ち、庇うように両手を広げてエリックの顔をねめつけていた。自分の銃は署に置いたままだ。――謹慎を言い渡されたのだ。無理もない話ではあるのだが、今は丸腰である自分がいっそ呪わしく思えた。
「どけよ、レイ。おまえは一番最後だ。……ここにいる連中全員殺して、最後にてめえの頭を撃ちぬくんだ。――だからもう少し待ってろよ」
 片頬を吊り上げて哂うかつての友人に、レイは自分の内の何かが煮えたぎってゆくのを感じた。
「エリック!!」
 叫び、床を蹴る。同時にエリックが引鉄を引き、弾道がレイの肩を抉った。が、構わずに伸ばしたレイの腕がエリックの手を弾き、弾は誰に当たることもなく壁に穴を開け、煙を吐く。
「おまえ……っ!」
 沸き起こるものが何と言う名の感情であるのかも知れず、レイはそのままエリックの首に手を回し、力任せに引き倒そうとした。熱をもった激痛になど構っている余裕もなくなっていた。
 が、その時、
「……ッガ!」
 小さな呻きを吐いて、エリックが苦痛に顔を歪めた。力を失せて崩れたエリックの向こうに見えたのは、黒衣に身を包んだ隻眼の男の姿だった。
「ウォン!」
 白髪の男が男の名を叫ぶ。それと同時、エリックの顔がたちまちに恐怖に歪み、射抜かれた片足を押さえつつ、現れた男を確かめようとしているのか、ゆるゆると肩越しに振り向いていた。
 レイはエリックへの怒気ゆえに切れ切れになった息を抑えつつ、ウォンと呼ばれたその男の姿を検める。
 黒衣を身につけた長躯の壮年。灰色がかったプラチナブロンドの頭髪と、両目を覆うのはサングラスだ。だが、それでもはっきりと知れるほどの大きな傷がその下に残されている。
 手には一丁の拳銃。残る片手にはダビドフを持っていた。彼はそれをなんとはなしに口に運び、薄暗い空間の中、一筋の紫煙を吐き出す。
「ユージン・ウォン……!」
 エリックの声は震えていた。その腰は既に及び腰で、すぐにでもこの場を逃げ去りたいと考えているであろうことが容易に知れる。
「ユージン……ウォン」
 レイもまたその名を呟く。それに応えるように、ウォンの顔がレイの方へと向けられた。その目がどういった色を映しているのかは、サングラスに隠れて窺いようもない。
「ウォン、エリックが裏切りやがった!」
 背中で男がウォンに向けて口を開く。ウォンはまるですべてを承知しているかのように片手を持ち上げて応える。
 次の瞬間、レイはエリックの手に捕えられ、ウォンに向けるための盾とされていた。逃れようにもがっちりと固定され、それを逃れることは容易ではない。まして射抜かれた肩が烈しい熱を帯びており、レイの意識はゆっくりと手放されようとしていたのだ。
 レイの背中に全身をすっかりと隠し、エリックはじりじりとドアに向けて移動する。そうしてほどなくそこに辿り着くとすぐにレイを放り出して階段を駆け上がっていった。足を押さえ、それでも懸命に傾斜をのぼっていく。ウォンは無言の内の再びそれに照準を合わせ、厭うこともせずに引鉄を引いた。弾はレイのすぐ脇を奔りエリックの背中に吸い込まれる。エリックの苦悶がレイの耳に触れ、次の瞬間、階段を滑り落ちてくる金属音が聴こえた。
 自分も腹を押さえ、階段を滑り来たものに目を向けた。レイの目に映ったのはエリックが手にしていた拳銃で、しかもそれはレイの足もとのすぐ傍にまで滑り寄って、そうして止まった。
「それを手にすれば、その瞬間におまえも排除すべきものと見なすが」
 拳銃に目を落としたレイの思考を読んだのか、ウォンが静かに口を開く。その声が降ってきたのを耳にとめて、レイは瞬間背筋が凍りつくような感覚を得た。弾かれたように顔を持ち上げてウォンの顔を仰いだが、ウォンの顔はサングラスによって遮られていて、その面立ちを窺う術はない。
 ジュークボックスから流れる歌が薄暗い店内に流れて広がる。転がっている数体の死体、呻く男の声、ゆらゆらと揺れる小さな明かり。その中で激痛に意識を手放しそうになりながらも、それでも懸命に足もとの銃を拾おうと機を窺っている自分。それはまるで滑稽な映画の一場面のようにも思えた。
「……エリックを追わないのか」
 口を突いて出たのは自分でも予想だにしていなかった問いかけだった。否、確認とでもいおうか。
 眼前にいる黒衣の男は、紛れもなく堅気の人間ではない。そもそもこの店にいた連中のすべては堅気の人間ではなかったのだ。ならばあの店員が言った”つまみ”とは麻薬や、そういった類のものだったのかもしれない。全ての要素がひとつの結果へと収束していくのを、ふとした拍子に痛みで薄らいでしまいそうになる意識を揮わせながら、レイは唇を噛む。
 ウォンはレイの問いかけに、わずかほどにも身じろぐことをしなかった。窺えぬ視線は、けれどもそれでもはっきりと知れるほどに鋭利な切先をもっていた。
 射抜かれれば、まるで麻痺したかのように、全身が強張ってしまう。まして、たった今目にしたばかりの、ウォンという男の銃を扱う腕は尋常ではないものを感じさせた。――ほんの針の穴ほどの幅しかなかったはずの空間を、ウォンはまるで縫うようにして撃ち放ったのだ。そうして当然のように的に当てた。おそらく、”その瞬間に排除する”という言葉は決して脅しなどではないだろう。事実、その瞬間にレイは殺される。それは予感ではなく、むしろ確信に近い。
「放っておいてもいずれ遠からず結果は出るだろう」
 静かな、揺らぎのない声でそう応え、ウォンはふいにサングラスを外してまっすぐにレイを見据えた。その眼光は、思いもかけず、静謐な空気を湛えた揺らぎない水面のそれを思わせるような青だった。だが、そこには一筋ほどの感情の断片すらも浮かんではいない。まさに、万全たる静寂ばかりがそこにある。
 ウォンの手の中にある銃口は、今はまだレイを定めていない。空気は緊張の色を浮かべてもおらず、冗談のようにジュークボックスが歌を吐き出している。
 レイはしゃがみこんだ姿勢のまま、しばらく――それでもたぶん数秒、ほんの一分にも達してはいなかった、ごく短かな時間であったのだろうが、それはやけに長く感じられた――ウォンの、澄んだ水面のような視線を仰ぎ見ていた。が、毅然と唇を噛みしめて、エリックが落としていった銃に指先を伸ばした。
 レイがそれを掴み取るのと、ウォンが銃口を持ち上げてレイの眉間を定めるのとは、おそらくはほぼ同時であったはずだった。が、レイがそれを構えるより先に、ウォンの銃口が凶弾を生み出していた。それはまっすぐにレイの眉間を目掛け――否、わずかに弾道を逸れてレイのすぐ脇、階段に火花を散らした。レイはそのまま転がるようにして床を蹴りあげ、ウォンとの間合いをはかる。そうして素早く銃を構えてウォンの腕を狙い引鉄に指をかけた。が、ウォンはそれを察していたのか、易々と身を翻してダビドフを口に運ぶ。
「迷いがあるな」
 ウォンの低い声がレイに降る。「腕は良い。だが迷いがある。……人を撃ったことのない人間の、浅はかな腕だ」
 その声が放たれた直後、ウォンの銃が再び爆ぜた。それはビリヤード台の上のグラスを微塵に砕き、薄暗い空間にきらきらとした細かな光が飛んだ。
「……おまえはあの男の友人か」
「……”だった”」
「なるほど」
 迷いなく、まっすぐにウォンをねめつけるレイを、対するウォンはひどく冷静な面持ちのまま見つめている。唇を噛み吐き捨てるレイの言葉に、小さな肯きすら返す。
「あの男は警察にゆかりのある人物だったと聞き及んでいる。押収された銃や薬、あるいは警察内部の情報。そういったものを、この店に集まるような連中に売り渡していたのだ」
「……だろうな」
 応え、レイは再び引鉄に指をかける。弾道は再び意味をなすこともなくかわされ、ウォンの後ろ、壁にかけられていた額縁を床に落とすだけに終わった。
「おまえは、」
 ウォンが再び口を開く。だが、レイはその先を続けさせようとはしなかった。先んじて、今度は間違いなくウォンの喉を狙う。
「良い目をしている」
 ウォンの目がわずかに揺らいだ。たぶん笑ったのだろう。
 引鉄を引く。が、銃はカチカチと空回るばかり。――弾切れだった。咄嗟に悪態をついて、レイは用の足りないそれを強く床に叩きつけた。このまま肉弾戦に持ち込むのもいい。だが、眼前のこの男は、おそらくそれをすら容易にかわすのだろう。
「……エリックのしでかしたことは、すべてが俺に被されている。今さら、俺に戻るべき場所はないんだ」
 自虐的に笑ってウォンを見つめ、レイはついと人差し指で自分の眉間を指した。
「撃てよ」
 すべてが失われた。もう、これ以上、なにも失うものはない。そう思えば、自分の命すら不要なものに思えた。
 ウォンはしばし無言のままレイを見つめ、片頬を歪め上げて銃をしまう。
「おまえを殺すのは簡単だが、容易ではないな。……死んだ人間を殺すのは、なかなかに難しいものだ」
 言って、ウォンはかつりと靴底を鳴らす。そうしてジュークボックスに近付いて行って、ポケットから一枚硬貨を取り出した。
「おまえに未来を選択させてやろう。おまえに用意されている未来は三つ」
 硬貨をジュークボックスに落とし入れて次の曲を選び終えると、ウォンはそのまま振り向いてボックスに背をもたれかけた。「今、ここで死ぬか。あるいは今この場を離れ、常に命を狙われて暮らすか。それとも」
 流れ出したのは先ほどまで流れていた女声ロックシンガーの、今度は先ほどとは別の歌だった。
 ウォンの目がレイを捉える。
「おまえの全てを捨て、この先を闇の底で生きるか」
「闇の底、だと」
 咄嗟に返し、レイはウォンを睨みつけた。ウォンは再び揺らぎの一片もすら浮かんでいない面持ちでレイを見つめ、静かに煙をくゆらせている。
「……俺の全てを捨てて、だと」
 続けてそう吐き出しながら一歩を歩み、離れた位置にいるウォンの前へと足を運ぶ。
「俺にはもうなにもない。仕事も、希望も、なにもかもだ」
 エリックに撃たれた傷が烈しく熱を放っている。ともすれば意識はあっさりと飛びそうだ。
「今死ぬか、後で死ぬかだと」
 じりじりと歩みながら、レイはついにウォンの前にまで達し、血にまみれた両手でウォンの襟を力任せに掴んだ。仕立ての良い外套が生温かな血を含み細かな皺を刻む。
「俺はもう死んでいる。もう死んでいると、おまえもさっきそう言っただろう!?」
 吐き出すレイに、ウォンはやはりわずかほどにも表情を変えない。それが逆に腹立たしく感じられた。
「俺は……!」
 
 ジュークボックスが歌っている。
 
 ウォンの口がなにかを言って、それを目にした次の瞬間、レイはふつりと糸が切れたように倒れこんだ。その拍子、胸元に隠しておいたロザリオが乾いた音を立てて床に落ち、そのまま床を滑って消えていった。

 ◇

 それはいかにも成金趣味といった風の、趣味の悪いスーツに身を包んだ男だった。歩き方が不恰好なのは足か、あるいは背中に負った傷による後遺症のようなものだろう。 
 レナード・ラウはサングラス越しにその男を見つめて小さな息をひとつ吐く。
 男はエリック・ホイ。ラウにとりエリックはかつての友であり、あるいは宿命的なきっかけを与えてくれた人間でもある。だが、それももうとうの昔に決別した、遠い過去の記憶に過ぎない。今となっては何ら感慨めいたものも無く、驚くほどに心は揺るがなかった。雑踏の中、一目でそれと知れるようなチンピラが、自分よりも立場の弱い者を萎縮させて悦に浸っている。程度の知れる器の小さな男だと、その程度のことしか浮かばなかった。
 ラウのすぐ前を歩く親子連れが屋台でジュースを買ったのを見て、ラウもなんとはなしにそれを真似る。変哲のない炭酸飲料だ。金を支払って穏やかな笑みを屋台の主に返すと、ラウは先ほどの親子連れの後ろを追うとはなく追いかけた。エリックは向こうからこちらに向かい歩いて来る。周りにいるのはエリックの部下だろうか。雑踏の中にあるというのにも関わらず、彼らは総じて緊張感も負わずにのらくらと幅をきかせ歩いている。
 ラウは紙コップの中のジュースを口に運び、そうしながら上着のポケットから小さな銃を抜き出して、それを静かに袖口に潜ませた。

 エリックは、雑踏の中、何者かの肘が自分の横腹に触れたのに気がついて足を止めた。
 連れだって来た部下は人混みに流されて少しばかり先を歩いている。エリックのガードを務めるために連れてきた部下たちだったが、エリックが取り仕切る界隈で、ましてこれだけの一般市民ばかりがいる中では、さほどには脅威と遭遇しない。誰しもがエリックに恐れを覚え、距離をはかり、目と目を合わせないようにしながら早足にすれ違っていくばかりなのだから。
 足を止めて横目で軽く睨みつけてやった相手の顔を検めて、けれど、エリックは次の瞬間、背中に氷のつぶてを放り込まれたような心地を覚えた。
「レ、レイ……?」
 言って、エリックは顔面を蒼白させる。
 すぐ横にいる黒衣の男はエリックの喘ぎを耳にしたのかしていないのか、暢気にストローを口にしていた。目元はサングラスで覆い隠しているために、その表情は窺えない。が、片頬がじわりと小さく歪んだのを、エリックは確かに目にとめた。
 雑踏を行く親子連れの、小さな少女が手にしていた風船が青空を目掛けて飛んでいく。少女はそれを憂い、見る間に遠のいていく紐を掴もうとして懸命に小さな手を伸べていた。
 ラウは、少女に代わり、その紐を器用に捕まえて指先に絡め、素早く小さな輪を結んでやると、頬を緩めつつそれを少女の腕に括りつけてやった。
「こうしておけば、手を離しても飛んでいかないだろ?」
 そう言って、残りのジュースを一息に飲み干す。
 少女とその両親とが丁寧に礼を口にするのを背にして後ろ手をひらひらと振り、空になった紙コップをゴミ箱へと放り込んだ。その直後だった。――雑踏を満たしていた明るい喧騒が、恐怖に引き攣れた叫び声へと変じたのは。
 ひとりのチンピラが、的確に急所を撃たれ、そうして道端に倒れこんだのだ。彼はもう既に絶命していて、倒れこんだ拍子に辺りは一面の血溜りとなった。
 恐怖はたちまちに連鎖して街並みに大きな波紋を広げていったが、ラウはそれを確認することもせずに通りを抜けて、そこで待ち構えていた一台の車へと乗り込んだ。そこで彼を待ち構えていたのはラウの相棒で、彼はラウが助手席に落ち着くのを見計らい、ゆったりと口を開けた。
「地獄に送ってきたか?」
 その言葉にはわずかに笑みが含まれていて、そもそもそれは質問という形を借りただけの確認に過ぎないのだということが容易に知れる。
 ラウは軽く前髪をかきあげながら口許を綻ばせ、横目に相棒を見て目を細ませた。
「――ああ」
「そうか。じゃあ報告だけして、飯でも食いに行こう」
 相棒もまた笑う。笑って、車をゆっくりと走らせた。

クリエイターコメントお届けが大変に遅くなりまして、まことに申し訳ありませんでした。お待たせしてしまいました分、少しでもお楽しみいただけていれば、幸いです。

ノベル中で設定しておりました歌、ならびにタイトルにも用いてみましたものは、ジャニス・ジョプリンというシンガーのものです。ウッドストックな時代のシンガーで、わりと壮絶な人生を送った方なのですが、わたしは彼女の歌声が大好きなのです。
ノベルの舞台はアメリカではないのですが、BGM的にはそんな感じをイメージして書かせていただきました。
公開日時2008-01-30(水) 20:00
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