★ 蛇よ、豚よ、鳥よ、人よ ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-3109 オファー日2008-05-11(日) 23:11
オファーPC ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
ゲストPC1 昇太郎(cate7178) ムービースター 男 29歳 修羅
<ノベル>

 ミケランジェロは、空が白くなったと思った。
 いっぽう、昇太郎は、空が赤くなったと思った。
 目まぐるしく移り変わる風景と温度と空の色の中で、たったひとつ、ふたりともが見たものがある。
 血に餓えた修羅刹の顔。




 ミケランジェロと昇太郎のふたりは、いつもの銀幕市を歩いていただけだった。どちらからともなく、市役所に行って対策課が何らかの人手を必要としていないか見に行くか、ということになったのだ。ついでに食料品や生活雑貨の買出しでもするかという気分だった。
 どちらも見かけは若いが達観していて、飲食すら必ずしも必要としない身体の持ち主だったが――そう――ミケランジェロが、その朝、言ったのだ。
「あー。なぜかリンゴ食いたくなった」
 と、唐突に。
「リンゴ食いてえ。真っ赤なヤツ」
 しかし彼は、事務所のソファーに寝転がったまま、だらしなくリンゴを求めるだけだった。真っ赤なリンゴ。繰り返されるその言葉を聞いて、衣食住にこだわらない昇太郎も、皮も剥いていないリンゴにかじりついた、あの独特の音を思い浮かべてしまった。あの黄色がかった果肉と、芯を取り囲む蜜の味まで、遅れて脳裏に押し寄せる。
「ええのう。林檎か」
「んー」
 リンゴを欲しているのはふたりに他ならないのに、その会話はどこか他人事のようだった。
 そして結局、どちらからともなく、外に行こうと言い出すことになるのだが。
 ふたりとも、予感はしていなかった。銀幕市の中心街へ向かう予定が、違う世界に向かうことになるなどとは。つゆほども。


 銀幕市の上空が、白く、あるいは赤くなったそのとき、空気は変わった。それは、ムービースターがロケーションエリアを展開した瞬間にも似ていた。
 銀幕市の風景は消え失せて、橙の風の中に、赤茶けた地面と、山吹の雲が現れた。風は皮膚や髪を肉から剥がしそうなほど強く、熱かった。風に橙と赤の色がついているのは、炎を帯びているためなのかもしれない。
 ミケランジェロも昇太郎も、何が起きたのかさっぱりわからなかったが、銀幕市ではよくあることなのだ――この街では、いつもどこかで、ムービーハザードが起きている。
 このハザードの規模が、たったふたりを巻きこんだ程度なのか、それはわからなかった。判断基準にできるような、銀幕市のいつもの風景が、まったく見当たらなくなってしまったから。そもそもこれがムービーハザードであるという確信すら得られていない。
 何かが起きた、と、それだけしかわからなかった。
「まったく、だから外になんか出たくなかったんだ!」
「虫の報せでもあったんか!」
「ないね! 予想外だ! 決めた! 俺は明日から引き篭もる! 何が起こるかわかんねー『外』に付き合ってられるか!」
 喉が痛くなるくらいの大声でなければ、会話すらままならない暴風だ。それでも、ミケランジェロの後ろ向きな明日からの予定に、昇太郎が苦笑いを返す――ふたりの間にはそんな余裕があった。
 嵐の合間から、歌のような低音が聞こえてくる。
 昇太郎が気づく。それが、経であるということに。
 突然、ふたりの足元が崩れた。
「――昇太郎!」
 ミケランジェロが叫んだのは、地面が崩れたのに、自分の身体が『上』に引っ張られるように感じられたからだ。実際、彼の隣を歩いていた昇太郎だけが、赤と黒の地割れの中に落ちていく。叫んだはずみに、ミケランジェロの口から煙草が落ちた。この瞬間まで、彼は煙草を口から離していなかったのだ。
 手を伸ばす。
 昇太郎も手を伸ばした。しかし、手を伸ばしたのは、彼らふたりだけではなかった。

 ぉ・ぉぉぉぉおおおおおおおオオオオ!

 無数の手、手、手、赤い手は、砕けた地の裂け目から伸びて、昇太郎の身体を掴む。
「くそ、ッ――」
 昇太郎の表情を見て、ミケランジェロも自分の身体の状態に気がついた。彼が背にして入る錆びた山吹色の空も割れていて、そこから、白い手と手と手と手が伸びていたのだ。白い手は、ミケランジェロの背の、焼け爛れた翼の残骸を掴んでいた。抗いようのないほどの力で、ぐいぐいと引っ張っている。だから、身体が浮いていくのだ。
 ミケランジェロと昇太郎の手は、かすりもしなかった。
 決定的な爆風が吹き、堕ちた神は天へ、神殺しは地の底へ、飲みこまれていった。




  おかえり
          おかえり
 おかえり

                    おかえりなさい。


 鉄琴の上で鈴が転がっている。
 その音色の、なんと、白銀色であることか。
 美の神すら、そのすべてを描きたいと思わせる。
 目を開けたミケランジェロの前に、白い天上の世界があった。
 花という花、色という色が微笑みかけてくる、風すらもあたたかい世界。
 煉獄のものを超えた畏怖の炎で、この世界は守られていた。入ることはもちろん、出ることも容易にはできない世界だ。
 ミケランジェロが捨てたはずの世界でもあった。もしかすると、世界が彼を捨てたのかもしれないが。
 アルビノのアゲハが、はたはたと優雅に眼前を横切る。アゲハが振りまく白銀の鱗粉から、まぶたで目を守り――再びその紫眼を開いたときには、懐かしい顔ぶれが前に立っていた。
 融けた金銀のような髪、星と太陽の光で織ったローブ、そして背の白い翼。まるで絵に描いたかのような姿の神々。気づけばミケランジェロも、顔料や塗料で汚れた黒いツナギではなく、彼らと揃いのローブを着ていたし――亡くしたはずの翼を背負っていた。
「戻りましたね、ミケランジェロ。那由他の宵と暁の果てに」
 おだやかな微笑で、彼の母神は手を差し伸べてきた。
「貴方が人間道に降りたのは美のため。究極の美、美の終末は、果たして人間たちの世界にありましたか」
 ミケランジェロの答えを待たずに、神は言った。
「なかったでしょう。貴方が人として残した創造と審判の絵……結局人は、それを超える絵を残していない。すべての究極と終末は、この天上道に在るのです。門のこちら側へ、今こそお戻りなさい。ミケランジェロ」
 訥々と、台本を諳んじているかのように、母神は話す。
「おまえは失われてはならぬ神だ。この天上道も、お前を再び受け入れるだろう」
 かつての友も、そう言って手を差し伸べてくる。
 手、手、手。
 ミケランジェロは何も言わず、黙って懐かしい顔と手を見た。
 懐かしい。
 そう、懐かしい。彼が堕天してから、それほどの月日が経ってしまったらしい。その世界にいるときは、100年も200年もさほどの時間とは感じなかった。天から堕ちて、人と交わるようになってから、早いうちに人間たちの時間の感覚に慣れてしまったのだろう。
 しかし――
 ミケランジェロは、母と友たちの額に、見慣れないものを見つけた。
 白毫、第6のチャクラ、或いはビンディ。まるで第三の目のように輝く額の光。
 そんなものは、彼らの額になかったはずだ。それに、今、彼女たちは何と言った? この世界の名前を、〈天上道〉と言わなかったか? それでは、『世界が違う』。
「そうだ。『違う』」
 ヴォほッ、と熱い音が弾けて、ミケランジェロの翼が燃え上がった。
「違う。もう、今は……俺は、そんなもののためだけに、人間と一緒にいるわけじゃない!」
 白く美しい翼は、紙のように燃えていく。しかしその痛みと熱さは、天の門を越えたときに感じた痛みと、まるで変わらない。ミケランジェロはうめき声のような叫び声を上げていた。苦痛と怒りと意思が混じった、畏ろしい神の咆哮だった。
 白いアゲハ。
 太陽と星の光。
 端麗な神々も。
 ミケランジェロの翼と叫びから生まれる業火に、焼き尽くされた。ミケランジェロの母の顔から、なめらかな白い肌が溶け、ぼたぼたと剥がれ落ちていった。紫と青を混ぜた輝石色の眼球が、炎に炙られ、灰色に濁っていく。
 翼を生やした蛇の影が、炎の間で、刹那飛んだ。
(ミケランジェロ。貴方は本当に望んでいるの?)
 神々の彫像は、ゆったりと踊りながら溶けていった。焦げていった。
(ミケランジェロ。貴方はまるで、人間のようですよ)
 苦笑いと微笑が見えた気がする。
 やがて、ミケランジェロの前に、再び橙と赤の渦巻く嵐が――




  たりない
  たりない

             よこせ

   に く。


 ミケランジェロがどこへ連れ去られたか、見当もつかない。昇太郎は、消えた親友が、自分が今いる世界よりもましなところにいることを願っていた。切に切に。本当に。ここは、本当に過酷な世界だ。炎と不浄の悪臭に満ち、空も地面も区別がつかない。ただ、赤と黒だけが煮えたぎっている。そして、無数の餓鬼。
 腹だけが膨れ、手足には骨と皮しかないその姿は、黒いジョロウグモに似ているかもしれない。目鼻がなく、顔に口だけしかないものもいた。餓鬼たちはおおよそ「はらへった」「にく」「たりない」「まずい」「はらへった」としか言っていない。その言葉の意味さえわかっていないようでもある。だが、腹が減っているのは事実らしい。
 ここは〈餓鬼道〉なのか。六道の輪にある世界のひとつだろうか。昇太郎がそう思い当たったのも、この餓鬼たちに取り囲まれた瞬間だった。
 かれらのことばは、人間のものではない。聞き流してしまうと、単なる豚の鳴き声に過ぎなくなる。
 昇太郎は喰われていた。自分の肉が骨や血管や内臓から引き剥がされていく感触をはっきりと感じ取っている。みぢみぢと素手で千切り取られていく血の間から、熱い血潮が噴き出しても、地面に達することはなかった。
 餓えた鬼どもが、残らず啜っているからだ。餓鬼の黒い肌に振りかかった血も、他の餓鬼があさましく舐め取る。まずいまずいと言いつつも、彼らは貪るのをやめない。
 細い手のひとつが、昇太郎の右の眼窩に伸びた。昇太郎の身体は反射的にそれを払いのけようとしたが、すでに右手も左腕も、歯という歯によって喰い千切られていた。右腕はなんとかまだ身体につながっているが、左腕は肘の関節をごりりと噛み砕かれて、持って行かれてしまっている。餓鬼の小さな集団が、昇太郎の左腕をめぐって争っていた。
 右目は長い五指によって目蓋ごと奪われた。残った翠の左目が、右の瞳の銀の輝きを見た気がする。だが、〈鳥〉は? 片時も彼のそばを離れない、〈鳥〉の姿が見えない。
 目を奪われそうになったときはさすがに反射的に動いてしまったが、それを除けば、昇太郎は抵抗しなかった。餓鬼の餓えは満たされないということを知っている。ここに留まっていては、親友を探し出すこともできない。それもわかっている。
 しかし、自分は、決して死なない。
 死んではならないのだ。魂の理を背負わなければならない。自分が招いた自分の役目だ。役目を放棄した神とはいえ、それを殺した者は償わなければならない。
 ここが餓鬼道であるならば、餓鬼たちもやがては死んで次の世へと生まれ変わることになる。いずれは人間道や天道へ還れるはずだ……。
 そんなかれらを、傷つけていいものか。
 殺して自分だけが逃げるなど、何をかいわんや。
 がふっ、と昇太郎の口が勝手に血を吐いた。餓鬼の指が、彼の喉を破っていた。頚動脈も、別の手の指によって荒々しく断ち切られていた。噴水のようにしぶく鮮血は、やはり、一滴残らず餓鬼たちの口の中に消えていく。
 ぶち。
 ぶぢ。
 ぢみッ、みじッ。
 身体の芯まで響く湿った音は、烙印ごと背の肉が千切り取られていく音。
 いつの間にか感覚がなくなっている下半身は、見るまでもなく、食い尽くされているのだろう。
 ふと、昇太郎は考えた。
 髪のひと筋まで餓鬼の腑で消化されてしまっても、果たして自分はいつものように再生するのか。〈鳥〉は。〈鳥〉はどこへ行った。

 燃える鳥……。

「昇太郎!」

「何してんだ。バカとお人よしもいい加減にしろ」
 ミゲル。
 昇太郎は、頭上に現れた親友の名前を呼ぼうとしたが、そのときまさに喉笛を貪られているところだった。
 昇太郎と餓鬼たちが見たのは、光を背負った神だった。黒く煤けた服と焦げた翼の姿だ。赤と黒の空らしき空間は、白刃によって切り裂かれている。神の背後に、鮮やかな赤があった。それは、炎の色だ。神は火を背負い、火に巻かれながらやってきた。
「……なんてツラだ。……ガキどもが……」
 昇太郎の顔を見た神の顔が、怒りに歪んだようだった。
 ようだった、というのは、彼がまばゆい炎を背にしていたためだ。
 暗い影と化した顔の中で、紫水晶の光がふたつだけ、爛々と輝いていた。

『消えろ』

 ごおんっ、と天の火が餓鬼たちに襲いかかった。それまで神を見て恐れおののいていたものも、神にも目をくれず喰らいつづけていたものも、等しくその炎に呑まれた。餓鬼道はその一瞬、地獄と化した。ただ昇太郎だけは、火傷も負わなかった――すでに凄まじい傷を負っていたが。
 熱風に目を細めた昇太郎が再び神を見たとき、彼に群がっていた無数の餓鬼は、指一本残さず消失していた。
 いまだに声も出せないまま呆然とする昇太郎の前に、ふわりとひとりのツナギの男が降り立つ。彼は堕神ミケランジェロであり、掃除屋安城ミゲルでもあった。
「自分は勝たなくていい、何も殺したくない、っていうのか。……そんなに都合よくいくかよ。どこの世界だって同じだ。この世界も、銀幕市も、俺たちも、結局人間が創ったモンだ。人間の道理に習うのが道理なんだよ」
「……」
「声出せねェのはわかってる。今はそのほうがいい。口はさまねェで黙って聞いてほしいからな」
 ミケランジェロは血みどろの昇太郎の前に屈みこみ、紫水晶の目で睨みながら、ゆっくりと話を続けた。
「人間は何かを犠牲にしながら生きる。……人間の世界で生きている以上は、おまえもその道理に従え。道理を創ったのも、人間だ。誰も文句は言えねェはずさ。……俺だって、人間と同じことしてるんだ」
 有無を言わせぬほどの真剣な眼差しは、ようやく和らいだ。ミケランジェロが、どこからともなく、金色の鳥を取り出して、昇太郎に差し出す。
「おまえがこいつとはぐれるなんて、珍しいじゃねェか」
「……      ……」
 ちチちッ!
 昇太郎が、再生を始めた喉で〈鳥〉を呼んだ瞬間、金色の〈鳥〉は透き通った声でさえずった。昇太郎がなくした肉と血と骨は、ただの一瞬でもどってくる。着ていた服まで、破れ目ひとつない姿を取り戻していた。
 ミケランジェロが手を差し伸べる。
 今度は、昇太郎が伸ばした手を、しっかり掴んだ。
 再生する直前の痛みの記憶を引きずる昇太郎は、ミケランジェロの力を借りて、立ち上がっていた。

 ごぅ、と再び世界に風が吹く。

 赤と黒の、非情な風だ。
『そう、世界は排他と渇望によって成り立っている』
 ぢゃらん、しゃらん――
 ああ、剣と剣とがこすれ合う音。
 しゃん。
『その道理を捨てるために創り出した六道で、よもや改めて諭されようとは』
 吹き荒ぶ、火薬と炎の匂いの中から、6本の腕を生やした男が、ゆっくりとふたりに近づいてきていた。
 ふたりが、銀幕市からこの世界に引きずりこまれる瞬間に、目の当たりにした修羅の顔。男の顔は、まさにそれ。6つの手すべてに、剣や刀や鉾を持ち、身体は返り血で赤く染まっている。
 しかし、不思議と、存在感がないのだ。まるで、吹き荒れている風や、あふれかえる色と同じようだった。ミケランジェロは修羅の顔を睨みながら、昇太郎の腰に手を伸ばした。昇太郎が抗議するよりも先に、神は両刃の細身剣を抜き放っていた。
「道理から消えたいなら、消してやる」
「ミゲル!」
「昇太郎。――おまえ、俺がさっき言ったこと、聞いてたか?」
 昇太郎に、ミケランジェロが背を向ける。黒い服は、いつもの安城ミゲルが着ているツナギではないような気がした。それに……、その背に、焼け焦げて、はらはらと灰を降らせる翼が生えている。普段はおぼろなまぼろしでしかない彼の翼は、今さっき燃えたばかりという風情の実体を持っていた。
 修羅は剣を打ち鳴らし、走り寄ってきた。風を切り裂き、声を上げて。
 しかしその姿は相も変わらずはっきりしない。6本腕の修羅ではあるが、ただの凡夫のようでもある。しかも、恐ろしいほどのすばやさだった。まるで地を縮めたかのようだ。またたきの間に距離を詰め、三振りの得物をミケランジェロに振り下ろす。
 昇太郎は黒鞘からなまくらを抜き、三歩で間合いに入って、修羅の横腹をしたたかに打った。
 修羅は、〈修羅〉とされる男をねめつけた。
 昇太郎はその目の中に、深い絶望を見た気がする。
 ミケランジェロが剣を振りかぶった。それが見えた次の瞬間には、赤と黒の嵐の中に稲妻が走った。ミケランジェロの斜めの一閃だ。修羅の身体から腕が一本吹き飛び、暴風にさらわれ、粉々になった。
 昇太郎は刀を振り上げる。
 刃は潰れていて、ほとんど殺傷能力はない。しかし、それは言い換えれば、刀状の鉄塊だった。昇太郎の渾身の力で振り抜かれた鉄塊は、修羅の腕を一本へし折った。
『ここでも! 嗚呼、ここにも! 弱者と敗者は生きられぬと、理は在る!』
 残像が見えるほどの速さで、修羅はその首を振った。
 あ゛ああああああ。
 何かを拒み、恐れているかのように、ふたつの手は武器を落として両耳をふさぐ。
 昇太郎はそれきり、攻撃の手を止めてしまった。
 ミケランジェロだけが動いた。細身の、一見頼りない剣を構えて、
 修羅の左胸めがけて突き出す。
 稲妻。
 昇太郎と〈鳥〉が目を細める。


 ぞフ。


 剣と剣が打ち合う音は消え、
 修羅と風が荒れ狂う光景も消え失せた。
 ふたりが立っているのは、見慣れた銀幕市のありふれた路地。このまままっすぐ15分ほど歩けば、賑やかな中心街が見えてくる。しかし、今路地にたたずんでいるのはミケランジェロと昇太郎のふたりだけで、他に人影もひと気もなかった。平日の昼間だ。周囲に立ち並ぶ家々の住人たちは、学校や仕事で出払っているのだろう。
 見上げた空は、青である。ときどき白をあえた青。
 少なくとも、赤くはないし、白くもない。太陽は一日でもっとも光の勢いが強まる位置にあった。
 ミケランジェロは長々とため息をついて、ようやく昇太郎に剣をつき返した。
「まー、たぶんムービーハザードってヤツだろう。フィルムも落ちてねェし。人っぽい形したハザードってのも珍しいけどな」
「お前なぁ、ひとの剣勝手につこぉて……」
「じゃあおまえ、俺が殺れっつったらあの6本腕、独りで斬ってたか?」
「そら、……斬りかかってくるんなら何とかせにゃあかんじゃろ。俺ァどうでもええけど、お前が目の前でなますにされたらかなわんわ」
「……俺が言ってたこと、やっぱりわかってくれちゃアいねェらしいな」
 深いため息をついてから、ミケランジェロはポケットに両手を突っ込み、背中を丸め、いつもの風体で歩き始めた。しかし、いつもより歩調がずいぶん速い。昇太郎は小走りで彼に近づいた。
「あー。そうだそうだ。おかげで忘れかけてた。煙草買いたくてわざわざ外に出てきたんだ。まったく、目的忘れてどーするってんだ」
「煙草? ……煙草……やったか? 買うてくるもん、もっとべつの……なんや食いもんやったような気ィするんじゃが……」
「煙草だよ煙草。ったく、どっかで落としちまった」
 昇太郎は首をかしげ、思わず〈鳥〉と目を見合わせてしまった。〈鳥〉は何も言わず、昇太郎の真似をしているかのように、小首を傾げて見せただけだ。
 温かい陽気を含んだ風が吹いて……、

 ちゃりん、

 剣と剣が打ち合う音が、どこかで聞こえたようだった。
 ただ、硬貨が落ちただけか?
 いや。また、誰かが誰かを出し抜いたらしい。



〈了〉

クリエイターコメントこっそり窓開けから、たいへんお待たせしました。
六道輪廻が中心のストーリーということで、その辺りの概念を調べましたが、新鮮でした。日本人の多くは仏教徒ということになるのに、この面白い(と言ってしまうとバチ当たりな気が……)死生観がまったく浸透していないというのは興味深いですね。
PL様のご希望に叶う内容であれば幸いです。このたびはご依頼ありがとうございました。
公開日時2008-06-12(木) 20:00
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