鐘が打ち鳴らされている。教会の勝利の雄叫びである。教会はこれから敗者を進むべき道へ導くのだ。まばゆく輝き、悪を滅ぼす炎が、教会に代わって道しるべを務めるだろう。
今日の処刑場では、突き立てられた10本の丸太が円を描いていた。10人の魔女が同時に裁かれようとしているのだ。処刑人たちが無表情で薪を積んでいくのを、シグルス・グラムナートは仏頂面で眺めている。
丸太に縛りつけられ、ぐったりうなだれた女たちが、悪魔の手先であるという証拠はない。あるのは、彼女たちの「自白」だけ。
聖なる法衣を身に纏い、各地の教会を回る旅の最中だったシグルスは、町に来るたびに魔女の死を見ていた。
「今日は10人か。10人……」
人々の魔女に対する嫌悪と恐怖と憎悪は深まるばかりだ。旅を重ねるシグルスは噂を聞いている。ほんの慈悲で、家の中に入りこんでいた蛙を逃がしてやった女が密告で捕まり、その女は自分が魔女であると神の前で告白したらしい。
――ばかばかしい。
シグルスは軽く首を振り、10人のために十字を切った。蛙を逃がしただけで悪魔の手先だというのなら、
――水の上に立って、水色の竜を読んで、雨を降らせたあいつは、「何」になっちまうんだ?
シグルスは髪と悪魔を知っていて、精霊と召喚師を知っている。
カグヤ。カグヤ・アリシエート。忘れられしエルーカ。世界の真理を求めるもの。
シグルスが美しい彼女の銀髪を思い出したとき、処刑場の薪に火が放たれた。焚きつけには、魔女たちから切り落とした髪を使っているという。魔女達は咳きこみ、もがき、泣き叫びながら、ゆっくりと焼かれていった――人間のように。
(さあ、焼き尽くしてくれよう)
(これが我らのさだめならば)
「たすけて!」
シグルスはハッと顔を上げ、視界の右端の丸太に目を向けた。
「かみさま! たすけて! たすけてえ、かみさまあああ!」
業火が唸りを上げる中、甲高い祈りが聞こえる。シグルスは目を見張った。10人のうちのひとりは、背は高いけれども、まだ子供だったから。まだ12か、13か……。
「たすけて! かみさまたすけて、あつい、あついよおぉ!」
シグルスはそっと人々の顔を見た。皆笑っていた。目を見開いて炎と煙を見つめ、ひきつりながら笑っているのだ。誰ひとり、少女の祈りに耳を傾けていないようだった。シグルスは、自分ひとりだけにしかあの祈りが聞こえていないのかと思った。
しかし。
シグルスよりも前に立っていた人間がひとり、不意に肩をわななかせ、振り返ると、人ごみをかきわけて処刑場を出ようとし始めたのだ。分厚いマントのフードをすっぽりかぶっていたが、長い赤毛がはみだしている。一瞬だけシグルスの目にとまった女の横顔には、見覚えがあった。人をかきわけ、町並みに消えていく女を、シグルスは追いかけた。
ギョわわあああああはははほほほほほほほ、
(焼き尽くしてやる)
(それがおまえたちの望みならば)
(何もかも灰になってしまえ)
(焼き尽くされろ!)
ごワあははははほほほほほボはははははは!!
レンガ造りの家と家の間に入る。走る。建物の隙間は迷路のように入り組んでいた。誰とすれ違うこともない。皆、町の広場兼処刑場に集まっているから。
音という音は聞こえなかった。自分の息遣いさえ曖昧だ。炎の哄笑と、魔女と呼ばれた住人の咳と叫び声しか聞こえない。
彼女の頭は、いつしかフードからすっかり飛び出してしまっていた。風が髪をとかしていくうちに、赤毛からさらさらと赤が消えていく。赤い粒子を風に渡しながら、彼女は走る。
宿屋の裏の路地で足を止めたとき、彼女の赤毛は、白のような銀に変わっていた。――いや、変わったのではなく、戻ったのだ。この銀髪こそ、彼女の本来の髪である。女はレンガの壁に手をかけて、跳ねる息を整えていた。そこへ、
「おい」
若い男の声が投げかけられた。彼女はすばやく振り向く。
「誰かに見られてたら、どうすんだよ」
声の主は苦笑していた。
「シヴ」
「おまえが来てたなんて思わなかった。……カグヤ」
女の赤毛が銀髪に変わる現象を見ても、それを悪魔直伝の魔術によるものだとは思わない――そんな数少ない男に見られたのは、幸運だった。
カグヤは無理やり息を落ち着かせ、かぶりを振った。まだ心臓は早鐘を打っているが、シグルスにあまりみっともないところを見せたくなかったので、いつもどおりに振る舞いたかった。
「炎に呼ばれたのよ」
「……炎、ねえ。どうなんだ、炎は怒ってるのか? 悲しんでるのか? 精霊は人間よりも物知りだ。焼く人間が無実かどうか、お見通しなんじゃねぇの。焼きたくもないやつを焼かなきゃならないなんてことになったら、俺は頭にくるね。暴れるかもしんねぇ」
シグルスの皮肉っぽい言い方に対して、カグヤはしばし口をつぐんだ。彼の言い分に腹を立てたわけではなかった。事実は、彼の予想よりもはるかに深刻だったから――思わず、答えを口にするのをためらってしまったのだ。
「……狂ってるわ」
「ん?」
「狂ってるのよ。炎が」
カグヤの表情は強張り、言葉は乾いてかすれていた。シグルスの顔から、人を食ったような微笑が消えていく。
「狂うなんて、そんなことあるのか。原因は?」
「はっきりしないわ。いろんな感情に触れすぎたせいかも。でもこの町は……ひどいのよ。あんまり……ひどすぎる」
人や獣のような心を持たない精霊すら、狂うに値する町。カグヤはまた黙りこんだ。
今日は10人焼かれた。その中には、ほんの子供も混じっていた。
昨日は焼かれなかったが、一昨日は8人焼かれたという。ようく燃えたぜ、と酒場の主はからから笑った。カグヤがここに入ったのは昨日の夕刻のことだったが、火刑場と貸した広場には、まだ悪臭と熱気と『声』が残っていた。
(焼き尽くしてやる、焼いてやる、さあ焼け、燃えろ燃えろ燃えろ)
(踊れ、燃えろ、焼けろ、何もかも、灰にしてやればよいのだな)
(やめろ。燃えろ。助けて。焼き尽くせ。あばはははははぼぼははははは……)
「なあ、おい」
シグルスが、重い口を開く。カグヤははっと我に返って、見慣れた緑の目を見つめ返した。
「それで……どうするんだ? 精霊が狂ったらどうなるのか、俺にはさっぱりだ。まあ、あんまりいいことじゃねぇってのは、さすがにわかるけど」
「私から見ても珍しいことだから、はっきり言って、どんなことになるか見当もつかないの。でも確かに、いいことじゃない。自然の摂理が歪んでいるんだもの……きっと恐ろしいことになるわ。まだ完全に狂ってはいないみたいだったけど、時間の問題」
「でも、難しいだろ。こんな町で、精霊と話するなんて」
最近は、銀髪に紫の瞳という色彩のまま町を歩くことさえ難しくなっていた。蛙に慈悲をくれてやっただけでも魔女にされる世情だ。奇妙なかたちの痣でさえ、審問官にかかれば「悪魔との契約のしるし」である。
銀髪の若い女が、死臭が残る処刑場で、狂いかけた炎と対話する。
そんな光景を、この町の教会と住民は赦せるだろうか。
考えがまとまらないまま、ふたりは別れた。黄昏時の空を焦がす炎は黒く、祈りと叫びはもう聞こえない。そして町には、何事もなかったかのようなありふれた談笑と雑踏が戻ってきていた。
カグヤは髪をフードの中に隠し、宿屋に入った。宿屋の主はいない。彼もまた処刑場に行き、まだ戻ってきていないのだろう。
狭いひとり部屋のベッドに腰かけて、カグヤは耳をふさいだ。
炎の声と、少女の祈りが聞こえてくる。
今日一日、ほとんど何もしていなかった。それこそ、処刑場の様子を見に行ったぐらいだ。それだけなのに、ひどく疲れていた。やがてカグヤは質素なベッドの上で横になり、耳をふさいだまま目を閉じた。
そして見えざる怪物の鉤爪が、エルーカの意識を捕らえ、暗闇の中に引きずりこんだ……。
(燃えろ燃えろ燃えろ)
(わたしは魔女ではなかった)
(燃えろ燃えろ燃えろ、燃えろ)
(だが今なら悪魔に魂を売り渡してもいい)
(燃えろ、灰になってしまえ)
(夫も神父も隣のあの子も、みんなみんな呪ってやるわ)
(焼けろ、焦げろ、跡形もなく消えろ)
(みんなみんな、焼け死ねばいい)
(そうだ。死ね)
(我が吐息のうちにて果てるがよい)
ふと、焼けるように熱い彼女の夢の中に、一滴の水が落ちてきた。
目覚めよと呼ぶ声のようだった。
カグヤが息を呑んで飛び起きると、部屋は真っ暗だった。恐らく深夜だろう。わずかに開けた窓から吹きこんでくる風が、深い夜気を孕んでいた――が。
ゴ、ん!
ひんやりとした夜気も、深夜の気だるさも、吸いこまれるような闇も、次の一瞬で吹き飛ばされた。窓の向こうの空が、紅蓮に染まったのだ。夕焼けよりもまばゆく、凶暴な色だった。
「そんな、まさか――もう?」
部屋は2階だ。窓から広場、処刑場がある方角が見える。火柱。渦を巻く炎。悲鳴と怒号が聞こえてくる。
広場だ! 何事だ! 広場で火事だ! ちがう、爆発だ! おお神よ!
密集した建物にさえぎられて、2階からは広場の様子をうかがうのが難しい。だが、広場で、空を突かんばかりの火柱が上がっているのは確かだった。
人々の怒号のほかに、カグヤには聞こえているものがある。
炎の哄笑と慟哭だ。
笑いながら泣き叫ぶ業火が、次第に曖昧なかたちを築こうとしていた。
空気さえ、皮膚が焦げそうなくらいの熱を帯びている。その中でカグヤは目をしっかり開き、炎が取ろうとしているかたちを見極めた。
竜だ。火竜が来る。
ゴ、んん!!
竜が身をよじった。それだけで無数の炎の鞭が町を打ち据えた。あぎとに見えなくもない炎の裂け目から、黒煙色の炎が噴き上がり、広場を囲む家々を焼き払った。いや、そんな生易しいものではなかった。家々は薙ぎ払われ、爆発した。人も猫も鼠も、悲鳴を上げる間もなく蒸発した。
その爆発の頃にはもう、カグヤは宿屋の外に飛び出していた。髪は銀髪のままだったし、目は紫のままだった。だが、精霊の力を借りて「変装」する必要はなくなっていた。町はどこもかしこも橙と赤に染まっていて、人の髪の色の判別などできなかったし、住民は魔女を見つけだすどころの騒ぎではなかった。
「教会が! 教会が燃えてるわ!」
寝巻き姿の老婆が、全身をわななかせて叫んでいた。しわがれた叫び声に、男たちの、早く郊外へ逃げろという怒号が割りこむ。
みんながみんな、町の中心から逃げてくる。カグヤはその流れの中で立ち尽くし、焦げる夜空を見上げていた。だがやがて走りだしていた。住民たちとは逆の方向へ。炎の中心、町の中心、あの暴れ狂う炎の竜の巣へ。
バはははぼほほほハハハハハハハババババ!
ゴゴンごごんごぉぐおゴゴゴゴハハハハハ!
ヒヒヒヒ……ククククク……シクシクシク……。
エあッははははアアーハハハハハハハア!
――だめだ。だめなんだ、もう。
皮膚を溶かしそうな熱気が近づく。積まれたレンガも、ガラスの窓も、溶けている。竜の姿はなくなっていた。炎がとった姿はあまりにも巨大すぎて、近づけば近づくほど、竜のかたちは崩れていくのだ。いまや、カグヤの目に映るのは、火竜ではなく、炎の壁だった。
壁の中では、無数の人の顔と身体がうごめいている。
絡み合い、喰らい合い、溶け合う人々の顔は、一様に醜く歪んでいた。言葉は聞こえない。だがその口は、口汚く人と神を罵り、嘲っている。途方もない呪いの言葉が吐き出されている。そしてその怨嗟と苦痛の中で、精霊の意思と言葉が見え隠れしている。
炎から目をそむけ、周囲をすばやく見回したカグヤの目に、井戸が飛びこんできた。カグヤはそれに駆け寄り、暗い円形の闇ほ覗きこむ。闇の中で、橙色がゆらめいた。水はたっぷりあるようだ。
「『星の冷める血にこいねがう!』」
エルーカは水に呼びかけた。ざばり、と水が振り返る。
「『星の燃ゆる血をも鎮める力を! 我はカグヤ・アリシエート、〈真理〉の欠片を宿す者!』」
(応じよう、エルーカ。〈真理〉を求めし者よ)
ざん、と井戸水が昇り、首をもたげた。荒れ狂う炎の竜に比べれば、ひどくちっぽけな水竜が現れたのだ。水竜はカグヤの身体のまわりで螺旋を描いた。炎が咆哮を上げ、町を赤い津波が飲みこんだのはそのときだった。
(燃える。人の巣が燃える。緑と獣の生きる地も燃える。燃えてしまうぞ。この怒りと狂気……嘆きの心は……あまりにも熱い)
水の声と水が見るものが、カグヤの意識に流れこんできた。
カグヤの身は、水の精霊によって護られた。しかし町は違う。焼き尽くされた。この町だけではない。炎の波が、周囲の森を焼き尽くし、森の中でつましく暮らしていた村を吹き飛ばし、逃げ惑う鳥の羽毛、鹿の毛を燃やしていった。
水の護りの中でも、カグヤに、目を開けていられない熱気が襲いかかる。
燃える町並みの中に、歪む十字架を見た。
――シヴ。ああ、シヴもいるのよ。きっと教会で寝泊りしてる……。シヴ、あなたは無事だよね? こんな炎の中でも、あなたなら大丈夫よね?
――でも、もし、この炎に焼かれていたら……焼かれていたら……どうしよう?
「カグヤ!」
水の護りの中に、突然黒い人影が飛びこんできて、カグヤは倒れた。勢いあまって、飛びついてきた男も倒れた。間近でカグヤが見た顔は、すっかり煤けたシグルスの顔だった。
「シヴ! 生きてたの」
「なんだよ、生きてちゃ悪いのか」
「そんなことない。よかった……」
「この町は、もうダメだ。でも、あの精霊をほっとくわけにもいかねぇだろう」
「契約する」
「できるのか?」
「あなたの言うとおり、ほっとくわけにはいかないわ。かわいそうよ……ひどすぎる」
「同情なんかで太刀打ちできるもんなのかよ、精霊って」
シグルスの言葉は辛辣だったが、カグヤの痛いところを突いた。いつもそうだ。シグルスの言うことは正しく、真摯で、力を帯びている。
「私は……私は、人間よ。ひどい目に遭ってる人や動物を憐れむのが、いけないことだなんて思わない。人なら、何かに同情するのが当たり前なのよ。私は人間だからこそのエルーカなの!」
カグヤが見つめ返すシグルスは、厳しい表情のままだった。そして、カグヤをかばうように、馬乗りになったままだった。シグルスは業火を背負っていた。絶望的な煉獄が、彼の背後や、カグヤの周囲に広がっているのだ。
「わかった、カグヤ。俺に手伝えることはあるか?」
「ありがとう」
カグヤがほっとして笑うと、シグルスの目がほんの少しだけ泳いだ。彼は、ふんとするどく鼻で息をつくと、カグヤの顔から目をそむけてしまった。
「あの井戸、ずいぶんたくさん水があったわ。火の中なのに、呼びかけたら、水の精霊の声もはっきり聞こえた」
「町の北に湿地があるって話だ。この辺は水にこまったためしがないらしい」
「それなら、土の下に助けを求められる」
ふたりを取り巻く水の輝きが、首をもたげた。背後を振り返ったシグルスは、炎を背景にして揺らめく水の竜を見る。
「この精霊を井戸から地下に送るわ」
「それじゃ俺たちが丸焦げになっちまうじゃねぇか!」
「だから、手伝ってくれるんでしょ?」
「……結界くらいなら張れる。でも、おまえとは年季の入り方が違うからさ。5分も10分ももたないぜ」
年季の違いを槍玉に挙げられて、カグヤは思わず苦笑した。
「そんなに時間かけないわ。約束する」
「よし。じゃあ同時だ。俺は結界を張る。おまえは精霊を井戸に突っ込む」
「その前に」
「なんだよ」
「そろそろどいてくれない? さっきから、重いんだけど」
炎の精霊が身をよじり、どこにあるとも知れない双眸で、ひと組の男女をとらえた。ふたりはこの灼熱の中、髪のひと筋も焦がすことなく、身構えるように力強く立ち、炎の双眸を見つめ返していた。
なぜ生きている、とも。荷をしようとしている、とも。精霊は問わない。精霊がその吐息で焼いてきた人間たちの叫び声が、炎の思考を妨げるのだ。何をする気もなく、何を恐れることもなく――ただ炎は、かたちあるものを焼き尽くすだけだった。
ふたりは立ち上がっていた。しか、シグルスはカグヤの前から離れない。
水の竜はその身をくねらせ、破壊されかけた井戸の中に飛びこんだ。瞬間、肺の中まで焼けそうな熱気がふたりを包みこもうとしたが、一瞬にすぎなかった。炎の中で、水晶色の結界が光る。
シグルスが張り巡らせた水の結界に、炎の竜の息と声が衝突した。実体のない壁は揺らいだ。シグルスの耳には、ガラスが欠けるような透き通った音がかすかに聞こえた。
5分も10分ももたない、どころか。
1分もつかどうかもあやしいところだ。
しかし、両手をかざすシグルスの目には、自分が着ている法衣の袖が見えていた。
なぜ、この法衣を着ているのか――ふと、考えるまでもないことを彼は考えた。その物思いの中では、世界はまったくの無音だった。炎の咆哮は聞こえない。死んだ人々の哀れな嘆きも。
「『星よ、道を開けよ! 冷める血よ来たれ!』」
シグルスの後ろで、エルーカが嘆願した。
星は道を開けた。
町があったこの地に亀裂が走る。地割れはまるで血管であった。地の裂け目からは、冷たい血が吹き出した。天まで昇り、そして鎌首をもたげるのは、柱にも竜にも見える水だった。シグルスが聞いた話のとおり、町の地下には太い水脈が走っていたようだ。滝よりも激しい轟音を立てて噴き上がる水は、なおも荒れ狂う炎に咬みついた。絡みついた。縛り上げ、ひねり潰す。
キャアアアアアアアアアアアア!
ィヤアアアアアアアアアアアア!
炎が女の声に似た悲鳴を上げた。
たすけてえ! たすけてえ! たすけてえええ!
水の螺旋が熱気を包みこみ、押し返している。シグルスは手を下ろした。まだ町は真夏よりも暑いが、もう、一瞬で骨まで焼き尽くされる心配はなさそうだったから。
と、シグルスの横から――ふらついた足取りで、カグヤが前に出る。
召喚師は、同時にふたつの精霊に命令を下した。すなわち、土と水である。並みの人間では想像もつかない疲れが、彼女の身体と心にのしかかっていた。
それでも……。
たすけてええええええ!
焼き尽くしてやる。
こわいよ、いたいよ、あついあつい、どうしてどうしてどうして……、
我は星の燃ゆる血なり。
焼き尽くせ……焼き尽くせ……焼き尽くせ……いやぁぁああああああああ!
たすけてええええええ!
「私は、助けて、あげられるかしら」
荒い息の中で、カグヤは炎にささやいた。
水の竜たちはそのあぎとを炎から外し、静かに召喚師を見下ろす。
「ううん……、助けて、あげなくちゃ。私が……、ここでは、私にしかできないことだから……」
「カグヤ」
「大丈夫。シヴ、私は大丈夫だから。……この『子』を見捨てられないの。だって、こんなふうに狂ってしまったのは、私たち人間のせいなんだから……。あの『子』は……私たちなの」
シグルスは何も言わなかった。カグヤはおぼつかない足取りのままさらに進み出て、炎の柱を見上げる。シグルスには、それはただの炎の塊にしか見えなかった。だが、カグヤには、『顔』が見えている。泣き笑いを繰り返す、おぞましくも悲しい顔が。
「私のそばにいて。そして、私に教えて。あなたの想いの何もかもを」
ごあッ、と炎は激しく吼えた。
水の竜たちは拘束を解いていた。凶暴な灼熱のあぎとが、白銀のエルーカを丸呑みにしようとした。シグルスの足は勝手に動く。
しかし、シグルスが彼女の名前を叫ぶ前に、勝負はついて、終わっていた。
炎がカグヤの眼前で消え失せ、次いで、町を焼いていた炎も夢のように消し飛んだのだ。
カグヤはそこでがっくりと膝をつき、シグルスは結局彼女に駆け寄っていた。真っ青な顔で息を弾ませるカグヤ――彼女の前に、二粒の紅い石が落ちている。
ルビー? ガーネット? どちらでもいい。シグルスはカグヤの肩を抱くだけだ。
「……おまえ、働きすぎだよ」
皮肉で茶化すシグルスに、カグヤは弱々しい笑みを見せた。
「ほんとにね。人によっては、この町がこんなことになったのは、自業自得だって言うだろうし」
「……残ったのは、十字架だけか」
「え……」
シグルスの呟きに、カグヤは顔を上げて、束の間息を呑んだ。
教会は焼け落ちていた。跡形もない。だが、そこに教会があったとわかるのは、煤けた大きな十字架が地面に突き刺さっているからだ。斜めに傾いだ十字架は、深夜の土に、黒い影を落としている。
「シヴ、あなた、教会のそばにいた?」
「ああ」
「あの火の中を走ってきたって言うの?」
「ああ」
シグルスはしばらく黙って十字架を見つめていたが、やがて、法衣についた煤を払いながら話した。
「……天使を見たんだ。天使は寝てた俺を叩き起こして……にっこり笑ってた。俺はそれっきり寝つけなくなって、こいつを着て、外に出た。30分も歩けば疲れて眠れるだろうってな。……広場にガラの悪い連中がいた。まだ火が残ってて……そいつらは火で遊んでた。気がついたら、俺は火に吹っ飛ばされてた。でも……やっぱり天使がいたんだ。天使は俺だけを助けて……」
シグルスは話をやめ、かぶりを振った。
カグヤも彼の法衣と顔から、一対の紅い石に目を移す。どういった作用によるものかはわからないが、炎の精霊の姿はふたつに分かれてしまった。狂気と嘆きか、はたまた憤怒と絶望か。ふたつの赤い石は、双子よりも見分けがつかないほど姿が似ている。
「あなたには神と天使もついてるのね」
「……だとしたら納得いかねぇ! やろうと思えば堂々と人を護れるのに、ばかばかしい魔女裁判をやめさせようともしない。焼かれた本物の魔女や悪魔なんてほんのひと握りだ。俺はあいつらが何を考えてるのかわからなくなってきた!」
「助けてくれたひとを悪く言うのはよくないわ。あなたはその法衣を着て、加護も得てる」
「ちがう、俺は!」
シグルスは怒りの形相にも等しい表情で、カグヤの言葉を突っぱねた。
だが彼は不意に口をつぐんでしまった。カグヤは、その言葉の続きを聞けなかった。シグルスは語ろうとせず、カグヤは紅い石を握りしめた瞬間、緊張の糸が切れて、倒れてしまったのだ。
炎の香りの中に、シグルスの匂いが混じる。
カグヤは十字架を見た。そして、その向かいに突き立てられた杭を見た。杭の下には薪が積まれている。裸馬が引く荷車に、布にくるまれた女が立っていた。
金髪の若い司祭が、女の前に立つ。聖書を開き、祈り始める。
神よ、この者の罪を赦したまえ。
風が吹いた。女の頭を覆っていたフードが引き剥がされた。風の中でひらめくのは、まばゆいばかりの銀髪である。
魔女だ。恐ろしい魔女だ。
人々は銀髪を見て震え上がり、祈りの途中の司祭にすがった。
火刑など生ぬるい。この恐ろしい存在は、火よりも恐ろしいものによって裁かれるべきです。
若い司祭は無言だった。魔女を見つめたまま、無言なのだ。だが魔女には見える。司祭の頭上から――天から降りてきた天使が。美しい天使は、美しい微笑を浮かべ、魔女を流し目で見つめながら、そっと司祭の耳にささやく。
ひとびとの、好きなように、させなさい。
魔女を見つめる司祭の、緑の目の光が、ふわと歪む。彼は魔女を見つめたまま、涙を落とした。
「泣かないで」
魔女は思わず口を開く。
「シヴ、あなたのそんな顔、見たくないの。お願い、私、あなたになら……裁かれてもかまわないわ」
では焼け死ね。
魔女の足元から、二匹の炎の蛇が飛び出し、螺旋を描いた。炎の牙は魔女の肉と皮膚を引き裂き、血を焦がし、はらわたを溶かし――
司祭は泣いている。恐れおののく人々は彼の手足に絡みついている。司祭は泣いていた。泣きやんでくれなかった。
目を覚ましたカグヤは、右手の痛みに顔をしかめる。
他人のもののように感じる右手は、きつく、ふたつの紅い石を握りしめていた。
馬車の中だ。通りすがりの商人のものらしい。カグヤの目に、リンゴとイモが詰まった袋と、それに挟まれて座っているシグルスの姿が映った。
「おまえ口開いてたぞ」
シグルスは笑っていた。
カグヤは泣きそうになったが、自然と顔には笑みが浮かんでいた。
〈了〉