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<ノベル>
■夢の前の天秤について■
豪邸と言うほどではないが、さすがに市長の住まいともなれば邸宅は広い。植村と市長の呼びかけで集まった10人がひとつの部屋に入っても、さほど窮屈ではなかった。リオネが眠るベッドの傍らには、あの日の夢の中で銀幕市を脅かしたタナトス兵がひとり、ひっそりとたたずんでいる。
彼の身体や冠を拘束するものがなかったとしても、この場に集まった人々がミダスを拒絶するようなことはなかったかもしれない。彼が自分の意思で町を襲ったわけではないということを、皆納得しているからだろうか。ミダスの力を借りることに、誰もさほどの抵抗を見せなかった。
「先日はどうも、失礼しました。やむを得なかったとはいえ、あなたに殴りかかってしまって」
ランドルフ・トラウトにいたっては、そうミダスに侘びを入れたほどだ。ミダスは何も言わなかったが、気にするな、と言いたげに音もなくかぶりを振った。
「トゥナセラちゃんは……赦されて、『神』としての日常には戻れるのですか」
騒動を起こすだけ起こして消えてしまったトゥナセラがどうなったのか、ランドルフはもちろん、銀幕市民は知らない。ただ、神の裁定は絶対であり、人間の常識を逸した罰を受けているだろうことは予想できる。ランドルフが尋ねると、ミダスは淡々と答えた。
『地上の時間に置き換えて言えば、死の神子の刑期が満了するのは130年後になる。時が満ちるまで神子の心が失われていなければ、再び神としての力と姿を取り戻すはずだ』
「それって、130年後まで正気だったら、ってことか!?」
取島カラスは思わず声を荒げてしまった。知らず二歩ばかり前に進んで、ミダスに詰め寄っていた。ミダスは……にべもなく頷いて、短く返す。
『左様』
「あんまりだ。まだ子供なのに!」
『だが神でもある』
「妥当なところだろう。……と、思うことにしよう。迷惑をかけられたのは事実だ」
ユージン・ウォンは言った。トゥナセラの安否に関しては、まるで興味を持っていない口ぶりだ。しかし、彼はトゥナセラのことで話を続けた。
「だが、あの阿呆はひとつだけ良いことをしていった。夢を覚まそうとしていただろう。そこで眠りこけてる娘が罪に向かい合う機会を作っていった。賑やかなお祭り騒ぎで目がくらんでいた者どもも、冷や水を浴びせかけられた気分になったろう。おかげで目を覚ましかけた者もいるはずだ」
彼の言葉は、ひどく静かだった。しかし、その場の誰もが、ユージン・ウォンの冷えた怒りを感じ取っている。この世のすべてに怒りをぶつけているようでもあったが、……それとは少し違うようだ。だが、彼は思惑のすべてをぺらぺら喋るような、薄っぺらい男ではなかった。
「ミダス。『会場』に送れ。こんなことにこれ以上時間をかけたくない」
「まーまーまー、焦んなよ。オレもこの爺さんに聞いときたいことがあるんだ。あんたもそのお答えを聞いといて損はないと思うぜ」
ユージンはするどくシュウ・アルガを見据えたが、彼を咎める気はないようで、何も言わずに腕を組むと、壁にもたれかかった。
それを許可のようなものだととらえて、シュウはミダスに向き直る。
「なァ、神サマがよく言ってるけど、『バランスが崩れる』ってどういうことだ? なんでそれで銀幕市が滅びなくちゃなんねぇのかわかんねぇんだよ。具体的な話知っとかないと食い止める方法もわかんねぇし」
ミダスは頷くと、左手をひるがえした。彼の手の中に、淡く光る天秤のまぼろしが現れる。
『バランスはすべての道理を超えた高位の支配力のひとつであり、神や宇宙が定めたものではない。ありとあらゆるものがある程度干渉できるが、逃れることは適わぬ』
「出かける前から頭痛が痛くなっては困る。簡単に言うと?」
苦笑いで銀二が抗議すると、ミダスは素直に頷いた。
『つまり、バランスとは世界の無意識なのだ』
「全然簡単にまとまってない気がするんだが!」
「要するに人間にも神様にもなんだかよくわからないけど、確かに存在する力ってことだね。銀幕市のバランスはそんなに崩れてる?」
続歌沙音が話を促し、ミダスは頷いた。どこからともなく、ざらりと小さな黄金の髑髏が落ちてきて、天秤の皿の一方に積み上がった。天秤の腕ががくんと動き、ほとんど90度にまで傾いてしまった。ミダスの手のひらの上で、天秤はふらふらと危うげに揺れる。
『しかし、たとえこれほどバランスが崩れたとしても、世界は無意識に正そうとする』
ざらざらっ、と髑髏が空の皿に乗った。90度に傾いていた天秤の腕は跳ね上がった。黄金の髑髏がばらばらと両方の皿からこぼれ落ちる。天秤は激しく揺れながら、水平を保とうとしていた。
『――問題は、バランスが正されるとき、その傾きが大きければ大きいほど、このように動きが荒々しくなるということだ。皿から落ちる分銅もあろう。或いは、揺れに耐え切れず、腕が折れるやもしれぬ。神の力は膨大な質量を持った分銅だ。人間の社会が持つ天秤の皿に置くには、重すぎる』
「善意の皿に小娘が重石を置いたというわけだな。しかし、世界は傾いた天秤を元に戻そうとしている――善意を打ち消す力は……」
「悪意だ。単純に言えばだけど」
『このポリスは無意識のうちにバランスを整えようとしているはず。悪意はいずこかに存在している。しかしそれ以前に、片方の皿に置かれた重石が突然に無くなれば、もう一方が勢いづいて跳ね上がる。世界が分銅を取り除けるいとまもなく』
「そ、それってまずいじゃん!」
「お、タヌキ君、俺と同時に理解したか」
黙って話を聞いていた銀二は、屈みこんで太助の頭をわしわし撫でた。それから彼は、真顔でミダスを見上げる。
「だいたいわかった。急がなけりゃならん意味もな」
『支度は済んだか』
目を閉じたまま、ミダスは一行の顔をゆっくり見回していった。
「これ、差し入れだ。つかれたら食っとけ」
太助はごそごそと風呂敷の中からケーキ箱を取り出し、ミダスに押しつけた。大きさから見て、1ホールは入っているだろうか。ミダスは無表情で、しげしげと甘い香りを放つ箱を観察した。なんだこれは、なんの意味があるのだ、とでも言いたげだ。
『狸。このミダスは飲み食いのできぬ仕様――』
「いーから食えバカ」
クレイ・ブランハムの持ち物は多い。彼は手早くそれを確認すると、ミダスに向かって頷いた。
『では、神子の夢の中へ送るとしよう。神をも捕らえる力を侮るな。このミダスにも、その実相がようとして知れぬ』
リオネは眉を寄せて眠っていた。
心配そうな視線や、冷めた視線を受け止めてなお……眠る。
ミダスの眉がぴくりとわずかに動いたようだった――長々とした詠唱も、裂帛の気合もなかった。きュいん、と悪夢の中で聞いたような音が、10人の意識を貫く。
それが夢の始まりだった。
リオネが、ううん、とかすかにうめき、大きく寝返りを打った。顔をしかめ、どこか苦しげに。
リオネの寝室にたたずむのは、ミダスただひとりだけになっていた。10人の息吹が、銀幕市のいずこからも、忽然と消えていた。
■これは本当に夢なのか■
クレイジー・ティーチャーは、がば、と勢いよく身を起こした。
高所から投げ落とされたような感覚もなかったのに、彼の身体はつめたいアスファルトの上に倒れていたのである。
「……ン? んんン?」
だらりと工事用の金槌を右手に下げて、クレイジー・ティーチャーはきょろきょろと辺りを見回した。寝室の中で合わせた、他9人の姿がどこにもないのだ。もともとこういったある種のミッションにおいても単独行動を取ることが多い彼なので、現状に心細さを感じはしない。ただ、スタート地点は全員同じだと思っていたから、意外だったのだ。
「うゥ! なんだか寒いナァ。見たトコ、ギンマクシみたいだケド……?」
ミダスは自分をリオネの夢の中に送りこんでくれたのではなく、冬の夜の屋外に放り出しただけなのでは。殺人鬼がそう思ったほど、周囲は『銀幕市』の界隈でしかない。
星も月もない、黒い覆いをかぶせられたかのような空。
建ち並ぶ家々の無数の窓からは、ひとつの灯も漏れていない。人の気配はおろか、一切の生物の息吹が感じられなかった。埃が落ちる音さえ聞こえてきそうな絶対的な静寂は、肌を切りそうなほど冷たい。時間さえ、ここでは凍りついているらしい。夢の中というのは、時間の概念が曖昧になりがちだが、それにしても……。
死というものさえ生易しいような冷気。
これは、この空気は、なにを表しているのだろう。リオネの心の中のなにが、ここまで世界を凍りつかせているのだろうか。
「リぃオぅネ、クーン!」
耳まで裂けた口を思いきり開いて、クレイジー・ティーチャーはその名を呼んだ。裂けた口を縫合している糸が、千切れかけるほどの絶叫だった。
「こんなトコにいたらシャーベットになっちゃうヨー! どこー!? どこにいるノー!?」
がりる、がらら、がりい、がりる。
殺人鬼は金槌を引きずり、大声を張り上げながら、暗黒の銀幕市を徘徊し始めた。彼の声はコンクリートとアスファルトにぶつかり、血飛沫のように飛散している。
その光景は、傍から見ると、子供がみるべきではない悪夢であった。
気づいたとき、斑目漆という忍の者は、たったひとりになっていた。
凍えるような空気に叩き起こされたような気分だった。ミダスの魔法を受ける前まで、目も頭も、これ以上ないくらいに冴えわたっていたのだ。1秒たりとも眠ったはずはない。だが、漆の脳は寝起きのようだった。
彼はそっと自分の顔に指をのばす。触れてみる。自分が狐面をかぶっていることを確かめるかのように。
ゆっくりと視線をめぐらせば、パニックシネマの看板が目に飛びこんできた。銀幕市で最大の規模を誇るシネマコンプレックスだ。漆は普段、無意識がそうさせるのか、映画館の前を通らない。映画館をあまり視界の中におさめたくないのだ。理由はわかっている気がするのだが、それを認めたくなかった。
暗く、冷えこんだ銀幕市の中の、巨大な映画館は、営業していないようだ。漆はこくりと固唾を呑んでいた。見たくもない入口の掲示板には、びっしりと……
『陰陽師 蘆屋道満』のポスターが……
シネコンと言えば、複数のスクリーンで複数の映画を上映しているものなのに……
『陰陽師 蘆屋道満』のポスターだけが……
ずらりと、隙間なく、これでもかと、貼りつけられているのだった。
狐面に覆われた漆の表情は動かなかったが、彼は視線をパニックシネマからそむけていた。認めたくないのだ。だが自分がここにこうして立ち尽くし、「なにかを嫌悪している」のは事実だ。どうしたらいいのかわからない。
ほかのことを考えることにした。
……ミダスには特に注文をつけていなかったが、今回の仕事仲間と初っ端からはぐれている状況は好都合だ。ユージン・ウォンとは言い分が合いそうな気がしなくもないが、漆はリオネと会って話をしてみるつもりはなかった。彼らとは目的が微妙に違う。
ミダスに聞きたいことがある。ああ結局、ここに思考は逆戻り。
自分は映画の中に帰りたい。
そもそも帰れるのか。
帰れるはずだ。
帰れるような存在なのか。
ムービースターとはどういったものなのか。
皆の前では尋ねにくい話だった。かと言って、いますぐ聞き出さねばならないことでもないだろう。夢が覚めてからでも、聞けばいい。
リオネは、自分がとやかく言わずとも他の9人がなんとかするだろう――漆はひょいとトンボを切った。彼の姿は、かき消えた。神の夢の中であっても、彼の能力には支障がないようだった。
き………………ィィ……………………ンンン。
あまりにも静かだ。
沈黙が、耳鳴りを連れてくる。
耳が痛くなるほどの静寂とは、これを指すのだろう。
10人の異邦人が訪れるまで、その世界に、意思というものなど存在していなかったのではないか。
蛾の1匹すら飛んでいない、暗い夜。
「まったく、あてが外れたな……」
八之銀二は唇の端をゆるめた。自分に呆れた、苦々しい笑みだ。
リオネは現実を捨てて逃げてしまったのだ。心地いい、自分にとって都合のいい、幸せな世界を求めたのだと思っていた。蓋を開けてみればこうだ。リオネが閉じこもっているのは、善意も悪意もない、まったくの『無』の世界である。
――ちがうな。閉じこめられているんだ。これは。
銀二は呼吸に力をこめる。
彼は銀幕市に現れてからというもの、実にさまざまな『悪夢』を経験してきた。それに比べれば、この夢はまだましなような気がする。囚われのリオネも、神なのだから、ひとつの抵抗もできないというわけではないだろう。夢は彼女のホームグラウンドのはずだ。
――できるはずだ。君には現実さえ変える力があるんだ。帰れなくなってるなら、俺たちが手伝う。
「……で、リオネ君。……どこにいる?」
銀二がぽつりと虚空に尋ねる。
そのとき、無であった世界に、かすかな風が吹いた。子供の寝息のような、本当に、かすかな……。
「ん?」
ぉ ぉ ぃ。
「おっ?」
ぉ ぅ い、リオネぇえ。
リオネー。
どこー。
おうい!
風が運んできてくれたのだろうか、漆黒の町の中から、いくつもの呼び声が上がっている。太助、シュウ、歌沙音、ランドルフ、カラス、クレイジー・ティーチャーのものだ。ユージンやクレイは大声で人を呼ぶような性分ではなさそうだから、声が聞こえなくとも不思議ではない。気づいたときひとりきりになっていたことには少し驚いたが、この様子だと、ミダスはちゃんと10人とも夢の中に送りこんでくれたようだ。
「――おうい、リオネ君! どこにいる!?」
今度は銀二も、はっきりとそう大声で彼女を呼んでいた。
■夢であるはずだ■
毛並みを逆撫でられているような、不快な空気。不穏でもある。ここにはなにもないのだ。建物があって、道があって、空はあっても、銀幕市をそっくり真似た幻影を見せられている気分になる。この世界には縦も横も奥行きもない。いくら走り回っても、永遠に目的には辿り着けないかもしれない。
それでも太助は走った。リオネを呼びながら。いくつの曲がり角を曲がったか。何度足がもつれて転んだだろう。ミダスは、急げと言っていた。
「あ!」
「あっ」
太助は車のように急ブレーキをかけた。角を曲がったところで、見知った顔に出くわしたのだ。続歌沙音だった。歌沙音は太助ほど走り回っていたわけではなかったので、ほとんど息も上がっていないし、夢に入りこむ前までの落ち着きを保ったままだった。
「い、いたか?」
「影も形もないね。君の大声と足音が聞こえただけ」
そう言ってから、歌沙音はほんのちょっと考え直し、訂正した。
「……他の仲間の声もちらっと聞こえたけど」
「ああ、どこにいるんだろう」
「焦っても仕方がないよ。ここにいるのは確実なんだから、落ち着いて探そう」
歌沙音は太助を抱え上げた。暖を取ろうと思っての行動だったが、あえてそれは口に出さない。太助も仲間と再会できたとたんにどっと疲れたので、文句を言わなかった。
寒い。冬のように。太助と歌沙音の体温は確かだ。しかし、吐く息には、白い色がついていない……。
太助を抱きかかえた歌沙音が歩き出したそのとき、ふたりの視界を、小さな黒い影が横切った。
「「!」」
ふたりは顔を見合わせ、今の見たか、と無言の問いまで重ね合わせる。
「誰?」
「リオネか!?」
ふたりは影が去った方向に声をかけたが、答えはない。気配もない。歌沙音は走りだした。影も形もない、ただの視界の染みを追うようなもので、ふたりとも影の存在にはっきりとした確信は持てなかった――それを追いつめ、しかと目の当たりにするまでは。
電柱の根元にうずくまり、影は震えていた。一見すると、電柱の根元を嗅ぐ犬のようでもあった。しかしそれはよく見れば、リオネなのだ。いつもまばゆく輝いている銀髪や、透き通るような白い肌が、モノクロのフィルムの中に落ちたかのように光を失っている。こうして見ると、彼女は常に一種の神々しさを放っていたのだ。それが今は、震える影の塊だ。
「リオネ……」
太助は、彼女に言いたいことがたくさんあった。どう説得して現実に連れ戻すか、そればかり考えながら彼女の夢の中に来た。しかし、いざその機会に直面してみると、頭の中は真っ白になってしまった。緊張するのは好きではない。彼は一生懸命、考えに考えてきた言葉を思い出していく。歌沙音は何も言わず、そっと太助を地面に下ろした。
「な、なんつーか、さ……。その、寒くねぇ?」
恐る恐る近づきながら、太助は無難に話を切り出したつもりだった。
近くまで寄ってみて、ようやく、リオネがすすり泣きが聞こえてくる。
「もうやだ……、やだよぅ……、どうして……、ううう……」
「リオネ」
「た、たのしいのって……いけないこと? みんな、たのしそうなのに……リオネ、いいことしたはずなのに……、なんで……、くるしいの。みんな、こわいよぅ……」
「……たぶんさ、リオネの魔法で『じったいか』したのは、楽しいことばっかじゃないんだよ」
太助が言うと、リオネが顔を上げた。
泣いているようだ。視線をこちらに向けているようだ。だが、その顔まで、うすぼんやりとした陰の中に落ちているようで、はっきりとはわからない。この女の子は本当にリオネか。太助はわずかに躊躇したが、きっとリオネに届くはずだと信じて、言葉を続けた。
「春にゆぐどらしるが言ってたこと、今ならわかる気がするんだ。楽しい夢だけじゃだめなんだってこと。ミダスが言ってたことも……、はんぶんくらいわかってきた。世の中が、それを知ってるんだ。だから、楽しいことがあれば、『じどうてき』にこわいことができるんだ。リオネも知らないうちに、怖い夢も魔法にかかってたんだよ。夢の神さまは、それを知ってなくちゃいけなかったんだ。その……これは、勉強なんだよ」
太助はつっかえながらそこまで言って、ぽろりと苦笑いした。
「俺も勉強キライだけどさ、やっぱり……勉強って、ひつようなんだ」
尻尾を垂らした仔ダヌキは、振り返った。歌沙音に、援護を求めていた。おまえもなんか言ってくれよ、と。
しかし歌沙音は、ゆっくり、普段の真顔で、かぶりを振る。
「君は、間違ったことは言ってない。あとは、リオネが、自分で決めないと。自分でここから出るか、残るか」
「……でも、みんな、おこってる……」
「『みんな』ってわけじゃないよ。少なくとも、私はべつに怒ってないし」
「俺も怒ってなんかねぇって!」
「ほんとに?「うそつき」
突然、リオネの声色が変わった。
冷気がにじむような低い声は、リオネのものではないように感じられた。ちがうものの気配が、足元から……這い上がってくる。
「うそよ。うそ。うそ。うそ。うそ。うそ。うそよ。うそ。う、ぉぉぉぉぉぉ「た、たすけて!」ぉぉぉぉぉ「だれかたすけて、はなして、やだぁ、はなしてよぉ!!」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃべべべべべべべべ」
ずろり。
太助が、息を呑んで後ろに飛びすさった。歌沙音も思わず身構えていた。
色彩を失ったリオネが、溶けたのだ。火あぶりにされた蝋人形のようだった。ぐずぐずと泡立ちながら黒く溶解したリオネは、そのまま、冷たいアスファルトに沁みこんで、跡形もなく消えてしまった。
「リオネ!」
太助が声を張り上げても、もう、神の子のすすり泣きや悲鳴は応えない。歌沙音が鼻で溜息をついた。
「くそっ、なんだ、いまの!」
「いたいけな少女を怖がらせて、捕まえて、どっかに拉致る変態がいるってことだろうね。世も末だよ」
ずずずずずずず。
んんんんんんん。
んんんんんんんんんずずずずずずず……。
聴覚がなんとか拾えるかどうかという、おそろしい低音が、辺りを這いずり始めた。なにかが目覚め、なにかが動き出したようだ。太助はぶるりと身を震わせ、身構える。
「リオネが見なくちゃいけない夢は、これじゃねぇ。俺たちが言ったこと、リオネにはちゃんとつたわってるっぽかった。もっと話さねぇと」
「じゃあ、また探すところからやり直し」
「おう!」
相変わらず冷えきった町並み。
けれども、熱を持ったふたりは、その中を走り出している。
* * * *
――どこに逃げても無駄だ。
ユージン・ウォンの心の中は、冷えているか燃えているのか、渇いているのか、死んでいるのか、よくわからない。怒っているが、あきらめてもいる。呆れているところもある。複雑だ。まるで生きている人間のようではないか。
――どこに逃げても無駄だ、リオネ。
ウォンは右手をポケットに収め、うずくまって震えている黒い影に目を落としていた。大声を上げて駆けずり回らなくても、彼の前に、リオネは現れたのだ。まるで叱ってくれと望んでいるようではないか、とウォンはかすかに溜息をつく。
――私はおまえを許さない。たとえおまえの親、すべての神、すべての人間がおまえをゆるそうとも、私は決して許さない。なぜならおまえは罪を犯しているからだ。その身体を、顔を見ろ。我らの血で、染まっているだろう。
「……聞こえているのだろう、神の子。おまえが神の子であるならば」
ようやく、ウォンは口を開いた。彼は何も語ってはいなかったが、その言葉は、的を得ていたらしい。彼が見下す影は、震えながら、振り向いた。ぼんやりとした視線が、ウォンを怖々と見上げる。
「お、おこってる……ね」
「ああ。そのとおりだ」
ウォンはにべもなく即答した。
「だが、勘違いをするな。おまえの罰が成就することを願っているのは、私だけではない。おまえの魔法に踊らされ、傷つき、死んでいる者は山ほどいる。おまえが思っているよりもはるかに多いと思え」
「……リオネ、……いいこと、したのに……。かわいそうだったから、たすけてあげようって……」
リオネの言い分は、無垢だったが、無責任でもあったし、無神経でもあった。釣り針のように、ウォンの心に引っかかる。それでも、ユージン・ウォンの姿と表情は揺らぎなく、彼の周囲に張り巡らされている鉄条網は、鋭さを保ったままだった。
「『たったひとり』か……。それだけのために自分も大きな代償を払ったことに気づいていないとは……、さすがは子供と言うべきか、憐れむべきか、呆れるべきか、迷うところだな」
「ウォンさん」
ふと、鋭い声が飛んできて、ウォンを責めた。
ユージン・ウォンはわずかに振り返る。誰がここに来たか、声でわかってはいたが。取島カラスだ。ウォンとは対照的に、怒りや非難の意をあらわにしている。ただしそれは、リオネではなく、ウォンに対してのものだった。
「リオネちゃんはまだ子供だぞ。大人がそんな風に責め立てても、怖がるだけだ。あんたの言ってることは正しいかもしれない。でも、子供が理解できるかどうかはわからないよ」
「……おまえには、何を言っても無駄だろうな。リオネ以上に」
ウォンはカラスに、うっすらとした笑みを見せた。暗い笑みだった。ただでさえ冷えた空気が、さらに凍りつくような。カラスはそれを受け流しながら前に出て、リオネのそばに屈みこんだ。
どんなに顔を近づけても、彼女の愛らしい顔立ちがよく見えない。
「俺のことも怖い?」
彼は尋ねた。リオネは、震えながら、じっとカラスの顔を見つめ返してくるだけだった。
「……俺は、たくさんのムービースターやファンと友達になれたし、嬉しかったよ。そんなに、怖いところじゃないと思うんだ……現実は。間違いなく、ここよりはずっと温かいし、いいところだよ。だから……戻ってきて、ほしいんだ」
カラスの言葉は真摯だった。リオネの影は、じっと、聞き入っていた。彼が話し終えると、小さな子供の目は、後ろに下がっているウォンに向けられた。カラスがその視線を追って振り向く。
「ウォンさん。あんたも、リオネちゃんには戻ってきてほしいんだろう?」
「……この『会場』は閑散としすぎているからな。その小娘が踊るべき舞台は、ここではない。それは確かだ。ふさわしい場所で、最後まで踊ってもらわねばな」
カラスはリオネに向き直った。そして、微笑みを見せた。
「ね、リオネちゃん。お願いだ……」
そっと手を伸ばす。彼女に、触れる。
カラスの手に、凶暴な力がこもっていたはずがない。だが、指先が触れた瞬間、リオネの姿にはばしりとヒビが入り、たちまちがらがらと音を立てて崩れ去ったのだった。
カラスが息を呑む。
ウォンはぴくりと眉を寄せた。
リオネのかけらは、さらさらと地面に飲みこまれていく。
たすけて、とささやきながら。
たすけて。たすけて。たすけて。たすけて……。
* * * *
ひらひらと暗闇の銀幕市を舞う、黄金色の蝶。1頭、2頭。非現実的な蝶は、シュウ・アルガからつかず離れずの距離を保ち、ひらひらひらと飛んでいる。そのうち、蝶ははたはたとひとつの方向を示す動きを見せた。お、と軽く声を上げ、シュウは蝶に従う。
しばらく進むと、仲間がひとり、道の真ん中で立ち尽くしているのがシュウの目に入った。彼に背を向け、硬直したように立っているのは、クレイ・ブランハムに違いない。黒い町の中、クレイが着ている白衣は、目に沁みるほどのコントラストを生んでいる。
「よう、どうした?」
「うむ? ……ああ、貴様か。良い所に来た。――もとい、遅かったではないか」
クレイの顔がなぜか引きつっている。シュウはそれに気を取られてしまったが、視線を前に戻して、あっと歓声を上げた。
「リオネじゃんか! 見つけたなら教えてくれって、大声出すとかでよぅ」
「……」
住宅街の、塀と塀に挟まれた、狭い路地。その陰に隠れるようにして、小さなリオネがうずくまっている。暗がりにいるためか、顔を上げてこちらを見ているのに、顔立ちがようとして知れない。ただ――、すすり泣いていて、怯えて、混乱していることは伝わってくる。
シュウはちらりとクレイの様子をうかがった。腕を組み、苦みばしった顔をしているが、なぜか彼の視線は泳いでいる。思い返せばクレイは、柊邸の寝室でも、リオネの寝顔に目もくれていなかったはずだ。シュウは彼が抱えている事情を知らなかったが、どうやらリオネを嫌悪したり否定したりしているわけではなく、苦手なのだろうと察しがついた。クレイはただリオネを見つけただけで、ほとんど話などしていないだろう――このぶんでは。
「よう、リオネ。そんな暗いとこで何してんだ。子供が夜に出歩いちゃまずいだろ。……早く帰ろうぜ」
シュウの言動は、うわべこそいつもとそう大差ない。しかし、彼は穏やかに微笑んでいた。10代の若者には似つかわしくない、『大人』の表情だ。
「リオネは……リオネも、罰を受けるくらいの『禁忌』を犯したみたいだな。誰かに怒られたり、恨まれたりするのも、その罰のうちに入ってるのかもしれない。でもな、……感謝してる奴もいるはずだ。オレも、きっと……そうだ。――クレイはどうなんだ?」
「うむ。……いや」
「どっちなんだよオイ」
「肝心なのは、それを自分の目で確かめるということではないか。己が成した所業のすべてを。それは此処ではなく、現実にある。百聞は一見に如かずと云うだろう。現実から目を背けぬことだ」
「目ェそらしながらそれ言うか……」
「だまれ」
ふたりの言い分を、リオネはじっと聞いていた。
黙って聞いていたが、漫才のようなやり取りに、ふっと……笑みをこぼしたような、気がした。
笑ってくれた。シュウはほっとした。彼女は戻ってくる。そう思った。
「ふふ。ふふふふ。ふふふふふ。ふふふふふふふ……」
「なんだ、なにがそれほど可笑しい?」
クレイが難しい顔をさらに難しくした。リオネのクスクス笑いは、止まらなかった。
「ふふふふふふ。ふひゅひゅひゅひゅ。ひゅひゅひゅ、ぴゅぴゅ、ぴぴぴぴ。ぴきききき、きききききききき、ひきききききき「やめてぇケケケケケケケケケカカカカカカカカ「はなしてっあああああぅあぅあぅあぅあぅあうあーうーあーうーあーうーぁーガガガガガガガ「たすけてえ!」
ぱーん!
それは、風船の割れる音。リオネが突然、破裂した。黒いかけらが四方八方に飛び散る。黒い目玉とはらわたを、ふたりの男は目の当たりにした。リオネが砕け散ってしまった。助けを呼びながら。
四散したリオネのパーツは、地面や塀にこびりつくと、じわりと沁みこんで消えていく。シュウとクレイの身体は、すり抜けていったようだ。
「さきに渡した耳栓はなくしておらんだろうな、若造」
「わか……、オイ、オレ様ァこれでもなァ、」
「神を囚えし者が動き出すぞ。気を抜くな」
クレイは懐から銀色の横笛を取り出し、白衣をひるがえして歩き出す。リオネが消えてしまった途端、クレイは人が変わった。いや、こちらが本来のクレイなのだが、シュウが持つクレイの第一印象がさきの挙動不審版だったため、魔道師は半ば呆気に取られた。
シュウは気を取り直し、リオネがうずくまっていた陰に目を落とす。
砕け散る前の、狂った少女の形相が忘れられない。夢に見そうだ。
* * * *
ランドルフ・トラウトは、見つけだした。
家もまばらになった、銀幕市の郊外で。
だが彼は、ここを銀幕市だとは認めたくない。彼が愛している銀幕市の姿を真似ただけの、真っ黒なまがいものだ。この町の存在を許せなかった。
リオネは寒々とした空き地を、ふらふらと横切っているところだった。しくしくしくしく、泣きながら。彼女は、怖がっているようだった……苦しんでいるようだった。ランドルフはその姿を見て、胸を痛めた。
「リオネちゃん」
無意識のうちに声を上げ、彼は彼女を呼び止めていた。
「どうしたんです。どうして、泣いているんですか」
地を這うように低い声だ。しかし、ひどく優しかった。聞かなくてもわかりきっているような気がしていた。自分でも、何の意味もないことを、何のために聞いているのか、馬鹿馬鹿しくなってしまう。それでも、ランドルフはそう尋ねながら、ゆっくり彼女に近づいていくしかなかった。彼は自分の御面相の恐ろしさを自覚していたし、リオネがなにかに怯えていることもわかっていたから。
「……リオネ、いいことしたっておもってたの。みんなみんな、たのしそうだったんだもん。まち、キラキラしてて、すごくすてき。……でもね、パパもセーラちゃんも、まちのひとたちも……おこってるの。どうして。リオネいいことしたんじゃないの? リオネ、そんなに、わるいこ?」
「……確かに。確かに、銀幕市には、色々と騒ぎが起こりました。リオネちゃんが魔法をかけたからです。悪いことも起きているし、悪い人も出てきました。でも……、私は……」
ぽろぽろと、涙を流しているらしいリオネ。開けた夜空の下にいるが、彼女の顔はやけに暗くて、はっきりと表情が読み取れない。その顔をじっくり覗きこもうとしたわけではないが、ランドルフは巨躯を屈ませ、リオネと視線の高さを合わせようとした。彼の大きさでは、しゃがみこんでも、立っているリオネより頭ひとつぶん以上の差が出てしまうのだが。
「私はリオネちゃんに感謝しています。映画の中の私、『本来の私』は、戦いや苦しみしか知りません。ですが、リオネちゃんのおかげで、私は人間と同じような生活を送れているのです。美味しいものを食べ歩いて、他愛もないおしゃべりをして。そう……この私にも、友達や、……好きな人までできた。この、私が……」
そうっと、壊さないように、ランドルフはリオネの手を取っていた。リオネは相変わらず鼻をすすっていたが、ランドルフの言葉に、黙って耳を傾けていた。
「リオネちゃん。私は、幸せです……」
これは。
目の奥が。
鼻の奥も。
熱いのだ。
ランドルフは困った。どうやら自分は泣きだしてしまうらしい。それを止められそうにない。どうしたらいいのだろう。こんなに、幸せなのに――。
ずボ。
悲鳴。
ランドルフは反射的に、右手に力をこめていた。リオネも、ランドルフの大きな手にしがみつこうと、精一杯力をこめていた。リオネの足が、土に埋まっている。地中から、何かが彼女の両足をつかみ、凄まじい力で引っ張っているのだ。下へ、下へと。リオネを冷たい土の中に引きずりこむために。ランドルフは吼えた。
彼女が壊れてしまう。加減しなければ。だがこちらも引っ張らなければ、リオネは奪われてしまう。なにものかに。それがなんであるかは問題ではない。リオネを助けたい。
「たすけてえ!」
リオネが泣き叫んでいた。
「たすけ、」
ぶぢん。
ランドルフの手に、鈍い衝撃が走る。彼の手にかかっていた負担が、ひと息に軽くなる。彼は自分の右手を見た。握り締めているのは、リオネの手だった。手、腕だけが。
リオネの身体が、地響きを立てる地面の中に飲みこまれていった。ランドルフが呆然と見つめていたリオネの腕も、どろりと黒く溶解し、こぼれ落ちて、土に沁みこんでいく。
獣の咆哮が、びりびりと暗い銀幕市を震撼させた。
今、なにか、聞こえたような。クレイジー・ティーチャーは足を止める。
彼が歩いているのは、夏の思い出もまだ新しい、海岸を望める車道の真ん中だった。車は一台も通っていない。さすがに夜になるとわからないが、いつもの銀幕市なら、格好の散歩やドライブコースになっている道だ。
ゆっくり、殺人鬼はあたりを見回した。
誰もいない道、砂浜、浅瀬が見える。ひっそりと海に浮かぶ怪獣島も。彼は気づいていた。潮騒が聞こえないことに。そう、この町は、海の波まで止まっているのだ。一枚絵や写真のように、一瞬が切り抜かれているわけではない。ただ、波が止まっているだけだ。海は巨大な水たまりと化していた。
しゃ・ぱ。
クレイジー・ティーチャーは目をしばたき、海岸を凝視した。
小学1年生くらいの少女が、海の中にたたずんでいるのが見えた。
「……リオネクぅン!」
やっと見つけた。その安堵は、大仰と言ってもいいほど、彼の台詞ににじみ出ている。金槌を振り回しながら、クレイジー・ティーチャーは砂浜に駆け下りた。蹴り飛ばす砂は冷たかった。リオネが足首まで浸かっている停滞した海水も、恐らく皮膚を切るほど冷たいだろう。
「そんなトコにいたらカゼ引いちゃうヨ!」
海水は予想通り冷たかった。液体窒素に勝るとも劣らないほどだ。クレイジー・ティーチャーは砂浜を突っ切り、凍える海水を蹴散らしながら、リオネのもとに駆けつけた。リオネは……泣いているようだが……よくわからない。微笑んでいるようにも見えるし、怒っているようにも見える。埴輪のような無表情でもある。結局のところ、よくわからない。狂った教師はそれを問題にしなかったが。
「サァ、もう帰ろ? キミはなァんにも悪くナイんだから。キミはイイ子だヨ」
「……ほんとに?」
「オフコースだヨー! 先生の生徒に悪い子なんて、いるハズないじゃナイ! 先生はキミの味方だヨ。ずーっトずーっト、どこにいたってサ」
「……でも……、おこってるひとも、いるもん……」
「ン? ドコに? 先生そんなヤツ知らないナァ」
クレイジー・ティーチャーは、裂けた口の両端を吊り上げ、首をかしげた。
「もしそんなヤツいるなら、先生がブッ殺してあげる。そうサ、キミを傷つけるモノは全部全部殺してあげるヨ。壊シテあげる。ギンマクシがキライなら、ギンマクシを全部。世界がキライなら、世界を全部ダ。リオネクンのためナラ、先生なんでもしチャウよ。ウソじゃないヨ、殺スのも壊スのも、カンタンなんだから!」
ケタケタケタと、クレイジー・ティーチャーはけたたましく笑った。そっくり返って、リオネの手を握りながら、腹の底から、ケタケタと。
黒の海に響いていた哄笑はしかし、出し抜けにぴたりととまった。
「ア、でも。ギンマクシに来たくなかったってヒトも、ヒョッとしたら、いるのカナ……?」
のけぞって、逆さまになった銀幕市を見つめながら、クレイジー・ティーチャーはぽつりと呟く。つい今しがた口にした己の台詞と矛盾していることに、気づいているのかどうか。
クレイジー・ティーチャーが、がば、と体勢を正した。
手をつないでいたはず。彼女を捕まえて、離すまいとしていた。しかしその手の中にあった重みが、急速に失われていくのだ。クレイジー・ティーチャーが見たのは、ばらばらとほつれ、ハリガネムシの集団のような黒いものどもが、冷たい海中に落ちていく光景だった。
子供思いの殺人鬼は発狂した。もともと狂っている、と言ってしまうこともできるが。
殺人鬼は、微動だにしていない海面を金槌で打ち据えた。ぎゃあぎゃあ、げらげらとわめきながら。黒い海面が壊れ、砕けて、散らばっていく。彼が金槌を振り下ろすたび、揺れる、世界は揺れる、
ぐらぁ、
り。
■夢であるはずがないだろう■
「なんや、これ」
深淵を見下ろし、漆は思わず、呆れた声で呟いた。
夢の中の銀幕市、郊外、杵間山のふもとだ。そこに、ぽっかりと大穴が開いている。野球場よりもひとまわり小さいだろうか――かなり巨大な『穴』だ。その深さはまったく、見当もつかない。周囲があまりに暗いせいもあるだろうか。夜目が利く漆にも、底が見えない。
『穴』の周辺一体の冷気は尋常ではなく、空気や時間の凍りつきようもまた、異常であった。
漆は手ごろな石を『穴』の中に落としてみた。いつまで待っても、石が底にぶつかる音は聞こえてこなかった。灯わかざしてみても無駄だろう。深淵はそんじょそこらの明かりなど、たやすく飲み込んでしまうにちがいない。
これは、この夢だけに開いているものではないはずだ。漆は記憶をたぐり寄せた。確か、神様の子供たちが銀幕市にやってきて……。トゥナセラの怒りが暴走し、ゾンビが町にはびこる騒動が起きた……。あのキノコ怪獣テオナナカトルまでよみがえったのだ。確か、そのテオナナカトルゾンビが地中からあらわれた際、実際の銀幕市にも、まったく同じ場所に、大穴が開いたはずだ。町外れなので被害らしい被害もなかったが、穴は大きく深かった。ただでさえ銀幕市は忙しい。埋め立てる計画も遅々として進まず、とりあえず「危ないので近づかないで下さい」といった看板とトラロープでぞんざいな処置がほどこされているだけだ。
漆は現実の『穴』になど興味を持っていなかったので、深淵を覗きこむのはこれが初めてだ。まるで導かれるようにしてここにたどり着いていた。『穴』は、無意識すら無視できない存在感を放っていた。
漆は、我に返った。
まるで、魅入られでもしていたかのように、彼は何分も無言で、『穴』の暗黒を見つめてしまっていたのだ。狐面の表情は凍りついていた。しかし、彼は思わず首を横に振って、一歩ばかり後ろに下がっていた。
これだ。現実にもこの『穴』はある。調べなくてはならないだろう。
ふと、漆は振り返った。
そこに、リオネが立っていた。
会うつもりがなかった神の子。会うべきではない、会いたくはない、会ったらどうなるかわからない……漆が今回、徹底的に避けようとしていた存在だ。だが幸い、リオネの姿はすぐに消えた。無数の紙切れになって。
『穴』から、ごふぅ、と風が吹いてきた。紙切れが舞った。漆はその一枚を掴んでいた。
『陰陽師 蘆屋道満』。『陰陽師 蘆屋道満』の公開予告チラシ。或いはパンフレットの切れ端。そこにはキャスト、スタッフ、ストーリー、コダワリが、びっしりと、小さな文字で書きこまれていて――。
スチル写真の一枚には、斑目漆が収まっていた。
これがムービースターだ。
『陰陽師 蘆屋道満』のフィルムを、ビデオを、DVDを観るがいい。どの『陰陽師 蘆屋道満』の中にも、斑目漆はいる。リオネがそこから引きずり出したわけではない。今も映画の中に彼はいる。銀幕市民どころか、日本中、世界中の誰かが、今この瞬間にも『陰陽師 蘆屋道満』を観ているかもしれない。どこかの誰かが観ているその映画の中に、斑目漆はいるのだ。
チラシがそれを、漆に言い聞かせてくる。
チラシに詰めこまれた、大勢の名前。その思い。それがムービースターだ。自分なのだ。
かえるばしょなどどこにもな い
はじめからおれは
そこからいっぽもうごいていない
漆はチラシを引き裂いた。細かく細かく、もう細かくて千切れなくなるまで破いた破いた。自分がどんな表情でいるか、彼自身にもわからなかった。なにかわめいていたかもしれないが風と息吹の音で聞こえない。一言も喋っていなかったかもしれないがとにかくあああああああああああふああうああああふあうあうふうええうおひそそひそこそひこにわあうあうう
チラシを裂いていた漆の手から、血がしぶいた。
紙くずは黒いガラスのかけら、カミソリのかけら、折れたカッターの刃のようだった。それが残らず、漆の手に突き刺さっていたのである。
「お……、おでましちゅうわけかい」
痛みが漆を引き戻した。現実に――いや、神のみる夢の中に? どちらでもいいことだ。空気は凍りついているが、漆の両手は火のように熱い。
『穴』も、杵間山も、銀幕市も、ねじ曲がっていた。
ただ得体の知れない黒いものが、何も言わず、無数の牙を漆に向けてくるのだった。
■いいやゆめですこれわゆめです■
突然、
銀幕市は崩壊した。
八之銀二の前で。ユージン・ウォンの前で。太助の前で。続歌沙音の前で。クレイジー・ティーチャーの前で。ランドルフ・トラウトの前で。クレイ・ブランハムの前で。シュウ・アルガの前で。取島カラスの前で。斑目漆の前で。
何がどう襲ってきたか、というのは、形容ではなかった。なんでもないものが襲ってきていた。ねじ曲がった町そのものとも言えるし、空が襲ってきたとも言えるだろうし、地面がなくなったとも言える。夢そのものが牙を剥いてきた。
夢の始まりにはぐれていた10人が、ようやくそのとき一堂に会していた。もっとも、それに喜んだり、驚いたりする余裕は誰にもなかったが。気づいたときには場面が変わって、状況も一変している。それは、夢の成せる技だ。
たすけて……。
あらゆる方向から、リオネのすすり泣きが聞こえてきた。
彼女は今や、逃避や疑問にとらわれているのではない。捕らえられて逃げられなくなっている。
カラスのバッキーが、もぞもぞと背のリュックの中から顔を出したのだが、ヘンな声を上げてすぐにまたリュックの中に戻ってしまった。
「ブッ殺すッ、ブッ殺して殺るッ、てめェら殺すッミナゴロシだッブッ殺すッ!」
クレイジー・ティーチャーはめちゃくちゃに金槌を振り回した。周囲にいる仲間の姿も、彼の赤い目の中には入っていない。金槌は命中しているようだが、空振りしているようでもある。相手にかたちがあるのかどうかすら、わからなかった。しかしクレイジー・ティーチャーの身体が、そのとき、吹っ飛んだ。何かが彼を突き飛ばしたのだ。
銀二が彼を受け止めたが、その衝撃は凄まじかった。彼はもんどりうって殺人鬼とともに転がった。地面は黒いおろし金のようだった。バリバリと凄惨な音を立てて、銀二と背中と腕がスーツごと裂けた。クレイジー・ティーチャーがわめきながら立ち上がり、銀二も立とうと地面に手をつく。体重をかけたその手に、黒い何かがぐさりと突き刺さった。銀二は裂帛の気合とともに手を黒から引き抜き、立ち上がった。スーツは白と赤のまだらになっていた。
「リオネ! リオネーッ!」
「たすけて!」
「どこだよ! リオネ! どこだあッ!」
「たすけてえ!」
どこに何があるか、何がどうやって襲ってきているのかわからないが、何もしないわけにもいかない。太助は怪獣ばりの大きさまで巨大化し、がむしゃらに両腕を振り回した。どこかにリオネがいるのは確かなのだ。この黒の帳を引き裂いて、黒い海の中からリオネを探し出さなければ。
何かが太助にぶつかってくる。身体が大きければ大きいほど、のしかかってくる脅威も大きいのか。見えないものと、太助はいつの間にか取組を行っていた。ひどく冷たいものが、太助の温かい毛並みも、ぽっこりふくらんだ腹も、凍りつかせていくようだった。押される、押されている。このままでは足元にいる仲間たちを踏み潰してしまう。
「タヌキ君! もとの大きさに戻って!」
「太助君!」
自分を気遣ってくれているのは、歌沙音とカラスか。それはわかっていても、もうどうすることもできない。黒い冷気は、太助の毛に絡みついている。
「しゃアねぇな、デカいの一発ブチかましてやる! うまく逃げろよ、タヌキ!」
シュウが杖をかざして、空いている右手を振り抜いた。詠唱はこの世の言葉ではなかった。太助の目の前で、赤い光が爆発する。巨大なタヌキは相手から強引に身を引き剥がした。毛がむしり取られ、皮に血がにじみ、よろけた太助の姿はどろんと煙をまとって、もとの大きさに戻っていた。ランドルフが太助を受け止める。太助は気を失っていた。食人鬼が怒りの咆哮を上げた。
その瞬間に無防備になったランドルフを護ったのは、ユージン・ウォンだった。まったく、と小さく呟きながら。ランドルフに呆れたわけではない。リオネに向けた言葉かもしれない。
いや、きっと自分にだ。自分に呆れたのだ。
化剄!
ランドルフに降りかかろうとしていたなにかを、ウォンが受けとめ、刹那のあとには受け流す。得体の知れない攻撃は、その一瞬、「流れ」と化した。だが、次の瞬間には、ウォンが血を吐いて倒れていた。
「リオネくん」
歌沙音が呟く。
「銀幕市は、こういう人たちが、大勢……住んでいるところだよ」
「帰ってきてほしいんだ」
「帰ってきて」
「みんなそう思ってる……」
「帰ってきてほしいから、みんな、頑張ってるんだよ」
クレイ・ブランハムが、血まみれになって駆け回りながら、無言で、爆薬をほうぼうに仕掛けていた。手持ちの爆薬はすべて、闇の中に押しこんでやった。さすがに肩で息をしながら、彼は、彼にしかわからない理屈の装置を操作した。
ずどん、と鈍色の爆発が起こり、冷えきった世界に火の熱が飛び散る。
■ ごめんなさい ■
。
■ああ夢でよかった■
10人それぞれの前に、うつむいたリオネが立っていた。
ごしごしと片手で目をこする。鼻を一度だけすすったが、もう泣いてはいないらしい。
「ありがとう……たすけにきてくれたんだね。リオネ、また、めいわくかけたんだよね。リオネのために、ケガまでして……」
ああ、そうやな。
気にしないで。
なに言ってるんだ。
ようやくわかったようだな。
キミはなァんにも悪くナイ。
「ごめんなさい。リオネ、……ばつうけなくちゃ。セーラちゃんと、パパにいわれたとおりに。ぎんまくしにかえる。ごめんなさい……」
黒い町に、朝日が昇った。
真っ白の光が、町を覆いつくした。まぶしくて目を開けていられない。町は白に染められていく。
だが、あの郊外の『穴』だけは、その光すら飲みこんでいた。
白の中に、まるい、黒い、穴が、ぽっかりと――ぉぉぉぉぉ。
■ほんとうに夢でよかった■
ミダスの魔法は、10人の住民を身体ごとリオネの夢の中に送るものだった。寝室に戻ってきた彼らは、夢の終わりに負った傷も、そのまま連れてきてしまっていた。
彼らの目にまず飛びこんだのは、自分たち同様にぼろぼろになっているミダスの姿だった。打ち壊されかけた石像のように、身体や顔にヒビが入っていて、血が流れ出している。この様子を見るに、「時間切れ」寸前だったようだ。
「だっ……だいじょうぶかよぅ」
「太助君、『その台詞をそっくりそのままおまえに返す』って言われるぞ」
『神子は無事に取り戻したようだな』
太助の心配をあっさりと流して、ミダスは満足げに頷いた。
彼らの後ろで、リオネがうめき……目を開けた。
ランドルフとカラスがその顔を見下ろして、心の底から、安堵の溜息をついた。ゆっくり身体を起こしたリオネを、ランドルフがそっと抱きしめる。
「お帰りなさい」
「……ごめんなさい」
ユージン・ウォンと斑目漆は、その光景を見ていない。誰よりも先に、寝室から抜け出していたから。
『このミダスも夢を――汝等の動向を見守っていたが』
ミダスが余韻に水をさす。しかし、彼は雑談などしないだろう。重要なことしか言わないはずだ。それを知っていた住民たちは、振り向いて、ミダスの言葉に耳を傾けた。
『山麓に大穴が開いていたな。忍のものが行き着いていた。神子の夢の中にあったポリスは、現実のポリスと瓜二つなのであろう。あの面妖な「穴」は、現実でも穿たれたままか』
「ああ、たぶん」
『尋常ならざる負の力を感じた。ポリスの長に伝えよ。何人たりともかの「穴」には近寄らせるな。忍のように、負に中てられるやもしれぬ』
「斑目君になにかあったのか、夢の中で!?」
咬みつくように尋ねてから、銀二は、部屋の中に漆がいないことに気がついた。彼はミダスの答えを聞かず、外に飛び出していた。漆は、彼の友人だったから。
『このミダスは、あの「穴」について探るとしよう』
「……いいけど、ケガ治してケーキ食ってからにしろよな」
『狸。二度目になるが、このミダスは飲み食いのできぬ仕様――』
「だったら私たちで食べよう。リオネくんの快気祝いにちょうどいい。甘いのダメな人いる? いるなら私がその人のぶんも食べる」
歌沙音がケーキ箱をさらった。クレイジー・ティーチャーが目の色を変えた。クレイ・ブランハムは歌沙音やリオネとは同じ空間にいたくなかったのだろう、こそこそ寝室を出ようとしていたが、素敵な笑顔のシュウに阻止された。
怪我の手当ても兼ねたささやかなパーティーが、リオネの寝室に催される。ミダスはその後ろで、懐から取り出した砂時計を見つめた。リオネが眠りに囚われている間、緊迫した残り時間を示していた砂時計。ミダスにしかその時計の読み方はわからない。けれども、7日間で銀幕市が滅びるという事態は回避できたらしい。白髭に覆われたミダスの口元が、ほんのわずかにゆるんだように……見えたのだ。
ふと振り向いた銀幕市の住民たちの目には。
〈了〉
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クリエイターコメント | ギリギリまで制作期間をいただきました。銀幕★輪舞曲という物語のひとつの節目にあたるため、気合を入れて書かせていただきましたよ。そしたらかなり長くなってしまいました。リオネとの対話パートはほぼすべて同時刻に起こっており、すべての言葉はリオネに届いているはずです。彼女もちょっとはこれでことの重大さを理解してくれたことでしょう。皆さんの説得に感謝いたします。 『穴』はこれまで同様警戒指定区域として隔離されます。今後の動きにご注目ください。 ミダスはこれ以後柊邸の荒れ果てた庭を拠点にして銀幕市に留まります。市長の激務のあまり放置された庭を見て(ー"ー ) こんな顔になったのですが本編には入れる必要がなかったので割愛しました。ミダス萌え? |
公開日時 | 2007-10-17(水) 22:10 |
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