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<ノベル>
1.迷子と迷子
「……それで、どないするんや?」
小首を傾げた昇太郎(しょうたろう)に問われ、壱衛は彼よりも大きく首を傾げた。
「さあ?」
「さあ、言われても困るんじゃが」
「正直、右も左も上も下も判らん」
「……実を言うと、俺もや」
超微妙な表情で顔を見合わせ、何度か瞬きをしたあと目をそらす。
ダークラピスラズリから銀幕市役所へ出た壱衛が、対策課の人々に話を聞いて、買い物なる未知の行為のために商店街へ向かったのが一時間前。
『生まれ』て初めて目にした、本物の地上は色鮮やかで、空気ひとつ取ってもそれぞれににおいがあり、風合いがあって、似通った物質で作られた似通った造作の地下世界とは何もかもが違った。
無論壱衛の持つ廃鬼師としての機能はここでも有効だが、あまりに鮮やか過ぎる風景に度肝を抜かれ、何をどうすればいいのかもよく判らなくなって、
「そもそもお前は何のためにここに来ていたんだ、修羅?」
「ん? 俺か。友人と一緒にな、色々見て回ろうと思って出かけたんやが、どうも、はぐれてしもうたみたいじゃ」
「……大丈夫なのか、それは?」
「あー、どうやろな。けど、あいつかて子どもと違うけぇ、まぁ、平気じゃろ。なんとでもするわ」
「いや、その友人の話ではなく、お前が、だ」
「ん?」
「ちゃんと、帰れるのか?」
「……どうやろ」
案の定見事に迷子になって途方に暮れているところに出会ったのが、ダークラピスラズリ再生の立役者のひとりである修羅の青年だったわけだ。
しかし昇太郎は、銀幕市に実体化してそこそこの時間が経ち、また、この地上で一般市民として普通に暮らしているはずなのに、壱衛と同じく道に迷って途方に暮れていたのだった。
結局、迷子ふたり、行く当てもなく、真っ青に晴れ渡った空を眺めて立ち尽くす羽目になる。
壱衛が創られた頃には、ダークラピスラズリはすでに空を失っていたから、この真っ青で、どこまでも続く美しい空間に、生命ならざる壱衛ですら心臓を鷲掴みにされるような感動を覚えはするが、今はその感動よりも、これからどうすればいいのかという困惑の方が強い。
「その……赤ん坊用の日常品言うんは、どこで売ってるんじゃろな」
「それが判らないから困っている」
「そうやな、俺も困るわ。――そういえば、あの子どもは、元気なんか」
「あまり困っていないように聴こえるが、自分で言うからには困っているんだろうな。……ん? ああ、お陰さまでな。あの子がいるだけで、まちに花が咲くようだ。あの時の彼らが植えてくれた花も、もうじき咲きそうだしな」
「ほうか……そりゃあよかったのう」
「……ああ」
「よし」
「うん?」
「俺も、その、買い物いうの、付き合うわ。折角アンタと会えたんじゃしな」
「……そうか、ありがとう。しかし」
「ああ?」
「いや……ありがたいことはありがたいんだが、迷子が増えただけのような、気もする」
「……」
「……」
またしても落ちる沈黙。
埒が明かない、と一念発起して行動しようにも、現在位置すら把握出来ていないふたりにはハードルが高く、更に目も当てられない結果になり兼ねず、壱衛が、昇太郎の友人とやらが迎えに来てくれるまで待った方がいいんだろうか、と思っていると、
「……ん、なんだ、昇太郎に壱衛じゃないか」
「珍しいところで会うものだ……世界は狭い、と言うべきかな」
聞き覚えのある声が響き、
「朱鷺丸(ときまる)に、ベルナール」
昇太郎が、声の主たちに邪気のない笑みを向けた。
ふたりもまた、昇太郎に、親しげな笑みを見せる。
「どうした、何かあったのか」
そう言って笑う青年、背の高い、闊達な印象を与える彼は朱鷺丸、
「地下都市の状況はどうだ。シャングリ・ラの人間や、鍵摂者たちは元気か」
と、静かに問うのは銀髪の魔術師ベルナールだ。
ふたりは、ダークラピスラズリの依頼が縁で親しくなったのか、連れ立って歩いていて昇太郎と壱衛に気づいたらしかった。軽く手を振りながらこちらへ歩み寄ってくる青年たちに、壱衛は静かな目礼を向ける。
このふたりもまた、ダークラピスラズリが再生されるに当たって、様々に協力し、力と心を尽くしてくれた、地下世界にとっての恩人だった。
彼らの誰かひとりが欠けても、恐らく、ダークラピスラズリの再生はならなかっただろう。だから、壱衛の――地下世界の住民たちの、地上人たちへの感謝の念は、深々と揺るぎなく強いのだ。
「あの、天紗(てんしゃ)と万己(まな)の生まれ変わりの赤ん坊のために、子育て用品とやらを買いに来たらしいんじゃ」
壱衛に代わって、昇太郎が事情を説明してくれる。
「ほう、そりゃ楽しそうだ」
「俺もそう思う。それでな、ほんまに喜ばしいことじゃけぇ、俺も協力しようと思うんじゃが」
「ああ、それはいいな、俺も手伝いたい。で、今からどこへ?」
楽しげに笑って朱鷺丸が問うと、昇太郎は首を傾げた。
「それが、ここがどこなんかもさっぱりでな。途方に暮れとったとこじゃ」
「……ミイラ取りがミイラになる、と言うんだろうか、この場合」
「慣用句にストレートに当てはめて考えれば、ミイラを取る前からすでにミイラになっているわけだから、事態は更に深刻な気もするが」
昇太郎の無邪気極まりない迷子宣言に朱鷺丸が遠い目をし、ベルナールがすばらしく冷静に評してみせる。
事実なので特に口を挟む理由もなく、壱衛が黙って三人のやり取りを見ていると、朱鷺丸は肩をすくめて壱衛を見遣った。
「まぁ……いい。なら俺も同行させてもらおう、折角の縁だしな。ベルナール、構わないか?」
「無論だ。とはいえ、私はあまり役に立てないかもしれないが」
「ほう、そういうもんなんか」
「ああ、キメラの作成に使う魔物の仔のことならばいざ知らず」
「ふむ」
「貴族と言うのは、乳母が子どもを育てるのだ」
「そうなのか」
「おまけに、子どもを持った覚えもない」
「ああ、そりゃ俺もないな」
「俺もじゃ」
「――ゆえに、人間の子どものことは知らん」
清々しいほどきっぱりしたベルナールの言葉だったが、現代人ならば突っ込みのひとつも放ちたいだろうそれに対して、昇太郎も朱鷺丸も納得したのか、なるほど、と頷くのみで、特別大きなアクションを起こす様子もなかった。
口にこそ出さないものの、先行きが不安だ、と壱衛は思った。
「だが、まぁ、そう心配するな」
しかしベルナールは何故か自信満々だ。
「これを読めば、問題ない」
その手には、一体どこから出してきたのか、いつの間にか育児関連の情報が満載された分厚い書籍がある。彼が冊子をパラパラとめくると、綺麗な画像つきで、様々な育児グッズが紹介されているのが見えた。
「そうだな……これによると、まずは乳幼児用品だろう」
魔法書を読むかのような厳かな口ぶりでベルナールが言うと、
「おむつに服、粉ミルクと哺乳瓶、たくさんあるな。しかし……どの靴や服も小さいのによくできたものだ。サイズも色々ある。そうか……今はあんなに小さくとも、赤子と言うのはあっという間に大きくなるのだな」
「ほう、この世界にはこんな便利なもんがあるんか。そりゃあええ」
感心したように頷くベルナールの脇から、興味深げに昇太郎が冊子を覗き込み、
「ああ、こういうものを買い揃えるのか。それなら、ここから少し先の商店街に、薬局と言う大きな店があってな、そこで似たようなものを売っているのを見たことがある」
そこへ行ってみよう、と、朱鷺丸が前方を指差す。
昇太郎が頷いた。
「そうじゃな、人がたくさんおる場所じゃったら、もっと色んな話が聴けるかもしれん。それに、薬局とかいう場所にも興味があるけぇの」
彼の言葉にめいめいに頷くと、現代人イコール突っ込み役が不在のまま、子育て未経験者四人は連れ立って歩き出す。
「他に何か、あの子のためになるようなものを贈りたいな、俺は」
朱鷺丸が楽しげに言い、それからふと気づいたように問いを発した。
「そういえば壱衛、あの子の名前はもう決まったのか」
壱衛は首を横に振った。
「買い物とやらのついでに、誰かによい名を考えてもらおうと思っていたところだ」
「そうか……なら、響きのいい名前を考えねばなるまい」
「ああ、そうだな、赤ん坊の幸せを保証するような名前があればいいんだが。昇太郎、何か思いつきそうか?」
「ん? そうやな……道すがら、考えてみるわ」
この場にいる三人は、最初から地下都市に関わって来たから、感慨もひとしおなのだろう。よい名を、と口にする彼らの表情は穏やかで、再生を果たした都市への、その都市に生きる人々への友愛に満ちている。
それは――彼らに気遣われ、温かい思いを向けてもらえることは、壱衛たち地下世界人にとっては、この上もない喜びで、祝福だった。
2.そのあれこれを真実と
「おや、皆さん、おそろいで」
はなまる薬局、という名前の、広くて明るい店の中で、神月枢(こうづき・かなめ)は見慣れた四人を見つけて首を傾げた。
ひとりは着流し姿の端正な青年、ひとりは闊達に整った面立ちの背の高い青年、ひとりは美しい銀髪の中性的な顔立ちの青年、ひとりは身体のあちこちに金属片の埋め込まれた生命ならぬモノ。
そのどれもが、一ヶ月ほど前に地下都市で見たのと寸分違わぬ造作を持っている。
「おや、枢じゃないか。あの時はどうもありがとう、お前たちの植えてくれた花が、もうじき咲きそうだ」
四人がめいめいに手を挙げるなどして挨拶をする中、枢は不思議そうに四人を見ていた。
「……ええと、何かの儀式ですか、それは」
「うむ、これはだな」
と、ベルナールが説明してくれたところによると、道中での、「買い物とは何であるか」という話し合いによって、「買い物籠の中に必要な品物を入れて『レジ』という場所に持っていく」ことが第一段階であるという結論に達した結果、昇太郎は黄色いプラスティック製の買い物籠を後生大事に捧げ持ち、残り三人が恭しく必要だと思われる品物をかごに入れていく、という行動を繰り返しているらしいのだが、現代人たる枢には、どうにもこうにもツッコミプレイス満載だった。
「いや、壱衛がな、あの子の子育てグッズとかいうもんが要る、言うけぇ」
「だが、我々はそのような行為とは無縁なのでな。この、育児書なるものを読んで研究しているのだ」
「それでも、あの子のために何かしたいからなぁ。色々と模索しているというわけだ。――そうだ、そういえばこの、だっこスリングというのは、どうだ。これなら、赤ん坊は抱っこしている人間と同じ目線でものが見られる」
などと、男三人が口々に言うのを、枢は苦笑交じりに聞いていたが、ややあって、
「ええと……色々とツッコミは入れたいですけど、それはさておき。判りました、今日ここでお会いしたのも縁ですしね、お手伝いしましょう。あの赤ん坊が元気に育てば、俺も嬉しいですし」
そう言って、昇太郎の手から買い物籠を取った。
「とりあえず、そこまで大事に持たなくてもいいですよ」
「ん、そうなんか」
「いやぁ、全員が現代とは違う時代背景から実体化した、というのがミソですね、この一行。このまんまで放っておいたら、一体どんな面白い買い物行脚になったんでしょうねー」
「……何ぞ言うたか、枢?」
「いえ、独り言ですよ。ええと……ひとまず、おむつに、哺乳瓶に、粉ミルクに、ベビーパウダー、除菌シートですか。まずまずですね」
「このだっこスリングも入れてくれ、これは絶対にいいと思うんだ、俺は」
「ああ、俺も賛成ですよ、それは」
にっこり笑って、枢は、朱鷺丸の差し出した、ベビースリングなどと呼ばれる赤ん坊を楽にだっこするための布製品を買い物籠に入れる。
それが慣れた手つきと写ったのか、
「枢殿は子育てを経験しているのか」
興味深げにベルナールが言い、枢を苦笑させる。
「残念ながら実子はいませんが、俺は町医者をしてますんでね。子どもも好きですし。職業上、新生児や、その母親と接する機会は多いんですよ」
「ああ、なるほど。では、知識は豊富なのだな。子育ての極意とは、なんだろう?」
大真面目なベルナールの問いに、枢は肩をすくめた。
生き物が対象である以上、極意などと言うものは、恐らく存在しないというのが正しいのだろうが、
「子どもを否定しないこと。一番は、これですかね」
多少の真実ならば、枢も持ち合わせている。
その真実、根本が、子どもを幸せにするのだ。
「子どもは、幼少期に、親や周囲の大人への信頼を通して、人生はよいものであるとか、生きることは幸せだとか、そういう、自分がこの世に存在する意義を見出すための、アイデンティティの基盤を身に着けるのでね」
「ああ、それは、俺も判るような気がするな。父上母上が俺のことを大切にしてくださらなかったら、俺は今のような『朱鷺丸』ではいられなかったかもしれない」
「そういうことです。それがないとね、人間、ひねてしまうんですよ」
ここにその見本がいますから、とは、彼自身は言わなかったが、枢を知る物ならば、無言で彼を指差しただろう。もちろんその場合、あとで何らかの報復措置は行うが。
「ですから、壱衛さん、あなたも覚えておいてくださいね。子どもを『幸せな子ども』にするのは、大人たちの心がけなんですよ」
「……いや、別に、私が子育てをするわけでは」
「でも、携わりはするでしょう?」
「……多分」
「だったら、とりあえず、その仏頂面を何とかしてみましょうよ? 子どもはやっぱり、笑顔を向けられるのが一番幸せですからね。ほらスマイルスマイル……ええと、すみません、無理言っちゃって」
スマイル、と言われて何とか笑顔を作ろうとしたらしい壱衛が、ものすごく珍妙な表情をするに至って、枢は、壱衛の『笑顔の似合う廃鬼師』化計画をあっさり諦めた。
大変残念な結果だが、誰だって無理なものは無理なのだ、と納得しておく。
「まぁ、さておき、焦らず気長にやるのが重要ですよ、大人も子どももね」
ゆったりと育てられた子どもは大らかに長じる。
今の忙しない現代においては難しいことだが、何もそれを、地下都市にまで踏襲する必要はないだろう。
枢はかごの中を確かめてから小さく頷く。
「よし、薬局で買えるのはこんなものでしょうかね。もう少し行ったところにショッピングモールがあるんですけど、そこでベビー用品を色々売っていますから、そちらにも行ってみましょうか。離乳食の準備も始めた方がいいかもしれませんしね」
「りにゅうしょく。なんだ、それは?」
「なんだ、と訊かれても困るんですが……赤ん坊だって、ずっとミルクを飲んでいるというわけにはいかないでしょう?」
「そういうものなのか」
生まれて初めて知った、と言わんばかりの壱衛の口調に、枢は大袈裟な溜め息をついた。
「……ベルナールさん」
「ああ、どうした」
「その育児書、是非壱衛さんに差し上げてください」
「承知した、役立ててくれ」
「ああ、うん、ありがとう……?」
「地下都市の人々の認識が壱衛さんと同じだとは思いませんけど、万が一同じだった場合、先行きが不安すぎます。ちゃんと読んで勉強してくださいね」
「いや、だから、私が子育てをするわけでは……」
「勉強してくださいね?」
「……判った」
枢が、仄暗い笑顔でゴリ押しされた所為か、半ば反射的に頷く壱衛を満足げに見遣ったあと、では会計を、と、ベビー用品の詰まったかごを手に歩き出そうとした、そのとき。
「うわわっ、あ、危な……!」
余所見をしながら歩いていたのか、それとも荷物が多かった所為か、真っ直ぐに歩いてきたひとりの少年が、枢を避け切れず、彼の手にしたかごと盛大に接触し、腕に抱えた大量の荷物とともに地面へ沈没する。
枢の反射神経は下手をすると人外レベルなので、彼自身はさっと避けて無傷だったのだが、山のように詰め込まれたベビー用品の一部は、かごが揺れた衝撃で飛び上がり、明るい色合いの床と絶賛お見合い中の少年の後頭部を急襲することとなった。
ごしゃ、という、鈍い音とともに、床と後頭部にばら撒かれる色とりどりの商品と、商品にあちこちを強打された少年の呻き声を、買出しツアーご一行様は、驚いたような、気の毒そうな表情で見下ろしていた。
「ええと……大丈夫か?」
驚いたらしく、誰も何も言わない中、朱鷺丸が少年に手を差し伸べたのは、落下が一段落してたっぷり一分が経過してからのことだった。
うう、と呻いた少年が顔を上げ、あまりにちぐはぐな取り合わせに目を丸くするのを、枢は面白そうに見ていた。
3.弾む道行き
「……すみません、迷惑かけちゃって」
頭に出来た小さなこぶをさすりながら、古辺郁斗(ふるべ・いくと)は申し訳ない気分でいっぱいだった。
とてもいい天気だったので、トレーニングがてら外へ出て、あちこちを歩き回っていたら、出先で出会った知り合いに買い物の手伝いを頼まれ、大荷物を担いで右往左往する羽目になったのだ。
そしてその結果、他のお客さんとクラッシュして迷惑をかけることになってしまった。穴があったら入りたい、とはこういう気持ちを言うのかと思いつつ、郁斗は、珍しい取り合わせに興味津々でもあった。
ちなみに、ことの発端となった当の知り合いは、無論、すでにさっさと帰ってしまっている。
「怪我とか、ありませんでしたか?」
殺し屋見習いの彼をして、この場に集った人々は、全員がただものではないと思わせる雰囲気を漂わせていたので、正直、心配はしていなかったが、念のために尋ねると、
「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ、こぶをこしらえてしまってすみません。――痛みますか?」
爽やかな笑顔の――爽やかな笑顔なのに何故か『油断がならない』という直感の働く青年が、おむつや粉ミルクなどが詰め込まれた大きな袋を手に問うて来る。郁斗は首を横に振った。
「このくらい、なんでもないです」
全員が年上で、全員がそれぞれに手練れであると判断した結果、普段は、高校生らしい、勢いのある乱暴な言葉遣いをしているのだが、現在の郁斗の口調は自然と敬語になっている。
「それより……あの」
「はい、どうしました?」
神月枢と名乗った青年が首を傾げる。
「いえ、ベビー用品がたくさんあるから、赤ん坊がいるのかな、って」
「ああ。いや、ここにはいないんですけどね」
「あ、そうなんですか。皆さん、その子のために、買い物を?」
「ええ、可愛い子なんですよ。その子にね、元気に、幸せに育って欲しいので、こうして色々と、必要なものを用意しているんです」
ねえ? と、枢が周囲に同意を求めると、その子どものことを思い浮かべたのか、誰もがやわらかい笑顔になった。そして、小さな、しかしはっきりとした頷きがそれぞれから返る。
「――お前、子どもが好きなのか?」
朱鷺丸の問いに、郁斗ははにかんだように笑って頷いた。
「好き……とはちょっと違うかもしれないんですけど」
郁斗が所属していた暗殺者集団では、一人前に満たない、殺し屋見習いたちは一緒に生活をすることになっていたため――中には、年端も行かないどころか、生まれたばかりの赤ん坊さえいた――、郁斗たちのような年長者は、その子どもたちの面倒を見ていたのだ。
だから、赤ん坊という言葉の中に、郁斗は、甘い香りと、懐かしい場所と、くすぐったい慈しみとを思い浮かべることが出来る。
郁斗がその話をすると、朱鷺丸は笑って彼の肩をたたいた。
「それを『好き』と言うんだろうよ」
「……はい」
裏表のない朱鷺丸の言葉に、郁斗は目元を和ませて頷く。
それらを観察し、郁斗の状態に問題ないことを確認したのか、
「さて、では、ちょっとしたアクシデントはありましたが、当初の目的を遂行しましょうか」
そう言った枢が皆を促すと、それぞれに何やら言葉を交わしていた四人が彼を見て、頷く。
「それでは郁斗くん、我々はこれで」
枢の言葉に従って、そのまま踵を返そうとする五人に、迷惑だろうかと思いつつ、
「あの、枢さん、皆さん」
郁斗が声をかけると、枢は立ち止まり、
「どうしました?」
首を傾げて彼を見遣った。
「いえ、あの……初対面でこんなの、おかしいかなって思うんですけど……俺も、その赤ん坊の必需品を買うの、手伝ってもいいですか?」
この場に集った大人たちは、皆、郁斗よりも経験豊富で、様々な面で秀でた能力を持っている。そのくらいは、見習いの、未熟な郁斗にも判る。だから郁斗は、別に、自分に何が出来る、と自惚れたわけでもなかったが、ただ、
「皆さんが嬉しそうなのが、なんか、いいなって」
大人たちが嬉しそうに語る、その幸せな子どもに会ってみたいと、その子のために自分も何かしてみたいと、ふと思っただけなのだ。
――そう思えるようになった自分を、気恥ずかしく感じるのと同じく。
郁斗は、『命』に対しては複雑な思いを抱いていた。
殺し屋の養成機関で集団生活を行い、その中で、仲間の大切や命の尊さ、生きる喜びを感じながらも、いずれ殺し屋として命を奪う立場になる、という事実から、どちらを是とすべきなのか判らない、矛盾した思いで胸をもやもやとさせていた。
故郷での郁斗が、『未来』や『希望』という言葉を悲観的に見ていたのはそういう事情からだが、今、銀幕市での生活を経て、彼はそれらを肯定的に捉えられるようになりつつある。
やはり、命は、生きることは、貴いのだと、様々な事件を通して認識しつつある。
だからこそ、貴さの体現である赤ん坊のために、何か出来ればと思ったのだ。
郁斗のそんな思いが通じたのか、
「……ええのと違うか」
最初に同意したのは、オッドアイの青年、昇太郎だった。
「あの子どもは、幸せやな」
穏やかな眼差しが、どこか遠くを見るように細められる。
「まったくだ。当然、もっと幸せになってくれなくては困るが。よし、郁斗、おまえも手伝ってくれ、次は服と靴と、あとは玩具だ」
「離乳食とやらの準備も必要なのではないか、朱鷺丸」
「ああ、そうだったな。ということは、赤ん坊用の食器もあった方がいいか」
「もう少し大きくなってから見るための絵本なんかはどうです?」
「ああ、そりゃあいい。本いうのは、見てると楽しゅうなるけぇの」
当然のように列の中に郁斗を組み込み、歩きながら、大人たちがあちこちから他愛のない、可愛らしいアイディアを出す。郁斗も遅れないように歩きつつ、負けじとアイディアを投下してみる。
無論、小さなことでも役に立てたら嬉しいからだ。
「……小さな椅子とテーブルなんかあったら、離乳食も食べやすいんじゃないですかね」
「おっ、なるほど、それもいいな!」
晴れやかに笑った朱鷺丸が、郁斗の背中をばしりと叩いた。
「痛いですよ、朱鷺丸さん……」
痛みで微妙な表情になりながらも、郁斗は、弾む気持ちを自覚している。
幸せな輪に入り、幸せな相談に花を咲かせるのは、楽しいことだ。
4.賑やかな道草
「ん、あれ、壱衛たちじゃん」
理月(あかつき)の言葉に、頭(こうべ)を巡らせて、シャノン・ヴォルムスは確かに、と頷いた。
「懐かしい……と言うにはまだ早いが、見慣れた顔が集まったものだな」
「あの坊主以外、全員面識あるもんなぁ。おーい、何やってんだ、あんたら」
理月が大きく手を振り、声を上げると、ダークラピスラズリを救うために何度も地下都市へ降りた面々が、こちらに気づいて笑顔になった。
「久しぶりじゃな、理月」
「おう、ちょっと久々だな、確かに」
「なんやかやでなかなか会わんもんじゃな。そっちの調子はどうじゃ?」
「俺? あー……うん、ちょっと死にかけたり命の危機にさらされたり彼岸が見えかけたりしたけど、まぁまぁ元気だぜ? 毎日楽しいしさ」
「何やえらい不穏じゃな……しかし、アンタはまた怪我しとるんか」
「え? いや、この程度、別に怪我のうちに入らねぇし」
「アンタのそういうとこは……危なっかしいのう、ホンマに」
「……それ、あんたにだけは言われたくねぇな……」
シャノンが、包帯がアクセサリなのかと疑いたくなるほど常に包帯装備の理月と、それを案じる昇太郎の、少しずれた会話を聞くともなく聞いていると、彼と理月とを交互に見比べた朱鷺丸が、
「ふむ、理月とでぇとというやつか、シャノン」
何やら不穏なことを言ったので、
「何故そうなる」
思わずむせそうになった。
「エラい色気のない逢引だな、そりゃ……」
理月も珍妙な顔をしている。
「ん、違ったか? カタカナ言葉と言うヤツは難しいな」
「難しいかどうかはさておき、シャノンを取っちまったら、こいつの大事な人に怒られちまうよ、俺。いや、ぶらぶらしてたらそこで会ったもんでな。立ち話もなんだし茶でもどうだ、って言ってたら、あんたたちが通りかかったってわけだ」
「なるほど、そうなのか」
「朱鷺丸、あんたたちは何を?」
「ああ、壱衛がな、あの、天紗と万己の生まれ変わりのあの子のために、色々と買いに来たというから、その手伝いをしていたんだ」
見れば、確かに皆、様々な品物がはみ出た大きな袋を手にしている。
紙袋のひとつを見せてもらうと、おむつに、粉ミルクに、コットンのシートが入っていた。別の紙袋には、乳幼児用の可愛らしい食器や、哺乳瓶が入っている。他のひとつには、積み木や、様々なボタンやスイッチのついた知育玩具、赤と黄色で彩られたカラフルなぬいぐるみが入っている。
「なるほど、あの時の赤ん坊か」
シャノンは口元に笑みを浮かべた。
「健やかに育っているのか」
「ああ、おかげさまでな。最近、自分で座れるようになった」
「そうか……それは、よかった」
心からの思いを込めて、頷く。
シャノンが世界や未来を肯定的に、希望を含めて捉えられるようになったのは、この銀幕市での日々のお陰だ。
彼は、ここに来て変わった、変わることが出来た我が身を自覚している。
もはや手には入らないだろうと目を背けていた温かいものを、自分が愛し、また自分を愛してくれるものを、再び手にすることが出来たのだ。今のシャノンは、映画の、故郷での自分は別人なのではないかと思うほどに変わったし、その自分に満たされている。
愛する喜びと愛される幸いを同時に与えてくれたこの世界に感謝している。
だからこそ、未来や希望のない、閉ざされかけていた世界が、光を得て甦ったことを喜ばしく思うし、それに協力できた自分を誇らしくも思うのだ。
「じゃあ、ぼちぼち戻るとこなのかい、あんたたち? だったら俺も、あの子の顔を見に、一緒に行こうかな。シャノン、あんたもどうだ?」
「ああ……悪くないな」
「よし、じゃあ決まりだ。……そういや、あの子、名前は?」
「それが、まだなんじゃと。何か、ええ名前があったら教えてほしい言われとるんじゃ、壱衛に」
「へえ、じゃあ俺も何か考えてみようかな? 名前だけで、その子が幸せだって判るようなのが、いいな」
「朱鷺丸と同じようなこと言うとるな、アンタ」
「ん? そうか? でも……真理だろ。なあ、朱鷺丸」
理月に話を振られた朱鷺丸が笑顔で頷き、それから唐突に、
「ああ、そうだ、忘れていた!」
素っ頓狂な声を上げた。
「どうした、朱鷺丸。何か買い忘れたか」
ベルナールが声をかけると、朱鷺丸は、
「いや……ああ、うむ、そんな感じだ。といっても、赤ん坊用というわけでもないんだが」
どうしようか、などと腕組みをして唸っている。
シャノンは理月と顔を見合わせてから首を傾げた。
「何をそんなに悩んでいる。ダークラピスラズリの入り口、市役所までにも様々な店舗があるだろう。買い忘れたのなら、そこで仕入れればいいだろう?」
「いや、それはそうなんだが……俺が地下都市に持ち込みたいのは、菓子作りに関する知識でな」
「……菓子作り……」
「うむ。やはり、甘いものはいい。心がやさしくなるからな」
「いや、ああ、それは否定しない。否定はしないが、何だろう、今妙に背筋が寒くなったような気がする……」
「それで、だ。菓子といえば、」
その辺りで、シャノンの脳裏を、被害者としての神がかった予感とでもいうべきものが駆け抜けていき、彼は思わず片手を突き出して朱鷺丸を制止していた。
「――待て、それ以上言うな。俺の勘が、その先を聞くなと全身全霊で告げているぞ」
しかし、
「菓子といえば『楽園』だ、そうだろう?」
「言うなと言っているだろうが……」
あっさりとその名が出て来てしまい、シャノンはぐったりと脱力する。
それは、彼の千五百年と言う、長く激しく冷ややかな生の中において、シャノンという一個の存在を存亡の危機にすら直面させた、ある意味いかなる武装組織よりも恐ろしい連中が住まう場所なのだった。
故郷においては無敵を誇るシャノンが、あそこに単身で乗り込むくらいなら最新鋭の武器に身を包んだマフィア千人に囲まれる方が一万倍マシだと断言するほどだ。
それほどの被害を受けているのだから当然といえば当然で、だから、
「『楽園』の、あまり贅沢ではない材料でも作れる、簡単な菓子のれしぴというやつを、持っていけないかと思ってな」
朱鷺丸の意見も、無論、シャノン的には抹殺する気満々だった。というよりも、抹殺しなくては高確率で我が身が危ないのだ。
「『楽園』かぁ」
しかし、ちょっとうっとりした理月が、
「実は俺、さっきまでシャノンを『楽園』に誘う気だったんだよなー」
などと不穏当なことを言い出し、シャノンに更なる寒気を覚えさせる。
「待て理月、」
「いや、ちょっと寄るくらいだったら大丈夫なんじゃねぇかな。ほら、今日、休日だし、店も忙しいだろうし」
理月はと言うと彼もかなりの被害者であるはずなのにまったく懲りていない。
「最高のティータイムを過ごそうと思ったら『楽園』しかねぇだろ、だって」
「さも当然のように言われても、俺としては答えに窮するしかないんだが」
「え、真理だと思うんだけどなぁ、俺は」
微妙に噛み合わない、シャノンと理月の会話を聞きつけて、ベルナールがふむ、と頷く。
「噂に聞く『楽園』か……実を言うと、まだ一度も訪れたことがない」
「ああ、『楽園』ですか、楽しいところらしいですね? 人を選ぶ、と聞いたことがありますけど」
「えーと……居候先の大家さんが、いいところだって言ってるのは聞いたことがありますけど、俺も実際はどうなのか知らないなぁ」
「アンタらもか、俺もや。なんや、ええとこじゃて聞くけどな。どうなんや、理月?」
「ん? いいとこだぜ? 甘いものが好きなら、あそこはまさしく天国だと思う。――俺、朱鷺丸の意見に賛成かも。簡単な菓子の作り方って、喜ばれるんじゃねぇかな」
「そう思うだろう? 幸い今日は月曜日でも金曜日でもないから、何とかなる。多分」
……話がどんどんよろしくない方向へ転がってゆく。
シャノンは思わず回れ右をしたくなったのだが、
「心配すんな、大丈夫だって」
がしっと肩を組んできた理月が、シャノンの耳元で、
「毎週のように通ってる俺に言わせれば、毎回毎回危険ってわけでもねぇし。それに、ここだけの話、新規の客を連れて行ったら、そっちに意識が向くだろうしさ。やっぱ、最初は物珍しい方からだろ」
慰めなのか企みなのか励ましなのかよく判らないことを囁き、更に、事態の深刻さを今ひとつ理解していないご新規さんたちが、じゃあ折角だから行ってみようか的空気を漂わせるに至って観念した。
付き合うと言ってしまった手前もある。
「……仕方ない」
そのときのシャノンは死地に赴く殉教者のような表情をしていたに違いないのだが、残念ながらそのことに気づいたのは、同じような目に遭いつつも、『楽園』の菓子を愛している所為で結局『楽園』から逃れられないふたりだけだった。
「よし、なら決まりだ。まずは『楽園』で、簡単で美味い菓子のれしぴを手に入れよう。あの子も、子どもたちもきっと喜ぶ。――壱衛も、それでいいか?」
「ん? ああ、構わない。むしろ、感謝するべきなんだろうな、どうもありがとう」
それを合図に、八人にまで増えた一行は、ぞろぞろと移動を開始する。
シャノンは、いやな予感が的中しないようにとだけ、切実に祈った。
5.No Day But Today
幸いにも、今日の『楽園』は非常に混雑していて、森の女王も娘たちも、そのほかの店員たちも、忙しそうに、楽しげにあちこち動き回っていて、あの恐ろしい空間が発動する様子はなかった。
「あら、いらっしゃい、シャニィちゃん、理子ちゃん、朱鷺子ちゃん。お友達をたくさん、連れて来てくださったのね?」
花が咲くような笑顔でこちらへ歩み寄ってきたのは、森の娘の筆頭・リーリウムで、素で源氏名を呼ばれた三人は酢を飲んだような表情をする。
ここへ足を踏み入れた瞬間から、常に、メギドの丘で繰り広げられる最終戦争に参加する並の覚悟を決めている――決めざるを得なくなっている某被害者たちである。
「何度も言うが俺はシャニィなどでは、」
「そうそう、この前、イーリスが更にホンモノ感を増した猫耳を開発したから、是非また遊びにいらしてね?」
「いや、だから、」
「……ね?」
口元は笑っているが目は本気、というリーリウムに言葉を重ねられ、遠い目をしてアンニュイな溜め息をついたシャノンが、だから来たくなかったんだここ、などと呟く。シャノンの経験上でも、『楽園』ほどシリアスな設定のムービースターを崩壊させる場所はない。
いやな予感をびしびしと刺激されて、
「それで、」
『楽園』初体験の五人が物珍しそうに店内を見渡す中、思わず色をなくして一歩後ずさる三人だったが、リーリウムはそれ以上何をするでもなく、
「今日は、何のご用かしら。皆さんでお茶を……と、いう雰囲気でも、ないようだし」
可愛らしく小首を傾げてそう問うた。
「新しい生けに……もとい、初めてのお客様を連れてきてくださったのなら、嬉しいけど。皆さん、とっても素敵な方々ばかりだし、腕が鳴るわ」
「ちょ、今生け贄とか何とか言いかけなかったか」
「気の所為よ、理子ちゃん」
「まず第一に俺は理子ちゃんじゃねぇし!?」
やっぱり無謀だったんだろうか、という表情で理月が目を剥く。
「細かいところは置いておくとして、何か、わたしたちにご用なのかしら?」
「いや、別に細かくは……あ、そうだった。ありえねぇ名前を呼ばれてつい取り乱しちまったぜ……」
「まったくだ、このままでは埒が明かないな。今日は、頼みがあって来たんだ、リーリウム」
リーリウムの、というか『楽園』スタッフのこれ、所謂漢女いじりはもうデフォルトなのだから、いちいちびくついていても仕方がない、と開き直ったのか、朱鷺丸が用件を切り出す。
「ええ、何かしら」
「地下世界ダークラピスラズリの話は聞いているか?」
「ええ」
「あそこは今、順調に再生の道を辿っている」
「……素敵なことだわ」
「ああ、俺もそう思う。それでな、シャングリ・ラの……ずっと頑張っている人間たちの集落に、簡単で美味な菓子のれしぴを持ち込んで、励みに出来ないかと思ったんだ」
「まあ」
朱鷺丸が言うと、リーリウムは楽しそうに微笑み、頷いた。
「菓子といえば『楽園』だ、そうだろう?」
「嬉しいことを言ってくださるのね、朱鷺子ちゃん。いいわ、何か、お持ちしましょう。少し待っていてくださるかしら?」
「ああ」
朱鷺丸が頷くと、リーリウムが笑みとともに踵を返し、漢女たちには馴染みのバックヤードへと姿を消す。
「……いいところじゃな。皆が楽しそうなのがええ」
「そうですね。今度、大家さんや師匠に頼んで連れて来てもらおうかな」
「いやあ、いいですねぇ、あの不穏な雰囲気。俺では彼女らのお気には召さない気がしますけど……一度、ウチの居候を連れて来てみたいですね。どんな楽しいことになるのやら」
「不穏な雰囲気? 何のことだ、枢殿?」
「いえ、こちらの話ですよ、ベルナールさん」
「ん? あれ……?」
「どうかしたんか、理月」
「いや、なんか、視線を感じたんだけど……気の所為かな」
「……どこかから女王が見てるんじゃないか?」
「本気で怖いからやめてくれ、シャノン」
と、一部不穏な内容を含みつつ他愛ない会話を交わすこと数分で、薄い冊子を手にしたリーリウムが戻って来る。
「はい、朱鷺子ちゃん。活用してもらえたら嬉しいって、サリクスが」
「ああ、ありがとう」
朱鷺丸が冊子をぱらぱらとめくると、ごくごく簡単でシンプルな蒸しケーキやナッツの入った簡単な焼きケーキ、色々な種類のドーナツやクッキー、マシュマロにメレンゲ菓子、キャラメルやキャンディの作り方までが載っていて、彼は満足そうに頷いた。
「皆の、幸せそうな笑顔が脳裏に浮かぶようだ」
「そうだな、俺も幸せな気分になっちまうよ、それを想像するだけで」
まったく別の、決して幸せなだけではない世界から実体化した――しかしそれは、恐らくどの世界であっても同じことなのだろうが――ムービースターを含めた八人で、冊子をパラパラと回し読みし、シャングリ・ラの人々がどんな反応をするのか想像して笑いあったあと、彼らは『楽園』を辞した。
去り際に、『楽園』スタッフが、地下世界のために役立ててくれと小麦粉を大量にくれたので、荷物は更に増えたが、
「さあ、では、ダークラピスラズリに向かうとしようか」
大きな紙袋を提げて先頭を歩く朱鷺丸がそうであるように、誰もが弾むように楽しげだった。
彼らは皆、今、現在進行形で、未来と言う言葉が、肯定的に、希望を伴って存在していることを、全身で理解しているからだ。
「皆、あの子の名前は考えたか? 俺は、ひとつ、いいのを思いついた」
朱鷺丸自身、このまちで、今という時間を、懸命に、誠実に生きている。
生きているつもりだ。
切り取られた時の中で繰り返されているムービースターの人生も、ここでは続きを生きることが出来るし、幸せを見つけることも出来る。故郷ではなすすべもなく失うしかなかった様々なものを、ここでは取り戻すことも出来る。
朱鷺丸もまたそうして、『許される』ことが出来た。
――無論、今も重苦しい事件は起き、たくさんの命が失われ、たくさんの涙が流されている。
世界は美しいものだけでは語れず、時に暗雲が垂れ込める。
それでも、やっぱり、『生きる』ことは素晴らしい、と思うのだ、朱鷺丸は。
そう、たとえいつか、終わりの時が来ると判っていても。
否、だからこそ、なのかもしれない。
6.続くものに祝福を
地下都市に、シャングリ・ラに降りてみると、赤ん坊はたくさんの人々に囲まれて、ふくふくとした笑みを見せていた。
「おや、帰って来たのか、壱衛。何やら懐かしい面子が勢ぞろいしているようだな」
わっかのかたちをした玩具を振って笑う赤ん坊を抱きながら、こちらを見て笑うのは、この世界で二番目に古い廃鬼師、十守(とおかみ)だ。
「久しぶりだな、十守殿。なかなか様になっている、父親かと思ったぞ」
「ははは、ベルナールの言う通りだ。手馴れた様子じゃないか、十守」
「それは光栄……と言うべきなのかな。しかし、残念ながら、子どもを持てるほどの甲斐性はないな。せっかくだ、ベルナール、抱いてみるか?」
「む、いや、ええと、それは……」
「ん、どうした?」
「いや、その。扱い方が判らぬ。壊してしまいそうで、怖い」
「心配するな、この子は俺たち廃鬼師よりも丈夫だ。……ほら」
「う、」
「ああ、お前も様になっているじゃないか、ベルナール。今すぐ父親にだってなれるぞ、これなら」
「じ、冗談を言う暇があるのなら手伝ってくれ、朱鷺丸殿。落としたらと思うと、生きた心地もしない……!」
赤ん坊を強引に渡されたベルナールが、相当腰が引けた様子で、雪の結晶で出来た細工物にでも触れるかのように、怖々と彼女を腕に抱く様子を、朱鷺丸が笑いながら見つめ、シャングリ・ラ及び地上人たちもまた微笑ましげに見ている。
「や、なんか……いいよなぁ」
理月が、ベルナールと赤ん坊に向けた銀眼を細めて呟く。
その目には憧憬の光があった。
「……確かに、何もかもが懐かしいような感覚を受けるな。理月、お前もか」
同じく、穏やかに目を細めたシャノンの――息子のように可愛がっている少年のことを思い出していたのだろうか――問いに、理月は肩をすくめた。
「ん、だって俺、親の記憶なんかほとんど残ってねぇし。子育てなんて、根無し草の傭兵には遠い世界の出来事だもんなぁ。――でも、だからこそ、あの子どもは、最後まで、全員で愛してやって欲しいんだよな」
「ああ……そうだな。命を育む尊さを、俺は、このまちに来てようやく思い出すことが出来たような気がする。だからこそ、大切にして欲しいと思うのかもしれん」
枢は、手帳を一枚破って、地図と携帯電話の番号を書き込んでいた。それを、郁斗が物珍しげに覗きこんでいる。
「子育てのコツを知りたい、ということでしたけど、正直、真実の意味での近道なんてありませんからね、じっくりやっていくしかないと思うんですよ。それで、新人ママたちが集まってお喋りする会にでも参加されたらいいんじゃないかと思いまして」
シャングリ・ラの大人たちが大真面目に頷くのへ笑みを向け、
「そうしたら、色々な方面からの、たくさんの意見を聞けるんじゃないかと。ああ、愚痴大会とかも時々やってるらしいですが、基本的に子供が好きな人たちの会合ですし、少なくとも子供が嫌いで憎くてどうしようもないような人は来ないはずですからね」
活用してください、と、紙を手渡す。
十守がありがとうと笑って紙を受け取り、それから、ふと思い出したという風情で七人を見渡した。
「そういえば、お前たちがここに来る三時間ほど前、地上人たちが人探しに来たぞ」
「人探し?」
「ああ、ムービーファンの男だったかな、何ヶ月か前から、行方が判らなくなっているらしい。ダークラピスラズリは広いからな、迷い込んではいないか、と尋ねられたんだ」
「……いなかったのか?」
「廃鬼師のプライドにかけて、全都市機能を駆使して調べたが、いなかったな。それで、ふと、お前たちに心当たりはないかと思ったんだが」
十守の言葉に、ベルナールから赤ん坊を受け取って、慣れた手つきであやしていた朱鷺丸が記憶を探る目をする。
「……そういえば、そんな依頼を見かけたような気がする」
「朱鷺丸、あんたもか。俺もだ。ただ……心当たりってのは、ないな。写真も見たけど……初めて見る顔だった」
「何か、事件に巻き込まれたのか? 最近の銀幕市は少し物騒だからな。必要とあらば、子飼いの情報屋に探らせてもいいが」
「何ヶ月も、って、心配ですね。俺も、師匠に訊いてみようかな……?」
郁斗が、朱鷺丸に赤ん坊を抱かせてもらいながら首を捻る。
「まぁ……でも、誰か、他の連中がそれを受けたんだろ? だったら心配は要らねぇんじゃねぇの? 変な確信だけどさ、このまちの人間なら何とかしてくれるだろう、って思っちまうんだよな、俺」
理月の言う確信は、決して完全無欠のものではなかったが、この街においては、真理の一端と言えなくもない。ここには、様々な苦悩と慟哭と同等に、様々な奇跡と幸運とが満ちている。
「……まぁ、そういうことだな。何か手が必要なら、貸せばいい」
理月の言葉を受けてシャノンが頷く。
「ああ、そうだ」
そこへ声を上げたのは朱鷺丸だ。
皆の視線が集中すると、彼は、
「この子の名前を、つけるんじゃなかったのか。……壱衛、どうしたらいい?」
赤ん坊を幸せにするべき『贈り物』を挙げ、壱衛を見遣った。
シャングリ・ラの人々が、期待と喜びに満ちた目で地上人たちを見ている。
朱鷺丸はぐるりと自分以外の六人を見渡した。
「皆、いい名前は思いついたか?」
「……ああ」
頷いたのはベルナールだった。
「私は、シンプルに、望(のぞむ)と」
ベルナールの視線が、次に、壱衛と話し込んでいた昇太郎を見る。
昇太郎は頷き、しかし名づけなどはしたことがないのか、
「俺は……天和(テンナ)、というのは、どうかと思うんじゃが。……ずっと、この世界が平和であるように」
少々気恥ずかしそうにそう言った。
昇太郎が見やったのは、理月だ。
「ん、俺か? 俺は、万貴世(マキセ)ってどうかなぁって。世界で一番貴い、みたいな意味でさ」
すると、郁斗が、
「あ、俺は、万喜(マキ)はどうだろうと思うんですけど。喜びを全部独り占めしてしまう、みたいなイメージなんです」
やはり少々恥ずかしげに、照れたように名前を挙げる。
それらを聞いた後、枢は、そのままで申し訳ないのですが、と前置きして、
「この世界の礎になったふたりを忘れないために、という意味で、紗万(サヨ)はどうかと」
やさしい響きの名前をひとつ、挙げた。
皆の視線が集まって、シャノンは、
「……名づけなどと言う行為とは、無縁だと思っていたが」
美しい弧を描く唇に微苦笑を載せた後、
「ヒュムヌス。ラテン語で、賛美歌と言う意味だ。……あの時の、あの美しい歌を、そうやって表現できないものかと」
表意文字ではなく、表音文字による名前を示してみせた。
「ああ、どれも、美しいな」
壱衛が微笑む。
ダークラピスラズリの人々も微笑んでいた。
「朱鷺丸殿、貴殿は?」
ベルナールの問いに、照れ臭げに頬を掻いた後、
「俺は……和奏(ワカナ)、というのは、どうかなと」
朱鷺丸が口にしたのは、やわらかな、様々な思いと意味合いを含んだ名前だった。
「理由は、シャノンと似ているんだが。あの時、綺麗な歌とともに生まれてきた子だから、音楽に関する文字を入れたかったんだ。失われたと思った命が再度戻ってきた、再会を許されたときのあの喜びを、末永くそこに留めたい」
そこで一度言葉を切り、
「それに、ふたり分の命が、この子を奏でているのだしな」
朱鷺丸がそう言って、郁斗の腕の中にしっくりと収まった赤ん坊を見遣ると、彼女は手にした玩具を大きく振って、楽しそうに――弾けるように明るく、笑った。
――まるで、それがいい、と主張するかのように。
郁斗の腕の中できゃわきゃわと笑う赤ん坊に、自然、皆の目尻が下がる。
昇太郎はベルナールと、シャノンは理月と、枢は郁斗と顔を見合わせ、かすかに笑った。
「これは……決まり、か?」
「の、ようだ。本人がそう言うのだから、問題あるまい」
「いいんじゃねぇの? すげぇ綺麗な名前だと思うぜ」
「ええ、そうですね。我々は、彼女が、その名の示すごとくに、幸いとともにあるよう祈りましょうか」
「和奏ちゃん、か。いいですね、どんな大人になるのか、楽しみかも」
郁斗が赤ん坊の頭を撫でて笑うと、今や和奏となった彼女は、まだ言葉にはならない、しかし楽しげな喃語をこぼして手をぱたぱたと振った。
朱鷺丸は、そんな赤ん坊をじっと見つめていたが、
「……どうか、お前の行く道に、幸せばかりがあるように」
そう言って彼女を抱き上げ、柔らかく抱き締めた。
周囲から、わっと歓声が上がる。
ダークラピスラズリの人々が赤ん坊を取り囲み、めいめいに祝福の言葉をかけると、地上人たちもそれにならい、赤ん坊に開けた未来、続いてゆくものに、それぞれの言葉で祝福した。
穏やかな喜びが辺りに満ちる。
――世界が謳う再生の歌が、また、聴こえたような気がした。
昇太郎は、それらの光景を、少し離れた場所から目を細めて見つめていた。
「……お前は、仲間には加わらないのか」
そっと声をかけたのは、壱衛だ。
昇太郎は微苦笑して、小さく頷いた。
「見てるだけで幸せな気分になれるから、ええんじゃ」
「……そうか」
隣に並んだ壱衛は、それ以上何を言うでもなかったが、この最古の廃鬼師が、昇太郎を気遣い、また案じていることは伝わった。
互いに、同じような業を背負っているからなのかもしれない。
だから、昇太郎が思わずぽつりとこぼしたのも、その、奇妙な親近感、連帯感のなせる業なのかもしれなかった。
「俺には、多分、過去も未来もない。輪廻を背負って永遠を生きる、いうんは、そういうことじゃけぇ」
昇太郎にあるのは、ただ、あり得るのかどうかすら判らない世界の再生のために、それを願い、苦しみ続ける時間だけだ。
しかし、二千年以上を絶望の中で過ごしていた地下都市に、光が戻った。
彼はそれを目の当たりにした。
――結果、昇太郎は、自分が生きていた世界も、同じように、かつての美しい姿を取り戻すのではないかと、取り戻させることが出来るのではないかと、前よりもはっきりと思えるようになった。
「俺は、ダークラピスラズリに、感謝しとるんじゃ」
「感謝? 感謝すべきは、我々だと思うが」
「いや……なんて言うたらええんかな、色んなええもんを見せてもろうたけぇの。それで、色々、考えられたし、決められたけぇ」
「……そうか」
大切なものを――あの美しい風景と、もう一度出会いたい。
きっと出会えるだろうとも、昇太郎は思う。
そのためならば、この命などどうなっても構わないと、我が身を削ってでもなすべきことをなし、果たすべき約束を果たすのだと、昇太郎は決意を新たにするのだ。
その生き方に苦笑し、溜め息するものがいることも、また、事実だけれど。
昇太郎の視線の先で、皆にかわるがわる抱き締められて、赤ん坊は無邪気に……無垢に笑い声を立てていた。
大人たちの笑顔は、赤ん坊の命の光に照らされて、輝くようだ。
無心に命を奏でるその姿に、思わず笑みが、こぼれる。
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クリエイターコメント | 今晩は、シナリオのお届けに上がりました。 皆さんのお付き合いに感謝いたします。
鉄塊都市シリーズの番外編とでも言うべきシナリオでしたが、様々な方面から示していただいたアドバイス・アイディアのお陰で、今や地下都市の希望となった赤ん坊は、更に健やかに長ずることが出来そうです。
皆さんの未来や希望に対する真摯な思いと、過去から現在に至る心のありように深く共感すると同時に、地下世界へのご厚意に厚く感謝申し上げます。
地下都市では、今後とも、地上と交流しながら彼らなりの日々を営んでいくようですので、よろしければ、赤ん坊の顔を見に、もしくは廃鬼師たちに会いに、ダークラピスラズリを訪れてみてください。
なお、このシナリオは、後日公開されます『【小さな神の手】黄昏無窮祈』と少しばかりリンクしておりますので、よろしければそちらもご確認くださいませ。
それでは、どうもありがとうございました。 また、次なるシナリオでお会いしましょう。 |
公開日時 | 2008-06-19(木) 19:20 |
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