★ 二度目のおわかれ ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-2577 オファー日2008-04-08(火) 21:00
オファーPC ユージン・ウォン(ctzx9881) ムービースター 男 43歳 黒社会組織の幹部
ゲストPC1 リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
ゲストPC2 蘆屋 道満(cphm7486) ムービースター 男 43歳 陰陽師
ゲストPC3 リオネ(cvmp4296) その他 女 20歳 女神
<ノベル>

 ムービースターが、いつ、、どのようにして、現実の世界に――銀幕市に実体化して現れるのか。どこからかれらが、やってくるのか。
 それをはっきりと目にした者は、ほとんどいないようだ。ムービースターと呼ばれるようになった者たちは、リオネが銀幕市に魔法をかけてしまってから、断続的に生まれ続けている。しかし、いつもかれらは忽然と現れ、状況を把握したあと、市役所を訪れる。
 蘆屋道満。
 彼も、ふと『気づき』、目を開けたときには、銀幕市の片隅に立っていた。いや、座っていたかもしれないし、倒れていたかもしれない。自分の体勢すら、『気づいた』次の瞬間には忘れていた。
 目の前には五つの、見慣れた面が並んでいた。白塗りに、朱と黒で目鼻立ちを描かれた不気味な面――それをかぶって、ただただ無言の、五人の忍者。
「御前たち。漆はどうした。御前たちは、確かに漆に授けたはず」
 無言のままではあったが、道満の第一声を聞いて、黒装束の忍たちは顔を見合わせた。言葉はない。どう説明したらいいものかと、かれらはかれらなりに思い悩んでいるのか――腕を組んだり道満から顔をそむけたり空を見たりしている。
 空を睨む面につられたわけではないが、道満もゆっくりと顔を上向けた。
 今にも落ちそうな、鉛色の、冷たい空が広がっていた。
 どこか胸をかき立てられるような、けたたましい奇妙な音が響いている。
 止まった風の中でたたずむ木も、冷たい空気を受け止める建物も、踏みしめている地面さえ、蘆屋道満にとっては未知のものだった。
「何やら無粋な調べだな。警鐘か? 騒々しい都に来てしもうた」
 道満は眉をひそめ、黒装束たちを見下ろした。無骨な顔には、余裕と、威厳が満ちている。不気味な白面をずらりと揃えて、五人の黒装束はひたと動きを止め、道満の顔を見つめ返した。
「この都について知りたい」
 低く、それだけ告げると、黒装束たちはぱっと散った。ある者は、昼間の灰色の影の中へ。ある者は黒い風になって通りを駆け抜けていった。道満はただその場に立ち、懐から重々しい鉄扇を取り出す。
 しかし鉄扇は、結局、広げられなかった。
 それから、半刻も経たなかっただろうか。
 銀幕市に敷かれた戒厳令が解かれたのは――虚ろなお別れが、済んだのは。


 リゲイル。終わった。
 終わってしまった。
 どこからどこまでをドア越しに伝えたか、ユージン・ウォンにはわからなかった。ことばは、口からこぼした端から忘れてしまう。実際には、ただ簡潔に、彼女に望んだだけだった。
「……入っていいか?」
 と。
 銀幕ベイサイドホテル、街の夜景も昼の輝きも一望できるスイートルーム。リゲイル・ジブリールは、そこに住んでいる。ウォンはつい数時間前にも、このドアの前に来ていた。そのときも、ノックをし、ドアの向こうの気配が動くのを読み取ってから、
『私は、〈まだらの蜂〉を殺しに行く』
 と、簡潔に告げただけだ。
 そのときは、彼女が、飛び出してきた。
 だが、今は。
「……ごめんなさい」
 出てこない。
 彼女が。
 ウォンの脳裏に、リゲイル・ジブリールの顔、顔、笑顔、泣き顔、はにかんだ顔、嬉しそうな顔寂しそうな顔、涙、いとおしい顔が、浮かんでは消える。しかし、彼女の記憶が浮かび上がるばかりで、現実の視界の中に、彼女はいない。ウォンは何も言わなかった。その答えを、震える声を、とうに予測していた。だからサングラスも取らず、微動だにしないドアを見つめているのだ。
 彼女は、会ってはくれないし、部屋にも入れてくれない。
 わかっているのに、ウォンは来た。
「ごめんなさい、ユージンさん。ごめんなさい。帰って。ごめんなさい」
「……なぜ、そんなに謝る」
「だって。だって……私の、せいで。ごめんなさい。ユージンさん、ごめんなさい! 帰って! おねがい、私、ユージンさんに会えない。帰って!」
 スイートルームと廊下を切り離す扉は、かなり頑丈で分厚いものだった。リゲイルの声は、廊下にいるウォンがやっと聞き取れるくらいにしか漏れてこない。それでも、ウォンには聞こえる。彼女のすすり泣きと――
「私が、私がとめなかったから。私のせいで。私のせいで漆くんは。ユージンさんも、大事な、ラウさんを亡くしちゃって。ラウさんまで。私のせい。ぜんぶぜんぶ、私のせい!」
 血とともに吐いているような自責。
 わああああ。うわあああああん。ああああああ。ぅああああああ。
 彼女が泣くとは。
 リゲイル・ジブリールは、どんな目に遭っても、涙を見せたことがない。
 彼女が泣いているとは。こんなに大きな声で。
 ユージン・ウォンの銃には、弾が装填されている。この分厚いドアも、破るだけならわけもなかった。ロックを撃ち壊し、中に飛びこんで、サングラスをうち捨てて、リゲイルを抱きしめることも、造作もない。
「…………」
 ユージン・ウォンは、何もできなかった。
 黙って、重厚な臙脂色の絨毯を踏み、ベイサイドホテルを出る。
 謝るべきなのは。
 自分を責めるべきなのは。
 許されざるものは。
 ――王宇澄。おまえだ。

 ど、
   ぢッ。

 いつの間にか、ユージン・ウォンは自分の巣に戻っていた。どの道をどう通って帰ってきたのか、記憶はさだかではない。ぼんやりしている。
 気づけば、部屋の壁にかかっていた大きな鏡に――鏡の『中』の自分の姿に――鉄拳を見舞っていた。痛みはあとからついてきて、霞がかった意識は次第に鮮やかになっていく。ひび割れた鏡面に浮かぶウォンの姿は、ばらばらな角度と無数の辺に切り裂かれ、血にまみれた。
「誰であれ同じ結果に行き着いただろう」
 ウォンの背後で、誰かが言った。
「レンは頭が回りすぎただけ――誰も、間違ってはいなかった」
 誰の声が、何を言わんとしているか。……言われなくとも、ウォンにはわかっていた。まるで自分の声のようだ。
 しかし、自分は本当に間違ってはいなかったのか。レナード・ラウは道を誤り、道を踏み外したのでは。リゲイル・ジブリールに、彼らをとめることが本当にできたのか。
 しかし、ウォンは、ユージン・ウォンが答えに辿り着こうとするのを、今は頑なに拒んだ。砕けた鏡の中心に、ぎぢりと拳を押しつけていく。浮き上がる血管と、食いこむ破片。滴る血。
 とても熱い。
 心は凍えて、震えているのに。
 本当に、道はひとつだったのか?


            ★  ★  ★


「……私は、〈まだらの蜂〉を殺しに行く」
 そうウォンが告げた次の瞬間、ものすごい勢いでドアが開いた。血相を変えたリゲイルが、ウォンの服をつかむ。身長差がありすぎた。リゲイルはまるで空でも見ているかのように顔を上に向けている。いつも、ふたりきりでいるとき、ウォンはサングラスを外していた。しかし、このときは違う。ひとつしかない碧眼を、黒の中に韜晦していた。
「だめ! 絶対だめッ! だってそんなことしたら、……ふたりともほんとにいなくなっちゃうんだよ!?」
 沈黙。
 相槌すら無い。
「死んじゃうのよ! 殺しちゃったら、漆くんもラウさんも。ねえ、ミランダさんっているじゃない。ムービーキラーの。研究所のおかげでちょっとよくなったって。ねえ、漆くんとラウさんも、もしかしたら、助かるかもしれないでしょう。も、もとどおりにならなくても、い、生きててくれたら……どうにかなるかもしれないじゃない。死んじゃったらおしまいよ。そ、そんなの、いや! いやよ!」
「ふたりは、もう、死んだ」
「ぃ、……っ――」
 リゲイルの言葉が、引きつったように喉に詰まる。ウォンは、あまりに華奢なリゲイルの肩に、そっと手を置いた。
「元に戻す方法がないとは誰も言っていない。だが今は、誰もああなったものを元に戻す方法を知らん。生け捕りにするのは、難しいだろう。レンと漆の能力は、恐らくミランダを上回る」
 今度は、リゲイルが黙って話を聞かねばならなかった。
「それに、今がどういう状況か……〈まだらの蜂〉というものが……何をしているか。おまえは、知っているだろう」
 リゲイルは目を伏せ、その問いに、無言で頷いてみせた。
 殺しまわっている。
 狐面の男は、市長邸の周辺にいた者を無差別に攻撃し、リオネを拉致した。リオネに罵声と嘲笑を浴びせながら、市内を引きずり回している。
「あれが、レナード・ラウと斑目漆のすることか?」
「……」
「死してなお骸を踏みにじられることが……墓を掘り返され、骸を操られることが……どれほど屈辱で……どれほど…………苦しいか…………」
「――ユージンさん」
「あれは…………亡霊だ…………」
 いつから、ウォンの手が震えていたのか。リゲイルの肩は、壊れそうだった。リゲイルが見上げたウォンの顔には、サングラスがある。しかし、覗きこんでみれば、黒いレンズの中の目を見ることができた。虚ろで、リゲイルではないものを見つめている。いや、何も見ていないのかもしれない。きっと何も見えていない。
 泣いていた。
 ただ涙が流れていないだけで、……彼は、泣いている。
 リゲイルが、彼のかわりに涙を流した。いくらでも涙は出てきた。あの日からずっとずっと泣いているのに、涙はちっとも枯れないのだ。身体というのは、ときに、やけに都合がいい。
 ウォンが、慌てたようにリゲイルの肩から手を離す。彼が慌てるのは、珍しかった。初めてだったかもしれない。
 しかし、そのまま立ち去ろうとしても、リゲイルがそれを阻んだ。ウォンの服を掴み、精一杯の力で引っ張ったのだ。
「でも、やっぱり、だめ、っ」
 しゃくり上げて、リゲイルは言う。
「ユージンさんが。ユージンさんが、っ。つらいでしょ、っ。どうして。ユージンさんが、っ。行くの。ユージンさんが、っ、行く、必要、ないよっ!」
「――これが、最後の機会だ」
 もう、ウォンの声も肩も、震えていなかった。
「な、なん、の? なんの、機会、っ?」
「私は、あのふたりに、何もしてやれなかった。気持ちに気づいてやることも、気持ちを汲んでやることもできなかった。なにかしてやれるのは、今しかない……!」
 リゲイルの手が、ついに離れた。


                ★  ★  ★


 リゲイル・ジブリールが泊まる贅沢なスイートルームの真ん中に、ピンクのパンダのぬいぐるみがある。メーカーのタグが、どこにもついていない。それはつまり、ピンクのパンダが素人の手製であるという証のようなもの。
 素人の手製にしては、素晴らしいできばえだった。よほど器用で、裁縫が好きな人間が手がけたものにちがいない。
 リゲイルはピンクのパンダと一緒にいる。
 傍らで、青空色の大柄なバッキーがすやすや寝息を立てていた。バッキーはリゲイルがこうしてスイートルームにこもりきりになってしまってから――『穴』での事件が起きてから、片時もリゲイルの身体から離れようとしない。
 パンダもバッキーも、リゲイルの体温を吸い取っていく。

 その人は、もういません。

 なぜ、あの日、市役所に行ったのかはわからない。理由はあったはずだが、よく覚えていない。有志の力を借りて更新されていく住民データ。山のように積まれたファイル。そのうちのふたつは、これから、もう二度と更新されることはない。
 そんなとき、リゲイルも初めて見るムービースターが、データ整理と更新の修羅場の中に現れた。堂々たる体躯と立ち振る舞い。いかめしい顔つきだが、穏やかで理知的な眼差し。初見だが、……見覚えがあった。
 葦屋道満。
 ピンクのパンダを作った忍が、ずっとずっと戻りたがっていた懐。
 そして道満もまた、その忍を探していた。

 その人なら。
 もう、いないんです。

 誰もが返答に困り、言葉を詰まらせる中、事実を伝えたのは他ならぬリゲイル・ジブリールだった。


                ★  ★  ★


 桜が咲いた。
 桜が、咲いた。
 夢の神子が、走っていく……走っていく。


 夢幻の花弁を散らすのは、風と、神子の駆け足と、大きなコンテナのトラックだ。
 引っ越し業者のトラックの姿がやけに目につくのは、何も今が春であるからという理由だけではない。
 春と事件は、きっかけだった。リオネが魔法をかけてしまった夏から、銀幕市を捨てる人は後を絶たない。ただ、それと同じくらいの数の人が、新しく銀幕市に流れてきている。町が、すべての人から見捨てられることはないのだろう。魔法が続くかぎり――いや、映画というものがこの世にあるかぎり、ずっと。
 リオネの横を通り過ぎていったトラックが、銀幕市を出て行くものか、銀幕市にやって来たものかは、わからなかった。
 ただ、もう、リオネにはわかっている。これらのトラックが走り回っている原因の、ほとんどすべてが自分にあるということを。
 彼女の小さな手の中に、1枚の紙切れがある。落とさないように、風にさらわれないように、あんまり必死で掴んでいたから、すっかりしわくちゃになっていた。それは、蘆屋道満の住民票だ。住所はまだはっきりと決まっていないが、今のところはとりあえず、杵間神社の近くにとどまるつもりだと、無機質な文字列が語っている。
 ――あやまらなくちゃ。
 リオネは対策課の人間に、そう言って飛び出してきた。
 ――リオネ、この人にうるしさんのことおはなしして、あやまらなくちゃ。リオネがまほうつかわなかったら、……うるしさんはなやまなかったし、どうまんさんはたいせつなひとをなくしちゃうことになんか、ならなかったんだから。
「ごめんなさい」
 事前に練習しておこうと思ったわけではない。
「ごめんなさい……」
 それでも、走るリオネの口からは、自然と謝罪のことばが流れ落ちる。
 桜の香りが、終わらない。


 杵間神社の境内の桜は、まだ沈黙していた。しかしこの『現実』の桜も、じきにほころび始めるだろう。神獣の森から風が運んでくる花びらと香りが、『現実』をも動かしそうな気がしてならない。
 ――其は、道理を歪めておらぬか。
 道満はいかめしい表情を崩さず、何気なく手を伸ばす。ぴっ、とすばやく動いた指が、桜の花びらを1枚とらえていた。
 自分がなぜここに『居る』のか。それが、どのような意味を持つのか。まだ銀幕市に住み着いて日も浅い道満だが、すでにすべてを心得ている。
 自分は、手中の花びらと同じもの。
 このすべてを、この世にあらわしたものも『居る』。ここ、銀幕市に。
「あしや……どうまん、さん」
 来たか。
 声の主に目をやる前に、道満はゆっくりと大きく、息をついた。
 この町に居ついたということは、遅かれ早かれ、すべてを惑わせた術者と顔を合わせることになる――それも、道満は予測していた。ただ、その術者の声と姿は、思っていたよりもずっと幼かったが。
「いかにも、我が名は蘆屋道満。此方も貴殿の名を聞き及んでおる。夢の神子、りおね殿。貴殿の力の欠片たる我に、何用かな」
「うるしさんを、さがしてたって、きいたの」
 道満の身の丈の半分ほどしかないリオネは、おずおずと彼に近づき、伏し目がちに話しだす。
「うるしさんも、ずっとずっと、どうまんさんをさがしてた。……リオネのせいなの。リオネがまほうなんかかけなかったら……うるしさんはずっとつらくなんかなかったし……、死んじゃったりも……しなかった。どうまんさんも、たいせつなひとをなくしちゃうきもちに、ならなかったの。
 ……ごめんなさい」
 道満が見たこともない、不可思議な色の大きな瞳に、じんわりと涙が浮かんでいる。しかし、ことばは容易に聞き取れた。涙にかき消されては、いなかったのだ。
「ごめんなさい。うるしさんにもあやまらなきゃいけなかったのに、リオネ、あやまらなかった。リオネ、いけないこだよね。おこられてあたりまえだよ。ごめんなさい――」
 往々にして、子供というのは、親に叱られ、「謝るべきだ」と教えられてから謝るものだ。
 道満が見るかぎり、リオネのそばには、親も教育者もいなかった。彼女は、自分から、謝りに来たのだ。
 道満はリオネのことばを、さえぎることも笑うこともなく、静かに受け取っていた。彼女から、けっして目はそらさなかった。彼女がくしゃくしゃに握りしめている紙切れもまた、無視はできなかった。
 リオネがことばを切ったとき、風が吹いた。
 桜色の風が。
 風の中で、道満は穏やかに微笑んだ。そして、ふわふわとした銀色の頭を、無骨な手でやさしく撫でた。
 それだけで、おしまいだった。


「我ら『うたかた』の礎よ。強く在れ」


 蘆屋道満に、会いに行く。
 この日それを決意したのは、リオネだけではなかった。
 ユージン・ウォンは再びリゲイル・ジブリールの部屋を訪ね、この日は……中に入れてもらうことができた。彼女はピンクのパンダを抱え、碧眼にはまだ暗い影が巣食っていて、数日前のあのときにウォンが会ったときよりも、いっそうやつれていた。
 リゲイルのその有り様を目の当たりにして、ウォンの胸には鉛の塊が押しこまれた。彼は、あるものを携えていた――リゲイルに見せるべきだと思ってここに来たが、その意図がほんの一瞬揺らいでしまった。
 しかし。
 ここで、また、何もしないのか。
 何もせずに、また失敗と後悔だけを得るのか。
 ウォンの葛藤はすぐに駆逐された。ばらばらに吹き飛び、消し炭になった。ウォンはほとんど何も言わず、リゲイルに黒いフィルムの切れ端を渡した。
「……これ……」
「〈まだらの蜂〉が落とした」
 〈まだらの蜂〉の亡骸の一部だ、とは言わなかった。
 それは、〈まだらの蜂〉が奪っていったものだったから。
 フィルムの切れ端は、ふたつに分かれていた。リゲイルはこくりと生唾を飲むと、昼の光に、フィルムをかざす。

 ひまわり。
 イチゴとクリーム。

 笑顔。
 安らぎ。

 しあわせ。

 フィルムを光からどけたリゲイルの肩が、震え始めた。ウォンはそれをせき止めるようなタイミングで口を開く。
「漆は、おまえとともにいるとき、主のことを……孤独を、忘れることができただろう。そうでなければ、そんな顔はできない」
「……」
「片方は、『主』に返しに行く。今日、今からだ」
「えっ」
「俺と違って、彼は部下と会えず、話せず、別れさえ告げられなかった。せめて、漆がここに居た証だけは……渡してやりたい。それに、彼にはそれを手にする権利がある。リゲイル、――リガ。おまえさえよければ」
「……。私も、行く」
 少女は、フィルムから黒い男へ、目を移した。その目は、今はまっすぐ、ユージン・ウォンを見つめていた。
「そうか」
 リゲイルの申し出に、ウォンは驚かない。かといって、喜びや安堵がにじみ出ているわけでもない。いつものように、どこか淡々としていたが――納得し、確信したような、確固たる意思を帯びた一言だった。
「『そんな顔はしない』で、思い出した。俺は、レンのそんな顔を見たことがない。俺の前ではいつも気を張っていたのか。それなら……あいつは私に拾われて、本当に、よかったのだろうか」
 独白のようなウォンのことばに、リゲイルはかぶりを振る。
「ラウさんはね、ユージンさんのこと、大好きだったはずだよ。だって、いつもユージンさんのこと話してたもの。すごく楽しそうに」
「そうだったのか。それも……知らなかったな」
「ユージンさん。『もう片方』は、ユージンさんが、持つんだよね?」
「……。埋葬するつもりだ」
「――そう」
「死んでからも俺のそばにいるのでは、な。いつものように気を張ってしまって、静かに眠れないだろう。あいつに、休みをやろうと思う。眠れないのは……つらい」
 ふたりはスイートルームを出た。リゲイルは、ピンクのパンダをソファーにそっと置き、かわりにバッキーを抱きかかえて。


「あ」
 桜の花びらをかき分けるようにして、リオネが駆けてくる。神社へ続く階段を、蝶のように、飛ぶような足取りで、駆け下りてくる。ウォンとリゲイルは、それを真正面から見た。リゲイルは彼女とぶつかりかけた。
「あっ、ごめんなさい!」
「リオネちゃん――」
 リオネはリゲイルとウォンの顔を見て、目を大きく見開いた。
 ばつが悪そうに、すぐに伏せる。
 何か言いたげであり――何を言わんとしているのか、ウォンにはすぐにわかったが、彼はそれをさえぎった。
「蘆屋道満に、会ってきたのか」
「……うん」
「そうか。まだ上にいるな」
「うん」
 ウォンは静かに頷くと、それきりリオネには目もくれず、階段を上り始めた。リオネは口を半端に開き、彼にことばを投げかけようとして――リゲイルに、そっと腕を取られた。
「道満さんと、何かお話ししたの?」
 蒼白い顔に、疲れたような、小さな笑みを浮かべて、リゲイルはリオネに尋ねる。
 リオネは、もじもじしながら答えた。
「あやまってきたの。うるしさんのこと、おはなしして。リオネのせいで、みんながつらくて、かなしいきもちになっちゃったもん。リオネ、ひどいことしたの。みんなに。リガちゃん、あなたにも。ウォンさんにも」
「そんなに、責めないで」
 リゲイルは屈んでリオネと視線の高さを合わせ、相変わらず、笑っていた。少し強張っている笑みだったが。
「私も、ずっと。ずっと、自分を責めて。ウォンさんに謝って。みんなに謝ったわ。私が悪かったから。でも、気づいたかもしれないの。あのフィルムを見て。……ふたりが選んだ結末なんだって。私がとめられなかったのは、とめちゃだめだって、わかってたからなのかもしれない。……ああ、私、なにが言いたいんだろ。なにが……」
 リゲイルはしばらく言葉に詰まって、静かに自嘲した。
 つい30分前まで、ウォンとホテルを出るほんの少し前まで、他ならぬリゲイル自身が自分を責め立てていた。そんな自分が、たった今、リオネに対して「自分を責めるな」と言っている。
 わけがわからない。
 けれど、言わずにはいられない。
「私はね、私は、――リオネちゃんにとっても感謝してるの。あなたは、ほんとに、神様だよ。だって、リオネちゃんのおかげで、家族ができて、好きな人ができたんだから。いろんなことも知った。私、なにも知らなかったの。部屋にこもってばっかりで。あなたが私を外に連れ出してくれたの。私が私を……変えるきっかけを、作ってくれた。みんなにたくさんいろんなことを教えてもらって、みんなといっしょに喜んだり怒ったり、悲しんだり、そんな生活が……こんなにすてきだなんて……私、そんなことも、知らなかったんだから。リオネちゃんが、魔法をかけてくれなかったら」
 だまって見つめ返してくるリオネの、神秘的な色の瞳に、リゲイルの顔が淡く映りこんでいた。


 リゲイルが来ない。だが、ウォンは待たなかった。待とうかとほんのひととき迷ったが、結局、リゲイルの意思を尊重した。彼女が容易に追いつけるよう、ゆっくり石段を上ったが、結局蘆屋道満の姿が見えるまでウォンが進んでも、リゲイルは来なかった。
 道満は参道の傍らの古い切り株にどっしりと腰を落ち着け、風に目をすがめていたが、ウォンの姿を見とめると、ゆっくり立ち上がった。初対面ではあるが、互いに相手が只者ではないことを、ひと目で見抜いていた。
「蘆屋道満だな」
「いかにも」
「私はユージン・ウォン。渡すものがあって、来た」
 道満は開いていた鉄扇を閉じると、無言でウォンの言葉の先を促した。ウォンは懐から、白いハンカチの包みを道満に渡す。道満が開いた白いハンカチの中央には、焦げついたような黒色の、フィルムの切れ端があった。
 それが何を意味するものか。ウォンは話さず、道満は訊かない。
「漆は苦しんでいた。幸い、心の嵐は静まる瞬間もあったようだが……私はその嵐に気づいていたにもかかわらず……何もできなかった。その結果がこれだ」
「何を言う」
 ウォンの言葉に、道満が低い苦笑いを返した。
「この地であやつに出逢うてくれた。其れが如何ほどの救いであったか。充足に過ぎるであろう。――これは、有り難く頂戴しよう。貴殿の足労と気遣い、痛み入る」
 道満はウォンに向かってフィルムを押し頂くと、目を伏せ、頭を下げた。フィルムを丁寧に包み直し、懐に収める。
「しかし、さても面妖な地。地相は歪み風すら惑う。『夢』に斯様な血肉を与えるとは、神の力は、まことに強大」
「私は、その歪みを正すつもりだ」
「ほう?」
「あの神の子がかけた魔法は、幸せをもたらす以上に、災いを呼んでいる。災いは火と同じ、燃え移っては勢いを増していく。神がもたらした災いに、一般市民が対抗するすべはない。我々の力さえ、焼け石に水だ。焼け石を冷ませない水が集まっても、ジョウロほどの威力が関の山だろう。――元を断ち、夢は夢の中に戻さねばならない」
 リゲイルが石段を上りきって、歩いてくる。この姿をサングラスの奥から見守り、ウォンはわずかに声を落とした。
「私は、わずかでも早く、この街をあるべき姿に戻す方法を探す。……それは、今の夢に満足している者にとって、恐らくは強引であり、『悪』にも受け取られるだろう。だが私は、その業を背負う」
「あの娘の為にか」
「……」
 リゲイルは、すぐそばまで来た。ウォンは口を閉ざす。久しぶりに外に出て、長い石段を上ったせいか、リゲイルの息は少し乱れていた。顔には、うっすら汗もにじんでいるようだ。
 桜の風が舞う今日は、太陽の光もずいぶんと春めいている。
「はじめまして。蘆屋道満さん、ですよね」
「いかにも。いやはや、今日は客人が多い」
 道満は腕を組むと、からりと軽く声を上げて笑った。
「あなたに、一度お会いしたかったんです。会って、お話ししたかった。なんだろう……なんでだろ、すごく……嬉しいです」
「りげいる殿。不肖の弟子が大層世話になったとの事、聞き及んでいた」
 道満はリゲイルに、頭を下げた。
「感謝する」
「あ……」
 リゲイルは言葉に詰まった。
 蘆屋道満にひと目でいいから会いたかったのは、方便でも社交辞令でもなく、本当のことだ。斑目漆から聞かされていた、『お館様』の姿、振る舞い、声、人としての大きさ。すべてが、リゲイルの想像していたとおりの存在だった。
 話したいことが、いくらでもあった。謝りたいとも思っていた。大切な弟子を助けられなかった、悪い結果まで突き進もうとしているのをとめられなかった、たくさんたくさん話して、あちこちに行って、買い物をして……いっしょにいて、無鉄砲なことをしたら叱られて、
 とても、幸せだったと。
 話したかった。
 けれども、もう、ことばにならない。どんなことばが、一番ふさわしいのか。
「――漆くんは、私の、家族でした。お父さん……にしては、ちょっと若いか。……うん。お兄さん、でした。とてもすてきな、私の、自慢の、お兄さんです」
 ユージン・ウォンは、恋人のことばを横で聞きながら、ふと風を目で追った。神獣の森から運ばれてきた花びらが、リゲイルの赤毛にぴたりと貼りつくのも、見た。燃えるような赤毛の中の桜色。理由はわからないが、ウォンはほんの束の間、リゲイルの髪と花弁に見とれていた。


 それから3人は、5分ほど話しただろうか。ウォンは言葉すくなだった。道満も、笑顔で相槌を打っているくらいだった。リゲイルが、ふさぎこんでいた時間を取り戻そうとするかのように、思い出を語っていたのである。
 ざああ、ざああと春の風が境内の緑を揺らしていた。
 ウォンとリゲイルが神社を去り、道満は、また切り株に腰かけた。ざああという風の声に紛れて、切り株の後ろの藪から、黒装束たちが顔を出す。かれらは沈黙を保ち、道満がいつ命を下してもいいように、待っているだけだった。
 道満はやがて、懐から白い包みを取り出した。
 そっと中のフィルムを出し、青い空にかざしてみる。
 焼き付けられているのは笑顔であり、それを検めた道満の顔も、静かにほころんだ。
「まったく、童のようだのう。……幸せだったのだな。忍でありながら心を砕くとは。馬鹿者め……」
 あてもない呟き。
 道満はまた、丁寧にフィルムを包んだ。
「さて」
 その一声に、仮面たちが反応した。
「りげいる殿の話に出ていた、『かにくりいむころけ』と『苺ぱへ』なるものは、何処で食えるのだ。聞いているうちに腹が空いてきてしまった」


                   ★  ★  ★


 ちりん……りりん。
 まだ夏には早いのに。
 ちりん、ちりりん、
 窓辺で風鈴が鳴っている。
 それは、銀幕ベイサイドホテルの高い窓際。


 ちりん……。


 晴れた日だ。やけに晴れた日だ。
 ここのところ、ずっと晴れている。
 白とも黄ともつかない光の下で、白いスーツに身を包んだユージン・ウォンは、ゆっくりと立ち上がる。その手は、少しだけ土で汚れていた。よく見れば、膝にも額にも、土がついていることに気づくだろう。
 見晴らしのいい丘の上、日本のものとは様相が違う墓地の中、己の名前が刻まれた墓の前、燃える冥土の通貨の前。桜の匂いがする風の中。ユージン・ウォンは、たったひとりで、そこにいる。
 ここに来る前に寄ったリゲイルの部屋で、風鈴を見た。ホテルの窓はわずかしか開かないが、その、ほんの隙間から吹きこむ風に揺れて、
 りぃん、
 耳に残る蒼い風鈴の音が、霊歌を口ずさもうとするウォンの邪魔をする。
「安らかに、眠れ。もう休んでいい」

 ざ、
 あああああああ
『えー、せっかく一緒にいられるのにー』
  あああああああぁあ
『王大哥。見えますか、王大哥』
     ぁぁぁあああああああああ
『風邪引いたらあかんよ』
               あああああああ
『あと』
 ざあああああああああああああ
『みんなと、仲ような』
『王大哥と……仲良くな』
 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
『願わくば、貴方に』

『真の安らぎが訪れんことを』


「ああ。私も、いずれは……」




 ちり・ん。




〈了〉

クリエイターコメント桜が終わる頃まで引きずるべきではないでしょう。おふたりを、桜の季節のうちに休ませてあげたい。
そう思いましたので、すぐに書かせていただきました。
時系列が入り組んでおりますが、ご指定のとおりにいたしました。
また、複数のピンナップ、ノベル等から、一部セリフを引用させていただいております。各クリエイター様には、この場を借りてお断りさせてください。
どうぞ、二度目のおわかれを。
公開日時2008-04-21(月) 22:20
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