★ 【透幻峡】 それは現実と幻の狭間に ★
<オープニング>

「これで五件目、ですか……」
 たった今まで常に忙しい対策課で騒いでいた、中年のふくよかな女性を見送りながら、植村はため息をついた。
 対策課が何やらのムービーハザードから、ヴィランズ、ついでに対策課の仕事には全く関係ないものまで持ち込まれるのは、まあいつもの事である。だが、今回の件については、何とも微妙な心持ちにさせるものであったのだ。
 手にしていた書類を見下ろす。そこには、この一週間で数件、ほぼ同じ地域の住民からの依頼というか、相談というか、苦情とも取れる事柄が書き記されていた。
「なあ、最近うちの地区だけ、やたら空気が澱んでるし、汚いんだよな。もしかしたら、ムービーハザードなんじゃないのかい?」
 初めは、そんな単なる言いがかりともとれるものだった。
 だが、日を経つにつれて、同じ地域に住む住民から、少しずつ深刻さを帯びた相談が寄せられて来ていたのだ。
「私の目の前で、突然人が現れたり、消えたりしたんですけど……それっていったい。いえ、幻なんかじゃありません! 一緒にいた友人も見たんですから、同じ光景を!」
「ちょっと! いきなり隣にいたうちの息子が消えちまったんだよ! え? ああ、そりゃあ慌てて探したんだが、どこで見つかったと思うかい? 家から遠く離れた交番で保護されたんだよ! その数時間では、到底歩けない距離だったんだよ?」
 しかしそうは言っても、その地域でヴィランズや、ムービーハザードが出現したという確かな情報は、ここのところ来ていなかった。だから、どうするべきか手をこまねいていたのだ。
 そんな時来た、今日の相談というか苦情。
 それは、先程の女性の主人が、いきなり前触れも無く数日間行方不明になってしまったと言う事であった。
 彼は何とか昨日、無事に発見されたらしいのだが、彼には行方不明になった間の記憶が無いという。
 憔悴した姿で発見され、焦点が定まらない瞳でぽつりとこう呟いて、意識を失ってしまったらしい。
「……強さが、すべてを支配する――」
 そして一日経った今、彼の意識は戻っていない。
「……これは、どうやらそのままにしてはいけない類の現象のようですね」
 本当はこんなものなど放り出してしまいたい衝動を義務感と理性で押さえ、植村は動き出した。


 * * *


 窓から入ってくる日差しが暖かい。
 街角にある交番で、冬特有の陽だまりの中ややぼうやりと仕事をしていた警官は、そろそろとガラス戸を開けて入ってくる中学生くらいの年頃の少年に気がついて声を掛けた。
「おお、いらっしゃい。一体、どうしたんだ?」
「――人を探してるんだ」
 少年は快活に笑いながら、一枚の絵を警官に突きつけた。
 その絵は、似顔絵のようだった。そこに書かれているひとりの女性の顔は、実に上手く描かれている。すっとした、日本人形のような黒い瞳に、端整にかたどられた赤い唇。どれも強い、人を惹きつけるような意志を持っているように見えた。
「この女の人を探してるんだ。『クレナイ』っていう名前で、いつも赤い服を着てるんだけど……何か情報、無い?」
「いや……、何だ、仲間のムービースターと離れちまったのか?」
 警官は首を捻りながら、その絵をじっと見る。その向こうから、少年はぽかんとしたような響きで聞き返してきた。
「ムービースター?」
「何だ、知らないのか? この銀幕市ではな、映画から登場人物が実体化するんだ。そいつらの事をムービースターって言うのさ。ムービースターを調べるなら、市役所に行くのが一番じゃないか?」
 少年は警官の言葉に眉根を寄せて、何事か思案している風情であった。しかし、しばらくするともとの快活な表情に戻り、その絵をひらりと手に戻していた。
「じゃあ、市役所に行けば良いんだね? ありがとう!」
「ちょ、おい――」
 来た時と同じように、唐突にガラリと、元気よく扉を開けて消えていく少年を慌てて警官は追いかけようとした。
 そして交番の前の道路に出て、彼の足は不意に止まった。
 そこにいたはずの少年が、まるで大気に溶けてしまったかのように、一瞬で彼の前から消えてしまっていたから――。


 * * *


「ミズホ、またムラクがいなくなってる」
 ひとりの男性が、川のそばを歩いている男性に声を掛けた。ミズホ、と呼ばれた男性は、くるりと振り向く。その動作と彼の表情に、その男性はう、と一瞬たじろぎそうになった。
 何故ならミズホは名前の通り、一見すると女性のような顔立ちで、しかも男性と分かっていながら思わずどきりとするような色っぽさを持っているからだ。
 おまけに彼の眼光は、ここにいる誰よりも強い。平伏してしまいそうになるくらいに。
 このセカイにおいての「掟」。彼はこの一体を統率するに相応しい「強さ」を持っている。力は強くなくとも。
「きっとクレナイを探しに行ったのだろう。仕方が無い……」
「そうだな、あいつは、本当にクレナイに懐いてたもんな。あんな『強さ』を持っていたのに」
 ミズホが眉を顰めてため息をついた時、ちょうど右側に並ぶあばら家の向こうから、幾つかの叫び声が聞こえてきた。
「今度は何だ? また誰か襲われてるのか?」
「とにかく、行こう」
 小さく頷きあった二人は、その場を駆け出した。
 彼等の傍に流れているのは、汚水でどろりと汚れた川。周りに漂うのは、薄汚れた大気。
 犯罪が犯罪で無い、治安など、とうの昔に消えうせたセカイ。
 あるのはただひとつにして、絶対的な掟のみ。
 ミズホはそっと、この場にいない「ムラク」を思い、ため息をついた。
 かつてはこの闇を行くセカイにも、一筋の光が見える時代があったから。
 

種別名シナリオ 管理番号402
クリエイター志芽 凛(wzab7994)
クリエイターコメントこんにちは、そしてはじめまして。

今回は、2008年新春(笑)一話完結式連作シナリオのご案内に参りました。多分全三回の予定です(何てアバウト)。WRのコメントは変なテンションですが、ノベルの雰囲気はそんな事ありません。シリアスかつ荒廃的(メンタル?)な感じになると思います。

今回の依頼は、銀幕市のひとつの地区に集中して起きる不可思議な現象の真相を解明して頂く、というものです。地道に調査をする、もしくは巻き込まれる、あるいははその現象に特攻してみるなど、ご自由なプレイングをお待ちしております。ちなみに、今回ホーディスとリーシェは今のところ出てきていませんが、皆様の用心棒に必要でしたらどうぞお雇い(?)くださいませ。多分色々破壊してくれると思います(迷惑)
どうやら、今回のこの現象の裏には、何かムービーハザードのようなものが潜んでいる様子です。キーワードは「強く在ること」。どうか心を強く持って、真相に挑んで下さいませ。

今回、連作という形を取らせて頂いておりますが、勿論どこからでも、この一話だけでも、ご自由に参加出来ます。
それでは、よろしくお願いします。


参加者
ルウ(cana7787) ムービースター 男 7歳 貧しい村の子供
スルト・レイゼン(cxxb2109) ムービースター 男 20歳 呪い子
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
鬼灯 柘榴(chay2262) ムービースター 女 21歳 呪い屋
<ノベル>

 その日、スルト・レイゼンは仕事を探す為に、ふらりと対策課に立ち寄っていた。
「丁度良い仕事ねぇかなあ……」
 ぼそりと呟きながら対策課からの依頼の一覧を見ていると、ふとある依頼に目がいった。それは住宅街に出現している不思議な現象を調査して欲しいという、何だか変わった依頼である。
 スルトが対策課の窓口に声を掛けようとした時、市役所の入り口がやたら騒々しくなってきたのに気が付いた。一際目立つ少年が駆け込んで来るのが、彼の視界にも入る。
 彼はとりたてて珍しい衣服を着ている訳でもないし、目を引くような美貌を持っている訳でもない。だがしかし、どうしてか彼に目がひきつけられる。
 彼が纏う雰囲気が、どこか異質のものでないように思えたからだろうか。
 それに。
「おー、ここが市役所かあ! 助かったよ、ありがとね、おばちゃん!」
「良いんだよ。こういう事はお互い様だし」
 彼はどこか不思議な雰囲気を纏いながらも、年相応の無邪気さと愛らしさを前面に出していた。話からすると、どうやらまだ実体化したばかりのようである。
 ――そういやあの時、自分もまだ何も分かってなかったな。
 その無邪気な姿にスルトは、自分が始めて実体化して、ここに住民登録をしに来た時のことを思い出していた。
 今となっては、この銀幕市に多くの知り合いや友人も増えた。そして生活の面でも不便する事も少なくなってはいた。だが、かつてはこの銀幕市にいきなり実体化して、右も左も分からないことだらけだったのだ。
 スルトは、今も市役所の中をキョロキョロと物珍しそうに見回している少年をじっと見て――気が付けば、スルトはその少年に声を掛けていた。
「はじめまして、かな。銀幕市にはまだ来たばかりなのか?」
 少年はいきなり近づいてきた青年にも、何ひとつ臆する事無く笑顔を向ける。人懐こい笑みだ。
「うん、そうなんだ。どうもしばらくこっちには来ていなかったから、違う世界に来ちゃったみたいなんだよね」
「……まあ、初めは俺も何が何だかよく分からなかった。だがどうやら、俺達は映画の中の存在らしい」
 スルトは少年の言葉に何か引っ掛かるものを感じていた。
 ――何だ。この違和感は。しばらくこっちに来ていなかった……?
「映画?」
「あ、ああ。……折角ここで会えたのも何かの縁なのだろう、あんたさえ良ければ色々と銀幕市を案内してやる」
 スルトは脳内では首を捻りながらも、少年にそう言っていた。途端に少年の顔が赤く紅潮する。
「本当に? うわー、助かるなー。俺はムラクって言うんだ、よろしく!」
「スルト・レイゼンだ。よろしくな」
 少年――ムラクが差し出した右手を、スルトは軽く握って離した。


 * * *


「はあ……」
 シャノン・ヴォルムスはひとつため息をつきながら、もたれ掛かっていた清潔感溢れる白い壁から離れた。何やら手帳らしきものをポケットにしまい、外へと歩き出す。
 金の髪をなびかせて振り向いた視線の先には、病棟が映っていた。
 彼は丁度、対策課での依頼を受けて、被害者であるらしい男性の病院へ聞き込みに来ていたのだ。
 だが、やはりたいした成果は得られていない。それにしても、こう具体性のない依頼ではどうにも調査をしようにも難しいものだ。
「ひとまず、こういう尋常でない事件には……」
 芳しくない調査の進み具合にまたため息をついて路地の角を曲がった時であった。シャノンの向かい側から、両手にスーパーのビニール袋を提げたホーディス・ラストニアが歩いて来ていた。
「……あ、お久しぶりです」
「お、ホーディスかこれは良いところに来たな」
「はい?」
「いやまあ、な。……ところでその荷物は買い物の帰りか?」
「ええ、タイムセールだったものですから」
 何気なくつなぎで尋ねた質問に、ホーディスは爽やかな、晴れ晴れとした笑顔で答えていた。何故だかシャノンにはその笑顔が色んな意味で痛々しく見えたが、気が付かなかったことにしておく。
「そうか。……そうだ、丁度聞いておきたい事があったんだ。このところの不思議な現象の事を知らないか?」
「……不思議な現象、ですか?」
 ようやく本題に入ったシャノンの質問に、ホーディスは首を傾げた。やはり、この界隈ではそんなに話題には上がっていないのか。
「まあ奇妙な、得体の知れない現象なんだが。そういうのにはホーディスみたいな魔法とかに詳しい奴が詳しいかと思ってな」
「奇妙な現象、ですか……」
 袋を片手に纏めて、空いた手で考える仕草を始めるホーディス。再びシャノンが手帳を取り出そうとした時、彼の視界の隅を小さな子供が通り過ぎたような気がした。よく見知った白い頭。
 素早くその視界の隅を追うが、そこには既に誰もいない。
「まさか、な……」
 シャノンはそう呟きながらも、念の為にとポケットから携帯電話を取り出した。素早く付随しているGPS機能を起動する。
 その画面には、シャノンのすぐ近くにやはり彼が先程ちらりと見た少年の形跡が表示されていた。
 やはりそうだったか。そう思った次の瞬間、その少年の居場所を特定するマークがぷつりと途切れていた。


 * * *


 もしかして、まいご?
 不安そうに揺れている瞳で空を見上げながら、ルウは不安の渦を心の奥に抱えていた。
 つい数分前までは、どこを歩けば良いのか、きちんと分かっていた。のだが。
 ルウは首から掛けているピンクファイヤーオパールのペンダントを食む。そうしながらもう一度あたりを見回した。
 どこを歩いても住宅街の中は同じ景色が続いている。彼が見上げた先も、先程までと同じような光景。
 ――どうしよう。
 不安が彼を少しずつ蝕んで行く中、ルウはひとつ、この状況を抜け出せる方法を思い出していた。
 ポケットからいつか貰った携帯電話を出す。電話をかければきっと、助けてくれる。そう思って電話帳からとある人の番号を呼び出すとルウは携帯電話を耳に当てた。
 しかし、そこから聞こえてくるのは、圏外を知らせる女性の機械的な言葉だった。だがルウにはそれさえも分からない。
 どうして、いつもの通りあの声が聞こえてこないのか。
 ただ、ただ混乱しながら、ルウは辺りを見回した。そこにはいつもと同じ光景。
 おなじ? 確かにそびえ立つ建物は同じだった。けれども。
 何かが、違う。彼はそれを本能のように、敏感に感じ取っていた。
「げほげほっ……?」
 身体を丸めて咳き込む。その瞬間に景色は一変していた。


 * * *


「そうなのか、映画から……」
 スルトはムラクと銀幕市の事を話しながら、市内をぐるりと歩いていた。青い空が広がる、銀幕市。
「じゃあ、俺のあのセカイも映画の中の舞台なのか……」
「あの世界? それはあんたが住んでいた世界の事?」
「そう、俺達が住んでいるセカイ。……寧ろ、捨てられているセカイと言った方が正しいかな」
「え?」
 ムラクの言い回しに思わずスルトが聞き返した時、彼らの向かい側から、ゆったりとした速度でひとりの女性が歩いて来ていた。白い肌に映える赤い着物、着物にひっそり咲く曼珠紗華と、どこか周りと違う異質な空気を纏っている。スルトは彼女に気づくと、ぱっと顔の表情を明るくした。
「鬼灯じゃないか。これは奇遇だな」
「あら、スルトさん。お久しぶりですね」
 ふ、とスルトに目線を合わせ、彼女――鬼灯柘榴は微笑んだ。
「ああ、久しぶりだな。……出かける途中か何かか?」
「いいえ、特には。スルトさんは? お仕事の途中ですか?」
「いや、仕事というか成り行きというか、偶然の縁というか」
 スルトは軽く肩を竦めてムラクに目をやった。ムラクはへへ、と頭をかいて笑う。そしてふと真顔になった。
「鬼灯さん……だっけ? あなた、なんか俺の知り合いと似てるなあ」
「……はい?」
 柘榴は唐突な彼の言葉に、僅かに眉をひそめて首を傾げた。ムラクはほら、と一枚の紙切れをポケットから出す。
「いやさ、俺今この、クレナイって人を探してるんだけど。雰囲気とか似てるなあと思ったから。赤い服着てるのも似てるし。まあ、ワンピースだけど」
「……クレナイ、ですか……」
「ああ、ごめん、癪に障る話だったかな」
「いえ」
 ぽそり、と呟いた柘榴のどこか含みのある表情に、ムラクは慌てた様子で謝罪の言葉を口にした。彼女としては、怒っていたつもりでは無かったので、一瞬ぽかんと無言のまま彼を見つめて緩やかに首を横に振る。
「そのクレナイさんと言われる方は、どんな方なんですか? ご家族?」
「いや、家族じゃないな。まあある意味家族みたいなもんだったけど……。俺から見ても、掴みどころのない人だった。さっきまでそこにいるかと思うと、次の瞬間にはいないんだ。その癖、恐ろしいくらい『強い』し」
「……そうなんですか」
「それにしても、その人の事を聞けば聞くほど謎が深まるな」
 隣でムラクのぺらぺらさせている紙を覗き込みながら、スルトがぼやいた。
「そう、かな?」
「そうに決まってるさ。まあ分かる事と言ったら、その人がお前にとってよっぽど大事な人みたいだしな」
「……でもそれだけの理由で探してるんじゃないよ」
「はいはい、分かってるよ。んじゃ俺達はそろそろ行くわ」
 むっつりと膨れた表情を見せるムラクの背中を軽く叩いて、スルトは苦笑しながら柘榴を見た。
「はい。ではまた……近い内に」
「ああ」
 柘榴も軽く会釈を返し、三人はそれぞれ分かれて歩いていく。
「……」
 だが、柘榴は数歩歩いた所で歩みを止めた。そのまま静かに振り返る。前に見えるのはひとりの青年と少年の背中。
 それが幾分小さくなった頃、彼女はそっと歩き出した。
 彼らと同じ道を。
 彼等が消えた道の上、ひらりと赤い衣が舞った。ほんの一瞬。

 * * *


 シャノンは手に持つ携帯電話に映し出された表示に、驚きと焦りの気持ちを抱えて走り出した。
「ど、どうしたんですか急に」
 会話の途中だったので、ホーディスは驚きながらも彼について走ってくる。
 急いで通りの角を曲がったが、そこにはただ同じ道があるだけだった。彼が見かけた少年の姿は無い。
「……何なんだこれは」
 思わず呟きを漏らしながらも彼は道路の隅々まで見回し、電柱の陰や、掲示板の陰まで念入りに調べた。
 だがしかし、気配は無い。つい先程までは、確かにあったのに。
「シャノンさん?」
「ああ、すま……」
 彼を呼ぶ声に、シャノンはそうだったと我に返ってホーディスを振り返った。
 彼は同じ道の上にいた。だがホーディスは、シャノンを見てはいなかった。彼が返事をしても、ホーディスは彼の名前を呼ぶばかり。
「あれ? つい先程までここにいたんですけど……。おかしいですね。シャノンさーん」
「おい、俺はここにいるぞ……!」
 シャノンは目の前にいるホーディスの肩に返事をしながら手を掛けた。はずだった。
 だが、その手はすっと彼の身体を通り抜けていた。その唐突な出来事に一瞬瞠目し、自分の掌を眺める。
「うーん。急いでいたから、どこかに行ってしまったんですかねえ」
 ホーディスはため息をついて、真っ直ぐ、歩き始めた。彼らは丁度向かい合うようにして立っていたので、そのままではぶつかってしまう。
「おい……」
 そう思った時、ホーディスはシャノンの身体をするりとすり抜けて歩いていってしまった。
 その事にまた驚いて、そして次の瞬間には彼はとある事を理解していた。
 これは恐らく、今調査している事と関係がある現象だ、と。
「さて、何が出るのか……」
 彼はぼそりと呟いて銃の位置を確認すると、くるりと振り向いてホーディスを垣間見た。
 彼は先程とは逆の手に、スーパーの袋を提げていた。


 * * *


 まず始めは、アスファルトが一瞬でぼろぼろの道へと変わっていた事に気が付いた。辛うじて舗装はされているものの、あちこちボロボロと欠けているし、穴が開いている。さぞ車は通りにくいだろう。
「ひっ」
 ルウは突然変わった道にびくりと身を竦めながら、そろそろと顔を上げた。
 そこには、先程とはまるで違った光景が広がっていた。
 黄色く霧がかかった大気。草木一本ない大地。道路の脇に立ち並ぶのは、ぼろぼろに継ぎ接ぎされた家々。
 そして道の端には、ボロボロに使われた服を着る人々が座っている。
 彼らに一様に目を向けられて、さらにルウの身は竦んだ。
 こちらを見る彼等の目は、一様に濁った、疲れたような目つきであった。
 ぼく、どこ、きたんだろう。
 唯一恐怖を感じていない部分が、微かにそう思考する。
 彼がどうしようと困ってきょろきょろ辺りを見回していると、前から幾人かの足音がして、彼は視線を前方にやった。
「……」
 そこにはにやにやと下卑た視線で自分を見る、数人の青年達がいた。
「お前か。お頭が捕らえて来いって言ったガキは」

 * * *


 冬の日暮れは想像以上に早い。
 スルトがムラクを手伝って、ムラクが言う「クレナイ」を探して歩き回る内に日はとっぷりと傾いていた。周りの家々からは、夕飯の準備だろう、美味しそうな匂いがふんわりと漂ってくる。
「すっかり時間が経っちまったな。どうするか?」
 スルトが、青から赤、そして黒へとその色相を変えていく空を仰ぎながら呟いた。
「……今日はもう諦めるよ。スルト兄ちゃんに迷惑かける訳にいかないし」
 ムラクは、手にした紙をひらひらしながら肩を竦める。
「じゃあ、あんた今日の夜はどうするんだ? 泊まる所とか」
「大丈夫さ。心配いらないよ」
「でも……銀幕市に実体化したんだから、今までのようにはいかないだろ?」
 泊まる場所が無いであろうムラクを心配して、スルトは眉を顰めた。
「それがさ、どうやらスルト兄ちゃんの話を聞いて分かったんだけど、俺のセカイも実体化しているらしいんだよね」
 呑気に笑うムラクの言葉に、スルトは小さいながら衝撃を受けた。
「え? ……一体、どこに?」
 驚きと少しの興味心で問うスルトに、ムラクは今まで見せていた子供らしい、人懐こい表情を全て引っ込めた。
 ほんの僅かだが、スルトの背筋を冷たいものが這う。

「スルト兄ちゃんは良い人だから、忠告しておくね。僕らの住むセカイに来ちゃいけないよ」

「え?」
「今のあそこは、クレナイ姉ちゃんのお陰で、ミズホ兄ちゃんが子供の頃よりもずっとずっと良くなってるのは、まだ子供の俺にも良く分かるんだ。でも駄目だ。来ちゃいけない。あそこは、沢山のものに見捨てられたセカイだから」
「ちょ、どういう事だよ!」
「そろそろ帰らないと俺怒られちゃうから、帰るね。スルト兄ちゃんも気をつけてね!」
 ムラクが笑顔で手を振った時、ようやくスルト全身をその場に留めていた強張りが解除されて、彼は一歩前に歩み出た、その時だった。
 ムラクの身体が、一瞬だけ透けて消えたと思った瞬間、また現れた。その姿に、本能的にスルトは違和感を覚えていた。
 何かが違う。そう感じた瞬間に、再びムラクの身体が透明に透け始めた。反射的にスルトは彼の腕を掴もうとする。
 だがそれは失敗した。掴もうとしているのにするりとすり抜けてしまうのだ。
「ちょっと待て、おい!」
 スルトはもう一度彼の腕を掴もうとする。大丈夫だ、今度は掴めた。
 そう思った瞬間、ぐらりと身体に重力がかかるかのように、衝撃が奔った。
 唐突に、頭の隅に対策課で見たあの依頼が甦っていた。


 * * *


 柘榴は遠巻きにスルトとムラクの姿を見ながら、ゆったりとした速度で歩いていた。
 久しぶりに、あの名前を聞いたから。
 初代の「鬼灯」の名前は、紅。あの少年が発した名前と同じ読みだ。それがとても興味深い事であり、少し恐れている事であった。
 それにムラクは、クレナイと自分が似ている、と言った。だからこそ、余計にその「クレナイ」に興味がある。
 赤い、濃い陽の光が彼女の姿を斜めに照らしている。
 紅は柘榴の前世の存在だ。だから、もしそのクレナイが同じ魂であったとしたら。
 とても面白いものが見る事が出来そうだ。そう考えていた時だった。
 前を歩いていた二人の姿が一瞬揺らいで、そしていつの間にか消えていた。
 その先にあるのは、淀んだ気配。
「あらあら……」
 驚いた素振りも見せず興味深そうに口元を緩めると、彼女はその不思議な気配の元へと歩いていった。
 多くの興味と、ただひとつの心配事を抱えながら。
 夕陽を受けて影はゆっくりと伸びていく。


 * * *


 薄っすらと汚れの付いた大きな手にがしりと肩を掴まれて、ルウは反射的に魔力を放出していた。
 彼の周りを猛烈な冷気が吹きすさぶ。一瞬にして凍りつくその男の手。
「ぐわっ!」
 彼を掴もうとした男は大きく飛びのき、その手をまじまじと見ていた。
「くそ、こいつ、『強い』ぞ!」
 吐き捨てるかのように叫ばれた言葉。その言葉に、周りの青年達がぴくりと反応する。
「ここにもまた新たな支配者が来たのか?」
「くそ、俺達はあのお頭の下でやっと自由を得れたと思ったのに!」
 何故だかは分からないが一瞬にして目の色を変えた青年達が、鉄の棒やナイフなどを手に、一斉に襲い掛かってきた。
「う、うわああぁっ!」
 ルウはその気迫に恐れ、一歩下がった。そして次の瞬間には再び魔法を繰り出していた。
 きいん。甲高い澄んだ音がする。そして空から降り注ぐ幾重もの氷の刃。
「!」
「ぎゃ、や、わ」
 その尖った鋭利な刃は容赦なく青年達の身体を切り裂いていった。そしてルウにも。まだ魔法の制御が上手く出来ない少年の腕は、幾重にも赤い線が奔り、血の珠が零れて行く。
 ルウは唇を噛んでその痛みを堪えながら、じっと青年達の動きを見ていた。
「くそ、ガキのくせに……!」
 最初にルウの肩に手を掛けた青年が怒りに目を滾らせながらゆっくりと立ち上がった。
 炎のようにその瞳が怒りに燃え上がっている。ルウはその感情を受けて反射的にびくりと身を竦ませた。
 その次の瞬間だった。
「うおぉぉ! 目が、目がっ!」
 彼はいきなり目を押さえてその場を転がり回っていた。周りの男達も、何が起きたのか分かっていない様子である。いきなり倒れこんだ男の様子を伺っておろおろとうろたえていた。
 だがその男達もいつの間にか動きを止めていた。いや男達だけではない、空も風も大地も皆時間が止まっていた。動いているのはルウひとり。
 そして、それを見上げるルウの前に、ふわりと赤い衣が舞った。
「……だ、れ?」
 突然の人物の出現に、ルウは驚きと共にその人物を見上げた。
 ゆっくりとその人は振り向く。そこにある女性は、驚く程の目に強さがある、どこか凄みのある顔つきであった。
 その人は僅かに口に微笑を湛え――。
 その次の瞬間には、再び時が動き出した、ように感じた。
 再び動き出したこの場に、つい先程まで彼の前にいた女性の姿は無い。まるで幻のような邂逅。
 それでもルウには幻とは思えなかった。それ程の圧倒的な存在感があの人にはあった。
「このガキめ! 調子にのりやがって……!」
 だが感慨に耽っている間は無い。再び会話も再開され、青年達は今度こそ本気の怒りを全身に漲らせていた。
 再びびくりと身を竦ませつつも、魔力を放出すべきタイミングを計るルウ。
 その彼の耳に、突然幾つもの銃声が聞こえてきた。
 そして少し遅れて、ぐらり、と青年達の身体が傾いで、どうと地に倒れ伏していた。その者達は、痛みに呻きを上げるものもいれば、一瞬でフィルムに変わってしまうものもいた。

「……やはりルウか。大丈夫か?」

 銃声と同じように唐突に降りかかった声に、ルウは再度驚きにびくりと身を竦ませて、そして振り返った。
「……ぱぱ!」
 そこには、シャノンが銃を手に立っていた。
 彼が現れた事によって不安から開放されたルウは、たたた、と駆け寄ってぎゅ、とシャノンにしがみついた。
「あるいてたら……まよって。けいたい、うまくつかえなくて……」
「そうかそうか。怖かったろう。もう大丈夫だからな」
 シャノンはルウの髪をそっと梳いた。少しだけ流れる、暖かな時間。
 シャノンは周囲から迫ってくる不穏な気配に、そっとルウの身体を離して自分の後ろに隠した。
「おい、どうやらこのガキに仲間がいるようだぞ」
「本当か。一体何なんだ、今日は」
「おいおまえ、大丈夫か」
 どうやら周囲で今までのやりとりを見守っていた人がいたらしい。不穏な空気を纏った人々がずらりと彼等の前に現れ、ルウはシャノンの足をはし、と掴んだ。
「おいおい、ここは一体どうなってるんだ。こんな子供まで襲おうとするなんて」
 シャノンは敵の位置を冷静に見定めながら言う。その言葉に、幾人かの人――どれも男だ――は、驚きを見せた。
「子供まで、だって? ここは子供大人は関係ないだろ。……そうか、お前ら、外部者か」
「外部者であろうと、うちの頭が捕らえろと命じたんだから捕らえなくちゃ駄目だろ」
 半ば納得するような表情を見せたひとりをもうひとりが小突いた。
「俺達を捕らえて、どうするつもりなんだ」
 どこから集まってくるのか、ずらずらと二人の周りにはいつの間にか人だかりが出来ていた。そこに集まってくる人々は様々な人がいたが、共通している事は、誰もが手に何らかの武器を持っている事だった。そして誰もが、シャノンとルウに対して同じ殺意を抱いている事であった。
 まるで統率されているみたいだ。シャノンはそう思いながら、片方の手に持っている銃をしまい込み、その腕でルウを抱えた。
「ひとまず、この人だかりから脱出するぞ、ルウ」
「……うん」
 シャノンの言葉に、ルウが小さいながらもしっかりと頷いた。それをきっかけに、彼らを囲む人々が一斉に動き出した。
 ざっと剣を手に、ひとりの男が踏み込んでくる。その横からは、銃弾を撒き散らしながら動く女。
 シャノンはルウを抱えながら、空いた腕で的確に相手を狙っていった。踏み込んできた相手を横に避け、そのまま回し蹴りを放つ。そのまま退いて銃撃。決して止まらず、かといって踏み込みすぎることもなく、華麗に舞う。幾つもの乾いた音が響き渡る。
 そして彼の攻撃によって、こちらに向かってくる人々が減っていた。大地に転がるフィルムと、人々と、幾重もの赤。
 しかしながらも、シャノンの身体にも少しずつ、傷が蓄積されていっていた。やはりルウを抱えながら立ち回るのは、いつもより機動力が落ちるのだ。
 人々が幾重にも動いているその場所。わいわいとしたその音。
 唐突に、それらが全て止まっていた。
 そして彼らにも、びりびりと皮膚を粟立てるかのような、凄まじい波動が伝わってくる。その波動は、その人だかりにいる人々を幾人も気絶させてしまう程の威力を持っていた。
「な、何だ?」
 油断無く目を配りながらも唐突に現れた意思に、動揺を隠せずにいるシャノンとルウ。
 そんな中、彼らを囲んでいた人だかりの人々の意識に、明らかに恐怖の意識が急速に伝染していった。何かとてつもないものを目の前にした時の足が竦んでしまいそうな恐怖。それがルウにも伝染し、びくりと身をすくませてシャノンにしがみ付く。
「……何でこんな辺鄙な場所にああああなたが来られるんだ!」
「そ、そうだ。ここはあなたの支配地域ではないでしょう?」
「立ち去れ!」
「立ち去……ぐわっ!」
「め、目が……!」
 声を荒げようとした人々が、唐突に目を押さえて叫んだ。押し当てた掌の下から、血の珠が零れ落ちている。
「……この地域は誰も支配しない。そう決めた筈だったが」
 やがて、向こうから落ち着き払った、静かな声が聞こえてきた。もしかしたら新たな敵かもしれない。そう思い、気を引き締めなおすシャノン。そしてその彼の衣服をしっかり掴むルウ。
 二人の前で、ゆっくりと人垣が左右に割れていった。
 そしてその中央をゆったりと歩く人がひとり。
 最初は女かと思った。だがよく見ると、肩幅などから男と知れる。でもそれだけ女らしさを残した男であった。
 何より、目が強烈な輝きを放っていた。彼は一切武器を持っていない。それでも、周りの人々は彼の持つ意思に気圧され、誰一人彼に手出しが出来ない。
「……お前は……」
 シャノンはその強さに気圧される事無く、真っ向からその男と視線を切り結んだ。彼はゆったりとだが確実に彼等の前まで来て、止まった。
「良い強さをお持ちだ」
 彼はそう言って、口の端を上げていた。
「……今は多くの人々に囲まれている故、少々見苦しくて失礼する」
 静かに言って、彼は二人に、目を閉じるように手で示した。
「何かするつもりじゃないだろうな」
「大丈夫だ。俺もそこまで卑屈じゃない」
 冷静に問うシャノンに、やや肩を竦て答える彼。その表情に、二人は言われた通りに目を閉じた。

 ご、うっ!

 肌につい先刻感じた粟立つ感覚よりも、より一層強い何かが襲い掛かってきた。凄まじいまでの、意思が。
 その意思は、シャノンにとっては粟立つ感覚の中に、どこか懐かしさを感じさせるものであった。そしてぎゅっと目を瞑って耐えるルウにも、どこか親しみを感じるものであった。
「もう目を開けても大丈夫だ」
 そう言われて二人は目を開いた。薄暗いがいきなり明るい世界に戻ってきたので、視界が白む。
 やがて目が明るさに慣れてきた時、二人は目の前に、とんでもない光景を見ていた。
 つい今まで彼らを取り囲んでいた人だかり。その人々が全て、意識を失って地に伏していたのだ。中にはフィルムに変じてしまっている人や、そして目から血を流している者もいた。
 彼は、ゆっくりと地面からプレミアフィルムをひとつ、拾い上げていた。そこに、今まで放っていた恐ろしいまでの意思は纏っていない。ただ瞳にその残滓を残すのみで。
「……お互いに聞いて、話さなければならない事があるようだな」
 彼はぽつりと呟いて、そして名乗った。
 ミズホ、と。


 * * *


 ぐい、と何かに引っ張られるような感触があった。幾重もの感情が流れ込んで、頭が割れそうになる。と思うと、何かに強く腕を掴まれる感触があった。
「あーあ、忠告したのに」
 目の前のムラクの表情に、スルトは我に返る。そこには困った表情を浮かべるムラクの姿があった。
「あ、つい……」
「まあ、俺も悪かったかな、入り口も閉じちゃったし……」
 ムラクはそう言いかけて、言葉を区切った。驚きの表情を浮かべて、スルトの向こう側を見ている。
 スルトもムラクの表情を不思議に思って振り返った。
「……あ」
「あら、やはり見つかってしまいましたね」 
 そこには、柘榴が悪びれた風も見せずに微笑みの表情を浮かべていた。
「鬼灯! どうしてここに?」
「そこの方が、大変興味深い事をおっしゃるものですから、ね」
 彼女はそう言うと、ぐるりと辺りを見回した。
「それにしても、随分淀んでいる場所ですね、ここは」
 柘榴の言葉にスルトも辺りを見回した。
 確かに、そこは随分と荒れ果てている場所だった。草木が一本もないからか、どことなくスルトがいた砂漠と似た雰囲気を醸し出している。
 辺りを見回す二人に、ムラクは苦笑を浮かべた。幼いのに、どことなく年経たものの苦渋が滲みそうな表情で。
「一年中こんな感じだよ、このセカイは。さて、今度こそ本当に入り口が閉じちゃったから、どうにか別の方法で二人をあっちの世界に帰さないとね」
「……ここはどこなんだ? 一応銀幕市、なんだよな」
 迷った表情も見せずに歩き出すムラクを追いながら、スルトが聞いた。柘榴は相変わらずきょきょろとあたりを見回しているが、どことなく楽しげである。
「俺にもよく分からないけど、最近人がフィルムみたいに変わる事があるから、多分一部なんじゃないのかなと思うよ」
「……ここの世界には、名前はあるのですか?」
 柘榴の問いに、ムラクは首を横に振った。
「ない。ただ、幾人かはこのセカイを天国みたいに思う人もいるから、そいつらは『トウゲンキョウ』と呼ぶ時もあるけど」
「トウゲンキョウ……」
「明らかに皮肉ってるよね」
 ぼそりと呟き返した柘榴に、ムラクは再び苦笑を向けた。その掌にすくった砂は、さらさらと零れ落ちてゆく。
「クレナイさんも、ここにいたのか?」
「うん。かつては彼女はここの女王的な存在だった。誰よりも強くて、皆の憧れだった」
「女王?」
「そう。このセカイは、政治も法律もない代わりにただひとつの掟だけが存在するんだ」
「……掟」

「強いものが全てを支配し、弱いものはその強者から逃げることすら適わない」
 
ムラクはそう言いながら、周囲に集まりつつあった人々を見回した。
 ざわり、と何もしていないのに、スルトと柘榴の肌がちりちりと粟立った。
「ぎゃっ……!」
「ぐ、わっ……!」
 人々の呻き声が上がる。まるでコマ送りの光景を見ているかのように、彼等の周りの人々がばたばたと倒れていくのだ。
「このセカイではね、強さを目に込める事が出来るんだ、何故か」
 ムラクは呻く人々を見回しながら振り向いた。目を向けられたスルトと柘榴の背筋が一気に粟立つ。
 ばさり、と上空を旋回していた小鳥が、目を回して地に落ちてきた。
「俺も今はこのセカイを統べる一人だから、さ」
 そう話す彼の目は、らんらんと異様な輝きを帯びていた。


 * * *


「強さが支配する世界か」
 ルウとシャノンとミズホの三人は、公園のような場所に移動していた。公園とはいっても草木などは無い。ただの荒れ野が広がる場所である。
「そう。それは決して身体的な事を指すのではなく、いかに自我、アイデンティティを持っているか、意思があるか。それも含めての強さを指す。弱い者は簡単に己を失われ、このセカイを強い者に支配されながら徘徊する事となる」
「だからか……ここ最近、銀幕市で行方不明になった人が意識朦朧で発見されるという事件が起きたんだが」
 シャノンはどこからか手帳を出し、地道に調べた事件や現象の事をかいつまんで話した。ミズホは何かを考え込むような表情で聞いていたが、やがて、なるほど、とひとつ頷く。
「このセカイは電脳空間のような次元に確立しているらしい。それがその銀幕市と重なって、そのような現象が起こっているのだろう」
「次元……」
 ルウはシャノンの隣にちょこんと座り、ぼうやりとしながら二人を見ていた。
「このセカイがどうやってあるのか、どこにあるのか、詳しい事は俺も分からない。だがおそらく、このセカイを整えているシステムを誰かがいじったのだろうな……まあ、大方予想はつくがな」
「システム?」
「ああ。このセカイを次元の上に確立させ、存続させる為の演算が常に行われているコンピューターがあるんだ」
 どちらにせよ、そこに行かないとあんたらも帰せないからな。ミズホはそう言うと、再び歩き出した。
「俺は一応そのシステムの管理を担当しているひとりだ。何とかしてみよう」
「ああ」
 シャノンは頷き、ルウの手を軽く引きながらミズホの後を追って歩き出した。
 淀んだ空気が三人をくるむ。誰もがミズホの姿を目にしては、彼を避けるようにこそこそと路地の奥へ向かっていた。或いは、身体の線をやたら強調するような服を着た女性が、これ見よがしな視線を彼等に送ってきていた。そしてところどころに、ちらちらとこちらを目にする男達がいた。
「気をつけろよ。あいつらはドラッグの売人だからな」
 ミズホが視線を受けて、二人に忠告する。
「本当に何でもありなんだな。取り締まったりはしないのか?」
「俺達にはその権限は無いし、そもそもこのセカイでは禁止する事のできる法律は無い」 
 それに、と彼は続けた。
「俺もかつてはああだったからな。この容貌だろ」
「……」
 ざあっと生温い風が彼等の髪をさらっていった。


 * * *


 じゃあ、ひとまずついてきて。そう言いながら再び歩き始めたムラクをスルトと追いながら、柘榴は複雑な心境を抱いていた。
 改めて彼等の世界に足を踏み入れて、クレナイと言う人が彼女の思っていた人とは別の人格を成している事を知ったから。
 紅を目にすることが適わない事は残念な事ではあったが、目にすることが適わなく、安堵の気持ちも多分にあったから。
「……鬼灯?」
 ぼうやりと考え込みながら歩いていたのが表情に出たのか、スルトが首を傾げてこちらを見ていた。
「いえ……。随分不思議な世界に迷い込んでしまったと思いまして」
「そうだな。何か俺のもといた砂漠に似た感じがするな、ここは」
「そうなんですか」
「ああ。どこを見てもここには草の一本も生えていないしな。空気は乾燥しているし」
「確かに、そう言われればそうですね」
 スルトの言葉に柘榴は、周囲の地面を見回した。確かにそこには、ただひび割れた茶色の大地が広がるのみで、緑はかけらも見当たらなかった。
「確かにこんな場所では、強く在らないと生きてはいけないだろう」
「ええ……」
 スルトの言葉に頷きながら、柘榴は自らの強さの根源について。
 前ではムラクが纏いつく人々を地に沈めながら進んでいた。スルトと柘榴にも、幾人かの目はいくものの、襲おうとする輩はいない。という事はおそらく自分にも強さがあるのだろう。
 だとしたらそれはきっと、この奥底にあるかつての自分への憎しみであり、愛しさなのだろう。
「私の強さは……」
 鬼灯である事なのだ。
 前を行く少年が、負ける事無く進んでいくように。


 * * *


「それにしても……。初めは随分とんでもない世界に来たものだと思っていたが、こうしてよくよく考えてみると身近な世界でもあるのかもな」
「?」
 隣で首を傾げるルウに微かに微笑んだ。
「ルウにもあるだろう? 誰よりも負けたくないと言うものが」
「……うん」
 ルウは少し考えて、そして頷いた。
「まけないこと。しなないで、いきること」
 それはルウの大切な人との約束であり、何よりも大事な、負けたくないと言う想いであった。
「それが、この世界では強さになるんだな」
 シャノンはそう言いながら、大気に時折雷のように奔る殺気を半ば懐かしんでいた。
 かつて、全てを失った自分が常に持っていた感情。居場所。そんな感情がここには流れていた。
 そう思えるのも、やはり自分が変わった証拠か。そう考えて彼は僅かに苦笑した。
「俺も、もっと強くなければ、な」
 そう呟いた時、前を歩いていたミズホの足が止まった。
「ここから降りたところに……」
 そう言いながら彼がその先を指差そうとして、そのままその動きを止めていた。
「あ、ミズホの兄ちゃん!」
 丁度彼等の右手から、ひとりの少年と、見知った顔が現れた。
「ムラク」
 ミズホはつかつかと少年の前まで歩いていくと、拳骨をひとつ、お見舞いしていた。ごつんと鈍い音がひとつ鳴る。
「い、いて!」
「お前だろ、システムをいじったのは」
「だってー、いてっ!」
 再びミズホに拳骨をお見舞いされているムラク。頭を抱えながらもへらへらと笑っているようである。
「シャノンにルウじゃないか。あんた達もここにいたのか」
「ああ。色々調べていたら、ここにな」
「そうなのか。もしかして、あの対策課の依頼か?」
「ああ、そうだ」
 ルウはそっとシャノンの足を壁代わりにして、その隙間からそっと二人を垣間見ていたが、柘榴の笑みを目が合って、あわてて顔をひっこめた。
「さて、この阿呆のせいで皆にはすまないことをしたな。こいつにはしっかり責任を取らせるから」
 ミズホがムラクの背中辺りを掴んで引っ張り上げながら言う。
 何故かスルトはミズホの顔を見た途端、ずりずりと下がりながら頷いていたが。
「……どうしたんですか、スルトさん?」
「いや、な、なんでもないっ! ははっ!」
「……もしかして」
「いやいやそんな事はないよっ! あはははっ!」
 柘榴の言葉に、彼はひたすら空笑いを繰り返す。
「……」
「さ、ともかく下に行こうよ」
 そうムラクが言って降りていく。その場所は、どこからどう見ても地下鉄に使われていた入り口のようであった。
 四人も首を傾げたりしながら彼らについて降りていくと、階段の先には鋼鉄の巨大な両扉があった。
 ミズホはつかつかとその扉の近くにあるモニターに近づき、カードキーのようなものを通す。
 小さな電子音とが鳴り響き、鋼鉄の扉がスライドして開いていった。扉が動く轟音が鳴り響く。
 その先の部屋には、かつての地下鉄の駅として使われていた名残の床に、幾重ものパソコンのハードディスクが手当たりしだい積み上げられている光景が広がっていた。一番上は天井に届きそうなくらいの高さだ。
「すごいな、これは」
 その異様な光景を見上げる四人。そのハードディスクの横には、デスクトップとキーボードが小さな机の上にいくつか並んでいた。
「このハードディスクは主にこのセカイの異変などを収集する為に機能している。奥にあるスーパーコンピューター群がこのセカイを存続させる為に常に演算を繰り返している」 
 ミズホが簡潔に説明しながら、ひとつのデスクトップを起動させた。確かにハードディスクの奥に目をやると、そこには巨大な四角の機械が幾つも並んでいた。
「こうやって見ると、何だかこの世界は違う次元にあるみたいに見えるな」
 スルトはしみじみとそれを見上げていた。
「ミズホ兄ちゃん。またセカイの一部が崩れてきてるデータがある」
 四人がまた異様とも言える光景に圧倒されていると、ミズホとは違うデスクトップを起動していたムラクが、真剣味を帯びた声を出した。
「本当か。どうやらお前がシステムをいじったからだけじゃなさそうだな、セカイが重なっている原因は……やはり、クレナイじゃないと、駄目なのか……?」
「クレナイ?」
 シャノンは初めて聞いた名に、眉を顰めた。ルウもぽかんとした表情で、その話を聞いていた。
「かつて俺らの上にいた人だ。このシステムを完璧に理解していた。そしてセカイの全てを知っている風だった」
「皆、クレナイが現れてから、光が見えた、と言っていたよね」
「そうだな」
 ミズホが頷いたと同時に、ぴ、という電子音がそのデスクトップから鳴り響いていた。
「よし、ひとまずシステムを調整したから、おそらく銀幕市とやらのおかしな現象は直っているはずだ。あっちに帰ったら確かめてみてくれ」
「ああ。助かった」
 ミズホとシャノンが目を合わせて頷きあった。
「じゃあ、これから兄ちゃん達を銀幕市の次元に送るから」
「ムラク……」
 スルトが気遣うような表情を浮かべた。ムラクはただへへ、と笑うのみだった。
「諦めない事が、俺の強さだ」
「……そうか……」
 スルトはその言葉に、安堵の笑みを浮かべた。
 ピー、という合成音と共に、四人の周りに、銀幕市の住宅街が浮かび上がる。それは初めは幻影であったが、段々と質感が増して、実体と化していっていた。
 ミズホはそれを穏やかな表情で眺めながら、ぽつりと呟いていた。
「ある哲学者は、『存在されることは、知覚されること』という言葉を残したらしい。……そうなると俺達は、この世に存在している事になるんだろうか……」
 その言葉を最後に、ふつりと彼等のセカイが消えていた。


 * * *


 夕暮れの陽が静かに消え行く銀幕市の住宅街の中に、四人は立っていた。
「俺、結構向こうにいた気がするんだけど。時間、そんなに経ってないよな?」
「もしかしたら、こちらとあちらの世界では時間の流れ方も違うのではないのでしょうか」
 スルトの言葉に、柘榴が空を仰ぎながら答えた。スルトはなるほど、と頷く。
「さて、もう一度この辺を回って、対策課に向かうとするかな。ルウも来るか?」
「……うん」
「よし、じゃあ、またな」
「ええ」
「ああ、また」
 シャノンとルウがスルトと柘榴に背を向けて立ち去っていった。
 それを見届けた二人も、それぞれ帰路についていた。
 誰もいなくなった路地に、ふわりと赤い衣が舞っていた。
 それは一瞬のこと。
 

クリエイターコメント大変お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。
今回は不思議な世界への誘いのお話となりました。不思議な感じ(?)に捉えていただければ嬉しく思います。巻き込まれてしまった皆様、お疲れ様でした。
おそらくまた、この世界は何らかの形で姿を現すかと思います。よろしければどうぞ見守ってやって下さいませ。
 
それでは、ご参加ありがとうございました。またいつか、銀幕市のどこかでお会いできることを願って。
公開日時2008-03-08(土) 23:20
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