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<ノベル>
風が爽やかな初夏。
六月の上旬、今日は梅雨もおとなしい。
太陽は鮮やかな光を街中に降らせている。
街は今日も賑やかに……変わりなく、人々の営みを乗せて回り続ける。
そんな銀幕市の一角の、民家にて。
「……どうしよう、緊張してきた」
ネクタイを締め直しながら、そわそわと落ち着きなく周囲を見渡しているのは、真船恭一(まふね・きょういち)、この家の主だ。
「昨日まであんなにはしゃいでいた自分を小一時間ばかり説教したい気分だ……美春、大丈夫かな、おかしくないかい?」
彼は、浮き足立っている……というのが相応しい様子で、今回のために仕立ててもらった一番上等なスーツを見下ろしたり、上着の裾を意味もなく直してみたり、何故かその場でくるくると三回転したりしている。
絶妙のそわそわぶりに、
「大丈夫よ、毛穴という毛穴から鼻血が噴き出そうなくらい素敵だわ。……あなたのスーツや、借り物の衣装を汚すと大変だから、なるべく出さないように気をつけるけれど」
「想像するとものすごくスプラッタな光景だね、それは……」
恭一の背後で、上着の背についた小さな埃などを取り除きながら、うふふと笑いつつ若干アブノーマルな文言で盛大に夫萌えを表現するのは、著名な女優でもある妻の美春だ。
ちなみに彼女は、今日のために赤い袴の巫女姿をしている。
話を聞いて、協力を申し出てくれたのだが、年齢を重ねてもなお――否、年齢を重ねたからこそ、なのかもしれない――清らかで美しい美春に、その出で立ちはとても似合った。
「うん、でも、ありがとう。少し落ち着いたよ」
「そう、ならよかったわ。さあ……行きましょう、恭一さん。清左さんがお待ちだわ」
そもそも毛穴という毛穴から噴き出すものを鼻血と呼んでいいんだろうか、などと益体もないことを考えていたら、気持ちがすとんと落ち着いて、これも妻の手法なのかもしれない……と、恭一は思わず微苦笑する。
そんな恭一を見て微笑み、美春がバッキーのメンデレーエフを抱き上げた。
「私たちが見届けるわ。だから……心置きなく、ね?」
「ああ……ありがとう」
同居人である旋風の清左(つむじかぜのせいざ)からその申し出があったのは、女神となったリオネが、夢の魔法の終焉を告げた二日後だった。
魔法の日々、奇跡のような時間が終わるのだという事実に、言葉にならない哀しみと寂しさ、同時に自分たちはすべてを遣り遂げたのだという誇らしさを抱いていた恭一は、一も二もなくその申し出を受けた。
そこから、準備に五日。
恭一が懇意にしているムービースターにスーツを仕立ててもらい、清左は羽織袴をあつらえた。事情を聞いて張り切った彼が、わずか三日でスーツも羽織袴も仕上げてくれたときは、仰け反るほどに驚いた。
人海戦術を駆使して――というと聞こえはいいが、ようは、友人たちに土下座せんばかりの勢いで頼み込んだのだ――、銀幕市のみならず世界各地、ネット界の隅々まで探し回り、素晴らしく美しい青白磁の盃を手に入れた。世界に名だたる景徳鎮の、その中でも傑作と呼ぶに相応しい、満月のような真円を描く大きな盃だった。
本当は日取りなどもきちんと合わせたかったのだが、あまり悠長なことも言っていられないので、神棚のある部屋をきちんと掃除して、近所の神社からわざわざ神主に来てもらって部屋を清め、畳まで取り替えた。
――そうして、今日になった。
「お待たせ、清左君」
新しい畳の、あおあおとした匂いが鼻腔をくすぐる。
神棚の榊も、あおあおと瑞々しい。
「……いや」
真新しい羽織袴に身を包んだ清左は、神棚の下に敷かれた二枚のちりめん座布団、一見すると無地だが実はしなやかな渦巻きを有する江戸小紋のそれに正座して恭一を待っていた。
鋭さ、厳しさを持つ細面の侠客の、ピンと背筋の伸びた様子は、ひどく凛として静謐だった。
「じゃあ……始めようか」
言って、真船も座布団に正座し、背筋を伸ばした。
気持ちは、驚くほど静かに落ち着いている。
二枚のちりめん座布団の間には、檜の白木で造られた三方(さんぼう)があり、その上に景徳鎮の青白磁杯が置いてある。これは、本来なら朱塗りの盃にすべきなのだろうが、ふたりの好みを優先させたかたちだ。
「美春、頼む」
清左が頷くのを見て、恭一が美春に言うと、紅白紙と松葉、そして鶴を模した細工で飾られた白木の長柄銚子を手に、巫女姿の美春が微笑んだ。彼女の肩には、紅白の布をスカーフのように巻いたメンデレーエフがいて、清左と恭一を見つめている。
「……では」
しずしずと進んだ美春が、ふたりの間に置かれた盃に、長柄銚子から酒を注ぐ。
この酒も、懇意にしている人々が、ふたりのために、と手に入れて来てくれた、清らかな湧き水と最高品質の米、麹に酒母のみで造られた純粋にしてまじりっけのない代物だった。
自分たちは街と人々の善意に支えられている。
ゆったりと注がれていく酒を、そしてゆらりと揺らめく水面を見つめながら、恭一はそれを強く思った。
やがて盃が酒で満たされると、美春とふー坊が一歩下がる。
恭一は清左と顔を見合わせ、頷き合った。
清左の目が、恭一を促す。
「じゃあ……僕から」
居住まいを正し、恭一は盃を手に取った。
ゆらり、水面が揺らめくのを、こぼさないように注意しながらそっと唇に当てる。
――そして、きっかり半分。
馥郁と薫る酒を飲み、三方へと盃を戻す。
恭一が戻したそれを、清左が手に取った。
「……」
ほんの少し瞑目し、盃の中の酒を一息に飲み干す。
咽喉が上下したあと、ふう、と息が漏れた。
――真船恭一と旋風の清左、ふたりが兄弟になった瞬間だった。
かための盃事において、半分ずつ中身を飲むことは、ちぎりを交わすふたりが対等の関係であることを示している。
ふたりは、何の気兼ねも壁もない、絆でつながった兄弟になったのだ。
清左は、真新しいその盃を白い布にくるみ、大事そうに懐に入れると、恭一と美春、双方を見やって深く頭を下げた。
「……我儘言って、すまなかった」
恭一は唇を引き結び、それから笑顔になって、首を横に振った。
五分の兄弟盃を交わしたい、という清左の願いのために、今日のこの時間は設けられた。
確かに、色々と準備に奔走したが、そのすべてが心躍る喜びを含んでいた。
清左の気持ちが、恭一には判る。
もう、あと数日でここを去らねばならない清左が、ここに残る真船夫妻のために何かを残していきたいと思ったこと、そう思ってくれたことを、恭一がどれほど嬉しく……幸せに感じたか、清左にも伝わっていればいいと思う。
同時に、思うのだ。
別れに際して尚、彼らのことを気遣ってくれる、この心優しい同居人に。
――出会ってから、助けられてばかりいた。
ずっと、見守ってくれた。
『穴』探索の時も、そうだ。
彼は何も言わなかったが、清左が先に志願したのは恭一の身を案じてのことだった。恭一が無茶をすれば止めようという思いのゆえだった。
自分の方が年上なのに、助けられてばかりだった。
「僕は……君に何が出来たんだろう、清左君」
言うと、情けなさに視線が俯いた。
――優しく強い男だ。
年下だが、対等の親友だと思っていた。
ちぎりを交わしたあとだからこそ、尚更、別れを強く思う。
もうあと少しで彼はここから去ってしまうのだ、そう考えるだけで泣きそうになる。言葉が、巧くかたちにならない。
「兄弟だぜ。十分さ」
不意に清左が口を開き、恭一は弾かれたように顔を上げた。
「兄弟と出会わなきゃ、もっと捻くれてたか……『退治』されるような悪党になってたかも知れねぇ。――感謝してる」
清左は笑っていた。
穏やかに凪いだ瞳が、彼の充足を伝える。
恭一はまた泣きそうになって、ぐっと拳を握り締めた。
美春の肩から飛び降りたふー坊が、恭一の肩によじ登り、励ますように鼻面を寄せた。それに、ちょっとだけ笑う。
「ま、頼りになるとは言い難いが……」
「……そこは重々承知してるよ……」
「だが、いい奴だ、兄弟は」
「……」
「あっしに、故郷と同じ温かさをくれたのは、おめぇさんらだ。おめぇさんらのお陰で、あっしぁ救われたんだ」
実体化してすぐ、出会った直後の、途方に暮れた彼の顔を覚えている。
声をかけ、手を差し伸べ、家へと招いた、そのすべてを後悔していない。そのすべてを行った自分を誇りにも思う。
「暢気なおめぇさんらを、護ってやりてぇって思ってた。――だが、おんなじくらい、あっしは護られてたんだよ」
「清左君……」
万感の思いが恭一の胸を込み上げる。
熱いものが目の奥に満ちる。
「あっしぁもうじき帰るが……きっと、大丈夫だ」
「……そう、かな……」
「信じてるさ」
端的な言葉に、また恭一は詰まった。
清左を抱き締め、声を上げて泣き叫びたい衝動に駆られるが、ぐっと耐える。
優しく強いこの男の心に、せめて笑顔を残したいと思ったから、無理やり、自分を叱咤して、笑った。
「僕も、信じてるよ」
ようよう、それだけ言って、今度は本心から笑う。
決して長くはない付き合いだった。
けれどふたりは、その中で、互いの欠点も長所も見てきた。
家族で、親友で、兄弟だった。
「――いつでも、どこでも、絆を信じている。そうだろう、兄弟?」
「ああ……そうとも」
そしてそれは、清左が去っても、決して消えない事実だ。
長い時間をかけてこれからを生き、いずれ恭一がこの世を去ることになっても、この世界に残る確かな真実なのだ。
「……ありがとう、清左君。僕は、本当に幸せ者だ」
「そりゃあ、こっちの台詞さ」
肩を寄せ、肩を抱き合い、笑う。
それを、美春とふー坊が、見守ってくれている。
――これで一生分の幸運を使ったと言われても悔いはないくらい幸せだ、と、恭一は思った。
* * * * *
後日。
魔法が解けたあと、しばらく経って、恭一は兄弟のことを懐かしく思い出しながら彼の残した荷物を整理していたのだが、そこで、あの、契りを交わした盃がどこにも見当たらないことに気づき、不思議に思いつつも微笑んだ。
「もしかしたら……今頃、あの盃を眺めながら、君も懐かしく思い出してくれているのかな」
本当のところがどうなのかは判らない。
魔法が消えた先の、彼らの行き先がどこなのかなど、神ならぬ恭一に計り知れるわけもない。
だが……どうか、願わくは、と思うのだ。
恭一の胸が未だに熱く誇らしい熱で満たされているのと同じく、懐かしく慕わしい兄弟の記憶にも、あの日のちぎり、あの日の幸いが刻まれているように、たとえ世界は離れても、この絆がずっと続くように、と。
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クリエイターコメント | オファー、どうもありがとうございました! 銀幕市での思い出を描くプラノベ群【Sol lucet omnibus】をお届けいたします。
夢が醒める少し前、別れの前の、ムービーファンとムービースターという存在を軽々と超えた誓いの儀式、ということで、しんみりしたりほろりとしたりしながら書かせていただきましたが、いかがでしたでしょうか。
別れは悲痛で、寂しく、やるせないけれど、夢が醒めても続いていく絆、決して失われない思いというものを、おふたりのお心に添って描けていれば幸いです。
なお、おふたりがちぎりを交わされた件の盃の行方は、まさに神のみぞ知る、ということで。
それでは、オファー、どうもありがとうございました。 またいつか、きっと、どこかで。 |
公開日時 | 2009-07-23(木) 18:20 |
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